Module 1-2 - Section 5: 宗教的多元主義と京都学派¶
セクション情報¶
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| モジュール | Module 1-2: 宗教哲学の基礎 |
| 前提セクション | Section 1, 2 |
| 想定学習時間 | 2.5時間 |
導入¶
世界には多数の宗教伝統が並存しており、それぞれが究極的実在や救済について固有の主張を行っている。こうした宗教的多様性の事実は、哲学的に重大な問題を提起する。すなわち、複数の宗教が互いに矛盾する真理主張を行うとき、それらの関係をどう理解すべきかという問題である。
本セクションでは、まず宗教的多元主義をめぐる排他主義・包括主義・多元主義の三類型を整理し、次にジョン・ヒック(John Hick, 1922-2012)の多元主義仮説を検討する。続いて、東西思想の対話という独自の視座から宗教哲学を展開した京都学派——とりわけ西田幾多郎(1870-1945)と西谷啓治(1900-1990)——の思想を取り上げる。最後に、比較神学など宗教間対話の現代的展開にも触れる。
Section 1で扱った神の存在論証、Section 2で検討した批判的議論を踏まえ、ここでは「真理を主張する宗教が複数存在する」という事態そのものが哲学にとって何を意味するかを考察する。
宗教的多元主義の三類型¶
複数の宗教が存在するという事実に対する哲学的・神学的応答は、大きく排他主義・包括主義・多元主義の三つに分類される。この三類型はアラン・レイス(Alan Race)が1983年の著作で体系化したものであり、以後の宗教間対話論の基本的枠組みとなっている。
Key Concept: 排他主義(exclusivism) 自らの宗教伝統のみが真理であり、救済はその宗教を通じてのみ可能であるとする立場。他の宗教的主張は誤りないし不十分とされる。
排他主義——カール・バルトの立場¶
排他主義の代表的論者はカール・バルト(Karl Barth, 1886-1968)である。バルトは『教会教義学』(Kirchliche Dogmatik)において、啓示(Offenbarung)と宗教(Religion)を峻別した。バルトによれば、神の自己啓示はイエス・キリストにおいてのみ決定的に生起するのであり、人間が自力で構築した「宗教」はすべて「不信仰」(Unglaube)である。キリスト教もまた人間の宗教である限りにおいて不信仰に属するが、神の恩寵によってのみ「真の宗教」たりうるとバルトは主張した。
この立場は、キリスト教の啓示の独自性を徹底的に擁護するものであるが、他宗教の信徒にとっての救済の可能性を事実上否定する点で、宗教的多様性の時代において大きな批判を招くこととなった。
Key Concept: 包括主義(inclusivism) 自らの宗教伝統が最も完全な真理を有するが、他の宗教伝統にも部分的な真理や救済の可能性が存在しうるとする立場。
包括主義——カール・ラーナーの「匿名のキリスト者」¶
カール・ラーナー(Karl Rahner, 1904-1984)は、排他主義の神学的難点を克服しようとした。ラーナーが問題としたのは、キリスト以前に生きた人々やキリスト教の宣教が到達しなかった地域の人々の救済である。全善なる神が、本人の責に帰しえない事情で救済を拒否するとは考えがたい。
この問題に対してラーナーが提示した概念が「匿名のキリスト者」(anonymous Christian)である。善意をもって真理と善を追求し、自らが知る道徳的真理に従って生きる人々は、たとえキリスト教を明示的に信じていなくとも、無自覚にキリストの恩寵に応答しているのであり、キリストを通じて救われうるとラーナーは論じた。
この概念は大きな論争を呼んだ。ハンス・キュング(Hans Küng, 1928-2021)は、誠実なユダヤ教徒やムスリムや無神論者で、自分が「匿名のキリスト者」と呼ばれることを僭越とみなさない者はいないだろうと批判した。またジョン・ヒックは、この概念を一方的に付与される「名誉称号」であり温情主義的(paternalistic)であると批判した。
