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Module 3-1 - Section 2: 記憶の神経基盤(発展)

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 3-1: 認知神経科学
前提セクション なし
想定学習時間 5時間

導入

Module 1-1 Section 2(記憶)では、多重貯蔵モデル、ワーキングメモリモデル、記憶の分類体系(宣言的記憶と非宣言的記憶、エピソード記憶と意味記憶)といった記憶の認知的枠組みを学んだ。また Module 2-1(神経・生理心理学)では、脳の解剖学的構造として海馬を含む辺縁系、大脳皮質の機能局在、神経伝達物質系の基本を習得した。

本セクションでは、これらの知識を統合し、記憶の各側面を支える神経基盤を認知神経科学の視点から詳細に検討する。具体的には、(1) 海馬と内側側頭葉が宣言的記憶においてどのような役割を果たすか、(2) 前頭前野がワーキングメモリをいかに実現するか、(3) 記憶の固定化(consolidation)に関する2つの主要理論の対立、(4) 海馬における空間記憶の細胞レベルの基盤を取り上げる。これらは認知心理学で記述された記憶現象に生物学的実体を与えるものであり、認知神経科学の中核的テーマである。


海馬と内側側頭葉の役割

H.M.症例と宣言的記憶

Key Concept: 内側側頭葉(medial temporal lobe; MTL) 海馬、海馬傍回(嗅内皮質、周嗅皮質、海馬傍皮質)から構成される側頭葉内側面の領域群。宣言的記憶(エピソード記憶・意味記憶)の符号化と初期の固定化に不可欠な役割を担う。

記憶の神経基盤に関する理解は、患者H.M.(ヘンリー・モレゾン, Henry Molaison, 1926-2008)の症例研究から飛躍的に進展した。H.M.は難治性てんかんの治療のため、1953年にウィリアム・スコヴィル(William Scoville)によって両側の内側側頭葉(海馬、扁桃体、嗅内皮質を含む)の切除術を受けた。術後、てんかん発作は軽減したが、重篤な前向性健忘(anterograde amnesia)---新しい出来事を長期記憶として形成する能力の喪失---が生じた。H.M.はまた、手術前の数年間にわたる逆向性健忘(retrograde amnesia)も示した。

ブレンダ・ミルナー(Brenda Milner)らによる数十年にわたる研究は、H.M.の記憶障害に関して以下の重要な知見を明らかにした。

  • 宣言的記憶の選択的障害: 新しいエピソード記憶と意味記憶の形成が著しく障害された。日々の出来事を覚えられず、検査者と何度会っても初対面のように接した。
  • 非宣言的記憶の保存: 手続き的記憶は比較的保存されていた。鏡映描写課題(鏡に映った星形をなぞる)の成績は練習とともに向上し、その技能は日をまたいで保持された。しかし、H.M.は練習した記憶(エピソード記憶)を持たなかった。
  • 短期記憶の保存: 数字スパン課題の成績は正常範囲内であり、注意を逸らさなければ情報を短時間保持できた。これはワーキングメモリと長期記憶への固定化が異なるシステムに依拠することを示唆する。
graph TD
    MTL["内側側頭葉(MTL)損傷"] --> AG["前向性健忘"]
    MTL --> RG["逆向性健忘(時間的勾配あり)"]
    MTL -.->|保存| STM["短期記憶・ワーキングメモリ"]
    MTL -.->|保存| PM["手続き的記憶"]
    MTL -.->|保存| PRI["プライミング"]
    AG --> EP["エピソード記憶形成の障害"]
    AG --> SEM["意味記憶形成の障害"]

海馬の解剖と機能

Key Concept: 海馬(hippocampus) 内側側頭葉に位置する、タツノオトシゴ状の皮質構造。宣言的記憶の符号化、空間記憶、文脈情報の処理に中心的役割を果たす。CA1, CA3, 歯状回(dentate gyrus)などの下位領域から構成される。

