Module 2-4 - Section 2: 大乗仏教の思想と展開¶
セクション情報¶
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| モジュール | Module 2-4: 仏教 |
| 前提セクション | Section 1 |
| 想定学習時間 | 5時間 |
導入¶
Section 1 で概観した初期仏教・部派仏教は、出家修行者が自己の煩悩を断じて阿羅漢果(arhat)を得ることを最終目標とした。これに対し、紀元前1世紀頃からインドで台頭した大乗仏教(Mahāyāna)は、一切衆生の救済を志す菩薩(bodhisattva)の理想を中核に据え、仏教思想を根本的に再編した運動である。大乗仏教はその後、中観・唯識・如来蔵・密教という複数の思想体系を生み出し、東アジア・チベット・東南アジアへと伝播して、仏教史全体の方向を決定づけた。本セクションでは、大乗仏教の成立背景から主要思想体系の展開までを体系的に扱う。
大乗仏教の成立¶
大乗運動の起源と背景¶
大乗仏教の起源については諸説あるが、紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけてインド北西部を中心に成立したとする見方が通説である。その背景には以下の要因が指摘される。
第一に、部派仏教の教学的精緻化への反動がある。説一切有部(Sarvāstivāda)をはじめとする部派は、アビダルマ(Abhidharma)による存在論的分析を極度に発展させたが、その専門性は在家信者や一般修行者を教団の中心的実践から遠ざける傾向を持った。大乗運動の担い手たちは、こうした教学を「自利」に偏するものとして批判し、自らの立場を「大きな乗り物」(mahāyāna)と称して、部派の立場を「小さな乗り物」(hīnayāna)と呼んだ。ただし、「小乗」という呼称は大乗側からの蔑称であり、現代の学術用語としては適切でない。
第二に、仏塔(stūpa)信仰と在家者の役割拡大がある。釈尊の遺骨を納めた仏塔への礼拝は在家信者の重要な宗教実践であり、この信仰圏から大乗的な発想が生まれた可能性が指摘されている。ただし、大乗仏教が純粋に在家者の運動であったとする見方は近年修正されており、部派教団内部の出家者が大乗経典の編纂に関与していたことが明らかになっている。
第三に、ガンダーラ地域における異文化接触がある。クシャーナ朝(1〜3世紀)の支配下で、ギリシア・ペルシア・インドの文化が交差する環境が新しい宗教思想の形成を促した。カニシカ王による仏教保護は大乗仏教の発展に寄与した。
Key Concept: 大乗仏教(Mahāyāna / Great Vehicle) 紀元前後にインドで成立した仏教の革新的潮流。一切衆生の救済を目指す菩薩道を中核に据え、空・唯識・如来蔵など多様な思想体系を生み出した。部派仏教(声聞乗)に対して自らを「大きな乗り物」と位置づけた。
菩薩の理想¶
大乗仏教の核心は菩薩(bodhisattva)の理想にある。部派仏教においても菩薩の概念は存在したが、それは釈尊の前世(ジャータカ物語)に限定された特殊な存在であった。大乗仏教はこれを普遍化し、すべての修行者が菩薩として成仏を目指すべきであるとした。
菩薩は六波羅蜜(ṣaṭ-pāramitā)を実践する。布施(dāna)・持戒(śīla)・忍辱(kṣānti)・精進(vīrya)・禅定(dhyāna)・般若(prajñā)の六つの完成(波羅蜜)であり、これらを無数の生涯にわたって実践することで仏果に至る。特に般若波羅蜜は、空の智慧として他の五波羅蜜を導く最上位の徳目とされる。
Key Concept: 菩薩(bodhisattva) 悟り(bodhi)を求める存在(sattva)。大乗仏教では、自らの悟りのみならず一切衆生の救済を誓願し、六波羅蜜を修行して仏果を目指す修行者を指す。阿羅漢を目指す声聞・縁覚の道と対比される。
声聞・縁覚との対比¶
