Module 3-3 - Section 1: 宗教倫理の基礎と生命倫理¶
セクション情報¶
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| モジュール | Module 3-3: 宗教と倫理・生命 |
| 前提セクション | なし |
| 想定学習時間 | 8時間 |
導入¶
倫理と宗教の関係は哲学史上最も根源的な問いの一つである。「善とは何か」「なぜ道徳的に行為すべきか」という問いに対し、宗教は古来、超越的な根拠を提供してきた。しかし同時に、「道徳は宗教なしに成立しうるか」「神の命令が道徳の唯一の源泉か」という問いもまた、プラトン以来繰り返し提起されてきた。
本セクションでは、まず宗教倫理の基礎理論として、自然法論、神命説(divine command theory)、徳の倫理と宗教の関係を検討する。これらは「道徳の根拠をどこに求めるか」という問いに対する異なるアプローチであり、相互に緊張関係にある。次に、これらの理論的基盤を踏まえて、脳死・臓器移植、中絶、安楽死・尊厳死という現代の生命倫理上の諸問題に対し、各宗教がいかなる立場をとっているかを比較分析する。
宗教倫理の基礎理論¶
自然法論¶
Key Concept: 自然法(natural law) 人間の理性によって認識可能な、神に由来する普遍的・客観的な道徳法則。トマス・アクィナスが体系化した自然法論は、カトリック道徳神学の基盤となっている。実定法(人間が制定する法)に先立って存在し、実定法の正当性を評価する基準となる。
自然法の思想は古代ギリシアのストア派に遡る。ストア派は、宇宙を支配する理性的秩序(ロゴス)が存在し、人間はその理性に与ることで普遍的な道徳法則を知りうると考えた。ローマのキケロ(Marcus Tullius Cicero, 106-43 BC)は『国家について』において、「真の法は正しい理性であり、自然に合致し、すべての人に行き渡り、不変かつ永遠である」と述べている。
トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225-1274)は『神学大全』において、法を四層の階層構造として体系化した。
- 永遠法(lex aeterna): 神の知恵そのものであり、宇宙全体を支配する神の摂理の計画
- 自然法(lex naturalis): 永遠法の理性的被造物(人間)における分有。人間の理性によって認識可能
- 人定法(lex humana): 人間が自然法の一般原則から推論によって導出する具体的な法律
- 神法(lex divina): 聖書に啓示された神の法。旧法(モーセの律法)と新法(キリストの福音)
graph TD
A["永遠法(lex aeterna)<br/>神の知恵・摂理の計画"] --> B["自然法(lex naturalis)<br/>理性的被造物における<br/>永遠法の分有"]
A --> C["神法(lex divina)<br/>聖書に啓示された法"]
B --> D["人定法(lex humana)<br/>自然法から導出される<br/>実定法"]
C --> E["旧法<br/>モーセの律法"]
C --> F["新法<br/>キリストの福音"]
アクィナスの自然法論の核心は、人間の本性(natura)に内在する目的(finis)から道徳法則を導出する点にある。アクィナスは自然法の第一原則を「善はなされるべきであり追求されるべきであり、悪は避けるべきである」と定式化し、これに基づく自然的傾向性として、自己保存、種の保存(生殖・子の養育)、真理の認識と社会における共同生活への傾向を挙げた。
自然法論の倫理学的含意として重要なのは、道徳が神の恣意的な命令ではなく、人間の本性に根ざした合理的秩序であるとする点である。これは後述する神命説との重要な対立点をなす。現代においても、カトリック教会は人工避妊、人工妊娠中絶、安楽死などに対する反対の根拠を自然法論に求めている。
神命説¶
