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Module 2-4 - Section 3: 東アジアの仏教:中国・日本

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 2-4: 仏教
前提セクション Section 1
想定学習時間 5時間

導入

仏教はインドで成立した後、シルクロードを経由して中国に伝わり、さらに朝鮮半島を経て日本に到達した。その過程で仏教は、各地の既存の思想・文化・社会制度と深く交渉しながら独自の展開を遂げた。中国では道教・儒教との対話のなかから天台・華厳・禅・浄土といった独自の宗派が形成され、日本ではそれらを受容しつつ、奈良・平安・鎌倉の各時代に固有の仏教文化を生み出した。本セクションでは、中国仏教の漢訳事業と中国化の過程、主要宗派の教理的特質を概観した上で、日本仏教の通史を奈良から近代まで跡づける。


中国仏教の成立:漢訳事業と中国化

仏典の漢訳

仏教が中国で受容されるためには、サンスクリット語やパーリ語で記された経典を漢語に翻訳する作業が不可欠であった。この翻訳事業において特筆すべき二人の訳経僧が鳩摩羅什と玄奘である。

Key Concept: 鳩摩羅什(Kumārajīva, くまらじゅう) 亀茲国出身の西域僧(344–413)。後秦の時代に長安で約300巻の仏典を漢訳した。『法華経』『阿弥陀経』『維摩経』のほか、龍樹(Nāgārjuna)の『中論』など中観派の論書も翻訳し、中国仏教の思想的基盤を形成した。その訳文は意訳を基調とし、漢語として自然で美しい文体を持つことで知られる。

玄奘(Xuanzang, 602–664)は唐代の訳経僧であり、629年に陸路でインドに渡り、ナーランダ僧院で学んだ後、645年に経典657部を持ち帰った。玄奘の翻訳は原典に忠実な「新訳」と呼ばれ、鳩摩羅什以前の翻訳を「古訳」、鳩摩羅什から玄奘までを「旧訳」と区分する。玄奘は帰国後、法相宗(唯識学派)の基礎を中国に確立した。

格義仏教

Key Concept: 格義仏教(geyi Buddhism, かくぎぶっきょう) 3〜4世紀の中国において、道教や老荘思想の概念を媒介として仏教教理を理解・説明しようとした方法。たとえば仏教の「空」(śūnyatā)を老子の「無」に対応させるなどの類比的解釈が行われた。仏教の独自性が十分に理解されないまま在来思想に同化される問題を含んでいたが、仏教受容の初期段階における文化的翻訳として不可避の過程でもあった。

格義仏教の時代は、鳩摩羅什が正確な翻訳と教理解説を提供し、中国人僧侶のなかから高僧が輩出されるようになったことで終焉を迎える。これ以降、仏教は中国の知的伝統と対等に対話しながら独自の宗派を形成していく。


中国仏教の主要宗派

天台宗(Tiantai)

天台宗は、隋代の智顗(Zhiyi, 538–597)を実質的な宗祖とする。智顗は天台山に拠って、釈迦の教説全体を体系的に整理する「教相判釈」(教判)を行った。

智顗の教判は「五時八教」と呼ばれる。「五時」とは釈迦が説法した時期を五段階に区分するもので、華厳時・鹿苑時・方等時・般若時・法華涅槃時の五つである。「八教」は教えの形式(化儀の四教:頓・漸・秘密・不定)と内容(化法の四教:蔵・通・別・円)に分類される。この体系において『法華経』は最高の教えとして位置づけられた。

Key Concept: 一念三千(ichinen sanzen, いちねんさんぜん) 智顗の中心教理。衆生の一瞬の心(一念)に三千の世界(十法界×十如是×三世間)がすべて具わっているとする。これは現象世界と悟りの世界が別々のものではなく、凡夫の心の中にすでに仏の世界が含まれていることを意味する。のちの日本天台宗における本覚思想の理論的基盤ともなった。

華厳宗(Huayan)

華厳宗は『華厳経』(Avataṃsaka-sūtra)を所依とする宗派であり、杜順(557–640)を初祖、智儼(602–668)を第二祖、法蔵(Fazang, 643–712)を第三祖とする。法蔵は華厳教学の体系的確立者であり、その思想は「事事無礙法界」の概念に集約される。