海馬は特徴的な三シナプス回路(trisynaptic circuit)を有する。嗅内皮質(entorhinal cortex; EC)の第II層から貫通線維(perforant path)が歯状回(dentate gyrus; DG)に投射し(第1シナプス)、歯状回の顆粒細胞が苔状線維(mossy fiber)を通じてCA3錐体細胞に投射し(第2シナプス)、CA3はシャッファー側枝(Schaffer collateral)を介してCA1に投射する(第3シナプス)。CA1からの出力は海馬台(subiculum)を経由して嗅内皮質の深層に戻り、さらに新皮質の広範な領域に投射される。

graph LR
    EC["嗅内皮質(EC)<br/>第II層"] -->|貫通線維| DG["歯状回(DG)"]
    DG -->|苔状線維| CA3["CA3"]
    CA3 -->|シャッファー側枝| CA1["CA1"]
    CA1 --> SUB["海馬台"]
    SUB --> ECD["嗅内皮質(EC)<br/>深層"]
    ECD --> NEO["新皮質"]
    CA3 -->|反回結合| CA3

各下位領域には異なる計算論的役割が想定されている。歯状回はパターン分離(pattern separation)---類似した入力を異なる表象に変換する機能---に関与し、CA3は自己連合的な反回結合(recurrent collateral)を持つことからパターン補完(pattern completion)---部分的手がかりから完全な記憶を復元する機能---に関与するとされる。CA1は歯状回-CA3経路からの処理済み情報と嗅内皮質からの直接入力を比較統合し、記憶の出力を形成する。

内側側頭葉記憶システムの階層構造

H.M.以降の神経心理学的・神経画像研究により、内側側頭葉の記憶機能はより精緻に理解されるようになった。ラリー・スクワイア(Larry Squire)とスチュアート・ゼーラ(Stuart Zola)らは、内側側頭葉記憶システムを以下のような階層構造として整理した。

  • 海馬傍皮質(parahippocampal cortex)周嗅皮質(perirhinal cortex) は、それぞれ空間的文脈情報と物体に関する情報を処理し、嗅内皮質に投射する。
  • 嗅内皮質(entorhinal cortex) は海馬への主要な入力源であり、新皮質の多感覚情報を統合して海馬に送る。
  • 海馬 はこれらの情報を文脈的・関係的に結合し、エピソード的表象を形成する。

この階層構造は、損傷の範囲が広いほど記憶障害が重篤になるという臨床的観察と一致する。海馬のみの損傷ではエピソード記憶の障害が主であるが、周囲の皮質を含むより広範な損傷では意味記憶や再認記憶にも障害が及ぶ。


前頭前野と作業記憶

Key Concept: 前頭前野(prefrontal cortex; PFC) 前頭葉の前方に位置する連合皮質。ワーキングメモリ、実行機能、意思決定、行動の計画と制御に中核的に関与する。背外側前頭前野(dlPFC)、腹外側前頭前野(vlPFC)、内側前頭前野(mPFC)などに下位区分される。

ワーキングメモリの神経基盤

Module 1-1で学んだバドリーのワーキングメモリモデルは認知レベルの理論であるが、認知神経科学はこのモデルの各構成要素に対応する神経基盤の解明を進めてきた。

ジョアキム・フスター(Joaquin Fuster)およびパトリシア・ゴールドマン=ラキッチ(Patricia Goldman-Rakic)の先駆的な単一ニューロン記録研究は、サルの遅延反応課題(delayed response task)の遅延期間中に背外側前頭前野(dorsolateral prefrontal cortex; dlPFC)のニューロンが持続的な発火活動を示すことを明らかにした。この持続的活動は、刺激が物理的に消失した後も情報をオンラインで保持する「ワーキングメモリの神経的実体」と解釈された。

ヒトを対象としたfMRI研究により、ワーキングメモリの構成要素と脳領域の対応が以下のように示されている。

ワーキングメモリ構成要素 主要な神経基盤
音韻ループ(音韻ストア) 左下頭頂小葉(縁上回、BA 40)
音韻ループ(構音リハーサル) 左下前頭回(ブローカ野、BA 44/45)、補足運動野
視空間スケッチパッド 右半球の頭頂葉後部、右前頭前野
中央実行系 背外側前頭前野(BA 9/46)、前帯状皮質(ACC)
エピソードバッファ 左前頭前野、側頭頭頂接合部

