Module 2-5 - Section 1: 異常の概念と分類¶
セクション情報¶
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| モジュール | Module 2-5: 臨床心理学・異常心理学 |
| 前提セクション | なし |
| 想定学習時間 | 3〜4時間 |
導入¶
「正常」と「異常」の境界はどこにあるのか。この問いは臨床心理学・異常心理学の根幹をなす概念的問題であり、いまだ完全な合意には至っていない。ある社会で異常とみなされる行動が別の社会では正常の範疇にあること、ある時代に精神障害とされた状態が後に非病理化されること(例:同性愛のDSMからの削除, 1973)は、異常の定義が純粋に客観的・生物学的な事実だけでは決定し得ないことを示している。
本セクションでは、まず異常(abnormality)を定義するための複数の基準を検討し、それぞれの利点と限界を整理する。続いて、現代の臨床実践で用いられる主要な分類体系であるDSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)とICD(国際疾病分類)の歴史・構造・相互関係を概観する。さらに、精神障害の診断における信頼性と妥当性の問題を検討し、最後に、従来のカテゴリカルな診断モデルに対する代替案としてのディメンショナルアプローチ(HiTOP, RDoC)を紹介する。個別の精神障害の詳細はSection 2以降で扱うため、本セクションでは分類体系の枠組みと概念的基盤に焦点を置く。
「異常」の定義基準¶
精神障害あるいは心理的異常を定義する試みには、複数の基準が提案されてきた。いずれも単独では十分でなく、実際の臨床判断では複数の基準を総合的に考慮する。
統計的基準¶
Key Concept: 統計的基準(statistical criterion) 行動や心理的特性が集団における統計的平均から著しく逸脱している場合に異常とみなす基準。正規分布を仮定し、平均から2標準偏差以上離れた値を「異常」の閾値とすることが多い。
統計的基準(statistical criterion)は、行動や心理的特性の分布において平均から著しく逸脱した状態を異常とみなすアプローチである。知能指数(IQ)において平均から2標準偏差以上低い値(IQ 70未満)を知的障害の一つの指標とする慣行は、この基準の典型的な適用例である。
この基準の利点は、客観的・数量的な判断を可能にする点にある。しかし、重大な限界がある。第一に、統計的に稀少であることと臨床的に問題があることは同義ではない。IQ 145以上の極めて高い知能も統計的には異常であるが、通常は精神障害とはみなされない。第二に、閾値の設定は恣意的である。なぜ2標準偏差であって1.5や2.5ではないのかについて、理論的な根拠は十分でない。第三に、基準となる「平均」自体が文化や時代によって変動する。
社会規範的基準¶
Key Concept: 社会規範的基準(social norm criterion) 社会的に期待される行動規範から逸脱する行動を異常とみなす基準。逸脱の判断は当該社会の文化的文脈に依存する。
社会規範的基準(social norm criterion)は、当該社会で共有される行動規範や期待から逸脱する行動を異常とみなす。たとえば、公共の場で衣服を脱いで大声で叫ぶ行動は多くの社会で逸脱的と判断される。
この基準は社会的文脈を重視する点で一定の妥当性を持つが、根本的な問題として文化相対性(cultural relativism)がある。ある文化で正常とされる行動が別の文化では異常とされ得る。歴史的にも、政治的反体制者や性的少数者が精神障害として分類された事例がある(旧ソ連における政治犯の精神医学的診断、DSM-IIまでの同性愛の病理化など)。社会規範は権力構造を反映するものであり、規範からの逸脱をそのまま精神病理と等置することには深刻な倫理的問題が伴う。
機能的基準¶
Key Concept: 機能的基準(functional criterion) 日常生活における適応的機能——職業的・社会的・個人的な役割遂行能力——が著しく障害されている場合に異常とみなす基準。
