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Module 2-6 - Section 3: 修験道・民俗宗教と宗教の重層性

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 2-6: 日本宗教史
前提セクション Section 1
想定学習時間 4時間

導入

Section 1で概観した神仏習合の展開は、教義レベルの理論的統合にとどまらず、実践・儀礼・生活の次元においても独自の宗教形態を生み出した。その代表が修験道(shugendō)である。修験道は日本古来の山岳信仰を基盤とし、密教・道教・陰陽道など多様な宗教的要素を融合して成立した実践的宗教であり、神仏習合の具体的な結実として理解できる。

一方、日本の宗教的世界を構成するもう一つの重要な層が民俗宗教(minzoku shūkyō)である。祖先崇拝、年中行事、講(kō)組織、民間のシャーマニズムなど、制度的宗教の枠組みに収まらない宗教実践が、日本人の日常生活に深く浸透してきた。

本セクションでは、修験道と民俗宗教の具体的内容を検討したうえで、神道・仏教・民俗信仰が排他的にではなく重層的に共存してきた日本宗教の構造的特質を、「重層信仰」(jūsō shinkō)の概念を軸に考察する。


修験道

Key Concept: 修験道(shugendō) 日本古来の山岳信仰を基盤に、密教(真言宗・天台宗)、道教、陰陽道、神道などの多様な宗教的要素が融合して成立した実践的宗教。山中での厳しい修行(修験)によって験力(げんりき、霊的な力)を獲得することを目的とする。

修験道の成立

修験道の起源は、奈良時代に山岳に入って修行し、呪術的な宗教活動を行った在俗の宗教者たちに求められる。こうした山岳修行者は「優婆塞」(うばそく)と呼ばれ、正規の僧侶ではなく在家の立場で仏教的修行を行う者であった。

修験道の淵源には複数の宗教的伝統が流入している。第一に、日本列島に古くから存在した山岳信仰がある。山は神(カミ)の住まう場所、あるいは祖霊の帰る場所として神聖視されてきた。第二に、中国から伝来した道教の神仙思想があり、山中で修行して不老不死を得るという観念が影響を与えた。第三に、仏教、とりわけ密教の教義・修行体系が決定的な役割を果たした。密教の護摩(ごま)、真言、印契などの実践が修験道の中核的修行法として取り込まれた。さらに陰陽道の呪術的技法も加わり、平安時代末期にはこれらが一つの宗教体系として統合されていった。

役小角と修験道の伝承

修験道の開祖と仰がれるのが役小角(えんのおづぬ、En no Ozunu)、別名役行者(えんのぎょうじゃ、En no Gyōja)である。7世紀後半、大和国葛城山で活動したとされる呪術者で、『続日本紀』(797年成立)には文武天皇3年(699年)に「小角、鬼神を役使す」と記され、呪術的能力を持つ人物として伝えられている。

ただし、役小角に関する記述は伝説的要素が大きく、歴史的実在としての詳細は不明な点が多い。後世の修験道教団が自らの正統性を主張するために、開祖としての役小角像を精緻に構築していった側面がある。役小角は金峯山(きんぷせん、現在の奈良県吉野山)で修行し、蔵王権現(ざおうごんげん)を感得したとされ、この蔵王権現が修験道の主要な本尊となった。

修験の実践

修験道の修行者は山伏(やまぶし)と呼ばれ、その修行の中核は入峰修行(にゅうぶしゅぎょう)である。これは山岳に入って一定期間にわたり厳しい修行を行うもので、峰入りとも呼ばれる。大峯山(奈良県)における奥駈修行(おくがけしゅぎょう)がその代表であり、険しい山道を踏破しながら、各行場(ぎょうば)で滝行、断食、不眠などの苦行を行う。

密教由来の護摩(ごま)は、火を焚いて護摩木を投入し、仏に供養して祈願する儀礼であり、修験道においても重要な行法である。加持祈祷(かじきとう)は、修験者が験力をもって病気治癒や災厄除去を行う呪術的実践であり、修験道が民衆の日常生活と結びつく接点となった。山伏は里に下りて加持祈祷を行い、民衆の宗教的ニーズに応える役割を果たした。

