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Module 3-1 - Section 1: 宗教学の学問的アイデンティティと比較方法論

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 3-1: 宗教学の方法論論争
前提セクション なし
想定学習時間 6時間

導入

宗教学(Religionswissenschaft / Study of Religion(s))は、19世紀後半に比較言語学・文献学・民族学の知的土壌の上に成立した学問であるが、その学問的アイデンティティは現在に至るまで根本的に問われ続けている。Module 1-1 Section 5 では、価値中立性、エティック/エミックの区別、方法論的不可知論と方法論的無神論、還元主義論争といった基本的な方法論的枠組みを概観した。本セクションでは、それらの議論をさらに深化させ、以下の三つの問題群を検討する。

第一に、宗教学と神学の関係をめぐる原理的問題である。宗教学は神学からの独立を自己の存立根拠としてきたが、両者の境界は自明ではない。宗教学は神学の「世俗化された後継者」にすぎないのか、それとも固有の認識論的基盤をもつ自律的学問なのか。この問いは宗教学の制度的配置(大学における学部・学科の編成)とも密接に関わる。

第二に、比較宗教学の方法論をめぐる根本的批判である。とりわけジョナサン・Z・スミス(Jonathan Z. Smith)による比較方法論批判は、「類似」を見出す行為そのものの認識論的前提を問い直し、比較宗教学の理論的基盤を揺るがした。

第三に、宗教の定義をめぐる本質主義と構築主義の対立である。Module 1-1 Section 1 で検討した定義問題は、単なる用語法の問題ではなく、「宗教」というカテゴリーの存在論的地位にかかわる哲学的問題として、1990年代以降ますます先鋭化してきた。

これら三つの問題群は相互に連関しており、宗教学という学問の自己理解そのものを規定している。


宗教学と神学の関係 --- 学問的アイデンティティの構造的問題

制度的分離と知的連続性

宗教学の成立は、通常、1870年代のマックス・ミュラー(Friedrich Max Müller)による比較宗教学の制度化に遡る(→ Module 1-1, Section 2「宗教学の成立と展開」参照)。ミュラーが掲げた「一つの宗教しか知らない者は、宗教を知らない」(He who knows one, knows none)というスローガンは、特定宗教の内部に留まる神学的営みから、複数宗教の経験的比較に基づく学問への転換を宣言するものであった。

しかし、この制度的分離は知的な連続性を完全に断ち切るものではなかった。19世紀から20世紀にかけて宗教学の理論的枠組みを形成した多くの学者 --- オットー(Rudolf Otto)、ゼーデルブロム(Nathan Soderblom)、ハイラー(Friedrich Heiler)、ティリッヒ(Paul Tillich)--- は神学者としての訓練を受けており、彼らの理論的関心はキリスト教の知的伝統と深く結びついていた。オットーの「ヌミノーゼ」概念はシュライアマハー(Friedrich Schleiermacher)の宗教感情論を批判的に継承したものであり、ティリッヒの「究極的関心」はプロテスタント神学の地平のなかで鍛えられた概念である。

このことは、宗教学の理論的語彙がキリスト教的な思考の枠組みに規定されているのではないかという疑念を生じさせる。ヴィルフレート・キャントウェル・スミス(Wilfred Cantwell Smith)は1962年の著書 The Meaning and End of Religion において、「religion」という概念そのものが西洋キリスト教圏に固有の歴史的構築物であることを論証し、宗教学が自らの基本概念の歴史性に無自覚であることを批判した。

「宗教学は二次的神学か」--- エリアーデ批判を中心に

宗教学と神学の境界をめぐる論争は、ミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade)の宗教現象学に対する批判のなかで先鋭化した。エリアーデは「聖なるもの」(the sacred)を人間の経験の不可還元な次元として位置づけ、宗教現象はそれ自体の固有の論理において理解されるべきだと主張した(→ Module 1-1, Section 2 参照)。しかし、この反還元主義的な立場は、宗教的経験の超越的次元を暗黙に肯定するものであり、神学的前提を密かに学問的分析のなかに持ち込んでいるのではないかとの批判を招いた。

ラッセル・マカチェン(Russell T. McCutcheon)は Manufacturing Religion (1997) において、エリアーデ的宗教現象学を「神学の慎重な代替物」(a cautious alternative to theology)と呼び、宗教を固有の(sui generis)実在として扱う立場が実質的に神学的主張を学術的修辞のなかに隠蔽していると批判した。マカチェンによれば、「聖なるもの」を社会的・心理的・認知的説明に還元することを拒否し、宗教に不可還元な「自律性」を認める立場は、学問的分析を信仰的弁護(apologia)に転化させる危険をはらんでいる。

