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Module 3-4 - Section 3: 宗教と科学・資本主義

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 3-4: 現代世界の宗教動態
前提セクション Section 1(世俗化論の再考とグローバル宗教の拡大)
想定学習時間 5時間

導入

本セクションでは、現代世界における宗教の動態を「科学」と「資本主義」という二つの文明的力との関係から検討する。Section 1で分析した世俗化論の再考とグローバル宗教の拡大を踏まえつつ、宗教が近代の知的・経済的秩序とどのような緊張関係および協働関係を取り結んできたかを明らかにすることが本セクションの目的である。

第一に、「宗教と科学は本質的に対立する」という通俗的理解が19世紀後半の歴史叙述によって構築された「紛争神話」であることを確認し、イアン・バーバーやジョン・ホートの類型論を通じて、宗教と科学の関係をより精緻に分析する枠組みを提示する。ガリレオ裁判やダーウィン進化論をめぐる論争の再解釈にも触れる。第二に、インテリジェント・デザイン(ID)論争を科学と宗教の境界をめぐる現代的争点として検討する。第三に、マックス・ヴェーバーの古典的テーゼを再読したうえで、繁栄の福音や宗教的消費文化といった現代の宗教と資本主義の接合を分析する。


宗教と科学の関係

「紛争神話」の形成

「宗教と科学は本質的に対立してきた」という理解は、現代においても広く流布しているが、科学史研究ではこの見方自体が19世紀後半に構築された歴史的神話であることが明らかになっている。この「紛争神話」(conflict myth)ないし「紛争テーゼ」(conflict thesis)を形成した中心的人物が、ジョン・ウィリアム・ドレーパー(John William Draper, 1811-1882)とアンドリュー・ディクソン・ホワイト(Andrew Dickson White, 1832-1918)である。

Key Concept: 紛争テーゼ(conflict thesis) 宗教と科学は歴史を通じて本質的に対立関係にあるとする歴史解釈。19世紀後半にドレーパーとホワイトの著作によって広められた。現代の科学史研究では、事実の選択的引用や文脈の無視に基づく歴史的神話として批判されているが、通俗的な理解においてはなお根強い影響力を持つ。

ドレーパーは『宗教と科学の対立の歴史』(History of the Conflict between Religion and Science, 1874)において、宗教(とりわけカトリック教会)と科学の歴史を継続的な「戦争」として叙述した。ホワイトは『キリスト教世界における科学と神学の戦争の歴史』(A History of the Warfare of Science with Theology in Christendom, 1896)において同様の図式をさらに体系化した。

注目すべきは、ドレーパーもホワイトも無神論者ではなく、むしろ宗教的信仰を持つ人物であった点である。両者の実際の意図は、宗教そのものの否定ではなく、教条的な神学に対するリベラルで進歩的な宗教理解の擁護にあった。ドレーパーの批判の主な対象はカトリック教会の教義的権威主義であり、ホワイトはコーネル大学(1865年設立)を非宗派的な大学として運営する過程で受けた宗教的保守派からの攻撃への応答として著作を執筆した。しかし20世紀に入ると、両者の叙述は本来の文脈を離れ、世俗主義者や新無神論者によって「宗教は科学の敵」という単純化された図式の根拠として援用されるようになった。

現代の科学史研究は、紛争テーゼが歴史的事実の選択的引用と文脈の無視に基づくことを広く認めている。コペルニクス、ガリレオ、ダーウィンといった事例はいずれも、「科学対宗教」という二項対立に還元できない複雑な政治的・制度的・個人的文脈の中で展開されたものである。

ガリレオ裁判の再解釈

ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei, 1564-1642)の裁判は、紛争テーゼの最も象徴的な事例として引用されてきた。しかし近年の歴史研究は、この事件の実態が通俗的な「科学の英雄対宗教的蒙昧」という図式とは大きく異なることを明らかにしている。

第一に、ガリレオの地動説は当時の科学界においても完全に確立されたものではなかった。ガリレオが決定的証拠として提示した潮汐論は実際には誤りであり、ティコ・ブラーエの地球中心-太陽中心折衷体系は観測データと同程度に整合的であった。第二に、紛争の本質は科学対宗教ではなく、聖書解釈の権威をめぐる教会内部の政治的闘争の側面が大きい。ガリレオ自身は敬虔なカトリック信者であり、地動説がカトリックの教義と矛盾しないことを論じようとした。第三に、ウルバヌス8世との個人的関係の悪化 ── ガリレオの著作が教皇の見解を愚か者の口に語らせたと受け取られたこと ── が裁判の直接的契機となった。第四に、ガリレオが拷問を受けた、あるいは長期投獄されたという通説も史料的根拠に乏しく、実際には比較的穏当な扱いを受けていた。

