コンテンツにスキップ

Module 1-2 - Section 1: 神の存在をめぐる論証

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 1-2: 宗教哲学の基礎
前提セクション なし
想定学習時間 2.5時間

導入

神は存在するのか。この問いは宗教哲学の中心的な主題であり、古代から現代に至るまで多くの哲学者・神学者が論証を試みてきた。本セクションでは、神の存在を理性的に論証しようとする諸議論を体系的に検討する。

神の存在論証は宗教哲学の出発点に位置する。なぜなら、神が存在するか否かによって、悪の問題(→ Module 1-2, Section 2「神の存在に対する批判」参照)や宗教的言語の意味(→ Module 1-2, Section 3参照)といった後続の哲学的問題の位相が根本的に変わるからである。各論証の論理構造とその批判を正確に理解することが、宗教哲学全体を学ぶための基盤となる。


自然神学と啓示神学の区別

神について知る方法には、大きく分けて二つの道がある。一つは人間の理性のみによって神の存在や本性を探究する自然神学(natural theology)であり、もう一つは聖書や啓示といった超自然的源泉に基づく啓示神学(revealed theology)である。

Key Concept: 自然神学(natural theology) 啓示や信仰に依拠せず、自然的経験と人間理性のみによって神の存在や属性を探究する学問的営み。トマス・アクィナスの「五つの道」が代表例である。

自然神学の伝統は古代ギリシアに遡る。アリストテレス(Aristotle, 384-322 BC)は『形而上学』において不動の動者(unmoved mover)の存在を論じ、これが後のキリスト教神学における神の存在論証の基盤となった。中世においてトマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225-1274)は、信仰の光によって探究する神学(theologia)と、自然理性の光のみによって探究する自然神学(theologia naturalis)を明確に区別した。自然神学が探究するのは、神の啓示に頼ることなく人間の知性が神について解明しうる事柄であり、啓示神学が探究するのは、神が自らを啓示した内容である。

この区別は「二つの書物」という比喩で表現されてきた。すなわち「神の言葉の書」(聖書)と「神の業の書」(自然)である。本セクションで扱う諸論証は、いずれも自然神学に属する。つまり、信仰を前提とせず、理性的推論のみによって神の存在を示そうとする試みである。


存在論的論証

アンセルムスの議論

存在論的論証(ontological argument)は、神の概念そのものから神の存在を演繹しようとする議論であり、経験的事実を前提としない純粋にア・プリオリな論証である。この論証を最初に定式化したのはカンタベリーのアンセルムス(Anselm of Canterbury, 1033-1109)であり、その著作『プロスロギオン』(Proslogion, 1078年頃)第2章に示されている。

Key Concept: 存在論的論証(ontological argument) 神の概念の分析のみから、経験的前提に依拠せずに神の存在を演繹しようとするア・プリオリな論証。アンセルムスが最初に定式化し、デカルト、ライプニッツ、プランティンガらが各々の版を提示した。

アンセルムスの論証は以下のように構成される。

  1. 神は「それより偉大なものが考えられないもの」(id quo nihil maius cogitari possit)として定義される。
  2. 「それより偉大なものが考えられないもの」は、少なくとも知性のうちに(in intellectu)存在する。愚者でさえこの概念を理解できるからである。
  3. 知性のうちにのみ存在するよりも、知性のうちにも現実にも(in re)存在する方が偉大である。
  4. もし「それより偉大なものが考えられないもの」が知性のうちにのみ存在するならば、それより偉大なもの(すなわち現実にも存在するもの)が考えられることになる。
  5. しかしそれは「それより偉大なものが考えられないもの」という定義に矛盾する。
  6. したがって、「それより偉大なものが考えられないもの」は現実にも存在する。

さらに『プロスロギオン』第3章でアンセルムスは、「それより偉大なものが考えられないもの」は存在しないとさえ考えることができない(必然的に存在する)と論じた。存在しないと考えうるものよりも、存在しないと考えることすらできないものの方が偉大だからである。

