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Module 1-2 - Section 2: 神の存在に対する批判

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 1-2: 宗教哲学の基礎
前提セクション Section 1
想定学習時間 2.5時間

導入

前セクション(→ Module 1-2, Section 1「神の存在をめぐる論証」参照)では、存在論的論証・宇宙論的論証・目的論的論証・道徳論証・宗教的経験からの論証という、神の存在を理性的に論証しようとする諸議論を検討した。本セクションでは、これらの論証に対して提起されてきた体系的な批判を扱う。

神の存在論証への批判は、大きく二つの方向性を持つ。第一は、個々の論証の論理的欠陥を内在的に指摘する哲学的批判であり、デイヴィッド・ヒュームとイマヌエル・カントがその代表である。第二は、宗教そのものの起源を心理学的・文化的メカニズムによって説明し、神の存在を不要とする還元的批判であり、フリードリヒ・ニーチェとジークムント・フロイトがこの方向性を代表する。これらの批判を踏まえた上で、無神論・不可知論・理神論という立場の分類、そして21世紀の新無神論運動までを概観する。


ヒュームの宗教批判

デイヴィッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)は近代哲学における宗教批判の先駆者であり、その議論は主に『自然宗教に関する対話』(Dialogues Concerning Natural Religion, 1779年、死後出版)と『人間知性研究』(An Enquiry Concerning Human Understanding, 1748年)第10章「奇跡について」に展開されている。

目的論的論証への批判

ヒュームの目的論的論証批判は『自然宗教に関する対話』において、懐疑論者フィロ(Philo)の口を通じて展開される。ヒュームの批判は以下の複数の論点から構成される。

(1)類比の限界: 目的論的論証は、人工物(時計)と自然界の類比に基づく。しかしヒュームは、二つの事物の類似性が不十分である場合、一方から他方への推論は信頼できないと指摘する。我々は宇宙全体のごく一部しか観察しておらず、しかも宇宙という事例はただ一つしかない。一つの事例から宇宙一般の特性を帰納することは方法論的に無理がある。

(2)設計の不完全性: 自然界には苦痛・疾病・捕食といった不完全さや残酷さが広く見られる。もし自然界が設計されたものであるとしても、それは全能で善なる神の設計を示すものとはいえない。完全な設計者の仮定を正当化するには、世界は完全でなければならないが、現実の世界はそうではない。

(3)代替説明の可能性: ヒュームは、秩序の原因として知性以外の可能性を提示する。対話篇の中でフィロは、動物の生殖のような自然的プロセスが、知的設計なしに複雑な構造を生み出していると指摘する。また、物質の粒子が永遠にわたって無限の配列を試み、安定した秩序に到達した可能性(エピクロス的仮説)も提起される。

(4)無限後退: 仮に宇宙の秩序に知的設計者が必要であるとしても、その設計者自身の秩序と知性はどこから来たのか。設計者にも設計者が必要となり、説明の無限後退が生じる。設計論証は説明的利得をもたらさない。

(5)結論の限定性: ヒュームは、仮に設計論証が何らかの設計者の存在を示しうるとしても、その設計者が伝統的な一神教の神(無限・完全・善・唯一)であることは示されないと論じる。世界の不完全さからすれば、設計者は不完全かもしれず、複数かもしれず、もはや存在しないかもしれない。

奇跡に対する懐疑

『人間知性研究』第10章において、ヒュームは奇跡の証言に基づく信仰を批判した。ヒュームの核心的主張は次の原則に要約される。「奇跡を立証するためには、その証言の虚偽であることの方が、立証しようとする事実よりもさらに奇跡的であるような証言でなければ、十分ではない」。

ヒュームの議論は以下の構造を持つ。

  1. 信念は証拠に比例して抱かれるべきである(比例原理)。
  2. 自然法則は「確固とした不変の経験」によって確立されている。奇跡は定義上、自然法則の違反である。
  3. したがって、奇跡に反対する証拠は最大限に強い。
  4. 一方、奇跡を支持する証拠は人間の証言にすぎず、人間の証言は誤りうる。
  5. 合理的な判断者は、より蓋然的な方を選ぶべきであり、自然法則の違反よりも証言の誤りの方が常により蓋然的である。