こうした再解釈は、ガリレオ事件を「宗教は科学を弾圧する」という普遍的命題の証拠として用いることの学術的問題性を示している。

ダーウィン進化論と宗教

チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin, 1809-1882)の進化論もまた、紛争テーゼの文脈で宗教との対立の典型例として語られることが多い。1860年のオックスフォードにおけるサミュエル・ウィルバーフォース主教とトマス・ハクスリーの討論は、「科学対宗教」の象徴的対決として伝説化された。しかし歴史研究は、この事件の実態が後世の伝承とは大きく異なることを示している。討論の目撃者による報告は多様であり、ハクスリーが一方的に「勝利」したという叙述は後年の回想録によって構築されたものである。

進化論に対する宗教界の反応は一枚岩ではなかった。一方で、聖書の文字どおりの解釈に固執する立場は進化論を拒絶した。他方で、エイサ・グレイ(Asa Gray, 1810-1888)のようなダーウィンの支持者は敬虔なキリスト教徒であり、進化を神の摂理の手段として理解する「有神論的進化論」(theistic evolution)を展開した。フレデリック・テンプル大主教(Frederick Temple, 1821-1902)は1884年のバンプトン講義で進化論とキリスト教信仰の調和を公に論じた。カトリック教会は19世紀末から進化論に対して慎重ながらも開放的な姿勢をとり、1996年にヨハネ・パウロ2世は進化論を「仮説以上のもの」と認める声明を出した。

このように、進化論と宗教の関係は「全面的対立」ではなく、拒絶・調和・再解釈といった多様な応答の複合体として理解すべきである。

イアン・バーバーの4類型

宗教と科学の関係を体系的に類型化した最も影響力のある試みが、イアン・バーバー(Ian G. Barbour, 1923-2013)による4類型論である。バーバーは物理学の博士号と神学の学位を併せ持つ稀有な学者であり、宗教と科学の対話分野の事実上の創設者とされる。その主著『科学が宗教と出会うとき』(When Science Meets Religion, 2000)において、宗教と科学の関係を以下の4つの類型に整理した。

Key Concept: バーバーの4類型(Barbour's fourfold typology) イアン・バーバーが提示した宗教と科学の関係を整理する枠組み。対立(conflict)、独立(independence)、対話(dialogue)、統合(integration)の4つの類型からなる。宗教と科学の関係を単純な対立図式から解放し、多元的な分析を可能にした点で学術的に高い影響力を持つ。

類型 内容 代表的立場
対立(conflict) 科学と宗教は同一の領域について相互排他的な主張を行い、一方を選ばなければならない 聖書字句主義、科学的唯物論
独立(independence) 科学と宗教は問い・対象・方法が異なり、それぞれの領域で有効であるが、両者を混同してはならない スティーヴン・ジェイ・グールドのNOMA
対話(dialogue) 科学と宗教は異なるが重なり合う領域を持ち、前提・方法・概念の類似性を探究することで相互に豊かになりうる 批判的リアリズム、認識論的対話
統合(integration) 科学的知見と宗教的洞察をより包括的な世界観に統合する。自然神学、自然の神学、プロセス哲学など ホワイトヘッドのプロセス哲学、ティヤール・ド・シャルダン

バーバーの類型論の学術的意義は、紛争テーゼが想定する「対立」が宗教と科学の関係の唯一の様態ではなく、4つの可能な関係の一つにすぎないことを明示化した点にある。

「独立」類型の代表的議論に、スティーヴン・ジェイ・グールド(Stephen Jay Gould, 1941-2002)の「重なり合わない教導権」(NOMA: Non-Overlapping Magisteria)がある。グールドは、科学は事実の領域を、宗教は価値と意味の領域を管轄し、両者は原理的に衝突しないと主張した。しかしこの立場に対しては、科学的知見が価値や意味の問いに含意を持ちうること(進化論の倫理学への含意など)を看過しているとの批判がある。

ジョン・ホートの「批判的リアリズム」

ジョン・ホート(John F. Haught, 1942-)は、ジョージタウン大学の組織神学者であり、科学と宗教の関係に関する独自の類型論と神学的立場を展開している。ホートは『科学と宗教──対立から対話へ』(Science and Religion: From Conflict to Conversation, 1995)において、紛争(conflict)・対比(contrast)・接触(contact)・確認(confirmation)の4類型を提示した。

ホートの立場の特徴は、科学と神学の双方が実在への接近を試みるという「批判的リアリズム」(critical realism)に立脚している点である。科学的理論も宗教的言説も、実在を「モデル」や「メタファー」を通じて部分的に把握するものであり、いずれも実在の完全な記述ではないが、実在に関する認識を漸進的に深化させうる。この認識論的共通性が、科学と宗教の対話の哲学的基盤を提供する。

