Module 1-3 - Section 4: 記憶の神経基盤¶
セクション情報¶
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| モジュール | Module 1-3: 学習・記憶の心理学 |
| 前提セクション | Section 1(古典的条件づけ) |
| 想定学習時間 | 4時間 |
導入¶
Section 1で扱った古典的条件づけでは、恐怖条件づけ(CS-US連合の形成)や消去・自発的回復といった学習現象を行動レベルで記述した。また、Module 1-1 Section 2「記憶」では、多重貯蔵モデル、ワーキングメモリ、宣言的記憶と手続き的記憶の区分、忘却のメカニズムなど、記憶の認知的構造について概観した。本セクションでは、これらの行動・認知レベルの記述を神経科学の水準に接続する。すなわち、記憶はどの脳領域で処理され、どのようなシナプスメカニズムによって形成・保持・変容するのかを扱う。
記憶の神経基盤に関する知見は、患者H.M.の症例報告を契機として飛躍的に発展した。海馬の役割の解明、長期増強(LTP)の発見、記憶の固定化と再固定化のメカニズムの解明、そして複数の記憶系に対応する神経回路の同定は、現代の記憶研究の中核をなす成果である。
患者H.M.と海馬の役割¶
Henry Molaisonの症例¶
Key Concept: 患者H.M.(Henry Molaison) 難治性てんかんの治療のため両側内側側頭葉切除術を受け、重篤な前向性健忘を呈した患者。記憶研究史上最も重要な症例とされ、海馬が新しい宣言的記憶の形成に不可欠であることを実証した。
1953年、27歳のHenry Molaison(H.M.)は、重篤なてんかん発作を軽減するため、神経外科医William Beecher Scovilleによる両側内側側頭葉切除術を受けた。切除範囲には海馬(hippocampus)、扁桃体(amygdala)、嗅内皮質(entorhinal cortex)の大部分が含まれていた。手術はてんかん発作の軽減には成功したが、予期しない重篤な記憶障害をもたらした。
神経心理学者Brenda Milnerによる詳細な検査の結果、H.M.の症状は以下のように特徴づけられた。
- 重篤な前向性健忘(anterograde amnesia): 手術後の新しい出来事を長期的に記憶することができない。数分前に会話した内容も保持できなかった。
- 時間的に限定された逆向性健忘(retrograde amnesia): 手術前数年間の記憶は障害されたが、幼少期や青年期の遠い過去の記憶は比較的保存されていた。
- 短期記憶の保存: 数字の即時再生(ディジットスパン)は正常範囲であり、注意を向けている間は情報を保持できた。
- 知能の保存: IQは手術前と同等か、むしろわずかに上昇していた。
Key Concept: 前向性健忘(anterograde amnesia) 脳損傷の発生時点以降に経験した新しい情報を長期記憶に固定できなくなる障害。海馬を含む内側側頭葉の損傷によって生じることが多い。
手続き学習の保存と二重解離¶
H.M.の症例で特に重要な発見は、手続き的記憶(procedural memory)が保存されていたことである。Milnerは鏡像描写課題(mirror drawing task)を用いてH.M.を検査した。この課題では、鏡に映った星形の図形を見ながら、鏡像反転した視覚フィードバックのもとでなぞる技能が求められる。H.M.は3日間の練習を通じてこの課題の成績を着実に向上させた。しかし、課題を練習したこと自体は記憶していなかった。
この知見は、記憶が単一のシステムではなく、少なくとも2つの独立したシステムから構成されることを示す神経学的証拠となった。すなわち、宣言的記憶(事実やエピソードの記憶)は海馬に依存するが、手続き的記憶(運動技能や認知技能の記憶)は海馬以外の神経回路に支えられているという二重解離(double dissociation)の構図である。
graph TD
subgraph "H.M.の症例が示した二重解離"
direction TB
HM["H.M.(海馬損傷)"]
