コンテンツにスキップ

Module 2-6 - Section 2: 日本仏教の社会文化的展開

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 2-6: 日本宗教史
前提セクション Section 1
想定学習時間 4時間

導入

日本における仏教は、6世紀の公伝以来、単なる個人の救済思想にとどまらず、国家統治の論理、社会秩序の基盤、文化の創造原理として機能してきた。本セクションでは、仏教が日本社会といかに結びつき、どのような制度的・政治的役割を果たしてきたかを、古代から近世まで通時的に検討する。教義的側面については Module 2-4, Section 3 で扱っているため(→ Module 2-4, Section 3 参照)、ここでは社会文化的文脈に焦点を当てる。


仏教伝来と国家仏教

仏教公伝と崇仏論争

日本への仏教公伝の年次については、538年説と552年説の二説がある。538年説は『上宮聖徳法王帝説』および『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に基づき、552年説は『日本書紀』の欽明天皇13年の記事に依拠する。現在の学界では538年説が有力である。

百済の聖明王から仏像・経典が伝えられると、朝廷内部で受容をめぐる対立が生じた。蘇我稲目(そがのいなめ)は「西の諸国はみな仏を礼拝している。日本のみこれに背くべきではない」と受容を主張し、物部尾輿(もののべのおこし)・中臣鎌子は「蕃神を拝すれば国神の怒りを招く」と反対した。この対立は崇仏論争(すうぶつろんそう)と呼ばれる。

近年の研究では、この論争は仏教そのものの受容・拒否を争ったというよりも、仏教を公的な国家祭祀とするかどうかの政策論争であった、あるいは本質的には蘇我氏と物部氏の廷内における権力闘争であったとする見解が提示されている。

聖徳太子と仏教

用明天皇の皇子である聖徳太子(厩戸皇子、574-622)は、四天王寺・法隆寺を建立し、『三経義疏』(『法華経』『維摩経』『勝鬘経』の注釈書)を著したとされる。太子は仏教を個人的信仰としてのみならず、国家統治の思想的基盤として位置づけた。十七条憲法の第二条に「篤く三宝を敬え」と記したことは、仏教が国家理念に組み込まれたことを示す。

鎮護国家思想と奈良仏教

Key Concept: 鎮護国家(chingo kokka) 仏教の教えと儀礼によって国家を護持し、災厄を除くという思想。奈良時代に頂点に達し、以降の日本仏教の国家との関係を規定する基本原理となった。

奈良時代、聖武天皇(在位724-749)は鎮護国家思想を全面的に展開した。天平13年(741年)の国分寺建立の詔により、各国に国分僧寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)の建立を命じ、仏教による国土防衛の制度的基盤を整備した。東大寺の盧舎那仏(大仏)造立もまた、疫病・飢饉・反乱が相次ぐ社会不安のなかで、仏教の力による国家安泰を祈願したものである。

奈良仏教の特徴は、南都六宗(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗)に代表される学問仏教としての性格である。これらの宗派は個々の独立した教団というよりも、僧侶が兼学する学派的性格が強かった。東大寺には六宗兼学の研究所が設けられ、学術的交流が行われた。重要なのは、僧尼は国家の統制下に置かれ、僧尼令によって活動が規制されていた点である。度牒(どちょう、出家の許可証)の発行は国家が管理し、私度僧は取り締まりの対象となった。


平安仏教と顕密体制

最澄・空海と新仏教の社会的基盤

桓武天皇の平安遷都(794年)は、奈良仏教の政治的影響力からの脱却という意味も持っていた。この転換期に登場したのが最澄(767-822)と空海(774-835)である。

最澄は延暦23年(804年)に入唐し、天台教学・密教・禅・戒律を学んで帰国、比叡山延暦寺を拠点に天台宗を開いた。空海も同年に入唐し、青龍寺の恵果から真言密教の法統を受け継ぎ、高野山金剛峯寺と京都東寺を拠点に真言宗を確立した。両宗は奈良仏教と異なり、山林修行を基盤とし、朝廷の庇護のもとで勢力を拡大した。

顕密体制

Key Concept: 顕密体制(kenmitsu taisei) 歴史学者・黒田俊雄(1926-1993)が提唱した中世日本仏教の構造論。平安後期以降、顕教(経典に基づく公開的教え)と密教(秘密の儀礼体系)が統合され、旧仏教諸宗が密教を共通基盤として一つの支配的宗教秩序を形成したとする学説。