さらにヒュームは、奇跡の証言の信頼性を損なう四つの経験的理由を挙げる。第一に、十分な数の信頼しうる証人に支持された奇跡は歴史上一つもない。第二に、人間の驚きと感嘆への嗜好が不合理な信念を生む。第三に、奇跡の報告は「無知で野蛮な民族」に多い。第四に、各宗教がそれぞれ独自の奇跡を主張するため、互いに相殺し合う。


カントの批判

イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724-1804)は『純粋理性批判』(Kritik der reinen Vernunft, 1781年)の「超越論的弁証論」において、思弁的理性による神の存在証明を体系的に批判した。カントは神の存在の理論的証明が三種(存在論的・宇宙論的・自然神学的=目的論的)あることを認め、そのいずれもが失敗すると論じた。

存在論的論証批判:「存在は述語ではない」

カントの最も有名な批判は、存在論的論証に向けられたものである。デカルトは、最も完全な存在者(ens perfectissimum)の本質に存在が含まれると論じた。カントはこれに対し、「存在(Sein)は明らかに実在的述語(reales Pradikat)ではない」と反論する。

Key Concept: 「存在は述語ではない」(existence is not a predicate) カントが存在論的論証への批判として提示した命題。「存在する」ということは対象に新たな性質を付加するものではなく、主語の措定(Setzung)にすぎない。したがって存在を完全性の一つとして扱い、神の概念から存在を演繹することはできない。

カントの論点は以下の通りである。

  1. 存在は対象の概念に何も付加しない: 「存在する」ということは、対象にいかなる新しい性質も加えない。それは対象の措定(Setzung)、すなわち対象がそのすべての規定とともに実在することの主張にすぎない。論理的には、「存在する」は判断のコプラ(繋辞)として機能するものである。
  2. ターラー銀貨の比喩: 100枚の現実のターラー銀貨と100枚の可能的なターラー銀貨は、概念の内容において何ら異なるところがない。両者の違いは概念の内容にではなく、対象が現実に存在するか否かにのみある。現実の100ターラーは可能的な100ターラーより多くの内容を「含む」わけではない。
  3. 帰結: 存在が実在的述語でないならば、存在を完全性(perfection)の一つとして扱うことはできない。したがって「最も完全な存在者は存在する」という命題は、概念の分析から導出されない。存在論的論証は「これほど多くの労苦と努力が失われた」(so viel Muhe und Arbeit verloren)とカントは評する。

宇宙論的論証・目的論的論証の存在論的論証への依存

カントの批判のもう一つの重要な論点は、三種の証明の相互依存関係に関するものである。カントによれば、宇宙論的論証は二段階の推論から成る。第一段階で「何か必然的な存在者が存在する」ことを経験的事実から導出し、第二段階でこの必然的存在者が最も実在的な存在者(ens realissimum)であることを論じる。しかしこの第二段階において、最も実在的な存在者が必然的に存在するという主張は、存在論的論証の原理そのものに依拠している。したがって、宇宙論的論証は表面上は経験的前提に基づいているように見えるが、その核心において存在論的論証を前提としている。

同様に、目的論的論証(カントの用語では自然神学的証明)は、世界の秩序から知的な原因を推論するが、この原因が最高の存在者・必然的存在者であることを示すためには宇宙論的論証に依拠し、宇宙論的論証はさらに存在論的論証に依拠する。すなわち、三つの証明はすべて最終的に存在論的論証に帰着し、存在論的論証が失敗する以上、いずれも理論的証明としては成立しない。

カントにおける「要請」としての神

カントは理論理性による神の存在証明を退けたが、神の概念を完全に放棄したわけではない。『実践理性批判』(Kritik der praktischen Vernunft, 1788年)において、カントは神の存在を「実践理性の要請」(Postulat der praktischen Vernunft)として再定位した(→ Module 1-2, Section 1 参照)。理論的知識の対象としての神は否定されるが、道徳的実践の合理性を支える前提としての神は要請される。カントはこれを「知識を制限して信仰に場所を空けた」(Ich musste das Wissen aufheben, um zum Glauben Platz zu bekommen)と表現した。


ニーチェ「神は死んだ」

フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844-1900)の宗教批判は、論証の論理的妥当性の検討ではなく、西洋文明における宗教の文化的・実存的意味の根本的問い直しであった。

