Module 1-2 - Section 4: 宗教言語と信仰の合理性¶
セクション情報¶
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| モジュール | Module 1-2: 宗教哲学の基礎 |
| 前提セクション | Section 1 |
| 想定学習時間 | 2.5時間 |
導入¶
Section 1では神の存在論証(存在論的論証・宇宙論的論証・目的論的論証・道徳論証)を検討した。しかし、神の存在を論じる以前に、そもそも「神は存在する」という命題が何を意味しているのか、宗教的な言明は認知的内容をもつのかという、より根本的な問いがある。本セクションでは、20世紀の分析哲学が提起した宗教言語の問題を出発点として、宗教的言明の意味と地位をめぐる諸議論を整理する。次いで、信仰と理性の関係に関する古典的立場(パスカルの賭け、キェルケゴールの信仰の飛躍、信仰主義)を検討し、最後にアルヴィン・プランティンガの改革派認識論を取り上げる。
宗教言語の問題 — 論理実証主義と反証主義¶
検証原理と宗教言語の「無意味」テーゼ¶
20世紀前半、ウィーン学団に端を発する論理実証主義(logical positivism)は、命題の有意味性に関する厳格な基準を提示した。その中核が検証原理(verification principle)である。
Key Concept: 検証原理(verification principle) 命題が認知的に有意味であるのは、それが(1)分析的真理(同語反復)であるか、(2)経験的観察によって原理上検証可能である場合に限られる。この基準を満たさない命題は、真でも偽でもなく、文字通り無意味(meaningless)とされる。
アルフレッド・ジュールズ・エイヤー(Alfred Jules Ayer)は『言語・真理・論理』(Language, Truth and Logic, 1936年)において、検証原理を英語圏に広く紹介した。エイヤーによれば、「神は存在する」「神は祈りに応える」といった宗教的言明は分析的真理ではなく、また経験的に検証することもできない。したがって、これらは真偽を問うこと自体ができない無意味な疑似命題である。エイヤーは宗教的言明を単に「偽」と判定したのではなく、真偽の判定対象にすらならないと主張した点が重要である。
しかし、検証原理はただちに深刻な自己論駁(self-refutation)の問題に直面する。「命題が有意味であるのは経験的に検証可能な場合に限られる」という検証原理自体が、分析的真理でも経験的に検証可能な命題でもない。したがって、検証原理はそれ自身の基準に照らして無意味ということになる。この問題は論理実証主義の衰退の一因となった。
フルーの反証主義的批判¶
アントニー・フルー(Antony Flew)は「神学と反証」("Theology and Falsification", 1950年)において、ジョン・ウィズダム(John Wisdom)の「見えない庭師のたとえ」を援用し、宗教言語に対する別角度の批判を展開した。
たとえは次のようなものである。二人の探検家がジャングルの中の空き地にたどり着く。そこには花が咲いているが雑草もある。一方は「庭師がこの地を手入れしているに違いない」と言い、他方は否定する。彼らは見張りを立て、有刺鉄線を張り、電流を流し、番犬を放つが、庭師は一向に現れない。信じる側は「見えない、触れられない、音も立てない、匂いもしない庭師なのだ」と言い続ける。
フルーが問うのは、一体何が起これば「庭師は存在しない」と認めるのか、ということである。信仰者がいかなる反証も認めないのであれば、その主張はもはや何も断言していないのと同じである。カール・ポパー(Karl Popper)の反証可能性(falsifiability)の考え方を宗教言語に適用し、フルーは、反証条件を一切認めない宗教的言明は「千の限定によって死ぬ」(dies the death of a thousand qualifications)と論じた。
この批判に対し、R・M・ヘア(R. M. Hare)は宗教的言明が「ブリク」(blik)——世界の見方を方向づける非認知的な枠組み——であると応じ、バジル・ミッチェル(Basil Mitchell)は、信仰者が反証を認めないのではなく、反証を承知の上で信頼を維持していると反論した。
ウィトゲンシュタインと宗教言語¶
前期ウィトゲンシュタイン:語りえぬもの¶