ガウニロの批判

アンセルムスの同時代人であるマルムティエのガウニロ(Gaunilo of Marmoutiers, 11世紀)は、『愚者に代わりて』(Pro Insipiente)において有名な反論を提示した。ガウニロはアンセルムスの推論形式をそのまま用いて、「それより素晴らしい島が考えられない島」(失われた島)の存在を演繹できることを示した。もしアンセルムスの論証が妥当であるならば、同じ論理で完全な島の存在も証明できてしまうが、これは明らかに不合理である。したがって、アンセルムスの論証には何らかの欠陥があるはずだとガウニロは主張した。

アンセルムスはこれに対し、自らの論証は「それより偉大なものが考えられないもの」という唯一の存在にのみ適用可能であり、島のような有限な事物には適用できないと反論した。島はどこまでも改善の余地があるのに対し、神の概念には最大限の偉大さが含まれているという点が決定的に異なるとされる。

デカルトの版

ルネ・デカルト(Rene Descartes, 1596-1650)は『省察』(Meditationes de Prima Philosophia, 1641)第五省察において、独自の存在論的論証を展開した。デカルトの議論の核心は、存在が神の本質に属するという主張にある。三角形の本質に内角の和が二直角であることが含まれるのと同様に、最も完全な存在者(ens perfectissimum)の本質には存在そのものが含まれる。したがって、神は必然的に存在する。

この議論に対しては、イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724-1804)が「存在は述語ではない」(Sein ist kein reales Pradikat)という批判を提起した。カントによれば、「存在する」ということは対象に何らかの性質を付加するものではなく、したがって存在を完全性の一つとして扱うことはできない。100枚の現実のターラー銀貨は100枚の可能的なターラー銀貨より多くの内容を含んでいるわけではない、というのがカントの比喩である。

プランティンガの様相論理による再定式化

アルヴィン・プランティンガ(Alvin Plantinga, 1932-)は可能世界意味論(possible worlds semantics)と様相論理体系S5を用いて、存在論的論証を現代的に再定式化した。プランティンガは「偉大さ」(greatness)と「卓越性」(excellence)を区別する。ある存在者の卓越性はその世界における性質にのみ依存するが、偉大さはすべての可能世界における性質に依存する。したがって最大限に偉大な存在者(maximally great being)は、すべての可能世界において最大限に卓越していなければならない。

プランティンガの論証は以下のように定式化される。

  1. 最大限に偉大な存在者が存在することは可能である(可能性前提)。
  2. もし最大限に偉大な存在者が存在することが可能であるならば、ある可能世界において最大限に偉大な存在者が存在する。
  3. 最大限に偉大な存在者はすべての可能世界において最大限に卓越している(定義上)。
  4. 様相論理S5において、ある可能世界で必然的に真であることは、すべての可能世界で真である。
  5. したがって、最大限に偉大な存在者は現実世界にも存在する。

この論証の論理的妥当性自体は広く認められているが、問題は前提1(可能性前提)の正当化にある。リチャード・ゲイル(Richard M. Gale)は、S5の枠組みにおいて「可能的に必然的」は実質的に「必然的」と同値であるため、可能性前提はすでに結論を含んでおり論点先取であると批判した。


宇宙論的論証

宇宙論的論証(cosmological argument)は、世界の経験的事実(運動、因果、偶然性など)を出発点として、その究極的原因・根拠としての神の存在を推論するア・ポステリオリな論証である。存在論的論証が概念分析のみに依拠するのとは対照的に、宇宙論的論証は経験的前提を含む。

Key Concept: 宇宙論的論証(cosmological argument) 世界に存在する経験的事実(運動、因果連鎖、偶然的存在など)を出発点として、その究極的原因や十分な理由としての神の存在を推論する論証の総称。

トマス・アクィナスの「五つの道」

トマス・アクィナスは『神学大全』(Summa Theologica, 1265-1274)第1部第2問第3項において、神の存在を示す五つの道(Quinque Viae)を提示した。このうち特に第一の道から第三の道が宇宙論的論証に分類される。

Key Concept: 五つの道(Quinque Viae) トマス・アクィナスが『神学大全』で示した神の存在を論証する五つの議論。第一の道(運動)、第二の道(作用因)、第三の道(偶然性と必然性)、第四の道(存在の段階)、第五の道(目的性)から構成される。

