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Module 2-3 - Section 3: スンナ派とシーア派・近現代のイスラーム

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 2-3: イスラーム
前提セクション Section 1
想定学習時間 5時間

導入

イスラーム共同体(ウンマ)は、預言者ムハンマドの死(632年)直後から指導者の後継をめぐる深刻な対立を経験した。この対立はスンナ派(Sunnī)とシーア派(Shīʿa)という二大宗派の分裂へと発展し、教義・法学・政治組織のあり方に根本的な差異を生み出した。本セクションでは、まずこの分裂の歴史的経緯を跡づけ、シーア派内部の諸分派およびハワーリジュ派・イバード派を概観する。続いて、18世紀以降の改革運動からイスラーム主義(Islamism)の台頭、1979年のイラン革命、そして現代イスラーム世界の多様な動態までを扱う。


スンナ派とシーア派の分裂

Key Concept: シーア派(Shīʿa) 「アリーの党派(shīʿat ʿAlī)」を語源とし、ムハンマドの従弟・娘婿であるアリー・イブン・アビー・ターリブとその子孫のみが共同体の正統な指導者(イマーム)であると主張する宗派。全ムスリムの約10〜15%を占める。

後継問題と正統カリフ時代

ムハンマドは男子の後継者を残さず、後継者の指名について明確な遺言を残さなかった。ムハンマドの死後、メディナのサキーファ(集会所)でアブー・バクル(Abū Bakr, 在位632-634)が初代カリフ(khalīfa / 後継者)に選出された。この選出は、ムハンマドの従弟・娘婿であるアリー・イブン・アビー・ターリブ(ʿAlī ibn Abī Ṭālib)こそが正統な後継者であると考える人々の不満を招いた。

正統カリフ時代の4代のカリフは以下の通りである。

カリフ 在位 備考
アブー・バクル 632-634 ムハンマドの盟友。リッダ戦争を遂行
ウマル・イブン・アル=ハッターブ 634-644 征服事業を推進。暗殺された
ウスマーン・イブン・アッファーン 644-656 クルアーンの統一版を編纂。反乱者に殺害された
アリー・イブン・アビー・ターリブ 656-661 ムハンマドの従弟・娘婿。第一次内乱(フィトナ)を経て暗殺された

第3代カリフ・ウスマーンの殺害後、ようやくカリフに就任したアリーであったが、ウスマーン殺害への対応をめぐりシリア総督ムアーウィヤ(Muʿāwiya)との内戦(第一次フィトナ)に突入した。657年のスィッフィーンの戦いで仲裁裁定(タフキーム)に応じたアリーは、これに反発する一派(後のハワーリジュ派)の離反を招き、661年にハワーリジュ派の一員により暗殺された。ムアーウィヤはウマイヤ朝を建て、カリフ位を世襲制に転換した。

カルバラーの悲劇とシーア派のアイデンティティ

680年、アリーの次男フサイン・イブン・アリー(Ḥusayn ibn ʿAlī)は、ウマイヤ朝第2代カリフ・ヤズィード(Yazīd)への忠誠を拒否し、クーファの支持者の招きに応じてイラクへ向かった。しかし、カルバラー(現イラク)において、フサインとその一行約72名はウマイヤ朝の大軍に包囲され、ムハッラム月10日(アーシューラー)に殉教した。

カルバラーの悲劇は、シーア派の集合的記憶の中核をなす出来事となった。毎年ムハッラム月に行われるアーシューラーの追悼儀礼(タアズィヤ / taʿziya)は、フサインの受難を追体験する宗教行事として現在もイラン・イラク・レバノンなどで盛大に執り行われている。フサインの殉教は「不正に対する抵抗」の象徴としてシーア派の宗教的・政治的アイデンティティの根幹を形成した。

スンナ派の特徴

スンナ派(Sunnī)は全ムスリムの約85〜90%を占める多数派である。「スンナ」はムハンマドの慣行(スンナ / sunna)に従うことを意味し、四正統カリフの正統性を認める。スンナ派の主な特徴は以下の通りである。

