Module 3-2 - Section 3: WEIRD問題¶
セクション情報¶
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| モジュール | Module 3-2: 文化心理学・進化心理学 |
| 前提セクション | Section 1, 2 |
| 想定学習時間 | 4時間 |
導入¶
Section 1では、文化心理学の基礎として、個人主義-集団主義の次元、相互独立的自己観と相互協調的自己観、分析的思考と包括的思考といった文化差の枠組みを導入した。これらの知見は文化と心理の関係について重要な洞察を提供するが、同時に根本的な問いを突きつける。そもそも心理学の知見はどのような人々のデータに基づいているのか、そしてそれらの知見はどこまで普遍的であるのか。
2010年、Joseph Henrich, Steven J. Heine, & Ara Norenzayan が Behavioral and Brain Sciences に発表した論文 "The weirdest people in the world?" は、この問いに対する体系的な回答を提示し、行動科学全体に衝撃を与えた。彼らはWEIRD(Western, Educated, Industrialized, Rich, Democratic)社会の成員が人類全体の中でむしろ「外れ値」であることを多くの実証的証拠によって示した。本セクションでは、WEIRD問題の実態、影響領域、そしてその克服に向けた取り組みを検討する。
WEIRD問題の発見と定式化¶
Henrich et al.(2010)の問題提起¶
Key Concept: WEIRD(Western, Educated, Industrialized, Rich, Democratic) 心理学を含む行動科学の研究参加者が、西洋の(Western)、高学歴の(Educated)、工業化された(Industrialized)、裕福な(Rich)、民主主義的な(Democratic)社会の成員に偏っていることを示す頭字語。Henrich, Heine, & Norenzayan(2010)が提唱した。
Henrich et al.(2010)の論文の核心は、二重の主張にある。第一に、行動科学者は人間の心理や行動に関する広範な主張を、もっぱらWEIRD社会から抽出されたサンプルに基づいて行っている。第二に、比較データベースを検討すると、WEIRD社会の成員は人類全体の中で特異な存在であり、多くの心理的変数において外れ値(outlier)に位置する。
この問題が単なるサンプリング上の技術的課題ではなく、科学としての心理学の妥当性に関わる根本問題であるのは、研究者がWEIRD社会のデータから得た知見を暗黙のうちに人類普遍の法則として一般化してきたためである。
サンプル偏りの実態¶
Henrichらに先立ち、Jeffrey Arnett(2008)はAPA(アメリカ心理学会)の主要6分野の学術誌を分析し、掲載論文の参加者の68%が米国人であり、さらに14%が米国以外の英語圏4か国(イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)の出身者であることを示した。ヨーロッパ出身は13%、アジア出身は3%、ラテンアメリカ・アフリカ・中東出身者は各1%未満であった。つまり、世界人口の約5%を占めるにすぎない米国の参加者が、心理学研究の約7割を占めていた。
graph LR
A["心理学研究のサンプル構成<br>Arnett, 2008"] --> B["米国: 68%"]
A --> C["その他英語圏: 14%"]
A --> D["ヨーロッパ: 13%"]
A --> E["アジア: 3%"]
A --> F["その他: 2%未満"]
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style C fill:#e67e22,color:#fff
style D fill:#f1c40f,color:#000
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style F fill:#95a5a6,color:#fff
さらにArnett(2008)は、編集体制にも偏りがあることを指摘した。分析対象6誌の編集長9名は全員が米国の大学に所属しており、副編集長の82%、編集委員の82%も米国在住であった。このことは、どのような研究が出版に値するとみなされるか、どのような研究デザインが「標準的」とされるかという規範自体が、米国中心に形成されてきたことを意味する。