当山派と本山派

中世以降、修験道は大きく二つの組織に分かれて展開した。

当山派(とうざんは) は真言宗系の修験であり、京都の醍醐寺三宝院(さんぼういん)を本山とする。真言密教の教義を基盤とし、大峯山を主要な修行の場とした。

本山派(ほんざんは) は天台宗系の修験であり、京都の聖護院(しょうごいん)を本山とする。天台密教(台密)の教義を基盤とし、熊野三山を主要な修行の場とした。

江戸幕府は慶長18年(1613年)に修験道法度を定め、全国の修験者をこの二派のいずれかに所属させることを義務づけた。これにより修験道は幕藩体制の中に組み込まれ、組織的な統制を受けることとなった。

明治の修験道禁止令と近代以降

明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年(1872年)に修験宗廃止令が発布された。これにより修験道は独立した宗派としての存在を否定され、当山派は真言宗に、本山派は天台宗にそれぞれ強制的に統合された。山伏たちは還俗を迫られ、修験道は制度上消滅した。

しかし、修験道の実践は完全には途絶えなかった。各地の山岳寺院や行者集団が密教寺院の名目で修行を存続させ、戦後の信教の自由の保障のもとで再び公然と活動を再開した。現在も大峯山、出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)、英彦山(ひこさん)などで修験の行が継続されている。宮家準(みやけ ひとし、1933年生)は慶應義塾大学において修験道の総合的研究を推進し、『修験道思想の研究』をはじめとする一連の著作によって、修験道を日本宗教史の中に学術的に位置づけることに貢献した。


民俗宗教

Key Concept: 民俗宗教(minzoku shūkyō / folk religion) 特定の教祖や教義体系を持たず、民衆の日常生活・年中行事・通過儀礼の中に埋め込まれた宗教的実践の総体。制度的宗教(神道・仏教など)と重なりつつも、それに還元されない固有の領域を持つ。

祖先崇拝

Key Concept: 祖先崇拝(sosen sūhai / ancestor worship) 死者の霊魂が子孫を守護するという観念に基づき、死者を祀り供養する宗教的実践。日本では仏教と結びついた形で展開し、盆・彼岸・年忌法要などの体系として定着した。

日本の祖先崇拝は、家(いえ)制度と密接に結びついて発展した。各家庭に仏壇を設けて先祖の位牌(いはい)を祀り、日常的に供養を行うことが広く実践されてきた。

盆(ぼん) は旧暦7月15日を中心とする祖先祭祀の行事である。13日夕方に迎え火を焚いて祖霊を家に迎え、16日に送り火で送り返す。祖霊がこの世に帰還するという観念に基づいており、仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ、ullambana)の影響を受けつつも、日本固有の祖霊信仰と融合した形態をとる。

彼岸(ひがん) は春分・秋分を中心とする各7日間の行事で、墓参りが行われる。盆が祖霊を「迎える」行事であるのに対し、彼岸は祖先に「会いにゆく」行事としての性格が強い。彼岸という名称は仏教用語(波羅蜜多 pāramitā の訳語「到彼岸」に由来)であるが、春分・秋分という太陽暦的な節目と結びつけた祖先祭祀は日本に固有の展開である。

年中行事の宗教的意味

日本の年中行事には、神道・仏教・陰陽道・民俗信仰が複合的に絡み合っている。

正月(しょうがつ) は年神(としがみ)を迎える行事であり、門松・注連縄(しめなわ)・鏡餅はいずれも年神の依代(よりしろ)としての意味を持つ。初詣は神社に参拝することが多いが、寺院への参拝も広く行われ、宗教的帰属の曖昧さを典型的に示す。

節分(せつぶん) は立春の前日に行われる追儺(ついな)の行事であり、豆撒きによる鬼の追放は陰陽道の影響を受けた行事である。七五三(しちごさん) は子供の成長を祝う通過儀礼であり、神社参拝を伴うが、その起源は武家社会の慣習に遡る。

これらの年中行事は、特定の宗教的帰属意識なしに広く実践されており、日本の宗教的世界における制度的宗教と民俗信仰の境界の曖昧さを示している。

講と結社

Key Concept: 講(kō / confraternity) 宗教的・経済的・社交的目的のために結成された民衆の相互扶助的集団。特定の神仏への信仰や巡礼を共同で行う組織であり、近世日本の民衆宗教生活の基盤を形成した。

