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Module 1-1 - Section 2: 記憶

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 1-1: 認知心理学
前提セクション なし
想定学習時間 4時間

導入

記憶(memory)は認知心理学の中核的研究対象の一つであり、知覚された情報の符号化・貯蔵・検索という一連の過程を扱う。我々が過去の経験を想起し、言語を使用し、環境に適応的に行動できるのは、すべて記憶システムの機能による。

記憶研究の歴史は、ヘルマン・エビングハウス(Hermann Ebbinghaus)が1885年に『記憶について(Über das Gedächtnis)』を出版し、無意味綴りを用いた系統的な記憶実験を行ったことに始まる。以来、記憶の構造と過程に関する理論的枠組みは大きく発展してきた。本セクションでは、記憶の構造モデル、符号化・検索の機制、記憶の分類体系、忘却のメカニズム、そして記憶の構成的性質(偽記憶)について概観する。


多重貯蔵モデル

Key Concept: 多重貯蔵モデル(multi-store model) リチャード・アトキンソン(Richard Atkinson)とリチャード・シフリン(Richard Shiffrin)が1968年に提唱した記憶の構造モデル。記憶を感覚記憶・短期記憶・長期記憶の3つの貯蔵庫から成るシステムとして捉え、情報が段階的に転送されると仮定する。

多重貯蔵モデル(Atkinson-Shiffrinモデル)は、記憶研究において最も影響力のある理論的枠組みの一つである。このモデルでは、外界からの情報は以下の3段階の貯蔵庫を経て処理されるとされる。

graph LR
    ENV[外界の刺激] --> SM[感覚記憶]
    SM -->|注意| STM[短期記憶]
    SM -->|注意なし| LOST1[消失]
    STM -->|リハーサル| LTM[長期記憶]
    STM -->|リハーサルなし| LOST2[消失]
    LTM -->|検索| STM

感覚記憶

Key Concept: 感覚記憶(sensory memory) 感覚器官に入力された情報がごく短時間保持される最初の貯蔵段階。容量は大きいが保持時間は極めて短い。感覚モダリティごとに独立した貯蔵庫が想定されている。

感覚記憶は、感覚モダリティごとに異なる特性をもつ。視覚的感覚記憶はアイコニックメモリ(iconic memory)と呼ばれ、ジョージ・スパーリング(George Sperling, 1960)の部分報告法の実験によって実証された。Sperlingは、3×4の文字配列を50ミリ秒間提示した後、特定の行を報告させる部分報告条件と全体を報告させる全体報告条件を比較した。全体報告では平均4.5個しか報告できなかったのに対し、部分報告では各行から約3個(全体として約9個)の報告が可能であった。ただし手がかりの遅延が300ミリ秒を超えると部分報告の優位性は消失した。この結果は、視覚情報が約250〜500ミリ秒間、大容量で保持されていることを示す。

聴覚的感覚記憶はエコイックメモリ(echoic memory)と呼ばれ、アイコニックメモリより長い保持時間(2〜4秒程度)をもつとされる。これは、聴覚情報が時間的に展開する性質を反映していると考えられる。

短期記憶

Key Concept: 短期記憶(short-term memory; STM) 意識的に処理されている情報が一時的に保持される貯蔵段階。容量と保持時間に厳しい制限がある。

短期記憶の容量に関しては、ジョージ・ミラー(George A. Miller)が1956年に発表した論文「マジカルナンバー7±2(The Magical Number Seven, Plus or Minus Two)」が古典的知見として知られる。Millerは、人間が一度に保持できる情報の単位(チャンク)が約7±2個であると提唱した。ただし、後の研究ではより少ない4±1チャンク程度が妥当とする見解も示されている(Nelson Cowan, 2001)。

短期記憶の保持時間は、リハーサル(rehearsal)が妨害された場合、約15〜30秒である。ロイド・ピーターソン(Lloyd Peterson)とマーガレット・ピーターソン(Margaret Peterson, 1959)の実験では、子音3文字を提示した後に逆算課題(リハーサル妨害)を課すと、18秒後にはほぼ完全に忘却されることが示された。

