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Module 2-9 - Section 2: 認知科学的宗教研究

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 2-9: 宗教心理学・認知科学的宗教学
前提セクション Section 1(古典的宗教心理学と回心)
想定学習時間 6時間

導入

認知科学的宗教研究(Cognitive Science of Religion, 以下CSR)は、1990年代に本格的に成立した学際的研究領域であり、宗教的信念・行動・制度を人間の認知構造の産物として説明しようとする。Section 1で概観したジェイムズ、フロイト、ユングの古典的宗教心理学が主として臨床的観察や文学的記述に基づいていたのに対し、CSRは認知心理学・発達心理学・進化心理学の実験的方法論を宗教現象の分析に導入した点に最大の特徴がある。

CSRの基本的テーゼは、宗教は特別な「宗教的認知」によって生じるのではなく、人間が日常的に用いている通常の認知メカニズム――行為者の検出、心的状態の帰属、直感的な存在論的カテゴリーの適用――の副産物(by-product)ないし転用として発生する、というものである。本セクションでは、CSRの理論的基盤である心のモジュール性の概念を導入した後、パスカル・ボイヤーの最小限直感的違反(MCI)理論、ジャスティン・バレットの過敏な行為者検出装置(HADD)仮説、スコット・アトランの聖なる価値観論を順次検討し、CSRの方法論的特徴と古典的宗教心理学との関係を整理する。


心のモジュール性と直感的存在論

フォーダーのモジュール性理論

CSRの理論的前提となるのは、心のモジュール性(modularity of mind)に関する認知科学の知見である。ジェリー・フォーダー(Jerry A. Fodor, 1935-2017)は『心のモジュール性』(The Modularity of Mind, 1983)において、人間の認知系が汎用的な単一の処理装置ではなく、特定の情報領域に特化した複数のモジュール(module)から構成されるという仮説を提示した。

Key Concept: 心のモジュール性(Modularity of Mind) 人間の認知系が、特定の情報領域に特化した複数の処理装置(モジュール)から構成されるとする理論。各モジュールは領域固有性(domain-specificity)と情報的隔離性(informational encapsulation)を特徴とし、他のモジュールや中央処理系からの干渉を受けずに自動的に作動する。

フォーダーが挙げたモジュールの主要な特性には、(1) 領域固有性(特定の入力情報のみを処理する)、(2) 情報的隔離性(モジュール内の処理は他の認知情報に影響されない)、(3) 作動の義務性(入力があれば自動的に処理が開始される)、(4) 処理速度の高さ、(5) 浅い出力(意識的推論を経ずに知覚的判断を生成する)がある。フォーダー自身はモジュール性を知覚系や言語処理系に限定したが、進化心理学者のレダ・コスミデス(Leda Cosmides)とジョン・トゥービー(John Tooby)はこれを拡張し、社会的推論・危険検出・配偶者選択などの領域にも領域固有的な認知メカニズムが存在すると主張した。CSRはこの拡張されたモジュール性の枠組みを宗教現象の説明に援用する。

直感的存在論と民俗的認知

CSRの研究者たちは、人間が生得的に(あるいは発達の非常に早い段階で)獲得する直感的存在論(intuitive ontology)の体系に注目する。これは世界に存在する事物を基本的なカテゴリーに分類し、各カテゴリーに固有の期待(expectations)を自動的に適用する認知枠組みである。

主要な直感的存在論カテゴリーには以下のものがある。

カテゴリー 別称 適用される期待の例
物理的対象 民俗物理学(folk physics) 固体性、重力の影響、空間的連続性
生物 民俗生物学(folk biology) 成長、生殖、死、内的本質(essence)
行為者(人間等) 民俗心理学(folk psychology) 志向性(意図・信念・欲求)、目的指向的行動

これらの直感的期待は、発達心理学の研究によれば生後数ヶ月の乳児にも確認される。たとえば、乳児は固体の物体が壁を通り抜ける場面を見せられると驚きを示す(民俗物理学の違反の検出)。ボイヤーやバレットは、宗教的概念がこれらの直感的存在論カテゴリーに対する特定の違反として構造化されていることを示した。