Key Concept: 多元主義(pluralism) 複数の宗教伝統が同等に究極的実在に接近しうるとする立場。いずれか一つの宗教が他に対して認識論的優位を占めるとは考えない。
三類型の比較¶
graph TD
subgraph 排他主義
E1["自宗教のみが真理"]
E2["他宗教は不信仰・誤り"]
E1 --> E2
end
subgraph 包括主義
I1["自宗教が最も完全な真理"]
I2["他宗教にも部分的真理・<br/>救済可能性あり"]
I1 --> I2
end
subgraph 多元主義
P1["複数宗教が同等に<br/>究極的実在に接近"]
P2["特定宗教の<br/>認識論的優位を否定"]
P1 --> P2
end
E1 -.->|"批判的発展"| I1
I1 -.->|"さらなる展開"| P1
| 観点 | 排他主義 | 包括主義 | 多元主義 |
|---|---|---|---|
| 真理の所在 | 自宗教のみ | 自宗教が最も完全、他にも部分的 | 複数宗教に同等に分有 |
| 他宗教の救済 | 否定 | 条件付き肯定 | 肯定 |
| 代表的論者 | バルト | ラーナー | ヒック |
| 主要な批判 | 神の善性との矛盾 | 自宗教中心主義の残存 | 各宗教の固有性の軽視 |
ジョン・ヒックの多元主義仮説¶
ヒックの思想的展開¶
ジョン・ヒック(John Hick, 1922-2012)はイギリス出身の宗教哲学者であり、宗教的多元主義の最も体系的な擁護者である。ヒックは当初、正統的なキリスト教信仰をもつ排他主義者であったが、バーミンガムにおける多宗教社会での経験を通じて、他宗教の信徒の中に深い霊性と道徳的変容を見出し、次第に多元主義的立場へと移行した。
主著として『神は多くの名前をもつ』(God Has Many Names, 1980)および『宗教の解釈』(An Interpretation of Religion, 1989)がある。後者は1986-87年のギフォード講演に基づき、グラウメイアー賞を受賞した。
カント的認識論の応用¶
ヒックの多元主義仮説の哲学的核心は、イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724-1804)の認識論の宗教的転用にある。カントが「物自体」(Ding an sich)と「現象」(Erscheinung)を区別したのと同様に、ヒックは「実在そのもの」(the Real an sich)と「人間が経験する実在の現れ」を区別する。
Key Concept: 「実在そのもの」(the Real) ヒックの多元主義仮説における中心概念。人間の認識を超えた究極的実在であり、各宗教伝統はこの同一の実在を、それぞれの文化的・歴史的文脈に応じて異なる仕方で経験し概念化している。
ヒックによれば、「実在そのもの」はいかなる人間的カテゴリーによっても十全には把握されえない。キリスト教の「神」、イスラームの「アッラー」、ヒンドゥー教の「ブラフマン」、仏教の「法」(dharma)ないし「空」(śūnyatā)は、いずれもこの同一の究極的実在に対する文化的・歴史的に制約された応答であるとされる。
宗教的変容の基準¶
ヒックは各宗教の妥当性を判断する基準として、「宗教的変容」(religious transformation)の概念を提示する。真正な宗教は、信者を「自己中心性」(self-centredness)から「実在中心性」(Reality-centredness)へと変容させる力をもつ。この変容——利己性からの解放と他者への開かれ——は、キリスト教では愛(agapē)、仏教では慈悲(karuṇā)、イスラームでは帰依(islām)として表現される。ヒックにとって、このような道徳的・霊的変容を促す限りにおいて、諸宗教は同等に有効なのである。
ヒックへの批判¶
ヒックの多元主義仮説には複数の重要な批判がある。