Henrich et al.(2010)はArnettの分析を拡張し、行動科学のトップジャーナル6誌に2003年から2007年に掲載された論文を分析した。その結果、研究参加者の96%がWEIRD社会の出身であり、その中でも米国の大学生が突出して多いことが確認された。世界人口に占めるWEIRD社会の人口比率は約12%にすぎないことを考慮すると、このサンプル偏りの深刻さは明らかである。
WEIRDサンプルの特異性:具体的領域¶
Henrich et al.(2010)の論文が特に影響力を持ったのは、WEIRD社会の成員が単に「多数派ではない」だけでなく、多くの心理的変数において人類集団の中で外れ値であることを具体的に示した点にある。以下、主要な領域を検討する。
視覚知覚:ミュラー=リヤー錯視¶
Key Concept: ミュラー=リヤー錯視(Müller-Lyer illusion) 同じ長さの2本の線分に、外向きの矢羽と内向きの矢羽を付けると、線分の見かけの長さが異なって知覚される幾何学的錯視。文化間で錯視の強度に大きな差があることが示されている。
Marshall Segall, Donald Campbell, & Melville Herskovits(1966)は、ミュラー=リヤー錯視の感受性を世界各地の集団で比較した。結果は、西洋の都市住民が最も強い錯視を経験し、カラハリ砂漠のサン族の狩猟採集民が最も弱い錯視を示すというものであった。錯視の大きさの平均誤差率は集団によって1.4%から20.3%まで変動した。
この結果は「大工仕事世界仮説(carpentered-world hypothesis)」によって説明されてきた。直線的な建築物(直角の壁・部屋・建物)に囲まれた環境で生活する人々は、視覚システムが特定の角度を奥行き手がかりとして処理するよう訓練されるため、錯視に対する感受性が高まるという仮説である。
この事例は、視覚知覚のような「基礎的」な心理過程でさえ文化・環境の影響を受けることを示しており、WEIRD社会のデータのみから「人間の知覚」について一般化することの危険性を端的に例示する。
公正性と経済的意思決定:最後通牒ゲーム¶
Key Concept: 最後通牒ゲーム(ultimatum game) 実験経済学の代表的パラダイム。提案者が一定額の分配案を提示し、応答者がそれを受諾するか拒否するかを決定する。拒否された場合、両者の取り分はゼロになる。
Henrich(2000)は、ペルーのアマゾン地域に居住するMachiguenga族を対象に最後通牒ゲームを実施した。北米の被験者は通常、総額の40〜50%を相手に提案し、20%以下の提案は高い確率で拒否される。これは「不公正な提案を罰する」傾向として解釈され、公正性の選好が人間に普遍的であることの証拠とみなされてきた。
しかし、Machiguenga族の被験者は平均して総額の約26%しか相手に提案せず、低い提案もほとんど拒否されなかった。この結果は、「公正性の規範」や「不公正を罰する傾向」が人類普遍ではなく、文化的に構成されたものである可能性を示唆した。
Henrich et al.(2005, 2010)は、この研究を15の小規模社会に拡大した。結果は、最後通牒ゲームにおける提案額と拒否率が文化間で大きく変動し、市場統合(market integration)の程度や協力的な生産活動への参加度といった社会経済的変数と相関していることを示した。
graph TD
A["最後通牒ゲームの文化間比較"] --> B["WEIRD社会"]
A --> C["小規模社会"]
B --> D["提案額: 40-50%<br>低提案の拒否率: 高い"]
C --> E["Machiguenga族<br>提案額: ~26%<br>拒否率: 低い"]
C --> F["Au族・Gnau族<br>提案額: 高い<br>超公正提案の拒否も発生"]
C --> G["Hadza族<br>提案額: ~20%<br>拒否率: 中程度"]
D --> H["「人類普遍の公正性」<br>という解釈"]
E --> I["文化によって公正性の<br>規範が異なる"]
F --> I
G --> I
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style I fill:#27ae60,color:#fff
特筆すべきは、パプアニューギニアのAu族やGnau族では、50%を超える「超公正」な提案がしばしば拒否されたことである。これらの社会では贈与に対する返礼義務が強く、過大な贈与は返済できない負債を生むため忌避される。この結果は、「不公正な提案の拒否」という表面的に同一の行動(拒否)が、文化によってまったく異なる心理的メカニズムに基づきうることを示している。
空間推論と認知¶
