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Module 3-1 - Section 3: フィールドワーク・テクスト研究と生きられた宗教

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 3-1: 宗教学の方法論論争
前提セクション Section 1(宗教学の学問的アイデンティティと比較方法論)
想定学習時間 6時間

導入

Section 1では、宗教学と神学の関係、比較方法論批判、本質主義と構築主義の対立という宗教学の原理的問題を検討した。これらの議論は主として「宗教とは何か」「宗教学はいかなる学問か」という認識論的・存在論的次元で展開されたものである。本セクションでは、視点をより具体的な方法論の次元に移し、宗教学が対象にいかにして接近するかという問いを扱う。

宗教学の方法論は、大きく二つの系譜に区分できる。第一に、宗教が生きられている現場に研究者自身が赴き、観察・対話・参与を通じて知見を得るフィールドワーク(ethnographic fieldwork)の系譜である。第二に、聖典・教義文書・儀礼テクストなどの文献を分析の対象とするテクスト研究(textual study)の系譜である。この二つは宗教学の車の両輪をなしてきたが、それぞれに固有の方法論的課題を抱えている。

さらに、1990年代以降、教義・制度・テクストを中心に宗教を理解する従来のアプローチに対する根本的な異議申し立てとして、lived religion(生きられた宗教)アプローチが台頭した。このアプローチは、エリート的なテクスト・教義中心主義を批判し、人々が日常生活のなかで実際に行っている宗教的実践に焦点を当てることを主張する。

本セクションでは、フィールドワーク、テクスト研究、lived religionという三つの方法論的アプローチの特質・成果・限界を検討する。


フィールドワークと宗教研究

宗教の民族誌 --- 人類学的方法の宗教学への導入

宗教のフィールドワーク的研究の歴史は、文化人類学の発展と不可分に結びついている。ブロニスワフ・マリノフスキー(Bronislaw Malinowski)がトロブリアンド諸島での長期滞在に基づく民族誌 Argonauts of the Western Pacific (1922) を刊行し、参与観察(participant observation)を人類学的フィールドワークの方法論的基盤として確立して以来、宗教現象の研究においても現地調査に基づく民族誌的記述が重要な位置を占めるようになった。

エドワード・エヴァンズ=プリチャード(Edward Evans-Pritchard)の Nuer Religion (1956) は、スーダンのヌエル人の宗教実践を長期の参与観察に基づいて分析した古典的民族誌であり、「未開社会の宗教」を単なる迷信や呪術として片づけるのではなく、独自の論理と体系性をもつ知的営みとして叙述した点で画期的であった。エヴァンズ=プリチャードは、ヌエル人の神概念(kwoth)が西洋の神学的枠組みでは捉えきれない複層的な構造をもつことを示し、宗教の比較研究における西洋中心的カテゴリーの限界を実証的に明らかにした。

クリフォード・ギアツ(Clifford Geertz)は The Interpretation of Cultures (1973) において、文化を「意味の網の目」(webs of significance)として把握する解釈人類学(interpretive anthropology)の方法を提唱し、宗教研究にも大きな影響を与えた。ギアツの有名な宗教の定義 --- 宗教とは「象徴の体系」であり、「一般的な存在の秩序に関する概念を定式化し」、それを「事実性の雰囲気」で包むことによって「強力で、浸透的で、持続的な気分と動機づけを確立する」もの --- は、宗教を信仰内容ではなく文化的意味体系として把握する視点を広く普及させた(ただし、この定義はタラル・アサドによって批判を受けたことはSection 1で触れた通りである)。

参与観察の方法論的課題

参与観察は、研究者が対象となる宗教共同体の生活に一定期間参加し、内部からの視点(エミック)と外部からの分析的視点(エティック)を往還しながら知見を構築する方法である。しかし、この方法には宗教研究に固有の困難がある。

インサイダー/アウトサイダー問題: 宗教のフィールドワークにおいて、研究者は対象共同体の「内部者」(insider)と「外部者」(outsider)のいずれの立場に立つのかという問題は、単なる方法論上の選択ではなく、認識論的な問題を含む。内部者としての参与は、信仰者の意味世界への深い理解を可能にするが、批判的距離を失い、記述が弁護(apologia)に傾く危険がある。外部者としての観察は、分析的距離を保つが、実践者にとって核心的な経験(祈りにおける神との対話、瞑想における変性意識など)を十分に把握できない可能性がある。