1. 「実在」概念の空虚さ:キース・ウォード(Keith Ward)は、もし「実在そのもの」について何も知りえないのであれば、諸宗教がそれへの有効な応答であるとなぜ判断できるのかと批判した。認識不可能な「実在」を措定することは、実質的に何も言っていないに等しい。
2. 各宗教伝統の固有性の軽視:多元主義は諸宗教を「同一の実在への応答」と還元することで、各伝統が固有に有する教義的・実践的差異を不当に捨象しているとの批判がある。たとえば、仏教の無我(anātman)とヒンドゥー教のアートマン(ātman)は「実在そのもの」への等しく有効な応答とされるが、両者は存在論的に正反対の主張である。
3. 啓示の問題:イスラーム哲学者アドナン・アスラン(Adnan Aslan)は、「実在そのもの」が不可知であるならば、それが自らを人間に啓示することもありえず、啓示は結局人間の精神の産物になってしまうと論じた。これは啓示を自らの根幹とするアブラハムの宗教にとって重大な問題である。
京都学派の宗教哲学¶
宗教的多元主義の問題に、西洋哲学とは異なる角度からアプローチしたのが京都学派である。京都学派は、京都帝国大学(現・京都大学)の西田幾多郎と田辺元(1885-1962)を中心に形成された哲学の学派であり、西洋哲学の方法論を用いつつ、東洋思想——とりわけ禅仏教——の洞察を哲学的言語で表現しようとした点に独自性がある。
graph TD
NK["西田幾多郎<br/>(1870-1945)"] -->|"師弟関係"| TE["田辺元<br/>(1885-1962)"]
NK -->|"師弟関係"| NI["西谷啓治<br/>(1900-1990)"]
NK -->|"師弟関係"| HI["久松真一<br/>(1889-1980)"]
TE -->|"影響"| NI
NK -.->|"思想的源泉"| ZEN["禅仏教"]
NK -.->|"対話"| WP["西洋哲学<br/>(カント・ヘーゲル<br/>・ベルクソン)"]
NI -.->|"対決"| NIE["ニーチェ<br/>ハイデガー"]
西田幾多郎——「純粋経験」と「絶対無の場所」¶
西田幾多郎は京都学派の創始者であり、東洋的思想の地盤の上に西洋哲学を摂取して「西田哲学」と呼ばれる独自の体系を構築した。
純粋経験 西田の処女作『善の研究』(1911年)の中心概念が「純粋経験」(pure experience)である。これはウィリアム・ジェイムズ(William James, 1842-1910)の影響を受けた概念であるが、西田はこれを独自に深化させた。純粋経験とは、主観と客観が未だ分化していない直接的経験のことであり、「主客未分」の状態を指す。通常われわれは「私が対象を経験する」と考えるが、西田はそうした主客の分裂は反省によって事後的に構成されたものであり、経験の根源的次元では主客が一体であると論じた。この着想の背景には西田自身の長年にわたる禅の修行体験がある。
Key Concept: 絶対無の場所(place of absolute nothingness) 西田哲学の中核概念。有と無の対立を超えた根源的な「場所」であり、一切の存在者がそこにおいて成り立つ場。西洋哲学の「有の論理」に対して、東洋的「無」の立場からの存在論を展開するものである。
西田はやがて純粋経験の立場を「場所」(basho)の論理へと発展させる。1926年の論文「場所」以降、西田は「有るもの」が成り立つ根拠としての「場所」を考察した。通常の論理は「有」(存在するもの)を基盤とするが、西田は「有」と「無」の対立をさらに包む「絶対無の場所」を思索した。これは単なる「有の欠如」としての無(相対無)ではなく、有と無の二項対立そのものを超えた根源的次元である。
晩年の西田は「絶対矛盾的自己同一」の概念に到達する。これは、矛盾するもの——たとえば個と全体、有限と無限、自己と他者——が、まさに矛盾するままで同一であるという弁証法的構造を指す。西田はこの論理によって、禅における「即非の論理」(AはAであるがゆえにAではない)を哲学的に表現しようとした。
西谷啓治——「空の立場」とニヒリズムの超克¶