大乗仏教は、修行者を三種に分類する「三乗」の枠組みを提示した。声聞(śrāvaka)は仏の教えを聞いて阿羅漢果を得る者、縁覚(pratyekabuddha)は独力で十二因縁を観じて悟りを得る者、菩薩は一切衆生の救済を志して仏果を目指す者である。大乗仏教は、声聞・縁覚の悟りを究極的なものとは認めず、菩薩道のみが真の成仏に至る道であるとした。後に『法華経』は「一仏乗」の思想を説き、三乗はすべて一つの仏乗に帰するとして三乗の区別を超克しようとした。
般若経と空の思想¶
般若波羅蜜多経典群¶
般若経典群(Prajñāpāramitā sūtra)は大乗仏教の最初期の経典群であり、紀元前1世紀頃から紀元後数世紀にかけて段階的に成立した。「般若波羅蜜多」とは「智慧の完成」を意味し、空(śūnyatā)の智慧を説く。
代表的な経典として以下がある。
- 『八千頌般若経』(Aṣṭasāhasrikā Prajñāpāramitā): 般若経典群の最古層に属し、空の思想の原型を示す。
- 『金剛般若経』(Vajracchedikā Prajñāpāramitā): 「金剛のように堅固な智慧で煩悩を断ち切る」という意味を持ち、一切の執着を離れることを説く。
- 『般若心経』(Prajñāpāramitāhṛdaya): 「色即是空、空即是色」の一節で知られ、膨大な般若経典群のエッセンスを凝縮した短編経典である。
ナーガールジュナと中観派¶
ナーガールジュナ(Nāgārjuna / 龍樹、2〜3世紀頃)は、般若経典の空の思想を哲学的に体系化した思想家であり、中観派(Mādhyamaka)の開祖とされる。主著『中論』(Mūlamadhyamakakārikā)は、大乗仏教哲学の最も重要な論書の一つである。
ナーガールジュナの中心的論証は、一切の事物が自性(svabhāva)を欠くことの論理的証明にある。自性とは「それ自体で独立に存在する固有の本質」を意味し、ナーガールジュナはこれを縁起(pratītyasamutpāda)の教説と矛盾するものとして退けた。すなわち、すべての事物は他に依存して(縁って)生起するのであるから、何ものも自性を持たない。自性を持たないことが「空」(śūnya)であり、空であることと縁起することは論理的に等価である。『中論』第24章第18偈に「縁起するものを我々は空であると説く」(yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe)とある通りである。
重要な点は、空は虚無(nihilism)ではないことである。ナーガールジュナは空を「中道」(madhyamā pratipad)として位置づけ、存在の実体視(常見)と虚無的否定(断見)の両極端を退ける。事物が空であるからこそ因果関係や変化が可能であり、空でなければ(自性を持てば)変化も生成も不可能となる。
Key Concept: 空(śūnyatā / emptiness) 一切の事物が自性(svabhāva, 固有の本質)を欠いていること。ナーガールジュナによれば、空は虚無ではなく縁起と等価であり、存在論的実体視と虚無主義の両極端を離れた「中道」を意味する。
二諦説¶
ナーガールジュナは二諦説(two truths doctrine)を展開し、真理を世俗諦(saṃvṛti-satya)と勝義諦(paramārtha-satya)の二つの次元で捉えた。世俗諦とは日常的・慣習的な真理の次元であり、因果関係や言語的表現が有効に機能する領域である。勝義諦とは究極的な真理の次元であり、一切の事物が空であるという洞察に対応する。
二諦は相互に排除し合うものではなく、不可分の関係にある。世俗諦に依拠しなければ勝義諦を説くことはできず、勝義諦を理解しなければ涅槃に到達できない。空の教説そのものも言語的表現である以上、世俗諦の次元に属するが、それが指し示す内容は勝義諦に関わる。この二諦の構造は、後の仏教哲学において認識論・存在論の基本枠組みとして機能し続けた。
唯識思想¶
瑜伽行唯識学派の成立¶