この問題に対し、ラッセル・マカチェンは、研究者が「共感的理解者」(empathetic understander)として対象に寄り添う姿勢が実質的に信仰的態度の学術的変種となりうると批判した。他方、宗教現象学の伝統に連なる研究者は、宗教的経験への共感的参入なしには宗教研究は不毛な外的記述に終わると反論した。

研究者の信仰と学問的中立性: フィールドワークを行う研究者自身が何らかの宗教的信仰を持つ場合、その信仰は研究にいかなる影響を及ぼすか。自分の信仰と異なる宗教を研究する場合、そこに暗黙の優劣判断が介在しないか。自分自身の信仰を研究対象とする場合、批判的分析は可能か。これらの問いは「反省性」(reflexivity)の概念によって主題化されてきた。1980年代以降の「民族誌の危機」(crisis of representation)--- ジェイムズ・クリフォード(James Clifford)とジョージ・マーカス(George Marcus)の編纂した Writing Culture (1986) に代表される --- は、民族誌的記述における権力関係と表象の政治性を問い直したが、宗教研究においてもこの反省的転回は方法論の重要な一部となった。

宗教のフィールドワークにおける倫理的問題

宗教のフィールドワークは、固有の倫理的問題を提起する。

インフォームド・コンセントと秘儀: 多くの宗教伝統は、非信者に開示すべきでないとされる秘密の教義・儀礼(秘儀、initiation rites)を保持している。研究者がこれらに接近しようとする場合、研究倫理上のインフォームド・コンセント(informed consent)の原則と、宗教共同体の自律性・秘密保持の権利との間に緊張が生じる。

「潜入調査」の歴史と反省: 宗教研究の歴史には、研究者が信仰者を装って宗教共同体に参入する「潜入調査」(covert research)の事例がある。レオン・フェスティンガー(Leon Festinger)らが行った終末予言カルトへの潜入研究 When Prophecy Fails (1956) は、社会心理学における認知的不協和理論の実証的基盤を提供した重要な研究であるが、研究倫理の観点からは深刻な問題をはらんでいた。研究チームはカルト集団に信仰者として潜入し、研究目的を隠した上で集団の内部情報を収集した。この種の潜入調査は、対象者の同意なき研究参加、プライバシーの侵害、研究者の存在が対象集団の行動に及ぼす影響(反応性)など、複数の倫理的問題を提起する。

現代の研究倫理においては、潜入調査は原則として容認されず、研究者は自らの身分と研究目的を対象者に開示することが求められる。ただし、閉鎖的な宗教共同体(いわゆる「カルト」を含む)の研究においては、公然の調査が事実上不可能であるケースも存在し、倫理的要請と学問的必要性の間の緊張は完全には解消されていない。

graph TD
    A["宗教のフィールドワーク"] --> B["参与観察<br/>(participant observation)"]
    A --> C["インタビュー・<br/>ライフヒストリー"]
    A --> D["儀礼の観察・<br/>記録"]

    B --> E["インサイダー<br/>(内部者として参与)"]
    B --> F["アウトサイダー<br/>(外部者として観察)"]

    E --> G["利点: 意味世界への<br/>深い理解"]
    E --> H["リスク: 批判的距離<br/>の喪失"]
    F --> I["利点: 分析的<br/>距離の保持"]
    F --> J["リスク: 核心的経験<br/>の把握困難"]

    A --> K["倫理的課題"]
    K --> K1["インフォームド・<br/>コンセント"]
    K --> K2["秘儀への<br/>アクセス"]
    K --> K3["潜入調査の<br/>問題"]
    K --> K4["反省性<br/>(reflexivity)"]

テクスト研究と宗教

文献学的方法 --- テクスト研究の基盤

宗教学は、その成立当初から文献学(philology)との密接な関係のなかで発展してきた。マックス・ミュラーは比較言語学者であり、インドのヴェーダ聖典やゾロアスター教のアヴェスタなどの古代宗教テクストの翻訳・校訂を通じて比較宗教学の基礎を築いた。Sacred Books of the East 全50巻(1879-1910)の編纂は、東洋の宗教テクストを西洋の学術的アクセスに開くとともに、テクストの翻訳・出版という行為自体が宗教間の序列化と結びつきうることを示す両義的なプロジェクトであった。