パスカル・ボイヤーのMCI理論

「宗教は自然だ」

パスカル・ボイヤー(Pascal Boyer, 1957-)は、フランス生まれでアメリカのワシントン大学セントルイス校で研究する認知人類学者であり、CSRの創始者の一人である。主著『神はなぜいるのか?――宗教の進化的起源』(Religion Explained: The Evolutionary Origins of Religious Thought, 2001)において、ボイヤーは宗教的概念の文化的普遍性と多様性を認知メカニズムから統一的に説明する理論を展開した。

ボイヤーの出発点は、宗教的概念は人間の通常の認知能力の副産物(by-product)として「自然に」生じるという主張である。宗教を説明するために特別な「宗教本能」や「宗教遺伝子」を想定する必要はない。むしろ、行為者検出、社会的交換の監視、汚染回避、死者の表象といった、進化的に獲得された汎用的認知メカニズムが、特定の条件下で宗教的表象を生成する。

最小限直感的違反(MCI)

ボイヤーの理論の核心をなすのが最小限直感的違反(Minimally Counter-Intuitive concepts, MCI)の概念である。

Key Concept: 最小限直感的違反(MCI: Minimally Counter-Intuitive concepts) 直感的存在論カテゴリーに属する対象が、そのカテゴリーに固有の期待を最小限度だけ違反する概念。宗教的概念はこの構造をもつことで記憶に残りやすく文化的伝達に適するとボイヤーは論じた。

ボイヤーによれば、宗教的概念は直感的存在論カテゴリーのテンプレートを保持しつつ、そのカテゴリーに固有の期待を少数だけ違反するという構造をもつ。たとえば「幽霊」は「行為者」(人間)のカテゴリーに属し、意図・信念・欲求をもつという民俗心理学的期待は保持するが、「固体の身体をもつ」「壁を通り抜けられない」という民俗物理学的期待に違反する。「処女懐胎」は「人間」のカテゴリーの大半の特性を保持しつつ、生殖に関する民俗生物学的期待に違反する。

宗教的概念 保持される直感的期待 違反される直感的期待
幽霊 志向性、知覚能力(民俗心理学) 固体性、空間的制約(民俗物理学)
全知の神 志向性、行為能力(民俗心理学) 知覚の限界(民俗心理学の一部)
聖なる木 成長、物質性(民俗生物学) 志向性をもつ(民俗心理学の転移)
呪いの人形 物質性(民俗物理学) 因果的影響力(遠隔作用)

ボイヤーが強調するのは、成功する宗教的概念は最小限の直感的違反を含むという点である。直感的期待を全く違反しない概念は日常的で記憶に残らない。逆に、あまりに多くの直感的期待に違反する概念(最大限直感的違反)は理解困難となり、推論の基盤を失うために文化的に伝達されにくい。「壁を通り抜ける、話す、意図をもつ、光合成する椅子」は、あまりに多くのカテゴリー的期待を違反しており、安定した宗教的概念としては機能しない。

宗教的概念が文化的に成功するのは、直感的存在論のテンプレートを大部分保持しているために推論の基盤が確保され(「幽霊は怒ることができる」「幽霊は壁の向こう側に行ける」等の推論が可能)、同時に少数の違反が注意と記憶を引きつけるためである。

graph TD
    subgraph 直感的存在論カテゴリー
        FP["民俗物理学<br/>固体性・重力・空間的連続性"]
        FB["民俗生物学<br/>成長・生殖・死・本質"]
        FPsy["民俗心理学<br/>志向性・信念・欲求"]
    end
    subgraph MCIの構造
        T["テンプレート保持<br/>(カテゴリーの大半の期待を保持)"]
        V["最小限の違反<br/>(1-2個の期待に違反)"]
    end
    subgraph 文化的帰結
        M["記憶への定着<br/>(注意喚起+推論可能)"]
        Tr["文化的伝達の成功<br/>(物語・神話として伝播)"]
    end
    FP --> T
    FB --> T
    FPsy --> T
    T --> M
    V --> M
    M --> Tr

MCI理論の実験的検証と批判

MCI理論は実験心理学的に検証が試みられている。ボイヤーとラムブル(Ramble, 2001)は、MCI概念が通常の概念や最大限直感的違反概念よりも記憶に残りやすいことを、フランス、ガボン、ネパールの三つの文化圏で実験的に示した。また、ノレンザヤン(Norenzayan)らの研究は、民話の中でMCI要素を含む物語がより広く伝播する傾向を確認した。

