Module 2-5 - Section 3: 精神障害の理論モデル¶
セクション情報¶
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| モジュール | Module 2-5: 臨床心理学・異常心理学 |
| 前提セクション | Section 1(異常の概念と分類) |
| 想定学習時間 | 3〜4時間 |
導入¶
精神障害はなぜ生じるのか。この問いに対する答え方は、臨床心理学の歴史を通じて大きく変遷してきた。古代の超自然的説明から出発し、19世紀の生物医学的枠組み、20世紀の精神分析・行動主義・認知革命を経て、現代では複数の水準の要因を統合的に把握する枠組みが主流となっている。
Section 1で検討した分類体系が「何を」精神障害と呼ぶかを扱うのに対し、本セクションでは「なぜ」精神障害が生じるのかを説明する理論モデルを扱う。具体的には、(1) 生物学的モデル、(2) 心理学的モデル(行動モデル・認知モデル・精神力動的モデル)、(3) 素因-ストレスモデルおよび差次的感受性モデル、(4) 生物心理社会モデルを順に検討する。各モデルの主要主張、実証的支持、および限界を整理し、それらがどのように統合されるかを理解することが本セクションの目標である。
生物学的モデル¶
生物学的モデル(biological model)は、精神障害の原因を脳の構造・機能・化学的過程の異常に求めるアプローチである。精神医学の発展とともに最も長い歴史を持ち、とりわけ向精神薬の発見以降、臨床実践において支配的な位置を占めてきた。
Key Concept: 生物学的モデル(biological model) 精神障害を脳・神経系の生物学的異常に帰する理論的枠組み。神経伝達物質、遺伝、神経構造の異常を主要な病因とみなす。「医学モデル」(medical model)とも呼ばれる。
神経伝達物質仮説¶
精神障害の生物学的理解において中心的役割を果たしてきたのが、神経伝達物質の機能異常に関する仮説群である(→ Module 2-1「神経伝達物質と行動」参照)。
モノアミン仮説とうつ病
うつ病のモノアミン仮説(monoamine hypothesis)は、セロトニン(5-HT)、ノルアドレナリン(NA)、ドーパミン(DA)といったモノアミン系神経伝達物質の機能低下がうつ病の病因であるとする仮説である。この仮説は、(a) レセルピン(モノアミン枯渇薬)がうつ症状を誘発すること、(b) 三環系抗うつ薬やMAO阻害薬がモノアミンの再取り込みまたは分解を阻害することで抗うつ効果を示すことから提唱された(Schildkraut, 1965)。
しかし、モノアミン仮説は単純な形では支持されていない。選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)はシナプス間隙のセロトニン濃度を投与直後から上昇させるが、臨床的な抗うつ効果が発現するまでに2〜4週間を要する。この時間的乖離は、シナプス伝達の単純な増強ではなく、受容体感受性の変化や神経可塑性の修復といったより下流の適応過程が治療効果に関与することを示唆している。近年では、脳由来神経栄養因子(BDNF)仮説や神経炎症仮説など、モノアミン仮説を補完・拡張する枠組みが提案されている。
ドーパミン仮説と統合失調症
統合失調症のドーパミン仮説(dopamine hypothesis)は、中脳辺縁系経路(mesolimbic pathway)におけるドーパミン活動の亢進が陽性症状(幻覚・妄想)の基盤であるとする仮説である。主な根拠は、(a) ドーパミンD2受容体の遮断が抗精神病効果を示すこと(Seeman, 1976)、(b) アンフェタミンなどドーパミン放出を促進する薬物が精神病様症状を誘発すること、(c) PET研究で統合失調症患者の線条体におけるドーパミン合成能の亢進が認められることである。
しかし、初期の単純なドーパミン仮説(ドーパミン過剰仮説)は修正が必要となった。統合失調症の陰性症状(意欲低下・感情鈍麻)や認知機能障害は、前頭前野におけるドーパミン(特にD1受容体を介する)機能の低下と関連するとされ、「修正ドーパミン仮説」では皮質下のドーパミン過活動と皮質のドーパミン低活動の共存が想定されている(Davis et al., 1991)。さらに、グルタミン酸(NMDA受容体の機能低下仮説)やGABAなど他の神経伝達物質系の関与も指摘されており、単一の神経伝達物質で統合失調症を説明することの限界が認識されている。
graph TD
subgraph "統合失調症のドーパミン仮説"
A["中脳辺縁系経路<br>DA過活動"] --> B["陽性症状<br>幻覚・妄想"]