短期記憶から長期記憶への情報転送は、主にリハーサルによって行われるとされる。維持リハーサル(maintenance rehearsal)は情報を単純に反復することであり、短期記憶内での保持には有効だが、長期記憶への転送には必ずしも十分でない。この点については後述の処理水準説で詳しく扱う。

多重貯蔵モデルの限界

多重貯蔵モデルは記憶の構造的理解に大きく貢献したが、いくつかの限界が指摘されている。第一に、短期記憶から長期記憶への転送をリハーサルの量に依存させる点は、精緻化やリハーサルの質を考慮していない。第二に、短期記憶を受動的な貯蔵庫として扱っており、情報の能動的処理を十分に説明できない。第三に、神経心理学的証拠として、短期記憶に障害を持ちながら長期記憶が正常な患者(Shallice & Warrington, 1970)の存在は、情報が必ず短期記憶を経由して長期記憶に転送されるという直列処理の仮定に疑問を投げかけた。


ワーキングメモリ

Key Concept: ワーキングメモリ(working memory) アラン・バドリー(Alan Baddeley)とグレアム・ヒッチ(Graham Hitch)が1974年に提唱した、短期記憶の能動的側面を強調するモデル。情報の一時的保持と操作を担う多成分システムとして構成される。

多重貯蔵モデルにおける短期記憶の概念を発展させたのが、Baddeleyのワーキングメモリモデルである。このモデルは、短期記憶を単なる受動的貯蔵庫ではなく、認知的課題の遂行に必要な情報の保持と操作を行う能動的システムとして捉える。

graph TD
    CE[中央実行系<br/>Central Executive] --> PL[音韻ループ<br/>Phonological Loop]
    CE --> VSSP[視空間スケッチパッド<br/>Visuospatial Sketchpad]
    CE --> EB[エピソードバッファ<br/>Episodic Buffer]
    PL --> PS[音韻ストア]
    PL --> AR[構音リハーサル過程]
    EB <--> LTM[長期記憶]

音韻ループ

音韻ループ(phonological loop)は、言語的・音韻的情報の一時的保持を担う下位システムである。音韻ストア(phonological store)と構音リハーサル過程(articulatory rehearsal process)の2つの構成要素から成る。

音韻ループの存在を支持する実験的証拠として、以下の現象が挙げられる。

  • 音韻類似性効果(phonological similarity effect): 音韻的に類似した項目(例: B, C, D, G, T)は、音韻的に非類似な項目より再生成績が低い。これは音韻ストアにおける混同を反映する。
  • 語長効果(word length effect): 長い単語の系列は短い単語の系列より再生が困難である。構音リハーサルに要する時間が長いため、リハーサルの間に情報が減衰するとされる。
  • 構音抑制効果(articulatory suppression effect): 「ザ・ザ・ザ」などの無関連な発声を同時に行うと、視覚提示された言語材料の記憶成績が低下する。構音リハーサル過程が妨害されるためである。

視空間スケッチパッド

視空間スケッチパッド(visuospatial sketchpad)は、視覚的・空間的情報の一時的保持と操作を担う。心的回転課題や空間的ナビゲーションなどに関与する。Robert LogieはこれをさらにVisual cache(視覚情報の静的保持)とInner scribe(空間情報の動的処理)に分けるモデルを提案している。

中央実行系

中央実行系(central executive)は、ワーキングメモリ全体の制御を担う注意制御システムである。具体的には、注意の焦点の切り替え、課題間の調整、下位システムからの情報の統合、長期記憶からの情報検索の調整などの機能を担うとされる。中央実行系は容量に限界があり、その個人差がワーキングメモリの個人差の主要な規定因であるとされている。

エピソードバッファ

エピソードバッファ(episodic buffer)は、Baddeley(2000)がモデルに追加した第4の構成要素である。この追加は、音韻ループと視空間スケッチパッドだけでは説明できない現象——特に異なるモダリティの情報統合や長期記憶からの情報との統合——に対処するためであった。エピソードバッファは、異なる情報源(音韻ループ、視空間スケッチパッド、長期記憶)からの情報を統合し、時間的・空間的に構造化されたエピソード的表象として保持する。中央実行系によって制御され、容量は限定的である。

