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Module 1-2 - Section 3: 悪の問題(神義論)

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 1-2: 宗教哲学の基礎
前提セクション Section 1
想定学習時間 2.5時間

導入

悪の問題(problem of evil)は、宗教哲学における最も根本的かつ持続的な問題の一つである。神が全知・全能・全善であるならば、なぜこの世界に悪や苦しみが存在するのか。この問いは古代ギリシアのエピクロス(Epicurus)にまで遡り、中世神学、近代哲学、そして現代の分析哲学に至るまで、絶えず論じられてきた。

Section 1で扱った神の存在論証が「神の存在を積極的に論証する試み」であったのに対し、悪の問題は「神の存在に対する最も強力な反論」として機能する。本セクションでは、悪の問題の論理構造を整理した上で、古典的神義論から現代の分析哲学的応答までを体系的に検討する。


悪の問題の基本構造

エピクロスのパラドクス

悪の問題の古典的定式化は、エピクロスに帰せられる以下の推論である(ラクタンティウス(Lucius Caecilius Firmianus Lactantius)の『神の怒りについて』に引用)。

  1. 神は悪を防ぐ意志があるが、能力がないのか――ならば神は全能ではない。
  2. 神は悪を防ぐ能力があるが、意志がないのか――ならば神は善ではない。
  3. 神は悪を防ぐ能力も意志もないのか――ならば、なぜそれを神と呼ぶのか。
  4. 神は悪を防ぐ能力も意志もあるのか――ならば、悪はどこから来るのか。

この推論は、有神論の中核的属性である全知(omniscience)・全能(omnipotence)・全善(omnibenevolence)の三者と、悪の現実的存在との間の緊張関係を鋭く示している。

Key Concept: 神義論(theodicy) 全知全能全善の神の存在と悪の存在との整合性を論じる哲学的・神学的試み。「神義論」の語はライプニッツがギリシア語の theos(神)と dike(正義)から造語した。

論理的悪の問題と蓋然的悪の問題

20世紀の分析哲学は、悪の問題を二つの異なる形式に区別した。

区分 論理的悪の問題 蓋然的悪の問題
英語表記 logical problem of evil evidential problem of evil
主張 神の存在と悪の存在は論理的に矛盾する 悪の存在は神の存在の確率を低下させる
論証形式 演繹的 帰納的・蓋然的
代表的論者 J・L・マッキー ウィリアム・ロウ
結論の強さ 神の存在は不可能である 神の存在はありそうにない

Key Concept: 論理的悪の問題(logical problem of evil) 全知全能全善の神と悪の存在が論理的に両立不可能であるとする議論。演繹的論証の形式をとり、神の存在の不可能性を主張する。

Key Concept: 蓋然的悪の問題(evidential problem of evil) 悪の存在(特に無意味に見える苦しみ)が神の存在の蓋然性を低下させるとする議論。帰納的論証の形式をとり、神の存在のありそうにないことを主張する。


古典的神義論

アウグスティヌスの自由意志論と悪の欠如説

アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354–430年)は、西方キリスト教における悪の問題への応答の原型を形成した。その議論は二つの柱からなる。

第一の柱:悪の欠如説(privatio boni)

アウグスティヌスは新プラトン主義の影響のもと、悪を独立した実体(substantia)ではなく、善の欠如(privatio boni)として理解した。すべての存在は神によって創造された限りにおいて善であり、悪とは善が欠如した状態にほかならない。ちょうど闇が光の不在であるように、悪は善の不在である。この理解によれば、神は悪を「創造」したのではなく、善のみを創造した。悪はあくまで被造物が本来の善から逸脱した状態を指す。

Key Concept: 悪の欠如説(privatio boni) 悪を独立した実体ではなく善の欠如・不在として理解する形而上学的立場。アウグスティヌスが新プラトン主義から受容し、西方キリスト教神学の伝統的な悪の理解となった。