DM["宣言的記憶: 重篤な障害"]
PM["手続き的記憶: 保存"]
HM --> DM
HM --> PM
end
subgraph "対照症例(基底核損傷)"
direction TB
BG["基底核損傷患者"]
DM2["宣言的記憶: 保存"]
PM2["手続き的記憶: 障害"]
BG --> DM2
BG --> PM2
end
ScovilleとMilnerは1957年にこの症例を報告し、内側側頭葉構造が新しい宣言的記憶の形成に決定的な役割を果たすことを明らかにした。この報告は、記憶の神経科学における最も影響力のある論文の一つである。
記憶の固定化と再固定化¶
シナプス固定化と全身性固定化¶
Key Concept: 記憶の固定化(memory consolidation) 新しく獲得された不安定な記憶痕跡が、時間の経過とともに安定した長期記憶へと変換される過程。シナプスレベルの固定化と、脳領域間の全身性固定化の2段階が区別される。
記憶の固定化は、2つの異なる時間スケールで進行する。
シナプス固定化(synaptic consolidation) は、学習後数分から数時間の間に生じる、シナプスレベルでの分子的変化である。新しいタンパク質の合成、シナプス構造の変化、受容体の増加・再配置などが含まれる。タンパク質合成阻害薬の投与によってこの過程が妨害されると、短期記憶は形成されるが長期記憶への移行が阻害されることが動物実験で繰り返し確認されている。
全身性固定化(systems consolidation) は、数週間から数年にわたる、脳の広範な領域間での記憶痕跡の再編成過程である。新しい記憶は当初、海馬と新皮質の両方に依存するが、時間の経過とともに海馬への依存度が低下し、最終的には新皮質に安定した記憶痕跡として定着するとされる。
graph LR
subgraph "シナプス固定化(分〜時間)"
E1["学習経験"] --> ST["短期記憶痕跡"]
ST -->|"タンパク質合成"| LT["安定したシナプス変化"]
end
subgraph "全身性固定化(週〜年)"
HC["海馬依存的記憶"] -->|"反復的再活性化"| NC["新皮質に定着した記憶"]
end
標準固定化理論と多重痕跡理論¶
全身性固定化の過程については、2つの主要な理論が対立している。
標準固定化理論(standard consolidation theory) は、Larry Squireらによって提唱された。この理論では、海馬は新しい記憶の一時的な貯蔵庫および索引として機能し、固定化の完了後は記憶の想起に海馬は不要になると仮定する。H.M.の逆向性健忘に時間的勾配(古い記憶ほど保存)が見られたことが、この理論を支持する根拠の一つである。
これに対し、多重痕跡理論(multiple trace theory) は、Morris Moscovitchらによって提唱された。この理論では、エピソード記憶の想起には記憶の古さに関係なくつねに海馬が関与すると主張する。想起のたびに海馬に新たな記憶痕跡が形成され、古い記憶ほど多くの痕跡をもつため、海馬損傷に対して比較的頑健であるとする。意味記憶については、当初は海馬に依存するが、やがて新皮質に独立した表象が形成されるため、最終的に海馬非依存となるとされる。
脳機能イメージング研究の結果はいまだ議論が続いているが、エピソード記憶の想起には記憶の古さに関わらず海馬の活動が見られるという報告が多く、多重痕跡理論を支持する傾向にある。
睡眠と記憶固定化¶
睡眠が記憶の固定化を促進することは、多くの実験的証拠によって支持されている。特にノンレム睡眠中の徐波睡眠(slow-wave sleep; SWS)の段階で、海馬に貯蔵された記憶痕跡が新皮質へと再活性化・転送されるとする能動的全身性固定化仮説(active systems consolidation hypothesis) が有力である。
Jan Bornらの研究グループは、学習後に睡眠をとった群と覚醒を維持した群を比較し、宣言的記憶課題において睡眠群が有意に高い成績を示すことを繰り返し報告している。さらに、睡眠中の海馬のシャープウェーブリプル(sharp wave-ripple)が、覚醒時に経験した神経活動パターンを再生(replay)していることが動物実験で確認されており、これが全身性固定化の神経基盤と考えられている。