多重貯蔵モデルとの対比

ワーキングメモリモデルは、多重貯蔵モデルの短期記憶を発展的に置き換えるものである。主な相違点として、多重貯蔵モデルの短期記憶が単一の受動的貯蔵庫であるのに対し、ワーキングメモリは複数の下位システムから構成される能動的処理システムである。また、多重貯蔵モデルが短期記憶と長期記憶を厳密に分離していたのに対し、ワーキングメモリモデルはエピソードバッファを通じた長期記憶との双方向的な相互作用を明示的に組み込んでいる。


符号化と検索

処理水準説

Key Concept: 処理水準説(levels of processing theory) ファーガス・クレイク(Fergus Craik)とロバート・ロックハート(Robert Lockhart)が1972年に提唱した理論。記憶の保持は情報の貯蔵場所ではなく、符号化時の処理の深さに依存するとする。深い(意味的な)処理ほど持続的な記憶痕跡を形成する。

処理水準説は、多重貯蔵モデルに対する代替的な枠組みとして提唱された。この理論によれば、記憶の保持は構造的特徴(形態的処理)→ 音韻的特徴(音韻的処理)→ 意味的特徴(意味的処理)という処理の深さの連続体上で決定される。

CraikとTulving(1975)の実験では、単語の提示時に構造的質問(「大文字ですか?」)、音韻的質問(「〜と韻を踏みますか?」)、意味的質問(「文に当てはまりますか?」)のいずれかを課し、後に予期しない再認テストを実施した。結果、意味的処理を行った条件で最も高い再認率が得られ、処理の深さが記憶保持を規定するという仮説が支持された。

精緻化リハーサルと維持リハーサル

Key Concept: 精緻化リハーサル(elaborative rehearsal) 情報を既存の知識と関連づけ、意味的な処理を行うリハーサル。維持リハーサル(maintenance rehearsal)が情報の単純な反復であるのに対し、精緻化リハーサルはより深い処理を伴い、長期記憶への符号化を促進する。

維持リハーサル(maintenance rehearsal)は情報を短期記憶内に保持するために機械的に反復する過程であり、電話番号を覚えるまで繰り返し唱えるような場合に典型的に見られる。これに対し、精緻化リハーサルは情報を既存の知識構造に関連づける深い処理であり、新しい単語を自分の経験と結びつけて覚えるような場合に相当する。処理水準説の枠組みでは、精緻化リハーサルは深い処理に対応し、維持リハーサルは浅い処理に対応する。

符号化特定性原理

Key Concept: 符号化特定性原理(encoding specificity principle) エンデル・タルヴィング(Endel Tulving)とドナルド・トムソン(Donald Thomson, 1973)が提唱した原理。記憶の検索は、符号化時に形成された記憶痕跡と検索手がかりとの一致度に依存するとする。

符号化特定性原理によれば、ある情報の検索が成功するかどうかは、検索時に利用可能な手がかりが符号化時の文脈をどの程度再現しているかに依存する。この原理は、文脈依存記憶と状態依存記憶の現象によって支持される。

文脈依存記憶(context-dependent memory) は、学習時と同じ外的環境で検索を行うと記憶成績が向上する現象である。ダンカン・ゴッデン(Duncan Godden)とバドリー(1975)の古典的実験では、スキューバダイバーに陸上と水中で単語リストを学習させ、同じ環境または異なる環境で再生させた。結果、学習環境と再生環境が一致した条件で有意に高い再生率が得られた。

状態依存記憶(state-dependent memory) は、学習時の内的状態(気分、薬物の影響など)と検索時の内的状態が一致したときに記憶成績が向上する現象である。気分一致効果(mood-congruent memory)は、現在の気分に一致した感情価の記憶が想起されやすい現象であり、これとは区別される。

検索誘導性忘却

Key Concept: 検索誘導性忘却(retrieval-induced forgetting; RIF) 特定の記憶を検索する行為が、関連する他の記憶の検索を困難にする現象。Michael Anderson, Robert Bjork, Elizabeth Bjorkらの研究(1994)によって体系的に示された。