空間推論においても文化差が確認されている。Henrich et al.(2010)は、空間的手がかりの利用が文化によって異なることを報告している。西洋の成人は座標系に基づく絶対的参照枠(absolute frame of reference)を相対的参照枠(relative frame of reference)より頻繁に使用するとされていたが、小規模社会やオランダのNijmegen周辺の非都市部住民は相対的参照枠を優先的に使用した。これは「人間の空間認知の基本構造」とされてきたものが、実は都市的環境や特定の教育経験に依存している可能性を示す。
道徳推論¶
道徳推論においても、WEIRD社会の成員は特異な位置を占める。Lawrence Kohlberg(1981)の道徳発達理論は、道徳推論が普遍的な段階を経て発達し、最高段階では正義の原理に基づく自律的判断が達成されるとした。しかし、この理論の実証的基盤はほぼ完全にWEIRD社会(主に米国の白人中産階級男性)のデータに依存していた。
非西洋社会での研究は、Kohlbergの段階理論が文化的に偏っていることを示している。Richard Shweder, Manamohan Mahapatra, & Joan Miller(1987)はインドのオリッサ州での研究において、道徳的判断が個人の権利ではなく、社会的義務・純潔・神聖さといった概念を中心に組織されていることを見出した。Jonathan Haidt & Jesse Graham(2007)の道徳基盤理論(moral foundations theory)はこうした知見を統合し、WEIRD社会で支配的な「危害」と「公正」の基盤に加え、「忠誠」「権威」「純潔」の基盤が多くの文化で道徳判断に重要な役割を果たすことを理論化した。
心理学知見の普遍性と文化特殊性¶
普遍性の水準¶
WEIRD問題の検討は、心理学知見の普遍性について単純な二分法(「普遍的か文化特殊的か」)を超えた多層的な理解を要請する。Norenzayan & Heine(2005)は、文化的普遍性について以下の分類を提案した。
Key Concept: 普遍性の水準(levels of universality) Norenzayan & Heine(2005)による分類。心理現象の文化間での一致の程度に基づき、アクセス不能な普遍性、機能的普遍性、存在的普遍性、非普遍性の4水準を区別する。
| 普遍性の水準 | 定義 | 例 |
|---|---|---|
| アクセス不能な普遍性(accessibility universals) | すべての文化で同じ条件のもとで同程度に利用可能な心理過程 | 基本的な連合学習 |
| 機能的普遍性(functional universals) | すべての文化に存在するが、利用しやすさの程度に文化差がある | 基本的帰属錯誤(西洋で顕著、東アジアで弱い) |
| 存在的普遍性(existential universals) | すべてではないが多くの文化に存在する | 自己高揚動機(西洋で強く、東アジアで弱いか逆転) |
| 非普遍性(non-universals) | 特定の文化にのみ存在する | 特定文化固有の感情カテゴリ(例: 日本語の「甘え」) |
graph TD
A["心理現象の普遍性"] --> B["アクセス不能な普遍性"]
A --> C["機能的普遍性"]
A --> D["存在的普遍性"]
A --> E["非普遍性"]
B --> B1["すべての文化で同程度に存在"]
C --> C1["すべての文化に存在するが<br>程度に差がある"]
D --> D1["多くの文化に存在するが<br>一部に存在しない"]
E --> E1["特定文化にのみ存在"]
B1 --> F["文化差: なし"]
C1 --> G["文化差: 量的"]
D1 --> H["文化差: 質的"]
E1 --> I["文化差: 有無"]
この枠組みは、WEIRD問題への応答として重要な示唆を含む。「すべての心理現象が文化特殊的である」と主張することも「すべてが普遍的である」と主張することも、等しく不適切である。求められるのは、個々の心理現象がこの普遍性の階梯のどこに位置するかを、多文化的データに基づいて実証的に検証する作業である。
WEIRDサンプルでの知見が揺らいだ領域¶
Section 1で検討した文化心理学の主要な知見は、WEIRD社会の知見の普遍性に疑問を投げかけるものであった。ここでは追加的な事例を確認する。
自己高揚動機: 北米の研究で確立された「人間は自己を肯定的に評価する傾向がある」という知見(自己高揚バイアス)は、東アジアでは一貫して支持されない。Steven Heine & Darrin Lehman(1997)は、日本人被験者が自己卑下的な傾向(self-effacing tendency)を示すことを複数の研究で報告した。この知見は、Section 1で検討した自己構成の文化差(Markus & Kitayama, 1991)と整合的であり、「自己高揚は人間の基本的動機である」という主張が普遍的ではないことを示す。