一方、近年の研究ではMCI効果の頑健性に疑問が呈されている。バーナー(Banerjee)ら(2020)は、記憶課題における最小限直感的違反の優位性は、道徳的価値(moral valence)や実存的不安(existential anxiety)の要因を統制すると消失する場合があることを報告した。MCI構造だけでは宗教的概念の文化的成功を十分に説明できず、社会的・情動的要因との相互作用を考慮する必要があるという批判である。


ジャスティン・バレットのHADD仮説

生得的有神論

ジャスティン・L・バレット(Justin L. Barrett, 1971-)はCSRの主要な理論家の一人であり、オックスフォード大学のイアン・ランビー・センターを経て、現在はブルーム大学(Bloom University)に在籍する発達心理学者・認知科学者である。主著『なぜ誰もが神を信じるのか?』(Why Would Anyone Believe in God?, 2004)および『生まれながらの信仰者』(Born Believers: The Science of Children's Religious Belief, 2012)において、宗教的信念が人間の認知構造に「自然に」適合する(cognitively natural)ものであるという「生得的有神論」(natural religion / born believers thesis)を展開した。

バレットによれば、子どもは教え込まれなくても自発的に目的論的思考(teleological thinking:事物には目的がある)、心的因果の帰属(出来事の背後に意図的行為者を想定する)、死後の精神的継続の直感(身体が死んでも心は存続する)を示す。これらの認知的傾向は、特定の宗教的教育の結果ではなく、人間の認知構造に内在する「デフォルト設定」に由来するとバレットは主張する。

過敏な行為者検出装置(HADD)

バレットの理論で最も広く議論されているのがHADD(Hyperactive Agency Detection Device: 過敏な行為者検出装置)の概念である。

Key Concept: HADD(Hyperactive Agency Detection Device: 過敏な行為者検出装置) 人間が曖昧な刺激から行為者(agent)の存在を過剰に検出する認知的傾向を指す概念。バレットが提唱し、宗教的信念(見えない行為者としての神・精霊等)の認知的基盤として位置づけた。

HADDの概念は以下のように構成される。

第一に、行為者検出(agency detection)は進化的に獲得された認知機能である。自然環境において、草むらの物音が風によるものか捕食者(行為者)によるものかを判別することは、生存に直結する課題である。行為者の存在を見逃す(偽陰性: false negative)コストは捕食されるという致命的なものであるのに対し、行為者の存在を誤って検出する(偽陽性: false positive)コストは不必要な警戒にとどまる。

第二に、この非対称的なコスト構造のもとで、自然選択は行為者検出を過敏(hyperactive)な方向に調整した。すなわち、人間は曖昧な手がかり(不規則な運動、突然の音、予測不能なパターン)から行為者の存在を過剰に推定する傾向をもつ。これがHADDである。

第三に、HADDが知覚的証拠のない場面で「見えない行為者」を検出することが、超自然的行為者(神・精霊・祖先の霊)の概念の認知的基盤を提供する。森の中の不可解な物音、説明のつかない偶然の一致、自然災害――これらの現象にHADDが反応し、背後に意図的行為者を想定することで、宗教的表象が生成される。

HADDへの批判

HADDは直感的に魅力的な仮説であるが、複数の重要な批判が寄せられている。

第一に、実証的根拠の不足である。リスドルフ(Lisdorf, 2007)は「HADDに何が隠されているか」("What's HIDD'n in the HADD?")と題した論文で、HADDが約30年近くにわたり直接的な実験的支持を欠いていることを指摘した。行為者検出の過敏性は確認されているが、それが宗教的信念の生成と直接的に結びつくという因果的経路は十分に実証されていない。

第二に、概念の曖昧さへの批判がある。HADDは「装置」(device)と名付けられているが、これが単一のモジュールなのか、複数の認知プロセスの複合体なのか、具体的な神経基盤は何かといった点が不明確である。フォーダー的な意味での厳密なモジュールとして位置づけるには、情報的隔離性や領域固有性の具体的な証拠が不足している。

第三に、HADDは行為者概念の生成を説明しうるとしても、なぜ特定の文化において特定の超自然的行為者の概念(キリスト教の神、ヒンドゥー教の多神、祖先崇拝の祖霊)が選択的に発達するのかという文化的多様性の問題を十分に説明できない。HADDが提供するのは宗教的概念の認知的可能性条件であり、特定の宗教体系の成立には社会的・歴史的要因の分析が不可欠である。