第二の柱:自由意志論

道徳的悪(moral evil)の起源について、アウグスティヌスは人間の自由意志に帰した。神は人間に自由意志を与えたが、人間がその自由意志を誤用して善から離反した(堕罪)ことにより、悪が世界に入り込んだ。自由意志は善なる行為を可能にする条件であるため、神が自由意志を与えたこと自体は善である。悪の責任は神ではなく、自由意志を誤用した人間にある。

アウグスティヌス的神義論の問題点として、自然悪(地震・疫病等)の説明が困難であること、そして堕罪以前に自由意志の誤用がなぜ可能であったかという問いが残ることが指摘される。

ライプニッツの弁神論

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646–1716年)は、『弁神論(Essais de Théodicée sur la bonté de Dieu, la liberté de l'homme et l'origine du mal)』(1710年)において、「神義論」(théodicée / theodicy)の語を創出し、体系的な応答を展開した。

ライプニッツの論証の骨子は以下の通りである。

  1. 神は創造に先立ち、可能な世界(possible worlds)のすべてを知性によって把握する。
  2. 神は全善であるから、可能な世界のうち最善のもの(the best of all possible worlds)を選択して創造する。
  3. 現実世界には悪が存在するが、それは最善の世界の実現に不可避な要素である。
  4. 悪のない世界は論理的に可能であるかもしれないが、善の総量において現実世界を上回ることはない。

ライプニッツは悪を三種に分類した。

  • 形而上学的悪(mal métaphysique):被造物の有限性に由来する不完全性
  • 道徳的悪(mal moral):人間の自由意志による罪
  • 自然悪(mal physique):苦痛・災害等の自然現象

この議論はヴォルテール(Voltaire)の小説『カンディード(Candide)』(1759年)において痛烈に風刺された。リスボン大地震(1755年)の惨禍を前にして、「これが最善の世界である」という主張の説得力が問われたのである。


マッキーの論理的矛盾の定式化

ジョン・レスリー・マッキー(John Leslie Mackie, 1917–1981年)は、論文「悪と全能(Evil and Omnipotence)」(1955年)において、悪の問題を分析哲学の枠組みで精密に定式化した。

マッキーの議論は以下の通りである。以下の三命題は論理的に両立しない。

  1. 神は全能である。
  2. 神は全善である。
  3. 悪が存在する。

全能の神はいかなる事態も実現できるはずであり、全善の神は悪を可能な限り排除するはずである。したがって、全能かつ全善の神が存在するならば、悪は存在しないはずである。しかし悪は存在する。よって、全能かつ全善の神は存在しない。

マッキーは、有神論者が提出しうる応答を先取りして検討し、それらが不十分であると論じた。特に自由意志による応答に対して、マッキーは次のように反論した。全能の神であれば、自由意志を持ちながらも常に善を選ぶ被造物を創造できたはずである。なぜなら、「自由であり、かつ常に善を選ぶ」ことは論理的矛盾ではないからである。したがって、自由意志の存在は悪の存在を正当化しない。


プランティンガの自由意志の抗弁

可能世界意味論による応答

アルヴィン・カール・プランティンガ(Alvin Carl Plantinga, 1932年–)は、『神と他の精神(God and Other Minds)』(1967年)および『神、自由、悪(God, Freedom, and Evil)』(1974年)において、マッキーの論理的悪の問題に対する決定的な応答とされる「自由意志の抗弁(Free Will Defense)」を展開した。

Key Concept: 自由意志の抗弁(Free Will Defense) プランティンガが提出した悪の論理的問題への応答。神の全知全能全善と悪の存在が論理的に両立可能であることを、可能世界意味論を用いて示す。神義論(theodicy)が悪の存在の理由を積極的に説明するのに対し、抗弁(defense)は論理的両立可能性を示すことのみを目的とする。

プランティンガの議論の要点は以下の通りである。

前提:非両立論的自由意志(libertarian free will)

プランティンガは、意味のある自由意志とは非両立論的自由意志(libertarian free will)、すなわちある時点で実際にとった行為とは異なる行為をとることが可能であったような自由であると想定する。