Key Concept: 神命説(divine command theory) 道徳的義務の根拠を神の命令に求める倫理学上の立場。ある行為が道徳的に正しいのは神がそれを命じたからであり、道徳的に悪いのは神がそれを禁じたからである、とする。意志主義(voluntarism)の一形態。
神命説は、道徳と宗教の関係についての最も直截的な理論である。この立場によれば、「Xは道徳的に義務である」とは「神がXを命じている」と同義であり、道徳的義務は神の意志によって構成される。
歴史的に、神命説を支持した主要な思想家として、ドゥンス・スコトゥス(John Duns Scotus, c.1266-1308)とウィリアム・オッカム(William of Ockham, c.1287-1347)が挙げられる。スコトゥスは、十戒の後半(殺すなかれ、盗むなかれ等)は神の意志に依存する偶然的な命令であると論じた。オッカムはさらに徹底して、神が「殺人は善である」と命じれば殺人は善となる、と主張した。
近代以降のプロテスタント神学、とりわけカール・バルト(Karl Barth, 1886-1968)の神学倫理学は、倫理の根拠を神の自由な恵みの命令に求める点で神命説的な構造を持つ。現代の分析哲学においては、ロバート・アダムズ(Robert Merrihew Adams, 1937-)が修正版神命説を提唱し、神の命令が道徳的義務を構成するが、神の本性(善性・愛)が神の命令の内容を制約するとした。
エウテュプロンのジレンマ¶
Key Concept: エウテュプロンのジレンマ(Euthyphro dilemma) プラトンの対話篇『エウテュプロン』に由来する問い。「敬虔なものが敬虔であるから神々はそれを愛するのか、それとも神々が愛するから敬虔なのか」。神命説に対する最も古典的かつ強力な批判として、宗教倫理の議論において中心的な位置を占める。
エウテュプロンのジレンマは、神命説に対して二つの角(horn)を突きつける。
第一の角: 「神が命じるから善である」(善は神の意志に依存する)。この場合、もし神が殺人を命じたならば殺人は善となる。道徳は神の恣意的な意志に左右される偶然的なものとなり、道徳の客観性・安定性が失われる(恣意性の問題)。
第二の角: 「善であるから神が命じる」(善は神の意志から独立している)。この場合、善の基準は神から独立して存在しており、神は単にその独立した善を認識し伝達するにすぎない。道徳の根拠を神に求める神命説の核心的主張が崩壊する。
この古典的ジレンマに対して、アクィナスは「第三の道」を提示した。善は神の意志とも独立した基準とも異なり、神の本性(essentia)そのものに根拠を持つ。神は善そのもの(ipsum bonum)であり、神の命令は神の善なる本性の表出である。したがって、神の命令は恣意的ではなく(第一の角を回避)、かつ善は神から独立してはいない(第二の角を回避)。
アダムズの修正版神命説もこの線上にある。アダムズは、道徳的義務は「善にして愛なる神」の命令によって構成されるとし、神の善性という前提を組み込むことでエウテュプロンのジレンマを緩和しようとした。
徳の倫理と宗教¶
Key Concept: 徳の倫理(virtue ethics) 行為の正・不正ではなく、行為者の品性(character)・徳(virtue)に焦点を当てる倫理学の伝統。アリストテレスに起源を持ち、アクィナスがキリスト教的文脈に統合した。20世紀後半にアラスデア・マッキンタイアらによって復権された。
アリストテレス(Aristotle, 384-322 BC)の徳の倫理学は、「善い人間とは何か」「人間にとっての善い生(エウダイモニア)とは何か」を中心的な問いとする。アリストテレスは、徳を知性的徳(sophia, phronesis等)と倫理的徳(勇気、節制、正義等)に分類し、倫理的徳は極端の中間(メソテース)としての行為の習慣化によって獲得されると論じた。