西谷啓治は西田幾多郎の弟子であり、師の哲学を宗教哲学の方向に展開した。西谷の最大の思想的課題は、近代のニヒリズムの超克であった。
西谷はフライブルク大学に留学し、マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger, 1889-1976)のもとで学んだ。帰国後、フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844-1900)のニヒリズムの問題——「神の死」による価値の崩壊——を、東洋思想の側から根本的に受け止め、超克しようとした。
主著『宗教とは何か』(1961年)において、西谷は三つの立場の展開を論じる。
1. 意識の立場:日常的な自我意識の立場であり、主体と客体の二元的対立に基づく。自我は世界の中心を占めるが、その基盤は吟味されていない。
2. 虚無(ニヒリズム)の立場:自我の基盤が崩壊する経験であり、ニーチェが描いた「神の死」後の虚無がこれにあたる。すべての意味や価値が根拠を失い、底なしの深淵が露呈する。西谷はこれを「虚無の火宅」と呼ぶ。
3. 空(śūnyatā)の立場:虚無をさらに突き抜けた先に開ける立場である。虚無が「すべてが無意味である」という否定にとどまるのに対し、空はその否定そのものを否定する——「無もまた無である」(虚無の自己否定)。
Key Concept: 空の立場(standpoint of śūnyatā) 西谷啓治の宗教哲学における中心概念。ニヒリズム(虚無)を経由しつつそれを超克する仏教的「空」(śūnyatā)の立場。空は単なる虚無(nihil)ではなく、「空即是色」として一切の存在を積極的に肯定する場である。
西谷はこの空の立場を「空と即」(śūnyatā and soku)の論理によって説明する。般若心経の「色即是空・空即是色」に基づき、一切の存在するもの(色)はそのまま空であり、空はそのまま一切の存在として現成するという構造を哲学的に展開した。「即」とは「そのままで……である」という直接的同一性を示し、これは西田の「絶対矛盾的自己同一」と通底する論理構造をもつ。
西谷においてニヒリズムの超克は、虚無の回避や否認ではなく、虚無を徹底的にくぐり抜けることによって達成される。虚無の底を破ることで、すべてが「空」として——すなわち固定的実体をもたないがゆえにこそ、相互に依存し関係しあうものとして——新たに肯定される。これは「ニヒリズムを通してのニヒリズムの超克」と呼ばれる。
京都学派の宗教哲学の特質と限界¶
京都学派の宗教哲学の最大の意義は、東西の思想的伝統を哲学的に架橋しようとした点にある。西田は西洋の有の論理に対して「無の論理」を提示し、西谷はニーチェやハイデガーとの対決を通じて仏教的空の思想の現代的意義を明らかにしようとした。この営為は宗教的多元主義の問題に対して、西洋哲学の内部からは得がたい視角を提供するものである。
しかし京都学派には重大な限界も指摘されている。第一に、禅仏教を東洋思想の代表として特権化する傾向があり、仏教内部の多様性(浄土教や密教など)やアジアの他の宗教的伝統を十分に包摂していないとの批判がある。第二に、第二次世界大戦期において京都学派の一部の思想家——田辺元や高山岩男(1905-1993)ら——が「世界史の哲学」と称して大東亜共栄圏の理念に哲学的正当化を与えたとする批判がある。この戦時期の政治的問題は、京都学派の思想的遺産の評価を複雑にしている。西田自身の戦争への関与の程度については研究者の間で議論が続いているが、少なくとも京都学派が国家主義的言説に利用された歴史的事実は無視しえない。
宗教間対話の現代的展開¶
排他主義・包括主義・多元主義という三類型に対して、近年はそのいずれにも還元されない新たなアプローチが模索されている。
比較神学¶
Key Concept: 比較神学(comparative theology) フランシス・クルーニー(Francis X. Clooney, 1950-)らが推進する神学的方法論。自らの宗教的立場に根ざしつつ、他の宗教伝統を深く学ぶことで自らの神学的理解を深化・変容させる営み。宗教的多元主義のような包括的メタ理論を構築するのではなく、具体的なテクスト読解と比較を通じた「深い学び」(deep learning)を重視する。