持続的活動モデルとシナプス・モデル

ワーキングメモリの神経メカニズムに関しては、2つの主要な仮説が議論されている。

持続的活動モデル(persistent activity model) は、前述のFuster、Goldman-Rakicらの知見に基づき、前頭前野の神経回路内での反回興奮(recurrent excitation)が情報を保持するとする。ニューロン群の持続的発火がワーキングメモリの実体であり、この活動が途絶えれば情報は失われる。

これに対し、近年提唱された シナプス・モデル(synaptic model / activity-silent model) は、ワーキングメモリ内容が必ずしも持続的な神経活動として維持されるわけではなく、シナプス結合の短期的な可塑性変化(短期増強など)として「活動サイレント」な状態で保持されうるとする。マーク・スターケス(Mark Stokes)らは、ワーキングメモリ内容が発火パターンとしては消失した後も、適切な刺激(probe)によって復元可能であることをデコーディング分析で示し、この仮説を支持する証拠を提出した。

現在の理解では、両方のメカニズムが状況に応じて関与すると考えられている。注意の焦点にある情報は持続的活動によって維持され、焦点外の情報はシナプス的に保持されるという統合的見解が有力である。

前頭前野による記憶の制御的処理

前頭前野はワーキングメモリの保持だけでなく、長期記憶の符号化と検索の制御にも関与する。左腹外側前頭前野(vlPFC)は意味的精緻化を伴う符号化に関与し、この領域の活動量は後の記憶成績を予測する(subsequent memory effect)。右前頭前野は記憶の検索努力やモニタリングに関与するとされる。これは半球符号化/検索非対称性(Hemispheric Encoding/Retrieval Asymmetry; HERA)モデルとしてタルヴィングが提唱した枠組みであるが、後続研究ではこの非対称性が絶対的なものではなく課題や材料に依存することが示されている。


記憶の固定化

Key Concept: 記憶の固定化(memory consolidation) 新たに符号化された記憶が時間の経過とともに安定化し、長期的に保持される過程。シナプスレベルの固定化(数時間以内)とシステムレベルの固定化(数週間〜数年)に区分される。

システム固定化の2つの理論

記憶が最初に海馬に依存する状態から、最終的に新皮質に独立して保持されるようになる過程(システム固定化)については、2つの対立する理論が提唱されている。

標準固定化理論

Key Concept: 標準固定化理論(standard consolidation theory; SCT) スクワイアらが提唱した理論。新しい記憶は当初は海馬と新皮質の両方に依存するが、時間経過に伴い海馬の関与が減少し、最終的には新皮質のみで記憶が維持されるとする。

標準固定化理論によれば、海馬は新皮質の分散した記憶痕跡を一時的に結合する「索引」として機能する。記憶が繰り返し再活性化される中で、新皮質間の直接的な結合が強化され、やがて海馬なしで記憶を維持・検索できるようになる。この理論の主要な予測は、古い記憶(十分に固定化された記憶)は海馬損傷の影響を受けないというものであり、H.M.をはじめとする内側側頭葉損傷患者において逆向性健忘に時間的勾配(temporal gradient)---最近の記憶ほど失われ、遠い過去の記憶は保存される---が見られるという臨床的知見と整合する。

多重痕跡理論

Key Concept: 多重痕跡理論(multiple trace theory; MTT) モリス・モスコヴィッチ(Morris Moscovitch)とリン・ナデル(Lynn Nadel)が1997年に提唱した理論。エピソード記憶の想起には、記憶の古さにかかわらず常に海馬が必要であるとする。

多重痕跡理論は、記憶が想起されるたびに海馬に新たな痕跡(trace)が形成されるとする。したがって、古い記憶ほど多くの痕跡を持ち、海馬の部分的損傷に対して頑健になる。しかし、完全な海馬損傷はいかに古いエピソード記憶であっても障害するとこの理論は予測する。