Key Concept: 批判的リアリズム(critical realism) 科学的理論も宗教的言説も、観察者から独立した実在に対する部分的・漸進的な接近であるとする認識論的立場。素朴実在論(理論や教義が実在をそのまま反映する)と反実在論(理論は実在と無関係な構成物にすぎない)の中間に位置する。ホートはこの立場から、科学と宗教がともに実在への探究であるという対話的関係を基礎づけた。

ホートはまた、ダーウィン進化論とキリスト教神学の関係について積極的に取り組み、進化の過程を神の創造的活動として理解する「自然の神学」(theology of nature)を展開した。ホートはドーヴァー裁判(後述)において原告側の専門家証人として証言し、インテリジェント・デザインが科学ではなく宗教的主張であることを学術的見地から論じた。

graph TD
    subgraph ConflictMyth["紛争テーゼの構造"]
        D["ドレーパー/ホワイト<br/>19世紀後半"]
        CM["科学 vs 宗教<br/>= 本質的対立"]
    end

    subgraph Barbour["バーバーの4類型"]
        B1["対立 Conflict"]
        B2["独立 Independence"]
        B3["対話 Dialogue"]
        B4["統合 Integration"]
    end

    subgraph Haught["ホートの類型と批判的リアリズム"]
        H1["紛争 Conflict"]
        H2["対比 Contrast"]
        H3["接触 Contact"]
        H4["確認 Confirmation"]
        CR["批判的リアリズム:<br/>科学も宗教も実在への<br/>部分的接近"]
    end

    D --> CM
    CM -->|"学術的批判"| B1
    B1 --- B2
    B2 --- B3
    B3 --- B4
    B3 -.->|"認識論的基礎"| CR
    CR --> H3
    CR --> H4

インテリジェント・デザイン(ID)論争

科学的創造論からIDへの変遷

宗教と科学の境界をめぐる現代的論争の中でも最も激しい議論を呼んだのが、インテリジェント・デザイン(Intelligent Design, ID)運動である。ID論争を理解するためには、アメリカにおける創造論の歴史的変遷を辿る必要がある。

20世紀前半、アメリカ合衆国の複数の州では進化論の教育を禁止する法律が制定された。1925年のスコープス裁判(テネシー州)は、進化論教育の禁止をめぐる最初の重要な法的争点となった。1960年代以降、進化論教育の禁止が合衆国憲法修正第1条の政教分離条項に抵触するとの判決が相次ぐと、進化論に対抗する戦略は「科学的創造論」(creation science)へと移行した。科学的創造論は、地球の若い年齢や世界規模の洪水を「科学的」に論証しようとする試みであったが、1987年のエドワーズ対アギュラード事件で合衆国最高裁判所により「宗教的教義の推進」と判断され、公教育での教育が違憲とされた。

Key Concept: インテリジェント・デザイン(Intelligent Design / ID) 生物の複雑な構造や機能は、無方向的な自然選択ではなく、知的な設計者(intelligent designer)の介入によって説明されるとする主張。科学的創造論の後継として登場したが、設計者を特定の宗教的存在と明示的に同一視しない点で戦略的に差異化されている。科学界はIDを科学的理論としての基準を満たさない疑似科学と見なしている。

科学的創造論の法的敗北を受けて登場したのがID運動である。IDは、設計者の正体を聖書の神と明示的に同定することを避け、生物学的複雑性から「知的な設計者」の存在を推論するという形式をとった。この戦略的変遷を象徴的に示す資料が、教科書『パンダについて、そして人間について』(Of Pandas and People)の草稿である。ドーヴァー裁判の過程で発見された同書の草稿では、エドワーズ判決(1987年)の直後に、文中の「創造論」(creationism)という語が「インテリジェント・デザイン」に機械的に置換されていたことが明らかとなった。

マイケル・ビーヒーの「還元不能な複雑さ」

ID運動に生化学的な論拠を与えた中心的人物が、マイケル・ビーヒー(Michael J. Behe, 1952-)である。リーハイ大学の生化学教授であるビーヒーは、『ダーウィンのブラック・ボックス』(Darwin's Black Box, 1996)において「還元不能な複雑さ」(irreducible complexity)という概念を提起した。

Key Concept: 還元不能な複雑さ(irreducible complexity) マイケル・ビーヒーが提唱した概念。「いくつかのよく適合した相互作用する部品で構成される単一のシステムであって、どの部品を除去してもシステムが効果的に機能しなくなるもの」と定義される。ビーヒーはこの特性を持つ生物学的構造は段階的な自然選択では形成されえず、知的設計者の介在を示唆すると主張した。