C["中脳皮質経路<br>DA低活動"] --> D["陰性症状<br>意欲低下・感情鈍麻"]
C --> E["認知機能障害"]
end
F["抗精神病薬<br>D2受容体遮断"] -.->|"軽減"| B
F -.->|"効果限定的"| D
遺伝的脆弱性¶
精神障害に対する遺伝的寄与は、行動遺伝学(behavioral genetics)の手法によって検討されてきた。
Key Concept: 遺伝率(heritability) 集団内の表現型分散のうち遺伝的分散で説明される割合。個人の形質が遺伝で「決まる」割合ではなく、集団レベルの統計的指標である。
双生児研究
双生児研究(twin study)は、一卵性双生児(MZ)と二卵性双生児(DZ)の一致率(concordance rate)を比較することで遺伝的寄与を推定する。主要な精神障害の遺伝率の推定値は以下のとおりである。
| 精神障害 | 遺伝率(推定値) | 主な知見の出典 |
|---|---|---|
| 統合失調症 | 約80% | Sullivan et al. (2003) |
| 双極性障害 | 約70〜80% | McGuffin et al. (2003) |
| 自閉スペクトラム症 | 約60〜90% | Tick et al. (2016) メタ分析 |
| うつ病(大うつ病性障害) | 約30〜40% | Sullivan et al. (2000) |
| 不安症群 | 約30〜40% | Hettema et al. (2001) |
遺伝率が高いことは、遺伝的要因の寄与が大きいことを意味するが、「遺伝で決まる」ことを意味しない。統合失調症の遺伝率は約80%と高いが、一卵性双生児の一致率は約50%であり、遺伝的に同一であっても約半数は発症しない。これは環境要因の重要な役割を示している。
ゲノムワイド関連解析(GWAS)
分子遺伝学の進展により、ゲノムワイド関連解析(GWAS: Genome-Wide Association Study)によって精神障害に関連する遺伝子座の同定が進んでいる。統合失調症については、Psychiatric Genomics Consortiumの大規模GWASにより270以上の遺伝子座が同定されている(Trubetskoy et al., 2022)。しかし、個々のバリアントの効果量はきわめて小さく(オッズ比1.05〜1.2程度)、精神障害は多数の微小効果の遺伝子が累積的に作用するポリジェニック(polygenic)な特性であることが明確になっている。ポリジェニックリスクスコア(PRS)は集団レベルでのリスク層別化に一定の有用性を持つが、個人レベルの予測力は限定的である。
神経構造・機能の異常¶
脳画像研究の発展により、精神障害に伴う神経構造的・機能的異常が多数報告されている。
- 海馬体積の減少: うつ病患者ではメタ分析により海馬体積の有意な減少が報告されている。反復性うつ病や未治療期間の長さが体積減少と関連し、慢性的なストレスホルモン(コルチゾール)曝露による神経毒性が機序として想定されている。
- 前頭前野の機能低下: 統合失調症における背外側前頭前野(DLPFC)の低活性化(hypofrontality)は、作動記憶課題遂行中のfMRI研究で繰り返し報告されている。これは認知機能障害や陰性症状との関連が示唆されている。
- 扁桃体の過活動: 不安症群やPTSD(心的外傷後ストレス障害)において、脅威刺激に対する扁桃体の過活動が認められる。
ただし、これらの知見には因果関係の方向性の問題がある。構造的異常が障害の原因なのか、障害の結果(あるいは薬物治療の影響)なのかを横断的研究から判定することは困難であり、縦断的研究やハイリスク群の追跡研究による補完が必要である。
エピジェネティクスと精神障害¶
Key Concept: エピジェネティクス(epigenetics) DNA塩基配列の変化を伴わずに、遺伝子発現が後天的に調節される機構。DNAメチル化やヒストン修飾が代表的な機構であり、環境要因(ストレス・栄養・毒性物質曝露など)によって変動し得る。
エピジェネティクスは、遺伝と環境の相互作用を分子レベルで橋渡しする枠組みとして注目されている。Weaver et al.(2004)のラットを用いた研究では、生後早期の養育行動(舐める・毛づくろい)の頻度が、仔ラットの糖質コルチコイド受容体遺伝子のプロモーター領域のメチル化状態を変化させ、成体後のストレス反応性に永続的な影響を及ぼすことが示された。ヒトにおいても、幼少期の虐待経験がグルココルチコイド受容体遺伝子(NR3C1)のメチル化と関連するという報告がある(McGowan et al., 2009)。