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)は『論理哲学論考』(Tractatus Logico-Philosophicus, 1921年)の末尾で「語りえぬものについては沈黙しなければならない」(Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen)と述べた。前期ウィトゲンシュタインにとって、言語は世界の事実を写像する(写像理論)。倫理的・宗教的・美的な言明は世界の事実を述べるものではないため、厳密には語りえない領域に属する。
ただし、ウィトゲンシュタインは宗教を無価値とみなしたわけではない。むしろ「語りえぬもの」こそが本当に重要なものであり、言語の限界の外側に位置するがゆえに、科学や論理の審判にはかからないと考えていた。この点で、エイヤーの「無意味」テーゼとは立場が異なる。
後期ウィトゲンシュタイン:言語ゲームと生活形式¶
後期の主著『哲学探究』(Philosophische Untersuchungen, 1953年)においてウィトゲンシュタインは写像理論を放棄し、「言語ゲーム」(Sprachspiel / language game)の概念を導入した。
Key Concept: 言語ゲーム(Sprachspiel / language game) 言語の意味は、固定的な対象への指示によってではなく、特定の文脈における使用(use)によって決まる。科学・法律・日常会話・宗教など、それぞれ異なる「言語ゲーム」が存在し、各ゲームには固有の文法(grammar)——すなわちルールと基準——がある。
言語ゲームは「生活形式」(Lebensform / form of life)に根ざしている。宗教的実践(祈り・礼拝・告白・讃美)は一つの生活形式を構成し、その内部で用いられる言語はその実践の中でこそ意味をもつ。「神は存在する」という文を科学的仮説として検証しようとすることは、チェスの駒をサッカーのルールで動かそうとするようなものであり、ゲームの混同(category mistake)にほかならない。
フィリップスのウィトゲンシュタイン的信仰主義¶
デューイ・ゼファニア・フィリップス(Dewi Zephaniah Phillips)は、後期ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を宗教哲学に体系的に適用した。フィリップスによれば、宗教は固有の文法をもつ自己完結的な言語ゲームであり、科学的・形而上学的な言語ゲームの基準で評価することはできない。「神は存在する」は経験的事実の主張ではなく、宗教的生活形式の内部で機能する表現である。
カイ・ニールセン(Kai Nielsen)はこの立場を「ウィトゲンシュタイン的信仰主義」(Wittgensteinian fideism)と批判的に名づけた。ニールセンの批判の要点は、宗教的言語ゲームが外部からの批判を一切受けつけない閉鎖的体系になるという点にある。フィリップス自身はこの批判を退け、ウィトゲンシュタインの哲学は宗教に対する外部からの批判を排除するものではないと主張した。ただし、フィリップスが宗教言語の自律性を強く擁護した結果、宗教的主張と経験的世界との接点がどのように確保されるのかという問題が残されたことは否定できない。
宗教的言語の類比的・象徴的機能¶
論理実証主義が宗教言語の「無意味」を宣告し、ウィトゲンシュタイン的アプローチがその固有の文法を強調する一方で、伝統的な神学は宗教言語が類比(analogy)や象徴(symbol)として機能するという理論を発展させてきた。
アクィナスの類比論¶
トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225–1274)は、神について語る際の言語の用い方について精密な分析を行った。アクィナスは、語の用い方を三つに区分する。
- 一義的用法(univocal):同一の意味で複数の対象に適用される。「ソクラテスは人間である」「プラトンは人間である」における「人間」。
- 多義的用法(equivocal):同じ語が全く異なる意味で用いられる。「銀行(bank)」が金融機関と河岸の双方を指す場合。
- 類比的用法(analogical):一義的でも多義的でもなく、部分的な類似性に基づいて用いられる。