  • 四大法学派: ハナフィー学派、マーリク学派、シャーフィイー学派、ハンバル学派の4つの法学派(マズハブ / madhhab)が並立し、相互に正統性を承認する(→ Section 1参照)
  • 合意(イジュマー / ijmāʿ)の重視: 共同体の合意を法源の一つとして重視し、カリフの選出も協議(シューラー / shūrā)と合意によるべきものとする
  • カリフ制: 指導者はクライシュ族出身であることが望ましいとされたが、血統の神聖性は主張されない。カリフは世俗的・政治的指導者であり、宗教的な無謬性を持たない

シーア派の諸分派

Key Concept: イマーム(imām) シーア派において、ムハンマドの血統を引くアリーの子孫から選ばれた共同体の宗教的・政治的指導者。十二イマーム派ではイマームは神の導きを受けた無謬の存在(マアスーム / maʿṣūm)とされる。スンナ派では礼拝の導師を指す一般的な用語にすぎない。

シーア派は、イマームの系譜をどこまで認めるかによって複数の分派に分かれた。分岐の系譜は以下の通りである。

graph TD
    A["アリー(第1代イマーム)"] --> B["フサイン(第3代イマーム)"]
    B --> C["..."]
    C --> D["ジャアファル・アッ=サーディク<br/>(第6代イマーム)"]
    D -->|"長男イスマーイール<br/>の系統"| E["イスマーイール派<br/>(七イマーム派)"]
    D -->|"次男ムーサー<br/>の系統"| F["十二イマーム派"]
    B --> G["ザイド・イブン・アリー<br/>(第4代の弟)"]
    G --> H["ザイド派<br/>(五イマーム派)"]

    style A fill:#f9f,stroke:#333
    style E fill:#bbf,stroke:#333
    style F fill:#bfb,stroke:#333
    style H fill:#fbf,stroke:#333

十二イマーム派(Ithnā ʿAshariyya)

シーア派最大の分派であり、シーア派全体の約85%を占める。イラン・イラク・レバノン・バーレーンなどに多い。アリーから第12代イマーム・ムハンマド・アル=マフディーまで12人のイマームを認める。

874年、第12代イマーム・ムハンマド・アル=マフディーは幼少のまま「隠れ」の状態(ガイバ / ghayba)に入ったとされる。当初は4人の代理人を通じて信徒と連絡を取る「小隠れ(al-ghayba al-ṣughrā)」の時期(874-941)があり、その後「大隠れ(al-ghayba al-kubrā)」に移行して現在に至る。隠れイマームは終末の日に再臨し、正義の統治をもたらすとされる。大隠れの時代におけるウラマー(宗教学者)の権威と役割が拡大し、後のヴェラーヤテ・ファキーフ(velāyat-e faqīh / 法学者の統治)論の基盤となった。

イスマーイール派(Ismāʿīliyya)

第6代イマーム・ジャアファル・アッ=サーディクの長男イスマーイールの系統を正統と認める分派である。十二イマーム派がイスマーイールの弟ムーサー・アル=カーズィムを第7代イマームとしたのに対し、イスマーイール派はイスマーイール(またはその子ムハンマド)を第7代イマームとした。このため「七イマーム派(Seveners)」とも呼ばれる。

歴史的には、10世紀にファーティマ朝(909-1171)を北アフリカに建て、エジプトのカイロを首都として繁栄した。現在、イスマーイール派の最大の分派であるニザール派の精神的指導者はアガ・ハーン(Aga Khan)の称号を持ち、世界各地の信徒共同体を率いている。

ザイド派(Zaydiyya)

第4代イマーム・アリー・ザイヌル=アービディーンの子ザイド・イブン・アリー(Zayd ibn ʿAlī)を第5代イマームとする分派である。他のシーア派分派がイマームの無謬性(イスマ / ʿiṣma)を主張するのに対し、ザイド派はイマームの無謬性を認めない。また、イマームたるためには積極的に不正に対して蜂起する政治的行動が求められるとする点に特徴がある。

歴史的にはイエメンでザイド派イマーム国が1000年以上にわたって存続し(897-1962)、現在もイエメン北部の住民の多くがザイド派に属する。


その他の宗派・運動

ハワーリジュ派(Khārijites)

657年のスィッフィーンの戦いでアリーが仲裁裁定に応じたことに反発し、「裁定はアッラーにのみ属する(lā ḥukma illā li-Llāh)」と主張してアリーの陣営から離脱した一派である。「ハワーリジュ」は「退出者たち」を意味する。