アクィナスは、アリストテレスの四枢要徳(prudentia, justitia, fortitudo, temperantia=賢明、正義、勇気、節制)を継承しつつ、キリスト教の三対神徳(信仰・希望・愛)を加えた。対神徳は人間の自然的能力では獲得不可能であり、神の恩寵(gratia)によって注入される(infused virtues)とされる。ここに自然法論と徳の倫理の統合が成立する。
20世紀後半、アラスデア・マッキンタイア(Alasdair MacIntyre, 1929-)は『美徳なき時代』(After Virtue, 1981年)において、近代の義務論的倫理学と功利主義はいずれも道徳的推論の客観的基盤を提供しえないと批判し、アリストテレス=トマス主義的な徳の倫理学への回帰を主張した。マッキンタイアにとって、徳は「実践」(practice)の内的善(internal goods)を達成するために必要な資質であり、特定の共同体の伝統(tradition)の中で涵養される。この議論は、世俗化した近代社会において宗教的共同体が徳の涵養の場として果たしうる役割を間接的に示唆している。
イスラームにおいても、アブー・ハーミド・アル=ガザーリー(Abu Hamid al-Ghazali, 1058-1111)が『宗教諸学の再興』において、アリストテレス的な徳の倫理学をイスラーム的霊性と統合する試みを行っている。仏教における八正道も、正しい見解(正見)・正しい志向(正思惟)から正しい瞑想(正定)に至る修行道として、徳の倫理学的構造を持つものと解釈しうる。
生命倫理と宗教¶
概観:生命の聖性と生命の質¶
生命倫理(bioethics)の諸問題に対する宗教的アプローチを理解するうえで、二つの基本原則の対立が重要である。
生命の聖性(sanctity of life)の原則は、人間の生命は神に由来する聖なるものであり、人為的に終結させてはならないとする。キリスト教、イスラーム、ユダヤ教のいずれも、この原則を生命倫理上の基本的立場として共有している。
生命の質(quality of life)の原則は、生命の維持よりも、その質や尊厳の保全を重視する。現代の世俗的生命倫理はこの原則を重視する傾向にあるが、宗教的立場からは、「生命の質」を基準とすることが「生きるに値しない生命」の概念を導き、優生思想に通じうるとの批判がなされることがある。
ただし、「生命の聖性」原則を採る宗教においても、延命治療の無制限の継続を義務とする立場は稀であり、多くの伝統が「通常の手段」と「特別の手段」の区別や、治療の比例性原則を認めている。
脳死・臓器移植¶
Key Concept: 脳死(brain death) 全脳機能(大脳および脳幹)の不可逆的な停止をもって人の死とする概念。1968年のハーバード大学基準が端緒。臓器移植の前提条件として医学的・法的に導入されたが、「死」の定義をめぐる哲学的・宗教的議論を喚起し続けている。
カトリック: 教皇ヨハネ・パウロ2世(John Paul II, 1920-2005)は2000年の国際移植学会での演説において、脳死の判定基準を「道徳的確実性をもって死を宣告するために適用可能」と認め、臓器提供を「寛大さの真の行為」として肯定した。ただし、臓器の商業化や提供者の生命を脅かす行為は否定される。
イスラーム: イスラーム法学諸学会の見解は分かれる。イスラーム法学アカデミー(OIC傘下、1986年決議)は脳死を死の判定基準として認めたが、一部の法学者はなお心肺機能の停止を死の基準とすべきだと主張する。臓器提供は「必要性の原則」(darura)に基づき、条件付きで許容される。
ユダヤ教: 正統派内部で見解が分かれる。イスラエルのアシュケナジ首席ラビであったイスラエル・メイル・ラウ(Israel Meir Lau)は脳幹死を死の基準として受容したが、保守的な見解は呼吸停止のみを死の基準とする。臓器提供は、受領者の生命を救う行為(ピクアッハ・ネフェシュ)として肯定的に評価されうる。
仏教: 統一的な教義機関を欠くため公式見解は存在しないが、臓器提供を布施(dana)の行為として積極的に評価する見方がある。法華経の薬王菩薩品における「不惜身命」の思想がその根拠とされる。他方、日本の仏教界では脳死判定への慎重論も見られ、脳死状態でも身体に微細な意識が残存する可能性を指摘する見解もある。
