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Module 2-2 - Section 2: 感情の生物学的基盤

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 2-2: 感情・動機づけの心理学
前提セクション Section 1(感情の理論)
想定学習時間 3時間

導入

Section 1 では、感情の本質をめぐる理論的枠組みを検討した。James-Lange理論が身体反応の知覚を感情の起源とし、Cannon-Bard理論が中枢神経系の同時並行的処理を主張し、構成主義的感情理論がコアアフェクトと概念知識からの動的構成を提唱するなど、身体と脳と感情経験の関係は感情研究の最も根本的な問いであり続けている。

本セクションでは、その理論的議論の実証的基盤となる神経科学的知見を体系的に扱う。具体的には、扁桃体が恐怖処理においてどのような役割を果たすか、前頭前野が感情の調整にどのように関与するか、島皮質が内受容感覚を通じて感情経験を支えるか、そして自律神経系が感情にどのように応答するかを検討する。さらに、感情の脳内側性化(lateralization)に関する知見も扱う。

Module 2-1(神経・生理心理学)Section 2 で扁桃体や自律神経系の基本的な構造・機能は既に概説されているため、本セクションではそれらの知見と Section 1 の感情理論とを接続することに重点を置く。


扁桃体と恐怖

LeDouxの二重経路モデル

恐怖の神経回路研究において最も影響力の大きい枠組みの一つが、Joseph LeDoux(1996)が提唱した二重経路モデル(dual-pathway model)である。

Key Concept: 二重経路モデル(dual-pathway model) LeDoux が提唱した恐怖処理の神経回路モデル。感覚情報が扁桃体に到達する経路として、視床から扁桃体へ直接至る低位路(low road)と、視床から感覚皮質を経由して扁桃体に至る高位路(high road)の2つを想定する。低位路は高速だが粗い処理を、高位路は遅いが精緻な処理を担う。

LeDoux はラットの聴覚恐怖条件づけ(→ Module 2-1, Section 2「古典的条件づけ」参照)を用いた一連の実験から、このモデルを構築した。音(条件刺激: CS)と電気ショック(無条件刺激: US)を対提示すると、ラットは音だけですくみ反応(freezing)を示すようになる。この恐怖条件づけの成立に扁桃体の外側核(lateral nucleus)が不可欠であることが、損傷研究および単一ニューロン記録により示された。

graph TD
    S["感覚刺激<br/>(例: 音)"] --> TH["視床<br/>(内側膝状体)"]
    TH -->|"低位路(low road)<br/>12ms 高速・粗い"| LA["扁桃体外側核"]
    TH --> CX["感覚皮質<br/>(聴覚皮質)"]
    CX -->|"高位路(high road)<br/>数十ms 遅い・精緻"| LA
    LA --> CE["扁桃体中心核"]
    CE --> FR["すくみ反応"]
    CE --> ANS["自律神経系反応<br/>(心拍増加等)"]
    CE --> HPA["HPA軸活性化<br/>(ストレスホルモン分泌)"]

    style LA fill:#fbb,stroke:#333
    style CE fill:#fbb,stroke:#333

低位路の機能的意義は、潜在的脅威に対する迅速な防御反応の始動にある。視床から扁桃体外側核への直接投射は、刺激の詳細な分析が完了する前に防御反応を開始させることを可能にする。これは、生存にとっては「ヘビかもしれない棒」に対して反応する過誤(偽陽性)のコストが、「棒かもしれないヘビ」を見逃す過誤(偽陰性)のコストよりも遥かに低いという進化的合理性を反映している。

高位路は、皮質での詳細な刺激分析の結果を扁桃体にフィードバックする経路であり、低位路による初期反応の修正や抑制を可能にする。日常場面でいえば、暗い道で何かが動いた瞬間にビクッとする(低位路)が、それが風に揺れた木の枝だと認識して(高位路)安堵するという過程が、この二重経路の協調的作動に相当する。

なお、LeDoux 自身は後年の著作(2015)において、扁桃体の回路を「恐怖回路」と呼ぶことへの留保を表明している。扁桃体が処理するのは脅威検出と防御反応の組織化であり、主観的な「恐怖感」という意識的経験とは区別されるべきであるという立場を明確にした。この区別は、Section 1 で扱った「感情の構成要素」の議論、すなわち身体反応・行動反応と主観的経験の区別と直接関連する。

