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Module 2-6 - Section 1: 古代の宗教と神道の展開

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 2-6: 日本宗教史
前提セクション なし
想定学習時間 4時間

導入

日本列島における宗教の歴史は、縄文時代の自然崇拝・呪術的祭祀に遡る。稲作伝来以降は農耕儀礼が加わり、記紀神話の体系化、律令制下の神祇制度整備を経て、仏教との習合・分離という独自の展開を辿った。本セクションでは、先史時代の祭祀から復古神道の成立に至るまでの神道の通史を概観し、日本の宗教的基盤がいかに形成されたかを把握する。


古代の祭祀

縄文時代の祭祀

縄文時代(約1万6千年前〜紀元前3世紀頃)の宗教的営みは、出土する祭祀遺物から推定される。主要な遺物として土偶石棒環状列石がある。

土偶は土製の人型像で、多くが女性の身体的特徴を強調した造形をもつ。大半が意図的に破損された状態で出土することから、病気や災厄を土偶に移して破壊する身代わり呪術(sympathetic magic)に用いられたとする説が有力である。一方、妊娠・出産と関連づけ、安産・多産への祈願とする解釈もある。

石棒は男性器を象った石製品であり、土偶と対をなす男性原理の象徴と考えられている。子孫繁栄や食料資源の豊穣を祈願する生殖崇拝の祭具として用いられた。

環状列石(ストーンサークル)は、大湯環状列石(秋田県)に代表される大規模な石組遺構である。墓域との複合関係が確認されており、祖霊祭祀や共同体の儀礼空間として機能したと推定される。

これらの遺物群は、縄文社会が自然の再生産力への畏敬を中心とする宗教観をもち、生と死、豊穣と枯渇を制御しようとする呪術的実践を行っていたことを示している。

弥生時代の祭祀

弥生時代(紀元前3世紀頃〜3世紀頃)には、水稲耕作の伝来とともに農耕儀礼が祭祀の中心となった。この時代の祭祀を特徴づけるのが青銅製祭器である。

Key Concept: 銅鐸(どうたく / dōtaku) 弥生時代に近畿地方を中心に用いられた釣り鐘型の青銅器。表面に稲作の場面や高床式倉庫が描かれることから、豊作祈願の農耕祭祀に使用された祭器と考えられる。

銅矛(どうほこ)・銅剣(どうけん)・銅戈(どうか)は、北部九州から中国・四国地方にかけて分布する武器型祭器である。中国大陸では実用武器であったが、日本列島では次第に大型化・非実用化し、地霊の加護や悪霊退散を祈る祭祀的機能を担った。

弥生時代の祭祀には明確な地域差がみられる。近畿・東海地方では銅鐸祭祀圏が形成され、北部九州・中国地方では武器型祭器による祭祀圏が形成された。この二大祭祀圏の存在は、古墳時代における政治統合の前史として重要な意味をもつ。

記紀神話の体系

7世紀末から8世紀初頭にかけて編纂された『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)は、古代日本の神話体系を集成した文献である。

神話の構造は大きく以下のように整理される。

天地開闢(てんちかいびゃく):混沌から天地が分離し、高天原(たかまがはら)に天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)をはじめとする造化三神が出現する。

国生み・神生み:イザナギ(伊邪那岐命)とイザナミ(伊邪那美命)の二柱が天の浮橋から矛で海をかき混ぜ、淤能碁呂島(おのごろじま)を形成する。その後、大八島(日本列島)と多数の神々を生む。イザナミは火神カグツチの出産で死に、黄泉国(よみのくに)へ赴く。

三貴子の誕生:イザナギの禊(みそぎ)から天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)、須佐之男命(すさのおのみこと)の三貴子が生まれる。天照大神は高天原、月読命は夜の食国、須佐之男命は海原をそれぞれ統治する。

出雲神話:須佐之男命の子孫である大国主神(おおくにぬしのかみ)が葦原中国(あしはらのなかつくに)を治め、後に天孫ニニギノミコトに国を譲る(国譲り)。この神話は出雲大社の祭祀的起源を説明するとともに、大和朝廷による政治統合の正統性を叙述するものである。