これに対し、エリアーデの系譜に連なる研究者からは、宗教的経験を社会的・心理的要因にすべて還元することこそが一種の信仰(唯物論的世界観への暗黙のコミットメント)ではないかとの反論がなされてきた。ダグラス・アレン(Douglas Allen)は、エリアーデの方法を全面的に擁護するのではないにせよ、還元主義が宗教的経験の質的側面を見失わせるリスクを指摘した。

この論争は、宗教学の認識論的基盤に関する未解決の問題を露呈している。すなわち、宗教学は宗教現象を「説明」(explain)すべきなのか、それとも「理解」(understand)すべきなのか。説明は因果的メカニズムの同定を目指し、理解は行為者の意味世界への解釈的参入を目指す。この方法論的対立は、ディルタイ(Wilhelm Dilthey)以来の精神科学(Geisteswissenschaften)と自然科学(Naturwissenschaften)の区分に遡るものであり、宗教学に固有の問題ではないが、宗教という対象の特性ゆえに特に先鋭な形で現れる。

価値中立性の再検討 --- 完全な中立は可能か

Module 1-1 Section 5 で確認したヴェーバーの価値中立性(Wertfreiheit)は、宗教学の方法論的基盤として広く受容されてきた。しかし、この原則自体がどこまで貫徹可能であるかについては、繰り返し疑問が提起されている。

ティモシー・フィッツジェラルド(Timothy Fitzgerald)は The Ideology of Religious Studies (2000) において、宗教学が標榜する「中立性」自体が、実はリベラルなプロテスタント的世界観 --- すなわち、宗教を「私的な信仰の領域」として公的な政治的領域から分離するという近代西洋の政教分離原則 --- を暗黙に前提としていると論じた。フィッツジェラルドによれば、宗教を政治・経済・社会から自律的な領域として切り離して研究すること自体が、特定の(西洋近代的な)世界観に依拠した知的操作であり、真の意味での「価値中立」ではない。

この批判は、宗教学の制度的位置づけにも関わる。ヨーロッパの大学において宗教学(Religionswissenschaft)は伝統的に神学部(Theologische Fakultat)の内部に設置されることが多く、北米の大学ではリベラル・アーツの一環として人文学部に配置されることが一般的であるが、いずれの場合も「宗教」を独立の研究対象として承認すること自体が、ある種の前提 --- 宗教が他の社会現象から区別しうる独自の領域を構成するという前提 --- に依拠している。

graph TD
    A["宗教学の学問的アイデンティティ<br/>をめぐる対立軸"] --> B["反還元主義<br/>(宗教の自律性を擁護)"]
    A --> C["批判的宗教研究<br/>(宗教の構築性を強調)"]

    B --> B1["エリアーデ: 聖なるものの<br/>不可還元な実在性"]
    B --> B2["オットー: ヌミノーゼの<br/>固有性(sui generis)"]
    B --> B3["スマート: 方法論的<br/>不可知論"]

    C --> C1["マカチェン: 宗教学は<br/>「神学の代替物」"]
    C --> C2["フィッツジェラルド:<br/>宗教学の「イデオロギー」"]
    C --> C3["W.C.スミス: 「religion」<br/>概念の歴史性"]

    B1 -.->|批判| C1
    C2 -.->|批判| B3

比較宗教学の再検討 --- J・Z・スミスの比較方法論批判

比較宗教学の伝統と問題

比較は宗教学の誕生以来の基本的方法であった。ミュラーは比較言語学の方法を宗教研究に応用し、宗教の比較研究を通じて「宗教の科学」(Science of Religion)の樹立を目指した。その後、宗教現象学の伝統においてもゲラルドゥス・ファン・デル・レーウ(Gerardus van der Leeuw)やエリアーデが類型論的比較を展開し、異なる宗教伝統に現れる共通構造(聖と俗、通過儀礼、宇宙創成神話など)を抽出しようとした。

しかし、この比較的方法には深刻な問題が潜んでいた。比較は、異なる文脈に属する現象の間に「類似」を見出す行為であるが、何をもって「類似」と判断するかは、比較を行う主体の理論的前提に依存する。比較の基準を設定する行為自体が、比較される対象の選択と解釈を事前に規定してしまうのである。