「神の死」の宣告

ニーチェは『悦ばしき知識』(Die frohliche Wissenschaft, 1882年)第125番「狂気の人間」(Der tolle Mensch)において、「神は死んだ」(Gott ist tot)という宣告を行った。この箇所では、明るい午前中にランタンを灯して市場に走り込み、「私は神を探している!」と叫ぶ狂人が描かれる。嘲笑する群衆に対して狂人は次のように語る。

「神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ。」

Key Concept: 神の死(death of God) ニーチェが宣告した西洋文明における形而上学的・道徳的世界の崩壊を表す概念。単に神が存在しないという主張ではなく、西洋の合理主義と科学の発展が宗教的世界像の基盤を解体してしまったという文化的診断である。

「神の死」の哲学的含意

ニーチェの「神の死」は、単に無神論の表明ではなく、以下のような多層的な含意を持つ。

(1)形而上学的世界の崩壊: 「神」はキリスト教の人格神のみならず、プラトン以来の西洋形而上学が想定してきた超感性的世界(イデア界、真の世界)全体の象徴である。神の死とは、現象世界の背後に「真の世界」が存在するという形而上学的前提そのものの崩壊を意味する。

(2)価値の基盤の喪失: 西洋の道徳体系はキリスト教的神に基づいていた。神の死は道徳的価値の超越的根拠の喪失を意味し、既存の善悪の基準が無根拠となる。

(3)ニヒリズム: 神の死は「最高の諸価値がその価値を失う」(die obersten Werte sich entwerten)事態、すなわちニヒリズム(nihilism)をもたらす。ニーチェはニヒリズムを「ヨーロッパ史の二世紀にわたる論理」として捉え、これに対して「価値の転換」(Umwertung aller Werte)を企図した。

(4)我々が神を殺した: 神の死は自然発生的な出来事ではなく、人間自身の合理的思考・科学的探究の帰結である。啓蒙主義、自然科学、歴史的聖書批判学といった知的営為が、宗教的世界像を内側から解体した。ニーチェの狂人が問うのは、この巨大な帰結に人間が耐えうるのかということである。

ニーチェは「神の死」の後に、人間が自ら新たな価値を創造する可能性を「超人」(Ubermensch)の概念によって示唆したが、その詳細は宗教哲学の範囲を超える。


フロイトの宗教論

ジークムント・フロイト(Sigmund Freud, 1856-1939)は精神分析の創始者であり、宗教を心理学的還元の対象とした。フロイトの宗教論は主に『トーテムとタブー』(Totem und Tabu, 1913年)と『幻想の未来』(Die Zukunft einer Illusion, 1927年)に展開されている。

宗教の起源: 父親コンプレックスと原初的殺父

『トーテムとタブー』においてフロイトは、宗教の起源を「原父殺害」(killing of the primal father)の仮説によって説明する。フロイトの推測的な物語によれば、原始の人間集団において暴力的な父が息子たちを支配していた。息子たちは結託して父を殺害し、食べた。しかし殺害後に罪悪感が生じ、殺された父は「トーテム」として崇拝の対象となった。トーテム動物の殺害禁止と定期的なトーテム食事という二重の制度は、殺父行為の記憶と再演であり、これが宗教的儀礼の原型である。さらに父親像は次第に「神」の表象へと昇華された。

Key Concept: 幻想としての宗教(religion as illusion) フロイトが『幻想の未来』で提示した宗教の心理学的解釈。宗教的信念は願望充足(wish-fulfillment)であり、自然の脅威や死への恐怖に対する心理的防衛として機能する。「幻想」は必ずしも「誤謬」ではないが、その動機づけに願望が決定的な役割を果たしている。

宗教は「幻想」: 願望充足としての宗教

『幻想の未来』においてフロイトは、宗教的信念を「幻想」(Illusion)として分析する。フロイトにおいて「幻想」は「誤謬」(Irrtum)とは区別される。幻想の本質的特徴は、その形成において願望充足(Wunscherfullung)が決定的な動機となっていることにある。幻想は現実と合致しうるが、合致するか否かは幻想たることとは無関係である。

