Module 4-1 - Section 1: 心理学史の深化¶
セクション情報¶
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| モジュール | Module 4-1: 心理学史・科学哲学 |
| 前提セクション | なし |
| 想定学習時間 | 8時間 |
導入¶
Module 0-1 Section 2「心理学の歴史的展開」では、Wundtの実験室開設から認知革命に至る心理学の主要パラダイムを概観した。本セクションでは、その概観を前提として、心理学が独立科学として成立するに至った知的背景をより深く掘り下げ、各学派の興亡を内的要因(理論的矛盾・方法論的限界)と外的要因(社会的需要・制度的基盤・技術的条件)の両面から分析する。さらに、Thomas Kuhn(トマス・クーン)の科学革命論を分析枠組みとして導入し、心理学の歴史がKuhn的な「パラダイムシフト」として記述可能かを批判的に検討する。最後に、西洋で成立した心理学が日本においていかに受容・変容されたかを検討し、心理学の「普遍性」と「文化的文脈依存性」について考察する。
心理学成立の知的背景¶
心理学の成立は、17世紀以降の哲学的潮流と19世紀の自然科学の発展という二つの系譜が合流した結果として理解される。Module 0-1では経験論と合理論の対立を概観したが、ここではより具体的に、イギリス経験論、ドイツ観念論、および生理学の発展がそれぞれいかなる形で心理学の成立に寄与したかを分析する。
イギリス経験論の系譜と連合主義心理学¶
Key Concept: 連合主義(associationism) 複雑な心的内容は単純な観念の連合(結合)によって構成されるとする立場。LockeからHartley、James Mill、John Stuart Millを経て、心理学における学習理論の源流となった。
John Locke(ジョン・ロック, 1632-1704)が『人間悟性論(An Essay Concerning Human Understanding)』(1690年)で提唱したタブラ・ラサの概念と、知識が感覚経験に由来するという主張は、心理学の基本前提の一つを準備した。しかし、心理学成立への直接的影響という点では、Lockeよりも後続の経験論者がより大きな役割を果たした。
David Hume(デイヴィッド・ヒューム, 1711-1776)は『人間本性論(A Treatise of Human Nature)』(1739年)において、観念の連合(association of ideas)に関する三つの原理、すなわち類似(resemblance)、時空的近接(contiguity in time or place)、因果関係(cause and effect)を定式化した。Humeの連合原理は、複雑な心的内容が単純な要素の機械的な結合から生じるという考え方の基礎を提供した。
David Hartley(デイヴィッド・ハートレー, 1705-1757)は『人間の観察(Observations on Man)』(1749年)において、精神的な連合と身体的な神経振動(vibrations)を対応させる心身並行論的な体系を構築した。Hartleyは、精神現象を生理学的過程と結びつけて説明する最初の体系的試みを行った点で、後の生理学的心理学への橋渡し的位置にある。
James Mill(ジェイムズ・ミル, 1773-1836)は連合主義を徹底化し、すべての複合観念は単純観念の機械的加算であると主張した。これに対し、その子John Stuart Mill(ジョン・スチュアート・ミル, 1806-1873)は「精神の化学(mental chemistry)」という比喩を用いて、複合観念は構成要素の単なる総和ではなく、化学反応のように質的に新しい性質を生み出しうると修正した。この修正は、後にWundtの「創造的総合(creative synthesis)」の概念や、ゲシュタルト心理学の全体性原理を先取りするものであった。
graph TD
A["Locke<br>タブラ・ラサ<br>(1690)"] --> B["Hume<br>連合の三原理<br>(1739)"]
A --> C["Hartley<br>連合主義+神経振動<br>(1749)"]
B --> D["James Mill<br>機械的連合主義"]
C --> D
D --> E["J.S. Mill<br>精神の化学"]
E --> F["Wundtの創造的総合"]
E --> G["ゲシュタルト心理学の<br>全体性原理"]
B --> H["行動主義の<br>S-R連合学習"]
イギリス経験論の連合主義の系譜が心理学に与えた遺産は大きい。第一に、心的過程を経験から導出しうるという原理は、心理学を経験科学として構想する基盤を提供した。第二に、連合の原理は、行動主義のS-R結合(刺激-反応結合)の直接的な先駆であった。第三に、心的内容を要素に分解するという分析的方法論は、Wundtの構成主義の方法論的前提となった。
ドイツ観念論とWundtの位置づけ¶