文献学的方法は、テクストの成立年代・著者・成立背景・テクスト伝承の過程を実証的に解明することを目的とする。写本の比較校合(collation)による本文批評(textual criticism)、テクストの語彙・文法・文体の分析、文学的形式(ジャンル)の同定などが具体的な手続きとして用いられる。この方法は、聖典テクストを信仰の対象としてではなく、歴史的文書として扱うことを前提とし、その意味で世俗的な学問的分析を宗教テクストに適用する営みである。

聖典解釈の諸方法

聖典テクストの学術的研究は、聖書学(biblical studies)において最も精緻に発展してきた。ここで確立された方法論は、コーラン研究、仏典研究、ヒンドゥー教聖典研究など、他の宗教テクストの学術的分析にも影響を与えている。以下では、聖典解釈の主要な方法を概観する。

歴史的批評(historical criticism): 歴史的批評は、聖典テクストをその成立当時の歴史的文脈のなかに位置づけ、「テクストの背後にある世界」(the world behind the text)を再構成しようとする方法である。18世紀以降のドイツ聖書学において発展したこの方法は、複数の下位手法を含む。

  • 資料批評(source criticism): テクストの背後にある先行資料を同定する方法。モーセ五書のヤハウィスト資料(J)・エロヒスト資料(E)・祭司資料(P)・申命記資料(D)を区別するユリウス・ヴェルハウゼン(Julius Wellhausen)の文書仮説(1878)はその代表的成果である。
  • 様式批評(form criticism): テクストの文学的形式(ジャンル)を同定し、その「生活の座」(Sitz im Leben)すなわちテクストが用いられた社会的・制度的文脈を推定する方法。ヘルマン・グンケル(Hermann Gunkel)が創始し、ルドルフ・ブルトマン(Rudolf Bultmann)が新約聖書研究に適用した。
  • 編集批評(redaction criticism): 最終的なテクストの編集者(redactor)がいかなる神学的意図をもって素材を選択・配列・改変したかを分析する方法。

文学的批評(literary criticism): 1970年代以降、歴史的批評の限界に対する反省から、テクストをその最終形態(final form)において分析する文学的批評が発展した。テクストの背後にある歴史ではなく、「テクストの世界」(the world of the text)そのものを分析対象とする。物語批評(narrative criticism)はテクストの語りの構造・視点・プロット・登場人物造形などを分析し、修辞批評(rhetorical criticism)はテクストの説得的戦略を検討する。

Key Concept: 生きられた宗教(lived religion) テクストや教義ではなく、人々が日常生活のなかで実際に行っている宗教的実践に焦点を当てるアプローチ。教義・制度・エリートの宗教言説から距離をとり、庶民の祈り・治癒儀礼・家庭祭祀・聖者崇敬・身体的実践・物質文化など、「公式」の教えからしばしば逸脱する「非公式」な宗教生活を研究の中心に据える。ロバート・オルシ、メレディス・マクガイアらが理論的発展に寄与した。

読者反応批評(reader-response criticism): テクストの意味をテクスト自体の内在的構造にではなく、テクストと読者の相互作用のなかに見出すアプローチである。ヴォルフガング・イーザー(Wolfgang Iser)の読書行為論やスタンリー・フィッシュ(Stanley Fish)の「解釈共同体」(interpretive communities)の理論に基盤をもつ。宗教テクスト研究においては、聖典テクストの意味が読者(信仰者共同体)の解釈的伝統によって構成されるという視点を提供し、テクストの「客観的意味」の同定を目指す歴史的批評の前提を相対化する。

テクスト中心主義の問題

テクスト研究は宗教学の中核的方法であり続けているが、テクスト中心主義(textualism)への批判もまた繰り返し提起されてきた。批判の要点は以下の通りである。

第一に、テクストへの過度の集中は、「宗教=テクスト(聖典)を持つ体系」という暗黙の前提を生み出す。この前提は、聖典をもたないか、テクストが宗教実践の中心にない宗教伝統(多くの先住民宗教、口頭伝承を基盤とするアフリカの諸宗教など)を「宗教」の範疇から周縁化しかねない。

