Module 3-2 - Section 5: 遺伝と環境の相互作用¶
セクション情報¶
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| モジュール | Module 3-2: 文化心理学・進化心理学 |
| 前提セクション | Section 4(進化心理学) |
| 想定学習時間 | 5時間 |
導入¶
Section 4では、進化心理学の枠組みを通じて、人間の心理メカニズムが自然選択によって形成されてきたことを検討した。進化心理学が扱うのは、種に共通する心理的適応の設計原理である。しかし、同じ種に属する個体間には明確な心理的差異が存在する。知能、パーソナリティ、精神疾患への脆弱性といった心理形質における個人差は、どのようにして生じるのか。
この問いに対する現代的な回答は、「遺伝と環境の相互作用」という枠組みのもとに統合されつつある。Module 2-3(パーソナリティ心理学・個人差)のSection 5では、パーソナリティ特性の遺伝率が中程度(40-60%)であること、環境の寄与が無視できないことを確認した。本セクションでは、この議論をより深い水準に展開し、行動遺伝学の方法論と現代的知見、遺伝子と環境が単純に加算的でなく動的に絡み合うメカニズム(遺伝子-環境相関、遺伝子-環境交互作用)、ゲノムワイド関連解析(GWAS)が明らかにした心理形質のポリジェニック性、そしてエピジェネティクスという遺伝子発現の調節メカニズムを順に検討する。
本セクションの中心的メッセージは、「遺伝か環境か」(nature vs. nurture)という二項対立的な問いは科学的に無意味であり、遺伝と環境は常に相互に依存し合いながら個人差を生み出しているということである。
行動遺伝学の方法と基本知見¶
行動遺伝学の研究デザイン¶
行動遺伝学(behavioral genetics)は、遺伝的要因と環境的要因が行動・心理形質の個人差にどの程度寄与しているかを定量的に推定する学問分野である。その基本的な方法論は、遺伝的類似度が既知である個体間(双生児、養子など)の表現型類似度を比較することにある。
Key Concept: 行動遺伝学(behavioral genetics) 遺伝的要因と環境的要因が行動・心理形質の個人差にどの程度寄与しているかを、双生児法・養子法・家族研究などの方法論を用いて定量的に推定する学問分野。Francis Galtonの双生児研究(1875)を嚆矢とし、現代ではゲノムデータを用いた分子遺伝学的手法と統合されつつある。
主要な研究デザインは以下の通りである。
| 研究デザイン | 原理 | 推定可能な成分 |
|---|---|---|
| 双生児法(twin study) | 一卵性双生児(MZ)と二卵性双生児(DZ)の類似度を比較 | 遺伝分散(A)、共有環境(C)、非共有環境(E) |
| 養子法(adoption study) | 養子と生物学的親、養子と養親の類似度を比較 | 遺伝的影響と環境的影響の分離 |
| 別々に育った双生児の研究 | 別環境で養育されたMZ双生児の類似度を評価 | 共有環境を統制した遺伝的影響の推定 |
双生児法の論理¶
双生児法は行動遺伝学の最も基本的かつ強力なデザインである。一卵性双生児(monozygotic twins; MZ)は遺伝子を100%共有し、二卵性双生児(dizygotic twins; DZ)は平均して50%を共有する。両者とも同じ家庭環境(共有環境)で養育されると仮定すると、MZの表現型相関がDZのそれを上回る程度から遺伝的影響を推定できる。
Key Concept: 遺伝率(heritability) 集団内の表現型分散のうち、遺伝的要因に帰属できる割合。広義の遺伝率(H²)は相加的遺伝分散と非相加的遺伝分散の合計を、狭義の遺伝率(h²)は相加的遺伝分散のみを表現型分散で除した値である。個人の形質が「どれだけ遺伝で決まるか」を意味するのではなく、集団内の個人差の変動のうち遺伝的変動が占める割合を示す。
遺伝率の解釈において、以下の点が重要である。
- 遺伝率は集団の指標であり、個人には適用できない。遺伝率0.50は「この人の知能の50%が遺伝で決まった」という意味ではなく、「この集団における知能の個人差の分散の50%が遺伝的差異で説明される」という意味である
- 遺伝率は集団・時代・環境によって変動する。環境の均一性が高い集団では遺伝率は高くなり、環境の多様性が大きい集団では相対的に低くなる