華厳宗の世界観は「四法界」として整理される。事法界(個々の現象の世界)、理法界(普遍的真理の世界)、理事無礙法界(真理と現象が相互に妨げない世界)、そして事事無礙法界(個々の現象同士が相互に妨げなく浸透し合う世界)の四つである。最高位に置かれる事事無礙法界においては、一切の存在が相互に含み合い(相即)、相互に入り込む(相入)関係にある。法蔵はこれを「金獅子章」の比喩によって説明した。金(理)と獅子の形(事)は分離不可能であり、獅子の目・耳・毛の一つ一つに金の全体が含まれるように、個々の現象の中に宇宙全体が映現するとした。

禅宗(Chan)

Key Concept: 禅(Chan / Zen) 坐禅を中心的修行とし、経典の文字による伝達ではなく、師から弟子への直接的な心の伝達(以心伝心)によって悟りを伝えるとする宗派。「不立文字」「教外別伝」「直指人心」「見性成仏」の四句で特徴づけられる。

禅宗の伝統では、6世紀初頭にインドから中国に渡来した達磨(Bodhidharma)を初祖とする。達磨は洛陽郊外の少林寺で壁に向かって坐禅を続けたとされ(壁観)、「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」を旨とした。

達磨から五祖弘忍(Hongren)まで法が相承された後、禅宗は南北二派に分裂する。弘忍の高弟である神秀(Shenxiu, 606–706)は、悟りは段階的修行によって漸次的に得られるとする「漸悟」を説き、北方で教化したため「北宗禅」と呼ばれた。一方、六祖慧能(Huineng, 638–713)は、悟りは瞬時に開かれるものであるとする「頓悟」を説き、南方に広まったため「南宗禅」と呼ばれた。慧能の弟子・荷沢神会(Heze Shenhui)が神秀の系統を「北宗」と批判したことで対立が顕在化し、最終的に南宗が北宗を圧倒した。

慧能の系統からは、南嶽懐譲と青原行思の二大弟子を経て、やがて臨済宗・曹洞宗・雲門宗・潙仰宗・法眼宗の「五家」が成立し、臨済宗がさらに楊岐派・黄龍派に分かれて「五家七宗」と総称される禅宗の多様な展開が生じた。臨済宗は公案(kōan)を用いた問答によって弟子の悟りを促す方法を重視し、曹洞宗は黙照禅(只管打坐)を基本とした。

浄土教

中国浄土教は、阿弥陀仏(Amitābha)の西方極楽浄土への往生を目指す信仰であり、曇鸞(Tanluan)・道綽(Daochuo)・善導(Shandao, 613–681)の系譜を経て確立された。

善導は浄土教史上の画期的人物である。それまで「念仏」とは仏の姿を心に観想する「観想念仏」を意味していたが、善導は阿弥陀仏の名を口に称える「称名念仏」こそが正行であると位置づけた。善導はまた、阿弥陀仏の本願力(他力)による救済を強調し、自力による修行では凡夫の往生は困難であるとした。この他力思想は、後に法然・親鸞の日本浄土教に決定的な影響を与えた。


日本仏教の展開

仏教伝来と奈良仏教

仏教は6世紀半ば(538年または552年)に百済から日本に公式に伝来した。奈良時代に入ると、中国から渡来した仏教の諸学派が「南都六宗」として整備された。三論宗・法相宗・華厳宗・律宗・成実宗・倶舎宗の六つである。ただしこれらは近代的な意味での独立した「宗派」ではなく、仏教の諸分野を専門的に学ぶ「学派」的な性格が強かった。国家が僧尼を管理し、鎮護国家のための官僧制度の下で運営されていた。

平安仏教:最澄と空海

桓武天皇による平安遷都(794年)の一因は、奈良仏教が政治に過度に介入したことへの対抗にあった。新たな仏教として保護されたのが、最澄(Saichō, 767–822)の天台宗と空海(Kūkai, 774–835)の真言宗である。

最澄は804年に入唐し、天台教学・密教・禅・戒律を学んで帰国、比叡山延暦寺を拠点に天台宗を開いた。最澄は「一切衆生悉有仏性」を説き、南都六宗との激しい論争を展開した。比叡山はのちの鎌倉新仏教の祖師たちを輩出する「日本仏教の母山」となる。

空海は同じく804年に入唐し、青龍寺の恵果から密教の正統な伝法を受けて帰国した。高野山金剛峯寺と京都の教王護国寺(東寺)を拠点に真言宗を確立した。空海の密教は「即身成仏」(この身のままで仏となる)を核心教理とし、曼荼羅・真言・印契による三密加持の実践体系を持つ。空海は社会事業にも積極的で、治水事業や綜芸種智院(庶民のための教育機関)の創設を行った。