ハワーリジュ派は、大罪を犯したムスリムはもはやムスリムではない(タクフィール / takfīr, 不信仰宣告)と主張し、カリフの資格は血統ではなく敬虔さのみによるべきだとした。この急進的な立場から、初期イスラームにおいて激しい武装反乱を繰り返したが、軍事的に鎮圧され、ほとんどの分派は消滅した。

イバード派(Ibāḍiyya)

ハワーリジュ派の穏健な分派として8世紀に形成された。バスラのジャービル・イブン・ザイド(Jābir ibn Zayd)とアブドゥッラー・イブン・イバード(ʿAbd Allāh ibn Ibāḍ)を主要な思想的源流とする。ハワーリジュ派の急進的なタクフィール論を拒否し、他のムスリムとの共存を認める穏健な立場を取った。

イバード派は、スンナ派・シーア派に次ぐイスラームの「第三の潮流」とされる。今日、オマーン国の人口の約45%がイバード派に属し、国家の宗教的基盤を形成している。イバード派のイマームは、信徒の協議(シューラー)によって敬虔さと学識に基づいて選出される。


近現代のイスラーム改革運動

Key Concept: イジュティハード(ijtihād / 独立的法解釈)とタクリード(taqlīd / 追従) イジュティハードは、クルアーンとハディースから法的判断を直接導出する独自の知的営為を指す。タクリードは、既存の法学派の権威に盲従することを意味する。近現代の改革運動は概して「タクリードの打破とイジュティハードの門の再開」を掲げた。

ワッハーブ運動

ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ(Muḥammad ibn ʿAbd al-Wahhāb, 1703-1792)は、アラビア半島ナジュド地方で、聖者崇拝・墓廟参詣などの民間信仰を神の唯一性(タウヒード)に反するシルク(多神崇拝)として厳しく排斥し、クルアーンとスンナへの回帰を唱えた。1744年、ナジュドの首長ムハンマド・イブン・サウード(Muḥammad ibn Saʿūd)と同盟を結び、宗教的権威と政治的権力の結合が実現した。この同盟は「ワッハーブ=サウード同盟」として第一次サウード王国(1744-1818)を生み出し、現代のサウジアラビア王国(1932年建国)の宗教的基盤となった。

ワッハーブ運動は、ハンバル学派の厳格な解釈に立脚し、ビドア(bidʿa / 宗教上の逸脱的革新)の排除を重視する。この運動は後のサラフィー主義と親和性を持つが、両者は厳密には異なる系譜に属する。

イスラーム改革主義(サラフィー主義の知的系譜)

19世紀後半、西洋列強の植民地支配と近代化の衝撃に直面したイスラーム世界で、「サラフ(salaf / 初期の先人たち)」の時代のイスラームへの回帰と近代的合理精神の融合を目指す知的運動が興った。

  • ジャマールッディーン・アル=アフガーニー(Jamāl al-Dīn al-Afghānī, 1838/39-1897): 汎イスラーム主義の提唱者。イスラーム世界の統合と西洋帝国主義への抵抗を説き、西洋の科学・制度の選択的摂取を主張した。パリで機関紙『固き絆(al-ʿUrwa al-Wuthqā)』を発行した
  • ムハンマド・アブドゥフ(Muḥammad ʿAbduh, 1849-1905): アル=アフガーニーの弟子。エジプトの大ムフティー(最高法解釈官)に就任し、イジュティハードの再開と近代教育の導入によるイスラームの刷新を推進した
  • ラシード・リダー(Muḥammad Rashīd Riḍā, 1865-1935): アブドゥフの弟子。機関誌『灯台(al-Manār)』を主宰し、師の改革思想を継承しつつ、後期にはワッハーブ運動への共感を強め、サラフィー主義の方向へ接近した。彼の思想はムスリム同胞団に影響を与えた

イスラーム主義(Islamism)

Key Concept: イスラーム主義(Islamism) イスラームの教義を政治秩序・国家制度・社会体制の基盤とすることを目指す政治的イデオロギー。個人の信仰としてのイスラームとは区別され、シャリーアに基づく国家の樹立を志向する点に特徴がある。

