コンテンツにスキップ

Module 2-6 - Section 4: 近代の宗教政策と現代日本の宗教状況

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 2-6: 日本宗教史
前提セクション Section 1, Section 2
想定学習時間 4時間

導入

Section 2で概観した近世の檀家制度・寺請制度は、徳川幕府による宗教統制の基盤であった。しかし明治維新(1868年)による体制転換は、日本の宗教地図を根底から変容させる。本セクションでは、明治政府の神仏分離政策に始まる近代国家と宗教の関係を追い、国家神道体制の形成と崩壊、そしてその間隙から生まれた新宗教の展開を概観する。さらに現代日本における「無宗教」意識や「葬式仏教」問題など、今日の宗教状況を構造的に把握する。

Module 2-6の最終セクションとして、古代から現代に至る日本宗教史の通史的理解を完結させるとともに、次のModule 2-7「カルト・新宗教研究」への橋渡しを行う。


神仏分離と廃仏毀釈

神仏分離令の発布

慶応4年(1868年)3月、明治新政府は「祭政一致」の理念のもと、神祇官を太政官の上位に復活させ、一連の神仏分離令(「神仏判然令」とも称される)を発布した。具体的には、神社に奉仕する別当・社僧の還俗、神社における仏像・仏具(梵鐘、鰐口など)の撤去、神名への仏教的呼称(権現、牛頭天王など)の禁止が命じられた。

この政策の背景には、Section 1で触れた復古神道・国学の影響がある。平田篤胤の門流を中心とする国学者たちが新政府に参画し、神仏習合の解体と神道の国教化を推進した。政府の意図は仏教そのものの破壊ではなく、あくまで神仏の「分離」であったが、現場においてはしばしば暴力的な排仏運動へと転化した。

廃仏毀釈運動

Key Concept: 廃仏毀釈(haibutsu kishaku) 「仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する」の意。明治初年の神仏分離政策を契機として各地で発生した仏教排斥運動。寺院の破壊、仏像・経典の焼却、僧侶の還俗強制など、地域によって激しさに差があった。

廃仏毀釈の程度は地域によって大きく異なった。薩摩藩(鹿児島県)では藩主島津家の方針により、藩内1066寺が全廃され、僧侶2966人が還俗させられた。松本藩(長野県)でも全200余寺のうち大半が廃された。一方、浄土真宗の勢力が強い北陸地方では比較的抵抗が強く、被害は限定的であった。

興福寺(奈良)では五重塔が25円(一説に250円)で売りに出され、買い手がつかず焼却が検討されたが、周辺への延焼の危険から免れたという逸話が残る。全国的には、明治元年から9年ごろまで破壊活動が続き、数万点にのぼる仏教美術品が失われたとされる。

修験道の廃止と再編

明治5年(1872年)9月、太政官布告第273号「修験宗廃止令」が布告された。神仏習合の典型であった修験道は、近代的宗教分類に適合しない存在とみなされ、本山派修験は天台宗へ、当山派修験は真言宗への帰属を命じられた。修験者(山伏)は寺院の僧侶となるか、神主に転身するか、帰農するかの選択を迫られ、修験道は制度上解体された。

ただし、民間レベルでの修験的実践は完全には消滅せず、明治19年(1886年)には「天台宗修験派」として部分的な再興が図られた。


国家神道

国家神道の形成

Key Concept: 国家神道(kokka shintō / State Shinto) 明治政府が構築した、天皇を中心とする国家的祭祀体制。神社を「宗教にあらず」とする神社非宗教論に立脚し、国民統合の精神的基盤として機能した。1945年のGHQ「神道指令」により解体された。

国家神道の形成は一直線ではなく、試行錯誤を伴った。当初、明治政府は大教宣布の詔(1870年)を発して神道の国教化を目指し、大教院を設立して神仏合同の布教体制(教導職制度)を敷いた。しかし浄土真宗などの仏教各派が反発し、1875年に神仏合同布教は中止された。

この失敗を経て、1882年に「祭祀と宗教の分離」が行われた。神官は布教活動を禁止され、神社は宗教施設ではなく「国家の宗祀」として位置づけられた。ここに「神社非宗教論」が確立する。神社は宗教ではないがゆえに、信教の自由を定めた大日本帝国憲法第28条と矛盾しないという論理構成である。