スミスの比較論 --- 「比較は学者の行為である」

ジョナサン・Z・スミス(Jonathan Z. Smith, 1938-2017)は、シカゴ大学で長年教鞭をとったアメリカの宗教学者であり、比較宗教学の理論的基盤を根底から問い直した。スミスの貢献は、比較という営み自体の認識論的性格を明らかにしたことにある。

Key Concept: 本質主義 vs 構築主義(essentialism vs constructionism) 宗教の定義をめぐる二つの根本的立場。本質主義(essentialism)は、宗教に通文化的・通歴史的な本質(essence)が存在するとし、諸宗教に共通する固有の特質を同定しようとする。構築主義(constructionism / constructivism)は、「宗教」というカテゴリー自体が特定の歴史的・文化的文脈のなかで構築された人為的な分類概念であるとし、宗教に先験的な本質が存在することを否定する。

スミスは、主要な論文集 Imagining Religion (1982) の冒頭で、「宗教は学者の研究室で作り出されたものである」(Religion is solely the creation of the scholar's study)という挑発的なテーゼを提示した。この一文はしばしば宗教の実在性の否定と誤解されるが、スミスの意図はより精密である。スミスが主張したのは、「宗教」という分析概念は、研究者が比較・分類・一般化という知的操作を通じて構築するものであり、あたかも研究者の作業に先立って「そこに」存在する自然対象のようなものではない、という認識論的主張である。

スミスは Drudgery Divine (1990) において、初期キリスト教と古代地中海世界の「死と復活する神」の比較を詳細に分析し、以下の問題を提起した。

1. 比較の恣意性: 二つの現象を「類似」と見なすか「相違」と見なすかは、比較者の関心と理論的枠組みに依存する。キリスト教の復活信仰とオシリス神話の「類似」を指摘するフレイザー的比較は、両者の文脈的差異(歴史的条件、信仰共同体の構造、テクストの性格)を捨象している。類似の主張は、比較者が事前に設定した比較の枠組み(tertium comparationis)の産物であり、対象自体に内在する客観的属性ではない。

2. 比較の政治性: 比較宗教学の歴史において、比較はしばしば暗黙の序列化と結びついてきた。ミュラーからエリアーデに至る比較宗教学の伝統においては、「より発展した」宗教と「より原初的な」宗教という進化論的図式が、意識的あるいは無意識的に比較の背景にあった。スミスは、比較が価値中立的な知的操作であるとの想定を退け、比較の政治的次元を明るみに出した。

3. 「一般理論のない比較は恣意的であり、比較なしの一般理論は空虚である」: スミスはこのアフォリズムによって、比較と理論の不可分の関係を示した。比較は何らかの理論的仮説に導かれてはじめて意味のある知的作業となり、理論は経験的な比較によって検証・修正されなければならない。比較が「似ている」という直観に基づく素朴な発見の営みとして行われる限り、学問的比較としての資格を欠く。

スミス以後の比較宗教学

スミスの批判は、比較宗教学を放棄すべきだという主張ではなく、比較をより自覚的・理論的に厳密な営みとして再構築すべきだという主張であった。スミスが提唱した「比較は差異の発見において生産的である」(comparison, in its strongest form, brings differences together within the space of the scholar's mind for the scholar's own intellectual purposes)という見解は、類似の発見(typological comparison)から差異の分析(contrastive comparison)への重心移動を促した。

キンバリー・パットン(Kimberley Patton)とベンジャミン・レイ(Benjamin Ray)が編纂した A Magic Still Dwells (2000) は、スミス以後の比較宗教学の可能性を多角的に検討した論集であり、その表題自体が「比較にはなお呪力が宿っている」というメッセージを含んでいる。同書の論者たちは、スミスの批判を受け止めつつも、比較という営みが宗教研究において不可欠であることを多様な立場から論じた。

ウェンディ・ドニガー(Wendy Doniger)は比較神話学の方法論を擁護し、比較者の主観性を完全に排除することは不可能であるとしても、比較を通じて個別の事例研究では見えない構造的パターンが浮かび上がることの知的価値を強調した。ドニガーは、比較が常に「不完全」であること(いかなる二つの現象も完全には類似しない)を認めた上で、不完全であっても生産的でありうる比較と、恣意的で非生産的な比較を区別する基準の必要性を論じた。


本質主義 vs 構築主義 --- 宗教の定義をめぐる対立構図

本質主義の諸相

宗教の定義をめぐる本質主義的立場は、宗教に通文化的・通歴史的な共通の本質が存在するという前提に立つ。この立場には複数の変種がある。

神学的本質主義: 宗教の本質を超越的実在との関係に見出す立場。オットーのヌミノーゼ論やエリアーデの聖俗二元論がこれにあたる。宗教は人間と「聖なるもの」との出会いから生じる現象であり、この出会いの構造は文化・歴史を超えて普遍的であるとされる。