エピジェネティクスは、「なぜ同じ遺伝子を持つ一卵性双生児でも発症の不一致が生じるのか」という問いに対する一つの分子的説明を提供する。ただし、ヒトを対象としたエピジェネティクス研究は、組織特異性(末梢血のメチル化が脳のメチル化を反映するか)や因果関係の特定(メチル化変化が障害の原因か結果か)に関して方法論的課題を抱えている。
心理学的モデル¶
心理学的モデルは、精神障害の発生・維持を学習過程、認知過程、あるいは無意識的な心理的葛藤によって説明する。
行動モデル¶
行動モデル(behavioral model)は、精神障害を環境との相互作用を通じて学習された不適応的行動パターンとして捉える(→ Module 1-3「学習理論」参照)。
古典的条件づけと恐怖の獲得
Watson & Rayner(1920)の「Little Albert」実験は、恐怖反応が古典的条件づけ(classical conditioning)によって獲得され得ることを示した初期の実証例として知られる。中性刺激(白いネズミ)と無条件刺激(大きな音)の対呈示により、中性刺激が条件刺激となり恐怖反応(条件反応)を引き起こすようになる。この原理は恐怖症(phobia)の獲得モデルの基盤となった。
しかし、すべての恐怖症が直接的な条件づけ体験で説明できるわけではない。Rachman(1977)は恐怖獲得の3経路モデルとして、(1) 直接的条件づけ、(2) 観察学習(vicarious learning)、(3) 情報伝達(information transmission)を提唱した。また、Seligmanの準備性(preparedness)理論は、進化的に危険であった刺激(ヘビ・クモ・高所など)に対して恐怖条件づけが成立しやすいことを示し、汎用的な連合学習だけでは恐怖症の対象の偏りを説明できないことを指摘した。
オペラント条件づけと回避行動の維持
恐怖や不安に関連する障害において、回避行動(avoidance behavior)の維持はオペラント条件づけ(operant conditioning)の原理で説明される。不安を喚起する状況を回避することで不安が軽減され(負の強化)、回避行動が維持・強化される。
Mowrerの二要因理論
Key Concept: 二要因理論(two-factor theory) Mowrer(1947)が提唱した理論で、恐怖の獲得を古典的条件づけ(第一要因)で、恐怖に基づく回避行動の維持をオペラント条件づけにおける負の強化(第二要因)で説明する統合的枠組み。
Mowrerの二要因理論(two-factor theory)は、恐怖症や不安症の獲得と維持を二つの学習原理の統合で説明する。第一段階では古典的条件づけにより恐怖反応が獲得される。第二段階では、恐怖を引き起こす刺激・状況の回避が不安の軽減(負の強化)をもたらし、回避行動がオペラント条件づけにより維持される。回避行動の維持は、恐怖の消去(extinction)を妨げる。なぜなら、回避により条件刺激への曝露が生じないため、消去学習が進行しないからである。
この理論は系統的脱感作(systematic desensitization)やエクスポージャー療法(exposure therapy)の理論的根拠を提供している。回避を抑制し、恐怖刺激への曝露を促進することで消去学習を可能にするという治療論理である。
graph LR
subgraph "第一要因: 古典的条件づけ"
A["中性刺激<br>例: エレベーター"] -->|"対呈示"| B["無条件刺激<br>例: 閉じ込め体験"]
B --> C["恐怖反応の獲得"]
end
subgraph "第二要因: オペラント条件づけ"
C --> D["エレベーター回避"]
D -->|"負の強化<br>不安軽減"| E["回避行動の維持"]
E -->|"消去の阻害"| C
end
認知モデル¶
認知モデル(cognitive model)は、精神障害の発生・維持において認知過程——思考、信念、情報処理の様式——が中心的役割を果たすとする立場である。
Beckの認知理論
Key Concept: 認知の歪み(cognitive distortion) Beck(1967)が同定した、うつ病や不安症に特徴的な体系的な思考の偏り。情報処理における系統的誤謬であり、否定的な自動思考を生成・維持する。
Aaron T. Beck(1967, 1976)のうつ病の認知理論は、現代の認知行動療法(CBT)の理論的基盤となった最も影響力のある認知モデルである。Beckの理論は三つの水準の認知構造を仮定する。
- 否定的自動思考(negative automatic thoughts): 意識的で自発的に浮かぶ否定的な思考。「自分は無能だ」「誰も自分を好きではない」「状況は決して良くならない」といった内容を持つ。