再固定化¶
Key Concept: 再固定化(reconsolidation) すでに固定化された長期記憶が想起によって再び不安定な状態に戻り、再度の固定化過程を経て再安定化する現象。Karim Nader, Glenn Schacter, Joseph Le Douxによって2000年に実験的に実証された。
2000年、Karim Nader、Glenn Schacter、Joseph Le Douxは、ラットの恐怖条件づけ記憶を用いた画期的な実験を行った。すでに固定化された恐怖記憶を想起させた直後にタンパク質合成阻害薬(アニソマイシン)を扁桃体に注入すると、その記憶が減弱または消失した。一方、想起を伴わない場合には同じ薬物を注入しても記憶に影響がなかった。この結果は、想起された記憶が再び不安定な状態(labile state)に移行し、再固定化のためにタンパク質合成を必要とすることを示している。
再固定化の発見は、記憶が一度固定されたら永久に安定であるという従来の固定化理論に根本的な修正を迫るものであった。さらに、臨床的にも重要な含意をもつ。PTSD(心的外傷後ストレス障害)患者のトラウマ記憶を想起させた際に、再固定化を薬理学的に阻害することで、恐怖記憶の強度を低減できる可能性が示唆されている。プロプラノロール(β遮断薬)を用いた予備的な臨床研究がこの方向性で進められている。
長期増強(LTP)と記憶のシナプスメカニズム¶
Hebbの細胞集成体仮説¶
Key Concept: ヘブ則(Hebb's rule) Donald Hebbが1949年に提唱した学習の神経理論。「ニューロンAがニューロンBを発火させるのに繰り返し寄与するとき、AからBへのシナプス結合が強化される」という原理。「一緒に発火する細胞は一緒に結びつく(cells that fire together wire together)」と要約される。
Donald O. Hebbは1949年の著書『行動の機構(The Organization of Behavior)』において、学習の神経メカニズムに関する先駆的な仮説を提唱した。Hebbは、共に活動するニューロン群が細胞集成体(cell assembly) を形成し、この集成体が記憶の神経的表象となると考えた。シナプス前ニューロンとシナプス後ニューロンが同期して活動すると、そのシナプス結合が強化されるという原理(ヘブ則)は、後に発見される長期増強の予言であったとも評される。
LTPの発見¶
Key Concept: 長期増強(long-term potentiation; LTP) シナプスに高頻度刺激を与えた後、そのシナプスでの伝達効率が長時間(数時間〜数日以上)にわたって持続的に増強される現象。Timothy BlissとTerje Lømoによって1973年に海馬で初めて報告された。
1973年、Timothy BlissとTerje Lømoは、ウサギの海馬歯状回(dentate gyrus)において、貫通路(perforant path)に高頻度の電気刺激(テタヌス刺激)を加えた後、同じ経路の単発刺激に対するシナプス応答が持続的に増大することを発見した。この増強は数時間以上持続し、長期増強(long-term potentiation; LTP)と命名された。LTPは、Hebbが理論的に予測したシナプス可塑性を実験的に確認した最初の現象であり、学習と記憶のシナプスメカニズムの有力な候補として広く研究されるようになった。
NMDA受容体の役割¶
海馬CA1領域におけるLTPの誘導には、NMDA受容体(N-methyl-D-aspartate receptor)が中心的な役割を果たす。NMDA受容体は、以下の3つの特性をもつことで、ヘブ則に合致する連合的な学習メカニズムを実現している。
| 特性 | 内容 | ヘブ則との関係 |
|---|---|---|
| 連合性(associativity) | 弱い入力でも、近傍シナプスの強い入力と同時に活動すれば増強される | 同時活動するニューロンの結合強化 |