教派神道の分離

祭祀と宗教の分離に伴い、教祖を持ち教義を説く神道系の教団は「教派神道」として神社神道から区別された。最終的に13派が公認され、天理教、金光教、黒住教、出雲大社教などが含まれた。教派神道は宗教として扱われ、布教活動が許されたが、国家からの財政的支援は受けられなかった。

天皇制と宗教

国家神道体制において、天皇は「現人神」として神聖不可侵の存在とされた。1890年に発布された教育勅語は、忠孝を基軸とする国民道徳の規範を示し、全国の学校で奉読が義務づけられた。教育勅語は法的には宗教文書ではないとされたが、事実上、国家神道の教典的機能を果たした。

靖国神社は1869年(明治2年)に東京招魂社として創建され、1879年に靖国神社と改称された。戊辰戦争以降の戦没者を「英霊」として祀る同社は、陸軍省・海軍省が管轄する特殊な神社であり、国家のために命を捧げることの宗教的意味づけを与える装置として機能した。

宗教団体法と宗教統制

1939年(昭和14年)、宗教団体法が制定された。「保護監督」を名目としつつ、実質的には宗教団体を国家の管理下に置き、国家神道に従属させることが目的であった。同法のもとで文部大臣は宗教団体の設立認可権・解散命令権を持ち、教義の変更にも干渉しうる強大な権限を有した。

戦時体制下では、大本への弾圧(後述)やキリスト教諸教派の強制統合(日本基督教団の成立、1941年)など、宗教統制が強化された。1945年12月、GHQの「神道指令」により国家神道は解体され、宗教団体法も廃止されて宗教法人令(のちに宗教法人法、1951年)に置き換えられた。


新宗教の展開

幕末維新期の新宗教

Key Concept: 新宗教(shin shūkyō / new religions) 幕末から現代にかけて成立した宗教運動の総称。既成仏教や神社神道とは異なる教祖の宗教体験に基づき、現世利益・病気治癒・心直しなどを説く教団が多い。日本の宗教史における重要な特徴の一つである。

幕末から明治初期にかけて、社会変動のなかで民衆のあいだから新たな宗教運動が次々と生まれた。

天理教: 中山みき(1798-1887)が天保9年(1838年)に神懸かりを体験し、「月日親神(つきひおやがみ)」の啓示を受けたことに始まる。「陽気ぐらし」(人間本来の明るい生活)の実現を説き、「おつとめ」(祈祷舞踊)と「おさづけ」(病気治癒の儀礼)を実践の柱とする。明治期に教派神道の一つとして公認された。

金光教: 赤沢文治(のちの金光大神、1814-1883)が安政6年(1859年)に「天地金乃神」の神意を伝える「取次」を開始した。祟り神と恐れられていた金神を慈愛の神として再解釈し、神と人の間を「取次ぐ」ことで人々の苦難を救済するとした。

大本(おおもと): 出口なお(1837-1918)が明治25年(1892年)に「艮の金神(うしとらのこんじん)」の神懸かりを起こし、「筆先」と呼ばれる自動書記で世の立替え立直しを予言したことに始まる。出口王仁三郎(1871-1948)が組織化と教義体系化を担い、大正期に急速に拡大した。しかし国家神道体制と対立し、第一次大本事件(1921年、不敬罪による弾圧)および第二次大本事件(1935年、治安維持法による壊滅的弾圧)を受けた。第二次事件では全国で約3000人が検挙され、本部施設はダイナマイトで破壊された。大本は多くの新宗教(世界救世教、生長の家など)の母体ともなった点で宗教史上重要である。

戦後新宗教

1945年の敗戦と国家神道の解体は、宗教の自由化をもたらした。GHQの宗教法人令のもと、「神々のラッシュアワー」と形容されるほど多数の宗教団体が乱立した。そのなかで組織的に大きく成長した教団がいくつかある。

創価学会: 牧口常三郎(1871-1944)が1930年に創価教育学会として創立。日蓮正宗の信仰を基盤とし、「価値創造」を理念とする。牧口は戦時中に治安維持法違反で投獄され獄死した。戦後、第2代会長戸田城聖(1900-1958)のもとで「折伏大行進」と呼ばれる積極的布教を展開し、都市部の労働者層を中心に急拡大した。第3代会長池田大作(1928-2023)の時代には公明党を結成(1964年)して政界に進出し、日本最大の新宗教教団に成長した(公称世帯数827万)。1991年に日蓮正宗と決別し、独自の教団運営を行っている。