患者S.M.と扁桃体損傷研究

扁桃体の機能を解明する上で極めて重要な臨床例が、患者S.M.である。

Key Concept: 患者S.M. Urbach-Wiethe病(リポイドプロテイノーシス)による両側扁桃体の選択的石灰化損傷を有する女性患者。恐怖経験と恐怖認知に顕著な障害を示し、扁桃体の恐怖処理における役割に関する重要な証拠を提供した。

Adolphs, Tranel, Damasio, & Damasio(1994)らによる一連の研究から、患者S.M.の主要な特徴は以下の通りである。

  1. 恐怖認知の障害: 表情写真から恐怖を認知する能力が選択的に低下している。幸福、悲しみ、怒り等の他の感情の認知は比較的保たれている。
  2. 恐怖条件づけの障害: 聴覚恐怖条件づけパラダイムにおいて、条件刺激に対する皮膚電気反応(SCR)の条件づけが成立しない。
  3. 日常生活での恐怖の欠如: 脅威的状況(ヘビ、お化け屋敷、犯罪被害)においても恐怖を経験しないと報告している。
  4. 社会的距離の異常: 対人距離(パーソナルスペース)が極端に短く、他者に不適切に接近する傾向がある。

ただし、S.M.は二酸化炭素(CO2)吸入実験においてパニック反応を示した(Feinstein et al., 2013)。これは、扁桃体が外部由来の脅威の処理に重要である一方、身体内部から生じる窒息の脅威(内受容感覚由来)は扁桃体以外の経路でも処理されうることを示唆する。

扁桃体の恐怖以外の機能

扁桃体を「恐怖の中枢」として位置づける見方は、1990年代には広く流布したが、その後の研究は扁桃体の機能がはるかに多面的であることを明らかにしている。この知見は、Section 1 で扱ったBarrettの構成主義的感情理論が「特定の感情に固有の脳領域は存在しない」と主張する根拠の一つでもある。

機能 説明 主な証拠
新奇性検出 新奇で予測困難な刺激に対する反応 反復呈示による扁桃体活動の減衰(habituation)
社会的評価 表情・視線・信頼性の判断 信頼できない顔への扁桃体反応の増大
報酬学習 正の強化子との連合学習 食物報酬に対する扁桃体基底外側核の活動
注意の調整 感情的に顕著な刺激への注意資源の配分 感情的画像による注意の捕捉と扁桃体活動の相関
記憶の増強 感情的出来事の記憶を強化する調整的役割 扁桃体損傷による感情的記憶増強効果の消失

Barrettのメタ分析(2006)は、扁桃体が恐怖だけでなく、怒り、悲しみ、幸福、嫌悪など広範な感情カテゴリで活性化することを示し、扁桃体の機能を「生物学的顕著性(biological salience)の検出」としてより広く再定義する方向性を支持した。Sander, Grafman, & Zalla(2003)は、扁桃体の機能を「目標との関連性(relevance)の検出」として統合的に説明する枠組みを提案している。


前頭前野と感情調整

ソマティック・マーカー仮説

Key Concept: ソマティック・マーカー仮説(somatic marker hypothesis) Antonio Damasio(1994)が提唱した理論。過去の感情的経験に基づく身体的反応(ソマティック・マーカー)が、意思決定の際にバイアスとして機能し、有利な選択肢を迅速に絞り込むことを可能にするとする。腹内側前頭前野(vmPFC)がこの過程に中核的に関与する。

Damasioのソマティック・マーカー仮説は、感情と合理的意思決定の関係に革新的な視点を提供した。この仮説は、James-Lange理論の現代的な発展形としても位置づけられる。Jamesが「身体反応の知覚が感情経験である」と主張したのに対し、Damasioは「身体的反応(またはその脳内表象)が意思決定を導く信号として機能する」と主張した点で、身体状態の認知的・情報的役割を拡張している。

graph TD
    DEC["意思決定場面"] --> OPT["選択肢の想起"]
    OPT --> SM["ソマティック・マーカーの活性化<br/>(過去の感情的結果に基づく身体反応)"]
    SM --> BODY["実際の身体変化<br/>(body loop)"]
    SM --> BRAIN["身体変化の脳内シミュレーション<br/>(as-if body loop)"]
    BODY --> BIAS["選択肢への接近/回避バイアス"]
    BRAIN --> BIAS
    BIAS --> CHOICE["最終的な意思決定"]