機能的基準(functional criterion)は、個人の適応的機能(adaptive functioning)の障害に注目する。職業的遂行、対人関係の維持、日常的なセルフケアといった領域における機能的障害の程度が判断の中心となる。DSM-5以前のDSM-IV-TRでは、機能の全般的評定(GAF: Global Assessment of Functioning)尺度(軸V)が診断体系に組み込まれていた。
この基準の利点は、臨床的に実用的であり、治療の必要性や介入の効果を判断する指標として有用な点にある。しかし、「機能的障害」の基準自体が文化依存的であること(何をもって「適応的」とするかは社会的文脈に依存する)、また、主観的苦悩は大きいが表面的な機能は維持されている場合(高機能うつ病など)を捕捉しにくいという限界がある。
主観的苦悩の基準¶
主観的苦悩(subjective distress)の基準は、当事者本人が経験する心理的苦痛を異常の指標とする。多くの精神障害は当事者にとって主観的に苦痛な体験であり、この基準は当事者の経験を中心に据える点で重要である。
しかし、この基準にも限界がある。第一に、一部の精神障害(反社会性パーソナリティ障害、躁病エピソードの一部など)では、当事者本人が苦痛を経験していない、あるいは病識(insight)を欠く場合がある。第二に、苦悩の程度は主観的であり、客観的な測定が困難である。第三に、日常的なストレスや悲嘆反応など、苦痛ではあるが病理的とは言い難い状態との区別が難しい。
4Dモデル:統合的基準¶
Key Concept: 4Dモデル(Four Ds) 異常を定義するための4つの基準——逸脱(Deviance)、苦悩(Distress)、機能障害(Dysfunction)、危険性(Danger)——を統合した枠組み。いずれか1つではなく、複数の基準を総合的に評価する。
現代の異常心理学では、上記の基準を統合した4Dモデルが広く用いられる。
| 基準 | 英語 | 内容 |
|---|---|---|
| 逸脱 | Deviance | 統計的・社会的規範からの逸脱 |
| 苦悩 | Distress | 当事者の主観的苦痛 |
| 機能障害 | Dysfunction | 日常生活機能の障害 |
| 危険性 | Danger | 自己または他者への危害のリスク |
4Dモデルの要点は、これらの基準のいずれか単一ではなく複数が同時に満たされる場合に「異常」と判断する可能性が高まるという点にある。ただし、4つの基準すべてが必ず満たされる必要はなく、その組み合わせと程度の評価は臨床的判断に委ねられる。
graph TD
subgraph "4Dモデル"
Dev["逸脱 Deviance"]
Dis["苦悩 Distress"]
Dys["機能障害 Dysfunction"]
Dan["危険性 Danger"]
end
Dev --> J["臨床的判断"]
Dis --> J
Dys --> J
Dan --> J
J --> Out["正常-異常の連続体上の位置づけ"]
正常-異常の連続性¶
上記のいずれの基準を採用しても、正常と異常の間に明確な境界線を引くことは困難である。現代の異常心理学における主流的見解は、正常と異常は質的に異なる二分法的カテゴリではなく、連続体(continuum)上の量的差異であるとするものである。抑うつ気分、不安、解離体験などの多くの心理的現象は、臨床群と非臨床群の間で連続的に分布しており、診断閾値は便宜的に設定されたものに過ぎない。この認識は、後述するディメンショナルアプローチの理論的基盤となる。
DSMの歴史と構造¶
DSMの変遷¶
Key Concept: DSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders) アメリカ精神医学会(APA)が発行する精神疾患の分類・診断マニュアル。操作的診断基準を採用し、臨床・研究の両面で広く使用される。現行版はDSM-5-TR(2022)。
精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM: Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)は、アメリカ精神医学会(APA: American Psychiatric Association)が発行する分類体系であり、現代の精神医学・臨床心理学における診断の標準的参照枠となっている。