立正佼成会: 庭野日敬(1906-1999)と長沼妙佼(1889-1957)が1938年に創立。法華経信仰を基盤とし、「法座」と呼ばれる小集団での対話的実践を特色とする。世界宗教者平和会議(WCRP)への参画など、宗教間対話にも積極的である。

新新宗教の概観

Key Concept: 新新宗教(shin-shin shūkyō) 1970年代以降に台頭した新興宗教運動の総称(西山茂による造語)。個人の霊的体験や自己変革を重視し、従来の新宗教とは異なる特徴を示す。阿含宗、真如苑、幸福の科学、オウム真理教などが含まれる。

1970年代以降、高度経済成長の終焉とポストモダン的状況のなかで、従来の新宗教とは性格を異にする宗教運動が台頭した。これらは「新新宗教」と総称される。組織への帰属よりも個人の霊的体験・自己実現を重視する傾向、メディアの積極的活用、世界終末論的要素などを特徴とする。新新宗教の詳細な分析、とりわけカルト問題については、Module 2-7「カルト・新宗教研究」で展開する。


現代日本の宗教状況

「無宗教」の意味

Key Concept: 「無宗教」(mushūkyō) 日本人の多くが自己の宗教的立場を形容する際に用いる表現。特定の宗教教団に帰属しないことを意味し、宗教的実践や信仰心の完全な欠如を必ずしも意味しない。

国際比較調査において、日本は「無宗教」を自認する人の割合が突出して高い(調査によって60〜70%程度)。しかしこの「無宗教」は、無神論(atheism)とは異なる独特の概念である。「無宗教」を自認する日本人の多くが、初詣に参拝し、葬儀は仏式で行い、クリスマスを祝う。つまり「無宗教」は特定の教団・教義へのコミットメントの不在を指しており、宗教的行為や心性の不在ではない。

この現象の背景には、(1)近世の檀家制度が強制的帰属であったことへの反動、(2)国家神道の崩壊後に代替的な宗教的帰属意識が形成されなかったこと、(3)戦後の新宗教への社会的警戒感、(4)「宗教=危険なもの」という1995年のオウム事件以降のメディア言説、などの要因が指摘されている。

葬式仏教問題

Key Concept: 葬式仏教(sōshiki bukkyō) 日本仏教が葬祭儀礼の執行に特化した存在となっている状況を批判的に表す語。檀家制度に依存した寺院経営モデルの限界を象徴する。

日本の仏教寺院の多くは、近世以来の檀家制度を経営基盤としてきた。しかし都市化・過疎化・少子高齢化により檀家数は減少の一途にあり、全国約77,000の仏教寺院のうち、約40%が無住(住職不在)または兼務状態にあるとされる。

「葬式仏教」という批判は、仏教が本来の教えの実践や社会的役割を喪失し、葬儀と法事の執行機関に矮小化されていることを指す。近年は「直葬」(通夜・告別式を省略する葬送形態)の増加、散骨・樹木葬など墓制の多様化、「墓じまい」の増加も見られ、仏教寺院を取り巻く環境は構造的な転換期にある。一方で、「寺カフェ」「坊主バー」など新たな社会的接点を模索する寺院も現れている。

スピリチュアリティブームと新霊性運動

島薗進は、1970年代以降の日本で広がった霊的な関心の高まりを「新霊性運動(new spirituality movements)」と概念化した。これは特定の教団に属さず、個人の内面的な霊的体験・癒し・自己変革を追求する動向であり、ニューエイジ運動の日本的展開ともいえる。ヨーガ、瞑想、占い、パワースポット巡り、スピリチュアルカウンセリングなどが含まれ、「宗教ではないが霊的なもの」(spiritual but not religious)という志向を体現する。

この現象は、組織宗教の衰退と「無宗教」意識の広がりと表裏一体である。宗教的ニーズそのものが消滅したのではなく、その充足形態が教団帰属型から個人消費型へと変容していると解釈できる。