    subgraph vmPFC ["腹内側前頭前野(vmPFC)"]
        SM
    end

    style vmPFC fill:#dfd,stroke:#333

Damasioの主要な臨床的証拠は、患者Phineas Gage(1848年の鉄棒貫通事故による前頭前野損傷)および患者Elliot(腹内側前頭前野の腫瘍摘出後)に基づく。特にElliotは、知能検査や論理的推論課題では正常範囲の成績を示しながら、日常生活の意思決定(投資、人間関係、時間管理)において壊滅的な判断の失敗を繰り返した。Damasioは、Elliotが意思決定場面で感情的なバイアス信号(ソマティック・マーカー)を生成できないため、合理的に見える選択肢の中から適切なものを絞り込めないと解釈した。

アイオワ・ギャンブリング課題(Iowa Gambling Task: IGT): Bechara, Damasio, Damasio, & Anderson(1994)は、ソマティック・マーカー仮説を実験的に検証するために IGT を開発した。参加者は4つのカードデッキから繰り返しカードを引き、金銭的利得と損失を経験する。デッキAとBは短期的利得は大きいが長期的には損失が上回る「不利なデッキ」、デッキCとDは短期的利得は小さいが長期的には利得が上回る「有利なデッキ」である。健常者は次第に有利なデッキを選好するようになるが、vmPFC損傷患者は不利なデッキを選び続ける。さらに、健常者は不利なデッキに手を伸ばす際に予期的な皮膚電気反応(SCR)を示すが、vmPFC損傷患者はこの予期的SCRを示さない。

ソマティック・マーカー仮説は、感情が合理的思考を妨げるという通俗的見解に対し、感情が適応的な意思決定に不可欠であるという視点を確立した点で大きな影響力を持つ。ただし、IGT の結果解釈に対しては、作業記憶やリバーサル学習の障害として説明可能であるとする代替仮説や、vmPFC損傷患者の成績低下が必ずしもソマティック・マーカーの欠如によるものとは限らないとする批判も提出されている。

背外側前頭前野と認知的再評価

Key Concept: 認知的再評価(cognitive reappraisal) 感情を引き起こす状況の意味づけを変更することによって感情反応を変容させる感情調整方略。背外側前頭前野(dlPFC)を含む前頭前野の複数領域が、扁桃体の活動を調整するトップダウン的制御を担う。

認知的再評価は、Section 1 で扱った評価理論(Lazarus)と直接結びつく神経科学的知見である。Lazarusの理論では、感情を生じさせるのは出来事そのものではなく、その出来事に対する認知的評価である。認知的再評価は、その評価を意図的に変更する戦略であり、その神経基盤の解明が2000年代以降精力的に進められた。

Ochsner, Buhle, & Gross(2012)のメタ分析によれば、認知的再評価時には以下の領域が活性化する。

領域 役割
背外側前頭前野(dlPFC) 再評価の認知的制御、作業記憶における代替的解釈の保持
腹外側前頭前野(vlPFC) 感情的反応の抑制、意味の選択的処理
背内側前頭前野(dmPFC) 自己関連的な感情状態のモニタリング
頭頂皮質 注意の制御、視点の転換

前頭前野-扁桃体間の制御的結合

認知的再評価における前頭前野と扁桃体の関係は、トップダウン的な制御的結合として理解される。fMRI研究は一貫して、認知的再評価の成功が前頭前野活動の増大と扁桃体活動の減少の共起として観察されることを報告している。

graph TD
    STIM["感情的刺激"] --> AMY["扁桃体<br/>(感情反応の生成)"]
    AMY --> ER["感情反応<br/>(主観的経験・生理的変化)"]

    REAP["認知的再評価の意図"] --> DLPFC["dlPFC<br/>(制御的処理)"]
    DLPFC --> VMPFC["vmPFC"]
    VMPFC -->|"抑制的調整"| AMY

    style AMY fill:#fbb,stroke:#333
    style DLPFC fill:#bbf,stroke:#333
    style VMPFC fill:#dfd,stroke:#333

この前頭前野-扁桃体の制御的結合は、発達に伴って変化する。児童期から青年期にかけて前頭前野の成熟(髄鞘化、シナプス刈り込み)が進行し、前頭前野-扁桃体間の機能的結合が強化される。青年期に感情の調整が不安定になりやすいことの一因として、扁桃体の反応性が成人レベルに達している一方で、前頭前野による制御的結合がまだ発達途上にあるという神経発達上の不均衡が指摘されている(Casey, Jones, & Hare, 2008)。