第二に、聖典テクストの学術的分析は、テクストを信仰共同体の生きた実践から切り離し、「文書」として対象化する操作を含む。しかし、実際の宗教的実践においてテクストは、朗唱・暗誦・写経・儀礼的奉納・護符としての携帯など、「読む」以外の多様な仕方で用いられている。テクストの「意味」を文献学的分析によって確定しようとするアプローチは、テクストが宗教的生活のなかで果たしている多元的な機能を見落とす可能性がある。

第三に、テクスト研究はしばしばエリートの宗教(知識人・聖職者の宗教言説)に偏り、一般信徒の宗教的生活を視野の外に置いてきた。この問題意識は、次に検討するlived religionアプローチの出発点と直結する。


lived religion(生きられた宗教)アプローチ

テクスト・教義中心主義への批判

lived religion(生きられた宗教)アプローチは、1990年代にアメリカの宗教史研究者を中心に体系化された研究動向であり、その知的系譜はフランス宗教社会学の la religion vecue(生きられた宗教)概念に遡るが、英語圏では独自の理論的発展を遂げた。

このアプローチの出発点にあるのは、従来の宗教研究が暗黙に前提としてきた教義中心主義(doctrine-centrism)への批判である。従来の宗教学は、宗教を主としてテクスト(聖典・神学書・教義文書)と制度(教会・寺院・教団組織)を通じて理解してきた。この枠組みでは、「正しい宗教」の基準は教義と公式の教えに置かれ、そこからの逸脱は「民間信仰」「迷信」「シンクレティズム」として周縁化される。

しかし、人々の実際の宗教生活は、公式の教義が規定するものとは大きく異なる場合が少なくない。カトリック信者の聖人崇敬や奇跡への期待、プロテスタント信者のスピリチュアルな実践への関心、寺檀制度下の日本の仏教信者における先祖供養と占いの混淆、イスラームの聖者廟参詣(ジヤーラ)と聖者の仲裁への期待 --- これらはいずれも「公式」の教義からは必ずしも正当化されないが、信仰者の宗教生活において中心的な位置を占めている。lived religionアプローチは、こうした「非公式」の宗教的実践を研究の正面に据える。

ロバート・オルシとイタリア系アメリカ人の信心実践

ロバート・オルシ(Robert Orsi)は、lived religion研究の理論的展開に最も大きな影響を与えた宗教史研究者の一人である。オルシの The Madonna of 115th Street (1985) は、ニューヨーク・ハーレムのイタリア系アメリカ人コミュニティにおける聖母マリア(カルメル山の聖母)の年次祭を民族誌的に研究したものであり、公式のカトリック教義と移民共同体の実際の信心実践(devotional practice)との乖離を鮮明に描き出した。

オルシは、イタリア系移民の宗教生活が「正統」と「逸脱」の二項対立では把握できないことを示した。移民たちの聖母崇敬は、カトリック教会の公式の教えとは異なる論理で組織されていた --- 聖母は神学的教義の対象であるよりも、家族の守護者・治癒者・仲介者として、移民たちの日常生活における具体的な困難(病気、失業、家族の不和)に介入する実在的な存在であった。この信心実践には、南イタリアの村落文化、ジェンダー規範、家族主義、身体的苦痛の宗教的意味づけなど、教義テクストの分析からは見えない多層的な文脈が絡み合っていた。

オルシはその後の著作 Between Heaven and Earth (2005) において、lived religionの理論的枠組みをさらに精緻化し、宗教的実践における人間と超自然的存在(聖人・天使・悪魔・死者の霊)との「関係」(relationship)を分析の中心的概念として提示した。オルシにとって、宗教は抽象的な信念体系ではなく、人間と「聖なる存在」との関係のなかで生きられるものであり、この関係は常に社会的・歴史的な文脈のなかに埋め込まれている。

メレディス・マクガイアの身体的実践論

メレディス・マクガイア(Meredith McGuire)は、宗教社会学の立場からlived religionアプローチの体系的な理論化を行った。マクガイアの Lived Religion: Faith and Practice in Everyday Life (2008) は、このアプローチの基本的テキストの一つとなっている。