スコット・アトランの聖なる価値観論

宗教の進化的景観

スコット・アトラン(Scott Atran, 1952-)は、ミシガン大学およびフランス国立科学研究センター(CNRS)に所属する認知人類学者であり、主著『われら神を信ず――宗教の進化的景観』(In Gods We Trust: The Evolutionary Landscape of Religion, 2002)でCSRに独自の貢献を行った。

アトランは宗教を次のように定義する。すなわち宗教とは、(1) 反事実的・反直感的な超自然的行為者の世界に対する、(2) コミュニティの高価で偽装困難なコミットメント(costly and hard-to-fake commitment)であり、(3) 超自然的行為者が人々の実存的不安(死・欺瞞・孤独等)を制御するものである。

アトランの理論的特徴は、ボイヤーのMCI理論を踏まえつつも、宗教が認知的副産物にとどまらず、集団的コミットメントの装置として社会的機能を果たすという点を強調する点にある。宗教的儀礼は参加者に身体的・経済的コストを課すことで集団内の信頼と協力を強化し、フリーライダーを排除する。

聖なる価値観

アトランの研究で特に注目されるのが聖なる価値観(sacred values)の概念である。

Key Concept: 聖なる価値観(Sacred Values) 物質的対価との交換を拒否する道徳的・宗教的な絶対的価値。アトランによれば、聖なる価値観は集団アイデンティティの標識として機能し、合理的計算による妥協を不可能にする特性をもつ。

聖なる価値観とは、金銭的補償やその他の物質的利益との交換(trade-off)を道徳的に不可能とする種類の価値である。たとえば「自分の子どもを売ることはいくらであってもできない」「祖国の領土を金銭で売り渡すことは許されない」「聖地を放棄することはいかなる見返りがあっても不可能である」といった判断は、通常の費用便益分析(コスト・ベネフィット分析)の枠外にある。

アトランとアクセルロッド(Axelrod)は、聖なる価値観に対して物質的インセンティブを提示すると、妥協を促進するどころかむしろ反発を増大させるという「バックファイア効果」を実験的・フィールドワーク的に確認した。イスラエル・パレスチナ紛争やイランの核問題といった国際紛争の文脈で、聖なる価値観を物質的取引の対象とする提案は、交渉相手の怒りと抵抗を激化させる。逆に、聖なる価値観に対して象徴的な譲歩(相手の聖なる価値観を承認する声明など)を行うことが紛争解決の糸口になりうるとアトランは論じた。

宗教は聖なる価値観の最も強力な発生源の一つである。宗教的教義や聖地、神への義務といった概念は、信仰者にとって交渉不可能な絶対的コミットメントとなり、これが集団の凝集力を高める一方で、異なる聖なる価値観を掲げる集団間の紛争を先鋭化させる。


CSRの方法論的特徴と古典的宗教心理学との関係

CSRの方法論的特徴

CSRは以下の方法論的特徴によって、先行する宗教心理学と区別される。

第一に、説明的自然主義(explanatory naturalism)の採用である。CSRは宗教的現象を超自然的原因に訴えることなく、自然的な認知メカニズムによって説明する。これは方法論的無神論(methodological atheism)と呼ばれることもあるが、CSRの研究者の多くは、これは形而上学的立場(神の存在の肯定・否定)ではなく方法論的制約であると位置づけている。バレット自身がキリスト教徒であることは、この点を例証する。

第二に、通文化的一般化(cross-cultural generalization)の志向である。CSRは特定の宗教伝統の内在的理解(→ Module 1-1「宗教学の方法論」参照)ではなく、文化を超えて反復する宗教的認知パターンの同定を目指す。この点で、エミックな理解を重視する宗教人類学や宗教現象学とは方法論的に異なる。

第三に、実験的方法と発達心理学的方法の導入である。CSRは内省報告や参与観察だけでなく、統制された実験環境での記憶課題・判断課題、発達心理学的手法(乳児の注視時間測定、幼児の概念判断課題)、近年では神経画像法(fMRI)を用いて宗教的認知の基盤を探る。