| 協同性(cooperativity) | 十分な数のシナプスが同時に活動する必要がある | 閾値を超える集団活動の必要性 |
| 入力特異性(input specificity) | 増強は活動したシナプスのみに限定される | 特定の結合のみが強化される |
NMDA受容体がこれらの特性を発揮するメカニズムは以下の通りである。NMDA受容体のイオンチャネルは、静止膜電位ではマグネシウムイオン(Mg²⁺)によってブロックされている。シナプス前ニューロンからグルタミン酸が放出されても、シナプス後ニューロンが十分に脱分極していなければ、Mg²⁺ブロックは解除されない。すなわち、シナプス前の活動(グルタミン酸放出)とシナプス後の活動(脱分極)が同時に起こったときにのみ、NMDA受容体チャネルが開口し、カルシウムイオン(Ca²⁺)が流入する。このCa²⁺流入が、CaMKII(カルシウム・カルモジュリン依存性プロテインキナーゼII)などのシグナル伝達カスケードを活性化し、AMPA受容体の挿入やシナプス構造の変化を引き起こして、シナプス伝達効率の長期的な増強をもたらす。
sequenceDiagram
participant Pre as シナプス前ニューロン
participant Syn as シナプス間隙
participant Post as シナプス後ニューロン
Pre->>Syn: グルタミン酸放出
Syn->>Post: AMPA受容体活性化 → 脱分極
Note over Post: 十分な脱分極でMg2+ブロック解除
Syn->>Post: NMDA受容体開口 → Ca2+流入
Note over Post: CaMKII活性化
Note over Post: AMPA受容体の膜挿入
Note over Post: シナプス伝達効率の持続的増強(LTP)
LTPと学習の関連¶
LTPが実際の学習と記憶の基盤であるという主張を支持する証拠として、以下が挙げられる。
- NMDA受容体拮抗薬(AP5など)の海馬内注入は、空間学習課題(Morris水迷路)の獲得を障害する(Richard Morris, 1986)。
- NMDA受容体のNR1サブユニットを海馬CA1で遺伝子的にノックアウトしたマウスは、空間学習と文脈的恐怖条件づけが障害される(Susumu Tonegawa研究室)。
- 学習経験後の海馬で、LTP様のシナプス増強が観察される。
- LTPを飽和させる(これ以上増強できない状態にする)と、新たな空間学習が障害される。
ただし、LTPと学習の因果関係については依然として議論がある。LTPが記憶の必要条件であるか十分条件であるかは完全には確立されておらず、LTP以外のシナプス可塑性メカニズム(長期抑圧: LTDなど)も学習に寄与する可能性がある。
宣言的記憶系と非宣言的記憶系の神経回路¶
Squireの記憶の分類体系¶
Key Concept: 記憶の分類体系(taxonomy of memory systems) Larry Squireが体系化した記憶の分類。長期記憶を宣言的記憶(明示的記憶)と非宣言的記憶(暗黙的記憶)に大別し、それぞれに異なる神経基盤が対応する。
Larry Squireは、健忘症患者の研究と動物実験の知見を統合し、記憶の分類体系を精緻化した。Module 1-1 Section 2で認知的区分として導入された宣言的記憶と手続き的記憶の分類は、Squireの体系において神経回路レベルの対応づけが与えられている。
graph TD
LTM["長期記憶"] --> DEC["宣言的記憶(明示的)"]
LTM --> NDEC["非宣言的記憶(暗黙的)"]
DEC --> EP["エピソード記憶"]
DEC --> SEM["意味記憶"]
NDEC --> PROC["手続き的記憶"]
NDEC --> PRI["プライミング"]
NDEC --> CC["古典的条件づけ"]
NDEC --> NAS["非連合学習"]
EP -.- MTL["内側側頭葉・海馬"]
SEM -.- MTL
PROC -.- BG["線条体・基底核"]
PRI -.- NEO["新皮質"]