Key Concept: 統覚(apperception) Leibnizが導入しKantが発展させた概念で、単なる知覚(perception)を超えた能動的な意識的把握を指す。Wundtはこの概念を実験心理学に取り込み、意志的注意による意識の統合作用として位置づけた。
イギリス経験論が「心は受動的な連合装置である」と考えたのに対し、ドイツ観念論は心の能動的・構成的な側面を強調した。この相違は心理学の成立過程に根本的な影響を及ぼした。
Immanuel Kant(イマヌエル・カント, 1724-1804)は『純粋理性批判(Kritik der reinen Vernunft)』(1781年)において、経験に先立つ認識形式(時間・空間の直観形式、カテゴリー)の存在を論じ、心が経験を能動的に構成するという立場をとった。Kantの哲学は心理学に対して複雑な影響を及ぼした。一方で、Kantの認識論は心の能動的性質についての深い洞察を含んでおり、Wundtの統覚(apperception)概念に影響を与えた。他方で、Kant自身は心理学が自然科学たりえないと主張した。その根拠は、心的現象は空間的広がりを持たないため数学的に扱えない、内観は観察対象を変化させてしまう、心的現象に対して実験的操作を加えることはできない、という三点であった。
Wundtの歴史的意義の一つは、まさにKantのこの否定を乗り越える形で実験心理学を構想した点にある。Wundtは、Fechnerの精神物理学やHermann von Helmholtz(ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ, 1821-1894)の感覚生理学の成果を援用し、心的現象に対する実験的操作が実際に可能であることを実践的に示した。同時にWundtは、イギリス経験論の受動的連合主義と、ドイツ観念論の能動的統覚の概念を統合しようとした。Wundtにおける「意志心理学(voluntarism)」という名称は、心的過程において意志的・能動的側面を重視する彼の立場を反映している。
生理学の発展と心理学の「科学化」¶
Key Concept: 個人方程式(personal equation) 天文観測において観測者間に生じる反応時間の個人差。心理的過程が測定可能であることを示した最初の事例の一つであり、実験心理学成立の契機の一つとなった。
19世紀の生理学の急速な発展は、心理学が哲学から分離して独立の経験科学となるための決定的な条件を整えた。
19世紀初頭、天文台における星の通過時刻の観測で、観測者間に系統的な誤差が存在することが発見された。これは個人方程式(personal equation)と呼ばれ、心理的過程(反応時間)が測定可能であることを示す初期の事例であった。Friedrich Bessel(フリードリヒ・ベッセル, 1784-1846)がこの問題を体系的に研究し(1823年)、個人差を数値的に補正する方法を開発した。この発見は、後にFransiscus Cornelis Donders(フランシスクス・コルネリス・ドンデルス, 1818-1889)の反応時間研究や、Wundtの実験心理学における反応時間測定の直接的な先駆となった。
Johannes Muller(ヨハネス・ミュラー, 1801-1858)が定式化した特殊神経エネルギー説(doctrine of specific nerve energies)は、感覚の質の違いが刺激の物理的性質ではなく、刺激される神経線維の種類によって決定されるとする理論であった。この学説は、心的経験が外界の直接的な写しではなく、神経系の構造に制約された構成物であることを示唆し、心身関係を実証的に研究するための理論的基盤を提供した。
Mullerの弟子であるHelmholtzは、神経伝導速度の測定(1850年頃)という画期的な研究を行った。それまで神経伝達は瞬間的であると信じられていたが、Helmholtzはカエルの坐骨神経を用いた実験で、神経伝導速度が約27m/sという有限の値であることを示した。この発見は、精神的過程にも測定可能な時間がかかることを意味しており、心的過程の時間的研究(mental chronometry)の可能性を開いた。さらに、Helmholtzは無意識的推論(unconscious inference)の概念を提唱し、知覚が感覚データに対する無意識的な推論過程を含むことを論じた。
graph LR
A["天文学<br>個人方程式<br>(Bessel, 1823)"] --> D["反応時間の研究<br>(Donders)"]
B["Muller<br>特殊神経エネルギー説"] --> C["Helmholtz<br>神経伝導速度の測定"]
C --> D
D --> E["Wundt<br>実験心理学の成立<br>(1879)"]
F["Fechner<br>精神物理学<br>(1860)"] --> E
B --> F
C --> G["Helmholtz<br>無意識的推論"]
G --> H["認知心理学における<br>トップダウン処理"]
Fechnerの精神物理学(1860年の『精神物理学原論(Elemente der Psychophysik)』)が、刺激の物理的強度と感覚的経験の間に対数関数的な法則的関係(Fechnerの法則)が成立することを示したことは、Kantの「心理学は数学的に扱えない」という主張に対する直接的な反証となった。