核心的論証

  1. 神が道徳的に有意味な自由意志を持つ被造物を創造するならば、その被造物がどのように行為するかを神が決定することはできない。もし神が決定すれば、その行為はもはや自由ではない。
  2. したがって、道徳的善を含む世界の創造は、神と自由な被造物との「共同事業」(cooperative venture)である。
  3. ある可能世界を現実化できるか否かは、神の能力だけでなく、自由な被造物が何を選択するかにも依存する。
  4. マッキーの主張――全能の神は「自由であり、かつ常に善を選ぶ被造物」を創造できる――は誤りである。ある被造物が自由である限り、その被造物が特定の状況で何を選ぶかは、神ではなくその被造物自身に委ねられている。

超堕落(transworld depravity)の概念

プランティンガはさらに「超堕落」(transworld depravity)という概念を導入した。ある個人がすべての可能世界において少なくとも一つの道徳的に誤った行為を自由に選択する場合、その個人は「超堕落的」である。もしすべての可能な自由被造物が超堕落的であるならば、道徳的善を含みつつ道徳的悪を含まない世界を神が現実化することは不可能となる。

プランティンガは、すべての被造物が超堕落的であることが真である可能性を示すだけでよい。なぜなら、論理的悪の問題を退けるには、神の存在と悪の存在の論理的両立可能性を示せば十分だからである。

マッキーの論理的矛盾の解消

プランティンガの自由意志の抗弁は、分析哲学の領域において論理的悪の問題を事実上解消したと広く評価されている。マッキー自身も後の著作『奇跡の神学(The Miracle of Theism)』(1982年)において、プランティンガの議論が論理的矛盾を示す試みに対する有効な応答であることを認めた。ただし、マッキーは蓋然的悪の問題が依然として有効であると主張した。

graph TD
    A["悪の問題<br/>(エピクロスのパラドクス)"] --> B["論理的悪の問題<br/>(マッキー 1955)"]
    A --> C["蓋然的悪の問題<br/>(ロウ 1979)"]
    B --> D["自由意志の抗弁<br/>(プランティンガ 1974)"]
    D --> E["論理的矛盾は<br/>解消された"]
    C --> F["無意味な苦しみは<br/>神の不在を示唆する"]
    F --> G["魂づくりの神義論<br/>(ヒック 1966)"]
    F --> H["大いなる悪論<br/>(アダムス 1999)"]

ロウの蓋然的論証

論理的悪の問題がプランティンガの抗弁によって退けられた後、悪の問題の焦点は蓋然的悪の問題へと移行した。

ウィリアム・レナード・ロウ(William Leonard Rowe, 1931–2015年)は、論文「悪の問題と若干の有神論の変種(The Problem of Evil and Some Varieties of Atheism)」(1979年)において、蓋然的悪の問題の古典的定式化を提示した。

ロウの論証

  1. この世界には、全能全知の存在がそれを防いでもより大きな善を失うことなく、また同等以上の悪を許容することなく、防ぐことができたはずの激しい苦しみの事例が存在する(無意味な悪(gratuitous evil)の存在)。
  2. 全知全善の存在は、より大きな善を失うことなく、また同等以上の悪を許容することなく防ぐことができる激しい苦しみをすべて防ぐはずである。
  3. したがって、全能全知全善の存在は存在しない。

ロウは、この論証の第一前提を支持するために二つの具体的事例を挙げた。

  • E1(バンビの事例):森林火災で焼かれ、数日間にわたる激しい苦痛の末に死ぬ子鹿
  • E2(スーの事例):強姦され殺害される5歳の少女

これらの苦しみは、それによって達成されるより大きな善や、それによって防がれるより大きな悪が存在するとは考え難い。したがって、これらは無意味な悪であると考えるのが合理的であり、神の存在の蓋然性は低下する。