黒田俊雄は1975年の著作『日本中世の国家と仏教』において、従来の日本仏教史観を根底から覆す顕密体制論を提唱した。従来、鎌倉新仏教(法然・親鸞・道元・日蓮ら)が中世仏教の主流であるとされてきたが、黒田は実際には旧仏教八宗(南都六宗に天台・真言を加えたもの)こそが中世社会の「正統」であり、密教を共通基盤として相互に競合しつつも一体的な宗教秩序を形成していたと論じた。

この体制のもとで、延暦寺・東大寺・興福寺などの大寺院は荘園を領有する経済的基盤を持ち、僧兵を擁する軍事力を保持し、朝廷・幕府と並ぶ「権門」(権力集団)として中世社会の一角を占めた。

王法仏法相依

Key Concept: 王法仏法相依(ōbō buppō sōi) 王権(世俗権力)と仏法(仏教的権威)が相互に依存し、両者の協調によって国家・社会が安定するという中世的理念。

王法仏法相依の理念は、古代の鎮護国家思想を発展させたものである。王法(天皇・貴族を中心とする世俗的統治秩序)と仏法(仏教教団による宗教的権威)は対立するものではなく、両者が相互に支えあうことによって社会秩序が維持されるとする。慈円の『愚管抄』にもこの理念が反映されている。顕密体制は、この王法仏法相依の論理によって正統化されていた。

本覚思想の社会的影響

天台宗内部で発展した本覚思想(hongaku shisō)は、衆生はもとより仏性を具えており、現実世界そのものが悟りの世界であるとする立場である。この思想は、一方では草木国土悉皆成仏(自然界のすべてが成仏しうる)という包摂的世界観を生み出したが、他方では現状肯定に傾き、既存の社会秩序や権力構造を無批判に受容する論理にもなりえた。鎌倉新仏教の開祖たちは、この本覚思想への批判を一つの出発点として独自の教学を展開したとされる。


鎌倉仏教の社会的意義

「旧仏教=貴族仏教、新仏教=民衆仏教」図式への批判

戦後の日本仏教史研究においては、鎌倉新仏教(法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、日蓮の日蓮宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗)こそが中世仏教の主流であり、旧仏教(顕密仏教)は形骸化した貴族仏教にすぎないとする理解が支配的であった。

黒田俊雄はこの図式を批判し、旧仏教こそが中世社会における正統的・主流的宗教であったと主張した。末木文美士(すえきふみひこ)もまた『鎌倉仏教形成論』において、新仏教と旧仏教を截然と区別する二項対立的理解を問い直し、旧仏教内部にも活発な改革運動(貞慶や明恵による戒律復興運動、叡尊の律宗運動など)が存在したことを明らかにした。

現在の学界では、鎌倉期の仏教を「旧仏教の衰退と新仏教の興隆」という単線的図式で理解するのではなく、旧仏教の持続的影響力と新仏教の革新性の双方を視野に入れた多角的な理解が求められている。

法然・親鸞と専修念仏運動

法然(1133-1212)は、阿弥陀仏の名号を称えること(称名念仏)のみが凡夫の救済手段であるとする専修念仏(せんじゅねんぶつ)を唱えた。この教えは、学問や修行の能力に関わらずすべての人間に救済の道を開くという点で社会的に画期的であったが、同時に既存の仏教秩序に対する重大な挑戦でもあった。

専修念仏運動は顕密仏教側から激しい弾圧を受けた。承元の法難(1207年)では、後鳥羽上皇の怒りを受けて法然の門弟・住蓮房と安楽房が死罪に処され、法然は土佐へ、親鸞は越後へ流罪となった。これは日本史上最大規模の国家権力による宗教弾圧事件の一つである。さらに嘉禄の法難(1227年)では、比叡山の申し入れにより法然上人の墓所破却が計画され、門弟の隆寛・幸西・空阿が流罪とされた。

親鸞(1173-1263)は流罪中に「非僧非俗」の立場を自覚し、妻帯を公然と認めるなど、従来の仏教の枠組みを根本的に転換した。これは後の日本仏教における僧侶の妻帯の先例となった(→ Module 2-4, Section 3 参照)。

日蓮の国家諫暁

日蓮(1222-1282)は文応元年(1260年)、北条時頼に『立正安国論』を提出した。この書は、当時の相次ぐ災害(地震・飢饉・疫病)の根本原因が正法に背いて邪法(とりわけ法然の浄土教)に帰依していることにあると主張し、もし改めなければ「自界叛逆難」(内乱)と「他国侵逼難」(外国からの侵略)が起こると警告した。日蓮の予言は、文永9年(1272年)の二月騒動と文永11年(1274年)・弘安4年(1281年)の蒙古襲来によって的中したと日蓮門下は主張する。

日蓮の思想は、仏教を個人の救済にとどめず、国家社会の変革と結びつけた点に特徴がある。その国家諫暁の姿勢は、近代の国柱会(田中智學)から創価学会に至るまで、日蓮系教団の社会的行動の原型となった。