第一の道(運動からの論証): 世界には運動(変化)が存在する。すべて運動するものは他のものによって運動させられる。しかし運動の系列を無限に遡ることはできない。したがって、自らは動かされることなく他のすべてを動かす「不動の動者」(primum movens immobile)が存在しなければならない。これがすなわち神である。ここで「運動」とはアリストテレス的な意味での可能態(potentia)から現実態(actus)への移行を指す。因果の連鎖は時間的な前後関係ではなく、存在論的な優先性の連鎖である点に注意が必要である。

第二の道(作用因からの論証): 世界には作用因(causa efficiens)の秩序が存在する。いかなるものも自己の作用因たりえない。作用因の系列を無限に遡ることはできない。したがって、第一の作用因が存在しなければならない。

第三の道(偶然性と必然性からの論証): 世界には存在することも存在しないことも可能な偶然的存在者(ens contingens)がある。もしすべての存在者が偶然的であるならば、あるとき何も存在しなかった時があったはずであり、そうであれば今も何も存在しないはずである。しかし現に存在者がある。したがって、その存在が必然的であるような存在者(ens necessarium)が存在しなければならない。

五つの道に共通する論理構造は、(a) ある経験的事実を指摘し、(b) その事実の系列における無限遡行を否定し、(c) したがって系列の第一項(=神)が存在すると結論するものである。

ライプニッツの充足理由律に基づく論証

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)は充足理由律(principle of sufficient reason)に基づく宇宙論的論証を展開した。充足理由律とは「いかなる事実も、それがそうであって他のようではない十分な理由なしには、実在しえず真でもありえない」という原理である。

ライプニッツの論証は以下のように展開される。

  1. 偶然的事物の存在には十分な理由(根拠)がなければならない(充足理由律)。
  2. 個々の偶然的事物の十分な理由は、他の偶然的事物に求められるが、その連鎖をどこまで遡っても偶然的事物の全体の十分な理由は得られない。
  3. すべての偶然的事実の論理的総体(後の文献で「大偶然的事実の連言」(Big Conjunctive Contingent Fact, BCCF)と呼ばれる)もまた偶然的であり、その十分な理由が必要である。
  4. この十分な理由は偶然的事物の系列の外部に、すなわち必然的存在者に求められなければならない。
  5. この必然的存在者が神である。

トマスの議論が因果連鎖の無限遡行を否定するのに対し、ライプニッツの議論は仮に因果連鎖が無限であっても、その連鎖全体の十分な理由が必要であると主張する点で構造が異なる。

カラーム宇宙論的論証

カラーム宇宙論的論証は、中世イスラーム神学(カラーム)に由来し、ウィリアム・レーン・クレイグ(William Lane Craig, 1949-)によって現代的に再定式化された。その基本的な三段論法は以下の通りである。

  1. 存在し始めたものにはすべて原因がある。
  2. 宇宙は存在し始めた。
  3. したがって、宇宙には原因がある。

前提1は形而上学的直観「無からは何も生じない」(ex nihilo nihil fit)に基づく。前提2の支持として、クレイグは二つの系統の議論を展開する。第一に、実無限(actual infinity)が現実世界に存在することの不可能性に基づく哲学的論証であり、過去の出来事の系列が実無限であることを否定する。第二に、ビッグバン宇宙論やボルド=グース=ヴィレンキン定理といった現代宇宙論の知見に基づく経験科学的論証である。

クレイグはさらに、宇宙の原因は非因果的(それ自体は原因を持たない)、時間を超越し、空間を超越し、非物質的であり、途方もない力を有し、人格的であると論じる。人格的であるとする理由は、時間を超越した原因から時間的な結果(宇宙の始まり)が生じるためには、自由意志を持つ行為者による決断が必要であるという点にある。


目的論的論証

目的論的論証(teleological argument)は、自然界に観察される秩序・目的性・複雑さから知的な設計者の存在を推論する論証であり、設計論証(design argument)とも呼ばれる。

Key Concept: 目的論的論証(teleological argument) 自然界に観察される秩序、目的適合性、複雑な構造から、知的設計者としての神の存在を推論する論証。古代から近代まで多様な形態が提示されてきた。