島皮質と内受容感覚

島皮質の解剖学的位置と構造

Key Concept: 島皮質(insula / insular cortex) 外側溝(シルヴィウス裂)の深部に位置する皮質領域。前部島皮質と後部島皮質に大別され、内受容感覚の処理、感情的気づき、嫌悪感、共感、身体的自己意識など多様な機能に関与する。

島皮質は、前頭葉、頭頂葉、側頭葉の弁蓋(operculum)に覆われた位置にあり、脳の外側面からは直接観察できない。この解剖学的な「隠れた」位置のため、歴史的に研究が遅れてきた領域である。機能的には後部から前部にかけて階層的な処理勾配が存在する。

領域 主な機能 接続
後部島皮質 一次的な内受容感覚の表象(痛み、温度、内臓感覚) 視床、体性感覚皮質
前部島皮質 内受容感覚の統合、感情的気づき、主観的感覚の生成 前頭前野、扁桃体、帯状皮質

内受容感覚と感情

Key Concept: 内受容感覚(interoception) 心拍、呼吸、消化管運動、体温、筋緊張などの身体内部の生理的状態に関する感覚。島皮質が中心的な処理領域であり、感情経験の身体的基盤として近年急速に注目を集めている。

内受容感覚は、Section 1 で検討した複数の感情理論と直接結びつく概念である。James-Lange理論が主張する「身体反応の知覚」、Damasioのソマティック・マーカー仮説における「身体状態の脳内表象」、そしてBarrettの構成された感情理論における「コアアフェクト」の生物学的基盤は、いずれも内受容感覚の処理と密接に関連する。

Craigの内受容的気づきモデル

A.D. Craig(2002, 2009)は、島皮質を中心とする内受容感覚の処理モデルを提唱した。このモデルでは、身体内部の状態情報が後部島皮質で一次的に表象された後、前方に向かって段階的に統合・再表象され、最終的に右前部島皮質において「今この瞬間の自己の身体状態」に関する統合的な気づき(awareness)が生成されるとする。

graph LR
    BODY["身体内部の状態<br/>(心拍、呼吸、消化管等)"]
    BODY --> AFFERENT["求心性神経<br/>(迷走神経、脊髄後角)"]
    AFFERENT --> TH2["視床<br/>(後内側腹側核)"]
    TH2 --> PI["後部島皮質<br/>(一次的表象)"]
    PI --> MI["中部島皮質<br/>(文脈情報との統合)"]
    MI --> AI["前部島皮質<br/>(統合的な気づき)"]
    AI --> AWARE["主観的感情経験<br/>身体的自己意識"]

    style PI fill:#ffd,stroke:#333
    style AI fill:#fbb,stroke:#333

Craigは、この内受容的気づきが感情経験の基盤であると主張し、Jamesの「感情は身体変化の知覚である」という命題を、現代の神経解剖学的知見に基づいて再構築した。すなわち、感情は身体内部の状態に関する島皮質の表象的活動に根ざしているという見方である。

島皮質と嫌悪・共感・身体的自己意識

島皮質の機能的多様性を示す代表的な知見を以下に整理する。

嫌悪(disgust): 前部島皮質は嫌悪感の処理に中核的な役割を果たす。Calder, Keane, Manes, Antoun, & Young(2000)は、島皮質損傷患者が嫌悪表情の認知に選択的な障害を示すことを報告した。また、不快な味覚刺激と嫌悪表情の観察の両方で島皮質が活性化するという知見は、嫌悪の身体的起源(有害物質の経口拒絶反応)と社会的嫌悪(道徳的嫌悪を含む)の神経基盤の共有を示唆する。

共感(empathy): Singer, Seymour, O'Doherty, Kaube, Dolan, & Frith(2004)は、自分が痛みを経験する場合とパートナーが痛みを受けるのを観察する場合の両方で前部島皮質が活性化することを報告した。これは、前部島皮質が自己の身体状態の表象だけでなく、他者の身体状態のシミュレーション的表象にも関与することを示唆する。

身体的自己意識: 島皮質は心拍検出課題(自分の心拍を正確に知覚する能力を測定する課題)の成績と相関する領域として繰り返し報告されている。内受容感覚の精度が高い個人ほど、感情経験の強度が高く、感情的意思決定が適応的であるという知見は、身体状態の知覚と感情経験の結びつきを裏付ける。