フロイトによれば、宗教的信念は「人類の最古・最強・最も切迫した願望の充足」である。それらの願望とは以下のものである。

  1. 父親への依存の継続: 幼児期の万能な父親への依存は、宇宙を統べる全能の神への信仰として成人期に再現される。神は投影された父親像(projected father-figure)である。
  2. 自然の脅威に対する防衛: 地震・嵐・疾病・死といった自然の圧倒的な力に対する無力感が、自然を支配する人格的な神への信仰を生む。
  3. 死後の生への願望: 死の恐怖と有限性への不安が、来世・魂の不死への信仰を動機づける。
  4. 道徳的秩序への欲求: 現世において正義が実現されないことへの不満が、神の正義による最終的な応報への信仰を生む。

フロイトの宗教論の限界

フロイトの宗教論に対しては複数の批判がある。第一に、「原父殺害」の仮説は経験的証拠を欠いた推測的な物語であり、人類学的にも支持されていない。第二に、宗教的信念が願望充足に動機づけられているとしても、それは当該信念の真偽を決定しない(発生論的誤謬)。願望から生じた信念であっても偶然に真でありうる。第三に、カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung, 1875-1961)が指摘したように、フロイトの議論は19世紀の合理主義・科学的唯物論の枠組みに留まっており、宗教的体験の多層性を十分に捉えていない。


無神論・不可知論・理神論の分類

神の存在に対する批判的立場は一様ではなく、複数の類型に分かれる。

Key Concept: 無神論(atheism)/ 不可知論(agnosticism)/ 理神論(deism) 神の存在に対する三つの基本的立場。無神論は神の非存在を主張し、不可知論は神の存在・非存在を知りえないとし、理神論は創造者としての神を認めつつ啓示や介入を否定する。

立場 定義 代表的論者
無神論(atheism) 神は存在しないと主張する立場 バロン・ドルバック、ルートヴィヒ・フォイエルバッハ、リチャード・ドーキンス
不可知論(agnosticism) 神の存在・非存在は知ることができない(あるいは現時点で知られていない)とする立場 トマス・ヘンリー・ハクスリー、バートランド・ラッセル
理神論(deism) 理性に基づいて創造者としての神を認めるが、啓示・奇跡・人格的介入を否定する立場 ヴォルテール、トマス・ジェファーソン

無神論はさらに細分化される。強い無神論(positive/strong atheism)は「神は存在しない」と積極的に主張する立場であり、弱い無神論(negative/weak atheism)は「神が存在するという信念を持たない」(有神論の否定)という消極的な立場である。不可知論についても、認識論的不可知論(神の存在・非存在を知ることが原理的に不可能であるとする立場)と、方法論的不可知論(現時点での証拠では判断できないとする立場)を区別できる。

トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley, 1825-1895)は1869年に「不可知論」(agnosticism)という用語を造語した。ハクスリーは、十分な証拠なしに命題の真偽を断定することは知的に不誠実であり、神の存在・非存在のいずれについても証拠が不十分であるとした。

理神論はとりわけ17-18世紀の啓蒙期に隆盛し、ヴォルテール(Voltaire, 1694-1778)やトマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson, 1743-1826)がその代表者である。理神論者は宇宙の合理的秩序から創造者の存在を認めるが、聖書の奇跡物語や啓示の権威は否定し、理性のみによる宗教を提唱した。

新無神論

21世紀初頭に登場した新無神論(New Atheism)は、リチャード・ドーキンス(Richard Dawkins, 1941-)、クリストファー・ヒッチンズ(Christopher Hitchens, 1949-2011)、サム・ハリス(Sam Harris, 1967-)、ダニエル・デネット(Daniel Dennett, 1942-2024)の「四騎士」(Four Horsemen)を中心とする運動である。

新無神論の特徴は以下の点にある。第一に、宗教に対する単なる知的批判にとどまらず、宗教が社会的に有害であると積極的に主張する点である。ヒッチンズは「宗教はすべてを毒する」(religion poisons everything)と断じた。第二に、科学的世界観と宗教的信仰を根本的に両立不可能と見なす点である。ドーキンスは『神は妄想である』(The God Delusion, 2006年)において、神の存在は科学的仮説として扱われるべきであり、証拠に照らして棄却されるべきだと論じた。第三に、宗教に対する「敬意」の態度を批判し、宗教的信念も他のすべての信念と同様に批判的検討の対象とされるべきだと主張する点である。