ペイリーの時計師の類比

ウィリアム・ペイリー(William Paley, 1743-1805)は『自然神学』(Natural Theology, 1802)において、目的論的論証の古典的定式化を行った。ペイリーは以下の類比的推論を展開する。

荒野を歩いていて石につまずいた場合、その石がずっとそこにあったと考えても不自然ではない。しかし時計を見つけた場合、その精巧な部品の配置と機能的な組み合わせから、それが知的な製作者によって作られたと推論せざるをえない。同様に、自然界の有機体(例えば眼の構造)は時計よりもはるかに精巧で目的に適合しており、知的な設計者の存在を指し示している。

ペイリーの議論の核心は、時計と自然物に共通する性質――部品の機能的複雑さ(functional complexity)――が、設計の推論を正当化するという点にある。

ダーウィンの自然選択による批判

チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin, 1809-1882)の自然選択説(natural selection)は、ペイリーの議論に対する最も根本的な批判となった。自然選択は、知的な設計者を想定することなく、生物の複雑な適応を説明する自然主義的メカニズムを提供する。変異・遺伝・選択の累積的プロセスによって、あたかも設計されたかのような精巧な構造が生じうることが示された。

リチャード・ドーキンス(Richard Dawkins, 1941-)は『盲目の時計職人』(The Blind Watchmaker, 1986)において、自然選択こそが「盲目の時計職人」であり、目的も先見もなく複雑な適応を生み出すプロセスであると論じた。この批判は生物学的設計論証に対しては有効であるが、宇宙論的レベルの設計論証(微調整論証)には直接適用されない。

微調整論証

微調整論証(fine-tuning argument)は、目的論的論証の現代的形態であり、宇宙の基本的な物理定数や初期条件が生命の存在に極めて狭い範囲で適合していることを根拠とする。

例えば、宇宙定数(cosmological constant)はゼロに極めて近い値を持ち、素粒子物理学の予測値から約120桁小さい。もしこの値が数桁大きければ、宇宙は急激に膨張し、星や銀河が形成されなかった。同様に、強い核力の結合定数、重力定数と電磁気力の比率、陽子と中性子の質量差など、多くの物理定数がわずかに異なるだけで、知的生命が存在しうる宇宙は成立しなかったとされる。

この微調整に対する説明としては、(a) 設計(知的な微調整者の存在)、(b) 多宇宙仮説(膨大な数の宇宙が存在し、そのうちの一つがたまたま生命に適した定数を持つ)、(c) 物理的必然性(定数は実は必然的にその値しか取りえない)、という三つの主要な選択肢が提示されている。リチャード・スウィンバーン(Richard Swinburne, 1934-)やロビン・コリンズ(Robin Collins)は設計仮説を支持し、微調整は知的な設計者の介入を示していると主張する。これに対して、人間原理(anthropic principle)の立場からは、生命に適さない宇宙では生命が存在しないため微調整を観察する者もいないとする選択効果(selection effect)による説明がなされる。


道徳論証

道徳論証(moral argument)は、客観的道徳の存在やその拘束力から神の存在を推論する論証である。

Key Concept: 道徳論証(moral argument) 客観的道徳法則の存在やその拘束力を前提として、その根拠・源泉としての神の存在を推論する論証。カントとC・S・ルイスが代表的な提唱者である。

カントの実践理性からの論証

イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724-1804)は理論理性による神の存在証明を批判し、存在論的論証・宇宙論的論証・目的論的論証のいずれも理論的には成功しないと結論した。しかしカントは『実践理性批判』(Kritik der praktischen Vernunft, 1788)において、実践理性の要請(Postulat)として神の存在を論じた。

カントの論証は以下のように構成される。

  1. 理性的・道徳的存在者は最高善(summum bonum)を意志しなければならない。最高善とは、道徳的徳(virtue)と幸福(happiness)が一致した状態である。
  2. しかし道徳的行為が必ず幸福をもたらすという保証は自然界にはない。道徳と幸福の間には自然的な必然的連関がない。
  3. 最高善が達成可能であるためには、道徳と幸福を調和させる力を持つ存在者、すなわち神が存在しなければならない。
  4. また、完全な徳の達成には無限の進歩が必要であり、これは魂の不死を要請する。