20世紀に入ると、ナショナリズムと世俗主義の台頭に対抗する形で、イスラームを包括的な社会・政治体制として構想するイスラーム主義が登場した。

  • ハサン・アル=バンナー(Ḥasan al-Bannā, 1906-1949): 1928年にエジプトでムスリム同胞団(al-Ikhwān al-Muslimūn)を創設した。イスラームを信仰・法・国家・社会の全領域を包含する包括的体制と位置づけ、漸進的な社会改革を通じたイスラーム国家の実現を目指した
  • サイイド・クトゥブ(Sayyid Quṭb, 1906-1966): ムスリム同胞団の理論的指導者。主著『道標(Maʿālim fī al-Ṭarīq)』(1964年)で、現代社会を預言者以前の「無知(ジャーヒリーヤ / jāhiliyya)」の状態にあると断じ、神の主権(ハーキミーヤ / ḥākimiyya)の回復のための前衛的闘争を説いた。1966年にナセル政権により処刑されたが、その思想は後のイスラーム急進主義に深い影響を与えた
  • アブル・アアラー・マウドゥーディー(Abū al-Aʿlā al-Mawdūdī, 1903-1979): 南アジアの思想家。1941年にジャマーアテ・イスラーミー(Jamāʿat-i Islāmī)を創設し、「神の主権」概念を体系的に理論化した。クトゥブのジャーヒリーヤ概念に直接的な影響を与えた。マウドゥーディーが漸進的・上からの変革を志向したのに対し、クトゥブは革命的・下からの変革を主張した点に両者の差異がある

現代イスラーム世界の動態

イラン革命(1979年)とホメイニー

1979年のイラン革命は、パフラヴィー朝のモハンマド・レザー・シャーの親西洋的近代化政策と権威主義体制に対する大衆的反発として生じ、ルーホッラー・ホメイニー(Rūḥollāh Khomeinī, 1902-1989)の指導のもとイスラーム共和国が樹立された。

ホメイニーは十二イマーム派の伝統を革新し、ヴェラーヤテ・ファキーフ(velāyat-e faqīh / 法学者の統治)論を提唱した。これは、隠れイマームの不在の時代において、最高位の法学者(ファキーフ)が政治的・宗教的最高権威として国家を統治すべきであるとする理論であり、イラン・イスラーム共和国憲法の根幹をなす。ホメイニーは最高指導者(ラフバル / rahbar)としてこの地位に就き、三権の上位に位置する絶大な権限を行使した。

イラン革命は、世俗的な近代化路線に代わるイスラーム的な国家モデルの実現として世界的な衝撃を与え、シーア派・スンナ派を問わずイスラーム復興運動を刺激した。

イスラーム復興(Islamic Revival)

20世紀後半、とりわけ1970年代以降、イスラーム世界で「イスラーム復興(al-ṣaḥwa al-islāmiyya)」と呼ばれる現象が顕著になった。世俗的なナショナリズム(ナセル主義やバアス主義)が経済的停滞・政治的腐敗・1967年の第三次中東戦争での敗北によって正統性を喪失する中、イスラームへの回帰が社会的・政治的代替案として広範な支持を集めた。

この復興はヴェール着用の増加、モスクの増設、イスラーム金融の発展、シャリーアの国内法への導入要求など多様な形で表出した。

ジハードの諸概念

Key Concept: ジハード(jihād) アラビア語で「努力・奮闘」を意味する。イスラーム神学においては、信仰のための努力を広く指す概念であり、武力行使のみを意味するものではない。

ジハードの概念は、イスラームの伝統において多層的な意味を持つ。

  • 大ジハード(al-jihād al-akbar): 自己の欲望・悪しき衝動に対する内面的闘争。イブン・タイミーヤ(Ibn Taymiyya)は「不信仰者・偽善者に対するジハードの前に、まず自己と欲望に対するジハードがなければならない」と述べた。ただし、大ジハード・小ジハードの区別を伝えるハディースの真正性については議論がある
  • 小ジハード(al-jihād al-aṣghar): 武力による闘争を含む外面的なジハード。クルアーンは特定の条件下での戦闘を許可しているが、非戦闘員の殺害・樹木の破壊・過剰な暴力を禁じるなどの制約が課されている
  • ジハードの他の形態: 言葉によるジハード(jihād bi-l-lisān / 説得・議論)、財産によるジハード(jihād bi-l-māl / 財の提供)なども認められている