神と被造物の間には無限の存在論的隔たりがあるため、「善い」「知恵がある」「存在する」といった述語を神と人間に一義的に適用することはできない。しかし、全く無関係な多義的用法でもない。アクィナスは、被造物が神の原因的活動(因果関係)を通じて神の完全性に不完全ながら与っている(participation)ことを根拠として、類比的な語の使用が可能であると論じた。この立場は後に「存在の類比」(analogia entis)として定式化される。
ティリッヒの象徴論¶
パウル・ティリッヒ(Paul Tillich, 1886–1965)は、宗教的言語は本質的に象徴的であると主張した(→ Module 1-1, Section 4「宗教と文化の関係」参照)。ティリッヒにおいて象徴(symbol)は単なる恣意的な記号(sign)とは異なり、それが指し示す実在に参与し(participate)、通常の認識では到達しえない実在の層を開示する力をもつ。「神は存在する」という文において、「存在する」は字義通りの意味ではなく象徴的に用いられている。ティリッヒは、神について非象徴的に述べることができる唯一の命題は「神は存在自体(Being-itself)である」であると主張した。
神話・メタファーとしての宗教言語¶
ルドルフ・ブルトマン(Rudolf Bultmann, 1884–1976)は新約聖書の非神話化(Entmythologisierung / demythologization)を提唱し、聖書の神話的表現の背後にある実存的メッセージの抽出を試みた。ブルトマンによれば、聖書の神話的言語(天上の神、悪魔、奇跡等)は古代の世界観を反映した表現形式であり、現代人にとっての課題はその表現形式を捨てて実存的意味を取り出すことにある。
類比論・象徴論・非神話化論は、いずれも宗教言語が字義通りの記述ではないという点で一致している。しかし、宗教言語が「何について」語っているのか(指示対象の問題)、そしてその語りがどのような意味で真理を伝達しうるのか(真理性の問題)については、各立場間で大きな相違がある。
信仰と理性の関係¶
宗教言語の問題が「宗教的言明は何を意味するのか」を問うものであるとすれば、信仰と理性の関係の問題は「宗教的信念を抱くことは合理的か」を問うものである。この問いに対する回答は、理性による信仰の正当化を試みる立場から、理性を超えた信仰の飛躍を肯定する立場まで、広いスペクトルを形成する。
パスカルの賭け¶
Key Concept: パスカルの賭け(Pascal's Wager) ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal, 1623–1662)が『パンセ』(Pensées)で提示した議論。神の存在は理性によって証明も反証もできないとした上で、実践的合理性(意思決定論)の観点から、神を信じて生きることが最も合理的な選択であると論じる。
パスカルの賭けの構造は以下の意思決定行列で表現できる。
| 神は存在する | 神は存在しない | |
|---|---|---|
| 神を信じる | 無限の利得(永遠の至福) | 有限の損失(世俗的快楽の一部制限) |
| 神を信じない | 無限の損失(永遠の断罪) | 有限の利得(世俗的快楽) |
神の存在確率がどれほど小さくとも(ゼロでない限り)、信じる場合の期待効用は無限大となり、信じない場合を上回る。したがって、合理的な行為者は神を信じるべきである——これがパスカルの論証の骨子である。これは意思決定理論(decision theory)を神の存在問題に適用した最初期の試みとされる。
パスカルの賭けへの批判¶
パスカルの賭けに対しては多くの批判が提起されてきた。
- 多数の神の問題(Many Gods Objection):ドゥニ・ディドロ(Denis Diderot)が最初に指摘した問題。パスカルの賭けはキリスト教の神だけでなく、あらゆる宗教の神について同様に成立する。互いに排他的な複数の宗教が無限の利得を約束するとき、意思決定行列は解を与えない。
- 信仰の非自発性:信仰は意志によって自由に選択できるものではない。「信じることにする」という決定は、真正な信仰(genuine belief)を生み出すことができるのか。パスカル自身はこの問題を認識しており、まず信仰者のように振る舞えば、やがて信仰が生まれると示唆した。
- 無限の効用の問題:無限の効用を含む意思決定は、フォン・ノイマン=モルゲンシュテルン効用理論(von Neumann–Morgenstern utility theory)の公理系と整合しない。無限の期待効用が導入されると、あらゆる戦略が等しく「合理的」になり、意思決定理論自体が機能不全に陥る。