カントはこれを理論的証明ではなく「実践理性の要請」(Postulat der praktischen Vernunft)と位置づけた。すなわち、道徳的生は神の存在の仮定を合理的に要求するという主張であり、神の存在の理論的知識ではなく、道徳的信仰(moralischer Glaube)の根拠である。知識は悟性と知覚の結合を要するが、形而上学的存在者は定義上知覚されえないため、これは統整的原理(regulatives Prinzip)であって構成的原理ではないとカントは強調する。

C・S・ルイスの議論

クライブ・ステイプルズ・ルイス(Clive Staples Lewis, 1898-1963)は『キリスト教の精髄』(Mere Christianity, 1952)第1巻において、道徳論証の平易な版を展開した。ルイスの議論の核心は以下の通りである。

  1. 人間は普遍的な道徳法則(moral law)の存在を感知している。この法則は文化や時代を超えて共通の核を持つ。
  2. この道徳法則は自然法則(物理法則)とは異なる。自然法則は「何が起こるか」を記述するが、道徳法則は「何がなされるべきか」を指示する。道徳法則は破ることが可能であるという点で自然法則と根本的に異なる。
  3. 道徳法則は単なる社会的慣習ではない。慣習は文化間で大きく異なりうるが、道徳法則の基本的内容には顕著な一致がある。
  4. 私たちの内部には二つの衝動の間を裁く第三のもの(道徳法則)がある。それはどちらの衝動でもなく、それらを超越した基準である。
  5. このような超越的で拘束力を持つ道徳法則の最良の説明は、道徳的立法者(神)の存在である。

宗教的経験からの論証

宗教的経験からの論証は、人々が報告する神との直接的な出会いや超越的体験を根拠として、神の存在を推論する論証である。

スウィンバーンの信憑性原理

リチャード・スウィンバーン(Richard Swinburne, 1934-)は『神の存在』(The Existence of God, 1979; 第2版 2004)において、宗教的経験からの論証を体系的に展開した。その中核にあるのが信憑性原理(principle of credulity)と証言原理(principle of testimony)である。

Key Concept: 信憑性原理(principle of credulity) リチャード・スウィンバーンが提唱した認識論的原理。主体にとってxが現前しているように見える場合、特別な反対事情がない限り、おそらくxは実際に現前していると信じることが正当化されるとする原理。

信憑性原理は次のように定式化される。「主体にとってxが現前しているように(認識的に)見えるならば、特別な反対事情がない限り、おそらくxは実際に現前している」。これは現象的保守主義(phenomenal conservatism)と呼ばれる認識論的立場の一形態であり、物事がそう見えるということは、通常それがそうであると信じる十分な根拠になるとする見解である。

スウィンバーンによれば、この原理を否定し、すべての経験に独立した確証を要求するならば、外部世界についての知識のほとんどが失われてしまう。日常的な知覚経験をその見かけ通りに信頼するのであれば、宗教的経験もまた同様に扱われるべきである。

スウィンバーンは信憑性原理が覆される「特別な反対事情」として、(a) 主体が信頼できない状態にあること(薬物の影響下など)、(b) 経験の内容を説明するより良い自然主義的説明があること、(c) 経験の対象が存在しないことを信じる独立した強い理由があること、(d) 経験の対象が実在するならば知覚されるはずのない条件下で経験が生じたこと、を挙げる。

証言原理は、ある種の経験を自ら持たない者も、他者の証言を一般に信頼すべきであるとする原理である。欺瞞や錯覚の証拠がない限り、宗教的経験の報告は額面通りに受け取られるべきである。

重要な反論として、神を経験しない無神論者の存在が挙げられる。スウィンバーンはこれに対し、信憑性原理は肯定的経験にのみ適用されると応答する。何かを経験したことはその存在の証拠となるが、経験しなかったことはその非存在の証拠とはならない。

スウィンバーンの哲学的神学において、宗教的経験からの論証は他の論証と組み合わされた累積的論証(cumulative argument)の中で決定的な役割を果たす。スウィンバーン自身の評価によれば、宗教的経験からの論証なしには、他の論証を総合しても有神論の蓋然性は十分に高くならないが、宗教的経験の論証を加えることで有神論は競合する仮説よりも蓋然的になるとされる。