禅宗と武家社会:五山制度

臨済宗は、鎌倉幕府・室町幕府と密接な関係を築いた。幕府にとって禅宗の受容は、延暦寺・興福寺など既存の顕密仏教勢力に対抗するための宗教政策でもあった。

Key Concept: 五山制度(gozan seido) 南宋の制度に倣い、臨済宗寺院を格付けした官寺制度。鎌倉幕府が導入し、室町幕府が整備した。至徳3年(1386年)、足利義満により京都五山・鎌倉五山が確定された。

五山制度のもと、臨済宗寺院は幕府の外交文書の起草、対中国(元・明)貿易の仲介、学問・文芸活動の拠点としての機能を果たした。五山文学(漢詩文)は中世文化の重要な一翼を担い、禅宗寺院は水墨画・枯山水庭園・茶の湯など、後の日本文化の基層を形成する芸術の苗床となった。


近世の檀家制度

檀家制度と寺請制度

Key Concept: 檀家制度(danka seido) 江戸時代に確立した、すべての民衆が特定の寺院に所属して葬祭供養を委ね、布施を納める制度。寺請制度と結びつき、仏教寺院が事実上の行政末端機関として機能する体制を生み出した。

Key Concept: 寺請制度(terauke seido) 江戸幕府のキリシタン禁制政策の一環として設けられた制度。民衆はキリシタンでないことを所属寺院に証明させ(寺請証文)、寺院がその身元を保証する仕組み。

慶長17年(1612年)のキリスト教禁教令を契機に、幕府はキリシタン取り締まりの手段として寺請制度を整備した。棄教者に対して寺請証文の取得を義務づけたことが制度の始まりであり、やがてすべての民衆に拡大された。毎年実施される宗門改め(しゅうもんあらため)により、宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)が作成された。

寺院の行政的機能

宗門人別改帳には生年月日、出生地、身分、続柄、石高(収穫量)などが記載されており、現代の戸籍・住民台帳に相当する機能を持った。寺院は、出生・婚姻・死亡・転居の届出を管理し、旅行時の通行手形を発行する行政末端機関として機能した。寺院の証明なしには移動も婚姻もできない体制であり、仏教は信仰の有無に関わらず、社会制度として民衆生活のあらゆる場面に浸透した。

近世仏教の功罪

檀家制度の確立は仏教寺院に安定的な経済基盤と社会的地位を保証したが、同時に深刻な問題も生じた。信仰による自発的帰依ではなく制度的強制に基づく関係であるため、僧侶の宗教的使命感は希薄化し、葬式・法事の執行が主たる職務となった。「葬式仏教」という批判の淵源はここにある。

他方、近世仏教の積極的側面も無視できない。寺子屋教育を通じた庶民教育への貢献、地域共同体の結節点としての寺院の機能、仏教的倫理観の社会的浸透など、近世社会の安定に寺院が果たした役割は小さくない。また、黄檗宗の渡来(隠元隆琦、1654年来日)や各宗派内部での教学研究の深化など、宗教的停滞という評価が一面的であることも指摘されている。

timeline
    title 日本仏教と国家の関係の変遷
    section 古代
        538年 : 仏教公伝(百済→日本)
        593年 : 聖徳太子の摂政 : 四天王寺・法隆寺建立
        741年 : 国分寺建立の詔 : 鎮護国家思想の制度化
    section 平安
        804年 : 最澄・空海の入唐
        9-12世紀 : 顕密体制の確立 : 王法仏法相依
    section 鎌倉
        1175年 : 法然が専修念仏を提唱
        1207年 : 承元の法難 : 念仏弾圧
        1260年 : 日蓮『立正安国論』提出
        1386年 : 五山制度の確定
    section 近世
        1612年 : キリスト教禁教令
        17世紀 : 檀家制度・寺請制度の確立
        江戸期 : 宗門人別改帳 : 寺院の行政機関化

まとめ

  • 日本仏教は公伝以来、国家統治と不可分の関係にあり、鎮護国家思想はその基本原理として機能した
  • 平安期の顕密体制は、旧仏教諸宗が密教を共通基盤として支配的宗教秩序を形成した体制であり、黒田俊雄の提唱により中世仏教史の理解は根本的に転換された
  • 鎌倉新仏教は、従来「旧仏教=貴族仏教、新仏教=民衆仏教」という図式で理解されてきたが、現在ではこの二項対立的理解は修正されつつある
  • 専修念仏運動は承元の法難・嘉禄の法難など激しい弾圧を受け、日蓮は国家諫暁という独自の社会的実践を展開した
  • 近世の檀家制度・寺請制度は、仏教を信仰から行政制度へと変質させ、「葬式仏教」の淵源となった一方、社会的安定にも寄与した
  • Section 3 では、近代以降の国家神道体制と宗教の関係、新宗教の展開を扱う