現代において、ジハードの解釈は穏健派と急進派の間で大きく分かれ、政治的文脈における動員概念としても機能している。

現代イスラームの多様性

現代のイスラーム世界は一枚岩ではなく、きわめて多様な知的潮流が併存している。

  • 進歩的イスラーム(Progressive Islam): イジュティハードの積極的行使を主張し、クルアーンの歴史的文脈に即した再解釈を通じて、人権・民主主義・多元主義との両立を追求する立場。オミド・サフィ(Omid Safi)の編著『Progressive Muslims: On Justice, Gender, and Pluralism』(2003年)がこの運動の綱領的著作とされる
  • イスラーム・フェミニズム: クルアーンとハディースの家父長的解釈を批判的に再検討し、イスラームの枠内でのジェンダー平等を主張する知的運動。アミーナ・ワドゥード(Amina Wadud)の『Qur'an and Woman』(1992年)、ファーティマ・メルニッスィー(Fatima Mernissi)の『The Veil and the Male Elite』(1991年)などが代表的著作である。2017年にはインドネシアで初の女性ウラマー会議が開催され、婚姻年齢の引き上げを求めるファトワーが発布された

まとめ

  • ムハンマドの死後、カリフの後継問題をめぐりスンナ派(多数派・合意による選出)とシーア派(アリーの血統による継承)が分裂した
  • 680年のカルバラーの悲劇はシーア派のアイデンティティの中核をなす歴史的事件である
  • シーア派は十二イマーム派・イスマーイール派・ザイド派に分かれ、イマームの系譜・無謬性の有無・政治行動の要否で差異がある
  • ハワーリジュ派・イバード派はスンナ派・シーア派とは異なる第三の潮流を形成した
  • 18世紀のワッハーブ運動から19世紀の改革主義(アル=アフガーニー、アブドゥフ、リダー)、20世紀のイスラーム主義(ムスリム同胞団、クトゥブ、マウドゥーディー)へと、改革と政治化の波が連なった
  • 1979年のイラン革命はシーア派独自の政治理論(ヴェラーヤテ・ファキーフ)を実現し、世界的な衝撃を与えた
  • 現代イスラーム世界ではジハード概念の多様な解釈、進歩的イスラーム、イスラーム・フェミニズムなど多元的な知的潮流が併存している

Module 2-3 全体の振り返り: 本モジュールでは、Section 1でクルアーン・ハディースの文献学的基盤とイスラーム法学の体系を、Section 2でスーフィズムとイスラーム哲学・神学の知的伝統を、Section 3でスンナ派・シーア派の分裂から近現代のイスラーム世界の動態までを扱った。イスラームは単一の教義体系ではなく、法学・神秘主義・哲学・政治思想の諸領域で多様な展開を遂げてきた動態的伝統であることが理解されるべきである。

次のModule 2-4「仏教」への接続: イスラームがセム的一神教の系譜に属し、超越的な人格神と啓示・律法を中心に展開したのに対し、次に扱う仏教は南アジアのヴェーダ的伝統の中から生じ、人格神を前提としない解脱の道として独自の体系を構築した。一神教的世界観との対比を意識しながら仏教の教義構造に進むことで、世界宗教の多様な存在論的前提を比較的に理解することが可能になる。

用語集(Glossary)

用語 英語/アラビア語表記 定義
シーア派 Shīʿa アリーとその子孫のみをウンマの正統な指導者と認める宗派
イマーム imām シーア派における共同体の宗教的・政治的指導者。アリーの子孫から選ばれる
カリフ khalīfa ムハンマドの後継者としてのイスラーム共同体の指導者
フィトナ fitna イスラーム共同体内部の内乱・分裂
アーシューラー ʿĀshūrāʾ ムハッラム月10日。フサインの殉教を追悼するシーア派の重要な宗教行事
ガイバ ghayba 十二イマーム派における隠れイマームの「隠れ」の状態
ハワーリジュ派 Khārijites アリーの仲裁受諾に反発して離脱した初期イスラームの急進派
イバード派 Ibāḍiyya ハワーリジュ派の穏健な分派。オマーンを中心に現存する
ワッハーブ運動 Wahhābism タウヒードの厳格な解釈に基づく18世紀の浄化運動
イスラーム主義 Islamism イスラームを政治秩序・国家制度の基盤とする政治的イデオロギー
ジャーヒリーヤ jāhiliyya 「無知の時代」。クトゥブは現代社会をこの状態にあると規定した
ヴェラーヤテ・ファキーフ velāyat-e faqīh 法学者の統治。ホメイニーが提唱したシーア派の政治理論
ジハード jihād 信仰のための努力・奮闘。内面的闘争から武力行使まで多層的意味を持つ
イジュティハード ijtihād クルアーンとハディースから法的判断を直接導出する独立的法解釈
タクリード taqlīd 既存の法学派の権威への盲従。改革主義はその打破を主張した
タクフィール takfīr 他のムスリムを不信仰者と宣告すること