ビーヒーが挙げた代表的事例は、細菌の鞭毛モーター(bacterial flagellum)と脊椎動物の血液凝固カスケードである。鞭毛モーターは約40種類のタンパク質から構成される精巧な回転装置であり、ビーヒーはどの部品を取り除いてもモーターが機能しなくなるため、部品の段階的追加による進化的説明は不可能だと主張した。

科学界はこの主張を広く退けている。主な反論として、第一に、鞭毛タンパク質のサブセットが、一部の病原性細菌において鞭毛ではなく注入装置(III型分泌装置)として機能することが示された。これは「部品を除去すると機能しなくなる」というビーヒーの前提への直接的反証であり、現在のシステムの部品が歴史的に異なる機能を担っていた可能性を示す。第二に、血液凝固カスケードについても、一部の生物がカスケードの構成要素の一部のみで凝固機能を維持していることが明らかとなった。第三に、より根本的な批判として、「還元不能な複雑さ」は自然選択に対する否定的論証にとどまり、設計者の存在を積極的に立証するものではないとの指摘がある。

ドーヴァー裁判(キッツミラー対ドーヴァー学区事件, 2005)

ID論争の法的決着点となったのが、キッツミラー対ドーヴァー学区事件(Kitzmiller v. Dover Area School District, 2005)である。2004年10月、ペンシルヴァニア州ドーヴァー地区の教育委員会は、生物学の授業で進化論の代替としてIDを紹介し、『パンダについて、そして人間について』を参考書として使用することを義務づける方針を決定した。これに対し、11人の保護者が政教分離条項違反を主張して連邦地方裁判所に提訴した。

ジョン・E・ジョーンズ3世(John E. Jones III)連邦地裁判事は、139ページに及ぶ判決文において以下の認定を行った。第一に、IDは科学的理論の要件を満たさない。科学的理論は自然的説明に限定され、反証可能性を持ち、科学共同体のピアレビューに服するものであるが、IDはこれらの基準をいずれも充足しない。第二に、IDの知的系譜は科学的創造論に直接遡るものであり、その宗教的性質は「客観的な観察者にとって容易に明らかである」。第三に、教育委員会の方針は宗教的動機に基づくものであり、合衆国憲法修正第1条の政教分離条項(レモンテスト)に違反する。

Key Concept: ドーヴァー裁判(Kitzmiller v. Dover, 2005) アメリカ連邦裁判所においてIDの法的地位が初めて争われた訴訟。ジョーンズ判事は、IDが科学的理論ではなく宗教的見解であり、公立学校でのID教育義務づけは政教分離条項に違反すると判示した。この判決はID運動に対する重大な法的打撃となった。

ドーヴァー裁判は、科学と宗教の境界画定(demarcation)問題が法的・政治的文脈においていかに鋭く問われうるかを示す事例である。科学哲学において「何が科学であり何が科学でないか」という境界画定問題は古典的な難問であるが、ドーヴァー裁判では裁判所がこの問いに対して明確な判断を下すことを求められた。ジョーンズ判事の判決は、反証可能性、ピアレビュー、自然主義的方法論といった科学的方法論の基準をID評価に適用したものであり、科学哲学と法的判断の交差点に位置する重要な判例である。


宗教と資本主義

ヴェーバー・テーゼの再読

宗教と資本主義の関係についての学術的議論は、マックス・ヴェーバー(Max Weber, 1864-1920)の古典的著作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus, 1904-1905)に遡る。ヴェーバーの宗教社会学的分析の基本的枠組みについてはModule 2-8 Section 1で既に検討した(→ Module 2-8, Section 1参照)。ここでは、ヴェーバー・テーゼの核心的論理を再読し、その現代的展開を検討する。

ヴェーバーの問いは、「なぜ近代資本主義は西洋において ── とりわけプロテスタント圏において ── 発展したのか」である。ヴェーバーが注目したのは、カルヴァン派の予定説(predestination)が信者にもたらす特異な心理的効果であった。カルヴァンの教義によれば、救済と永罰はあらかじめ神によって定められており、人間の行為によって変更することはできない。しかし牧会の実践においては、自らが選ばれた者であることの確証(certitudo salutis)を求める心理的欲求が生じ、世俗的職業(天職 / Beruf)における禁欲的な勤勉と成功が、救済の「しるし」(sign) ── 手段ではなく ── として解釈されるようになった。

Key Concept: 世俗内禁欲(innerworldly asceticism) ヴェーバーの概念。修道院的な現世拒否ではなく、世俗の職業生活の中で禁欲的規律 ── 勤勉、倹約、合理的計画 ── を実践する宗教的態度を指す。カルヴァン派プロテスタンティズムにおいて、天職としての労働が宗教的義務と結びつくことで、結果的に資本の蓄積を促進する精神的態度が形成されたとヴェーバーは論じた。