唯識思想(vijñaptimātratā / consciousness-only)は、4〜5世紀のインドにおいて、マイトレーヤ(Maitreya / 弥勒)・アサンガ(Asaṅga / 無著、4世紀頃)・ヴァスバンドゥ(Vasubandhu / 世親、4〜5世紀頃)らによって体系化された。彼らが属する学派を瑜伽行唯識学派(Yogācāra-Vijñānavāda)と呼ぶ。
中観派が一切の事物の空性を論じたのに対し、唯識派は「識」(vijñāna, 認識)の構造分析を通じて空の意味を明らかにしようとした。外界の事物はそれ自体として独立に存在するのではなく、識の変現(pariṇāma)として現れたものに過ぎない。これが「唯識」(ただ識のみ)の根本命題である。
Key Concept: 唯識(vijñaptimātratā / consciousness-only) 我々が経験する外界の対象は、識(認識作用)の変現として現れたものであり、識から独立した外界の実在を認めない立場。アサンガ・ヴァスバンドゥらが体系化し、認識の深層構造を分析した。
八識説¶
唯識思想の認識論的核心は八識説にある。
| 識 | サンスクリット | 機能 |
|---|---|---|
| 眼識 | cakṣur-vijñāna | 視覚認識 |
| 耳識 | śrotra-vijñāna | 聴覚認識 |
| 鼻識 | ghrāṇa-vijñāna | 嗅覚認識 |
| 舌識 | jihvā-vijñāna | 味覚認識 |
| 身識 | kāya-vijñāna | 触覚認識 |
| 意識 | mano-vijñāna | 概念的思考・判断 |
| 末那識 | manas | 自我意識の根源 |
| 阿頼耶識 | ālaya-vijñāna | 一切の種子を蔵する根本識 |
眼識から意識までの六識は、部派仏教のアビダルマでも認められていた表層的な認識作用である。唯識思想はこれに二つの深層識を加えた。
末那識(manas)は、阿頼耶識を対象として常に「自我」と執着する識であり、我執(ātma-grāha)の根源である。覚醒時・睡眠時を問わず絶えず活動し、自我意識の恒常的基盤を形成する。
阿頼耶識(ālaya-vijñāna)は「蔵識」とも訳され、一切の経験・行為の影響が「種子」(bīja)として蓄蔵される根本的な識である。この種子が条件に応じて現行(顕在化)し、七転識(眼識から末那識まで)および外界の表象を生み出す。七転識の活動は再び阿頼耶識に種子として薫習(vāsanā)される。この相互因果関係を「種子生現行、現行薫種子」と定式化する。
三性説¶
唯識思想は存在のあり方を三つの様態(trisvabhāva / 三性)に分類する。
- 遍計所執性(parikalpita-svabhāva): 凡夫が主観と客観、自我と対象を実体として分別・執着する虚妄のあり方。蛇と見誤った縄の喩えで説明される。
- 依他起性(paratantra-svabhāva): 諸条件に依存して(縁起的に)生じている事物の現実のあり方。縄そのものの存在に相当する。
- 円成実性(pariniṣpanna-svabhāva): 依他起性において遍計所執性が除去された真実のあり方。縄が蛇でないと正しく認識された状態に相当する。
修行の目標は、遍計所執性(虚妄分別)を転じて円成実性(真如)を証得すること、すなわち「転識得智」(識を転じて智を得る)にある。
如来蔵思想¶
如来蔵の概念¶
如来蔵(tathāgatagarbha)思想は、3〜4世紀頃のインドで成立した大乗仏教の一潮流であり、「一切衆生は如来(仏)を胎内に蔵している」という命題を核心とする。「如来蔵」の語は、如来(tathāgata)を内に蔵する(garbha = 胎、蔵)ものという意味であり、すべての有情が仏となる可能性(仏性, buddhadhātu)を本来的に具えていることを主張する。
Key Concept: 如来蔵(tathāgatagarbha / buddha-nature) 一切衆生の内に本来的に存在する仏となる可能性・素質。煩悩に覆われているが本質的に清浄であり、修行によって煩悩が除去されれば仏の智慧が顕現するとされる。
主要経典¶