人工妊娠中絶¶
カトリック: 受精の瞬間から人間の生命は始まるとし、いかなる場合も直接的な中絶を道徳的に許容しない。ただし、子宮外妊娠における患部切除や子宮癌治療など、胎児の死が直接的に意図されない場合には「二重結果の原理」(principle of double effect)により許容される場合がある。この原理は、行為そのものが善であるか少なくとも中立的であり、善い結果を意図し、悪い結果は予見されるが意図されず、善い結果が悪い結果に比して比例的である場合に適用される。
イスラーム: 多数のイスラーム法学者は、母体の生命に重大な危険がある場合の中絶を許容する。胎児への「魂の吹き込み」(ensoulment)の時期については、受精後40日説、120日説など法学派により見解が分かれるが、魂の吹き込み以前の中絶はより寛容に扱われる傾向がある。ハナフィー学派は比較的柔軟であり、シャーフィイー学派・ハンバリー学派はより厳格である。
ユダヤ教: タルムードは胎児の法的地位を「母体の一部」(ubar yerech immo)とし、独立した人格としては扱わない。出産時まで完全な人間の地位は認められず、母体の生命・健康が危険にさらされている場合の中絶は許容、場合によっては義務とされる。ミシュナ(オホロート7:6)は、出産が母体の生命を脅かす場合、胎児は「追跡者」(rodef)とみなされ、除去が正当化されるとする。
仏教: 第一戒「不殺生」(panatipata veramani)が基本的原則であり、中絶は原則的に否定的に評価される。しかし、仏教の因果応報論に基づく柔軟な判断が実践的にはなされることがあり、日本仏教においては水子供養の慣行が中絶に対する文化的応答として機能している。
安楽死・尊厳死¶
カトリック: 教理省の「安楽死に関する宣言」(Iura et bona, 1980年)は、積極的安楽死を「重大な道徳法の侵犯」として断罪する。教皇フランシスコ(Francis, 1936-)も安楽死と医師による自殺幇助に対する反対を繰り返し表明している。ただし、死期が切迫している患者が「特別の手段」(extraordinary means)による延命治療を拒否することは許容される。また、疼痛緩和を目的とした鎮痛剤の使用が結果的に死期を早める場合も、二重結果の原理により許容される。
イスラーム: 積極的安楽死と医師による自殺幇助は全面的に禁止される。クルアーン(4:29)の「自らを殺してはならない」という命令が根拠とされる。ただし、回復の見込みがなく、死が不可避的に切迫している場合に、人工呼吸器等の生命維持装置を取り外すことについては、一部の法学者が許容する見解を示している。
ユダヤ教: ハラハー(ユダヤ法)は、積極的安楽死を殺人として禁止する。ただし、「死につつある者」(goses)の死を人為的に遅延させることもまた問題視される。ラビ・モシェ・イッセルレス(Moses Isserles, 1530-1572)は、死を妨げている外的要因の除去は許容されるとの見解を示した。現代のイスラエルの「末期患者法」(2005年)は、この伝統を踏まえ、延命治療の差し控え(withholding)と延命治療の中止(withdrawing)を区別する独特の法的枠組みを構築している。
仏教: 第一戒に基づき積極的安楽死は原則的に否定されるが、生命への執着もまた苦(dukkha)の原因とされるため、死を自然な過程として受容する態度が重視される。上座部仏教の律蔵には、修行僧が他者の死を幇助した場合の波羅夷罪(最も重い罪)に関する規定がある。
| 生命倫理上の問題 | カトリック | イスラーム | ユダヤ教 | 仏教 |
|---|---|---|---|---|
| 脳死の受容 | 条件付き肯定 | 見解分裂 | 見解分裂 | 統一見解なし |
| 臓器移植 | 肯定(寛大さの行為) | 条件付き許容 | 肯定的(ピクアッハ・ネフェシュ) | 布施として肯定的 |
| 中絶 | 原則禁止 | 母体の危険時に許容 | 母体の危険時に許容/義務 | 原則否定的 |