伊勢講(いせこう) は伊勢神宮への参詣を目的とした講である。講員が費用を積み立て、くじ引き等で代表者(代参者)を選び、伊勢に派遣する代参講の形態が広く行われた。御師(おんし)と呼ばれる伊勢神宮の下級神職が講と師檀関係を結び、講員の祈祷や参詣時の宿泊の便宜を図った。

富士講(ふじこう) は富士山への信仰に基づく講であり、江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と称されるほどの隆盛を見せた。富士講の活動は、定期的に行われる「オガミ(拝み)」と呼ばれる行事と、富士登山(富士詣)から構成される。角行(かくぎょう)を開祖とし、食行身禄(じきぎょうみろく)の殉教(1733年)以降、江戸の町人層に急速に広まった。

庚申講(こうしんこう) は、道教に由来する庚申信仰に基づく講である。道教の「三尸説」(さんしせつ)に基づき、庚申(かのえさる)の日の夜に体内の三尸虫が天帝にその人の罪過を報告するのを防ぐため、一晩中眠らずに過ごす「庚申待」を行った。庚申信仰は仏教(青面金剛)・神道(猿田彦神)とも習合し、各地に庚申塔が建立された。庚申講は宗教的行事であると同時に、地域の社交の場としても機能した。

シャーマニズム的要素

日本の民俗宗教には、シャーマニズム的な要素が広く認められる。

イタコ は東北地方北部(とくに青森県)で口寄せ(くちよせ)を行う巫女(みこ)であり、死者の霊魂を自らの身体に憑依させ、その言葉を伝える「死口」(しにくち)を主要な機能とする。イタコは修行型シャーマン(trained shaman)に分類され、師巫に弟子入りして修行を積み、入巫の儀礼(イニシエーション)を経て一人前となる。恐山のイタコの口寄せは広く知られている。「津軽のイタコの習俗」は国の選択無形民俗文化財に指定されている。

ユタ は沖縄県と鹿児島県奄美群島の民間霊媒師であり、霊的問題の診断や生活上の助言を行う。ユタは召命型シャーマン(called shaman)に分類され、ある日突然に神霊が憑依する体験(カミダーリ)を経て入巫する点で、修行型のイタコとは成巫過程が異なる。

巫女(みこ)は元来、神に仕えて神意を伝達する女性宗教者であり、古代には神懸かりによって託宣を行う重要な宗教的役割を担った。中世以降、制度的な神社の巫女は儀礼的な役割に限定されるようになったが、民間の巫女(市子・口寄せ巫女)は各地でシャーマニズム的実践を継続した。

民間信仰の重層性

民間信仰の領域では、仏教的な信仰対象が民俗的な文脈で独自の展開を見せている。

地蔵信仰 では、地蔵菩薩(Kṣitigarbha)が子供の守護者・道祖神的な存在として民衆に受容された。路傍の地蔵像は道の守り神として信仰され、六地蔵は六道(ろくどう)の衆生を救済する存在として墓地の入口に安置される。賽の河原の伝承と結びついた子供の供養も地蔵信仰の重要な側面である。

観音信仰 では、観音菩薩(Avalokiteśvara)が現世利益をもたらす菩薩として広く信仰された。西国三十三所・坂東三十三所などの観音霊場巡礼が民衆の間に広まり、巡礼は宗教的実践であると同時に旅行・社交の機会でもあった。

七福神 は、恵比寿(日本)、大黒天(インド・ヒンドゥー教)、毘沙門天(インド・仏教)、弁財天(インド・ヒンドゥー教)、福禄寿(中国・道教)、寿老人(中国・道教)、布袋(中国・仏教)という、神道・仏教・道教・ヒンドゥー教に由来する七柱の神を一組とした信仰であり、日本宗教の習合的性格を象徴的に示す事例である。七福神めぐりは江戸時代に流行し、現在も正月の行事として各地で行われている。


日本宗教の重層性

Key Concept: 重層信仰(jūsō shinkō / layered religiosity) 日本の宗教的世界において、神道・仏教・民俗信仰などの複数の宗教的伝統が排他的に対立するのではなく、層をなして共存・浸透し合っている構造を指す概念。