如来蔵思想を説く代表的な経典として以下がある。
- 『如来蔵経』(Tathāgatagarbha Sūtra): 3世紀頃成立。九つの喩え(萎れた蓮華の中の仏、蜂蜜を覆う蜂群、殻に包まれた穀物など)によって、煩悩に覆われた衆生の内に如来が存在することを説く。
- 『勝鬘経』(Śrīmālādevīsiṃhanāda Sūtra): 勝鬘夫人が説法する形式をとり、如来蔵を「自性清浄心」(prakṛti-prabhāsvara-citta)と同一視して、煩悩は客塵(āgantuka-kleśa, 外来的な汚れ)であるとする。
- 『大乗涅槃経』(Mahāparinirvāṇa Sūtra): 「一切衆生悉有仏性」(すべての衆生に仏性がある)という命題を明確に宣言し、東アジアの仏教思想に決定的な影響を与えた。
中観・唯識との関係¶
如来蔵思想は中観・唯識の両学派との間に緊張関係を持つ。中観派の立場からは、如来蔵を実体的に解釈すれば空の教説に抵触する恐れがある。唯識派は阿頼耶識と如来蔵を関連づける試みを行い、『楞伽経』(Laṅkāvatāra Sūtra)は如来蔵を阿頼耶識と同定する議論を展開した。
如来蔵思想に対しては、仏教の根本教義である無我(anātman)との矛盾が批判的に指摘されてきた。如来蔵・仏性を恒常不変の実体と解すればそれはアートマン(ātman, 我)の肯定に等しく、仏教の基本原理に反するからである。これに対して如来蔵思想の擁護者は、如来蔵は衆生を仏道に導くための方便(upāya)であり、実体論的な意味でのアートマンとは異なると応答した。この問題は現代の仏教学においても議論が続いている。
Key Concept: 如来蔵(tathāgatagarbha / buddha-nature)(補足) 如来蔵と無我の関係は仏教思想史上の重要な論争点である。如来蔵を実体的本質と解するか、方便的表現と解するかによって、仏教の自己理解が大きく変わる。
密教¶
インド後期密教の成立¶
密教(tantric Buddhism)は、7世紀頃から12世紀のインド仏教滅亡期にかけて展開した大乗仏教の最終段階に位置する思想・実践体系である。密教の修行者は自らの立場を金剛乗(Vajrayāna)と称した。「金剛」(vajra)は堅固にして不壊の智慧を象徴する。
Key Concept: 密教(Vajrayāna / tantric Buddhism) 大乗仏教の思想基盤の上に、儀礼的実践(マンダラ・マントラ・ムドラー)と師弟間の秘密の伝授(灌頂)を体系化した仏教の一形態。金剛乗とも呼ばれ、即身成仏を説く。
密教の発展は一般に以下の段階に区分される。
- 初期密教(2〜6世紀頃): 陀羅尼(dhāraṇī)やマントラ(mantra)の呪術的使用が大乗経典に取り込まれた段階。独立した思想体系としてはまだ未成熟。
- 中期密教(7〜8世紀頃): 『大日経』(Mahāvairocana Sūtra)、『金剛頂経』(Sarvatathāgata-tattvasaṃgraha)が成立し、大日如来(Mahāvairocana)を中心とする体系的な密教が形成された。マンダラ・灌頂(abhiṣeka)・三密(身口意の修行)が組織化された。
- 後期密教(8〜12世紀頃): 『秘密集会タントラ』(Guhyasamāja Tantra)、『ヘーヴァジュラ・タントラ』(Hevajra Tantra)、『カーラチャクラ・タントラ』(Kālacakra Tantra)等が成立。性的象徴・忿怒尊の導入など、より過激な儀礼的要素が加わった。
マンダラとマントラ¶
マンダラ(maṇḍala)は、宇宙の構造と仏・菩薩の配置を図式的に表現したものであり、密教の世界観を視覚的に凝縮した象徴体系である。修行者はマンダラを観想の対象とし、自己をマンダラの中心に位置する本尊と一体化させる瞑想を行う。
マントラ(mantra / 真言)は、特定の音声・音節の連なりであり、仏の真実の言葉とされる。代表的なものに「オーム・マニ・パドメー・フーム」(oṃ maṇi padme hūṃ)がある。マントラの反復唱誦は密教修行の基本的実践であり、音声そのものに超越的な力が内在すると考えられた。