ハーヴァード大学のクルーニーは、比較神学を「信仰が理解を求める営み」(faith seeking understanding)として定義する。比較神学者は単に他宗教について聴くだけでなく、他宗教のテクストや実践を自らの伝統と並行して深く学び、その学びが自らの神学的理解をいかに変容させるかに注目する。クルーニー自身はイエズス会の司祭として、ヒンドゥー教のテクスト(特にタミル語のヴェーダーンタ文献)の精密な読解をキリスト教神学と対話させる研究を行っている。
比較神学は、ヒック的多元主義が「上空から」諸宗教を俯瞰する(そのこと自体が一つの立場への偏りをはらむ)のに対して、「地上の」具体的な宗教的実践とテクストに即して対話を進める点で異なる。
相互変容的対話¶
宗教間対話のもう一つの現代的展開として、「相互変容」(mutual transformation)の概念がある。これは対話の参加者が自らの立場を保持したまま、他の伝統との出会いを通じて自己理解そのものが変容していくプロセスを指す。単なる情報交換や相互理解にとどまらず、対話を通じて両者がともに変容するという点が特徴的である。
まとめ¶
- 宗教的多様性に対する哲学的応答として、排他主義(バルト)・包括主義(ラーナー)・多元主義(ヒック)の三類型がある。それぞれに固有の哲学的強みと限界がある。
- ヒックはカント的認識論を応用し、諸宗教を「実在そのもの」への等しく有効な応答とみなしたが、「実在」概念の空虚さや各宗教の固有性の軽視といった批判にさらされた。
- 京都学派は、西洋哲学の方法を用いつつ東洋的「無」の思想を哲学的に表現した。西田幾多郎の「絶対無の場所」は有の論理を超える試みであり、西谷啓治の「空の立場」はニヒリズムを仏教的空によって超克する宗教哲学を提示した。
- 比較神学(クルーニー)や相互変容的対話は、メタ理論的な多元主義を避けつつ、具体的な宗教間の学びと変容を追求する現代的アプローチである。
Module 1-2「宗教哲学の基礎」全体を通じて、神の存在をめぐる論証(Section 1)、それらへの批判的検討(Section 2)、宗教経験の哲学的分析(Section 3)、悪の問題と弁神論(Section 4)、そして宗教的多元主義と東西の宗教哲学の対話(本セクション)を扱ってきた。これらはいずれも「宗教とは何か」「宗教的言説は認識論的にいかなる地位をもつか」という根本的問いへの応答である。
次の Module 1-3「世界宗教概論」では、こうした哲学的基盤を踏まえたうえで、個々の宗教伝統——ヒンドゥー教、仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラームなど——の教義・実践・歴史を具体的に検討していく。宗教哲学の抽象的議論が、実際の宗教的伝統においていかに具体化されているかを確認する作業となる。
用語集(Glossary)¶
| 用語 | 英語表記 | 定義 |
|---|---|---|
| 排他主義 | exclusivism | 自宗教のみが真理であり、救済はその宗教を通じてのみ可能とする立場 |
| 包括主義 | inclusivism | 自宗教が最も完全な真理を有するが、他宗教にも救済の可能性を認める立場 |
| 多元主義 | pluralism | 複数の宗教が同等に究極的実在に接近しうるとする立場 |
| 匿名のキリスト者 | anonymous Christian | ラーナーの概念。キリスト教を知らずとも善意をもって生きる者は無自覚にキリストの恩寵に与っているとする |
| 実在そのもの | the Real | ヒックの多元主義仮説の中心概念。人間の認識を超えた究極的実在 |
| 宗教的変容 | religious transformation | 自己中心性から実在中心性への転換。ヒックが諸宗教の有効性を判断する基準とした |