日本天台宗ではその後、密教を取り入れた「台密」が発展し、平安中期以降には「本覚思想」(hongaku shisō)が展開される。

Key Concept: 本覚思想(hongaku shisō, ほんがくしそう / original enlightenment) 一切衆生はもともと悟っている(本来覚っている)という思想。迷いと悟り、煩悩と菩提、穢土と浄土を「即」の論理で結びつけ、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」「草木国土悉皆成仏」などの命題を導く。修行の必要性を相対化する傾向を持ち、鎌倉新仏教の思想的背景として重要な位置を占めるが、修行軽視に陥る危険性も指摘されてきた。

鎌倉仏教

平安末期から鎌倉時代にかけて、末法思想の浸透、武士の台頭、天災・飢饉・戦乱の頻発を背景に、民衆の救済を正面から問う新仏教運動が興った。鎌倉新仏教の祖師たちは、いずれも比叡山で学んだ経歴を持ち、旧仏教の複雑な学問・戒律を前提としない、一つの実践に集中する「選択」の論理を共有していた。

法然(Hōnen, 1133–1212)と浄土宗

法然は善導の浄土教を継承し、阿弥陀仏の名号を称える称名念仏(専修念仏)のみが末法の凡夫に開かれた唯一の道であると説いた。主著『選択本願念仏集』において、阿弥陀仏の第十八願(念仏往生の願)を「本願中の王」と位置づけ、念仏以外の諸行を「雑行」として退けた。この「選択」の立場は旧仏教から激しい弾圧を受けた。

親鸞(Shinran, 1173–1263)と浄土真宗

Key Concept: 他力本願(tariki hongan, たりきほんがん) 阿弥陀仏の本願の力(他力)によって衆生が救済されるとする教理。親鸞はこれを徹底し、自力の計らいをすべて捨てて阿弥陀仏の本願に身を委ねる「自然法爾」(じねんほうに)の境地を説いた。念仏は救済の条件ではなく、救済への感謝の表現(報恩)であるとされる。

親鸞は法然の弟子であり、師の他力念仏思想をさらに徹底した。「悪人正機」(善人ですら往生するのだから、まして悪人は往生する)の説は、自力への執着を完全に否定し、煩悩を断ち切れない凡夫こそが阿弥陀仏の救済の正しい対象であることを示す。親鸞は妻帯し非僧非俗の立場を取り、主著『教行信証』で浄土教の教理を体系化した。

日蓮(Nichiren, 1222–1282)と日蓮宗

日蓮は『法華経』(Saddharmapuṇḍarīka-sūtra)を釈迦の究極の教えと位置づけ、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えること(唱題)を修行の核心とした。日蓮は他の宗派を厳しく批判し(四箇格言:念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊)、『立正安国論』で法華経信仰による国家の安泰を主張した。既成仏教や幕府との対立により流罪・迫害を受けたが、法華経の行者としての使命感によってそれに耐えた。

道元(Dōgen, 1200–1253)と曹洞宗

道元は入宋して天童如浄のもとで曹洞禅を学び、帰国後に永平寺を開いた。

道元の禅は「只管打坐」(しかんたざ)、すなわちひたすら坐禅すること自体が悟りの表現であるとする「修証一等」(修行と悟りは一つ)の立場に立つ。悟りを得るための手段として坐禅を行うのではなく、坐禅そのものがすでに仏の行いであるとする。主著『正法眼蔵』は日本思想史上の重要な哲学的著作であり、存在・時間・言語などの根源的問題を独自に論じている。

栄西(Eisai, 1141–1215)と臨済宗

栄西は二度にわたり入宋し、臨済宗黄龍派の禅を日本に将来した。公案を用いた問答禅を特色とし、鎌倉幕府の保護を受けて武士階層に広まった。栄西はまた『喫茶養生記』を著し、日本の茶文化の礎を築いた人物でもある。

近世:檀家制度と仏教の社会的機能

江戸幕府は1612年にキリスト教の禁教令を発布し、キリシタン弾圧の一環として寺請制度(てらうけせいど)を整備した。すべての民衆はいずれかの寺院の檀家となることを義務づけられ、寺院が発行する「寺請証文」がキリシタンでないことの証明として機能した。宗門人別改帳は事実上の戸籍としての役割を果たし、寺院は人口管理という行政的機能を担った。

この制度によって寺院は経済的に安定したが、信仰の自発性が失われ、葬式・法事を中心とする儀礼的仏教(いわゆる「葬式仏教」)への傾斜が進んだ。仏教の教学的・修行的活力は相対的に低下し、思想的には儒学・国学の台頭に押されることとなった。