マクガイアは、従来の宗教社会学が宗教を「組織された信念と実践の体系」(organized system of beliefs and practices)として把握してきたことを批判した。この定義は、宗教を教団・宗派などの制度的組織と同一視し、信者の宗教的アイデンティティを教団への帰属(所属宗教)によって測定する傾向を生む。しかし、現代社会における人々の実際の宗教的生活は、単一の教団への帰属では捉えきれない複合的・流動的な様態を示している。ある人はカトリック教会に通いながらヨガの瞑想を実践し、仏教的な慈悲の概念に共感し、占星術にも関心を持つかもしれない。マクガイアはこうした個人レベルの宗教的混合を「シンクレティズム」として否定的に評価するのではなく、現代における宗教の実態として真正面から分析すべきだと主張した。

マクガイアの理論的貢献のなかで特に重要なのは、身体性(embodiment)の強調である。マクガイアは、モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)の「生きられた身体」(lived body)概念を援用し、宗教を信念(belief)よりも身体的実践(bodily practice)を通じて把握する視角を提示した。祈りの身体的作法、食の禁忌と浄化、治癒儀礼における身体接触、巡礼における身体的苦行 --- これらの実践は、信条の言語的表明では捉えきれない宗教的意味を身体を通じて生成し伝達している。

lived religionアプローチの射程と限界

lived religionアプローチは、宗教研究に以下の重要な転換をもたらした。

従来のアプローチ lived religionアプローチ
テクスト・教義中心 日常的実践中心
制度的宗教(教団・宗派)を分析単位 個人の宗教的生活を分析単位
エリートの宗教言説に焦点 庶民の宗教実践に焦点
信念(belief)を中心カテゴリー 実践(practice)・身体(body)を中心カテゴリー
正統/異端の二項対立 宗教的混合・流動性の記述
共時的な教義分析 歴史的・社会的文脈への埋め込み

ただし、lived religionアプローチにも批判が向けられている。第一に、テクスト・教義の重要性を過小評価する傾向への懸念がある。テクストが宗教実践のなかで果たす役割は実際には大きく、テクスト中心主義を批判することとテクストの分析を放棄することは同義ではない。第二に、「日常」「庶民」の宗教をロマン化する危険がある。エリートの宗教言説を批判しつつ「庶民の生きた宗教」を称揚する姿勢は、別の形の本質主義(「庶民の宗教こそ本当の宗教である」)に陥りかねない。第三に、分析の単位が個人の宗教的実践に移行することで、宗教の集合的・制度的次元(権力構造、教団組織、政教関係)の分析が手薄になるという指摘もある。

graph LR
    subgraph "従来のアプローチ"
        T["テクスト研究"] --> D["教義・神学"]
        I["制度分析"] --> O["教団・宗派組織"]
    end

    subgraph "lived religionアプローチ"
        P["日常的実践<br/>の観察"] --> B["身体的実践<br/>(祈り、巡礼、<br/>治癒、食の禁忌)"]
        P --> M["物質文化<br/>(聖像、護符、<br/>聖水、ロザリオ)"]
        P --> R["関係<br/>(聖人・死者との<br/>交流)"]
    end

    T -.->|"批判: エリート<br/>中心主義"| P
    I -.->|"批判: 制度=<br/>宗教の同一視"| P

    P -.->|"反批判: テクスト・<br/>制度の過小評価"| T

フィールドワーク・テクスト研究・lived religionの統合

フィールドワーク、テクスト研究、lived religionの三つのアプローチは、それぞれ固有の認識論的前提と方法論的強みを持ち、相互に補完的な関係にある。

テクスト研究は聖典・教義文書の精密な分析を可能にするが、テクストが実際にいかに読まれ・用いられ・生きられているかについては限定的な知見しか提供しない。フィールドワークは宗教実践の現場を記述するが、実践者の行為の背後にある教義的・テクスト的伝統を見落とす可能性がある。lived religionアプローチは個人の宗教的生活の複合性を捉えるが、宗教の制度的・集合的次元の分析には不向きである。