第四に、進化論的枠組みとの統合である。CSRの研究者の多くは、宗教的認知を生み出す認知メカニズムが進化的適応(adaptation)として形成されたのか、それとも適応の副産物(by-product / spandrel)であるのかという問いを中心的な研究課題とする(→ Module 2-9, Section 3「進化心理学・神経科学と宗教」参照)。

古典的宗教心理学との関係

CSRと古典的宗教心理学の関係は、単純な継承でも完全な断絶でもない。以下の点で連続性と不連続性が見られる。

観点 古典的宗教心理学 CSR
主な方法 臨床的観察、内省報告、事例分析 実験、発達心理学的測定、通文化的比較
説明水準 個人の心理力動(意識/無意識) 種に普遍的な認知メカニズム
宗教への評価的態度 批判的(フロイト)/ 肯定的(ユング) / 中立的(ジェイムズ) 原則的に評価中立(説明的自然主義)
文化的多様性 特定文化圏の事例に依拠しがち 通文化的一般化を志向
進化論との関係 限定的 中核的な理論枠組み

連続性の面では、ジェイムズが宗教的体験を心理学的方法で分析しようとした態度はCSRの先駆と見なしうる。またフロイトが宗教を心理的メカニズムの産物として説明しようとした姿勢は、CSRの説明的自然主義と通底する。不連続性の面では、CSRはフロイト的な精神分析理論やユング的な元型理論を実証的根拠の乏しいものとして退け、認知科学の実験的知見に基づく説明を志向する点で古典的宗教心理学とは断絶がある。


まとめ

  • CSRは1990年代に成立した学際的研究領域であり、宗教的信念・行動を人間の通常の認知メカニズムの産物として説明する。心のモジュール性と直感的存在論(民俗物理学・民俗生物学・民俗心理学)がその理論的基盤をなす。
  • ボイヤーのMCI理論は、宗教的概念が直感的存在論カテゴリーの期待を最小限に違反する構造をもつことで、記憶と文化的伝達に適する形式をとることを論じた。ただし、MCI構造のみでは宗教的概念の成功を十分に説明できないとする批判がある。
  • バレットのHADD仮説は、行為者検出の過敏性が超自然的行為者(神・精霊等)の概念の認知的基盤を提供すると主張した。直感的に魅力的だが、直接的な実証的支持が不足しているという批判が重要である。
  • アトランは宗教を反直感的概念への高価なコミットメントとして定義し、聖なる価値観(物質的対価との交換を拒否する絶対的価値)が集団の凝集力と紛争の両方に関わることを示した。
  • CSRは実験的方法・通文化的比較・進化論的枠組みの導入によって古典的宗教心理学と方法論的に区別されるが、宗教を心理的メカニズムから説明しようとする基本的志向において連続性も認められる。
  • 次のセクションでは、CSRの知見を踏まえつつ、宗教の進化心理学的説明(適応主義 vs 副産物仮説)および神経科学と宗教の関係を検討する。

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
認知科学的宗教研究 Cognitive Science of Religion (CSR) 宗教的信念・行動を人間の認知メカニズムの産物として説明する学際的研究領域
心のモジュール性 Modularity of Mind 人間の認知系が領域固有的・情報的に隔離された複数の処理モジュールから構成されるとする理論
直感的存在論 intuitive ontology 世界の事物を基本カテゴリー(物理的対象・生物・行為者等)に分類し、各カテゴリーに固有の期待を自動的に適用する認知枠組み
民俗物理学 folk physics 固体性・重力・空間的連続性など物理的対象に関する直感的知識体系
民俗生物学 folk biology 成長・生殖・死・本質など生物に関する直感的知識体系
民俗心理学 folk psychology 志向性・信念・欲求など行為者の心的状態に関する直感的知識体系
最小限直感的違反 Minimally Counter-Intuitive concepts (MCI) 直感的存在論カテゴリーの期待を最小限に違反する概念。ボイヤーが提唱
HADD Hyperactive Agency Detection Device 曖昧な刺激から行為者の存在を過剰に検出する認知的傾向。バレットが提唱
生得的有神論 natural religion / born believers thesis 宗教的信念が人間の認知構造に「自然に」適合するとする立場
聖なる価値観 sacred values 物質的対価との交換を拒否する道徳的・宗教的な絶対的価値。アトランが提唱
説明的自然主義 explanatory naturalism 宗教的現象を超自然的原因に訴えず自然的認知メカニズムで説明する方法論的立場
領域固有性 domain-specificity 認知モジュールが特定の情報領域のみを処理する性質
情報的隔離性 informational encapsulation モジュール内の処理が他の認知情報に影響されない性質