timeline
title DSMの変遷
1952 : DSM-I
: 精神力動的影響
: 106カテゴリ
1968 : DSM-II
: 依然として精神力動的
: 182カテゴリ
1980 : DSM-III
: 操作的診断基準の導入
: 多軸診断システム
: 265カテゴリ
1994 : DSM-IV
: エビデンスベースの改訂
: 297カテゴリ
2013 : DSM-5
: 多軸システム廃止
: ディメンショナル要素の導入
2022 : DSM-5-TR
: テキスト改訂
: ICD-10-CMコード対応更新
DSM-I(1952)およびDSM-II(1968) は、精神力動的理論の強い影響下にあり、障害を「反応」(reaction)として記述するなど、病因論的仮定を含んでいた。診断基準は明示的でなく、臨床家の主観的判断に大きく依存したため、診断の信頼性は低かった。
DSM-III(1980) は、Robert Spitzer(ロバート・スピッツァー)の主導のもとで革命的な転換を遂げた。最大の革新は操作的診断基準(operational diagnostic criteria)の導入である。各障害について、具体的な症状の種類・数・持続期間を明示し、それらを満たすか否かで診断を判定する方式を確立した。これにより、理論的立場を問わず、異なる臨床家間で一定の診断一致度を確保することが可能になった。さらに、多軸診断システム(multiaxial diagnostic system)を導入し、臨床障害(軸I)、パーソナリティ障害と知的障害(軸II)、一般身体疾患(軸III)、心理社会的・環境的問題(軸IV)、機能の全般的評定(軸V: GAF)の5軸で患者を多面的に評価する枠組みを構築した。
Key Concept: 操作的診断基準(operational diagnostic criteria) 精神障害の診断を、特定の症状の有無・数・持続期間など観察可能・測定可能な指標によって規定する方法。理論的中立性を志向し、診断の信頼性向上を目的とする。
DSM-IV(1994)およびDSM-IV-TR(2000) は、文献レビュー、データ再分析、フィールドトライアルに基づく体系的なエビデンスレビューを経て改訂された。多軸システムは維持された。
DSM-5(2013) は、いくつかの重要な構造的変更を導入した。第一に、多軸診断システムが廃止され、単一の診断リストに統合された。第二に、一部の障害領域でディメンショナルな評価が導入された(たとえば、自閉スペクトラム症における重症度レベルの指定、パーソナリティ障害のセクションIIIにおける代替ディメンショナルモデル)。第三に、DSM-IVでローマ数字が用いられていた版番号がアラビア数字に変更され、今後の「.1」「.2」のような漸進的改訂を可能にする意図が示された。
DSM-5-TR(2022) はテキスト改訂版であり、診断基準の大幅な変更はないが、障害の記述テキスト、有病率データ、文化的考慮事項が更新された。延長性悲嘆症(prolonged grief disorder)が新たに追加された。
DSM-5-TRの主要な障害カテゴリ¶
DSM-5-TRは精神障害を以下のような主要カテゴリに分類している。各カテゴリに含まれる個別の障害の詳細は、Section 2で扱う。
| カテゴリ | 代表的な障害例 |
|---|---|
| 神経発達症群 | 自閉スペクトラム症、ADHD、限局性学習症 |
| 統合失調症スペクトラム障害および他の精神病性障害群 | 統合失調症、統合失調感情障害、妄想性障害 |
| 双極性障害および関連障害群 | 双極I型障害、双極II型障害、気分循環性障害 |
| 抑うつ障害群 | うつ病(大うつ病性障害)、持続性抑うつ障害 |
| 不安症群 | 全般不安症、社交不安症、パニック症、限局性恐怖症 |
| 強迫症および関連症群 | 強迫症(OCD)、醜形恐怖症、ためこみ症 |
| 心的外傷およびストレス因関連障害群 | PTSD、急性ストレス障害、適応障害 |
| 解離症群 | 解離性同一症、解離性健忘 |
| 食行動障害および摂食障害群 | 神経性やせ症、神経性過食症、過食性障害 |
| パーソナリティ障害群 | 境界性パーソナリティ障害、反社会性パーソナリティ障害 |
操作的診断基準の意義と限界¶