| 純粋経験 | pure experience | 西田幾多郎の概念。主客未分の直接的経験 |
| 絶対無の場所 | place of absolute nothingness | 西田哲学の中核概念。有と無の対立を超えた根源的場所 |
| 絶対矛盾的自己同一 | absolutely contradictory self-identity | 西田の晩年の概念。矛盾するものが矛盾するままで同一であるという弁証法的構造 |
| 空の立場 | standpoint of śūnyatā | 西谷啓治の宗教哲学の中心概念。ニヒリズムを超克する仏教的空の立場 |
| 比較神学 | comparative theology | 自らの宗教的立場に根ざしつつ他宗教を深く学ぶことで自己の神学的理解を深化させる方法論 |
確認問題¶
Q1: 排他主義・包括主義・多元主義の三類型はそれぞれ、宗教的多様性の事実にどのように応答するか。各立場の核心的主張と、それに対する主要な批判を整理せよ。 A1: 排他主義(バルト)は自宗教のみが真理であるとし、他宗教を不信仰とみなす。これに対しては、神の善性と矛盾するとの批判がある。包括主義(ラーナー)は他宗教にも救済可能性を認めるが、自宗教を最終的な判断基準とする点で自己中心的であるとの批判を受ける。多元主義(ヒック)は諸宗教を同等とみなすが、各宗教の固有性を軽視し、その前提となる「実在そのもの」の概念が空虚であるとの批判がある。
Q2: ジョン・ヒックの多元主義仮説における「実在そのもの」(the Real)の概念は、カントの認識論をどのように応用したものか。また、この概念にはいかなる哲学的問題が伴うか。 A2: ヒックはカントの「物自体」と「現象」の区別を宗教的認識に転用し、人間が認識しうる宗教的経験(現象)の背後に、認識を超えた「実在そのもの」を措定した。各宗教はこの同一の実在を文化的・歴史的に制約された仕方で経験している。しかしこの概念には、(1)不可知な実在について諸宗教がそれへの有効な応答であると判断する根拠が不明である(ウォード)、(2)実在が不可知であれば啓示も不可能になる(アスラン)、(3)矛盾する教義(無我とアートマンなど)が同一の実在への応答と言えるのかが不明である、といった問題がある。
Q3: 西田幾多郎の「絶対無の場所」は、西洋哲学の伝統的な存在論とどのような点で異なるか。 A3: 西洋哲学の伝統的存在論は「有」(存在するもの)を基盤とし、存在者の分析を出発点とする。これに対して西田の「絶対無の場所」は、存在者が成り立つ根拠としての「場所」を問い、その究極を「有」でも単なる「無」(有の欠如)でもない「絶対無」に見出す。これは有と無の二項対立そのものを超えた根源的次元であり、禅仏教的な「無」の洞察を西洋哲学の概念装置によって表現する試みである。
Q4: 西谷啓治は「空の立場」によっていかにしてニヒリズムを超克しようとしたか。「虚無」と「空」はどのように異なるか。 A4: 西谷は三つの立場の展開を論じた。日常的な意識の立場が崩壊すると虚無の立場が現れる。虚無は「すべてが無意味である」という否定にとどまるが、空はその虚無そのものをさらに否定する(虚無の自己否定)。空は単なる否定・欠如ではなく、「色即是空・空即是色」として一切の存在を固定的実体なきものとして肯定する。虚無がすべてを否定して立ちすくむのに対し、空はすべてが相互依存的に成り立つことを積極的に認め、存在の新たな肯定へと転じる。
Q5: 比較神学(フランシス・クルーニー)は、ヒックの多元主義とどのような点で異なるアプローチをとるか。 A5: ヒックの多元主義は、諸宗教を俯瞰するメタ理論を構築し、「実在そのもの」という統一的概念のもとに諸宗教を位置づけようとする。これに対して比較神学は、そのような包括的メタ理論を回避し、自らの宗教的立場に根ざしたまま、他の宗教伝統のテクストや実践を具体的に深く学ぶことで自己の神学的理解を変容させるという「地上からの」アプローチをとる。抽象的な体系化よりも、具体的なテクスト読解と比較を通じた「深い学び」を重視する点が特徴的である。