有神論者側の応答

蓋然的悪の問題に対する主な応答には以下がある。

  • 懐疑的有神論(skeptical theism):人間の認知能力には限界があり、ある悪が真に無意味であるかどうかを人間が判断することはできない。スティーヴン・ワイクストラ(Stephen Wykstra)やウィリアム・アルストン(William Alston)が展開。
  • 神義論的応答:悪には神が許容する理由が実際にあると積極的に論じる立場。次に扱うヒックの魂づくりの神義論がその代表例である。

魂づくりの神義論

ジョン・ハーウッド・ヒック(John Harwood Hick, 1922–2012年)は、『悪と愛の神(Evil and the God of Love)』(1966年)において、アウグスティヌス型とは異なる神義論の伝統を体系化した。

Key Concept: 魂づくりの神義論(soul-making theodicy) 悪と苦しみは、人間が道徳的・精神的に成長するための必要条件であるとする神義論。ヒックが教父イレネウスの思想に基づいて体系化したため、イレネウス型神義論とも呼ばれる。

アウグスティヌス型とイレネウス型の対比

観点 アウグスティヌス型 イレネウス型(ヒック)
人間の初期状態 完全な状態から堕落 未成熟な状態から発展
悪の起源 自由意志の誤用(堕罪) 成長のための条件
悪の位置づけ 善の欠如・逸脱 人格形成の手段
歴史的モデル 楽園喪失 漸進的発展
進化論との整合性 低い 高い

ヒックの議論

ヒックの論証の骨子は以下の通りである。

  1. 神の目的は、自由で道徳的に成熟した人格の創造である。
  2. 道徳的成熟は、困難・苦痛・選択の機会を通じてのみ獲得される。完成した状態で創造された人格は、真の意味で道徳的に成熟しているとは言えない。
  3. したがって、世界は「魂づくりの場」(vale of soul-making)として設計されており、悪と苦しみはその不可欠な構成要素である。
  4. 世界が安楽で苦痛のない環境であれば、勇気・忍耐・共感・自己犠牲といった美徳が発達する余地がない。

ヒックはさらに「認識的距離」(epistemic distance)の概念を導入した。神は人間から「認識的に距離をとって」おり、神の存在が直接的に明白でない環境をあえて設定している。これにより、人間は信仰の選択を真に自由に行うことができ、また道徳的成長を自律的に追求できる。

批判

魂づくりの神義論に対する主要な批判は以下の通りである。

  • 苦しみの不均等性:極端な苦しみ(幼児の虐待死、大規模な自然災害)が魂づくりに必要であるとは考え難い。人格的成長を促す程度を遥かに超える苦しみが現実に存在する。
  • 苦しみの分配の不公平:苦しみは人格的成長に寄与する者に限定されず、成長の機会を得られないまま死ぬ者(乳幼児など)にも降りかかる。
  • 動物の苦しみ:動物は道徳的成長の主体とは考えにくいが、莫大な苦しみを経験している。

悪の問題の現代的展開

ホロコースト後の神義論

20世紀の二つの世界大戦、とりわけホロコースト(Shoah)は、神義論に根本的な再考を迫った。600万人のユダヤ人の組織的殺戮という事態は、従来の神義論的応答の射程を超えるものとして受け止められた。

ユダヤ教神学者リチャード・ルーベンスタイン(Richard Rubenstein)は、アウシュヴィッツ以後、全能全善の神への信仰は不可能であると論じた(『アウシュヴィッツ以後(After Auschwitz)』1966年)。一方、エリ・ヴィーゼル(Elie Wiesel)は、神への抗議と信仰の持続という緊張関係の中に留まる姿勢を示した。

アダムスの「大いなる悪」論

マリリン・マコード・アダムス(Marilyn McCord Adams, 1943–2017年)は、『大いなる悪と愛の神(Horrendous Evils and the Goodness of God)』(1999年)において、従来の神義論の枠組みを根本的に問い直した。

アダムスは「大いなる悪」(horrendous evils)を、「それに参与すること(被害者・加害者・傍観者として)が、その人の人生を全体として善きものとすることを prima facie に不可能にするほどの悪」と定義した。ホロコースト、子どもの虐待、極度の貧困などがこれに該当する。