神の存在論証の分類体系

graph TD
    A["神の存在論証"] --> B["ア・プリオリな論証"]
    A --> C["ア・ポステリオリな論証"]

    B --> D["存在論的論証"]
    D --> D1["アンセルムス"]
    D --> D2["デカルト"]
    D --> D3["プランティンガ"]

    C --> E["宇宙論的論証"]
    C --> F["目的論的論証"]
    C --> G["道徳論証"]
    C --> H["宗教的経験からの論証"]

    E --> E1["五つの道"]
    E --> E2["充足理由律"]
    E --> E3["カラーム論証"]

    F --> F1["時計師の類比"]
    F --> F2["微調整論証"]

    G --> G1["カントの要請"]
    G --> G2["ルイスの道徳法則"]

    H --> H1["信憑性原理"]

まとめ

  • 神の存在論証は大きく、概念分析のみに基づくア・プリオリな論証(存在論的論証)と、経験的事実を出発点とするア・ポステリオリな論証(宇宙論的論証、目的論的論証、道徳論証、宗教的経験からの論証)に分類される。
  • 存在論的論証は神の概念から存在を演繹しようとするが、「存在は述語ではない」(カント)という批判や論点先取の問題に直面する。
  • 宇宙論的論証は世界の因果構造や偶然性から必然的存在者を推論するが、無限遡行の禁止や充足理由律の妥当性が論点となる。
  • 目的論的論証はペイリーの古典的形態がダーウィンの自然選択によって弱体化した一方、微調整論証という現代的形態が新たな議論を喚起している。
  • 道徳論証は客観的道徳の存在から神を推論するが、道徳の根拠が神に依存するか否か自体が論争的である。
  • 宗教的経験からの論証は経験の信頼性を基盤とし、累積的論証の中で重要な役割を果たす。
  • 次セクション(Section 2: 神の存在に対する批判)では、これらの論証に対する体系的批判、特に悪の問題を中心に検討する。

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
自然神学 natural theology 啓示に依拠せず人間の理性のみで神の存在や属性を探究する学問
啓示神学 revealed theology 聖書や啓示などの超自然的源泉に基づいて神について探究する学問
存在論的論証 ontological argument 神の概念分析のみからア・プリオリに神の存在を演繹しようとする論証
宇宙論的論証 cosmological argument 世界の経験的事実を出発点として神の存在を推論するア・ポステリオリな論証
目的論的論証 teleological argument 自然界の秩序や目的適合性から知的設計者の存在を推論する論証
道徳論証 moral argument 客観的道徳法則の存在から神の存在を推論する論証
五つの道 Quinque Viae トマス・アクィナスが提示した神の存在を論証する五つの議論
充足理由律 principle of sufficient reason いかなる事実もそうであることの十分な理由なしには存在しえないとする原理
カラーム宇宙論的論証 Kalam cosmological argument 宇宙の時間的始まりから宇宙の原因としての神を推論する論証
微調整論証 fine-tuning argument 宇宙の物理定数の精密な適合性から設計者の存在を推論する目的論的論証の現代的形態
信憑性原理 principle of credulity 見かけ通りに物事を信じることが反対事情がない限り正当化されるとする認識論的原理
最高善 summum bonum カント哲学において道徳的徳と幸福が完全に一致した状態

確認問題

Q1: アンセルムスの存在論的論証の論理構造を、前提から結論に至る推論の流れとして説明せよ。また、ガウニロの「失われた島」による批判の要点と、それに対するアンセルムスの応答を述べよ。

A1: アンセルムスはまず神を「それより偉大なものが考えられないもの」と定義する。この概念は少なくとも知性のうちに存在する。次に、知性のうちにのみ存在するよりも現実にも存在する方が偉大であるという前提を導入する。もし「それより偉大なものが考えられないもの」が知性のうちにのみ存在するならば、現実にも存在するものがそれより偉大となり矛盾が生じる。したがって神は現実にも存在する。ガウニロは同じ推論形式を「それより素晴らしい島が考えられない島」に適用すれば、完全な島の存在も証明できてしまうと批判した。これは論証形式そのものの欠陥を示すパロディ論証である。アンセルムスはこれに対し、島は有限な事物であり改善の余地が常にあるため「それより偉大なものが考えられないもの」という概念が適用されるのは神のみであると応答した。