CC -.- AMY["扁桃体(情動的)<br/>小脳(骨格筋)"]
NAS -.- REF["反射経路"]
各記憶系の神経回路¶
宣言的記憶系: 海馬-内側側頭葉系
エピソード記憶(個人的経験の記憶)と意味記憶(事実や知識の記憶)は、いずれも海馬を中心とする内側側頭葉構造に依存する。情報は嗅内皮質を経由して海馬に入力され、CA3-CA1領域で処理された後、再び嗅内皮質を経由して新皮質の各領域に出力される。海馬は、異なる新皮質領域に分散して表象される情報を結びつける(binding)役割を果たすと考えられている。
手続き的記憶系: 線条体-基底核系
運動技能や認知技能の学習は、線条体(striatum)を中核とする基底核回路に依存する。ハンチントン病(線条体の変性疾患)の患者は、手続き学習が選択的に障害されるが、宣言的記憶は比較的保存される。これはH.M.の症例とは逆のパターンであり、宣言的記憶系と手続き的記憶系の二重解離を構成する。
プライミング系: 新皮質
プライミング(先行する経験が後続の処理を促進する現象)は、新皮質における知覚表象の変化に基づくとされる。健忘症患者においてもプライミング効果は保存されることが多く、海馬非依存的な記憶現象である。神経イメージング研究では、プライミングは新皮質における反復抑制(repetition suppression)、すなわち同一刺激の再処理時に神経活動が減少する現象と関連づけられている。
恐怖条件づけ系: 扁桃体
Section 1で学んだ古典的条件づけのうち、恐怖条件づけは扁桃体(amygdala)に強く依存する。Joseph Le Douxの研究は、聴覚性恐怖条件づけにおいて、聴覚情報が視床から扁桃体の外側核に直接伝達される「低い道(low road)」と、聴覚皮質を経由する「高い道(high road)」の2つの経路が存在することを明らかにした。扁桃体損傷患者は恐怖の条件づけが障害されるが、条件づけの事実自体は宣言的に報告できる。逆に、海馬損傷患者は恐怖の条件づけは形成されるが、条件づけの状況を宣言的に記憶できない。この二重解離は、情動的記憶と宣言的記憶が異なる神経回路に支えられていることを端的に示している。
記憶の加齢変化と神経変性疾患¶
正常な加齢に伴う記憶変化¶
加齢に伴い、すべての記憶機能が一様に低下するわけではない。最も脆弱なのはエピソード記憶であり、特に文脈情報(いつ・どこで経験したか)の想起が困難になる。ソース・モニタリング(記憶の出所の判断)の誤りも増加する。一方、意味記憶(語彙知識など)は高齢期においても比較的保持され、80歳代でも語彙テストの成績は維持されることが多い。手続き的記憶も加齢の影響を受けにくい。
加齢に伴う記憶低下の神経基盤としては、海馬および前頭前皮質の容積減少と機能変化が指摘されている。海馬の萎縮率は年間約1〜2%とされ、前頭前皮質の変化は符号化戦略やソース・モニタリングの低下と関連する。
アルツハイマー病と海馬¶
Key Concept: アルツハイマー病(Alzheimer's disease; AD) 進行性の神経変性疾患であり、認知症の最も一般的な原因。初期症状としてエピソード記憶の障害が顕著であり、嗅内皮質と海馬の神経原線維変化(neurofibrillary tangle)とアミロイドβプラークの蓄積を特徴とする。
アルツハイマー病では、嗅内皮質と海馬が最も早期に神経病理学的変化を受ける脳領域である。Alois Alzheimerが1906年に最初の症例報告を行って以来、この疾患は広範に研究されてきた。アルツハイマー病の初期に見られるエピソード記憶の著しい障害は、嗅内皮質から海馬への入力経路の障害を反映していると考えられている。
疾患の進行に伴い、神経病理学的変化は側頭葉新皮質、頭頂葉、前頭葉へと拡大し、意味記憶、ワーキングメモリ、実行機能なども順次障害される。ただし、手続き的記憶は疾患のかなり後期まで比較的保存される傾向があり、これは記憶系の神経回路の独立性を示す臨床的証拠でもある。
認知予備能¶
Key Concept: 認知予備能(cognitive reserve) 教育歴、職業的複雑さ、知的・社会的活動の豊かさなどの生涯にわたる経験が、加齢や神経変性に伴う認知機能低下に対する耐性(緩衝機能)を提供するという概念。Yaakov Sternによって体系化された。