標準固定化理論との核心的な違いは、意味記憶とエピソード記憶の扱いにある。多重痕跡理論では、意味記憶は標準固定化理論が主張するように新皮質に移行しうるが、エピソード記憶は時間的・空間的文脈の情報を保持するために海馬への依存が永続するとされる。

graph TD
    subgraph "標準固定化理論(SCT)"
        NEW1["新しい記憶"] --> HC1["海馬 + 新皮質"]
        HC1 -->|時間経過| NEO1["新皮質のみ"]
        NEO1 -->|"海馬不要"| RET1["検索"]
    end
    subgraph "多重痕跡理論(MTT)"
        NEW2["新しい記憶"] --> HC2["海馬痕跡1 + 新皮質"]
        HC2 -->|再活性化| HC3["海馬痕跡1,2,3... + 新皮質"]
        HC3 -->|"エピソード記憶: 海馬常に必要"| RET2["検索"]
    end

理論的対立の現状

両理論の検証は、脳損傷研究と神経画像研究の両方から進められている。標準固定化理論を支持する証拠として、海馬損傷患者が遠い過去の個人的出来事を詳細に想起できる事例が挙げられる。一方、多重痕跡理論を支持する証拠としては、fMRI研究において遠い過去のエピソード記憶の想起時にも海馬の活動が観察される知見がある。

近年、両理論を統合する試みとして、モスコヴィッチらは 痕跡変換理論(trace transformation theory) を提唱した。この理論によれば、エピソード記憶は時間とともに細部(detail)が失われ、要旨(gist)に変換される。細部の豊かなエピソード的想起は海馬に依存し続けるが、意味化・スキーマ化された記憶は新皮質で維持可能となる。この見方は、古い記憶が「保存されている」ように見えても質的に変化している可能性を示唆する。

睡眠と記憶の固定化

システム固定化の過程において、睡眠が重要な役割を果たすことが示されている。海馬の鋭波・リップル(sharp-wave ripple)は、ノンレム睡眠中に新皮質の徐波振動(slow oscillation)および視床の紡錘波(sleep spindle)と時間的に協調して生じる。この協調的活動が、覚醒時に符号化された海馬の記憶表象を新皮質に再生(replay)し、システム固定化を促進するとされる。

ギューリアーニャ・ボーン(Jan Born)らの研究は、学習後の睡眠が宣言的記憶の保持を促進すること、特にノンレム睡眠の徐波段階がこの効果に重要であることを実験的に示した。


場所細胞、グリッド細胞と空間記憶

場所細胞の発見

Key Concept: 場所細胞(place cell) 海馬に存在し、動物が特定の空間的位置にいるときに選択的に発火するニューロン。ジョン・オキーフ(John O'Keefe)が1971年にラットの海馬で発見した。各場所細胞は固有の場所受容野(place field)を持つ。

オキーフは、自由に行動するラットの海馬CA1領域から単一ニューロンの活動を記録し、特定のニューロンが環境内の特定の位置でのみ活発に発火することを発見した。この発見に基づき、オキーフとリン・ナデル(Lynn Nadel)は1978年に『認知地図としての海馬(The Hippocampus as a Cognitive Map)』を著し、海馬が空間環境の内的表象---認知地図(cognitive map)---を形成するシステムであるとする理論を提唱した。

場所細胞の集団活動は環境全体をカバーし、動物の現在位置を表現する。注目すべきは、場所細胞の発火パターンが環境が変化すると再配置(remapping)されることであり、これは海馬が異なる環境を区別する表象を形成する能力を持つことを示す。

グリッド細胞の発見

Key Concept: グリッド細胞(grid cell) 内側嗅内皮質(medial entorhinal cortex; mEC)に存在し、動物が環境内を移動する際に規則的な六角格子状のパターンで発火するニューロン。マイ=ブリット・モーセル(May-Britt Moser)とエドヴァルド・モーセル(Edvard Moser)が2005年に発見した。