確認問題

Q1: スンナ派とシーア派の分裂の直接的原因は何か。両者の指導者論の根本的な相違点を説明せよ。 A1: 分裂の直接的原因は、ムハンマドの死後のカリフ(後継者)選出問題である。スンナ派は共同体の協議(シューラー)と合意(イジュマー)による選出を正統とし、カリフは血統の神聖性を持たない政治的指導者とする。一方、シーア派はムハンマドの従弟・娘婿アリーとその子孫のみが正統な指導者(イマーム)であるとし、イマームは神の導きを受けた無謬の存在であるとする。すなわち、指導者の正統性の根拠が「共同体の合意」か「血統と神的指名」かという点に根本的相違がある。

Q2: カルバラーの悲劇(680年)がシーア派のアイデンティティ形成に果たした役割を論じよ。 A2: カルバラーにおけるフサインの殉教は、ウマイヤ朝の不正な権力に対する抵抗と犠牲の象徴としてシーア派の集合的記憶の中核を形成した。毎年のアーシューラーの追悼儀礼(タアズィヤ)を通じてフサインの受難が追体験され、「不正に対する抵抗」という倫理的規範がシーア派の宗教的・政治的アイデンティティの根幹として再生産され続けている。この物語は、シーア派が少数派として歴史的に経験してきた被抑圧の感覚を宗教的意味づけに転換する機能を果たした。

Q3: 十二イマーム派・イスマーイール派・ザイド派の三分派について、それぞれの分岐点とイマーム論の特徴を比較せよ。 A3: 十二イマーム派は第6代イマーム・ジャアファルの次男ムーサーの系統を継承し、12人のイマーム全員に無謬性を認め、第12代イマームの「隠れ」と再臨を信じる。イスマーイール派はジャアファルの長男イスマーイールの系統を正統とし、ファーティマ朝を建てた歴史を持ち、現在はアガ・ハーンが精神的指導者である。ザイド派は第4代の弟ザイドの系統に従い、イマームの無謬性を認めず、正統なイマームたるためには不正に対する積極的な蜂起が必要であるとする。すなわち、分岐はイマームの系譜の選択に起因し、イマームの超自然的性格の程度に差異がある。

Q4: 18〜19世紀のイスラーム改革運動(ワッハーブ運動とアル=アフガーニー・アブドゥフ・リダーの改革主義)の共通点と相違点を述べよ。 A4: 共通点は、クルアーンとスンナへの原点回帰、タクリード(既存法学派への盲従)の批判、イジュティハードの再開の主張である。相違点として、ワッハーブ運動はハンバル学派の厳格主義に立脚し聖者崇拝など民間信仰の排除に重点を置いた内向的浄化運動であったのに対し、アル=アフガーニー以降の改革主義は西洋の科学・制度の選択的受容と汎イスラーム主義的な政治的統合を志向した、対外的危機への応答という性格が強い。リダーは後期にワッハーブ運動への共感を深め、両系譜の接合点となった。

Q5: ホメイニーのヴェラーヤテ・ファキーフ論の内容と、それが十二イマーム派の伝統にとって持つ革新性を説明せよ。 A5: ヴェラーヤテ・ファキーフは、隠れイマームの不在の時代に最高位の法学者(ファキーフ)が政治的・宗教的最高権威として国家を統治すべきであるとする理論である。伝統的な十二イマーム派ではウラマーの役割は法的見解の発出や宗教教育に限定され、直接的な政治権力の行使は隠れイマームの再臨まで留保されるとする静穏主義的傾向が支配的であった。ホメイニーはこれを革新し、法学者に直接的な政治権力を付与することで、宗教権威と国家権力を制度的に一体化させた。この理論はイラン・イスラーム共和国憲法に組み込まれ、最高指導者が三権の上位に位置する独自の統治構造を生み出した。