- 高い遺伝率は環境介入の無効性を意味しない。身長の遺伝率は非常に高いが、栄養状態の改善により集団の平均身長は大幅に上昇している(→ Module 2-3, Section 4「Flynn効果」の類似ロジック)
graph TD
VP["表現型分散(Vp)"] --> A["相加的遺伝分散(Va)"]
VP --> D["非相加的遺伝分散(Vd)"]
VP --> C["共有環境分散(Vc)"]
VP --> E["非共有環境分散(Ve)"]
A -->|"狭義の遺伝率 h² = Va/Vp"| H2["遺伝率の推定"]
D -->|"広義の遺伝率 H² = (Va+Vd)/Vp"| H2
行動遺伝学の主要知見¶
Eric Turkheimer(エリック・ターカイマー)は、行動遺伝学の蓄積された知見を「行動遺伝学の3法則」(Three Laws of Behavioral Genetics, 2000)として定式化した。
Key Concept: 行動遺伝学の3法則(Three Laws of Behavioral Genetics) Turkheimer(2000)が提唱した経験的一般化。第1法則: すべての人間の行動形質は遺伝的である。第2法則: 同じ家庭で育てられた効果は遺伝子の効果より小さい。第3法則: 人間の行動形質における分散のかなりの部分は遺伝子でも家族の効果でも説明されない(非共有環境の重要性)。
これら3法則の含意を詳しく検討する。
第1法則(すべての行動形質は遺伝的である): 心理形質の遺伝率が0であるという知見は、事実上報告されていない。知能、パーソナリティ特性(ビッグファイブ)、精神疾患のリスク、宗教心、政治的態度に至るまで、調査されたほぼすべての心理形質に有意な遺伝的影響が認められている。
| 心理形質 | 遺伝率の概算 |
|---|---|
| 一般知能(g因子) | .50〜.80(年齢により変動、成人期に高い) |
| ビッグファイブ各因子 | .40〜.60 |
| 統合失調症 | .80前後 |
| 大うつ病 | .37前後 |
| 自閉スペクトラム症 | .80前後 |
| 反社会的行動 | .40〜.50 |
| 主観的幸福感 | .35〜.50 |
第2法則(共有環境の効果は遺伝の効果より小さい): 同じ家庭で育てられたことによる環境的影響(共有環境; shared environment)は、多くの心理形質において予想より小さいことが明らかになっている。成人のパーソナリティにおける共有環境の推定値は多くの研究でほぼ0に近く、知能においても成人期には共有環境の寄与は著しく減少する。この知見は、「親の養育態度が子のパーソナリティを決定する」という素朴な環境決定論を大きく揺るがした。
第3法則(非共有環境の重要性): 表現型分散のうち遺伝で説明されない部分の大半は、共有環境ではなく非共有環境(nonshared environment)——同じ家庭で育っても各個人に固有の環境経験——によって占められる。ただし、非共有環境には測定誤差も含まれるため、その実質的内容の特定は行動遺伝学における最大の課題の一つである。
graph LR
L1["第1法則: すべての行動形質は遺伝的"] --> IMP1["遺伝率ゼロの形質は事実上存在しない"]
L2["第2法則: 共有環境 < 遺伝"] --> IMP2["同じ家庭で育った効果は<br>予想より小さい"]
L3["第3法則: 非共有環境の大きさ"] --> IMP3["個人に固有の経験が<br>遺伝以外の主要な源泉"]
IMP2 --> Q["非共有環境の実質的内容の<br>特定が最大の課題"]
IMP3 --> Q
遺伝子-環境相関と遺伝子-環境交互作用¶
遺伝子-環境相関(rGE)¶
遺伝と環境が独立に作用するという仮定は、実際には成り立たないことが多い。遺伝子型と環境経験は体系的に相関しており、この現象を遺伝子-環境相関(gene-environment correlation; rGE)と呼ぶ。Sandra Scarr(サンドラ・スカー)とKathleen McCartney(キャスリーン・マッカートニー)は、rGEに3つの類型を区別した(Scarr & McCartney, 1983)。
Key Concept: 遺伝子-環境相関(gene-environment correlation; rGE) 個人の遺伝子型と環境経験が統計的に独立でなく、体系的に関連している現象。受動的・喚起的・能動的の3類型がある。rGEの存在は、表現型における「遺伝的影響」と「環境的影響」の明確な分離を困難にする。