- 神の性質への疑問:計算高い賭けの論理で信仰に至った者を、全知の神が喜ぶだろうか。功利的動機に基づく信仰は、宗教的に要求される真摯な信仰とは質的に異なるという批判がある。
キェルケゴールの信仰の飛躍¶
Key Concept: 信仰の飛躍(leap of faith) セーレン・キェルケゴール(Søren Kierkegaard, 1813–1855)に帰される概念。キェルケゴール自身は「質的飛躍」(qualitative leap)という語を用いた。信仰は理性的論証の結論として到達されるものではなく、客観的不確実性の只中において主体的に行われる決断である。
キェルケゴールは実存の三段階——美的段階・倫理的段階・宗教的段階——を区分した。宗教的段階への移行は、理性的推論の連続的進展によっては達成されない。それは不連続な「飛躍」を必要とする。信仰とは「客観的不確実性を、情熱の最も熱烈な内面性をもって保持すること」(『非学問的後書き』)であり、証拠や論証に基づく確信ではなく、個人が自己の全実存を賭けて行う主体的決断である。
キェルケゴールのこの立場は、当時のデンマーク国教会のヘーゲル主義的合理化に対する批判でもあった。キェルケゴールにとって、キリスト教信仰を理性的体系に組み込もうとするヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)の試みは、信仰がもつ主体的・情熱的な次元を見失わせるものであった。信仰は客観的知識の体系ではなく、個としての人間が神の前に立つ実存的関係に根ざしている。
信仰主義¶
Key Concept: 信仰主義(fideism) 宗教的信仰は理性的根拠づけを必要とせず、また理性によっては正当化しえないとする立場。信仰は理性に先行し、あるいは理性を超越する。
信仰主義には広義と狭義がある。広義の信仰主義は、信仰が理性とは独立の根拠をもつと主張する立場一般を指す。狭義の信仰主義は、信仰が理性に反する(contra rationem)場合でさえ正当であると主張する、より極端な立場である。テルトゥリアヌス(Tertullianus, c.155–c.220)に帰される「不合理なるがゆえに信ず」(credo quia absurdum)は、狭義の信仰主義の典型的表現とされる(ただし、テルトゥリアヌス自身がこの語句をそのまま用いたわけではない)。
キェルケゴールの立場は信仰主義の一形態と解釈されることが多い。ただし、キェルケゴールは理性そのものを否定したのではなく、理性の限界を指摘し、信仰の領域では理性とは異なる種類の関わり方が求められると主張した点に留意が必要である。
graph LR
subgraph 理性重視
A["自然神学<br/>(理性による神の存在論証)"]
B["証拠主義<br/>(十分な証拠なしに信じるべきでない)"]
end
subgraph 中間的立場
C["改革派認識論<br/>(神信仰は基本的信念)"]
D["パスカルの賭け<br/>(実践的合理性)"]
end
subgraph 信仰重視
E["キェルケゴール<br/>(信仰の飛躍)"]
F["信仰主義<br/>(信仰は理性に先行)"]
end
A --- B
B --- C
C --- D
D --- E
E --- F
改革派認識論¶
Key Concept: 改革派認識論(Reformed Epistemology) アルヴィン・プランティンガ(Alvin Plantinga, 1932–)を中心に展開された認識論的立場。神の存在に関する信念は、論証や証拠によらずとも認識論的に正当化されうる「適正に基本的な信念」(properly basic belief)であると主張する。
古典的基礎づけ主義への批判¶
改革派認識論は、西洋哲学において支配的であった「古典的基礎づけ主義」(classical foundationalism)への批判から出発する。古典的基礎づけ主義とは、正当化された信念の体系は、自明であるか(self-evident)、感覚経験によって訂正不可能であるか(incorrigible)、いずれかの「基本的信念」(basic beliefs)を土台とし、その上に推論によって構築されるとする立場である。