新無神論に対しては、宗教の社会的機能(共同体形成、道徳的動機づけ、心理的慰藉)を過度に軽視しているという批判や、科学的方法のみが知識の唯一の源泉であるという科学主義(scientism)に陥っているという批判がある。


神の存在批判の系譜

timeline
    title 神の存在批判の系譜
    section 近代哲学的批判
        1748 : ヒューム『人間知性研究』第10章「奇跡について」
        1779 : ヒューム『自然宗教に関する対話』(死後出版)
        1781 : カント『純粋理性批判』「存在は述語ではない」
    section 19世紀の根本的批判
        1841 : フォイエルバッハ『キリスト教の本質』
        1882 : ニーチェ『悦ばしき知識』「神は死んだ」
    section 心理学的批判
        1913 : フロイト『トーテムとタブー』
        1927 : フロイト『幻想の未来』
    section 現代の展開
        2004 : ハリス『信仰の終焉』
        2006 : ドーキンス『神は妄想である』/ ヒッチンズ『神は偉大ではない』

まとめ

  • ヒュームは目的論的論証に対し、類比の限界・設計の不完全性・代替説明の可能性・無限後退・結論の限定性という多角的批判を展開し、奇跡の証言に対しても蓋然性の比較に基づく懐疑を示した。
  • カントは「存在は述語ではない」として存在論的論証を批判し、宇宙論的論証・目的論的論証もすべて存在論的論証に帰着すると論じて、理論理性による神の存在証明を全面的に退けた。ただし神の概念を実践理性の要請として再定位した。
  • ニーチェの「神は死んだ」は、単なる無神論の表明ではなく、西洋の形而上学的・道徳的世界全体の崩壊とニヒリズムの到来を診断する文化的宣告である。
  • フロイトは宗教を願望充足の「幻想」として心理学的に還元したが、発生論的誤謬の問題や経験的根拠の不足が批判される。
  • 無神論・不可知論・理神論はそれぞれ異なる認識論的立場であり、21世紀の新無神論は宗教の社会的有害性を積極的に主張する運動として展開された。
  • 次セクション(Section 3)では、これらの批判を踏まえた上で、悪の問題(problem of evil)という宗教哲学の最も深刻な挑戦を検討する。

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
「存在は述語ではない」 existence is not a predicate カントが存在論的論証批判として提示した命題。存在は対象に新たな性質を付加するものではなく、対象の措定にすぎないとする
神の死 death of God ニーチェが宣告した西洋の形而上学的・道徳的世界の崩壊を表す概念
幻想としての宗教 religion as illusion フロイトによる宗教の心理学的解釈。宗教的信念は願望充足によって動機づけられた幻想であるとする
無神論 atheism 神は存在しないと主張する立場。強い無神論と弱い無神論に区分される
不可知論 agnosticism 神の存在・非存在は知ることができない、または現時点で知られていないとする立場
理神論 deism 理性に基づいて創造者としての神を認めるが、啓示・奇跡・人格的介入を否定する立場
ニヒリズム nihilism 最高の諸価値がその価値を失う事態。ニーチェは神の死の帰結としてニヒリズムの到来を診断した
新無神論 New Atheism 21世紀初頭に登場した、宗教の社会的有害性を積極的に主張する無神論運動
発生論的誤謬 genetic fallacy 信念の起源・発生過程からその真偽を判断する誤謬。信念の心理的原因と論理的根拠を混同する
比例原理 proportionality principle 信念は証拠に比例して抱かれるべきであるとする認識論的原則。ヒュームの奇跡論の前提

確認問題

Q1: ヒュームの目的論的論証批判の主要な論点を三つ挙げ、それぞれの論理構造を説明せよ。

A1: 第一に「類比の限界」がある。目的論的論証は人工物と自然界の類似性に基づくが、ヒュームは二つの対象の類似性が不十分である場合、一方から他方への推論は信頼できないと指摘する。我々は宇宙のごく一部しか観察しておらず、宇宙という事例は一つしかないため、一つの事例から宇宙一般の特性を帰納することには無理がある。第二に「代替説明の可能性」がある。秩序の原因として知性以外の可能性が存在し、自然的プロセス(動物の生殖など)が知的設計なしに複雑な構造を生み出している。物質の粒子が無限の時間にわたって配列を試み安定に達した可能性も排除できない。第三に「結論の限定性」がある。仮に何らかの設計者の存在を推論しうるとしても、その設計者が伝統的一神教の神(無限・完全・善・唯一)であることは世界の不完全さからして示されない。