モーセル夫妻は、嗅内皮質のニューロンが海馬の場所細胞とは質的に異なる空間的発火パターンを示すことを発見した。グリッド細胞は環境内の複数の位置で発火するが、その発火位置は正三角形の格子(hexagonal grid)を形成する。各グリッド細胞は固有のスケール(格子間隔)、位相(格子のオフセット)、方位(格子の回転角度)を持ち、嗅内皮質の背腹軸に沿ってスケールが系統的に増大する。

graph TD
    subgraph "空間記憶の神経システム"
        GC["グリッド細胞<br/>(内側嗅内皮質)<br/>六角格子パターン"] --> PC["場所細胞<br/>(海馬CA1/CA3)<br/>特定位置で発火"]
        HD["頭方向細胞<br/>(乳頭前核等)<br/>頭の向きに対応"] --> PC
        BC["境界細胞<br/>(嗅内皮質・海馬台)<br/>環境の境界に対応"] --> PC
        PC --> SM["空間記憶・<br/>認知地図の形成"]
    end

空間記憶システムの構成要素

場所細胞とグリッド細胞に加え、空間記憶には以下の細胞類型も関与する。

  • 頭方向細胞(head direction cell): 動物の頭が特定の方向を向いているときに発火する。乳頭前核(anterodorsal thalamic nucleus)、前海馬台、嗅内皮質などに分布する。内的コンパスとして機能する。
  • 境界細胞(border cell / boundary vector cell): 環境の壁や端からの特定の距離・方向に動物がいるときに発火する。嗅内皮質と海馬台に存在する。

これらの細胞群が協調的に機能することで、自己位置の推定(self-localization)、経路統合(path integration)---自己運動情報に基づく位置の更新---、空間的ナビゲーションが可能になる。

ヒトにおける空間記憶と海馬

ヒトにおいても海馬が空間記憶に重要であることが、複数の証拠から示されている。ロンドンのタクシー運転手を対象としたエレノア・マグワイア(Eleanor Maguire)らの研究(2000)は、広大な市街地の空間知識を長年にわたって獲得・使用するタクシー運転手の後部海馬が、対照群に比べて有意に大きいことを構造的MRIによって示した。さらに、運転歴の長さと後部海馬の体積には正の相関が認められた。

また、仮想現実(VR)環境を用いたfMRI研究では、仮想空間内でのナビゲーション中にヒトの海馬が活動すること、そしてグリッド細胞様の六角格子パターンがfMRI信号として検出されること(Doeller, Barry, & Burgess, 2010)が報告されている。

オキーフとモーセル夫妻は、空間記憶の神経基盤の発見により2014年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。


まとめ

  • H.M.症例は、内側側頭葉(特に海馬)が宣言的記憶の符号化に不可欠である一方、短期記憶・ワーキングメモリや手続き的記憶は別のシステムに依拠することを明らかにした。
  • 海馬の三シナプス回路は、パターン分離(歯状回)とパターン補完(CA3)という相補的な計算を実現し、記憶の符号化・検索を支える。
  • 前頭前野(特にdlPFC)はワーキングメモリの神経基盤であり、持続的活動とシナプス的保持の両メカニズムが関与する。前頭前野はまた、長期記憶の符号化と検索の制御的処理にも関与する。
  • 記憶の固定化に関しては、標準固定化理論(海馬依存→新皮質独立)と多重痕跡理論(エピソード記憶は常に海馬に依存)が対立し、痕跡変換理論がその統合を試みている。睡眠中の海馬-新皮質間の協調的再活性化がシステム固定化を促進する。
  • 海馬の場所細胞、嗅内皮質のグリッド細胞、および頭方向細胞・境界細胞の協調的活動が空間記憶の神経基盤を構成する。
  • 次のセクション(→ Module 3-1, Section 3「言語の神経基盤」)では、記憶と密接に関連する言語機能の神経基盤を扱う。言語処理は意味記憶と深く結びつき、またワーキングメモリの音韻ループが言語処理を支えるなど、本セクションの内容との関連が大きい。