感情の自律神経系反応

交感神経系と副交感神経系

Section 1 で検討した James-Lange理論と Cannon-Bard理論の対立の中心的争点の一つは、自律神経系の反応が感情ごとに異なるか(特異性)、それとも未分化か(非特異性)であった。現在の知見はその中間的な結論を支持している。

感情に伴う自律神経系反応は、交感神経系(sympathetic nervous system)の活性化と副交感神経系(parasympathetic nervous system)の調整の組み合わせとして理解される。

感情 心拍 皮膚電気活動 末梢血管 呼吸
恐怖 増加 増大 収縮(顔面蒼白) 浅く速い
怒り 増加 増大 拡張(顔面紅潮) 深く速い
悲しみ 減少〜変化なし 変化小 変化小 不規則
嫌悪 減少 増大 一時停止
幸福 軽度増加 変化小 深くゆっくり

Levenson(1992)のメタ分析は、恐怖と怒りの間で皮膚温度の差異(怒りで手指の皮膚温度が上昇、恐怖で低下)など、一部の自律神経系反応に感情間の差異が存在することを示した。ただし、これらの差異は統計的には有意であるものの効果量は小さく、個別の感情エピソードを自律神経系パターンのみから確実に弁別することは困難である。この知見は、James-Lange理論の主張を部分的に支持しつつも、Cannonの批判(非特異性)にも一定の妥当性があることを示している。

心拍変動と感情調整

Key Concept: 心拍変動(heart rate variability: HRV) 連続する心拍間隔(R-R間隔)の変動のこと。迷走神経(副交感神経)による心臓制御の指標として用いられ、高周波成分(HF-HRV)が副交感神経活動を反映する。安静時HRVの高さは感情調整能力の良好さと関連する。

Thayer & Lane(2000, 2009)の神経内臓統合モデル(neurovisceral integration model)は、前頭前野-扁桃体-自律神経系の階層的制御系において、安静時HRVがこの制御系の柔軟性を反映する指標であると提唱した。安静時HRVが高い個人は、前頭前野による扁桃体の抑制的制御がより効率的に機能しており、状況に応じた柔軟な感情反応を示す。逆に安静時HRVが低い個人は、脅威刺激に対する扁桃体反応が過大であり、感情調整の困難さを示す傾向がある。

臨床的にも、安静時HRVの低下は不安障害、うつ病、PTSD(心的外傷後ストレス障害)など複数の精神疾患と関連することが報告されている。

ポリヴェーガル理論

Key Concept: ポリヴェーガル理論(polyvagal theory) Stephen Porges(1995, 2011)が提唱した理論。迷走神経が進化的に異なる2つのシステム(背側迷走神経複合体と腹側迷走神経複合体)から構成されるとし、自律神経系の反応を3段階の階層的防御システムとして説明する。

Porgesのポリヴェーガル理論は、自律神経系を交感神経系と副交感神経系の二分法で捉える従来の枠組みを拡張し、迷走神経(副交感神経の主要な神経)に2つの進化的に異なるシステムが存在するとした。

システム 進化的起源 主な機能 関連する行動状態
腹側迷走神経複合体(VVC) 哺乳類で発達 社会的関与、コミュニケーション、鎮静化 安全・社会的交流
交感神経系 脊椎動物全般 動員(mobilization) 闘争・逃走(fight/flight)
背側迷走神経複合体(DVC) 爬虫類以前 不動化(immobilization) 凍りつき・失神・シャットダウン

Porgesは、脅威の程度に応じて、VVC → 交感神経系 → DVC の順に階層的に動員される(進化的に新しいシステムから順に解除される)とした。安全な環境では腹側迷走神経による社会的関与が優位であるが、脅威が増大すると交感神経系が優位となり(闘争-逃走反応)、さらに脅威が圧倒的になると背側迷走神経による不動化反応(「凍りつき」や解離的反応)が生じるとする。

ポリヴェーガル理論への批判的検討: ポリヴェーガル理論はトラウマ治療、発達臨床、感情調整の分野で広く参照されているが、神経解剖学的妥当性に対しては重要な批判が提出されている。