| 類型 | メカニズム | 例 |
|---|---|---|
| 受動的rGE(passive rGE) | 子は親から遺伝子と家庭環境の両方を受け取る | 知能の高い親が遺伝的に知能を高める遺伝子を伝え、同時に書籍の多い知的環境を提供する |
| 喚起的rGE(evocative rGE) | 個人の遺伝的に影響された特性が、周囲から特定の反応を喚起する | 気質的に社交的な子どもが、大人や仲間からより多くの社会的相互作用を引き出す |
| 能動的rGE(active rGE) | 個人が自身の遺伝的傾向に適合する環境を能動的に選択・構築する | 音楽的才能を持つ子どもが音楽教室に通い、楽器を練習する環境を自ら構築する |
graph TD
rGE["遺伝子-環境相関(rGE)"]
rGE --> PAS["受動的 rGE"]
rGE --> EVO["喚起的 rGE"]
rGE --> ACT["能動的 rGE"]
PAS -->|"親が遺伝子と環境の<br>両方を提供"| CHILD1["幼少期に最大"]
EVO -->|"遺伝的特性が<br>環境からの反応を喚起"| CHILD2["生涯を通じて作用"]
ACT -->|"自ら環境を<br>選択・構築"| CHILD3["発達とともに増大"]
CHILD1 --> DEV["発達的変化: 受動的 rGE の減少、能動的 rGE の増大"]
CHILD3 --> DEV
Scarr & McCartneyの理論の重要な予測は、発達に伴いrGEの類型が変化するということである。幼少期には親が提供する環境に依存する受動的rGEが優勢であるが、成長に伴い子どもが自ら環境を選択する能動的rGEの比重が増大する。この予測は、知能の遺伝率が幼少期(約.40)から成人期(約.60〜.80)にかけて上昇するという実証的知見と整合する。子どもが自律性を獲得し、自身の遺伝的傾向に適合する環境をより積極的に選択するようになることで、遺伝的影響が表現型に反映されやすくなるのである。
遺伝子-環境交互作用(G×E)¶
遺伝子-環境相関が「遺伝子型が環境経験を左右する」現象であるのに対し、遺伝子-環境交互作用(gene-environment interaction; G×E)は「同じ環境要因が遺伝子型によって異なる効果をもたらす」現象を指す。
Key Concept: 遺伝子-環境交互作用(gene-environment interaction; G×E) 特定の環境要因の効果が個人の遺伝子型によって異なる(あるいは特定の遺伝子型の効果が環境によって異なる)現象。統計的には遺伝と環境の交互作用項として表現される。
G×E研究の古典的事例として広く引用されるのが、Avshalom Caspi(アブシャロム・キャスピ)らの研究である。
MAOA遺伝子と虐待の交互作用: Caspiら(2002)はニュージーランドのダニーデン縦断研究のデータを用いて、モノアミン酸化酵素A(MAOA)遺伝子の活性型と児童期の虐待経験が反社会的行動に及ぼす交互作用を報告した。低活性型MAOA遺伝子を持ち、かつ児童期に虐待を受けた男性は、反社会的行動のリスクが最も高かった。高活性型MAOA遺伝子を持つ男性では、虐待経験の有無による反社会的行動の差は相対的に小さかった。
5-HTTLPR多型とストレスフルなライフイベントの交互作用: Caspiら(2003)は、セロトニントランスポーター遺伝子(5-HTTLPR)の短腕型(short allele)とストレスフルなライフイベントがうつ病リスクに及ぼす交互作用を報告した。短腕型を持つ個人は、ストレスフルなライフイベントに曝された場合にうつ病発症リスクが高まるが、ストレスが低い環境ではリスクの差は小さいとされた。
ただし、これらの候補遺伝子G×E研究の再現性には重大な問題が指摘されている。5-HTTLPR研究については、大規模メタ分析(Culverhouse et al., 2018; Border et al., 2019)がG×E効果の再現に失敗しており、候補遺伝子アプローチそのものの限界が浮き彫りになった。現在では、候補遺伝子研究からGWASベースのアプローチへと方法論的転換が進んでいる(次節参照)。
差次感受性仮説と生物学的感受性理論¶