基本的帰属錯誤: Section 1で触れたように、他者の行動を内的特性に帰属する傾向(→ Module 1-4, Section 1参照)は北米で頑健に示されるが、東アジアでは弱い。これはNorenzayan & Heine(2005)の分類における「機能的普遍性」の事例であり、帰属過程自体は普遍的に存在するが、内的帰属の卓越性は文化によって程度が異なる。
選択と動機づけ: Sheena Iyengar & Mark Lepper(1999)は、自分で選択することが動機づけを高めるという知見が、アジア系アメリカ人の子どもでは再現されないことを示した。母親が選んだ課題で作業した場合、アジア系アメリカ人の子どもはヨーロッパ系アメリカ人の子どもよりも動機づけが高かった。「自律的選択が内発的動機づけを促進する」という命題は、独立的自己観を前提とした文化特殊的なものである可能性がある。
研究の多様性向上に向けた取り組み¶
問題認識の広がり¶
Henrich et al.(2010)の論文は2010年以降急速に引用数を増やし、WEIRD問題は心理学のみならず行動科学全体の方法論的課題として広く認識されるようになった。この問題認識は以下の複数の水準での取り組みを促進した。
大規模国際共同研究プロジェクト¶
Key Concept: Psychological Science Accelerator(PSA) 世界中の実験室からなる分散型ネットワーク。多様なサンプルを用いた大規模共同研究を実現し、心理学知見の一般化可能性を高めることを目的とする。
WEIRD問題への最も直接的な対応の一つは、大規模国際共同研究(big team science)の推進である。
Many Labs プロジェクト: Richard Klein et al.(2014)が主導したMany Labs プロジェクトは、既存の心理学的知見を世界各地の36の実験室で追試する試みであった。13の効果について6,344名の参加者で検証を行い、10の効果が一貫して再現された。このプロジェクトの意義は、再現性の検証だけでなく、効果の大きさがサンプルや環境によってどの程度変動するかを定量的に評価した点にある。
後続のMany Labs 2(Klein et al., 2018)はさらに規模を拡大し、28の効果を世界各地のサンプルで検証した。結果は、多くの効果が概ね再現されるものの、いくつかの効果ではサンプル間変動が大きいことを示した。
Psychological Science Accelerator(PSA): Christopher Chartier et al.(2018)が設立したPSAは、WEIRD問題への構造的対応として特に重要である。PSAは世界70か国以上の研究者からなるネットワークであり、研究プロジェクトの選定・計画・実施・分析を分散型で行う。各プロジェクトは多様な文化圏からのデータ収集を前提として設計され、翻訳・文化的適応の委員会が質を管理する。
ManyBabies: 発達心理学の分野では、ManyBabiesコンソーシアムが50か国以上の研究者を結集し、乳児の認知・知覚に関する知見の再現性と一般化可能性を検証している。
ManyLabs Africa: 従来のWEIRD中心の研究パイプラインを逆転させる試みとして、アフリカで最初に発見された効果を北米・ヨーロッパ・他のアフリカ集団で追試するプロジェクトも開始されている。
graph TD
A["WEIRD問題への対応"] --> B["方法論的改革"]
A --> C["制度的改革"]
A --> D["理論的転換"]
B --> B1["大規模国際共同研究"]
B --> B2["事前登録・追試文化"]
B --> B3["多言語での測定ツール開発"]
C --> C1["ジャーナル方針の変更"]
C --> C2["編集委員の多様化"]
C --> C3["研究助成の地理的配分見直し"]
D --> D1["普遍性の仮定の見直し"]
D --> D2["文化的変動を理論に組み込む"]
D --> D3["WEIRD中心の理論の修正"]
B1 --> E["Many Labs"]
B1 --> F["PSA"]
B1 --> G["ManyBabies"]
B1 --> H["ManyLabs Africa"]
ジャーナルと学術制度の変化¶
学術出版においても変化が生じている。一部の主要ジャーナルは、サンプルの文化的多様性に関する情報開示を著者に求めるようになった。また、研究知見の一般化可能性に関する制約を明示することが推奨されるようになっている。