この「世俗内禁欲」(innerworldly asceticism)の倫理は、禁酒、浪費の禁止、計画的な生活管理を促し、その意図せざる結果として急速な資本蓄積をもたらした。ヴェーバーの議論は、プロテスタンティズムが資本主義を「引き起こした」という因果的主張ではなく、特定の宗教的倫理が資本主義的精神の形成に対して一つの重要な寄与因子であったという「選択的親和性」(Wahlverwandtschaft)の関係を論じたものであることに注意が必要である。また、ヴェーバーの議論はより大きな「合理化」の過程 ── 宗教的合理化と呪術からの解放(→ Module 2-8, Section 1参照) ── の一環として位置づけられる。

ヴェーバー・テーゼに対する批判は多岐にわたる。経済史家の間では、資本主義の発展にはイタリア都市国家やフランドル地方のカトリック圏における先行的事例が存在すること、プロテスタント圏でも資本主義の発展度に大きな差があることなどが指摘されてきた。また、ヴェーバーのカルヴァン派の教義解釈そのものの正確性に疑問を呈する研究もある。しかし、宗教的倫理と経済的行動の間の意味連関を分析するというヴェーバーの方法論的枠組みは、宗教社会学の基礎的分析装置として現在も広く用いられている。

繁栄の福音(Prosperity Gospel)

ヴェーバーが分析した「世俗内禁欲」の倫理と対照的でありながら、宗教と経済の結合という点では連続性を持つ現象が、「繁栄の福音」(prosperity gospel)である(→ Module 3-4, Section 1参照)。繁栄の福音とは、信仰と献金によって物質的繁栄・健康・成功が神から与えられるとする神学的立場であり、主にペンテコステ・カリスマ系の教会において広まっている。

繁栄の福音の思想的系譜は、19世紀末から20世紀初頭のアメリカにおける「ニューソート」(New Thought)運動に遡る。ニューソートは、神の内在性、人間の神性、病気と罪は誤った思考の産物であるとする形而上学的前提に基づく霊的治療運動であった。この思想的潮流は20世紀中葉に「信仰の言葉」(Word of Faith)運動として結晶化した。

ケネス・ヘイギン(Kenneth E. Hagin, 1917-2003)は、繁栄の福音の最も影響力のある提唱者の一人であり、「信仰の言葉」運動の事実上の創始者とされる。ヘイギンは、信仰者が口にする「言葉」には霊的力があり、積極的な信仰告白(positive confession)によって健康・繁栄・成功を「宣言」し現実化できると説いた。1974年に設立したレーマ聖書訓練センター(RHEMA Bible Training Center)は、20年間で10,000人以上の卒業生を送り出し、繁栄の福音の世界的拡散の人的基盤となった。

ジョエル・オスティーン(Joel Osteen, 1963-)は、現代アメリカにおける繁栄の福音の最も著名な説教者である。テキサス州ヒューストンのレイクウッド教会(Lakewood Church)の主任牧師であるオスティーンの礼拝には毎週約45,000人が参加し、テレビ放送は100か国以上に配信されている。オスティーンのベストセラー『最高の人生を今すぐ始めよう』(Your Best Life Now, 2004)は、「繁栄するマインドセットを育てる」「言葉の力」といった章題に見られるように、ニューソートの思想的影響を色濃く反映している。

ヴェーバーが分析したカルヴァン派の倫理と繁栄の福音の間には、注目すべき構造的差異がある。

観点 カルヴァン派の世俗内禁欲 繁栄の福音
富の位置づけ 救済の「しるし」(結果であり手段ではない) 信仰の「報酬」(信仰が富を直接もたらす)
禁欲の役割 倹約・勤勉が資本蓄積の条件 消費・享受は神の祝福の証
神学的前提 予定説:救いは神の主権に属する 契約神学的:信仰者は神の約束を「請求」しうる
富への態度 蓄積すべきだが享受すべきではない 蓄積し享受することが神の意志

宗教的消費文化

繁栄の福音は、より広い「宗教の市場化」(marketization of religion)の文脈にも位置づけられる。宗教市場理論(→ Module 2-8, Section 2参照)が宗教組織間の競争を分析する枠組みを提供したのに対し、ここで問題にするのは宗教そのものが消費文化的な形態をとる現象である。