検索誘導性忘却は、検索練習パラダイム(retrieval practice paradigm)を用いて研究される。典型的には、参加者はカテゴリー-項目の対(例: 果物-オレンジ、果物-バナナ)を学習した後、一部の項目について検索練習を行う(例: 果物-オ__)。最終テストでは、検索練習を行った項目(Rp+項目)の再生率が上昇する一方、同一カテゴリーの練習しなかった項目(Rp-項目)の再生率は、練習を行わなかったカテゴリーの項目(Nrp項目)よりも低下する。この抑制的効果が検索誘導性忘却である。

この現象は、検索が単なる記憶痕跡の強化ではなく、競合する情報の抑制を伴う能動的過程であることを示唆している。


記憶の分類体系

長期記憶は、その内容と意識的アクセスの可否に基づいて複数の下位システムに分類される。

graph TD
    LTM[長期記憶] --> DM[宣言的記憶<br/>Declarative Memory<br/>顕在記憶]
    LTM --> NDM[非宣言的記憶<br/>Nondeclarative Memory<br/>潜在記憶]
    DM --> EM[エピソード記憶<br/>Episodic Memory]
    DM --> SM[意味記憶<br/>Semantic Memory]
    NDM --> PM[手続き的記憶<br/>Procedural Memory]
    NDM --> PRIM[プライミング<br/>Priming]
    NDM --> CC[古典的条件づけ]
    NDM --> NAS[非連合学習<br/>馴化・鋭敏化]

宣言的記憶と非宣言的記憶

Key Concept: 宣言的記憶(declarative memory) 意識的に想起できる事実や出来事に関する記憶。言語的に「宣言」(declare)できることからこの名称がある。エピソード記憶と意味記憶に下位分類される。顕在記憶(explicit memory)とも呼ばれる。

Key Concept: 手続き的記憶(procedural memory) 技能や手続きに関する記憶。自転車の乗り方やタイピングの技術など、「方法の知識(knowing how)」に相当する。意識的アクセスを必要とせず、遂行を通じて表出される。非宣言的記憶(nondeclarative memory)・潜在記憶(implicit memory)の主要な形態。

エピソード記憶と意味記憶

Tulving(1972)は宣言的記憶をさらにエピソード記憶(episodic memory)と意味記憶(semantic memory)に区分した。

エピソード記憶は、特定の時間と場所に結びついた個人的経験の記憶である。「昨日の夕食に何を食べたか」「卒業式で何があったか」といった記憶がこれに該当する。エピソード記憶の想起は、自己参照的な意識体験を伴い、Tulvingはこれを「自己認識的意識(autonoetic consciousness)」と呼んだ。

意味記憶は、一般的な知識や事実に関する記憶であり、特定の学習エピソードとは切り離されている。「東京は日本の首都である」「犬は哺乳類である」といった知識がこれに当たる。意味記憶の想起は、知っているという感覚(noetic consciousness)を伴うが、いつどこで学んだかという文脈情報は通常含まない。

両者の区別は神経心理学的にも支持されている。側頭葉内側面(特に海馬)の損傷は、エピソード記憶に選択的な障害を引き起こすが、意味記憶は比較的保存されることがある。発達性健忘の事例(Vargha-Khadem et al., 1997)では、海馬の損傷を受けた小児がエピソード記憶の重篤な障害を示しながらも、学校での学習を通じて意味記憶を獲得できたことが報告されている。

潜在記憶と顕在記憶

潜在記憶(implicit memory)と顕在記憶(explicit memory)の区分は、記憶の意識性に基づく分類である。顕在記憶は意識的な想起を伴う記憶であり、宣言的記憶と大きく重なる。潜在記憶は意識的想起を伴わないが、以前の経験が行動や判断に影響を与える形で表出される記憶である。