操作的診断基準の導入は、精神医学の診断における信頼性を飛躍的に向上させた。しかし、複数の限界も指摘されている。
第一に、操作的基準は理論的中立性を標榜するが、完全な中立は達成し得ない。どの症状を基準に含め、閾値をどこに設定するかという決定自体が、何らかの理論的・実践的判断を反映する。第二に、操作的基準は信頼性(reliability)の向上に寄与したが、妥当性(validity)——すなわち、診断カテゴリが実在する疾患実体(disease entity)を正確に反映しているか——は別の問題である。第三に、操作的基準のチェックリスト的運用は、症状の個別的文脈や意味を捨象する危険性をはらむ。
ICDとの関係¶
ICD-11の概要¶
Key Concept: ICD(International Classification of Diseases) 世界保健機関(WHO)が策定する国際疾病分類。精神障害のみならず全疾病・健康状態を網羅する。現行版はICD-11(2019年採択、2022年発効)。
国際疾病分類(ICD: International Classification of Diseases)は、世界保健機関(WHO: World Health Organization)が策定する疾病・健康状態の国際的分類体系である。DSMが精神障害に特化しているのに対し、ICDは全疾病領域を包括する。精神・行動・神経発達の障害はICD-11の第6章に収められている。
ICD-11(2019年世界保健総会で採択、2022年1月発効)は、ICD-10(1990)からの大幅な改訂であり、以下の特徴を持つ。
- 臨床記述と診断ガイドライン(CDDG: Clinical Descriptions and Diagnostic Guidelines)を基盤とする柔軟な診断アプローチを採用
- パーソナリティ障害の分類を根本的に再構成し、カテゴリカルな類型(境界性、反社会性等の個別診断名)からディメンショナルモデルへ移行
- 複雑性PTSD(Complex PTSD)や身体的苦痛症(bodily distress disorder)など新たな診断概念の導入
- ゲーム障害(gaming disorder)の新規収載
DSMとICDの相違点と収斂¶
DSMとICDは歴史的に独立して発展してきたが、近年は収斂の傾向にある。DSM-5の開発過程ではWHOとの協調が意図され、両体系の整合性が図られた。
| 観点 | DSM-5-TR | ICD-11 |
|---|---|---|
| 発行機関 | APA(米国精神医学会) | WHO(世界保健機関) |
| 対象範囲 | 精神障害のみ | 全疾病・健康状態 |
| 地理的使用範囲 | 主に北米・研究領域 | 国際的(WHO加盟194カ国) |
| 診断基準の性質 | 操作的基準(具体的閾値) | 臨床記述とガイドライン(より柔軟) |
| パーソナリティ障害 | カテゴリカル(セクションII)+ディメンショナル代替モデル(セクションIII) | 全面的にディメンショナルモデル |
| 複雑性PTSD | 独立カテゴリなし | 独立カテゴリあり |
日本における使用状況¶
日本では、公的な統計・保険請求にはICDが使用される。厚生労働省の疾病分類はICDに準拠しており、医療機関における保険診療上の診断コードはICD-10(順次ICD-11へ移行中)が基盤である。一方、臨床研究や学術論文ではDSMが広く参照されており、両体系が併用される状況にある。教育・研修においても両体系の理解が求められる。
診断の信頼性と妥当性¶
評価者間信頼性¶
Key Concept: 評価者間信頼性(inter-rater reliability) 異なる評価者(臨床家)が同一の患者に対して同一の診断を下す一致度。κ(カッパ)係数で測定され、.40以下は不十分、.60-.79は良好、.80以上は優秀とされる。
精神障害の診断における信頼性は、主に評価者間信頼性(inter-rater reliability)——複数の臨床家が同一の患者に対して同じ診断を下す一致度——によって評価される。Cohenのκ(カッパ)係数が標準的な指標であり、偶然の一致を補正した値を提供する。