天孫降臨:天照大神の孫ニニギノミコトが三種の神器(八咫鏡・天叢雲剣・八尺瓊勾玉)を携えて日向の高千穂に降臨し、天皇家の祖となる。

天皇祭祀

天皇が主宰する祭祀は、記紀神話と連続する宗教的権威の表現である。

大嘗祭(だいじょうさい / daijōsai)は天皇即位後に一度だけ行われる最重要祭祀で、新天皇が新穀を天照大神および天神地祇に供え、自らも共食する儀礼である。天皇が神と一体化し、宗教的・政治的権威を確立する意義をもつ。

新嘗祭(にいなめさい / niiname-sai)は毎年11月に行われる収穫感謝の祭祀であり、天皇がその年の新穀を神々に供え、自らも食する。大嘗祭が一代一度の即位儀礼であるのに対し、新嘗祭は年中行事として反復される農耕祭祀である。


古代神祇信仰

神(カミ)の概念

Key Concept: 神(カミ / kami) 日本の宗教的伝統における超越的存在の総称。自然物・自然現象・祖霊・英雄など多様な存在を含み、一神教的な「God」とは根本的に異なる概念である。

国学者・本居宣長(もとおりのりなが, 1730-1801)は『古事記伝』において、カミを次のように定義した。「凡て迦微(かみ)とは古御典(いにしえのみふみ)等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐひ、海山など、其余何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云ふなり」。すなわち、尋常ではない畏怖すべき力(「可畏きもの」)をもつ一切の存在がカミである。善なるものも悪なるものもカミとなりうるこの包括性は、日本の宗教的世界観の根幹をなす。

祝詞と祓

祝詞(のりと / norito)は、神に対して奏上する祭祀的言語表現である。『延喜式』巻八に27編が収録されており、祈年祭(としごいのまつり)の祝詞や大祓詞(おおはらえのことば)などが代表的である。祝詞は言霊(ことだま)信仰に基づき、言葉それ自体に霊的力が宿るという観念を前提としている。

(はらえ / harae)は、罪・穢れ(けがれ)を除去する浄化儀礼である。大祓(おおはらえ)は6月と12月に国家的規模で行われ、国中の罪穢を祓い清めた。祓の思想は、罪と穢れを外在的なものとして身体から分離・排除しうるという観念に立脚しており、キリスト教的な内面的罪意識とは構造的に異なる。

神社の成立と発展

神社(じんじゃ / jinja)の成立過程については、自然崇拝の聖地(磐座〔いわくら〕・神籬〔ひもろぎ〕)から、恒久的な社殿建築へと発展したとする見方が一般的である。

伊勢神宮(いせじんぐう)は、内宮(ないくう)に天照大神を、外宮(げくう)に豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る。20年ごとの式年遷宮(しきねんせんぐう)は7世紀末の天武・持統朝に制度化され、社殿を定期的に造り替えることで神の力を更新する儀礼である。

出雲大社(いずもたいしゃ)は大国主神を主祭神とし、国譲り神話と結びつく。古代には巨大な高層社殿が存在したとする伝承があり、2000年に境内から発見された巨大柱(宇豆柱)はこの伝承を裏付ける考古学的証拠として注目された。

律令制下の神祇官制度

701年の大宝律令により、国家の祭祀行政を管轄する神祇官(じんぎかん / jingikan)が設置された。神祇官は太政官(だいじょうかん)と並立する最高官庁の一つとして位置づけられ、国家祭祀の執行、神社の管理、祝部(はふりべ)の統括などを担った。これは中国の律令制にはない日本独自の制度である。

927年に完成した『延喜式』(えんぎしき / Engi-shiki)の巻九・巻十は「神名帳」(じんみょうちょう)と呼ばれ、官社(かんしゃ)として認定された2,861社・3,132座の神を記載している。官社はさらに官幣社(神祇官から幣帛を受ける573社)と国幣社(国司から幣帛を受ける2,288社)に区分された。この制度は神社を国家秩序のもとに序列化し、宗教と政治を一体化させるものであった。


神仏習合

Key Concept: 神仏習合(しんぶつしゅうごう / shinbutsu shūgō) 日本固有の神祇信仰と外来の仏教が相互に影響し融合した宗教現象。6世紀の仏教公伝以降、約1,300年にわたって展開し、1868年の神仏分離令まで日本の宗教の基本的枠組みを形成した。