したがって、方法論的な多元主義(methodological pluralism)--- 研究課題に応じて複数の方法を組み合わせる姿勢 --- が、現代の宗教研究においてはますます重要となっている。テクストの文献学的分析と、そのテクストがいかに朗唱・暗誦・解釈・実践されているかの民族誌的研究を組み合わせることで、テクストの「生」(life of the text)を多角的に把握することが可能になる。ウィルフレッド・キャントウェル・スミス(Wilfred Cantwell Smith)が「聖典」(scripture)を固定されたテクストとしてではなく、共同体との関係のなかで生きている動的な現象として把握すべきだと論じたこと(What is Scripture? 1993)は、この統合的視座の先駆的表明であった。


まとめ

  • 宗教のフィールドワークは文化人類学の参与観察法を基盤とし、マリノフスキー、エヴァンズ=プリチャード、ギアツらの方法論的貢献の上に発展した。インサイダー/アウトサイダー問題、研究者の反省性、潜入調査の倫理など、宗教研究に固有の方法論的・倫理的課題がある。
  • テクスト研究は文献学に端を発し、歴史的批評・文学的批評・読者反応批評などの多様な方法を発展させた。一方で、テクスト中心主義はテクストをもたない宗教の周縁化、テクストの多元的機能の見落とし、エリート偏向といった問題を生じさせる。
  • lived religion(生きられた宗教)アプローチは、教義・テクスト・制度中心の宗教研究を批判し、人々の日常的実践における宗教の多様な在り方に焦点を当てる。オルシの信心実践研究、マクガイアの身体性論が理論的基盤を形成した。
  • 三つのアプローチは相互補完的であり、方法論的多元主義が現代の宗教研究には求められる。

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
参与観察 participant observation 研究者が対象集団の生活に参加しつつ観察を行うフィールドワークの基本的方法
反省性 reflexivity 研究者が自らの立場性・前提・バイアスを自覚的に検討し、研究過程に組み込む態度
歴史的批評 historical criticism 聖典テクストをその成立当時の歴史的文脈に位置づけ、テクストの背後にある世界を再構成する方法
資料批評 source criticism テクストの背後にある先行資料を同定・区別する文献学的方法
様式批評 form criticism テクストの文学的形式を同定し、その社会的・制度的使用文脈(生活の座)を推定する方法
読者反応批評 reader-response criticism テクストの意味をテクストと読者の相互作用のなかに見出す解釈方法
生きられた宗教 lived religion テクスト・教義ではなく人々の日常的な宗教実践に焦点を当てる研究アプローチ
テクスト中心主義 textualism 宗教をテクスト(聖典・教義文書)を通じて理解する志向。テクストをもたない宗教の周縁化やエリート偏向を招きうる
信心実践 devotional practice 公式の典礼・礼拝とは区別される、個人的・非公式的な宗教的実践(聖人崇敬、巡礼、家庭祭祀など)
方法論的多元主義 methodological pluralism 研究課題に応じて複数の方法を組み合わせて用いる姿勢

確認問題

Q1: 宗教のフィールドワークにおけるインサイダー/アウトサイダー問題の核心を説明し、それぞれの立場が持つ認識論的な利点と危険を論じよ。

A1: インサイダー/アウトサイダー問題とは、研究者が対象となる宗教共同体の内部者として参与するか、外部者として観察するかという立場の選択が、得られる知見の性質を根本的に規定するという問題である。インサイダーの立場は、信仰者の意味世界への深い理解(エミックな知識)を可能にし、外部からの観察では把握しがたい宗教的経験の質的側面に接近できるが、批判的距離を失い記述が弁護に傾く危険がある。アウトサイダーの立場は、分析的距離を保ち、当事者にとっては自明であるがゆえに主題化されない構造を可視化できるが、実践者にとって核心的な宗教的経験(祈りにおける神との対話、瞑想における変性意識など)の把握が困難になりうる。現代の宗教研究では、この二項対立を固定的なものとして捉えるのではなく、反省性の概念を通じて研究者の立場性を自覚的に検討しつつ、内部と外部の視点を往還する姿勢が求められている。