DSM-IIIの導入以降、操作的診断基準の採用により信頼性は大幅に向上した。しかし、DSM-5のフィールドトライアル(Regier et al., 2013)では、障害によって信頼性に大きなばらつきがあることが明らかになった。統合失調症やPTSDなどは比較的高いκ値(.46-.67)を示したが、うつ病(大うつ病性障害)のκ値は.28と低く、混合不安抑うつ障害は.06と極めて低い値であった。このことは、操作的診断基準を用いてもなお、一部の障害の診断一致度に課題が残ることを示している。
Rosenhan実験とその意義¶
David Rosenhan(デイヴィッド・ローゼンハン)の研究 "On Being Sane in Insane Places"(1973)は、精神医学的診断の妥当性に根本的な疑問を投げかけた。
Rosenhanの実験では、8名の偽患者(pseudopatients)——Rosenhan自身を含む心理学者、大学院生、精神科医、画家、主婦、小児科医——が、「声が聞こえる」という幻聴の偽症状のみを訴えて精神科病院への入院を試みた。全員が入院を許可され、統合失調症(1名は躁うつ病)と診断された。入院後、偽患者たちは直ちに偽症状の訴えをやめ、通常通りに振る舞ったが、退院までに7日から52日(平均19日)を要した。退院時の診断はいずれも「統合失調症、寛解」であり、「正常」とは判定されなかった。
graph LR
subgraph "Rosenhan実験(1973)の構造"
A["偽患者8名が幻聴を訴えて入院"] --> B["全員が精神障害と診断"]
B --> C["入院後に偽症状を中止"]
C --> D["正常と判定されず退院"]
D --> E["退院診断: 寛解"]
end
subgraph "含意"
E --> F["診断ラベルの固着性"]
E --> G["精神科入院環境の脱個人化"]
E --> H["正常と異常の区別の困難性"]
end
この研究は、精神医学的診断が「精神科病院」という文脈(context)に強く影響されること、一度貼られた診断ラベルが後の行動解釈を方向づけること(確認バイアス)、正常な行動が病理的行動と区別できない環境が存在することを示唆した。
しかし、Rosenhan実験には重大な方法論的限界と批判がある。第一に、身体医学でも「症状を訴える患者を信じて診断する」ことは通常の診療プロセスであり、偽症状に基づく診断が必ずしも診断体系の欠陥を意味しない。第二に、「寛解」という退院時診断は、入院時に症状があり退院時に症状が消失したことを反映しており、むしろ臨床的に妥当な判断とも解釈し得る。第三に、ジャーナリストSusannah Cahalan(スザンナ・キャラハン)の調査(2019)では、Rosenhanの報告に含まれるデータの一部に不一致や検証不能な点があることが指摘された。第四に、Robert Spitzerは早くも1975年に、この実験が精神医学的診断の妥当性を否定するものではなく、単に診断プロセスにおける偽情報の影響を示したに過ぎないと批判した。
Rosenhan実験の歴史的意義は、その方法論的厳密性よりも、精神医学的診断の概念的基盤に対する問題提起としての影響力にある。この研究は、DSM-IIIにおける操作的診断基準の導入を後押しする一因となった。
併存症の問題¶
Key Concept: 併存症(comorbidity) 同一個人に複数の精神障害の診断基準が同時に満たされる状態。たとえば、うつ病と不安症の併存は非常に高頻度で認められる。
精神障害の診断において、併存症(comorbidity)——同一個人に2つ以上の障害が同時に診断される状態——の頻度が極めて高いことは、現行の分類体系の妥当性に対する重要な問題提起となっている。たとえば、うつ病患者の約60%が不安症を併存し、不安症間の併存も高率である。
併存症の高さには複数の解釈がある。第一に、真の併存——独立した複数の障害が偶然に共起している可能性。第二に、共通の病因——表面上は別の障害に見える症状群が共通の基盤的要因(たとえば一般的な精神病理因子、いわゆるp因子)を共有している可能性。第三に、人為的な境界——本来は連続的な病理が、カテゴリカルな分類体系によって人為的に分割された結果として、見かけの併存が生じている可能性。現在の研究では、第二・第三の解釈を支持する証拠が蓄積されており、これはディメンショナルアプローチの理論的根拠の一つとなっている。
カテゴリカルアプローチとディメンショナルアプローチ¶