ムドラー(mudrā / 印)は手指の特定の形態であり、身体を通じて仏の活動を表現する。マンダラ(仏の身)、マントラ(仏の語)、ムドラー(仏の意)の三密を統合的に修行することが密教実践の核心である。
即身成仏の思想¶
密教の最も特徴的な教義は即身成仏、すなわちこの身このままで仏果を実現できるという主張である。大乗仏教の一般的な教義では、成仏には三大阿僧祇劫(無限に長い時間)にわたる菩薩行の積み重ねが必要とされた。密教はこの長大な修行期間を、三密の修行と師(guru)から弟子への灌頂(abhiṣeka)による直接的な智慧の伝授によって短縮し、現世における成仏を可能とした。
この思想の理論的根拠は、衆生と仏の本質的な不二にある。如来蔵思想が説いた仏性の内在と、中観の空思想が説いた一切法の無自性とを前提として、迷いの凡夫と悟りの仏との区別は究極的には空であり、適切な方法によってその不二を直証できるとされた。
まとめ¶
- 大乗仏教は紀元前後に部派仏教への批判と在家者の信仰拡大を背景として成立し、菩薩の理想と六波羅蜜の実践を核心に据えた
- ナーガールジュナの中観派は、一切の自性を否定する空の哲学を体系化し、二諦説によって世俗的真理と究極的真理の関係を論じた
- 唯識思想は八識説(特に阿頼耶識・末那識)と三性説によって認識の深層構造を分析し、外界の実在を否定する独自の認識論を展開した
- 如来蔵思想は一切衆生に仏性が内在するという命題を提示したが、無我の教説との整合性については現在も議論が続いている
- 密教は大乗仏教の思想的基盤の上にマンダラ・マントラ・灌頂等の儀礼体系を構築し、即身成仏の可能性を主張した
- これらの思想体系は相互に影響し合いながら発展し、Section 3 以降で扱う東アジア・チベットの仏教へと伝播していく
graph TD
A["初期大乗仏教<br>(紀元前1世紀〜)"] --> B["般若経典群<br>空の思想の原型"]
A --> C["菩薩思想<br>六波羅蜜"]
B --> D["中観派<br>ナーガールジュナ<br>(2〜3世紀)"]
D --> E["空 śūnyatā<br>二諦説"]
A --> F["瑜伽行唯識学派<br>アサンガ・ヴァスバンドゥ<br>(4〜5世紀)"]
F --> G["唯識思想<br>八識説・三性説"]
A --> H["如来蔵思想<br>(3〜4世紀)"]
H --> I["仏性論<br>一切衆生悉有仏性"]
D --> J["密教 / 金剛乗<br>(7世紀〜)"]
G --> J
H --> J
J --> K["即身成仏<br>マンダラ・マントラ・灌頂"]
用語集(Glossary)¶
| 用語 | 英語/サンスクリット表記 | 定義 |
|---|---|---|
| 大乗仏教 | Mahāyāna | 一切衆生の救済を志す菩薩道を核心とする仏教の潮流 |
| 菩薩 | bodhisattva | 悟りを求めつつ一切衆生の救済を誓願する修行者 |
| 六波羅蜜 | ṣaṭ-pāramitā | 布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若の六つの完成 |
| 空 | śūnyatā | 一切の事物が自性(固有の本質)を欠いていること |
| 自性 | svabhāva | それ自体で独立に存在する固有の本質。中観派はこれを否定する |
| 二諦説 | saṃvṛti-satya / paramārtha-satya | 世俗的真理と究極的真理の二つの次元 |
| 中観派 | Mādhyamaka | ナーガールジュナを祖とし、空の哲学を体系化した学派 |
| 唯識 | vijñaptimātratā | 外界の対象は識の変現であるとする認識論的立場 |
| 阿頼耶識 | ālaya-vijñāna | 一切の種子を蓄蔵する根本識。蔵識とも訳す |
| 末那識 | manas | 阿頼耶識を対象として自我に執着する深層識 |