現象学的本質主義: 個々の宗教伝統の多様性の背後に、宗教的経験の普遍的構造を見出そうとする立場。フッサール(Edmund Husserl)の現象学の影響を受けた宗教現象学(Religionsphanomenologie)が展開した方法であり、ファン・デル・レーウの Religion in Essence and Manifestation (1933) が代表的著作である。特定の信仰的前提に立つことを意識的に回避しつつも、宗教的経験の「本質」(Wesen)を直観的に把握しようとする点で、本質主義的な志向を有する。

機能主義的本質主義: 宗教を人間の普遍的な心理的・社会的必要に応じた現象として把握する立場。デュルケームの社会機能論やマリノフスキーの機能主義がこれにあたる。宗教の具体的内容は多様であるが、社会的統合・意味付与・不安の緩和といった機能において普遍的な共通性が認められるとする。この立場は宗教の「内容」の本質ではなく「機能」の本質を想定するものであり、厳密には構築主義的契機を含みうるが、「宗教」というカテゴリーの通文化的妥当性を前提とする点で本質主義的である。

構築主義の展開

構築主義的立場は、「宗教」というカテゴリー自体の歴史的・文化的被構築性を主張する。この立場は1990年代以降、ポストコロニアル批判の影響を受けて急速に展開した。

前述のW・C・スミスは、「religion」の概念史を追跡し、この語が「信仰の体系」を指す近代的用法を獲得したのは17世紀以降であることを示した。古代ローマにおける religio は特定の儀礼的実践への態度(畏敬、慎重さ)を意味し、中世キリスト教においては修道的生活様式(宗教生活 vita religiosa)を指していた。「宗教」が、教義・制度・信者共同体を備えた自己完結的な体系を意味するようになったのは、宗教改革後のキリスト教諸派の並立と、非キリスト教世界との遭遇のなかでのことである。

この概念史的分析は、以下の帰結をもたらす。「宗教」を研究対象とする宗教学は、自らの基本概念が普遍的なカテゴリーではなく、特定の歴史的過程の産物であることを自覚する必要がある。「仏教」や「ヒンドゥー教」を「宗教」として一括して研究する行為自体が、キリスト教を範型として構成された分類概念の適用であり、対象の自己理解(エミック)からの逸脱を含んでいる可能性がある。

タラル・アサド(Talal Asad)は Genealogy of Religion (1993) において、この構築主義的批判をさらに先鋭化させた(→ Module 3-1, Section 2「宗教概念の脱構築とポストコロニアル批判」で詳述)。アサドの議論の核心は、「宗教」を「信仰」や「私的な内面の領域」として定義する操作自体が、近代西洋のキリスト教(特にプロテスタンティズム)の自己理解を普遍化したものであるという点にある。アサドはギアツの宗教の定義を批判的に分析し、ギアツが宗教を「象徴の体系」として定義する際に、権力関係・制度的規律・身体的実践といった次元を捨象していることを指摘した。

対立の構図と現在の論争

本質主義と構築主義の対立は、以下のように整理できる。

論点 本質主義 構築主義
「宗教」の存在論的地位 通文化的に実在するカテゴリー 歴史的・文化的に構築された分類概念
比較の正当性 普遍的構造の発見が可能 比較は研究者の知的構築物
宗教学の課題 宗教の本質・構造の解明 「宗教」概念の系譜学的分析
還元主義への態度 還元は宗教の固有性を毀損 反還元主義は暗黙の神学
代表的論者 オットー、エリアーデ、スマート W.C.スミス、アサド、マカチェン、フィッツジェラルド

ただし、この二項対立はしばしば過度に単純化されている。実際には多くの研究者が両極の間のどこかに位置しており、純粋な本質主義者も純粋な構築主義者も稀である。

アン・テイヴス(Ann Taves)は Religious Experience Reconsidered (2009) において、本質主義と構築主義の対立を乗り越える「帰属理論」(attribution theory)のアプローチを提唱した。テイヴスによれば、問うべきは「宗教の本質とは何か」でも「宗教は構築物にすぎないか」でもなく、「人々がいかなるプロセスを通じて特定の経験や事物を『宗教的』『聖なるもの』『特別なもの』として同定し、意味づけるか」である。この「帰属」(attribution / ascription)の過程を分析することで、研究者が「宗教」の本質を事前に規定する必要がなくなり、かつ人々が実際に「宗教的」と見なす現象を経験的に研究することが可能になるとテイヴスは論じた。