「重層信仰」の概念

日本人の宗教生活の特質として、複数の宗教的伝統に同時に関与するという現象が古くから指摘されてきた。岸本英夫(きしもと ひでお、1903-1964)は東京大学で宗教学を主宰し、ハーバード大学での研究経験も踏まえて、日本の宗教現象を比較宗教学的に分析する基盤を築いた。岸本は宗教を個人の「聖なるもの」への関わり方として捉え、制度的宗教の枠組みだけでは把握できない日本人の宗教性の特質に注目した。

安丸良夫(やすまる よしお、1934-2016)は一橋大学で近世・近代日本の民衆思想史を研究し、『神々の明治維新』(1979年)において、明治政府の宗教政策が民衆の重層的な宗教生活をいかに再編しようとしたかを分析した。安丸は「通俗道徳」の概念を提唱し、勤勉・倹約・正直といった世俗的な倫理規範が宗教的基盤を持つことを論じた。新宗教の勃興を民衆の宗教意識の変容という文脈で捉え、日本宗教史の社会史的研究に大きな貢献をした。

神道・仏教・民俗信仰の共存構造

日本の宗教的世界では、個人が複数の宗教的伝統に同時に帰属することが一般的である。典型的には、正月には神社に初詣に行き、葬儀は仏式で行い、結婚式はキリスト教式で挙げるといった行動様式に見られる。このような「使い分け」は、一神教的な宗教観からは矛盾と映るが、日本の宗教的文脈では自然な営みとして受容されてきた。

家庭内においても、神棚(かみだな)と仏壇が併存することが広く見られる。神棚には天照大御神や氏神の神札を祀り、仏壇には先祖の位牌を安置する。神棚は家の繁栄と安全を、仏壇は祖先の供養をそれぞれ担うという機能的な分担が成立している。

この共存構造の成立には、Section 1で論じた神仏習合の歴史的展開が前提となっている。本地垂迹説による理論的な統合が、神仏の共存を教義的に正当化し、それが明治の神仏分離以降も生活慣行のレベルでは継続してきたのである。

「習合」の論理と一神教との対比

日本宗教の重層性を理解するうえで、排他的一神教(exclusive monotheism)との対比は有益な視角を提供する。ユダヤ教・キリスト教・イスラームに見られる一神教的伝統では、唯一神への信仰が要請され、他の神々への帰依は偶像崇拝として禁じられる。信仰の排他性が宗教的アイデンティティの核を構成する。

これに対し、日本の宗教的伝統では、異なる宗教的体系の間に排他的な境界線を設定しないことが構造的な特徴となっている。「習合」の論理とは、異なる起源を持つ宗教的要素を矛盾なく統合しうるという前提であり、先述の修験道や七福神信仰はまさにこの論理の具体的な表現である。ただし、この「寛容さ」は一神教に対する日本宗教の「優位性」を意味するものではなく、宗教が社会の中で果たす機能や、個人と宗教との関わり方が構造的に異なることを示しているにすぎない。

graph TD
    A[日本宗教の重層構造]
    A --> B[制度的宗教層]
    A --> C[民俗宗教層]
    A --> D[習合的宗教層]

    B --> B1[神道<br/>神社・祭祀]
    B --> B2[仏教<br/>寺院・葬祭]

    C --> C1[祖先崇拝<br/>盆・彼岸]
    C --> C2[年中行事<br/>正月・節分]
    C --> C3[講・結社<br/>伊勢講・富士講]
    C --> C4[シャーマニズム<br/>イタコ・ユタ]

    D --> D1[修験道<br/>山岳信仰+密教]
    D --> D2[民間信仰<br/>地蔵・観音・七福神]

    B1 -.->|神仏習合| B2
    B1 -.->|習合| D1
    B2 -.->|習合| D1
    C1 -.->|仏教化| B2
    C3 -.->|組織化| B1
    D2 -.->|浸透| C