確認問題

Q1: ボイヤーのMCI理論において、宗教的概念が「最小限」の直感的違反を含むことが重要である理由を、直感的違反が全くない場合および最大限に直感的違反がある場合と対比しながら説明せよ。

A1: 直感的違反を全く含まない概念は日常的であり、注意を引かず記憶に定着しにくい。逆に、直感的違反が最大限に多い概念は、直感的存在論カテゴリーのテンプレートを大幅に逸脱するため理解が困難となり、推論の基盤(「その行為者は何を望みうるか」「その対象はどう振る舞うか」等の推論)を失う。最小限の直感的違反をもつ概念(MCI)は、カテゴリーの大半の期待を保持しているため推論を展開でき、同時に少数の期待違反が注意と驚きを喚起して記憶への定着を促進する。このため、MCI構造をもつ概念は文化的伝達に最も適した形式をとり、宗教的概念として文化を超えて成功する傾向がある。

Q2: バレットのHADD仮説が宗教的信念の認知的基盤を説明する論理を述べた上で、この仮説に対する主要な批判を二つ挙げよ。

A2: HADD仮説の論理は以下の通りである。自然環境における行為者検出において、行為者を見逃す偽陰性のコスト(捕食される等)は、行為者を誤検出する偽陽性のコスト(不要な警戒)より圧倒的に大きい。この非対称的コスト構造のもとで自然選択は行為者検出を過敏な方向に調整し、人間は曖昧な手がかりから行為者の存在を過剰に推定する傾向をもつに至った。この過敏な検出機構が、知覚的証拠のない場面でも「見えない行為者」(神・精霊等)を想定する認知的基盤となる。主要な批判としては、第一に、HADDの存在と宗教的信念の生成を直接的に結びつける因果経路について十分な実証的証拠が蓄積されていないこと(リスドルフ 2007)、第二に、HADDが行為者概念一般の生成を説明しうるとしても、なぜ特定の文化で特定の超自然的行為者の概念が選択的に発達するのかという文化的多様性の問題を十分に説明できないことが挙げられる。

Q3: アトランの「聖なる価値観」概念を定義し、それが宗教と社会的紛争の関係をどのように説明するかを論述せよ。

A3: 聖なる価値観とは、物質的対価(金銭、領土、資源等)との交換(trade-off)を道徳的に拒否する種類の絶対的価値である。宗教的教義、聖地、神への義務などは典型的な聖なる価値観を構成する。アトランによれば、宗教は聖なる価値観の最も強力な発生源の一つであり、これが集団アイデンティティの標識として機能することで集団内の凝集力を強化する。同時に、異なる聖なる価値観を掲げる集団間では、通常の交渉や物質的インセンティブによる妥協が不可能となるため、紛争が先鋭化・長期化する。アトランはさらに「バックファイア効果」を指摘し、聖なる価値観に対して物質的補償を提示するとむしろ反発が増大すること、逆に相手の聖なる価値観を象徴的に承認する譲歩が紛争解決の糸口になりうることを論じた。

Q4: CSRの方法論は古典的宗教心理学(ジェイムズ、フロイト、ユング)とどのような点で連続し、どのような点で断絶しているかを整理せよ。

A4: 連続性の面では、宗教的現象を心理学的メカニズムによって説明しようとする基本的志向が共有されている。ジェイムズの宗教的体験への心理学的アプローチやフロイトの宗教を心理的願望の投影として説明する態度は、CSRの説明的自然主義の先駆と見なしうる。断絶の面では、第一に方法論が異なる。古典的宗教心理学は臨床的観察・内省報告・事例分析に依拠したが、CSRは統制実験・発達心理学的測定・通文化的比較を用いる。第二に、説明水準が異なる。古典的宗教心理学は個人の心理力動(エディプス・コンプレックス、元型等)を論じたが、CSRは種に普遍的な認知メカニズム(行為者検出、直感的存在論等)の水準で説明する。第三に、CSRはフロイトの精神分析理論やユングの元型理論を実証的根拠の乏しいものとして退け、進化論的枠組みを中核的な理論基盤とする点で古典的宗教心理学との断絶がある。