| 積極的安楽死 | 全面禁止 | 全面禁止 | 禁止 | 原則否定的 |
| 延命治療の中止 | 特別の手段は拒否可 | 一部許容 | 限定的に許容 | 自然死の受容 |
まとめ¶
- 宗教倫理の基礎理論には、人間の理性を通じて道徳法則を認識しうるとする自然法論、道徳の根拠を神の命令に求める神命説、行為者の品性・徳に着目する徳の倫理という三つの主要な立場が存在する
- エウテュプロンのジレンマは、神命説に対する古典的批判として「善は神が命じるから善か、善であるから神が命じるのか」という二項対立を提示し、自然法論やアクィナスの「神の本性」論はこのジレンマへの応答として位置づけられる
- 生命倫理の諸問題(脳死・臓器移植、中絶、安楽死)に対して、各宗教は「生命の聖性」原則を共有しつつも、具体的な判断において教義・法体系の違いに応じた多様な立場をとっている
- カトリックは自然法論と二重結果の原理を根拠とし、イスラームはシャリーアと必要性の原則(darura)に基づき、ユダヤ教はハラハーとピクアッハ・ネフェシュの原則により、仏教は不殺生戒と執着の放棄のバランスにおいて、それぞれ独自の生命倫理的判断を展開している
- 次のセクション(Section 2)では、宗教と環境倫理(リン・ホワイト・テーゼ)および宗教間対話(ハンス・キュングの世界倫理構想)を扱う
用語集(Glossary)¶
| 用語 | 英語表記 | 定義 |
|---|---|---|
| 自然法 | natural law | 人間の理性によって認識可能な、神に由来する普遍的道徳法則。アクィナスが体系化 |
| 神命説 | divine command theory | 道徳的義務の根拠を神の命令に求める倫理学上の立場 |
| エウテュプロンのジレンマ | Euthyphro dilemma | 「善は神が命じるから善か、善であるから神が命じるのか」というプラトンに由来する問い |
| 徳の倫理 | virtue ethics | 行為者の品性・徳に焦点を当てる倫理学の伝統。アリストテレスに起源を持つ |
| 永遠法 | lex aeterna | アクィナスの法理論における最上位の法。神の知恵そのもの |
| 二重結果の原理 | principle of double effect | 善い結果を意図した行為が予見される悪い結果を伴う場合、一定の条件下でその行為を許容する原理 |
| 生命の聖性 | sanctity of life | 人間の生命は神に由来する聖なるものであり人為的に終結させてはならないとする原則 |
| 脳死 | brain death | 全脳機能の不可逆的停止をもって人の死とする概念。1968年ハーバード基準が端緒 |
| ピクアッハ・ネフェシュ | pikuach nefesh | 生命の救済がほぼすべての宗教的義務に優先するとするユダヤ法の原則 |
| ダルーラ | darura | 必要性の原則。通常は禁止される行為が生命の危険等の場合に許容されるとするイスラーム法の原則 |
| 不殺生戒 | panatipata veramani | 仏教五戒の第一。生きとし生けるものを殺してはならないとする戒律 |
| 水子供養 | mizuko kuyo | 流産・死産・中絶された胎児の霊を供養する日本仏教の慣行 |
確認問題¶
Q1: トマス・アクィナスの自然法論における法の四層構造(永遠法・自然法・人定法・神法)を説明し、自然法が道徳の根拠として機能するメカニズムを論ぜよ。
A1: アクィナスの法理論では、永遠法は神の知恵そのものであり宇宙全体を支配する摂理の計画である。自然法は永遠法の理性的被造物(人間)における分有であり、人間の理性によって認識可能である。人定法は自然法の一般原則から推論によって導出される具体的な法律であり、自然法に反する人定法は法としての効力を持たない。神法は聖書に啓示された法であり、旧法(モーセの律法)と新法(キリストの福音)に分かれる。自然法が道徳の根拠として機能するメカニズムは以下のとおりである。自然法の第一原則「善はなされるべきであり悪は避けるべきである」から、人間の自然的傾向性(自己保存、種の保存、真理の認識と社会的共同生活への傾向)に基づく具体的な道徳法則が導出される。これにより、道徳法則は神の恣意的な命令ではなく、人間の本性に根ざした合理的秩序として位置づけられる。