Yaakov Sternが提唱した認知予備能の概念は、同程度の脳病理(アミロイドβ蓄積や海馬萎縮)を有していても、認知機能低下の程度には個人差があるという観察に基づいている。高い教育歴、複雑な職業経験、活発な知的・社会的活動を有する個人は、脳病理に対してより長く認知機能を維持できる傾向がある。
認知予備能のメカニズムについては、神経効率の向上(同じ課題をより少ない神経資源で遂行)や代償的神経ネットワークの動員(損傷された領域の機能を別の領域が代償)が提案されている。認知予備能は、認知症の予防的介入の理論的基盤として公衆衛生上の重要な含意をもつ。
まとめ¶
- 患者H.M.の症例は、海馬が新しい宣言的記憶の形成に不可欠であること、および宣言的記憶と手続き的記憶が神経学的に独立したシステムであることを実証した。
- 記憶の固定化は、シナプスレベル(分〜時間)と全身性レベル(週〜年)の2段階で進行する。再固定化の発見は、想起された記憶が再び不安定になりうることを示した。
- 長期増強(LTP)は、Hebbが理論的に予測したシナプス可塑性の実験的実証であり、NMDA受容体を介した連合的メカニズムによって学習の神経基盤を提供する。
- 宣言的記憶(海馬)、手続き的記憶(基底核)、プライミング(新皮質)、恐怖条件づけ(扁桃体)は、それぞれ独立した神経回路に支えられている。
- 加齢やアルツハイマー病による記憶障害は記憶系ごとに異なるパターンを示し、認知予備能は神経変性に対する個人差の重要な要因である。
本セクションをもって、Module 1-3は完了となる。Section 1の古典的条件づけ(連合学習の基本原理)、Section 2のオペラント条件づけ(行動と結果の関係による学習)、Section 3の認知的理論(学習における認知過程の役割)、そして本セクションの神経基盤(学習と記憶の生物学的メカニズム)を通じて、学習と記憶という現象を行動・認知・神経科学の複数の分析水準から統合的に理解する視座が得られたことになる。
用語集(Glossary)¶
| 用語 | 英語表記 | 定義 |
|---|---|---|
| 前向性健忘 | anterograde amnesia | 脳損傷後に新しい情報を長期記憶に固定できなくなる障害 |
| 逆向性健忘 | retrograde amnesia | 脳損傷以前の記憶が想起できなくなる障害 |
| 海馬 | hippocampus | 内側側頭葉に位置する構造で、宣言的記憶の形成に不可欠な役割を担う |
| 記憶の固定化 | memory consolidation | 不安定な記憶痕跡が安定した長期記憶へと変換される過程 |
| 全身性固定化 | systems consolidation | 記憶痕跡が海馬依存から新皮質依存へと移行する過程 |
| 再固定化 | reconsolidation | 想起された記憶が不安定化し、再度の安定化過程を要する現象 |
| ヘブ則 | Hebb's rule | 同時に活動するニューロン間のシナプス結合が強化されるという学習原理 |
| 長期増強 | long-term potentiation; LTP | 高頻度刺激後にシナプス伝達効率が持続的に増強される現象 |
| NMDA受容体 | NMDA receptor | グルタミン酸受容体の一種で、LTPの誘導に必要な連合性検出器として機能する |
| 二重解離 | double dissociation | 2つの機能が独立した神経基盤をもつことを示す神経心理学的証拠のパターン |
| 扁桃体 | amygdala | 情動処理、特に恐怖条件づけに中心的な役割を果たす側頭葉内側の構造 |
| 線条体 | striatum | 基底核の構成要素で、手続き的記憶の形成に関与する |
| 認知予備能 | cognitive reserve | 生涯の知的経験が神経変性に対する認知機能の耐性を提供するという概念 |
| アルツハイマー病 | Alzheimer's disease | 進行性の神経変性疾患で、エピソード記憶障害を初期症状とし、海馬萎縮を特徴とする |