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
内側側頭葉 medial temporal lobe (MTL) 海馬、海馬傍回(嗅内皮質、周嗅皮質、海馬傍皮質)から構成される領域群。宣言的記憶に不可欠
海馬 hippocampus 内側側頭葉に位置する皮質構造。宣言的記憶の符号化と空間記憶に中心的役割を果たす
前向性健忘 anterograde amnesia 損傷後の新しい記憶を形成できない状態
逆向性健忘 retrograde amnesia 損傷前の記憶が失われる状態。時間的勾配を伴うことが多い
三シナプス回路 trisynaptic circuit 嗅内皮質→歯状回→CA3→CA1を経る海馬の主要な神経回路
パターン分離 pattern separation 類似した入力を異なる神経表象に変換する計算過程。歯状回が担う
パターン補完 pattern completion 部分的な手がかりから完全な記憶パターンを復元する過程。CA3の反回結合が関与
前頭前野 prefrontal cortex (PFC) 前頭葉前方の連合皮質。ワーキングメモリ、実行機能、記憶の制御的処理に関与
背外側前頭前野 dorsolateral prefrontal cortex (dlPFC) ワーキングメモリの保持・操作と実行機能の中核を担う前頭前野の下位領域
記憶の固定化 memory consolidation 新しい記憶が安定化し長期的に保持される過程
標準固定化理論 standard consolidation theory (SCT) 記憶が海馬依存から新皮質独立へと移行するとする理論
多重痕跡理論 multiple trace theory (MTT) エピソード記憶の想起には常に海馬が必要であるとする理論
痕跡変換理論 trace transformation theory エピソード記憶が時間とともに要旨に変換され、海馬依存性が変化するとする理論
場所細胞 place cell 海馬に存在し、特定の空間位置で選択的に発火するニューロン
グリッド細胞 grid cell 内側嗅内皮質に存在し、六角格子状パターンで発火するニューロン
頭方向細胞 head direction cell 動物の頭が特定の方向を向いているときに発火するニューロン
境界細胞 border cell 環境の境界からの特定距離・方向で発火するニューロン
鋭波リップル sharp-wave ripple 海馬で生じる高周波振動。記憶の再活性化と固定化に関与

確認問題

Q1: H.M.症例が記憶研究に与えた影響について、H.M.に見られた記憶障害のパターン(障害された機能と保存された機能)を整理したうえで説明せよ。

A1: H.M.は両側の内側側頭葉切除後に重篤な前向性健忘を示し、新しいエピソード記憶と意味記憶の形成が著しく障害された。一方、短期記憶(数字スパン課題の正常な成績)、手続き的記憶(鏡映描写課題の学習と保持)、プライミングは保存された。また、手術のかなり前の遠隔記憶は比較的保存されていた。この障害パターンは以下の重要な示唆を与えた。(1) 内側側頭葉(海馬)が宣言的記憶の符号化に不可欠であること、(2) 短期記憶/ワーキングメモリと長期記憶は異なる神経システムに依存すること、(3) 宣言的記憶と非宣言的記憶(手続き的記憶、プライミング)は解離可能な神経システムによって支えられていること、(4) 記憶の固定化には時間がかかり、古い記憶は海馬から独立して新皮質に保持されうること。

Q2: 海馬の三シナプス回路におけるパターン分離とパターン補完の計算論的役割を説明し、これらが記憶の符号化・検索にどのように寄与するか論じよ。

A2: 海馬の三シナプス回路は、嗅内皮質→歯状回→CA3→CA1の経路から成る。歯状回はパターン分離を担い、嗅内皮質から入力される類似した経験(例: 今日の昼食と昨日の昼食)を互いに区別可能な異なる神経表象に変換する。歯状回の顆粒細胞はスパースな活動パターン(少数のニューロンのみが活動する)を示し、これがパターン分離に適した計算を実現する。CA3は豊富な反回結合を持つ自己連合ネットワークであり、パターン補完を担う。記憶の検索時に部分的な手がかり(例: ある場所の匂い)が入力されると、CA3の反回結合が完全な記憶パターン(そこで起きた出来事の全体像)を復元する。CA1はこれらの処理結果を統合し、嗅内皮質からの直接入力と比較することで、記憶の出力を形成する。この回路構成により、海馬は類似した経験を混同せずに符号化し(パターン分離)、わずかな手がかりからでも特定の記憶を正確に検索する(パターン補完)ことが可能になる。