G×Eの枠組みを発展させた理論として、差次感受性仮説(differential susceptibility hypothesis)がある。
Key Concept: 差次感受性仮説(differential susceptibility hypothesis) Jay Belsky(ジェイ・ベルスキー)が提唱した仮説で、特定の遺伝的変異を持つ個人は環境の影響に対してより感受性が高く、ネガティブな環境ではリスクが増大するが、ポジティブな環境ではより大きな利益を受けるとする「良いも悪いもより強く(for better and for worse)」モデル。
従来のG×Eモデルの多くは、特定の遺伝的変異を「脆弱性因子」(vulnerability factor)として位置づけ、逆境下でのリスク増大のみに焦点を当てていた。差次感受性仮説はこの見方を拡張し、同じ遺伝的変異が逆境下ではリスクを増大させるが、支持的な環境下ではより良好な適応をもたらすという、環境への感受性の双方向性を主張する。この枠組みに類似した理論として、Boyce & Ellis(2005)の生物学的感受性理論(biological sensitivity to context; BSC)がある。
GWASと心理形質のポリジェニック性¶
候補遺伝子研究の限界¶
2000年代前半までの行動遺伝学における分子遺伝学的アプローチは、主に候補遺伝子研究(candidate gene study)に依拠していた。研究者が生物学的な仮説に基づいて特定の遺伝子を選び、その遺伝子多型と心理形質の関連を検討するアプローチである。しかし、このアプローチには深刻な問題が明らかになった。
- 再現性の危機: 候補遺伝子研究で報告された関連の大多数が、独立した大規模サンプルで再現されなかった
- 検定の多重性: 多数の遺伝子多型と形質の組み合わせを検討することで、偽陽性のリスクが増大していた
- 効果量の過大推定: 初期の小規模研究は効果量を過大に推定する傾向があった(winner's curse)
ゲノムワイド関連解析(GWAS)¶
候補遺伝子研究の限界を克服するアプローチとして台頭したのが、ゲノムワイド関連解析(genome-wide association study; GWAS)である。
Key Concept: ゲノムワイド関連解析(GWAS; genome-wide association study) ゲノム全体にわたる数十万〜数百万の一塩基多型(SNP)を網羅的にスキャンし、特定の形質と統計的に関連するSNPを同定する仮説フリーなアプローチ。多重検定の補正のため、ゲノムワイド有意水準として p < 5 × 10⁻⁸ が標準的に使用される。
GWASは特定の遺伝子に関する事前仮説を必要とせず、ゲノム全体を網羅的にスキャンする点で候補遺伝子研究とは根本的に異なる。心理形質に対するGWASの主要な知見を以下に整理する。
心理形質のポリジェニック性¶
GWASが明らかにした最も重要な知見は、心理形質が極めて多数の遺伝的変異の微小な効果の総和によって影響されているということである。これをポリジェニック性(polygenicity)と呼ぶ。
Key Concept: ポリジェニック性(polygenicity) 複雑な形質が数百〜数千(あるいはそれ以上)の遺伝的変異の微小な効果の総和によって影響されている性質。個々の遺伝的変異の効果量は極めて小さく(表現型分散の0.01%未満であることが多い)、「○○遺伝子」のような単一遺伝子による説明は成り立たない。
たとえば、教育年数に関するGWAS(Okbay et al., 2022; n > 3,000,000)では、ゲノムワイド有意水準を超える遺伝的座位が3,000以上同定されたが、個々の変異が説明する分散は極めて小さい。知能(一般認知能力)に関するGWASでも同様のパターンが見られ、個々のSNPの効果量は微小である。
この知見は、「知能遺伝子」「うつ病遺伝子」「攻撃性遺伝子」といった単一遺伝子的な表現がいかに誤解を招くかを明確に示している。
ポリジェニックスコア(PGS)¶
GWASの結果を活用した予測指標として、ポリジェニックスコア(polygenic score; PGS)が開発されている。
Key Concept: ポリジェニックスコア(polygenic score; PGS) GWASで同定された多数のSNPの効果量を重み付けして合算した、個人の遺伝的傾向の指標。以前はポリジェニックリスクスコア(PRS)とも呼ばれた。個人の形質値を確定的に予測するものではなく、確率的な傾向を示す統計的指標である。