- 認知の歪み(cognitive distortions): 自動思考を生み出す情報処理の系統的偏り。主な歪みとして以下がある。
- 全か無か思考(all-or-nothing thinking): 事象を二極端でのみ評価する
- 過度の一般化(overgeneralization): 一つの否定的事象から広範な否定的結論を導く
- 選択的抽象化(selective abstraction): 否定的側面のみに注目し肯定的側面を無視する
- 破局的思考(catastrophizing): 最悪の結果を予期する
- 心のフィルター(mental filter): 一つの否定的細部に固着する
- スキーマ(schema): 最も深い水準にある、自己・世界・未来に関する中核的信念。幼少期の経験を通じて形成され、通常は潜在的であるが、ストレス事象によって活性化されると否定的な自動思考を生成する。Beckの「認知の三徴(cognitive triad)」は、自己(「自分は無価値だ」)、世界(「世界は敵対的だ」)、未来(「状況は改善しない」)に対する否定的スキーマがうつ病の中核であるとする。
graph TD
subgraph "Beckの認知モデル"
A["早期経験"] --> B["スキーマの形成<br>中核的信念"]
B -->|"ストレス事象<br>により活性化"| C["認知の歪み<br>情報処理の偏り"]
C --> D["否定的自動思考"]
D --> E["抑うつ気分<br>行動の変化"]
E -->|"確認バイアス"| D
end
Beckの認知モデルには豊富な実証的支持がある。うつ病患者における否定的自動思考の増加や注意バイアス・記憶バイアスの存在は実験的に確認されている。また、認知療法(CT)および認知行動療法(CBT)の有効性を示すランダム化比較試験(RCT)のエビデンスが蓄積されている。ただし、認知の変化が症状改善に先行するのか、症状改善に伴って認知も改善するのかという因果関係の方向性については議論が残る。
Ellisの論理情動行動療法のABCモデル
Albert Ellis(1962)の論理情動行動療法(REBT: Rational Emotive Behavior Therapy)は、Beckと独立に認知的アプローチを発展させたものである。EllisのABCモデルは以下のように構成される。
- A(Activating event): 出来事(例: 試験に落ちた)
- B(Belief): 信念体系(例:「試験に落ちるなんて、自分は完全な失敗者だ」)
- C(Consequence): 情動的・行動的結果(例: 絶望感、引きこもり)
Ellisは、感情的苦悩の原因は出来事(A)そのものではなく、出来事に対する非合理的信念(irrational belief; B)にあると主張した。非合理的信念の特徴として、「〜すべきである(must)」「〜でなければならない(should)」といった絶対的要求(demandingness)、破局視(awfulizing)、低い欲求不満耐性(low frustration tolerance)、全体的自己評価(global self-rating)を挙げた。治療ではこれらの非合理的信念への論駁(D: Disputing)を行い、より柔軟で合理的な信念体系への転換を目指す。
精神力動的モデル¶
精神力動的モデル(psychodynamic model)は、Sigmund Freudの精神分析(psychoanalysis)に起源を持ち、無意識的な心理過程——抑圧された欲動・葛藤・幼少期の対象関係——が精神障害の基盤にあるとする立場である(→ Module 2-3「パーソナリティ理論: 精神力動的アプローチ」参照)。
精神力動的モデルの中核的仮定は以下のとおりである。
- 無意識的葛藤(unconscious conflict): イド(id)の欲動と超自我(superego)の道徳的要求との間の葛藤が、自我(ego)による適応的な処理を超えた場合に症状が生じる。
- 防衛機制(defense mechanisms): 不安に対処するために自我が用いる無意識的な心理的操作。抑圧(repression)、投影(projection)、否認(denial)、反動形成(reaction formation)、昇華(sublimation)などがある。防衛機制は適応的なものから不適応的なものまで階層的に分類される(Vaillant, 1977の防衛機制の階層モデル)。
- 幼少期の体験の重要性: 精神性的発達段階(口唇期・肛門期・男根期・潜伏期・性器期)における固着や、初期の対象関係のパターンが、成人期の精神障害の素因を形成する。