近代:神仏分離と廃仏毀釈

明治政府は神道の国教化を推進するため、1868年に神仏判然令を発布し、それまでの「神仏習合」の慣習を禁止して神道と仏教の分離を命じた。政府の意図は「分離」であって「排仏」ではなかったが、これを契機に全国各地で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が激化し、寺院の廃止・統合、仏像・仏具の破壊が広範に行われた。薩摩藩では藩内の寺院がほぼ全廃されるなど、地域によっては壊滅的な被害を受けた。

廃仏毀釈は結果として仏教界に近代化を促す契機ともなった。江戸期の特権を喪失した仏教界は、教育事業・社会福祉事業への参入、近代的学問としての仏教学の確立、海外仏教との交流などを通じて、近代的宗教団体への脱皮を図った。


日本仏教の宗派系譜

timeline
    title 日本仏教の主要宗派の成立
    section 奈良時代(710–794)
        南都六宗 : 三論宗・法相宗・華厳宗・律宗・成実宗・倶舎宗
    section 平安時代(794–1185)
        天台宗(最澄) : 805年 比叡山延暦寺
        真言宗(空海) : 816年 高野山金剛峯寺
    section 鎌倉時代(1185–1333)
        臨済宗(栄西) : 1191年 公案禅
        浄土宗(法然) : 1175年 専修念仏
        曹洞宗(道元) : 1227年 只管打坐
        浄土真宗(親鸞) : 1224年 他力本願
        日蓮宗(日蓮) : 1253年 題目
    section 近世・近代
        檀家制度 : 江戸時代 寺請制度
        神仏分離 : 1868年 廃仏毀釈

まとめ

  • 仏教の中国伝来において、鳩摩羅什と玄奘の翻訳事業が決定的な役割を果たした。初期には格義仏教として在来思想との類比的理解が行われたが、正確な翻訳の蓄積とともに独自の中国仏教が形成された
  • 天台宗(五時八教・一念三千)、華厳宗(四法界・事事無礙)、禅宗(不立文字・頓悟)、浄土教(称名念仏・他力)は、中国で独自に発展した主要宗派である
  • 日本仏教は、奈良時代の南都六宗(学派的性格)、平安時代の天台・真言(密教的展開と本覚思想)、鎌倉時代の新仏教(法然・親鸞・日蓮・道元・栄西による「選択」の仏教)という段階的展開を辿った
  • 近世の檀家制度は仏教を社会制度として安定させた反面、信仰の形骸化を招き、近代の神仏分離・廃仏毀釈は仏教界に壊滅的打撃と近代化の契機を同時にもたらした
  • 次のセクションでは、チベット仏教と東南アジアの上座部仏教を取り上げ、仏教の地域的多様性の全体像を完成させる

用語集(Glossary)

用語 英語・原語表記 定義
鳩摩羅什 Kumārajīva 亀茲出身の訳経僧(344–413)。後秦の長安で約300巻を漢訳し、中国仏教の思想的基盤を形成した
玄奘 Xuanzang 唐代の訳経僧(602–664)。インドに渡り657部の経典を持ち帰り、新訳と呼ばれる正確な翻訳を完成した
格義仏教 geyi Buddhism 道教・老荘思想の概念を媒介に仏教教理を理解しようとした初期中国の方法
一念三千 ichinen sanzen 智顗の中心教理。一瞬の心に三千世界が具わるとする天台教学の核心概念
五時八教 wushi bajiao 智顗による教相判釈。釈迦の教説を時期と内容で体系的に分類した
事事無礙法界 shishi wuai fajie 華厳宗の究極的世界観。個々の現象が相互に妨げなく浸透し合う境地
相即相入 xiangji xiangru 一切の存在が相互に含み合い入り込む華厳的関係性
Chan / Zen 坐禅による直接的悟りの体験を重視し、不立文字を標榜する宗派
頓悟 dunwu 悟りは段階的ではなく瞬時に開かれるとする慧能・南宗禅の立場
称名念仏 chēngmíng niànfó 阿弥陀仏の名を口に称えること。善導が正行として確立した
他力本願 tariki hongan 阿弥陀仏の本願力による救済。親鸞が徹底化した浄土教の核心教理
悪人正機 akunin shōki 煩悩を断ち切れない悪人こそが阿弥陀仏の救済の正しい対象であるとする親鸞の説
本覚思想 hongaku shisō 一切衆生がもともと悟っているとする思想。平安中期以降の天台宗で展開された
只管打坐 shikan taza ひたすら坐禅すること。道元・曹洞宗の修行の核心
修証一等 shushō ittō 修行と悟りは一つであるとする道元の立場
檀家制度 danka seido 江戸時代に確立された寺院と檀家の制度的関係。キリシタン禁制を契機とする
廃仏毀釈 haibutsu kishaku 明治初期に神仏分離令を契機として起きた仏教排斥運動