神仏習合の歴史的過程

仏教の公伝は538年(または552年)とされる。当初は蘇我氏と物部氏の崇仏・排仏論争に象徴されるように、仏教は在来の神祇信仰と対立的に受容された。しかし、奈良時代(8世紀)になると両者の融合が進行する。

奈良時代には「神身離脱」(しんしんりだつ)の思想が現れた。これは神もまた迷える存在であり、仏法によって救済されるべきであるという観念である。この思想に基づき、神社の境内に神宮寺(じんぐうじ / jingūji)が建立された。東大寺の大仏造営(749年)に際して宇佐八幡神が助力を申し出たとする託宣は、神が仏教に帰依する存在として位置づけられた代表的な事例である。

平安時代になると、別当(べっとう)制が確立され、僧侶が神社の管理運営を担うようになった。神社と寺院の組織的一体化が進行し、両者を截然と区別することは困難となった。

本地垂迹説

Key Concept: 本地垂迹(ほんじすいじゃく / honji suijaku) 仏・菩薩が衆生救済のために日本の神の姿をとって現れたとする理論。「本地」は仏としての本来の姿、「垂迹」は神として現れた姿を意味する。平安後期(11世紀前半)に理論的に確立した。

本地垂迹説の理論的根拠は、大乗仏教の法華経に説かれる「方便」(ほうべん)の思想に求められる。仏は衆生の機根(理解力)に応じて様々な姿をとるという教えが、日本の神々を仏の化身として説明する論理を提供した。

具体的な本地仏と垂迹神の対応としては、天照大神=大日如来、八幡神=阿弥陀如来、春日明神=不空羂索観音などが挙げられる。真言宗僧勝覚の『護持僧作法』に「本地」の語が見られ、11世紀前半に理論的成立をみたとされる。

反本地垂迹説

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、本地垂迹説を逆転させる反本地垂迹説(はんほんじすいじゃくせつ)ないし神本仏迹説(しんぽんぶっしゃくせつ)が主張された。これは神こそが本体(本地)であり、仏は神が仮に現れた姿(垂迹)にすぎないとする理論である。伊勢神道や吉田神道の思想的基盤となり、近世の復古神道や近代の国家神道へと連なる神道優位の論理を準備した。


中世神道

伊勢神道(度会神道)

伊勢神道(いせしんとう)は、伊勢神宮の外宮を管掌する度会(わたらい)氏によって鎌倉時代後期に体系化された神道説である。度会家行(わたらいいえゆき, 1256-1351?)が『類聚神祇本源』(るいじゅうじんぎほんげん)などを著し、教義を集大成した。

伊勢神道の特徴は以下の通りである。外宮祭神の豊受大御神を天照大神と同格ないしそれ以上に位置づけ(外宮重視)、「天地万物の根源神」とした。「神道五部書」と称する経典群を教義の根拠としたが、これらは鎌倉時代に度会氏側で作成された偽書であることが近代の研究で明らかにされている。反本地垂迹説を採り、神が本体であって仏はその応現であると主張した。

吉田神道(唯一神道)

吉田神道(よしだしんとう)は、室町時代中期の神道家吉田兼倶(よしだかねとも, 1435-1511)が創唱した神道説である。「唯一神道」(ゆいいつしんとう)とも称し、諸宗教の根源に神道を置く体系を構築した。

吉田兼倶は「元本宗源神道」(げんぽんそうげんしんとう)を唱え、神道が仏教・儒教を包摂する根源的教えであると主張した。「神道大意」において、仏教を花実、儒教を枝葉、神道を根に喩える「三教枝葉花実説」を説いた。独自の経典として「神道大意」を著し、また斎場所(さいじょうしょ)を設けて独自の祭祀体系を整備した。吉田神道は室町時代から江戸時代にかけて全国の神社の多くを傘下に置き、神道界に大きな影響力をもった。

両部神道と山王神道

両部神道(りょうぶしんとう)は真言宗系の神仏習合思想で、伊勢神宮の内宮を金剛界、外宮を胎蔵界に配当し、密教の両部(金剛界・胎蔵界)曼荼羅と神道を一体化させた。

山王神道(さんのうしんとう)は天台宗系の神仏習合思想で、比叡山の地主神である日吉(ひえ)大社の山王権現を天台教学と結びつけた。天台本覚思想の影響を受け、山王権現を法華経の真理の顕現として位置づけた。