潜在記憶の存在を示す代表的な証拠はプライミング(priming)効果である。例えば、単語リストを学習した後に単語断片完成課題(例: _LE__ANT → ELEPHANT)を実施すると、学習した単語を含む断片の完成率が、非学習語の断片より高くなる。この促進効果は、参加者が学習リストの内容を意識的に想起していなくても生じる。健忘症患者においても、顕在記憶テスト(自由再生や再認)の成績は著しく低下するにもかかわらず、プライミング効果は健常者と同等に示されることが多い(Warrington & Weiskrantz, 1970)。


忘却

忘却曲線

Key Concept: 忘却曲線(forgetting curve) Ebbinghaus(1885)が無意味綴りの記憶実験で発見した、時間経過に伴う記憶保持率の低下パターン。学習直後に急速な忘却が生じ、その後忘却の速度は漸次減速する。指数関数的・べき関数的な減衰パターンを示す。

Ebbinghausは自身を被験者として、無意味綴り(CVC: 子音-母音-子音の組み合わせ)のリストを完全に学習し、一定時間後に再学習して節約率(savings score)を測定した。その結果、学習後20分で約42%、1時間で約56%、1日で約66%が忘却され、その後の忘却は緩やかになった。この曲線は、忘却が単純な線形過程ではなく、時間の対数関数に近い形を取ることを示す。

減衰理論と干渉理論

忘却の原因に関しては、大きく2つの理論がある。

減衰理論(decay theory) は、時間の経過に伴い記憶痕跡が自動的に弱まるとする説である。直感的にはもっともらしいが、時間の経過そのものが忘却の原因であることを実証することは方法論的に困難である。時間の経過には必ず何らかの経験が伴うため、純粋な時間効果と経験の効果を分離できないからである。ジェンキンスとダレンバック(Jenkins & Dallenbach, 1924)の古典的実験では、学習後に睡眠した条件の方が覚醒して活動した条件よりも記憶保持率が高いことが示され、単純な時間経過ではなく介在する経験が忘却に寄与することが示唆された。

干渉理論(interference theory) は、他の記憶が忘却の原因であるとする説であり、2つの型が区別される。

  • 順向干渉(proactive interference): 以前に学習した情報が新しい情報の記憶を妨害する。例えば、以前のパスワードを覚えているために新しいパスワードが覚えにくくなる場合がこれに該当する。
  • 逆向干渉(retroactive interference): 新しく学習した情報が以前に学習した情報の記憶を妨害する。新しいパスワードを覚えた後に古いパスワードが思い出せなくなる場合がこれに当たる。

現代の忘却研究では、干渉理論の方が減衰理論よりも多くの経験的支持を得ている。ただし、感覚記憶やワーキングメモリにおける短期間の忘却については、時間的減衰も寄与している可能性が議論されている。

検索失敗としての忘却

忘却の第三の説明は、記憶痕跡は存在するが検索に失敗しているというものである。前述の符号化特定性原理は、この見方を支持する。適切な検索手がかりが与えられれば、一見忘却されたように見える情報が再び検索可能になる現象(舌先現象: tip-of-the-tongue phenomenon など)は、検索失敗による忘却の存在を示唆する。

動機づけられた忘却

ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)は、不快な記憶が無意識に抑圧(repression)されるという概念を提唱した。この動機づけられた忘却(motivated forgetting)の概念は、トラウマ記憶の一時的な想起不能(いわゆる「抑圧された記憶」)の説明に用いられてきた。しかし、抑圧の概念の実証的支持は限定的であり、近年ではAnthony MeltonやMichael Andersonらによって実験的に検討されている指向性忘却(directed forgetting)パラダイムなどが、不要な情報の能動的な忘却メカニズムの研究として発展している。


偽記憶

Key Concept: 偽記憶(false memory) 実際には経験していない出来事を経験したかのように想起する現象。記憶が知覚の忠実な再生ではなく、符号化・貯蔵・検索の各段階で構成的に再構成される過程であることを反映する。