確認問題¶
Q1: 患者H.M.の症例が記憶研究にもたらした最も重要な発見は何か。宣言的記憶と手続き的記憶の二重解離の概念を用いて説明せよ。
A1: H.M.は両側海馬切除後に重篤な前向性健忘を呈し、新しい宣言的記憶(エピソード記憶・意味記憶)を形成できなくなった。しかし、鏡像描写課題などの手続き的記憶は正常に獲得できた。これは、宣言的記憶が海馬に依存する一方、手続き的記憶は海馬以外の神経回路(線条体-基底核系)に支えられていることを示す。基底核損傷患者では逆のパターン(手続き的記憶の障害、宣言的記憶の保存)が見られ、この二重解離は両記憶系が神経学的に独立したシステムであることの強い証拠となる。
Q2: 再固定化(reconsolidation)の概念を説明し、Naderらの2000年の実験の手続きと結果を述べよ。また、この発見がPTSD治療に対してもつ潜在的含意を論じよ。
A2: 再固定化とは、すでに固定化された長期記憶が想起によって再び不安定化し、再度のタンパク質合成に依存した安定化過程を経る現象である。Naderらは、ラットに恐怖条件づけを行い、固定化を完了させた後、CSを提示して記憶を想起させた直後にタンパク質合成阻害薬(アニソマイシン)を扁桃体に注入した。その結果、恐怖記憶が減弱した。想起を伴わない場合には薬物投与の効果がなかった。この発見は、PTSD患者のトラウマ記憶を想起させた際に、再固定化を薬理学的に阻害(例えばプロプラノロール投与)することで、恐怖記憶の情動的強度を選択的に低減できる可能性を示唆している。
Q3: NMDA受容体がヘブ則に合致する「連合性検出器」として機能するメカニズムを、Mg²⁺ブロックの解除の仕組みを含めて説明せよ。
A3: NMDA受容体のイオンチャネルは静止膜電位でMg²⁺によりブロックされている。シナプス前ニューロンからグルタミン酸が放出されてもMg²⁺ブロックは解除されない。シナプス後ニューロンがAMPA受容体を介した入力などにより十分に脱分極したときにのみ、Mg²⁺が外れてNMDA受容体チャネルが開口し、Ca²⁺が流入する。つまり、シナプス前の活動(グルタミン酸放出)とシナプス後の活動(脱分極)が同時に生じたときだけNMDA受容体が活性化される。これはヘブ則の「同時に活動するニューロン間の結合強化」と正確に対応する。流入したCa²⁺はCaMKIIなどのシグナルカスケードを活性化し、AMPA受容体の膜挿入やシナプス構造変化を通じてLTPを誘導する。
Q4: 標準固定化理論と多重痕跡理論の主要な相違点を説明し、H.M.の逆向性健忘のパターンがこの論争にどのように関わるかを論じよ。
A4: 標準固定化理論は、海馬が新しい記憶の一時的な貯蔵・索引として機能し、固定化完了後は記憶の想起に海馬は不要になると仮定する。多重痕跡理論は、エピソード記憶の想起にはその古さに関係なくつねに海馬が関与し、想起のたびに新たな痕跡が海馬に形成されると主張する。H.M.の逆向性健忘に時間的勾配(古い記憶ほど保存)が見られたことは、標準固定化理論を支持する根拠となった。しかし多重痕跡理論は、古い記憶ほど多くの痕跡をもつため海馬損傷に対して頑健であるとして、同じ現象を説明できる。脳機能イメージング研究ではエピソード記憶の想起に記憶の古さによらず海馬活動が見られる報告が多く、多重痕跡理論を支持する傾向にある。
Q5: Squireの記憶分類体系における4つの非宣言的記憶のサブタイプをそれぞれの神経基盤とともに列挙し、アルツハイマー病の臨床像がこの分類とどのように整合するかを説明せよ。
A5: 非宣言的記憶の4つのサブタイプは、(1) 手続き的記憶(線条体-基底核系)、(2) プライミング(新皮質)、(3) 古典的条件づけ(情動的条件づけ: 扁桃体、骨格筋反応: 小脳)、(4) 非連合学習(反射経路)である。アルツハイマー病では嗅内皮質と海馬が最も早期に障害されるため、宣言的記憶(特にエピソード記憶)が初期から著明に障害される。一方、手続き的記憶は基底核系に依存するため疾患後期まで比較的保存される。この選択的障害パターンは、各記憶サブタイプが独立した神経回路に支えられているというSquireの分類体系と整合している。