メガチャーチ(→ Module 3-4, Section 1参照)は、この宗教的消費文化の最も可視的な表現である。メガチャーチは礼拝のみならず、カフェ、書店、フィットネスセンター、育児施設、カウンセリングサービスなど多機能的なサービスを提供し、参加者に「宗教的消費体験」を提供する。ウィロークリーク・コミュニティ教会(イリノイ州)やサドルバック教会(カリフォルニア州)に代表されるシーカー・センシティヴ(seeker-sensitive)モデルは、教会未経験者を「顧客」として想定し、快適性・利便性・エンターテインメント性を重視した礼拝デザインを採用している。

Key Concept: 宗教の市場化(marketization of religion) 宗教的実践・組織・言説が市場論理 ── 消費者志向、ブランディング、マーケティング、サービス提供 ── に従って再編される現象を指す。メガチャーチのサービスモデル、宗教グッズの消費市場、テレビ伝道のメディア戦略などがその具体的表現である。

宗教グッズ市場もまた、宗教と消費文化の接合を示す。アメリカのキリスト教グッズ市場は推定年間50億ドル規模に達し、書籍、音楽、映画、衣類、アクセサリー、家庭用品に至るまで幅広い商品カテゴリーを包含する。こうした市場は、宗教的アイデンティティの表出手段が「信仰告白」や「礼拝参加」から「消費行動」へと拡張されていることを示している。

グローバル・サウスにおける繁栄の福音の受容

繁栄の福音はアメリカのペンテコステ運動の産物であるが、その最も劇的な拡大はグローバル・サウス ── とりわけアフリカとラテンアメリカ ── において生じている(→ Module 3-4, Section 1参照)。この現象は、世界システム論的な視角から分析することが可能である。

ナイジェリアのリディームド・クリスチャン・チャーチ・オブ・ゴッド(Redeemed Christian Church of God, RCCG)は、繁栄の福音のグローバルな拡散を象徴する事例である。1952年に設立されたRCCGは、エノク・アデボイエ(Enoch Adeboye, 1942-)の指導のもとで爆発的に成長し、ナイジェリア国内に推定14,000以上の教会を持ち、約200か国に展開している。RCCGの月例集会「聖なる聖霊の夜」(Holy Ghost Night)は毎月200万人以上の参加者を集める。

グローバル・サウスにおける繁栄の福音の受容を説明する要因として、以下の点が指摘されている。第一に、急速な都市化と経済的不安定性の中で、社会的上昇への強い願望が繁栄の福音のメッセージと共鳴する。第二に、伝統的な互酬的交換の論理 ── 神への献身・献金が神からの祝福を引き寄せるという理解 ── が、アフリカやラテンアメリカの既存の宗教文化と構造的親和性を持つ。第三に、グローバルなメディアネットワーク(テレビ伝道、インターネット、ソーシャルメディア)が、アメリカ発の繁栄の福音を世界各地に即時的に伝播させる。第四に、繁栄の福音は新自由主義的経済秩序の宗教的正当化として機能しうる ── 個人の信仰と努力による成功の強調は、構造的不平等の問題を個人の霊的資質の問題に置換する傾向がある。

最後の点は、繁栄の福音に対する批判的分析において特に重要である。解放の神学(liberation theology)の立場からは、繁栄の福音は貧困の構造的原因を不問に付し、富裕層の特権を神の祝福として正当化する「偶像崇拝的」な神学であるとの批判がなされている。他方で、人類学的フィールドワークは、繁栄の福音の信者が単なる受動的消費者ではなく、繁栄のメッセージを自らの社会的文脈に応じて創造的に再解釈し、実際に生活改善や社会的上昇の戦略として活用している事例も報告している。

graph TD
    subgraph Weber["ヴェーバー・テーゼ"]
        W1["カルヴァン派の予定説"]
        W2["世俗内禁欲:<br/>勤勉・倹約・計画的生活"]
        W3["意図せざる結果としての<br/>資本蓄積"]
    end

    subgraph PG["繁栄の福音"]
        P1["ニューソート運動<br/>/ 信仰の言葉運動"]
        P2["信仰告白と献金"]
        P3["物質的繁栄は<br/>神の祝福の証"]
    end

    subgraph Global["グローバルな展開"]
        G1["アメリカのメガチャーチ"]
        G2["宗教的消費文化:<br/>宗教グッズ市場"]
        G3["グローバル・サウスへの<br/>拡散"]
        G4["新自由主義との<br/>構造的親和性"]
    end

    W1 --> W2
    W2 --> W3
    P1 --> P2
    P2 --> P3
    W3 -.->|"構造的対比"| P3
    P3 --> G1
    G1 --> G2
    P3 --> G3
    G3 --> G4