宗教の個人化・私事化

現代日本の宗教状況を総合すると、トマス・ルックマン(Thomas Luckmann, 1927-2019)の「見えない宗教(invisible religion)」論やブライアン・ウィルソン(Bryan Wilson, 1926-2004)の世俗化論が一定の説明力を持つ。宗教は公共領域から退き、個人の私的選択の領域へと移行している。しかし日本の場合、「世俗化」は単線的な宗教の衰退ではなく、宗教的なものの変容・拡散として理解するのが適切である。初詣、七五三、地鎮祭、クリスマスなどの行事は依然として広く実践されており、宗教的行為は「文化」「慣習」として再コード化されることで存続している。


近代日本の宗教政策と新宗教の展開

timeline
    title 近代日本の宗教政策と新宗教の展開
    1838 : 中山みき神懸かり(天理教の起源)
    1859 : 金光大神の取次開始(金光教の起源)
    1868 : 明治維新・神仏分離令
    1870 : 大教宣布の詔
    1872 : 修験宗廃止令
    1882 : 祭祀と宗教の分離・教派神道13派の成立
    1889 : 大日本帝国憲法発布
    1890 : 教育勅語発布
    1892 : 出口なお神懸かり(大本の起源)
    1921 : 第一次大本事件
    1930 : 創価教育学会創立
    1935 : 第二次大本事件
    1938 : 立正佼成会創立
    1939 : 宗教団体法制定
    1945 : GHQ神道指令・国家神道解体
    1951 : 宗教法人法制定
    1964 : 公明党結成
    1970s : 新新宗教の台頭
    1995 : オウム真理教事件

まとめ

  • 明治政府は神仏分離令により神仏習合体制を解体し、結果として廃仏毀釈運動が各地で発生した。修験道も制度上廃止された
  • 国家神道は「神社非宗教論」に立脚して国民統合の精神的基盤として機能し、教育勅語・靖国神社・宗教団体法などを通じて宗教統制を行った
  • 幕末から現代にかけて、天理教・金光教・大本・創価学会・立正佼成会など多様な新宗教が展開した。大本への弾圧は国家神道体制の暴力性を象徴する
  • 現代日本では「無宗教」意識が広がる一方、宗教的行為は「文化」「慣習」として存続しており、宗教的ニーズは個人化・私事化の方向に変容している
  • 葬式仏教問題は、檀家制度の崩壊と仏教寺院の構造的危機を示している
  • スピリチュアリティブームに見られるように、宗教の衰退ではなく宗教的なものの変容として理解すべきである

Module 2-6全体の振り返り: 本モジュールでは、古代の神仏習合(Section 1)から近世の仏教諸宗派と檀家制度(Section 2)、そして近代の国家神道と新宗教(本セクション)に至るまで、日本宗教史の通時的展開を追った。日本の宗教的伝統は、外来宗教の受容と土着化、神仏の習合と分離、国家と宗教の緊張関係という力学のなかで形成されてきた。

Module 2-7への接続: 次のModule 2-7「カルト・新宗教研究」では、本セクションで概観した新宗教・新新宗教について、カルト論の分析枠組み(ブレインウォッシング論争、社会的逸脱論など)を用いてより深く検討する。1995年のオウム真理教事件は日本社会における宗教観を決定的に変容させた事件であり、その分析が中心的なテーマとなる。

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
廃仏毀釈 haibutsu kishaku 明治初年に神仏分離政策を契機として発生した仏教排斥運動
国家神道 State Shinto (kokka shintō) 明治政府が構築した天皇を中心とする国家的祭祀体制
神社非宗教論 Shrine non-religion theory 神社は宗教ではなく国家の宗祀であるとする公権法解釈
教派神道 Sect Shinto (kyōha shintō) 教祖を持ち教義を説く神道系教団の総称(公認13派)
教育勅語 Imperial Rescript on Education 1890年発布の国民道徳の規範文書
宗教団体法 Religious Organizations Act 1939年制定の宗教統制法。宗教法人法の前身
新宗教 new religions (shin shūkyō) 幕末以降に成立した新たな宗教運動の総称
新新宗教 new new religions (shin-shin shūkyō) 1970年代以降に台頭した新興宗教運動の総称
「無宗教」 mushūkyō 特定教団への非帰属を意味する日本的宗教意識
葬式仏教 funeral Buddhism (sōshiki bukkyō) 仏教が葬祭儀礼に特化した状況への批判的呼称
新霊性運動 new spirituality movements 島薗進が概念化した、教団に属さない個人的霊性追求の動向