柳田國男の民俗学と宗教研究

柳田國男(やなぎた くにお、1875-1962)は日本民俗学の創始者であり、その研究は日本の民俗宗教の理解に決定的な影響を与えた。農商務省の官僚として東北地方の農村を調査した経験から、文献史料に現れない「常民」(じょうみん、common people)の生活世界に目を向け、口承伝承・慣習・信仰の体系的な収集と分析を開始した。

『遠野物語』(1910年)は岩手県遠野地方の伝承を記録した作品であり、山の神・座敷童子(ざしきわらし)・河童(かっぱ)などの超自然的存在に関する民間伝承を収録している。『先祖の話』(1946年)では、日本人の祖先崇拝の構造を論じ、死者の霊魂が一定期間を経て個性を失い、やがて祖霊(それい)として共同体の守護神と融合するという「祖霊信仰」のモデルを提示した。

柳田の祖霊信仰論は、日本の宗教的世界において仏教以前から存在する固有の死生観を析出しようとした試みであった。ただし、柳田の研究には、日本文化の固有性を強調するあまり、外来宗教の影響を過小評価する傾向があったことが後の研究者から批判されている。

宮家準の修験道研究

宮家準は修験道の学術的研究を体系化した第一人者である。1969年に慶應義塾大学に提出した学位論文『修験道の研究』以降、修験道を日本の神道・仏教・民俗信仰との関係の中に位置づける総合的な研究を展開した。1974年にはハーバード大学世界宗教研究センターの客員研究員として修験道研究の国際的な発信にも寄与した。

宮家の研究の特色は、修験道を単なる密教の一変種としてではなく、日本の多層的な宗教的伝統の交差点として把握した点にある。著書『神道と修験道——民俗宗教思想の展開』(2007年)では、神道・修験道・民俗宗教の三者の思想的連関を分析し、修験道が日本の宗教的世界の重層性を体現する存在であることを論じた。宮家は日本山岳修験学会の名誉会長を務め、修験道研究の学問的基盤の確立に貢献した。


まとめ

  • 修験道は日本古来の山岳信仰を基盤に、密教・道教・陰陽道・神道が融合して平安時代末期に成立した実践的宗教であり、神仏習合の具体的結実として位置づけられる
  • 修験道は当山派(真言宗系)と本山派(天台宗系)に組織化され、江戸幕府の統制下に置かれたが、明治5年の修験宗廃止令で制度的に解体された。しかし実践は存続し、戦後に再興された
  • 日本の民俗宗教は、祖先崇拝(盆・彼岸)、年中行事、講組織、シャーマニズム的実践、民間信仰(地蔵・観音・七福神)など多層的な構造を持ち、制度的宗教と相互浸透している
  • 日本宗教の重層性は、神道・仏教・民俗信仰が排他的にではなく層をなして共存する構造であり、一神教的な排他的帰属とは異なる宗教的世界の在り方を示している
  • 柳田國男は民俗学の立場から日本固有の祖霊信仰を析出し、宮家準は修験道を日本宗教の重層性の結節点として学術的に体系化した

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
修験道 shugendō 山岳信仰を基盤に密教・道教等が融合した実践的宗教
役小角 En no Ozunu / En no Gyōja 7世紀の呪術者。修験道の開祖と仰がれる伝説的人物
山伏 yamabushi 修験道の修行者。山中で修行し験力を得ることを目指す
入峰修行 nyūbu shugyō 山岳に入って一定期間行う修験道の中核的修行
護摩 goma 密教由来の火を用いた供養・祈願の儀礼
加持祈祷 kaji kitō 修験者が験力をもって行う病気治癒・災厄除去の呪術的実践
当山派 Tōzan-ha 真言宗系の修験道の一派。醍醐寺三宝院を本山とする
本山派 Honzan-ha 天台宗系の修験道の一派。聖護院を本山とする
民俗宗教 minzoku shūkyō / folk religion 教祖や教義体系を持たない民衆の宗教的実践の総体
祖先崇拝 sosen sūhai / ancestor worship 死者の霊魂を祀り供養する宗教的実践
Bon / Obon 旧暦7月15日を中心とする祖先祭祀の行事
彼岸 Higan 春分・秋分を中心とする墓参りの行事
kō / confraternity 宗教的・経済的・社交的目的の民衆の相互扶助的集団
庚申講 Kōshin-kō 道教の三尸説に基づく庚申信仰の講組織
イタコ itako 東北地方北部の口寄せを行う巫女(修行型シャーマン)
ユタ yuta 沖縄・奄美の民間霊媒師(召命型シャーマン)
重層信仰 jūsō shinkō / layered religiosity 複数の宗教的伝統が層をなして共存する日本宗教の構造的特質
常民 jōmin / common people 柳田國男が民俗学の研究対象とした一般庶民