Thalmayer, Toscanelli, & Arnett(2021)はArnett(2008)の分析を追跡し、2014年から2018年の論文におけるサンプル構成を再調査した。その結果、米国外の国のサンプルを含む論文の割合はやや増加したものの、変化の速度は緩慢であり、サブサハラ・アフリカ、中東、中央アジア、東南アジアなどの地域の研究参加者は依然として極度に過少であることが示された。
残存する構造的課題¶
WEIRD問題の解決には、いくつかの構造的障壁が存在する。
- 資金と研究基盤: 心理学研究の主要な資金源は北米・ヨーロッパに集中している。グローバルサウスの研究者が国際共同研究に参加するためのインフラ(実験設備、被験者プール、研究時間の確保)が不十分な場合が多い。
- 言語と出版: 主要な国際誌はほぼ英語で出版される。非英語圏の研究者にとっての参入障壁は、研究の多様性を妨げる要因の一つである。
- 測定の等価性: 心理学の測定ツール(質問紙尺度、実験パラダイム)は多くの場合、WEIRD社会で開発されている。これらを他の文化圏に適用する際の「翻訳」は、単なる言語的翻訳にとどまらず、概念的等価性(construct equivalence)の確保を要する。ある文化で妥当な構成概念が、他の文化では意味をなさないか、異なる意味を持つ可能性がある。
- 研究者自身の多様性: 研究の問い自体がWEIRD社会の関心に偏っている可能性がある。研究者集団の多様性が高まることで、従来は研究対象とされなかった心理現象が可視化されうる。
まとめ¶
- Henrich et al.(2010)は、行動科学の研究参加者がWEIRD社会に著しく偏っており、WEIRD社会の成員が多くの心理的変数において人類の外れ値であることを示した。
- ミュラー=リヤー錯視(視覚知覚)、最後通牒ゲーム(公正性)、自己高揚動機、基本的帰属錯誤、道徳推論など、「人間に普遍的」とされてきた多くの知見がWEIRDサンプルに依存していた。
- 心理現象の普遍性は一枚岩ではなく、Norenzayan & Heine(2005)が提案した4水準(アクセス不能な普遍性、機能的普遍性、存在的普遍性、非普遍性)に即して個別に検証する必要がある。
- Many Labs、PSA、ManyBabies等の大規模国際共同研究が開始され、研究の多様性向上に向けた制度的取り組みも進展している。ただし、資金・言語・測定の等価性・研究者の多様性といった構造的課題は依然として残存する。
- WEIRD問題は、Section 1で検討した文化心理学の知見を方法論的観点から裏づけるとともに、心理学がより普遍的な科学となるために不可欠な自己批判的視座を提供するものである。
用語集(Glossary)¶
| 用語 | 英語表記 | 定義 |
|---|---|---|
| WEIRD | Western, Educated, Industrialized, Rich, Democratic | 行動科学の研究サンプルが偏る西洋・高学歴・工業化・裕福・民主主義的社会の頭字語 |
| ミュラー=リヤー錯視 | Müller-Lyer illusion | 矢羽の向きによって同じ長さの線分が異なる長さに知覚される幾何学的錯視 |
| 大工仕事世界仮説 | carpentered-world hypothesis | 直角の建築物に囲まれた環境がミュラー=リヤー錯視への感受性を高めるという仮説 |
| 最後通牒ゲーム | ultimatum game | 提案者の分配案を応答者が受諾または拒否する実験経済学のパラダイム |
| 普遍性の水準 | levels of universality | 心理現象の文化間一致の程度に基づく4水準の分類(Norenzayan & Heine, 2005) |
| アクセス不能な普遍性 | accessibility universals | すべての文化で同程度に存在する心理過程 |
| 機能的普遍性 | functional universals | すべての文化に存在するが利用しやすさの程度に文化差がある心理過程 |
| 存在的普遍性 | existential universals | 多くの文化に存在するが一部に存在しない心理現象 |
| Psychological Science Accelerator | Psychological Science Accelerator (PSA) | 世界中の研究室からなる大規模国際共同研究ネットワーク |
| 概念的等価性 | construct equivalence | 異なる文化圏で測定ツールが同一の構成概念を測定していることの保証 |
確認問題¶