記憶の構成的性質

フレデリック・バートレット(Frederic Bartlett, 1932)は、『想起の心理学(Remembering)』において、記憶が貯蔵された情報の忠実な再生ではなく、既存のスキーマ(schema)に基づいて能動的に再構成される過程であることを示した。Bartlettの「幽霊の戦争(The War of the Ghosts)」実験では、参加者がネイティブ・アメリカンの民話を繰り返し再生する中で、自文化のスキーマに合致するように物語が歪曲・省略・合理化されていくことが観察された。

事後情報効果

Key Concept: 事後情報効果(misinformation effect) 出来事を目撃した後に受け取った誤った情報が、元の記憶を歪曲する現象。エリザベス・ロフタス(Elizabeth Loftus)の一連の研究によって体系的に示された。

Loftusの代表的な実験(Loftus & Palmer, 1974)では、自動車事故の映像を視聴した参加者に対して、「車が互いにcontacted / hit / smashed したとき、何マイルぐらいのスピードでしたか?」と動詞を変えて質問した。"smashed"(激突した)条件では"contacted"(接触した)条件よりも有意に高い速度推定値が得られた。さらに1週間後、「割れたガラスを見ましたか?」と質問したところ(実際にはガラスは割れていない)、"smashed"条件では割れたガラスを「見た」と報告する参加者の割合が有意に高かった。

この結果は、質問に含まれる誘導的情報が元の記憶表象を変容させうることを示している。事後情報効果は、目撃証言の信頼性に関する法心理学的議論に重要な含意をもつ。

DRMパラダイム

DRM(Deese-Roediger-McDermott)パラダイムは、偽記憶を実験室内で安定的に生成する方法として広く用いられている。このパラダイムでは、「ベッド」「休息」「目覚め」「疲れ」「夢」などの意味的に関連した単語リストを学習させた後に再認テストを行うと、実際には提示されていないが連想的に強く結びついた単語(この場合「睡眠」)に対して高い確信度で「あった」と誤って報告する現象が安定的に観察される。

James Deese(1959)が最初にこの現象を報告し、Henry Roediger IIIとKathleen McDermott(1995)がこれを体系的に再検討・拡張した。DRMパラダイムにおける偽記憶は、単なる推測ではなく、参加者が実際に「思い出した」という主観的経験を伴うことが特徴的であり、remember/know 判断を用いた研究でも「覚えている(remember)」と判断される率が高いことが示されている。

目撃証言の信頼性

偽記憶研究は、刑事司法における目撃証言の信頼性に関する重要な実務的含意をもつ。Innocence Projectのデータによれば、DNA鑑定による冤罪の証明事例のうち約70%で、誤った目撃証言が有罪判決の一因であった。Loftusらの研究は、質問の仕方、事後の情報、繰り返しの想像が目撃証言を歪曲しうることを一貫して示しており、面通し(ラインナップ)の実施方法や司法面接の手続きの改善に貢献している。


まとめ

  • 多重貯蔵モデル(Atkinson-Shiffrinモデル)は、感覚記憶・短期記憶・長期記憶の3段階の貯蔵庫を仮定し、記憶の構造的理解の基盤を提供した。
  • ワーキングメモリモデル(Baddeleyモデル)は、短期記憶を音韻ループ・視空間スケッチパッド・中央実行系・エピソードバッファから成る能動的処理システムとして再概念化した。
  • 処理水準説は、記憶の保持が符号化時の処理の深さに依存することを主張し、符号化特定性原理は検索手がかりと符号化文脈の一致が検索の成否を規定するとした。
  • 長期記憶は、宣言的記憶(エピソード記憶・意味記憶)と非宣言的記憶(手続き的記憶、プライミング等)に大別され、それぞれ異なる神経基盤と特性をもつ。
  • 忘却のメカニズムとしては、干渉理論が減衰理論よりも多くの経験的支持を得ているが、検索失敗や動機づけられた忘却も重要な説明原理である。
  • 記憶は過去の忠実な再生ではなく構成的な再構成過程であり、事後情報効果やDRMパラダイムで示される偽記憶現象は、記憶の本質的な構成性を示す。
  • 次のセクション(→ Module 1-1, Section 3「思考と推論」)では、記憶から取り出された知識がどのように概念形成や推論に用いられるかを扱う。記憶と思考は密接に関連しており、ワーキングメモリは思考過程の基盤として重要な役割を果たす。