同様に、ベンソン・セイラー(Benson Saler)は Conceptualizing Religion (1993, 2000改訂) において、ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)の「家族的類似」(Familienähnlichkeit / family resemblance)概念を援用し、「宗教」を共通本質によって定義されるカテゴリーとしてではなく、重なり合う類似性のネットワークによって緩やかに結びつけられたプロトタイプ的カテゴリーとして理解する提案を行った。この見解では、「宗教」には中心的な事例(プロトタイプ)と周縁的な事例があり、すべての事例に共通する単一の本質は存在しないが、互いに部分的に重なり合う特徴によって「宗教」というカテゴリーが構成される。

graph LR
    subgraph "本質主義"
        E1["神学的本質主義<br/>(オットー、エリアーデ)"]
        E2["現象学的本質主義<br/>(ファン・デル・レーウ)"]
        E3["機能主義的本質主義<br/>(デュルケーム)"]
    end

    subgraph "中間的立場"
        M1["テイヴス: 帰属理論"]
        M2["セイラー: 家族的類似"]
        M3["スマート: 多次元的世界観分析"]
    end

    subgraph "構築主義"
        C1["W.C.スミス:<br/>概念史的批判"]
        C2["アサド:<br/>宗教の系譜学"]
        C3["マカチェン:<br/>批判的宗教研究"]
    end

    E1 --> M1
    E3 --> M2
    M1 --> C1
    M2 --> C2

まとめ

  • 宗教学は神学からの制度的独立を自己の存立根拠としてきたが、理論的語彙・知的関心において神学的伝統との連続性を完全に断つことはできていない。マカチェンやフィッツジェラルドは、宗教を「固有の実在」として扱うエリアーデ的宗教現象学が、実質的に神学の変種であると批判した。
  • J・Z・スミスは比較宗教学の認識論的基盤を問い直し、「比較は学者の知的構築物である」ことを明らかにした。類似の「発見」は研究者の理論的枠組みに依存しており、比較は理論的仮説なしには恣意的となる。
  • 宗教の定義をめぐる本質主義と構築主義の対立は、「宗教」というカテゴリーの存在論的地位にかかわる根本問題である。テイヴスの帰属理論やセイラーの家族的類似概念は、この対立を乗り越えるための有望なアプローチとして注目されている。
  • これらの方法論的論争は、次のSection 2(→ Module 3-1, Section 2「宗教概念の脱構築とポストコロニアル批判」参照)で検討するアサドのポストコロニアル批判と直結しており、「宗教」概念の近代西洋的構築性をめぐる議論へと展開する。

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
本質主義 essentialism 宗教に通文化的・通歴史的な共通の本質が存在するとする立場
構築主義 constructionism / constructivism 「宗教」というカテゴリー自体が歴史的・文化的に構築された分類概念であるとする立場
比較の第三項 tertium comparationis 比較を行う際に前提となる、比較の基準・共通の参照枠
固有性 sui generis 「それ自体固有の」の意。宗教が他に還元不可能な独自の領域を構成するとの主張に用いられる
家族的類似 family resemblance (Familienähnlichkeit) ウィトゲンシュタインの概念。共通本質ではなく重なり合う類似性のネットワークによってカテゴリーが構成されるとする見方
帰属理論 attribution theory テイヴスが提唱。人々が特定の経験を「宗教的」「聖なる」ものとして同定・意味づけるプロセスに着目するアプローチ
批判的宗教研究 critical study of religion 「宗教」概念自体の構築性を問い直し、宗教学の知的前提を批判的に検討する研究潮流
宗教の系譜学 genealogy of religion アサドが提唱。「宗教」概念の歴史的形成過程を権力関係の観点から分析する方法

確認問題

Q1: 宗教学と神学の関係をめぐるマカチェンの批判の要点を説明し、それに対する反論として考えうる立場を一つ挙げよ。

A1: マカチェンは、エリアーデ的宗教現象学が宗教を「固有の実在」(sui generis)として扱い、社会的・心理的・認知的要因への還元を拒否する点において、実質的に神学の変種(「神学の慎重な代替物」)であると批判した。宗教に不可還元な自律性を認めることは、宗教的経験の超越的次元を暗黙に肯定する信仰的弁護(apologia)にほかならないとマカチェンは論じた。これに対する反論としては、還元主義的説明がすべてを汲み尽くすとする立場もまた、唯物論的世界観への暗黙のコミットメントであり、「価値中立」を標榜しつつ特定の存在論的前提に依拠している点で同様の問題をはらんでいるという指摘がある。宗教的経験の質的側面を分析のなかに保持することは、必ずしも神学的主張と同義ではなく、方法論的不可知論の範囲内で可能であるとする立場が、この批判への一つの応答となる。