アダムスの議論の特徴は以下の通りである。

  1. 道徳的枠組みの不十分さ:従来の神義論は道徳的善悪の枠組みに依拠するが、大いなる悪はこの枠組みを超えている。より大きな善のための手段として大いなる悪を正当化する議論は、被害者の視点から見て説得力を欠く。
  2. 個人の視点の重視:アダムスは、宇宙全体の善悪のバランスではなく、個々の被害者の人生において悪がいかに「打ち負かされる」(defeated)かを問う。
  3. キリスト教的資源の活用:アダムスは、神自身がキリストの受肉と受難を通じて人間の苦しみに参与したという信仰を、大いなる悪への応答の核心に据えた。神が苦しみに内側から参与することで、被害者の経験は神との親密な関係の場に転換される可能性を持つ。

アダムスの議論は、伝統的な神義論が宇宙規模の善悪のバランスに焦点を当てるのに対し、個々の被害者の具体的な苦しみに正面から向き合うことを求めた点で、悪の問題の議論に重要な転換をもたらした。


まとめ

  • 悪の問題は、全知全能全善の神の存在と悪の存在との整合性を問う宗教哲学の中心的問題である。
  • 論理的悪の問題(マッキー)は、神と悪の論理的矛盾を主張したが、プランティンガの自由意志の抗弁によって事実上解消された。
  • 蓋然的悪の問題(ロウ)は、無意味な苦しみの存在が神の存在の蓋然性を低下させると論じ、現在も活発に議論されている。
  • 古典的神義論(アウグスティヌス、ライプニッツ)は悪の形而上学的性質と自由意志の役割を論じた。
  • ヒックの魂づくりの神義論は、悪を人格的成長の条件として積極的に位置づけた。
  • アダムスの大いなる悪論は、個々の被害者の視点を重視し、従来の神義論の限界を指摘した。
  • 次のセクションでは、宗教的言語の問題を検討し、神について語ることの哲学的条件を考察する。

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
神義論 theodicy 全知全能全善の神と悪の存在の整合性を論じる哲学的・神学的試み
論理的悪の問題 logical problem of evil 神の存在と悪の存在が論理的に両立不可能であるとする議論
蓋然的悪の問題 evidential problem of evil 悪の存在が神の存在の蓋然性を低下させるとする帰納的議論
悪の欠如説 privatio boni 悪を独立した実体ではなく善の欠如として理解する形而上学的立場
自由意志の抗弁 Free Will Defense プランティンガが提出した、神と悪の論理的両立可能性を示す議論
超堕落 transworld depravity すべての可能世界で少なくとも一つの道徳的に誤った行為を自由に選ぶ性質
無意味な悪 gratuitous evil より大きな善の達成にも同等以上の悪の防止にも寄与しない悪
魂づくりの神義論 soul-making theodicy 悪を人格的・道徳的成長の条件として位置づける神義論
認識的距離 epistemic distance 神が人間から認識的に距離をとることで信仰の自由を確保するというヒックの概念
大いなる悪 horrendous evils 被害者の人生を全体として善きものとすることを不可能にするほどの極端な悪
懐疑的有神論 skeptical theism 人間の認知的限界ゆえに悪の真の無意味さを判断できないとする立場

確認問題

Q1: 論理的悪の問題と蓋然的悪の問題の違いを、それぞれの論証形式と結論の強さの観点から説明せよ。

A1: 論理的悪の問題(マッキーに代表される)は演繹的論証であり、全知全能全善の神の存在と悪の存在が論理的に矛盾する(両立不可能である)と主張する。その結論は「神の存在は不可能である」という強い主張である。一方、蓋然的悪の問題(ロウに代表される)は帰納的・蓋然的論証であり、悪の存在(特に無意味に見える苦しみ)が神の存在の確率を低下させると主張する。その結論は「神の存在はありそうにない」というより穏健な主張である。論理的悪の問題はプランティンガの自由意志の抗弁によって事実上解消されたとされるが、蓋然的悪の問題は現在も哲学的議論の対象である。