確認問題

Q1: 明治政府の神仏分離政策と廃仏毀釈運動の関係について、政府の意図と実際の展開の差異に焦点を当てて説明せよ。

A1: 明治政府の神仏分離令は、神道の国教化のために神社から仏教的要素を排除する「分離」を命じたものであり、仏教の破壊を直接的に意図したものではなかった。しかし、国学者の影響下にある地方官吏や民衆が政策を拡大解釈し、寺院の破壊、仏像・経典の焼却、僧侶の強制還俗といった暴力的な廃仏毀釈運動に発展した。その程度は地域差が大きく、薩摩藩のように藩内の寺院をほぼ全廃した地域から、浄土真宗が強く抵抗した北陸のように被害が限定的だった地域まで多様であった。

Q2: 「神社非宗教論」とは何か。それが国家神道体制においてどのような機能を果たしたか論じよ。

A2: 神社非宗教論とは、神社は宗教施設ではなく「国家の宗祀」であるとする公権法解釈である。1882年の祭祀と宗教の分離により確立し、神官の布教活動を禁止する代わりに、神社参拝を宗教行為ではなく国民の義務として位置づけた。この論理により、大日本帝国憲法第28条が保障する信教の自由と、国民に神社参拝を事実上強制する国家神道体制とが法的に矛盾しないとされた。すなわち神社非宗教論は、近代的な信教の自由の原則と、国家による宗教的統合という相反する要請を両立させるためのイデオロギー装置として機能した。

Q3: 大本が二度にわたり国家から弾圧を受けた理由を、国家神道体制との関係から分析せよ。

A3: 大本が弾圧された理由は複合的である。第一に、大本が「国常立尊」を最高神として祀ったことが、天照大神を皇祖神とする国家神道の神学体系を脅かした。第二に、出口王仁三郎のカリスマ的影響力が軍部幹部にまで及び、国家統制の観点から危険視された。第三に、「世の立替え立直し」という終末論的教義が、現体制の否定と受け取られた。第一次事件(1921年)では不敬罪が適用され、第二次事件(1935年)では治安維持法が適用されて約3000人が検挙・本部施設が物理的に破壊された。これは国家神道体制が天皇の宗教的権威を脅かす可能性のある宗教運動を暴力的に排除した事例であり、宗教団体法(1939年)制定の前史ともなった。

Q4: 現代日本における「無宗教」意識と宗教的実践の乖離について、具体例を挙げて構造的に説明せよ。

A4: 日本人の60〜70%が「無宗教」を自認する一方で、初詣には毎年数千万人が参拝し、葬儀の大半は仏式で行われ、クリスマスや七五三も広く実践されている。この乖離は、日本語の「無宗教」が無神論ではなく、特定の教団・教義へのコミットメントの不在を意味することに起因する。宗教的行為は「文化」「慣習」として再コード化されることで、宗教的自己認識と切り離されたまま存続している。この構造の背景には、(1)近世の檀家制度の強制性への反動、(2)国家神道崩壊後の宗教的帰属意識の不在、(3)オウム事件以降の「宗教=危険」という社会的言説、(4)宗教的ニーズの個人化・私事化への変容がある。

Q5: 「葬式仏教」批判の内容と、それが生じた歴史的・社会的背景を説明せよ。

A5: 「葬式仏教」批判は、日本の仏教寺院が本来の教えの実践や社会的役割を喪失し、葬儀・法事の執行機関に矮小化されているという指摘である。この状況は、近世の檀家制度・寺請制度に歴史的起源を持つ。幕府が宗教統制の手段として全住民を特定寺院に帰属させた結果、寺院は葬祭儀礼と戸籍管理を主な業務とする機関となった。近代以降もこの構造が継続したが、現代では都市化・過疎化・少子高齢化により檀家が減少し、全国約77,000寺院の約40%が無住・兼務状態にあるとされる。直葬の増加、墓制の多様化(散骨・樹木葬)、「墓じまい」の広がりは、檀家制度に依存した寺院経営モデルの構造的限界を示している。