教育年数のPGSは現在、表現型分散の約10-15%を説明する水準に達している。統合失調症、大うつ病、BMIなどについてもPGSが開発されており、リスクの層別化への応用が模索されている。
ただし、PGSの解釈には重要な注意点がある。
- 予測力の限界: PGSが説明する分散は形質の遺伝率よりかなり低い(「失われた遺伝率」問題; missing heritability)。これは稀少変異、遺伝子間の交互作用(エピスタシス)、GxEなどがGWASでは十分に捕捉されないためである
- 集団特異性: GWASは主にヨーロッパ系集団で実施されており、他の集団へのPGSの移転可能性(portability)が低いことが問題視されている
- 因果関係の不確定性: PGSと形質の関連は、直接的な遺伝的因果に加え、遺伝子-環境相関(特に受動的rGE)を含んでいる可能性がある
graph TD
GWAS["GWAS: ゲノム全体のスキャン"] --> SNPs["数百〜数千の関連SNPを同定"]
SNPs --> POLY["ポリジェニック性の確認:<br>個々の効果は微小"]
SNPs --> PGS["ポリジェニックスコア(PGS)の構築"]
PGS --> PRED["形質の確率的予測"]
PGS --> LIMIT["限界"]
LIMIT --> MH["失われた遺伝率"]
LIMIT --> POP["集団特異性"]
LIMIT --> CONF["rGEとの交絡"]
エピジェネティクスと発達¶
エピジェネティクスの基本概念¶
遺伝子の塩基配列そのものが変化しなくても、遺伝子の発現(どの遺伝子がいつ、どこで、どの程度転写されるか)が調節されることによって、表現型に影響が及ぶ。このような遺伝子発現の調節メカニズムの研究がエピジェネティクス(epigenetics)である。
Key Concept: エピジェネティクス(epigenetics) DNA塩基配列の変化を伴わずに遺伝子発現を調節するメカニズム、およびその研究分野。主要なメカニズムとしてDNAメチル化、ヒストン修飾、非コードRNAによる調節がある。エピジェネティックな変化は環境要因(栄養、ストレス、毒物曝露など)によって誘導されうるが、一部は世代間で伝達される可能性も示唆されている。
主要なエピジェネティックメカニズムは以下の通りである。
| メカニズム | 概要 | 遺伝子発現への効果 |
|---|---|---|
| DNAメチル化(DNA methylation) | シトシン塩基にメチル基(-CH₃)が付加される | 一般にプロモーター領域のメチル化は遺伝子の転写抑制と関連 |
| ヒストン修飾(histone modification) | ヒストンタンパク質のアセチル化・メチル化等の化学修飾 | クロマチン構造を変化させ、転写因子のアクセスを調節 |
| 非コードRNA(non-coding RNA) | マイクロRNA等が標的mRNAの翻訳を抑制 | 転写後レベルでの遺伝子発現調節 |
早期環境とエピジェネティクス: 動物モデル¶
エピジェネティクスが行動科学において注目されるようになった契機の一つが、Michael Meaney(マイケル・ミーニー)らのラットを用いた研究である。
Meaneyらのグループ(Weaver et al., 2004)は、ラットの母親の養育行動(リッキング・グルーミング; licking and grooming; LG)の量が仔のストレス反応系(HPA軸)のエピジェネティックなプログラミングに影響することを示した。高LGの母親に養育された仔では、海馬のグルココルチコイド受容体(GR)遺伝子のプロモーター領域のメチル化水準が低く、GRの発現が高まり、結果としてストレスに対するHPA軸のネガティブフィードバック(ストレス反応の適切な終息)が効率的に機能した。低LGの母親に養育された仔では逆のパターンが見られ、GR遺伝子のメチル化水準が高く、GR発現が低下し、ストレス反応が亢進した。
重要な点は、この効果が養子交差実験(cross-fostering)によっても確認されたことである。生物学的には低LG母の仔であっても、高LG養母に養育されるとGRメチル化パターンが変化し、低ストレス反応性を示した。すなわち、この効果は養育行動という環境要因に媒介されるエピジェネティックなメカニズムによるものであり、遺伝的要因のみでは説明できないことが示された。