精神力動的モデルの科学的評価は複雑である。反証可能性の欠如はPopper以来繰り返し批判されてきた。フロイトの特定の理論(抑圧された記憶の回復、精神性的発達段階の詳細)については実証的支持が乏しい。一方で、無意識的過程の存在(暗黙的認知・感情処理)、幼少期の愛着パターンの長期的影響(→ Module 1-4「発達心理学」参照)、防衛機制の一部(抑制・否認)については認知科学・神経科学からの間接的支持がある。短期精神力動的心理療法の有効性についてはRCTによるエビデンスも蓄積されつつあるが、CBTと比較した場合の優位性は明確ではない(Leichsenring & Rabung, 2008)。
素因-ストレスモデル¶
Key Concept: 素因-ストレスモデル(diathesis-stress model) 精神障害の発症を、個人の脆弱性(素因: diathesis)と環境的ストレスの相互作用によって説明するモデル。素因のみ、またはストレスのみでは発症に至らず、両者が一定の閾値を超えて組み合わさった場合に障害が顕在化するとする。
基本概念¶
素因-ストレスモデル(diathesis-stress model)は、Meehl(1962)やZubin & Spring(1977)によって体系化された枠組みであり、精神障害の発症を素因(diathesis)とストレス(stress)の交互作用として説明する。素因とは障害に対する脆弱性を高める先行的要因であり、ストレスとは素因を活性化させる環境的出来事である。このモデルの核心は、素因が大きい個人はわずかなストレスで発症し得る一方、素因が小さい個人は重大なストレスに曝露されても発症しにくいという、素因とストレスの相互補完的関係にある。
graph TD
subgraph "素因-ストレスモデル"
A["素因<br>遺伝的脆弱性<br>認知的脆弱性<br>早期逆境体験"] --> C["閾値"]
B["ストレス<br>急性ストレス<br>慢性ストレス<br>日常的困難"] --> C
C -->|"閾値超過"| D["精神障害の発症"]
C -->|"閾値未満"| E["障害なし<br>または閾値下症状"]
end
素因の種類¶
遺伝的素因(genetic diathesis): 精神障害に対する遺伝的脆弱性。前述のGWAS研究が示すように、多くの精神障害はポリジェニックな遺伝的基盤を持つ。Caspi et al.(2003)の研究は、セロトニントランスポーター遺伝子(5-HTTLPR)の短い対立遺伝子を持つ個人がストレスフルなライフイベントに曝露された場合にうつ病の発症リスクが上昇するという遺伝子-環境交互作用(G×E interaction)を報告し、大きな注目を集めた。ただし、この知見の再現性については大規模メタ分析で否定的な結果も示されており(Culverhouse et al., 2018)、候補遺伝子アプローチによるG×E研究の方法論的課題が指摘されている。
認知的脆弱性(cognitive vulnerability): Beckのスキーマ理論における否定的スキーマや、Abramson et al.(1989)の絶望感理論における否定的帰属スタイル(内的・安定的・全般的な原因帰属)は認知的素因と位置づけられる。Temple-Wisconsin Cognitive Vulnerability to Depression(CVD)プロジェクトは、否定的認知スタイルを持つ大学生が後にうつ病エピソードを経験するリスクが高いことを前向きに示した(Alloy et al., 2006)。
早期の逆境体験(early adversity): 幼少期の虐待・ネグレクト・家庭内暴力への曝露は、成人期の精神障害の広範なリスク因子である。ACE(Adverse Childhood Experiences)研究(Felitti et al., 1998)は、逆境体験の累積数が精神障害を含む多様な健康問題のリスクと量-反応関係にあることを大規模に示した。早期逆境はHPA軸(視床下部-下垂体-副腎皮質軸)の調節異常やエピジェネティックな変化を通じて生物学的素因を形成し得るため、素因の種類を横断する要因でもある。
ストレスの種類¶
- 急性ストレス(acute stress): 離別、失業、自然災害など、比較的短期間に生じる重大なライフイベント。
- 慢性ストレス(chronic stress): 貧困、慢性疾患、介護負担など、長期的に持続するストレス要因。
- 日常的困難(daily hassles): 通勤、対人摩擦、時間的圧迫など、日常的に繰り返される小さなストレス。Lazarus & Folkman(1984)は、重大なライフイベントよりも日常的困難の累積がストレス反応と強く関連し得ることを示唆した。
差次的感受性モデル¶