カテゴリカルモデル¶
カテゴリカルモデル(categorical model)は、精神障害を質的に区別可能な離散的カテゴリとして捉える。DSMの基本構造はこのモデルに基づいており、各障害の診断基準を満たすか否かによって「障害あり/なし」の二値的判断を下す。
カテゴリカルモデルの実用的利点は、臨床的コミュニケーションの効率化(診断名による情報伝達)、治療方針の決定の明確化、保険請求や行政手続きへの適合性にある。しかし、理論的にはいくつかの深刻な問題を抱える。診断閾値付近の事例(閾値下症例)の扱いが困難であること、併存症の高頻度が分類の妥当性に疑問を投げかけること、そして多くの心理的特性が連続的に分布するという実証的知見と整合しないことが指摘されている。
ディメンショナルモデル¶
ディメンショナルモデル(dimensional model)は、精神病理を連続的な次元上の量的差異として捉える。正常な心理的機能と精神障害は質的に異なるカテゴリではなく、同じ次元の異なる程度であるとする。
HiTOP¶
Key Concept: HiTOP(Hierarchical Taxonomy of Psychopathology) 精神病理の経験的データに基づく階層的分類体系。症状から上位の「スペクトラ」まで階層的に構成され、カテゴリカルな診断に代わるディメンショナルな枠組みを提供する。
HiTOP(Hierarchical Taxonomy of Psychopathology;精神病理の階層的分類体系)は、因子分析をはじめとする経験的データに基づいて精神病理の構造を階層的に整理する試みである(Kotov et al., 2017)。
HiTOPの構造は以下の階層から成る。
graph TD
subgraph "HiTOPの階層構造"
P["最上位: 一般的精神病理因子(p因子)"]
P --> SP1["スペクトラ: 内在化"]
P --> SP2["スペクトラ: 外在化(脱抑制)"]
P --> SP3["スペクトラ: 外在化(敵意)"]
P --> SP4["スペクトラ: 思考障害"]
P --> SP5["スペクトラ: 離隔"]
P --> SP6["スペクトラ: 身体化"]
SP1 --> SF1["下位因子: 苦悩"]
SP1 --> SF2["下位因子: 恐怖"]
SF1 --> SY1["症候群・症状レベル"]
SF2 --> SY1
end
最上位のp因子(general factor of psychopathology)は、あらゆる精神病理に共通する一般的な脆弱性因子であり、知能研究におけるg因子(一般知能)のアナロジーとして概念化されている。その下に6つのスペクトラ(内在化、脱抑制的外在化、敵意的外在化、思考障害、離隔、身体化)があり、さらに下位の因子・症候群・症状へと階層的に分解される。
HiTOPの利点は、経験的データに根拠を持つこと、併存症の問題を共有因子として自然に説明できること、閾値下症例を連続体上に位置づけられることにある。課題としては、臨床実践への実装方法が未確立であること、評価ツールの標準化が途上であることが挙げられる。
RDoC¶
Key Concept: RDoC(Research Domain Criteria) 米国国立精神衛生研究所(NIMH)が提唱する研究枠組み。従来の症状ベースの診断カテゴリに代えて、行動の基盤となる生物学的・心理学的な機能的領域(ドメイン)を分析単位とする。
RDoC(Research Domain Criteria;研究領域基準)は、米国国立精神衛生研究所(NIMH: National Institute of Mental Health)が2010年に提唱した研究枠組みである。RDoCは、既存の診断カテゴリ(DSMやICD)を出発点とせず、行動と精神機能の基盤となる生物学的・心理学的メカニズムを直接研究することを目的とする。
RDoCは以下の6つの主要ドメインを設定している。
| ドメイン | 内容 |
|---|---|
| 負の情動システム | 恐怖、不安、持続的脅威、喪失への反応 |
| 正の情動システム | 報酬への接近動機、報酬学習、習慣形成 |
| 認知システム | 注意、知覚、作業記憶、認知制御 |
| 社会的過程 | 愛着形成、社会的コミュニケーション、他者理解 |
| 覚醒・調節システム | 覚醒、概日リズム、睡眠-覚醒制御 |