まとめ

  • 「宗教と科学は本質的に対立する」という紛争テーゼは、ドレーパーとホワイトの19世紀後半の著作によって構築された歴史的神話であり、現代の科学史研究では事実の選択的引用に基づく不正確な歴史叙述として批判されている。ガリレオ裁判やダーウィン進化論をめぐる論争も、「科学対宗教」の単純な二項対立には還元できない。
  • イアン・バーバーの4類型(対立・独立・対話・統合)は、宗教と科学の関係を多元的に分析する枠組みを提供した。ジョン・ホートの批判的リアリズムは、科学と宗教がともに実在への部分的接近であるという認識論的共通性から対話の基盤を提示した。
  • インテリジェント・デザイン論争は、科学的創造論からの戦略的変遷を経て展開されたが、ドーヴァー裁判(2005年)においてIDは科学的理論ではなく宗教的見解であると判示された。この裁判は科学と宗教の境界画定問題が法的に争われた重要な判例である。
  • ヴェーバーの「世俗内禁欲」と繁栄の福音は、宗教と経済の結合の二つの対照的な様態を示す。前者は禁欲的勤勉が意図せざる結果として資本蓄積をもたらす過程を、後者は信仰そのものが物質的繁栄を直接もたらすという神学を提示する。
  • 繁栄の福音のグローバル・サウスへの拡散は、新自由主義的経済秩序との構造的親和性を持ちつつも、現地の社会的文脈における創造的な再解釈を伴う複合的な現象である。
  • 本セクションで検討した宗教と科学・資本主義の関係は、Section 1で分析した世俗化論の再考とも深く関連する。内在的枠組み(→ Module 3-4, Section 1参照)のもとで、宗教は科学との関係においても経済との関係においても、単純な退却ではなく新たな形態での再編を経験している。

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
紛争テーゼ conflict thesis 宗教と科学が歴史を通じて本質的に対立してきたとする歴史解釈。ドレーパーとホワイトにより広められ、現代の科学史では歴史的神話として批判されている
バーバーの4類型 Barbour's fourfold typology 宗教と科学の関係を対立・独立・対話・統合の4類型に整理した分析枠組み
批判的リアリズム critical realism 科学的理論も宗教的言説も実在への部分的・漸進的接近であるとする認識論的立場
インテリジェント・デザイン Intelligent Design / ID 生物の複雑な構造が知的設計者の介入を示唆するとする主張。科学界では疑似科学と見なされている
還元不能な複雑さ irreducible complexity ビーヒーの概念。部品の除去によりシステムが機能停止する構造は段階的進化では形成されえないとする主張
ドーヴァー裁判 Kitzmiller v. Dover IDの法的地位が初めて争われた2005年の連邦裁判。IDは科学ではなく宗教的見解と判示された
世俗内禁欲 innerworldly asceticism ヴェーバーの概念。世俗の職業生活における禁欲的規律が資本蓄積を促進する宗教的態度
宗教の市場化 marketization of religion 宗教が消費者志向・マーケティング等の市場論理に従って再編される現象

確認問題

Q1: ドレーパーとホワイトによる「紛争テーゼ」の内容を説明し、現代の科学史研究がこのテーゼをどのように評価しているかを論ぜよ。また、紛争テーゼの限界を示す具体的な歴史的事例を挙げよ。

A1: 紛争テーゼとは、宗教と科学が歴史を通じて本質的に対立関係にあるとする歴史解釈であり、ドレーパー『宗教と科学の対立の歴史』(1874)とホワイト『キリスト教世界における科学と神学の戦争の歴史』(1896)によって体系化された。しかし現代の科学史研究は、このテーゼが事実の選択的引用と文脈の無視に基づく歴史的神話であると評価している。具体的事例としてガリレオ裁判が挙げられる。通俗的には「科学の英雄対宗教的蒙昧」の象徴とされるが、実際にはガリレオ自身は敬虔なカトリック信者であり、紛争の本質は聖書解釈の権威をめぐる教会内政治的闘争であった。またウルバヌス8世との個人的関係の悪化が裁判の直接的契機となるなど、「科学対宗教」の二項対立に還元できない複雑な要因が絡み合っていた。さらに注目すべきは、ドレーパーもホワイトも無神論者ではなく宗教的信仰を持つ人物であり、両者の意図は教条的神学に対するリベラルな宗教理解の擁護にあった点である。

Q2: イアン・バーバーの4類型のそれぞれを説明し、スティーヴン・ジェイ・グールドのNOMA(重なり合わない教導権)がどの類型に該当するか、またそれに対する批判を論ぜよ。