復古神道と国学

国学の展開

Key Concept: 国学(こくがく / kokugaku) 江戸時代中期から後期にかけて発展した学問運動。儒教・仏教伝来以前の日本古典(『古事記』『万葉集』等)を実証的に研究し、日本固有の精神・思想の解明を目指した。荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤を「国学の四大人」(しうし)と称する。

国学は以下の四大人の系譜を通じて展開した。

荷田春満(かだのあずままろ, 1669-1736)は伏見稲荷大社の社家に生まれ、『万葉集』『古事記』『日本書紀』の研究に着手し、大嘗会の古式を考証するなど、国学の基礎を築いた。幕府に「創学校啓」を提出して国学の制度的確立を訴えた。

賀茂真淵(かものまぶち, 1697-1769)は荷田春満に師事し、『万葉集』の注釈書『万葉考』を著した。万葉歌に見出される「高く直き心」(ますらをぶり)を日本古代の理想的精神とし、儒仏伝来以前の「古の道」への復帰を主張した。

Key Concept: 復古神道(ふっこしんとう / fukko shintō) 国学の発展を背景に、儒教・仏教との混交を排し、記紀を中心とする古典に基づいて日本古来の「古道」「惟神の道」(かんながらのみち)を復興しようとする神道思想。賀茂真淵・本居宣長が古道説を唱え、平田篤胤が大成した。

本居宣長(もとおりのりなが, 1730-1801)は賀茂真淵の学統を継ぎ、35年を費やして『古事記伝』44巻を完成させた。宣長は『古事記』の記述を古代日本人の世界認識そのものとして受容すべきだとし、儒教的合理主義による解釈を排した。また、日本文学の本質を「もののあはれ」(mono no aware)に求め、人間の自然な感情の発露を重視する文芸論を展開した。宣長の神道論は、記紀に記された神々の所業をそのまま「古道」(いにしえのみち)として受容するものであり、神代の神話を歴史的事実として捉える立場をとった。

平田篤胤(ひらたあつたね, 1776-1843)は宣長没後の門人を自称し、復古神道を体系的教説として大成した。篤胤は『霊能真柱』(たまのみはしら)において、死後の霊魂は幽冥界(かくりよ)に赴き、大国主神が主宰する世界で永続するという独自の幽冥観(ゆうめいかん)を説いた。この霊魂観は仏教の来世観に代わる日本固有の死生観を構築しようとする試みであった。篤胤の思想は幕末の尊王攘夷運動に思想的根拠を与え、明治維新後の神仏分離・国家神道の形成に影響を及ぼした。

timeline
    title 神道の歴史的展開
    section 先史・古代
        縄文時代 : 土偶・石棒・環状列石による自然崇拝・呪術的祭祀
        弥生時代 : 銅鐸・銅矛による農耕祭祀
        古墳〜飛鳥 : 天皇祭祀の確立、仏教公伝(538/552年)
        奈良時代 : 神仏習合の開始、神宮寺の建立
    section 平安・中世
        平安時代 : 本地垂迹説の確立(11世紀)、両部神道・山王神道
        鎌倉時代 : 伊勢神道(度会家行)、反本地垂迹説
        室町時代 : 吉田神道(吉田兼倶)
    section 近世
        江戸中期 : 荷田春満・賀茂真淵 ── 国学の成立
        江戸後期 : 本居宣長『古事記伝』── 古道論の確立
        幕末 : 平田篤胤 ── 復古神道の大成

まとめ

  • 縄文時代の自然崇拝・呪術的祭祀から、弥生時代の農耕祭祀、記紀神話の体系化を経て、律令制下で神祇制度が国家的に整備された
  • 神(カミ)の概念は「尋常ならず可畏きもの」という包括的な定義をもち、一神教的な神概念とは本質的に異なる
  • 仏教伝来以降、神仏習合が約1,300年にわたって日本の宗教の基本的枠組みを形成した。本地垂迹説はその理論的支柱である
  • 中世には伊勢神道・吉田神道といった神道優位の神学が形成され、反本地垂迹説として仏教からの自立が志向された
  • 江戸時代の国学は実証的古典研究を通じて復古神道を展開し、幕末・明治期の神仏分離と国家神道の思想的基盤を準備した
  • 次のセクションでは仏教の日本への伝来と各宗派の展開を扱い、神仏習合のもう一方の当事者である仏教の側から日本宗教史を検討する