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
多重貯蔵モデル multi-store model 記憶を感覚記憶・短期記憶・長期記憶の3貯蔵庫から成るシステムとして捉えるモデル
感覚記憶 sensory memory 感覚入力がごく短時間保持される最初の貯蔵段階
アイコニックメモリ iconic memory 視覚的感覚記憶。保持時間約250〜500ミリ秒
エコイックメモリ echoic memory 聴覚的感覚記憶。保持時間約2〜4秒
短期記憶 short-term memory (STM) 情報が一時的に意識的に保持される貯蔵段階。容量約7±2チャンク
ワーキングメモリ working memory 情報の一時的保持と操作を担う多成分システム
音韻ループ phonological loop 言語的・音韻的情報の一時的保持を担うワーキングメモリの下位システム
視空間スケッチパッド visuospatial sketchpad 視覚的・空間的情報の保持と操作を担うワーキングメモリの下位システム
中央実行系 central executive ワーキングメモリ全体の注意制御を担うシステム
エピソードバッファ episodic buffer 異なる情報源からの情報を統合するワーキングメモリの構成要素
処理水準説 levels of processing theory 記憶保持が符号化時の処理の深さに依存するとする理論
精緻化リハーサル elaborative rehearsal 情報を既存知識と関連づける深い処理を伴うリハーサル
維持リハーサル maintenance rehearsal 情報を単純に反復する浅い処理のリハーサル
符号化特定性原理 encoding specificity principle 検索の成否が符号化時の文脈と検索手がかりの一致度に依存するとする原理
文脈依存記憶 context-dependent memory 学習環境と再生環境の一致で記憶成績が向上する現象
状態依存記憶 state-dependent memory 学習時と検索時の内的状態の一致で記憶成績が向上する現象
検索誘導性忘却 retrieval-induced forgetting 特定項目の検索が関連する他項目の検索を困難にする現象
宣言的記憶 declarative memory 意識的に想起可能な事実・出来事に関する記憶
エピソード記憶 episodic memory 特定の時間と場所に結びついた個人的経験の記憶
意味記憶 semantic memory 一般的知識や事実に関する記憶
手続き的記憶 procedural memory 技能や手続きに関する非宣言的記憶
潜在記憶 implicit memory 意識的想起を伴わず行動に影響する記憶
顕在記憶 explicit memory 意識的な想起を伴う記憶
忘却曲線 forgetting curve 時間経過に伴う記憶保持率の低下パターン
干渉理論 interference theory 他の記憶が忘却の原因であるとする理論
順向干渉 proactive interference 以前の学習が新しい学習を妨害する現象
逆向干渉 retroactive interference 新しい学習が以前の記憶を妨害する現象
偽記憶 false memory 実際には経験していない出来事を経験したかのように想起する現象
事後情報効果 misinformation effect 事後の誤った情報が元の記憶を歪曲する現象

確認問題

Q1: 多重貯蔵モデルとワーキングメモリモデルを比較し、後者が前者の限界をどのように克服したか説明せよ。

A1: 多重貯蔵モデル(Atkinson-Shiffrinモデル)は記憶を感覚記憶・短期記憶・長期記憶の3段階の貯蔵庫として捉え、情報が直列的に転送されると仮定した。しかし、短期記憶を単一の受動的貯蔵庫として扱っている点、リハーサルの量のみが長期記憶への転送を規定するとしている点、そして短期記憶に障害がありながら長期記憶が正常な患者の存在を説明できない点に限界があった。ワーキングメモリモデル(Baddeleyモデル)は、短期記憶を音韻ループ・視空間スケッチパッド・中央実行系・エピソードバッファの4つの構成要素から成る能動的処理システムとして再概念化した。これにより、情報の保持だけでなく操作(計算や推論など)の機能を説明でき、異なるモダリティの情報処理の独立性(二重課題パラダイムによる証拠)、そしてエピソードバッファを通じた長期記憶との双方向的相互作用を組み込むことが可能になった。