Q1: Henrich et al.(2010)が提起したWEIRD問題の核心を2つの主張に分けて説明せよ。なぜこれが単なるサンプリングの技術的問題ではなく、心理学の科学的妥当性に関わる根本問題とされるのか。 A1: 第一の主張は、行動科学の研究参加者がWEIRD(Western, Educated, Industrialized, Rich, Democratic)社会に著しく偏っているという事実である。Arnett(2008)の分析によれば、主要心理学誌の参加者の68%が米国人であった。第二の主張は、WEIRD社会の成員が多くの心理的変数において人類全体の中で外れ値であるという点である。これが根本問題であるのは、研究者がWEIRDサンプルのデータに基づく知見を暗黙のうちに人類普遍の法則として一般化してきたためである。外れ値に基づいて「人間の心理」を記述してきた可能性があり、心理学の理論的基盤そのものの妥当性が問われることになる。
Q2: Henrich(2000)のMachiguenga族を対象とした最後通牒ゲーム研究、およびパプアニューギニアのAu族・Gnau族のデータは、「公正性の選好は人間に普遍的である」という主張に対してそれぞれどのような反証を提供するか。 A2: Machiguenga族では提案者が総額の約26%しか相手に提案せず、低い提案も拒否されなかった。これは北米の典型的パターン(40〜50%の提案、20%以下の拒否)と大きく異なり、「公正な分配」の規範が文化的に構成されることを示す。Au族・Gnau族では、50%を超える「超公正」な提案がしばしば拒否された。これは贈与に対する返礼義務の文化的規範に基づくものであり、「拒否」という同一の行動が北米では「不公正への罰」として、パプアニューギニアでは「過大な負債の回避」として機能しうることを示す。つまり公正性の規範の内容も、その背景にある心理的メカニズムも文化によって異なりうるのである。
Q3: Norenzayan & Heine(2005)の普遍性の4水準(アクセス不能な普遍性、機能的普遍性、存在的普遍性、非普遍性)について、それぞれ心理学的現象の具体例を挙げて説明せよ。 A3: アクセス不能な普遍性は、すべての文化で同じ条件下で同程度に利用可能な心理過程であり、古典的条件づけや基本的な連合学習が該当する。機能的普遍性は、すべての文化に存在するが利用しやすさの程度に文化差がある心理過程であり、基本的帰属錯誤が該当する(西洋で顕著だが東アジアでは弱い)。存在的普遍性は、多くの文化に存在するが一部に存在しない心理現象であり、自己高揚動機が該当する(北米で頑健に見られるが、東アジアでは弱いか逆転する)。非普遍性は、特定の文化にのみ存在する現象であり、日本語の「甘え」のような文化固有の感情カテゴリがその例である。
Q4: Psychological Science Accelerator(PSA)やMany Labsプロジェクトは、WEIRD問題に対してどのような方法論的解決を提供しようとしているか。それらの取り組みの意義と限界を論ぜよ。 A4: PSAは70か国以上の研究者による分散型ネットワークであり、多様な文化圏からのデータ収集を前提に研究プロジェクトを設計・実施する。Many Labsプロジェクトは既存の知見を世界各地の実験室で追試し、効果の再現性とサンプル間変動を検証する。意義としては、単一サンプルに基づく一般化の問題を直接的に解決し、心理学知見の文化的境界条件を同定できる点、および国際共同研究のインフラを構築した点が挙げられる。一方、限界としては、参加研究室の地理的偏りが依然として存在すること、研究資金・設備のグローバルサウスにおける不足、測定ツールの文化的等価性の確保が困難であること、英語中心の学術出版体制が非英語圏の研究者の参入障壁となっていること、そして研究の「問い」自体がWEIRD社会の関心に偏りうることが挙げられる。
Q5: WEIRD問題が心理学に対して要請する「理論的転換」とはどのようなものか。Section 1で学んだ文化心理学の知見と関連づけて説明せよ。 A5: WEIRD問題は、心理学が従来暗黙に前提としてきた「心理過程の普遍性」仮定の見直しを要請する。Section 1で検討した文化心理学の知見(個人主義-集団主義、自己構成の文化差、分析的/包括的思考の文化差)は、心理過程が文化的文脈と相互構成的であることを示すものであった。WEIRD問題はこの知見を方法論的に裏づけ、心理学理論の構築において文化的変動を例外や「ノイズ」ではなく、理論の中核に組み込むことを求める。具体的には、理論が適用される文化的範囲(境界条件)を明示すること、文化的変動そのものを説明対象とする理論(なぜ特定の心理現象が文化によって異なるのか)を発展させること、そして研究者自身の文化的前提を自覚し、問いの設定段階から多様な視点を包含することが求められる。