用語集(Glossary)

用語 英語/読み表記 定義
鎮護国家 chingo kokka 仏教の教えと儀礼により国家を護持し災厄を除く思想
顕密体制 kenmitsu taisei 黒田俊雄が提唱した、顕教と密教の統合による中世仏教の支配的秩序構造
王法仏法相依 ōbō buppō sōi 世俗権力(王法)と仏教的権威(仏法)が相互に依存するという中世的理念
檀家制度 danka seido 民衆が特定の寺院に所属し葬祭供養を委ねる江戸時代の制度
寺請制度 terauke seido キリシタン禁制の一環として、寺院が民衆の身元を保証する制度
崇仏論争 sūbutsu ronsō 仏教公伝時の蘇我氏(受容派)と物部氏(反対派)の政治的対立
南都六宗 nanto rokushū 奈良時代の六つの仏教学派(三論・成実・法相・倶舎・華厳・律)
専修念仏 senju nenbutsu 称名念仏のみを救済手段とする法然の教え
五山制度 gozan seido 南宋に倣い臨済宗寺院を格付けした官寺制度
宗門人別改帳 shūmon ninbetsu aratamechō 江戸時代の宗教調査に基づく戸籍的記録
本覚思想 hongaku shisō 衆生がもとより仏性を具え、現実世界がそのまま悟りの世界であるとする天台教学の思想

確認問題

Q1: 黒田俊雄の顕密体制論は、従来の鎌倉仏教史理解をどのように転換したか説明せよ。

A1: 従来、鎌倉新仏教(法然・親鸞・道元・日蓮ら)こそが中世仏教の主流であり、旧仏教は形骸化した貴族仏教にすぎないとされてきた。黒田はこの理解を批判し、実際には旧仏教八宗が密教を共通基盤として一体的な宗教秩序(顕密体制)を形成しており、これこそが中世社会の「正統」であったと主張した。鎌倉新仏教はむしろ周縁的な異端運動として位置づけ直された。

Q2: 鎮護国家思想が奈良時代にどのように制度化されたか、具体的施策を挙げて論じよ。

A2: 聖武天皇は天平13年(741年)に国分寺建立の詔を発し、各国に国分僧寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)の建立を命じた。さらに東大寺に盧舎那仏(大仏)を造立し、疫病・飢饉・反乱に対する仏教の護国力を制度的に組織化した。僧尼は僧尼令のもとで国家の統制下に置かれ、度牒の発行も国家が管理するなど、仏教は完全に国家体制の一部として編成された。

Q3: 檀家制度・寺請制度はどのような歴史的経緯で成立し、日本仏教にいかなる影響を与えたか。

A3: 慶長17年(1612年)のキリスト教禁教令を契機に、幕府はキリシタン取り締まりの手段として寺請制度を整備し、すべての民衆に所属寺院からの証明(寺請証文)取得を義務づけた。宗門人別改帳は事実上の戸籍として機能し、寺院は行政末端機関となった。この制度は寺院に安定的経済基盤を保証した一方、信仰の自発性を損ない、僧侶の宗教的使命感の希薄化と「葬式仏教」化を招いた。

Q4: 「王法仏法相依」の理念と鎮護国家思想はどのような関係にあるか、両者の連続性と差異を説明せよ。

A4: 鎮護国家思想は奈良時代に成立し、仏教が国家を護持するという一方向的な関係(国家が仏教を利用して国土を護る)を基本とする。王法仏法相依は、この関係を発展させ、王権(世俗権力)と仏法(仏教的権威)が対等に相互依存するという双方向的な理念へと展開したものである。顕密体制下において、寺社勢力が荘園領有や僧兵保持を通じて独立した「権門」となったことを背景に、国家と仏教の関係は従属的なものから相互補完的なものへと変容した。

Q5: 日蓮の『立正安国論』における国家諫暁の論理を説明し、その思想的特質を述べよ。

A5: 日蓮は文応元年(1260年)に北条時頼へ『立正安国論』を提出し、相次ぐ天災の原因が正法に背いて邪法(とりわけ法然の浄土教)に帰依していることにあると主張した。正法に帰さなければ自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(外国からの侵略)が起こると警告した。日蓮の思想的特質は、仏教を個人救済の問題にとどめず、国家社会全体の変革と直結させた点にあり、この国家諫暁の姿勢は近代の日蓮系教団の社会的行動の原型ともなった。