graph TD
MOTHER["母親の養育行動"] -->|"高LG(多いリッキング・グルーミング)"| LOW_METH["GR遺伝子プロモーターの<br>低メチル化"]
MOTHER -->|"低LG(少ないリッキング・グルーミング)"| HIGH_METH["GR遺伝子プロモーターの<br>高メチル化"]
LOW_METH --> HIGH_GR["GR発現の増加"]
HIGH_METH --> LOW_GR["GR発現の低下"]
HIGH_GR --> EFFICIENT["HPA軸の効率的なネガティブ<br>フィードバック → 低ストレス反応性"]
LOW_GR --> IMPAIRED["HPA軸のフィードバック不全<br>→ 高ストレス反応性"]
ヒトにおけるエピジェネティクス研究¶
動物モデルの知見をヒトに直接外挿することには慎重でなければならないが、ヒトを対象としたエピジェネティクス研究も蓄積されつつある。
Patrick McGowanらの研究(2009)は、自殺で死亡した成人の脳組織を検討し、児童期に虐待を受けた個人では、海馬のGR遺伝子のプロモーター領域のメチル化水準が対照群(事故死・虐待歴なし)より高く、GR mRNAの発現が低下していることを報告した。この結果はMeaneyらのラット研究と一致する方向であるが、ヒト研究には遡及的デザインに伴う限界(因果関係の不確定性、交絡変数の統制困難など)がある。
オランダ飢餓の冬(Dutch Hunger Winter): 第二次世界大戦末期(1944-1945年)にオランダで発生した飢饉に胎児期に曝された個体を対象とした研究は、出生前の栄養欠乏がエピジェネティックな変化を通じて長期的な健康影響をもたらす可能性を示唆した。Heijmansら(2008)は、胎児期に飢饉に曝された個体では、IGF2(インスリン様成長因子2)遺伝子のメチル化水準が対照群と異なることを報告し、出生前環境が数十年後のエピジェネティック状態に影響を残す可能性を示した。
エピジェネティクスの意義と限界¶
エピジェネティクスは「遺伝と環境の相互作用」を分子レベルで理解する枠組みを提供し、環境要因がどのようにして遺伝子の機能に影響を及ぼすかについてのメカニズムを示す。しかし、以下の限界に留意する必要がある。
- 因果関係の確立の困難: ヒトの観察研究では、エピジェネティックな変化が原因なのか結果なのかの判定が困難である
- 組織特異性: エピジェネティックなパターンは組織(脳、血液、唾液など)によって異なるため、末梢組織の測定が脳のエピジェネティック状態を反映するかは不確実である
- 世代間伝達の不確実性: 動物実験ではエピジェネティックな変化の世代間伝達が報告されているが、ヒトにおけるエビデンスは限定的であり、その範囲やメカニズムは明確ではない
- 過度の期待への警戒: エピジェネティクスが「遺伝決定論」への反証として過度に強調される傾向があるが、エピジェネティックな変化自体も遺伝的要因の影響を受ける(mQTL: methylation quantitative trait loci)
まとめ¶
- 行動遺伝学は、双生児法・養子法などの方法論を用いて、心理形質における遺伝と環境の相対的寄与を定量化する。Turkheimerの3法則は、すべての行動形質が遺伝的であること、共有環境の効果が遺伝より小さいこと、非共有環境が重要であることを示す
- 遺伝と環境は独立に作用するのではなく、遺伝子-環境相関(rGE: 受動的・喚起的・能動的)と遺伝子-環境交互作用(G×E)を通じて動的に絡み合っている。差次感受性仮説は、遺伝的変異が環境への感受性の双方向的な差異をもたらすことを主張する
- GWASは、心理形質が極めて多数の遺伝的変異の微小な効果の総和(ポリジェニック性)によって影響されていることを明らかにした。「○○遺伝子」のような単一遺伝子的説明は成り立たない。ポリジェニックスコア(PGS)は形質の確率的予測に用いられるが、失われた遺伝率や集団特異性などの限界がある
- エピジェネティクスは、DNA配列の変化を伴わない遺伝子発現の調節メカニズムを研究する分野であり、早期環境(養育、ストレス、栄養)が遺伝子機能に影響を及ぼす分子レベルのメカニズムを示す。ただしヒトにおけるエビデンスは発展途上であり、因果関係の確立や世代間伝達の範囲については慎重な評価が求められる