Key Concept: 差次的感受性モデル(differential susceptibility model) Belsky(1997, 2009)が提唱したモデルで、特定の個人差特性(「感受性」遺伝子、気質等)を持つ個人は、ネガティブな環境にのみ脆弱であるのではなく、ポジティブな環境からも他者以上に恩恵を受けるとする理論。素因-ストレスモデルの拡張・修正として位置づけられる。
素因-ストレスモデルでは、素因は専らネガティブな意味を持つ(脆弱性因子=リスク因子)。これに対しBelsky(1997, 2009)の差次的感受性モデル(differential susceptibility model)は、「脆弱性」因子とされてきた特性を「環境への感受性(environmental sensitivity)」として再解釈する。感受性の高い個人は、劣悪な環境では確かに最も悪い結果を示すが、同時に、支持的・豊かな環境では最も良い結果を示す("for better and for worse")。
この違いは統計的には交互作用パターンの形状として識別される。素因-ストレスモデルが予測するのは、素因のある個人がストレス下でのみ悪化するパターン(交差的でない交互作用)であるのに対し、差次的感受性モデルが予測するのは、感受性の高い個人が良い環境でも悪い環境でも極端な結果を示す交差的交互作用(crossover interaction)である。
graph LR
subgraph "モデルの比較"
direction TB
A["素因-ストレスモデル"] --> B["脆弱な個人:<br>ストレス下で悪化のみ"]
A --> C["非脆弱な個人:<br>環境に左右されにくい"]
D["差次的感受性モデル"] --> E["高感受性個人:<br>悪い環境→最悪の結果<br>良い環境→最良の結果"]
D --> F["低感受性個人:<br>環境に左右されにくい"]
end
実証的には、5-HTTLPR短型対立遺伝子やドーパミン受容体遺伝子(DRD4)の7反復対立遺伝子などが差次的感受性マーカーの候補として検討されてきた。Bakermans-Kranenburg & van IJzendoorn(2011)のメタ分析は、DRD4 7Rを持つ子どもが、低質な養育環境では問題行動が増加するが、高質な養育環境では問題行動が最も少なくなるという差次的感受性パターンを支持した。ただし、候補遺伝子研究全体の再現性の問題は差次的感受性研究にも該当する。
近年では、Pluess(2015)のVantage Sensitivity(利点感受性)やBoyce & Ellis(2005)のBiological Sensitivity to Context(BSC: 文脈に対する生物学的感受性)など、類似の理論的枠組みも提案されており、環境感受性に関する統合的な理論化が進行している。
生物心理社会モデル¶
Key Concept: 生物心理社会モデル(biopsychosocial model) George L. Engel(1977)が提唱した、健康と疾病を生物学的・心理学的・社会的要因の相互作用として理解する統合的枠組み。従来の生物医学モデル(biomedical model)の還元主義的傾向への批判として提案された。
Engelの生物心理社会モデル¶
George L. Engel(1977)は、精神医学に限らず医学全体に対して、生物医学モデル(biomedical model)——疾病を生物学的病理に還元するモデル——の限界を指摘し、生物心理社会モデル(biopsychosocial model)を提唱した。このモデルは一般システム理論(von Bertalanffy)に依拠し、生物学的要因、心理学的要因、社会的要因が階層的に組織化されつつ相互に影響し合うという枠組みである。
| 水準 | 要因の例 |
|---|---|
| 生物学的(Biological) | 遺伝、神経伝達物質、脳構造、内分泌系、免疫系 |
| 心理学的(Psychological) | 認知スタイル、対処方略、パーソナリティ特性、自己効力感、学習歴 |
| 社会的(Social) | 社会的支援、社会経済的地位、文化的規範、家族関係、差別・偏見 |
統合的理解の意義¶
生物心理社会モデルの最大の意義は、精神障害の理解を単一の水準に還元することの不適切さを明示した点にある。うつ病を例にとれば、神経伝達物質の機能異常(生物学的)、否定的認知スタイル(心理学的)、社会的孤立や貧困(社会的)のいずれもが発症・維持に寄与し得る。治療においても、薬物療法(生物学的介入)、心理療法(心理学的介入)、社会的支援やリハビリテーション(社会的介入)を組み合わせた多面的アプローチが推奨される根拠をこのモデルは提供する。
graph TD