  1. 背側-腹側の二分法の過度な単純化: Grossman & Taylor(2007)は、迷走神経系の解剖学は Porges が描くほど明確に二分されるものではなく、背側運動核と疑核からの迷走神経線維の分布は重複的であると指摘した。
  2. 系統発生的主張の問題: 「背側迷走神経系は爬虫類的、腹側迷走神経系は哺乳類的」という進化的階層の主張は、比較解剖学の知見と必ずしも整合しない。
  3. 不動化反応の説明: 極度のストレス下での「凍りつき」反応を背側迷走神経の過活動で説明する図式は、実際の神経生理学的メカニズムとしては検証が不十分である。

ポリヴェーガル理論の臨床的有用性(特にトラウマ反応の3段階モデルとしての説明力)と神経科学的厳密性の間には乖離があり、理論全体を受容するか批判するかではなく、各主張の経験的根拠を個別に評価する姿勢が重要である。


感情の非対称性と側性化

Davidsonの前頭非対称性モデル

Key Concept: 前頭非対称性モデル(frontal asymmetry model) Richard Davidson(1992, 2004)が提唱したモデル。左前頭部の相対的活性化は接近動機づけ(approach motivation)と関連し、右前頭部の相対的活性化は回避動機づけ(withdrawal motivation)と関連するとする。

Davidsonの前頭非対称性モデルは、感情の脳内処理が左右半球で非対称であるという知見に基づく。初期のモデルでは「左前頭=ポジティブ感情、右前頭=ネガティブ感情」と定式化されていたが、後に「接近-回避」の動機づけ的方向性を軸とする枠組みに修正された。この修正が必要であった理由は、怒りの存在にある。怒りはネガティブな感情価(valence)を持つが、動機づけ的には接近的(相手に立ち向かう)であり、EEG研究で左前頭部の活性化との関連が報告されている(Harmon-Jones & Allen, 1998)。

graph LR
    subgraph LEFT ["左前頭部の活性化"]
        AP["接近動機づけ"]
        AP --- JOY["幸福・興味"]
        AP --- ANG["怒り(接近的)"]
    end

    subgraph RIGHT ["右前頭部の活性化"]
        WD["回避動機づけ"]
        WD --- FEAR["恐怖"]
        WD --- SAD["悲しみ"]
    end

    style LEFT fill:#dfd,stroke:#333
    style RIGHT fill:#fdd,stroke:#333

EEGアルファ非対称性の研究

前頭非対称性の測定には、脳波(EEG)のアルファ帯域(8-13Hz)パワーの左右差が主に用いられる。アルファ波パワーは皮質活動と逆相関する(アルファパワーが低いほど皮質活動が高い)ため、左前頭部のアルファパワーが右に比べて低い場合、左前頭部がより活性化していると解釈される。

Davidsonらの研究は以下の知見を報告している。

  1. 特性的非対称性: 安静時に左前頭部の相対的活性化を示す個人は、正感情をより頻繁に経験し、ストレスからの回復が速い。右前頭部の相対的活性化を示す個人は、負感情への脆弱性が高い。
  2. 乳児の気質: 10か月の乳児で右前頭非対称性を示す子どもは、母親との分離時により強い苦痛反応を示す。
  3. 臨床的関連: うつ病患者は右前頭部の相対的活性化を示す傾向があり、この非対称性パターンがうつ病の素因マーカーである可能性が検討されている。

ただし、前頭非対称性研究には方法論的課題も指摘されている。アルファ非対称性の測定の信頼性(test-retest reliability)、参照電極の選択が結果に与える影響、そして効果量が小〜中程度であることを踏まえ、前頭非対称性を感情特性の確固たる生物学的マーカーとして確立するには、さらなる大規模追試が必要である。


まとめ

  • 扁桃体は LeDoux の二重経路モデル(低位路・高位路)で記述される恐怖条件づけ回路の中核であるが、その機能は恐怖に限定されず、新奇性検出・社会的評価・報酬学習など広範な顕著性検出に及ぶ。患者S.M.の研究は扁桃体の恐怖処理における役割を実証する一方、CO2吸入パニックの知見は扁桃体以外の経路の存在も示す。
  • 前頭前野は感情と意思決定・調整の接点である。vmPFC は Damasio のソマティック・マーカー仮説において感情に基づく意思決定に関与し、dlPFC は認知的再評価を通じた感情調整のトップダウン制御を担う。前頭前野-扁桃体間の制御的結合は発達とともに成熟する。
  • 島皮質は内受容感覚(interoception)の中枢であり、Craig のモデルでは後部から前部にかけて身体状態の段階的統合が行われ、前部島皮質で主観的気づきが生成される。嫌悪、共感、身体的自己意識にも関与する。
  • 自律神経系の感情反応は完全に未分化でも完全に特異的でもなく、部分的な特異性が存在する。HRV は感情調整能力の生理的指標として機能する。ポリヴェーガル理論は臨床的に広く参照されるが、神経解剖学的妥当性には批判がある。
  • Davidson の前頭非対称性モデルは、左前頭=接近動機づけ、右前頭=回避動機づけという枠組みを提供するが、効果量や測定の信頼性に関する課題が残る。