| 三性説 | trisvabhāva | 遍計所執性・依他起性・円成実性の三つの存在様態 |
| 如来蔵 | tathāgatagarbha | 一切衆生に内在する仏となる可能性・素質 |
| 仏性 | buddhadhātu | 衆生が本来具えている仏となる本性 |
| 密教 | Vajrayāna / tantric Buddhism | マンダラ・マントラ等の儀礼実践と即身成仏を説く仏教 |
| マンダラ | maṇḍala | 仏・菩薩の配置と宇宙構造を図式化した象徴体系 |
| マントラ | mantra | 仏の真実の言葉としての音声・音節の連なり |
| 灌頂 | abhiṣeka | 師から弟子への密教的入門儀礼 |
| 即身成仏 | — | この身このままで仏果を実現できるという密教の教義 |
確認問題¶
Q1: 大乗仏教における菩薩の理想は、部派仏教の阿羅漢の理想とどのように異なるか。六波羅蜜の実践内容にも触れて説明せよ。 A1: 部派仏教の阿羅漢は自己の煩悩を断じて解脱を得ることを目指すのに対し、大乗仏教の菩薩は自己の悟りのみならず一切衆生の救済を誓願する。菩薩は布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若の六波羅蜜を無数の生涯にわたって実践し、自利と利他を不可分のものとして修行する。特に般若波羅蜜(空の智慧)が他の五波羅蜜を導く最上位の徳目とされる点に、大乗仏教の思想的特質が現れている。
Q2: ナーガールジュナの空(śūnyatā)の概念は虚無主義とどのように区別されるか。縁起との関係を踏まえて論じよ。 A2: ナーガールジュナの空は、一切の事物が自性(svabhāva)を欠くことを意味し、事物の存在そのものを否定する虚無主義とは本質的に異なる。空は縁起と論理的に等価であり、事物が自性を持たないからこそ他に依存して生起(縁起)することが可能となる。逆に自性を持つならば変化も生成も不可能となる。空は存在の実体視(常見)と虚無的否定(断見)の両極端を退ける「中道」として位置づけられる。
Q3: 唯識思想における阿頼耶識と末那識の関係を説明し、八識説の中でそれらがどのような役割を果たすか論じよ。 A3: 阿頼耶識は一切の経験・行為の影響を「種子」として蓄蔵する根本識であり、この種子が現行して七転識および外界の表象を生み出す。末那識は阿頼耶識を対象として常に「自我」と執着する識であり、我執の根源として機能する。両者は表層の六識(眼識〜意識)の基盤をなす深層識であり、阿頼耶識が存在の根本的基盤、末那識が自我意識の恒常的源泉という相補的な役割を担う。この深層構造の分析が唯識思想の認識論的独自性を構成する。
Q4: 如来蔵思想はなぜ仏教内部から批判を受けたのか。無我(anātman)の教説との関係に着目して説明せよ。 A4: 如来蔵思想は「一切衆生に仏性が内在する」と主張するが、如来蔵・仏性を恒常不変の実体と解すれば、それはアートマン(我)の肯定に等しく、仏教の根本教義である無我(anātman)に抵触する。中観派の立場からは実体的解釈が空の教説と矛盾するとされ、批判的仏教学(袴谷憲昭・松本史朗ら)はこの点を根拠に如来蔵思想を非仏教的とさえ論じた。擁護者側は、如来蔵を衆生を導く方便的表現と解することで無我との両立を図ったが、この問題は現在も学術的議論の対象である。
Q5: 密教における「即身成仏」の思想的根拠を、大乗仏教の他の思想体系(空・如来蔵)との関連から説明せよ。 A5: 即身成仏の理論的根拠は、衆生と仏の本質的不二にある。中観の空思想は凡夫と仏の区別が究極的には空であることを示し、如来蔵思想は衆生に仏性が本来的に内在することを説く。密教はこの二つの前提の上に、三密(身口意)の修行と師からの灌頂による直接的な智慧の伝授を通じて、無限の時間を要するとされた成仏の過程を現世において実現できると主張した。大乗仏教一般が三大阿僧祇劫の修行を想定したのに対し、密教は適切な方法と師の導きによってその時間的制約を超克する道を提示した。