A2: バーバーの4類型は以下の通りである。「対立」は科学と宗教が同一領域について相互排他的な主張を行うとする立場で、聖書字句主義と科学的唯物論が典型例である。「独立」は科学と宗教が問い・対象・方法において異なり、各領域で有効だが混同すべきでないとする立場である。「対話」は科学と宗教が異なりながらも重なる領域を持ち、前提や方法の類似性を探究することで相互に豊かになりうるとする立場である。「統合」は科学的知見と宗教的洞察をより包括的な世界観に統合する試みで、プロセス哲学がその代表例である。グールドのNOMAは「独立」類型に該当する。グールドは科学が事実の領域を、宗教が価値と意味の領域を管轄し、両者は原理的に衝突しないと主張した。これに対する批判としては、科学的知見が価値や意味の問いに含意を持ちうること(たとえば進化論が人間の道徳性の起源に示唆を与えるなど)を看過しており、両者の領域が実際には重なり合う場面があるという指摘がある。

Q3: ドーヴァー裁判(キッツミラー対ドーヴァー学区事件, 2005)の経緯と判決の要点を説明し、この裁判が科学哲学における「境界画定問題」とどのように関連するかを論ぜよ。

A3: 2004年10月、ペンシルヴァニア州ドーヴァー地区の教育委員会がIDを進化論の代替として紹介する方針を決定したことに対し、11人の保護者が政教分離条項違反を主張して提訴した。ジョーンズ判事は、IDが科学的理論の要件(自然的説明への限定、反証可能性、ピアレビュー)を満たさないこと、IDの知的系譜が科学的創造論に直接遡ること、教育委員会の方針が宗教的動機に基づくことを認定し、政教分離条項違反と判示した。この裁判は科学哲学の境界画定問題 ── 「何が科学であり何が科学でないか」── と密接に関連する。科学哲学ではポパーの反証可能性やクーンのパラダイム論など多様な境界画定基準が提案されてきたが、いずれも完全な基準とはされていない。しかしドーヴァー裁判では裁判所がこの哲学的問いに法的判断を下す必要があり、ジョーンズ判事は反証可能性やピアレビューといった複数の基準を総合的に適用してIDを非科学と認定した。これは科学哲学の理論的議論が実際の法的判断に直接適用された重要な事例である。

Q4: ヴェーバーの「世俗内禁欲」と繁栄の福音を対比し、両者における宗教と経済の結合の構造的差異を論ぜよ。

A4: ヴェーバーが分析したカルヴァン派の「世俗内禁欲」では、予定説に基づく救済の不確実性への応答として、世俗的職業における勤勉と成功が救済の「しるし」(結果)として解釈された。重要なのは、富は蓄積すべきであるが享受すべきではないという点であり、倹約と禁欲が意図せざる結果として資本蓄積をもたらした。これに対し繁栄の福音では、信仰と献金が物質的繁栄を直接もたらすとされ、富は神の祝福の証として積極的に享受されるべきものとなる。構造的差異は以下の点に集約される。第一に、富と救済の関係が異なる。世俗内禁欲では富は救済の「しるし」にすぎないが、繁栄の福音では信仰者が神の約束を「請求」しうるという契約神学的理解がある。第二に、消費への態度が対照的である。世俗内禁欲が浪費を禁じるのに対し、繁栄の福音では消費と享受が肯定される。第三に、帰結として、世俗内禁欲は勤勉と倹約の倫理的規律を求めるが、繁栄の福音は信仰の「力」と献金による即時的な祝福を約束する。両者はいずれも宗教と経済を結合させるが、その論理構造は大きく異なる。

Q5: グローバル・サウスにおける繁栄の福音の拡散を説明する社会的要因を挙げ、この現象に対する解放の神学からの批判と人類学的知見をそれぞれ論ぜよ。

A5: グローバル・サウスにおける繁栄の福音の拡散を説明する要因として、以下が指摘されている。第一に、急速な都市化と経済的不安定性の中での社会的上昇への強い願望が繁栄の福音のメッセージと共鳴する。第二に、神への献身が神からの祝福を引き寄せるという互酬的交換の論理が、アフリカやラテンアメリカの既存の宗教文化と構造的親和性を持つ。第三に、テレビ、インターネット、ソーシャルメディアといったグローバルなメディアネットワークがアメリカ発の繁栄の福音を即時的に伝播させる。第四に、新自由主義的経済秩序との構造的親和性がある。解放の神学の立場からは、繁栄の福音は貧困の構造的原因を不問に付し、個人の信仰の不足として貧困を説明することで社会的不平等を正当化する「偶像崇拝的」な神学であると批判される。他方で人類学的フィールドワークは、信者が繁栄の福音を単なる受動的消費者として受容しているのではなく、そのメッセージを自らの社会的文脈に応じて創造的に再解釈し、実際に禁酒や勤勉の倫理を通じた生活改善や社会的上昇の戦略として活用している事例を報告しており、繁栄の福音の受容が一方的な文化的帝国主義に還元できない複合的現象であることを示している。