プランティンガは、古典的基礎づけ主義自体が自己論駁的であることを指摘する。「信念が正当化されるためには自明であるか感覚経験に基づくかのいずれかでなければならない」というテーゼは、それ自体が自明でも感覚経験に基づくものでもない。したがって、古典的基礎づけ主義はその自身の基準を満たさないのである。この構造は、検証原理の自己論駁と類比的である。
適正基盤主義¶
プランティンガは、基本的信念の範囲を自明性と感覚経験に限定する必要はないと論じる。我々は日常的に、他者の心が存在すること、記憶が信頼できること、外界が実在することなどを、論証なしに基本的信念として受け入れている。これらが基本的信念として正当であるならば、神の存在に対する信念もまた、適切な条件下で基本的信念たりうる。
プランティンガが挙げる「適切な条件」の例としては、壮大な自然を前にした畏敬の念、罪の意識と赦しの感覚、聖典を読んだ際の神の語りかけの感覚などがある。これらの経験において、「神は存在する」という信念は推論の結論としてではなく、直接的かつ自然に形成される。
大かぼちゃ問題¶
改革派認識論に対する代表的な批判は、いわゆる「大かぼちゃ問題」(Great Pumpkin Objection)である。神の存在が適正に基本的であるならば、ハロウィンに大かぼちゃが帰ってくるという信念も同様に適正に基本的であると主張できるのではないか。すなわち、適正基盤主義は信念の正当化基準を際限なく緩めてしまい、あらゆる非合理的信念を免責する結果になるのではないかという批判である。
プランティンガはこの批判に対し、適正に基本的な信念は無条件に何でもよいわけではなく、適切な状況(circumstances)と根拠づけ条件(grounding conditions)のもとでのみ成立すると応答する。しかし、何をもって「適切な状況」とするかの基準をめぐっては、依然として議論が続いている。プランティンガの後期の著作(Warranted Christian Belief, 2000年)では、カルヴァンの「神についての感覚」(sensus divinitatis)を援用し、人間の認知機能に神を認識する機構が組み込まれているという議論を展開している。
まとめ¶
- 論理実証主義の検証原理は宗教的言明を「無意味」と断じたが、検証原理自体の自己論駁性によりその根拠は失われた。フルーの反証主義的批判は、宗教的言明が反証条件を認めない限り空虚であると指摘した。
- 後期ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論は、宗教言語を科学的言語とは異なる固有の文法をもつ実践として捉え直す道を開いた。ただし、この立場は宗教的言語ゲームの閉鎖性という問題を残す。
- アクィナスの類比論やティリッヒの象徴論は、宗教言語が字義通りの記述ではないが、実在についての何らかの認知的内容を伝達しうるという中間的立場を提供する。
- パスカルの賭けは信仰を実践的合理性の問題として定式化したが、多数の神の問題や無限の効用の問題に直面する。キェルケゴールは信仰を主体的決断として捉え、理性的論証への還元に抵抗した。
- プランティンガの改革派認識論は、古典的基礎づけ主義の自己論駁を指摘した上で、神信仰を適正に基本的な信念として位置づけるが、適正基盤性の基準をめぐる論争は未決である。
- 本セクションの諸議論は、宗教的信念をめぐる認識論的問題が、単純な「合理的/非合理的」の二分法では捉えきれない多層性をもつことを示している。
用語集(Glossary)¶
| 用語 | 英語表記 | 定義 |
|---|---|---|
| 検証原理 | verification principle | 命題が認知的に有意味であるのは分析的真理であるか経験的に検証可能である場合に限られるとする原理 |
| 反証可能性 | falsifiability | ある命題がどのような条件下で偽と判定されうるかを示す性質。ポパーの科学哲学の中核概念 |
| 言語ゲーム | Sprachspiel / language game | ウィトゲンシュタインの概念。言語の意味は使用の文脈によって決まり、各実践領域が固有のルール体系をもつ |
| 存在の類比 | analogia entis | アクィナスに由来する概念。神と被造物の間の述語適用が一義的でも多義的でもなく類比的であるとする立場 |
| パスカルの賭け | Pascal's Wager | 意思決定論の枠組みで、神を信じて生きることが最も合理的な選択であると論じるパスカルの議論 |