Q2: 処理水準説の主張と、それを支持する実験的証拠を述べよ。また、処理水準説の限界についても論じよ。

A2: 処理水準説(Craik & Lockhart, 1972)は、記憶保持が情報の貯蔵場所ではなく符号化時の処理の深さに依存すると主張する。浅い処理(構造的・形態的処理)よりも深い処理(意味的処理)が持続的な記憶痕跡を形成するとされる。CraikとTulving(1975)の実験では、構造的質問・音韻的質問・意味的質問の3条件で処理を操作し、予期しない再認テストを実施した結果、意味的処理条件で最高の再認率が得られ、この主張が支持された。しかし、処理水準説には限界もある。「深さ」の独立した定義が困難であり循環論法に陥りやすい点、処理の深さ以外の要因(精緻化の程度、弁別性、処理と検索の適合性)も記憶保持に影響する点、そして転移適切性処理(transfer-appropriate processing)の観点からは、処理の深さよりも符号化と検索の処理の一致が重要である可能性が指摘されている。

Q3: エピソード記憶と意味記憶の区別について、定義・特徴・神経基盤の観点から説明せよ。

A3: エピソード記憶は特定の時間と場所に結びついた個人的経験の記憶であり、「昨日の夕食」のような記憶がこれに該当する。想起に際して自己認識的意識(autonoetic consciousness)を伴い、過去の自己を意識的に再体験する質をもつ。一方、意味記憶は一般的な知識や事実に関する記憶であり、特定の学習エピソードとは切り離されている。「東京は日本の首都である」のような知識がこれに当たり、想起は知っているという感覚(noetic consciousness)を伴う。神経基盤については、側頭葉内側面(特に海馬)がエピソード記憶に重要な役割を果たす。海馬損傷によりエピソード記憶が選択的に障害されながら意味記憶が比較的保存される事例(Vargha-Khadem et al., 1997の発達性健忘の報告)は、両者の神経基盤が部分的に解離していることを示唆する。

Q4: 事後情報効果とDRMパラダイムについて説明し、これらが示す記憶の本質的性質について論じよ。

A4: 事後情報効果は、出来事を目撃した後に受け取った誤った情報が元の記憶を歪曲する現象である。Loftusらの実験では、自動車事故映像視聴後の質問に含まれる動詞の操作("smashed" vs "contacted")が速度推定値を変化させ、さらに実際には存在しなかった割れたガラスの「記憶」を生成させた。DRMパラダイムでは、意味的に関連した単語リストの学習後に、提示されていない関連語(臨界語)に対する高確信度の偽再認が安定的に生じる。これらの現象が示す記憶の本質的性質は、記憶が知覚の忠実な記録と再生ではなく、既存のスキーマや意味的ネットワークに基づく構成的な再構成過程であるということである。記憶は符号化・貯蔵・検索の各段階で能動的に構成され、意味的整合性や文脈的情報によって変容しうる。

Q5: ある学生が試験勉強において、教科書を繰り返し読む方法を採用しているが、成績が向上しない。記憶研究の知見に基づいて、この学生に対しどのような学習方略の改善を提案できるか、理論的根拠とともに述べよ。

A5: 教科書を繰り返し読む方法は維持リハーサルに近く、処理水準説の観点からは浅い処理にとどまっている可能性が高い。改善策として以下が理論的に根拠づけられる。第一に、精緻化リハーサルの導入として、読んだ内容を自分の経験や既知の知識と関連づけたり、自分の言葉で要約する方法が挙げられる(処理水準説に基づく深い処理の促進)。第二に、検索練習(retrieval practice)として、読んだ後にテキストを閉じて内容を想起する自己テストの実施が効果的である。検索練習は記憶痕跡を強化し、テスト効果(testing effect)として知られる現象を利用できる。第三に、符号化特定性原理に基づき、試験環境に近い条件で学習する、あるいは試験で問われる形式(記述式など)で練習することで、符号化と検索の文脈を一致させることが有効である。第四に、分散学習(spacing effect)の活用として、集中的に繰り返すのではなく間隔を空けて復習することで長期的な保持が促進される。