Q2: J・Z・スミスが「宗教は学者の研究室で作り出されたものである」と述べた意図を説明し、この主張の認識論的含意を論じよ。

A2: スミスの主張は、宗教の実在性そのものを否定するものではなく、「宗教」という分析概念の構築的性格を指摘する認識論的主張である。スミスによれば、「宗教」は研究者が比較・分類・一般化という知的操作を通じて構築するカテゴリーであり、研究者の作業に先立って世界のなかに自然対象として存在しているわけではない。この主張の認識論的含意は、第一に、比較宗教学における「類似」の発見が対象自体の客観的属性ではなく研究者の理論的枠組みの産物であること、第二に、「宗教」というカテゴリーを自明視して研究を行うことが、特定の(西洋近代的な)分類体系の無自覚的な適用になりうること、第三に、宗教学が自らの基本概念の構築性に対して反省的であることが学問的に要請されること、である。

Q3: 本質主義と構築主義の対立を乗り越えるアプローチとして、テイヴスの帰属理論とセイラーの家族的類似概念の要点をそれぞれ説明せよ。

A3: テイヴスの帰属理論は、「宗教の本質とは何か」という問いを「人々がいかなるプロセスを通じて特定の経験や事物を『宗教的』『聖なるもの』として同定し意味づけるか」という問いに置き換えるアプローチである。研究者が事前に「宗教」を定義する必要がなく、人々の帰属行為そのものを経験的に分析できるため、本質主義的な前提も構築主義的な全面否定も回避できる。セイラーの家族的類似概念は、ウィトゲンシュタインの哲学を援用し、「宗教」を共通本質によって定義されるカテゴリーではなく、重なり合う類似性のネットワークによって緩やかに結びつけられたプロトタイプ的カテゴリーとして理解する提案である。中心的な事例と周縁的な事例が存在し、すべてに共通する単一の本質はないが、部分的な重なりによってカテゴリーが成り立つとする。

Q4: フィッツジェラルドが宗教学の「価値中立性」を批判した論点を、ヴェーバーの価値中立性(Wertfreiheit)の概念と対比しながら説明せよ。

A4: ヴェーバーの価値中立性は、事実認識と価値判断の峻別を求める方法論的原則であり、宗教学においては特定宗教の真理性についての判断を学問的分析から排除することを要求する。フィッツジェラルドの批判は、この原則の運用そのものが暗黙の価値前提に依拠していると指摘する点にある。フィッツジェラルドによれば、宗教を政治・経済・社会から自律的な「私的信仰の領域」として切り離して研究すること自体が、近代西洋のリベラルなプロテスタント的世界観に根ざした知的操作であり、宗教と政治が分かちがたく結びついている文化圏の現象を分析する際にはこの前提自体が歪みを生む。ヴェーバーが事実と価値の区別を方法論的に要請したのに対し、フィッツジェラルドはその「事実」の切り出し方自体にすでに価値的前提が浸透していることを問題にしたのである。

Q5: スミスの比較方法論批判以後、比較宗教学はいかなる方向に再構築されうるか。スミスの見解とそれを受けた議論を踏まえて論じよ。

A5: スミスの批判は比較宗教学の放棄を求めるものではなく、比較をより理論的に自覚的な営みとして再構築することを要求するものであった。スミスは「一般理論のない比較は恣意的であり、比較なしの一般理論は空虚である」と述べ、比較と理論の不可分の関係を強調した。また、比較の生産性は類似の発見よりも差異の分析においてこそ発揮されるとした。スミス以後の議論として、パットンとレイは A Magic Still Dwells において比較の不可欠性を多角的に論じ、ドニガーは比較が常に不完全であることを認めつつも、個別の事例研究では見えない構造的パターンを浮かび上がらせる知的価値を擁護した。再構築の方向性としては、(1) 比較の基準(tertium comparationis)を明示的に理論化すること、(2) 比較者の立場性(positionality)を自覚的に反省すること、(3) 類似と差異の双方を生産的に分析する対比的比較(contrastive comparison)の方法を発展させること、が挙げられる。