| 感覚運動システム | 運動行動の制御・計画・習慣 |
各ドメイン内の構成概念は、遺伝子・分子・細胞・回路・生理・行動・自己報告の7つの分析単位(units of analysis)にわたって研究される。
RDoCはDSMやICDに取って代わる臨床的診断体系ではなく、基礎研究のための枠組みである。RDoCの意義は、症状の表面的類似性ではなく、基盤となるメカニズムの共通性に基づいて精神病理を再概念化する方向性を示した点にある。ただし、研究の成果が臨床実践に還元されるまでには相当の時間を要すると考えられている。
graph LR
subgraph "従来のアプローチ"
DX["DSM/ICDの診断カテゴリ"] --> TX["治療選択"]
end
subgraph "RDoCアプローチ"
DOM["機能的ドメイン"] --> UA["分析単位(遺伝子〜行動)"]
UA --> MEC["基盤メカニズムの同定"]
MEC --> TG["メカニズムに基づく治療標的"]
end
まとめ¶
- 異常の定義には統計的基準、社会規範的基準、機能的基準、主観的苦悩の基準があり、いずれも単独では十分でない。4Dモデルは複数の基準を統合する枠組みを提供する
- DSMは操作的診断基準の導入(DSM-III以降)により診断の信頼性を向上させたが、妥当性の問題は未解決である。DSM-5-TRが現行版であり、単一軸の診断体系を採用する
- ICDはWHOが策定する国際的分類体系であり、ICD-11はパーソナリティ障害のディメンショナル化など先進的な変更を含む。日本では公的統計・保険にICD、研究にDSMが併用される
- Rosenhan実験は精神医学的診断の文脈依存性を示したが、方法論的限界とデータの信頼性に関する批判がある
- 併存症の高頻度は、現行のカテゴリカルな分類体系の妥当性に疑問を投げかけている
- HiTOP(階層的分類体系)とRDoC(研究領域基準)は、カテゴリカルな診断に代わるディメンショナルな枠組みとして提案されている。前者は経験的データに基づく分類の再構成、後者は基盤メカニズムに基づく研究枠組みである
- 個別の精神障害の特徴・病因・治療については、Section 2以降で詳述する
用語集(Glossary)¶
| 用語 | 英語表記 | 定義 |
|---|---|---|
| 統計的基準 | statistical criterion | 集団の統計的平均からの逸脱に基づく異常の定義基準 |
| 社会規範的基準 | social norm criterion | 社会的行動規範からの逸脱に基づく異常の定義基準 |
| 機能的基準 | functional criterion | 適応的機能の障害に基づく異常の定義基準 |
| 4Dモデル | Four Ds | 逸脱・苦悩・機能障害・危険性の4基準を統合した異常の定義枠組み |
| DSM | Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders | APAが発行する精神疾患の分類・診断マニュアル |
| 操作的診断基準 | operational diagnostic criteria | 観察・測定可能な指標で診断を規定する方法 |
| ICD | International Classification of Diseases | WHOが策定する国際疾病分類 |
| 評価者間信頼性 | inter-rater reliability | 複数の評価者間での診断一致度 |
| 併存症 | comorbidity | 同一個人に複数の障害が同時に診断される状態 |
| HiTOP | Hierarchical Taxonomy of Psychopathology | 精神病理の階層的ディメンショナル分類体系 |
| RDoC | Research Domain Criteria | NIMHが提唱する機能的ドメインに基づく研究枠組み |
| p因子 | general factor of psychopathology | あらゆる精神病理に共通する一般的脆弱性因子 |
| 病識 | insight | 自身の精神状態の異常を認識する能力 |
確認問題¶
Q1: 異常の定義における4Dモデルの各基準(Deviance, Distress, Dysfunction, Danger)を説明し、それぞれの限界を1つずつ挙げよ。