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
土偶 dogū 縄文時代に制作された土製の人型像。女性的特徴をもつものが多く、呪術・祭祀に用いられた
銅鐸 dōtaku 弥生時代の釣り鐘型青銅器。農耕祭祀に使用された祭器
神(カミ) kami 日本の宗教的伝統における超越的存在の総称。「尋常ならず可畏きもの」と定義される
祝詞 norito 神に奏上する祭祀的言語表現。言霊信仰を前提とする
harae 罪・穢れを除去する浄化儀礼
神祇官 jingikan 律令制下の祭祀行政を管轄する最高官庁
神仏習合 shinbutsu shūgō 日本固有の神祇信仰と仏教が相互に融合した宗教現象
本地垂迹 honji suijaku 仏・菩薩が神の姿をとって現れたとする理論
神宮寺 jingūji 神社境内に建立された仏教寺院
伊勢神道 Ise Shintō 度会氏による外宮重視の神道説。鎌倉時代後期に体系化
吉田神道 Yoshida Shintō 吉田兼倶が創唱した唯一神道。諸宗教の根源に神道を置く
国学 kokugaku 江戸時代に発展した日本古典の実証的研究に基づく学問運動
復古神道 fukko shintō 儒仏との混交を排し古道の復興を目指す神道思想
大嘗祭 daijōsai 天皇即位後に一度行われる最重要祭祀
新嘗祭 niiname-sai 毎年11月に行われる収穫感謝の祭祀

確認問題

Q1: 縄文時代の土偶の多くが破損した状態で出土する事実は、どのような宗教的実践を示唆するか。また、石棒とあわせて縄文時代の宗教観のどのような特質が読み取れるか。

A1: 土偶の意図的破損は、病気や災厄を土偶に移して破壊する身代わり呪術(共感呪術)に用いられたことを示唆する。土偶が女性的特徴を強調し、石棒が男性器を象っていることから、縄文社会が生殖・豊穣への祈願を中心とする宗教観をもち、自然の再生産力への畏敬と、それを呪術的手段で制御しようとする実践を行っていたことが読み取れる。

Q2: 本地垂迹説と反本地垂迹説(神本仏迹説)の論理構造の違いを説明し、それぞれがどのような歴史的文脈で生じたか述べよ。

A2: 本地垂迹説は仏・菩薩を本体(本地)とし、日本の神をその仮の現れ(垂迹)と位置づける。法華経の方便思想を根拠に、平安後期(11世紀)に確立し、神仏習合の理論的支柱となった。これに対し反本地垂迹説は、神こそが本体であり仏は神の仮現にすぎないと逆転させる論理である。鎌倉後期から南北朝時代にかけて、蒙古襲来後の神国意識の高揚を背景に主張され、伊勢神道や吉田神道の思想的基盤となった。

Q3: 律令制における神祇官制度はどのような点で中国の律令制と異なり、その独自性はどのような宗教的・政治的意義をもつか。

A3: 中国の律令制には神祇官に相当する独立官庁がなく、祭祀行政は礼部などの一部門が担った。日本では神祇官を太政官と並立する最高官庁として設置し、国家祭祀を行政の中枢に位置づけた。この独自性は、天皇の宗教的権威(祭祀王としての性格)が政治的統治と不可分であることを制度的に表現するものであり、「祭政一致」の理念を体現している。

Q4: 国学の四大人(荷田春満→賀茂真淵→本居宣長→平田篤胤)の学問的営為はどのように連続し、復古神道としていかに結実したか。その思想史的展開を整理せよ。

A4: 荷田春満が記紀・万葉集など古典研究の基礎を築き、賀茂真淵が万葉集の実証的研究を通じて儒仏伝来以前の「古の道」への復帰を主張した。本居宣長は『古事記伝』の完成により古典解釈の方法論を確立し、記紀神話を「古道」として受容する立場を示した。平田篤胤はこれを継承・発展させ、幽冥観(死後の霊魂は大国主神が主宰する幽冥界へ赴く)という独自の死生観を体系化し、仏教的来世観に代わる日本固有の宗教体系として復古神道を大成した。この系譜は古典の実証的研究から宗教的教説の構築へと展開し、幕末の政治運動と明治期の宗教政策に直結した。