次のセクションでは、本セクションで扱った神経基盤の知見を前提として、感情調整(emotion regulation)の心理学的理論とメカニズムを検討する(→ Section 3「感情調整」)。

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
二重経路モデル dual-pathway model 恐怖処理における視床→扁桃体(低位路)と視床→皮質→扁桃体(高位路)の2経路を想定するLeDouxのモデル
低位路 low road 視床から扁桃体への直接投射。高速だが粗い脅威検出を担う
高位路 high road 視床から感覚皮質を経由して扁桃体に至る経路。遅いが精緻な刺激分析を担う
患者S.M. patient S.M. 両側扁桃体損傷により恐怖経験・認知に選択的障害を示す臨床例
ソマティック・マーカー仮説 somatic marker hypothesis 身体的反応が意思決定のバイアス信号として機能するとするDamasioの理論
腹内側前頭前野 ventromedial prefrontal cortex (vmPFC) 感情に基づく意思決定に関与する前頭前野の領域
背外側前頭前野 dorsolateral prefrontal cortex (dlPFC) 認知的再評価における制御的処理を担う前頭前野の領域
認知的再評価 cognitive reappraisal 状況の意味づけを変更して感情反応を変容させる感情調整方略
島皮質 insula / insular cortex 外側溝深部に位置し、内受容感覚・感情的気づき・嫌悪等に関与する皮質領域
内受容感覚 interoception 心拍・呼吸等の身体内部の生理的状態に関する感覚
心拍変動 heart rate variability (HRV) R-R間隔の変動。副交感神経による心臓制御の柔軟性を反映する指標
ポリヴェーガル理論 polyvagal theory 迷走神経を背側・腹側の2システムに分け、自律神経反応を3段階の階層で説明するPorgesの理論
前頭非対称性モデル frontal asymmetry model 左前頭=接近動機づけ、右前頭=回避動機づけとするDavidsonのモデル
アイオワ・ギャンブリング課題 Iowa Gambling Task (IGT) ソマティック・マーカー仮説を検証するために開発された意思決定課題
生物学的顕著性 biological salience 生存や目標に関連する刺激の重要性。扁桃体機能の統合的説明に用いられる概念

確認問題

Q1: LeDouxの二重経路モデルにおける低位路と高位路の機能的意義を、進化的合理性の観点から説明せよ。また、LeDoux自身が後年に「恐怖回路」という呼称に留保を示した理由を述べよ。

A1: 低位路(視床→扁桃体)は高速だが粗い脅威検出を担い、刺激の詳細な分析を待たずに防御反応を始動させる。これは偽陽性(無害な刺激に反応する)のコストが偽陰性(脅威を見逃す)のコストよりも低いという進化的合理性に基づく。高位路(視床→皮質→扁桃体)は感覚皮質での精緻な刺激分析の結果を扁桃体にフィードバックし、低位路による反応の修正・抑制を可能にする。LeDoux が「恐怖回路」の呼称に留保を示したのは、扁桃体の回路が処理するのは脅威検出と防御反応の組織化であり、主観的な「恐怖」という意識的経験とは区別されるべきだと考えたためである。この区別は、感情の身体反応・行動反応と主観的経験の分離という現代的な論点と直結する。

Q2: Damasioのソマティック・マーカー仮説がJames-Lange理論の現代的発展形であると位置づけられる理由を、両理論の共通点と相違点を明示しつつ説明せよ。