subgraph "生物心理社会モデル"
A["生物学的要因<br>遺伝・神経伝達物質・脳構造"] <-->|"相互作用"| B["心理学的要因<br>認知・学習・対処方略"]
B <-->|"相互作用"| C["社会的要因<br>対人関係・文化・SES"]
A <-->|"相互作用"| C
A --> D["精神障害の<br>発症・経過・転帰"]
B --> D
C --> D
end
批判と限界¶
生物心理社会モデルに対しては、その包括性ゆえの限界も指摘されている。Nassir Ghaemi(2010)は著書 The Rise and Fall of the Biopsychosocial Model において以下の批判を展開した。
- 具体的予測力の欠如: 「すべてが関連する」という枠組みは、特定の障害について何が最も重要な要因であるかを特定する能力に欠ける。理論としての反証可能性が低い。
- 折衷主義の問題: 生物学的・心理学的・社会的要因を「すべて考慮する」ことは、実際にはどの要因にどの程度の重みを置くかについての指針を提供しない。結果として、各臨床家が自身の専門性や志向に応じて都合よく解釈する折衷主義に陥りやすい。
- 方法論的困難: 三つの水準の要因の相互作用を実証的に検証するための方法論が確立されていない。変数の数が膨大になり、検定力の問題が生じる。
これらの批判は妥当な側面を持つが、Ghaemiの主張(特定の障害にはその障害に固有の最重要因を同定すべきであるという主張)もまた、障害の多因子的性質を過度に単純化するリスクを持つ。現時点では、生物心理社会モデルは完成された理論というよりも、精神障害の多次元性を認識するためのメタ理論的枠組み(heuristic framework)として位置づけるのが適切であろう。Research Domain Criteria(RDoC: → Section 1参照)のような、神経回路・遺伝子・行動の水準を横断的に統合しようとする研究枠組みは、生物心理社会モデルの精神をより実証可能な形で具現化する試みと見ることができる。
まとめ¶
- 生物学的モデルは精神障害の病因を脳の構造・機能・化学的過程に求める。神経伝達物質仮説(モノアミン仮説、ドーパミン仮説)は薬物療法の根拠を提供してきたが、単純な化学的不均衡モデルとしては修正が必要である。遺伝研究はポリジェニックな寄与を明らかにし、エピジェネティクスは遺伝と環境の橋渡しを提供する。
- 心理学的モデルは学習(行動モデル)、認知(認知モデル)、無意識的過程(精神力動的モデル)を通じて精神障害を説明する。Mowrerの二要因理論はエクスポージャー療法の、Beckの認知理論はCBTの理論的基盤となっている。
- 素因-ストレスモデルは個人の脆弱性と環境的ストレスの相互作用として発症を説明し、差次的感受性モデルはこれを拡張して環境感受性の「良い面」も包含する。
- 生物心理社会モデルは生物学的・心理学的・社会的要因の統合的理解を目指すメタ理論的枠組みであるが、具体的予測力の欠如が批判されている。
- Section 4(心理療法)では、これらの理論モデルがどのように治療的介入の設計に反映されているかを検討する。
用語集(Glossary)¶
| 用語 | 英語表記 | 定義 |
|---|---|---|
| 生物学的モデル | biological model | 精神障害を脳・神経系の生物学的異常に帰する理論的枠組み |
| モノアミン仮説 | monoamine hypothesis | うつ病の原因をセロトニン・ノルアドレナリン・ドーパミンの機能低下に求める仮説 |
| ドーパミン仮説 | dopamine hypothesis | 統合失調症の陽性症状をドーパミン活動の亢進で説明する仮説 |
| 遺伝率 | heritability | 集団内の表現型分散のうち遺伝的分散で説明される割合 |
| ゲノムワイド関連解析 | GWAS (Genome-Wide Association Study) | ゲノム全体にわたり疾患関連遺伝子座を網羅的に探索する手法 |
| エピジェネティクス | epigenetics | DNA配列の変化を伴わない後天的な遺伝子発現調節機構 |
| 二要因理論 | two-factor theory | 恐怖の獲得を古典的条件づけ、回避行動の維持をオペラント条件づけで説明するMowrerの理論 |
| 認知の歪み | cognitive distortion | うつ病や不安症に特徴的な体系的な思考の偏り |
| 認知の三徴 | cognitive triad | 自己・世界・未来に対する否定的スキーマ(Beck) |
| 防衛機制 | defense mechanisms | 不安に対処するために自我が用いる無意識的な心理的操作 |