| 信仰の飛躍 | leap of faith | キェルケゴールに帰される概念。信仰は理性的推論の結論ではなく主体的決断による不連続的な飛躍である |
| 信仰主義 | fideism | 宗教的信仰は理性的根拠づけを必要とせず理性によっては正当化しえないとする立場 |
| 改革派認識論 | Reformed Epistemology | 神信仰が論証や証拠によらずとも認識論的に正当化されうる基本的信念であるとするプランティンガらの立場 |
| 適正に基本的な信念 | properly basic belief | 他の信念からの推論を経ずに直接的に正当化される信念のうち、適切な条件を満たすもの |
| 非神話化 | Entmythologisierung / demythologization | ブルトマンの方法論。聖書の神話的表現の背後にある実存的メッセージを抽出する試み |
確認問題¶
Q1: 論理実証主義の検証原理は宗教的言明をどのように評価し、またその評価基準自体はどのような問題を抱えているか。
A1: 検証原理によれば、命題が認知的に有意味であるためには分析的真理であるか経験的に検証可能でなければならない。宗教的言明(「神は存在する」等)はいずれの条件も満たさないため、真偽以前に無意味な疑似命題であると判定される。しかし、検証原理自体が分析的真理でも経験的に検証可能な命題でもないため、自らの基準に照らして無意味ということになり、自己論駁に陥る。
Q2: ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論は宗教言語の理解にどのような転換をもたらし、またどのような問題を残すか。
A2: 後期ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論は、言語の意味を使用の文脈に即して理解する。宗教言語は宗教的生活形式に根ざした固有の文法をもつ言語ゲームであり、科学的言語の基準で評価すべきではないとされる。この見方は宗教言語を「無意味」とする論理実証主義的批判から救い出す一方で、宗教的言語ゲームが外部批判に対して閉鎖的な体系になりうるという問題(ウィトゲンシュタイン的信仰主義の問題)を残す。
Q3: パスカルの賭けの論証構造を意思決定行列を用いて説明し、少なくとも二つの批判を論じよ。
A3: パスカルの賭けは、神の存在・非存在と信仰・不信仰の組み合わせからなる2x2の意思決定行列を用いる。神が存在し信じた場合は無限の利得(永遠の至福)、存在するが信じなかった場合は無限の損失を想定する。神の存在確率がゼロでない限り、信じる選択の期待効用は無限大となるため合理的に優越する。主要な批判として、(1)多数の神の問題:排他的な複数の宗教が同様に無限の利得を約束するため意思決定が不可能になる、(2)無限の効用の問題:無限の期待効用はフォン・ノイマン=モルゲンシュテルン効用理論の公理系と整合せず意思決定理論が機能不全に陥る、がある。
Q4: 信仰主義と改革派認識論はいずれも信仰の合理性に関わるが、両者はどのように異なるか。
A4: 信仰主義は、信仰が理性的根拠づけを必要としない(あるいは理性では正当化しえない)と主張し、信仰を理性の範囲の外に置く。信仰は理性に先行するか理性を超越するものとされる。一方、改革派認識論は、神信仰が認識論的に正当な基本的信念でありうると論じることで、信仰を認識論の枠組みの内部で正当化しようとする。すなわち、信仰主義が理性の射程外に信仰を位置づけるのに対し、改革派認識論は認識論的正当化の概念を拡張することで信仰を合理性の射程内に取り込もうとする点に根本的な違いがある。
Q5: アクィナスの類比論において、神について語る言語は一義的用法でも多義的用法でもなく類比的用法であるとされる理由を、存在論的根拠に言及しつつ説明せよ。
A5: アクィナスによれば、神と被造物の間には無限の存在論的隔たりがあるため、「善い」「知恵がある」等の述語を神と人間にまったく同一の意味で(一義的に)適用することはできない。しかし、被造物は神の因果的活動を通じて神の完全性に不完全ながら与っている(参与・participation)。この因果関係に基づく類似性の存在により、全く無関係な多義的用法でもない。類比的用法は、この部分的類似性と根本的差異の両方を保持する語の用い方であり、被造物における完全性から出発しつつも、神においてはそれがより卓越した仕方で——しかし我々には完全には把握しえない仕方で——実現されていることを表現する。