A2: 共通点として、両理論は身体的反応(身体状態の変化)が心理的過程において因果的な役割を果たすと主張する点で一致する。James-Lange理論は「身体反応の知覚が感情経験そのものである」とし、ソマティック・マーカー仮説は「過去の感情的経験に基づく身体反応(またはその脳内表象)が意思決定を導く信号として機能する」とする。相違点として、James-Lange理論は感情経験の生成メカニズムを説明するのに対し、ソマティック・マーカー仮説は身体状態の表象が意思決定におけるバイアスとして機能するという認知的・情報的役割を強調する。また、ソマティック・マーカー仮説はas-if body loop(実際の身体変化を介さない脳内シミュレーション)を含む点で、身体反応の直接的知覚のみに依拠するJames-Lange理論を拡張している。さらに、vmPFCという具体的な神経基盤を同定した点も発展的要素である。

Q3: 島皮質における内受容感覚の処理と感情経験の関係について、Craigのモデルに基づいて説明せよ。また、この内受容感覚の枠組みがSection 1で扱った感情理論(James-Lange理論、構成された感情理論)とどのように接続するか論じよ。

A3: Craigのモデルでは、身体内部の状態情報(心拍、呼吸、内臓感覚等)が求心性神経を介して視床に達し、後部島皮質で一次的に表象される。この表象は前方に向かって段階的に統合・再表象され、中部島皮質で文脈情報と統合された後、前部島皮質(特に右半球)で「今この瞬間の自己の身体状態」に関する統合的な気づきが生成される。James-Lange理論との接続としては、Jamesの「身体変化の知覚が感情である」という命題が、島皮質における内受容感覚の表象と気づきの生成という神経解剖学的メカニズムとして具体化された点がある。構成された感情理論との接続としては、Barrettの「コアアフェクト」(快-不快と覚醒度で特徴づけられる基本的身体状態)の生物学的基盤が、島皮質における内受容感覚の処理に対応すると考えられる点がある。ただしBarrettの理論では、内受容感覚の信号は感情の素材にすぎず、概念知識による意味づけ(概念化)が加わって初めて感情が構成されるとする。

Q4: ポリヴェーガル理論の3段階の階層モデルを説明し、この理論が臨床場面で広く受容されている理由と、神経解剖学的観点からの主要な批判をそれぞれ述べよ。

A4: ポリヴェーガル理論は、自律神経系の反応を3つの進化的に異なるシステムの階層として説明する。(1)腹側迷走神経複合体(VVC): 哺乳類で発達し、安全な環境での社会的関与・コミュニケーション・鎮静化を担う。(2)交感神経系: 脅威時に動員され、闘争-逃走反応を支える。(3)背側迷走神経複合体(DVC): 最も古い系統で、圧倒的脅威に対する不動化・シャットダウン反応を担う。脅威の程度に応じてVVC→交感神経系→DVCの順に切り替わるとする。臨床的に受容されている理由は、トラウマ反応(特に凍りつきや解離)を3段階モデルで直感的に説明でき、治療的介入の枠組みを提供する点にある。主要な批判として、(1)背側-腹側の迷走神経系の二分法は神経解剖学的に過度に単純化されており、実際には両系統の線維分布は重複的である、(2)「背側=爬虫類的、腹側=哺乳類的」という系統発生的主張は比較解剖学の知見と必ずしも整合しない、(3)極度のストレス下での不動化反応を背側迷走神経の過活動に帰する説明は実験的検証が不十分である、といった点が挙げられる。

Q5: Davidsonの前頭非対称性モデルが「左=ポジティブ感情、右=ネガティブ感情」から「左=接近動機づけ、右=回避動機づけ」へと修正された理由を、怒りの感情を例に説明せよ。

A5: 初期の前頭非対称性モデルでは、左前頭部の活性化がポジティブ感情と、右前頭部の活性化がネガティブ感情と関連するとされていた。しかし、怒りはネガティブな感情価(不快)を持ちながらも、動機づけ的には接近的である(障害を除去するために対象に立ち向かう)。Harmon-Jones & Allen(1998)らのEEG研究は、怒りの誘発時に左前頭部の相対的活性化を示すことを報告した。この知見は、左前頭部がポジティブ感情ではなく接近動機づけと関連するという修正モデルによって統合的に説明される。すなわち、幸福や興味(ポジティブ・接近的)だけでなく、怒り(ネガティブ・接近的)も左前頭部の活性化と関連し、恐怖や悲しみ(ネガティブ・回避的)が右前頭部の活性化と関連するという枠組みである。感情価(valence)ではなく動機づけ的方向性(approach/withdrawal)が非対称性を規定する主要な次元であるとする修正が行われた。