Q2: エウテュプロンのジレンマが神命説に対して提起する二つの問題を説明し、アクィナスとアダムズがそれぞれどのようにこのジレンマに応答したかを比較せよ。
A2: エウテュプロンのジレンマの第一の角は「神が命じるから善である」とする立場であり、この場合、道徳は神の恣意的な意志に左右され、神が殺人を命じれば殺人が善となるという帰結を招く(恣意性の問題)。第二の角は「善であるから神が命じる」とする立場であり、この場合、善の基準は神から独立して存在するため、道徳の根拠としての神の役割が不要となる。アクィナスは、善は神の意志とも独立した基準とも異なり、神の本性(essentia)そのものに根拠を持つとする「第三の道」を提示した。神は善そのもの(ipsum bonum)であるため、神の命令は恣意的ではなく(第一の角を回避)、かつ善は神から独立してはいない(第二の角を回避)。アダムズの修正版神命説も同様の方向性を持ち、道徳的義務は「善にして愛なる神」の命令によって構成されるとすることで、神の善性という前提を組み込みつつ神命説を維持しようとする。両者の相違は、アクィナスが自然法論の枠組みで応答するのに対し、アダムズは神命説の枠内での修正を試みる点にある。
Q3: 人工妊娠中絶に対するカトリック、イスラーム、ユダヤ教の立場を比較し、それぞれの立場がいかなる教義的・法的根拠に基づいているかを論ぜよ。
A3: カトリックは、受精の瞬間から人間の生命が始まるとし、直接的な中絶をいかなる場合も道徳的に許容しない。ただし、子宮外妊娠の治療など、胎児の死が直接的に意図されず行為そのものが善であるか中立的である場合には、二重結果の原理によって許容される場合がある。イスラームは、母体の生命に重大な危険がある場合に中絶を許容する。胎児への「魂の吹き込み」の時期について法学派間で40日説・120日説と見解が分かれ、魂の吹き込み以前の中絶はより寛容に扱われる。シャリーアの必要性の原則(darura)が根拠となる。ユダヤ教は、タルムードに基づき胎児を「母体の一部」とし、出産まで独立した人格としての地位を認めない。母体の生命が危険にさらされている場合、ミシュナの「追跡者」(rodef)概念により中絶は許容され、場合によっては義務となる。三者の比較から、カトリックが受精時からの「完全な人格」を前提とする最も厳格な立場をとるのに対し、イスラームとユダヤ教は胎児の人格的地位を段階的に認める点で、中絶に対してより柔軟な判断を可能にしている。
Q4: 安楽死・尊厳死の問題に関して、「積極的安楽死の禁止」と「延命治療の中止の許容」という一見矛盾する立場が、主要な宗教においてどのように両立させられているかを、具体的な教義・原則を挙げて説明せよ。
A4: 主要な宗教は、生命の聖性原則に基づき積極的安楽死(意図的に死をもたらす行為)を禁止する一方で、延命治療の中止を一定の条件下で許容している。この両立は、各宗教が「殺すこと」と「死ぬにまかせること」を倫理的に区別することで成立する。カトリックは、二重結果の原理および「通常の手段」と「特別の手段」の区別により、死期が切迫した患者が不相応な延命措置を拒否することは積極的安楽死とは本質的に異なるとする。イスラームでは、殺人と自殺のクルアーン的禁止が積極的安楽死の禁止の根拠であるが、回復不能で死が不可避的に切迫している場合の生命維持装置の取り外しは、一部の法学者がダルーラの原則等に基づき許容する。ユダヤ教では、ハラハーが積極的安楽死を殺人として禁止する一方、ラビ・イッセルレスの見解に代表されるように、死を人為的に遅延させている外的要因の除去は許容される。仏教は不殺生戒により積極的安楽死を否定するが、生命への執着もまた苦の原因とされるため、死を自然な過程として受容する態度が重視され、過度の延命は必ずしも求められない。