Q2: トマス・アクィナスの「五つの道」のうち第一の道と第三の道の論理構造を、それぞれの前提・推論・結論を明示しながら比較せよ。

A2: 第一の道(運動からの論証)の前提は、(a) 世界に運動(可能態から現実態への変化)が存在すること、(b) 運動するものは他のものによって運動させられること、(c) 運動の因果系列を無限に遡ることはできないこと、である。結論として、自らは運動しない第一の動者(不動の動者)が存在する。第三の道(偶然性と必然性からの論証)の前提は、(a) 偶然的存在者(存在しうるし存在しないこともありうるもの)が世界にあること、(b) すべてが偶然的であればかつて何も存在しない時があったはずであること、(c) 無からは何も生じないこと、である。結論として、存在が必然的な存在者が存在しなければならない。両者に共通するのは無限遡行の否定と第一原因への到達であるが、第一の道は変化の系列に着目し、第三の道は存在の偶然性と必然性の区別に着目する点が異なる。

Q3: 目的論的論証に対するダーウィン的批判の論点を説明した上で、この批判が微調整論証にはそのまま適用できない理由を述べよ。

A3: ダーウィン的批判の核心は、自然選択が変異・遺伝・選択の累積的プロセスによって、知的な設計者なしに生物の複雑な適応を生み出しうるという点にある。これにより、ペイリーの時計師の類比が依拠する「機能的複雑さには知的設計者が必要」という前提が崩される。しかし微調整論証は生物の適応ではなく、宇宙の基本的な物理定数(重力定数、宇宙定数、核力の結合定数など)が生命の存在に極めて狭い範囲で適合しているという事実を問題にする。自然選択は既存の物理法則と定数の枠組みの中で作用するメカニズムであり、物理定数そのものの値がなぜ生命を許容する範囲にあるのかという問いに対しては説明を提供しない。このため、生物学的設計論証を論駁するダーウィン的批判は、微調整論証には直接適用されない。

Q4: カントが理論的な神の存在証明を退けたにもかかわらず、実践理性の要請として神の存在を論じたのはなぜか。その論理構造を説明せよ。

A4: カントは純粋理性の限界を示し、経験の対象でないもの(神)については理論的知識が成立しないとした。存在論的論証は「存在は述語ではない」として退けられ、宇宙論的・目的論的論証も最終的に存在論的論証に依存するとされた。しかし実践理性の領域において、理性は最高善(道徳的徳と幸福の一致)の実現を命じる。自然界には道徳と幸福を結びつける必然的連関がないため、最高善の実現可能性を保証する存在者として神が「要請」される。また完全な徳への無限の接近のために魂の不死も要請される。これは理論的証明ではなく、道徳的実践の合理性を支える前提(統整的原理)であり、道徳的信仰の根拠である。カントはこれによって知識と信仰の領域を明確に区分しつつ、神の観念に実践的な正当性を付与した。

Q5: スウィンバーンの信憑性原理の内容を説明し、これが宗教的経験からの論証においてどのような役割を果たすかを述べよ。また、この原理に対する主要な反論を一つ挙げ、スウィンバーンの応答を説明せよ。

A5: 信憑性原理とは、主体にとってxが現前しているように見える場合、特別な反対事情がない限り、おそらくxは実際に現前していると信じることが正当化されるという認識論的原理である。この原理は日常的知覚に適用されるのと同様に宗教的経験にも適用される。すなわち、神を経験したと報告する人がいるならば、特別な反対事情(薬物の影響、より良い自然主義的説明の存在など)がない限り、その経験は額面通りに受け取られるべきであり、神の存在の証拠となる。主要な反論の一つは、多くの人が神を経験しないことをもって神の非存在の証拠とするものである。スウィンバーンはこれに対し、信憑性原理は肯定的経験にのみ適用されると応答する。何かを経験したことはその存在の証拠となるが、何かを経験しなかったことはその非存在の証拠とはならない。不在の経験と経験の不在は異なるのである。