Q2: テクスト中心主義に対する批判を三つの観点から整理し、それぞれがなぜ宗教研究にとって問題となるかを説明せよ。

A2: テクスト中心主義に対する批判は以下の三点に整理できる。第一に、テクスト(聖典)を持つことを宗教の暗黙の条件とすることで、聖典をもたないか、テクストが中心的でない宗教伝統(先住民宗教、口頭伝承基盤の諸宗教)が周縁化される。これは「宗教」概念の西洋キリスト教的バイアスの再生産に繋がる。第二に、テクストの「意味」を文献学的分析で確定しようとするアプローチは、テクストが宗教的生活のなかで果たす多元的機能(朗唱、暗誦、護符としての携帯、儀礼的奉納など)を見落とす。テクストは「読む」対象であるだけでなく、身体的・物質的に用いられる宗教的事物でもある。第三に、テクスト研究は知識人・聖職者のエリート的宗教言説に偏り、一般信徒の宗教的生活が研究の視野から外れる傾向がある。これは宗教の実態についての歪んだ理解を生む。

Q3: ロバート・オルシの研究がlived religionアプローチの理論的発展にいかに貢献したかを、具体的な研究事例に言及しながら説明せよ。

A3: オルシは The Madonna of 115th Street (1985) において、ニューヨークのイタリア系アメリカ人コミュニティにおける聖母マリア(カルメル山の聖母)の年次祭を民族誌的に研究した。この研究は、移民たちの聖母崇敬がカトリック教会の公式教義とは異なる論理で組織されていることを示した。聖母は神学的教義の対象というよりも、家族の守護者・治癒者・仲介者として移民たちの具体的な困難に介入する存在であった。この信心実践には南イタリアの村落文化、ジェンダー規範、家族主義、身体的苦痛の意味づけなど、教義分析からは見えない多層的な文脈が絡み合っていた。オルシは後の Between Heaven and Earth (2005) で、宗教的実践における人間と超自然的存在との「関係」を分析の中心概念として提示し、宗教が抽象的信念体系ではなく「聖なる存在」との関係のなかで生きられるものであるとの理論的枠組みを確立した。これらの研究を通じ、オルシは教義中心的な宗教理解の限界を実証的に示し、lived religion研究の方法論的基盤を構築した。

Q4: 歴史的批評(historical criticism)と文学的批評(literary criticism)は、聖典テクストのいかなる側面に着目するかにおいてどのように異なるか。それぞれの方法の認識論的前提を対比して説明せよ。

A4: 歴史的批評は「テクストの背後にある世界」(the world behind the text)に着目し、テクストの成立年代・著者・歴史的背景・先行資料・編集過程を再構成することを目指す。その認識論的前提は、テクストの意味はその歴史的成立文脈を解明することで理解されるという点にある。資料批評・様式批評・編集批評などの下位手法を通じて、テクストの「層」(strata)を剥がし、テクスト生成の歴史的過程を明らかにする。他方、文学的批評は「テクストの世界」(the world of the text)そのものに着目し、テクストをその最終形態(final form)において分析する。物語批評はテクストの語りの構造・視点・プロット・登場人物造形を、修辞批評はテクストの説得的戦略を検討する。その認識論的前提は、テクストの意味はテクストの構造そのものの分析によって把握されるという点にある。歴史的批評がテクストを歴史的文書として扱うのに対し、文学的批評はテクストを文学作品として扱う点で、両者は根本的に異なる視角を提供する。

Q5: メレディス・マクガイアが宗教研究において「身体性」(embodiment)を強調することの意義を、従来の宗教研究の問題点と対比しながら論じよ。

A5: 従来の宗教研究は、宗教を主として「信念」(belief)のカテゴリーで把握してきた。この把握は、プロテスタント的な宗教理解(宗教の核心は内面的信仰にある)を暗黙に反映している。マクガイアはメルロ=ポンティの「生きられた身体」概念を援用し、宗教が信念の知的同意にとどまらない身体的実践を通じて生きられている次元に注目した。祈りの身体的作法、食の禁忌と浄化、治癒儀礼における身体接触、巡礼における歩行と苦行などの実践は、命題的な信条の言語的表明では捉えきれない宗教的意味を身体を通じて生成し伝達している。この視角の意義は、第一に「信念中心主義」(belief-centrism)の相対化を可能にすること、第二にプロテスタント的バイアスを超えた通文化的な宗教分析の地平を開くこと、第三に宗教的実践の感覚的・情動的・物質的次元を分析の射程に含めることにある。