A1: 逸脱(Deviance)は統計的・社会的規範からの逸脱であるが、稀少性が必ずしも病理的でない点が限界である(例:天才的知能は統計的に稀少だが障害ではない)。苦悩(Distress)は主観的苦痛であるが、病識を欠く障害(反社会性パーソナリティ障害等)や躁病エピソードでは当事者が苦痛を感じない場合がある。機能障害(Dysfunction)は日常生活機能の障害であるが、機能の基準自体が文化依存的であり、高機能のまま苦悩する事例を見逃す可能性がある。危険性(Danger)は自他への危害のリスクであるが、大多数の精神障害は暴力リスクの上昇と直接関連せず、この基準の過度な適用はスティグマを助長し得る。
Q2: DSM-III(1980)が精神医学的診断にもたらした2つの主要な革新とは何か。それらが導入された背景を説明せよ。
A2: 第一の革新は操作的診断基準の導入であり、各障害について症状の種類・数・持続期間を具体的に明示し、理論的立場を問わず一定の診断一致度を確保可能にした。第二の革新は多軸診断システムの導入であり、臨床障害・パーソナリティ障害・身体疾患・心理社会的問題・機能評定の5軸で多面的な評価を可能にした。背景として、DSM-IIまでの精神力動的・理論依存的な診断基準では評価者間信頼性が著しく低く(異なる臨床家が異なる診断を下す問題)、Rosenhan実験(1973)に象徴される診断の妥当性への批判が高まっていたことが挙げられる。
Q3: Rosenhan実験(1973)の概要と主要な知見を述べた上で、この研究に対する方法論的批判を2つ以上挙げよ。
A3: Rosenhan実験では、8名の偽患者が幻聴のみを訴えて精神科病院に入院し、全員が精神障害と診断された。入院後に症状の訴えを中止しても正常と判定されず、「統合失調症、寛解」として退院した。この結果は、診断ラベルの固着性、精神科環境における文脈効果、正常-異常の区別の困難性を示唆した。方法論的批判としては、(1)身体医学でも患者の自己報告を信じて診断するのが通常であり、偽症状に騙されたことは診断体系の欠陥を意味しない(Spitzer, 1975の批判)、(2)「寛解」という退院時診断は症状消失を適切に反映しており、臨床的に妥当な判断ともいえる、(3)Cahalan(2019)の調査により、Rosenhanの報告データに不一致や検証不能な点が指摘されている、などが挙げられる。
Q4: HiTOPとRDoCはいずれも従来の診断体系への代替案として位置づけられるが、両者のアプローチの違いを説明せよ。
A4: HiTOPは、因子分析などの経験的データに基づいて精神病理の共変動パターン(どの症状群が共起しやすいか)を階層的に整理するボトムアップの分類体系であり、既存の診断データの再構造化を志向する。p因子を頂点とし、スペクトラ、下位因子、症候群、症状へと階層化される。一方、RDoCはNIMHが提唱する研究枠組みであり、既存の診断カテゴリを出発点とせず、行動の基盤となる生物学的・心理学的メカニズム(機能的ドメイン)を遺伝子から行動まで複数の分析単位にわたって研究することを目的とする。HiTOPが臨床的分類の改善を目指すのに対し、RDoCは基礎研究のパラダイム転換を意図しており、直接的な臨床的分類体系ではない。
Q5: 精神障害の診断における併存症(comorbidity)の高さは、現行の分類体系に対してどのような問題提起をしているか。考えられる解釈を複数挙げて論じよ。
A5: 併存症の高さには3つの解釈がある。第一に、真の併存——独立した複数の障害が偶然に同一個人に生じている可能性。しかし、併存率が偶然の期待値を大幅に超えることから、この解釈のみでは説明困難である。第二に、共通の病因——表面上は別の障害に分類される症状群が、共通の基盤的要因(たとえばHiTOPにおけるp因子や内在化因子)を共有しているために共起する可能性。この解釈は、ディメンショナルモデルの理論的根拠となる。第三に、人為的境界——本来は連続的・次元的な病理が、カテゴリカルな分類体系によって人為的に分割された結果、見かけ上の併存が生じている可能性。この解釈は、現行の診断カテゴリが自然の継ぎ目(natural kinds)を正確に反映していない可能性を示唆し、分類体系そのものの再構築の必要性を示す。