| 素因-ストレスモデル | diathesis-stress model | 素因(脆弱性)とストレスの交互作用で発症を説明するモデル |
| 差次的感受性モデル | differential susceptibility model | 感受性の高い個人が良い環境・悪い環境の双方に強く反応するとするBelskyのモデル |
| 生物心理社会モデル | biopsychosocial model | 生物・心理・社会の三要因の相互作用で疾病を理解するEngelの枠組み |
| 遺伝子-環境交互作用 | gene-environment interaction (G×E) | 遺伝的要因と環境要因が非加算的に相互作用し表現型に影響すること |
確認問題¶
Q1: 統合失調症の修正ドーパミン仮説において、陽性症状と陰性症状はそれぞれどのような神経経路のドーパミン機能異常と関連付けられているか説明せよ。
A1: 修正ドーパミン仮説では、陽性症状(幻覚・妄想)は中脳辺縁系経路におけるドーパミンの過活動と関連付けられ、陰性症状(意欲低下・感情鈍麻)および認知機能障害は中脳皮質経路(特に前頭前野)におけるドーパミン機能の低下と関連付けられている。すなわち、皮質下のドーパミン過活動と皮質のドーパミン低活動が共存するという二方向の異常が想定されている。
Q2: Mowrerの二要因理論を用いて、エレベーター恐怖症の獲得と維持の機序を説明せよ。また、この理論がエクスポージャー療法の理論的根拠をどのように提供するか述べよ。
A2: 第一要因(古典的条件づけ)として、エレベーター内での恐怖体験(例: 閉じ込め)によりエレベーターが恐怖の条件刺激となる。第二要因(オペラント条件づけ)として、エレベーターを回避することで不安が軽減され(負の強化)、回避行動が強化・維持される。回避により恐怖刺激への曝露が生じないため消去学習が進行しない。エクスポージャー療法は、回避を抑制して恐怖刺激への計画的曝露を促進し、消去学習を可能にするという論理に基づく。これは二要因理論の「回避が消去を阻害する」という分析に直接対応している。
Q3: 素因-ストレスモデルと差次的感受性モデルの違いを、「素因」の意味づけと予測される結果パターンの観点から説明せよ。
A3: 素因-ストレスモデルでは「素因」は脆弱性因子(リスク因子)として専らネガティブな意味を持ち、素因のある個人はストレス下でのみ悪い結果を示す(ストレスなし条件では素因の有無で差がない)。これに対し差次的感受性モデルでは、「素因」は「環境への感受性」として再解釈され、感受性の高い個人は劣悪な環境で最も悪い結果を示すだけでなく、支持的な環境では最も良い結果を示す("for better and for worse")。統計的には、素因-ストレスモデルは非交差的交互作用を、差次的感受性モデルは交差的交互作用(crossover interaction)を予測する。
Q4: Engelの生物心理社会モデルの意義と、Ghaemiによる批判の要点をそれぞれ述べよ。
A4: 生物心理社会モデルの意義は、精神障害を単一の水準(生物学的要因のみ等)に還元することの不適切さを明示し、生物学的・心理学的・社会的要因の相互作用として多面的に理解する枠組みを提供した点にある。これにより薬物療法・心理療法・社会的介入を組み合わせた多面的アプローチの理論的根拠が示された。一方、Ghaemiの批判の要点は、(1) 「すべてが関連する」という枠組みは特定の障害にとって何が最も重要な要因かを特定する力に欠け具体的予測力がないこと、(2) 各要因への重み付けの指針がないため臨床家の恣意的な折衷主義に陥りやすいこと、(3) 三水準の相互作用を実証的に検証する方法論が確立されていないことである。
Q5: エピジェネティクスの知見が、精神障害の遺伝と環境の関係に関する理解にどのような貢献をしているか、一卵性双生児の発症不一致の問題に触れつつ説明せよ。
A5: 一卵性双生児はDNA配列を共有するにもかかわらず、統合失調症(一致率約50%)をはじめ多くの精神障害で発症の不一致が見られる。エピジェネティクスは、DNA配列の変化を伴わずに遺伝子発現が後天的に調節される機構(DNAメチル化・ヒストン修飾等)を明らかにし、同一の遺伝子を持つ双生児でも異なる環境曝露により遺伝子発現パターンが異なり得ることを分子レベルで説明する。Weaver et al.(2004)のラット研究やMcGowan et al.(2009)のヒト研究は、早期の養育環境がストレス反応に関わる遺伝子のメチル化状態を変化させることを示した。これにより、「遺伝か環境か」という二項対立ではなく、環境が遺伝子発現を修飾するという動的な相互作用の理解が進んでいる。