- 「遺伝か環境か」という二項対立は科学的に無意味であり、現代の知見は遺伝と環境が相互に依存し合い、多層的なメカニズムを通じて個人差を生み出していることを示している
用語集(Glossary)¶
| 用語 | 英語表記 | 定義 |
|---|---|---|
| 行動遺伝学 | behavioral genetics | 遺伝的要因と環境的要因が行動・心理形質の個人差にどの程度寄与するかを定量的に推定する学問分野 |
| 遺伝率 | heritability | 集団内の表現型分散のうち遺伝的要因に帰属できる割合。個人の形質の決定度合いではなく集団レベルの指標 |
| 共有環境 | shared environment | 同じ家庭で育った個体に共通する環境要因(家庭の社会経済的地位、養育方針など) |
| 非共有環境 | nonshared environment | 同じ家庭で育っても各個人に固有の環境経験。測定誤差を含む |
| 遺伝子-環境相関 | gene-environment correlation (rGE) | 遺伝子型と環境経験が体系的に関連する現象。受動的・喚起的・能動的の3類型がある |
| 受動的rGE | passive rGE | 親が子に遺伝子と家庭環境の両方を提供することで生じる遺伝子-環境相関 |
| 喚起的rGE | evocative rGE | 個人の遺伝的に影響された特性が周囲から特定の反応を引き出すことで生じる遺伝子-環境相関 |
| 能動的rGE | active rGE | 個人が遺伝的傾向に適合する環境を能動的に選択・構築することで生じる遺伝子-環境相関 |
| 遺伝子-環境交互作用 | gene-environment interaction (G×E) | 特定の環境要因の効果が遺伝子型によって異なる(またはその逆)現象 |
| 差次感受性仮説 | differential susceptibility hypothesis | 特定の遺伝的変異を持つ個人は環境の影響に対してポジティブ・ネガティブ双方でより強く反応するとする仮説 |
| GWAS | genome-wide association study | ゲノム全体の数十万〜数百万のSNPを網羅的にスキャンし、形質と関連するSNPを同定する手法 |
| ポリジェニック性 | polygenicity | 複雑な形質が多数の遺伝的変異の微小な効果の総和によって影響されている性質 |
| ポリジェニックスコア | polygenic score (PGS) | GWASで同定されたSNPの効果量を重み付けして合算した個人の遺伝的傾向の指標 |
| 失われた遺伝率 | missing heritability | GWASで同定されたSNPの説明する分散が双生児研究から推定される遺伝率を大幅に下回る現象 |
| エピジェネティクス | epigenetics | DNA塩基配列の変化を伴わずに遺伝子発現を調節するメカニズムの研究分野 |
| DNAメチル化 | DNA methylation | シトシン塩基にメチル基が付加される化学修飾。プロモーター領域のメチル化は一般に転写抑制と関連 |
| ヒストン修飾 | histone modification | ヒストンタンパク質の化学修飾によりクロマチン構造を変化させ、転写を調節するメカニズム |
確認問題¶
Q1: 行動遺伝学の3法則(Turkheimer, 2000)をそれぞれ説明し、第2法則と第3法則が「親の養育態度が子のパーソナリティを決定する」という素朴な見方にどのような修正を迫るかを論じよ。
A1: 第1法則は「すべての人間の行動形質は遺伝的である」、すなわち遺伝率がゼロの心理形質は事実上存在しないことを述べる。第2法則は「同じ家庭で育てられた効果(共有環境)は遺伝子の効果より小さい」ことを述べる。第3法則は「行動形質の分散のかなりの部分が遺伝子でも家庭環境でも説明されない(非共有環境が大きい)」ことを述べる。第2法則は、親の養育方針や家庭の雰囲気といった共有環境の効果が、特に成人のパーソナリティにおいてほぼ0に近いことを意味し、「親がこう育てたから子がこうなった」という単純な環境決定論を否定する。第3法則は、遺伝で説明されない分散の大部分が、同じ家庭内でも各個人に固有の経験(非共有環境)に帰属されることを示し、きょうだいが異なるパーソナリティを持つことの主な要因が、家庭の共通体験ではなく各個人に固有の経験にあることを示唆する。