Q2: プランティンガの自由意志の抗弁における「超堕落」(transworld depravity)の概念を説明し、それがマッキーの議論への応答としてどのように機能するかを論じよ。

A2: 超堕落とは、ある個人がすべての可能世界において少なくとも一つの道徳的に誤った行為を自由に選択する性質を指す。マッキーは「全能の神は、自由意志を持ちながらも常に善を選ぶ被造物を創造できるはずだ」と論じた。プランティンガはこれに対し、非両立論的自由意志のもとでは、被造物が何を選択するかは神が決定できる事柄ではないと応答した。さらに、すべての可能な自由被造物が超堕落的である可能性がある。その場合、道徳的善を含みつつ道徳的悪を含まない世界を神が現実化することは論理的に不可能となる。プランティンガの抗弁は、この可能性が存在することを示すだけで目的を達する。なぜなら、論理的両立可能性を示すには、神と悪が共存する一貫した筋書きが可能であることを示せば十分だからである。

Q3: ヒックの魂づくりの神義論はアウグスティヌス型神義論とどのような点で異なるか。また、魂づくりの神義論に対する主要な批判を一つ挙げ、その妥当性について論じよ。

A3: アウグスティヌス型神義論は人間が完全な状態から堕罪によって堕落したと理解し、悪を善の欠如・自由意志の誤用として説明する。これに対しヒックのイレネウス型(魂づくりの)神義論は、人間を未成熟な状態から道徳的完成へ向けて発展途上にあるものとして理解し、悪と苦しみを人格的成長の必要条件として積極的に位置づける。主要な批判として、苦しみの不均等性の問題がある。魂づくりの神義論は、ある程度の困難が成長に必要であることを論じるが、ホロコーストや幼児の虐待死のような極端な苦しみが人格的成長に寄与するとは考え難い。この批判は妥当であり、ヒック自身も来世における完成(普遍的救済)を補助仮説として導入する必要に迫られた。

Q4: アダムスの「大いなる悪」論が従来の神義論に対して提起した根本的な問題は何か。アダムスはどのような応答を提案したか。

A4: アダムスが提起した根本的問題は、従来の神義論が宇宙全体の善悪のバランス(「大きな善のために悪が必要」)に焦点を当てるのに対し、個々の被害者の人生において悪がいかに扱われるかを問わない点である。大いなる悪は、被害者の人生を全体として善きものとすることを不可能にするほど深刻であり、それを宇宙的な善の手段として正当化することは被害者の視点から見て不適切である。アダムスの応答は、キリスト教的資源に基づく。具体的には、神がキリストの受肉と受難を通じて人間の苦しみに内側から参与したという信仰を核心に据え、大いなる悪の経験が神との親密な関係の場に転換される可能性を論じた。この応答は、道徳的枠組みを超えた宗教的資源を活用する点で、従来の神義論とは異なるアプローチをとっている。

Q5: ライプニッツの「可能世界の最善」論に対するヴォルテールの批判の要点を述べ、この批判が神義論に対してどのような哲学的問題を提起しているか論じよ。

A5: ヴォルテールは『カンディード』(1759年)において、リスボン大地震(1755年)の惨禍を背景に、「これが最善の世界である」というライプニッツ的楽観主義を風刺した。地震・津波・火災によって数万人が死亡した現実を前にして、この世界が神の選びうる最善のものであるという主張は、現実の苦しみの深刻さを矮小化するものに映る。この批判が提起する哲学的問題は、理論的整合性と経験的現実との乖離である。ライプニッツの議論は論理的には自己完結しうるが、具体的な苦しみの前では抽象的な最適化の議論の説得力が問われる。この問題は、蓋然的悪の問題や、後のアダムスによる被害者の視点の重視にもつながる、神義論における持続的な課題である。