Q3: 標準固定化理論と多重痕跡理論の主張を比較し、両理論の対立点と、それぞれを支持する証拠を述べよ。

A3: 標準固定化理論(SCT)は、新しい記憶は当初海馬と新皮質の両方に依存するが、時間経過とともに海馬の関与が減少し、最終的に新皮質のみで記憶が維持されるとする。多重痕跡理論(MTT)は、意味記憶については同様の移行を認めるが、エピソード記憶については記憶の古さにかかわらず海馬が常に必要であるとする。核心的対立点は「古いエピソード記憶の想起に海馬が必要か否か」である。SCTを支持する証拠として、内側側頭葉損傷患者の逆向性健忘に時間的勾配が見られること(古い記憶ほど保存される)が挙げられる。MTTを支持する証拠として、fMRI研究において遠い過去のエピソード記憶想起時にも海馬の活動が観察されること、および完全な海馬損傷では遠隔エピソード記憶にも障害が及ぶとする臨床報告がある。近年の痕跡変換理論は、記憶が時間とともに細部から要旨へ変換されるという観点で両理論の統合を試みている。

Q4: 場所細胞とグリッド細胞の発火特性の違いを説明し、これらの細胞群が空間記憶・ナビゲーションにどのように寄与するか述べよ。

A4: 場所細胞は海馬(主にCA1, CA3)に存在し、動物が環境内の特定の位置にいるときのみ選択的に発火する。各場所細胞は1つの環境に対して1つの場所受容野を持ち、場所細胞の集団が環境全体をカバーすることで動物の現在位置を表現する。グリッド細胞は内側嗅内皮質に存在し、環境内の複数の位置で規則的に発火する。発火位置は正三角形の六角格子パターンを形成し、各グリッド細胞は固有のスケール・位相・方位を持つ。嗅内皮質の背腹軸に沿ってスケールが系統的に増大する。機能的には、グリッド細胞は距離と方向のメトリック情報(空間の座標系)を提供し、場所細胞はその情報を環境特異的な場所表象に変換すると考えられる。頭方向細胞(方位情報)や境界細胞(環境の境界情報)と合わせ、これらの細胞群が協調することで、自己位置推定、経路統合、空間ナビゲーション、そして空間的文脈に結びついたエピソード記憶の形成が可能になる。

Q5: 前頭前野のワーキングメモリ機能について、持続的活動モデルとシナプス・モデルの2つの仮説を比較し、それぞれの実験的根拠を説明せよ。

A5: 持続的活動モデルは、ワーキングメモリの情報が前頭前野ニューロンの持続的な発火活動によって維持されるとする。FusterおよびGoldman-Rakicらは、サルの遅延反応課題において、遅延期間中にdlPFCのニューロンが刺激消失後も持続的に発火し続けることを示した。この反回興奮による持続的活動がワーキングメモリの実体であり、活動が途絶えれば情報は失われると考える。シナプス・モデル(activity-silent model)は、ワーキングメモリ情報が必ずしも持続的発火として維持されるわけではなく、シナプス結合の短期的可塑性変化として「活動サイレント」な状態で保持されうるとする。Stokesらは、マルチボクセルパターン分析(MVPA)を用いて、ワーキングメモリ内容が発火パターンとしては検出できなくなった後も、適切な刺激によってパターンが復元されることを示した。現在の統合的見解では、注意の焦点にある項目は持続的活動で維持され、焦点外の項目はシナプス的に保持されるという二重メカニズムが有力視されている。