Q2: 遺伝子-環境相関(rGE)の3つの類型(受動的・喚起的・能動的)をそれぞれ定義し、知能の遺伝率が幼少期から成人期にかけて上昇する現象をrGEの発達的変化の観点から説明せよ。
A2: 受動的rGEは、親が子に遺伝子と家庭環境の両方を提供することで生じる相関である(例: 知能の高い親が知的な家庭環境を提供しつつ、知能関連遺伝子を伝達する)。喚起的rGEは、個人の遺伝的に影響された特性が周囲から特定の反応を引き出すことで生じる(例: 好奇心の強い子に大人がより多くの知的刺激を提供する)。能動的rGEは、個人が自身の遺伝的傾向に適合する環境を能動的に選択・構築することで生じる(例: 知的関心の高い青年が大学進学や読書環境を選ぶ)。幼少期には親が提供する環境に依存する受動的rGEが優勢だが、発達に伴い自律性が増すと能動的rGEの比重が増大する。個人が遺伝的傾向に合った環境を積極的に選択するようになることで、遺伝的影響が表現型により強く反映されるようになり、結果として知能の遺伝率が年齢とともに上昇する。
Q3: 候補遺伝子研究(例: Caspiらの5-HTTLPR研究)からGWASへの方法論的転換が生じた背景を説明し、GWASが心理形質について明らかにしたポリジェニック性の含意を論じよ。
A3: 候補遺伝子研究は、理論的仮説に基づいて選択した特定遺伝子と形質の関連を検討するアプローチだが、再現性の危機(大規模サンプルでの再現失敗)、検定の多重性による偽陽性リスク、小規模サンプルによる効果量の過大推定(winner's curse)という問題が明らかになった。Caspiらの5-HTTLPR×ストレスのG×E研究も大規模メタ分析で再現に失敗している。GWASは仮説フリーにゲノム全体を網羅的にスキャンし、厳格な有意水準(p < 5×10⁻⁸)を用いることでこれらの問題に対処する。GWASが明らかにした心理形質のポリジェニック性は、形質が数百〜数千以上の遺伝的変異の微小な効果の総和で影響されていることを意味し、「知能遺伝子」「うつ病遺伝子」のような単一遺伝子的な表現が誤りであることを示す。この知見は、遺伝的影響が多数の経路に分散していること、個々の遺伝的変異の効果は極めて小さいこと、そして単一遺伝子の操作による劇的な形質変化は期待できないことを含意する。
Q4: Meaneyらのラットにおけるリッキング・グルーミング研究の実験手続きと主要な知見を説明し、この研究がエピジェネティクスの観点から「遺伝と環境の相互作用」の理解にどのような貢献をしたかを論じよ。
A4: Meaneyらは、母ラットのリッキング・グルーミング(LG)行動の量に自然変動があることを利用し、高LG母と低LG母に養育された仔のストレス反応系を比較した。高LG母に養育された仔は海馬のグルココルチコイド受容体(GR)遺伝子プロモーター領域のメチル化水準が低く、GR発現が高く、HPA軸のネガティブフィードバックが効率的に機能し、低ストレス反応性を示した。低LG母に養育された仔は逆のパターンを示した。養子交差実験により、この効果が遺伝子型ではなく養育環境に媒介されることが確認された。この研究の貢献は、環境要因(母親の養育行動)が特定の遺伝子のエピジェネティックな修飾(DNAメチル化)を介して遺伝子発現を変化させ、それが個体の行動表現型(ストレス反応性)に持続的な影響を及ぼすという、環境→エピゲノム→遺伝子発現→行動という因果経路を分子レベルで実証した点にある。遺伝と環境は単に加算的に作用するのではなく、環境が遺伝子の「読み方」を変えるという動的な相互作用を示している。
Q5: 遺伝率の概念についてしばしば見られる誤解を2つ挙げ、それぞれがなぜ誤りであるかを正確に説明せよ。
A5: 第一の誤解は「遺伝率0.50は、個人の形質の50%が遺伝で決まることを意味する」というものである。遺伝率は個人レベルの指標ではなく集団レベルの指標であり、集団内の表現型分散のうち遺伝的変動が占める割合を示す。個人の形質は遺伝と環境の不可分な共同産物であり、「この人の知能の50%は遺伝」という分割は原理的に不可能である。第二の誤解は「遺伝率が高い形質は環境介入で変えられない」というものである。遺伝率は特定の集団・時代・環境条件のもとでの指標であり、環境条件が変化すれば遺伝率も変動する。身長の遺伝率は極めて高いが、栄養状態の改善により集団の平均身長は大幅に上昇した。同様に、知能のFlynn効果(世代を経た知能検査得点の上昇)は、遺伝率が高いことが環境の影響を排除しないことの明確な事例である。