確認問題

Q1: 修験道の成立に関与した宗教的伝統を列挙し、それぞれがどのような要素を提供したかを説明せよ。

A1: 修験道の成立には以下の宗教的伝統が関与した。(1) 日本古来の山岳信仰:山を神聖な場所・祖霊の帰る場所として崇拝する基盤を提供。(2) 密教(真言宗・天台宗):護摩・真言・印契などの修行法と教義体系を提供し、修験道の実践の中核を形成。(3) 道教:神仙思想(山中修行による不老不死の獲得)の観念を提供。(4) 陰陽道:呪術的技法を提供。(5) 神道:神(カミ)への信仰が山岳の神聖性と結びついた。これらが平安時代末期に一つの宗教体系として統合された。

Q2: 伊勢講・富士講・庚申講の三者について、それぞれの信仰対象・主な活動内容・社会的機能を比較せよ。

A2: 伊勢講は伊勢神宮への参詣を目的とし、費用の積立と代参者の派遣を主な活動とした。御師との師檀関係が特徴的であった。富士講は富士山への信仰に基づき、定期的な拝みの行事と富士登山を活動の柱とし、江戸の町人層に広まった。庚申講は道教の三尸説に由来する庚申信仰に基づき、庚申の夜に一晩中起きている「庚申待」を行った。三者に共通する社会的機能として、宗教的実践の場であると同時に、地域の社交・相互扶助の場として機能した点が挙げられる。

Q3: イタコとユタの相違点を、成巫過程(シャーマンになるプロセス)の観点から説明せよ。

A3: イタコは修行型シャーマン(trained shaman)に分類され、師巫に弟子入りして一定期間の修行を積み、入巫のイニシエーション儀礼を経て一人前の巫女となる。これに対しユタは召命型シャーマン(called shaman)に分類され、ある日突然に神霊が憑依するカミダーリの体験によって入巫する。すなわち、イタコは意図的・計画的な修行によって能力を獲得するのに対し、ユタは超自然的な召命によって不随意的にシャーマンとなる点で成巫過程が根本的に異なる。

Q4: 日本宗教における「重層信仰」の構造を、一神教的宗教観との対比を含めて論じよ。

A4: 日本宗教の重層信仰とは、神道・仏教・民俗信仰などの複数の宗教的伝統が排他的に対立せず、層をなして共存・浸透し合う構造を指す。個人が正月に神社を参拝し、葬儀を仏式で行い、日常的に民俗的な年中行事に参加するといった行動様式がその典型である。家庭内でも神棚と仏壇が併存し、機能的に分担している。これに対し一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラーム)では唯一神への排他的帰依が要請され、他の神々への帰依は禁じられる。この対比は宗教の優劣ではなく、宗教が社会の中で果たす機能と個人の宗教への関わり方が構造的に異なることを示している。日本の重層信仰の基盤には、神仏習合の歴史的展開と、異なる宗教的要素を矛盾なく統合しうるという「習合」の論理がある。

Q5: 柳田國男の祖霊信仰論の骨子を説明し、その学術的意義と批判点を述べよ。

A5: 柳田國男は『先祖の話』(1946年)において、日本人の死生観の固有構造を論じた。柳田のモデルでは、死者の霊魂は一定期間を経て個性を失い、やがて祖霊として共同体の守護神と融合するとされる。この祖霊信仰論の意義は、仏教伝来以前から存在する日本固有の宗教的死生観を、民俗学的方法によって析出しようとした点にある。常民の口承伝承や生活慣行から宗教的観念を再構成するという方法論的革新も重要である。一方、批判点としては、日本文化の固有性を強調するあまり、仏教や道教など外来宗教が祖先崇拝に与えた影響を過小評価する傾向があったことが指摘されている。