確認問題

Q1: 格義仏教とはどのような現象であり、なぜそれが生じたのか。また、格義仏教の時代が終わった契機は何であったか説明せよ。 A1: 格義仏教とは、3〜4世紀の中国で、仏教教理を老荘思想や道教の概念と対応させて理解しようとした方法である。仏教用語に対応する漢語の概念が存在しなかったため、「空」を「無」に、「涅槃」を「無為」になぞらえるなどの類比的解釈が行われた。これは異文化間の思想受容における不可避の過渡的現象であった。鳩摩羅什が正確な漢訳と教理解説を提供し、中国人僧侶の中から仏教独自の概念を正確に把握する高僧が輩出されるようになったことで、格義仏教は克服された。

Q2: 天台宗の「一念三千」と華厳宗の「事事無礙法界」は、ともに現象世界の究極的あり方を説く教理であるが、その力点の違いを説明せよ。 A2: 一念三千は衆生の「一念」(一瞬の心)に焦点を当て、その心の中に十法界×十如是×三世間=三千の世界がすべて具わっていることを説く。主体の心の側から世界の全体性を捉える点に特色がある。一方、事事無礙法界は個々の現象(事)の相互関係に焦点を当て、あらゆる個物が相互に妨げなく浸透し合い、一の中に一切が、一切の中に一が映現するという世界構造を説く。前者が心と世界の関係を主題とするのに対し、後者は現象間の関係性そのものを主題とする。

Q3: 鎌倉新仏教の祖師たち(法然・親鸞・日蓮・道元)に共通する思想的特質は何か。また、それぞれの「選択」した実践の内容を簡潔に比較せよ。 A3: 共通する特質は、いずれも比叡山で学んだ背景を持ち、末法の時代における衆生の救済を正面から問い、旧仏教の複雑な学問・戒律・多様な修行を前提とせず、一つの実践に集中する「選択」の論理を共有していた点である。法然は称名念仏(阿弥陀仏の名号を称えること)を選択し、親鸞はそれをさらに徹底して他力への全面的帰依(自然法爾)を説いた。日蓮は題目(南無妙法蓮華経)の唱題を選択し、法華経を唯一の正法とした。道元は只管打坐(ひたすら坐禅すること)を選択し、坐禅そのものが悟りの表現であるとした。

Q4: 江戸時代の檀家制度(寺請制度)は、日本仏教にどのような功罪をもたらしたか。制度の目的と社会的機能に触れつつ論じよ。 A4: 檀家制度は、キリシタン禁制を契機に全国民をいずれかの寺院の檀家として登録させる制度であり、寺請証文がキリシタンでないことの証明として機能した。宗門人別改帳は事実上の戸籍となり、寺院は人口管理という行政機能を担った。「功」としては、寺院の経済基盤が安定し、仏教が社会制度として全国的に定着した点が挙げられる。「罪」としては、信仰が制度的に強制されたことで自発性が失われ、葬式・法事中心の儀礼的仏教への傾斜が進み、教学的・修行的活力が低下した点がある。また、儒学・国学に対して思想的求心力を喪失する一因ともなった。

Q5: 明治初期の神仏分離令と廃仏毀釈運動について、政府の意図と実際に生じた事態の乖離を説明し、この経験が日本仏教の近代化にどのような影響を与えたか論じよ。 A5: 明治政府の意図は、神道国教化のために神仏習合の慣習を解消し、神社から仏教的要素を排除する「分離」であり、仏教そのものの排斥は意図していなかった。しかし現実には、分離令を契機に各地で廃仏毀釈運動が激化し、寺院の廃止・統合、仏像・仏具の破壊が広範に行われた。薩摩藩のように藩内の寺院がほぼ全廃された地域もあった。この経験は仏教界に近代化を促す契機となり、江戸期の制度的特権を喪失した仏教界は、教育事業や社会福祉事業への参入、近代的学問としての仏教学の確立、海外仏教との交流を通じて、近代的宗教団体としての再構築を図ることとなった。