Q2: カントの「存在は述語ではない」という主張の内容を、ターラー銀貨の比喩を用いて説明し、これが存在論的論証をどのように論駁するか述べよ。

A2: カントによれば「存在する」ということは対象に新たな性質を付加するものではなく、対象がそのすべての規定とともに現実に存在することの措定にすぎない。100枚の現実のターラー銀貨と100枚の可能的なターラー銀貨は概念の内容において全く同一であり、前者が後者より多くの性質を「含む」わけではない。両者の違いは概念的内容にはなく、対象が現実に存在するか否かのみにある。存在論的論証はデカルトのように存在を完全性の一つとして扱い、最も完全な存在者の概念から存在を演繹する。しかし存在が実在的述語でないならば、完全性のリストに存在を含めること自体が不当であり、概念分析から存在を導出することはできない。

Q3: ニーチェの「神は死んだ」は単なる「神は存在しない」という無神論の主張とどのように異なるか。その哲学的含意を説明せよ。

A3: ニーチェの「神は死んだ」は、神が存在するか否かという存在論的命題ではなく、西洋文明全体の文化的・思想的変容についての診断である。「神」はキリスト教の人格神のみならず、プラトン以来の西洋形而上学が想定してきた超感性的世界全体の象徴であり、「神の死」はこの形而上学的世界の崩壊を意味する。さらに「我々が神を殺した」という表現は、啓蒙主義・自然科学・歴史的聖書批判学といった人間自身の知的営為が宗教的世界像を解体したことを示す。この帰結として、西洋の道徳体系の超越的根拠が失われ、ニヒリズムが到来する。単なる無神論は「神は存在しない」と述べるにとどまるが、ニーチェはその帰結として既存のすべての価値体系が無根拠となる事態を問題にしている。

Q4: フロイトの宗教論における「幻想」(Illusion)と「誤謬」(Irrtum)の区別を説明し、フロイトの議論に対する「発生論的誤謬」の批判がなぜ成立するか述べよ。

A4: フロイトにおいて「幻想」は「誤謬」と区別される。誤謬とは事実に反する信念であるが、幻想の本質的特徴は、その形成に願望充足が決定的な動機となっていることにある。幻想は現実と合致しうるし合致しないこともありうるが、合致するか否かは幻想たることとは無関係である。フロイトは宗教的信念が父親への依存・自然の脅威への防衛・死の恐怖といった願望に動機づけられていると論じた。しかし発生論的誤謬の批判が成立するのは、信念の心理的起源(なぜその信念を抱くに至ったか)と信念の真偽(その信念が事実に対応するか否か)は論理的に独立だからである。願望から生じた信念であっても偶然に真でありうるし、願望に無関係に形成された信念が偽でありうる。したがって、宗教的信念が願望充足に動機づけられていることを示しても、それだけでは当該信念の虚偽を証明したことにはならない。

Q5: 無神論・不可知論・理神論の三つの立場の認識論的な違いを説明し、新無神論がこれらの伝統的立場とどのように異なるか述べよ。

A5: 無神論は「神は存在しない」と主張する立場であり、神の非存在について積極的な信念を持つ(強い無神論の場合)。不可知論は神の存在・非存在について判断を保留する立場であり、原理的に知りえないとする認識論的不可知論と、現在の証拠では判断できないとする方法論的不可知論がある。理神論は理性に基づいて創造者としての神を認めるが、啓示・奇跡・人格的介入を否定し、宗教を理性の範囲に限定する立場である。新無神論はこれらと異なり、第一に宗教が社会的に有害であると積極的に主張する(反有神論的要素)、第二に科学的世界観と宗教的信仰の根本的両立不可能性を主張する、第三に宗教に対する社会的「敬意」の態度自体を批判し、宗教的信念も他のすべての信念と同様に批判的検討の対象とされるべきだと主張する点に特徴がある。すなわち新無神論は、認識論的な立場の表明にとどまらず、宗教の社会的影響に対する実践的・政治的な批判を含む運動である。