各学派の興亡の内的・外的要因¶
心理学の歴史は、複数の学派(school)が相互に批判・継承しながら展開した過程として記述される。ここでは、各学派の衰退と新学派の台頭を、理論内在的な要因(内的要因)と社会的・制度的な要因(外的要因)の両面から分析する。
構成主義の衰退¶
内的要因: 構成主義の最も深刻な内的問題は、「無像思考(imageless thought)」論争であった。Wurzburg学派(Oswald Kulpe(オスヴァルト・キュルペ)ら)は、内観法による実験で、思考過程においてイメージ(心像)を伴わない意識内容が存在することを報告した。Titchenerはこれを否定し、あらゆる意識内容はイメージに還元可能であると主張したが、両者の内観報告が一致しないという事態は、内観法に依拠する構成主義の方法論的基盤そのものを揺るがすものであった。異なる実験室で異なる結果が得られるという事態は、科学的方法としての内観法の信頼性を致命的に損なった。
外的要因: アメリカにおける構成主義の制度的基盤は、Titchener個人のカリスマと結びついていた。彼の死(1927年)後に学派を維持する後継者が育っていなかった。加えて、アメリカのプラグマティズム的知的風土は、「意識の要素を分析する」という純粋科学的プログラムより、「心理学的知見を実際問題の解決に応用する」という実用的志向と親和的であり、機能主義や応用心理学が社会的支持を集めた。
行動主義の台頭と衰退¶
台頭の内的要因: 行動主義は、内観法の主観性という構成主義の方法論的問題に対する明快な解答を提供した。研究対象を客観的に観察・測定可能な行動に限定することで、心理学の科学的厳密性を確保するという方略は、自然科学(特に物理学)をモデルとする科学観と合致していた。
台頭の外的要因: 二つの世界大戦は、心理学への応用的需要を急激に高めた。兵士の選抜(知能検査の大規模適用)、戦争神経症(シェルショック)の治療、プロパガンダ研究、人間工学的課題(操縦士の訓練等)など、実用的問題への対処が求められた。行動主義の客観的方法論は、こうした応用場面において効果的であった。また、アメリカにおける動物実験の伝統(Thorndike以来の学習研究)との制度的連続性も、行動主義の定着を支えた。大学や研究機関に動物行動実験の設備とノウハウが蓄積されていたことが、行動主義的研究の迅速な展開を可能にした。
衰退の内的要因: 行動主義の理論的限界は複数の方面から露呈した。Chomskyの批判(1959年)は言語の領域における限界を鮮明にしたが、それに先立つEdward C. Tolman(エドワード・C・トールマン, 1886-1959)の認知地図(cognitive map)研究(1948年)も重要である。Tolmanはネズミの迷路学習実験で、ネズミが単なるS-R結合ではなく、迷路の空間的表象(認知地図)を形成していることを示した。潜在学習(latent learning)の発見、すなわち強化がなくても学習が生じうるという知見は、行動主義の強化理論に対する直接的な異議申し立てであった。
衰退の外的要因: 第二次世界大戦中および戦後の技術的発展が決定的であった。情報理論(Claude Shannon, 1948年)、サイバネティクス(Norbert Wiener, 1948年)、コンピュータ科学の発展は、「情報処理」という新しい概念的枠組みを提供した。この枠組みは、入力と出力の間に介在する内的処理過程を理論的に正当化するものであり、行動主義が排除しようとした「ブラックボックスの中身」を科学的に扱う方途を開いた。
ゲシュタルト心理学の運命¶
内的要因: ゲシュタルト心理学は知覚研究において強力な成果を挙げたが、理論の形式化と予測力の点で課題を抱えていた。「全体は部分の総和とは異なる」という原理は直観的には説得力があるものの、「いかなる全体がいかなる条件で生じるか」を予測する精密な理論的枠組みの構築は十分には達成されなかった。Kohlerが物理学における場(field)の理論との対応を試みた脳場理論(brain field theory)は、Roger Sperry(ロジャー・スペリー)やKarl Lashley(カール・ラシュレイ)の実験によって実証的に否定された。
外的要因: ナチス政権の台頭(1933年)により、ゲシュタルト心理学の主要人物はドイツからの亡命を余儀なくされた。Wertheimer、Kohler、Koffka、そしてKurt Lewin(クルト・レヴィン)はいずれもアメリカに渡ったが、アメリカの心理学は行動主義が支配的であり、ゲシュタルト心理学者は周辺的な位置に置かれた。制度的基盤の喪失と知的環境の不適合が、学派としての組織的影響力の低下を招いた。ただし、個々の概念(群化法則、洞察学習、場の理論など)は認知心理学や社会心理学に吸収され、現在も影響を持続している。
graph TD
subgraph "内的要因"
A1["構成主義: 無像思考論争<br>内観法の信頼性問題"]
A2["行動主義: 認知地図・潜在学習<br>言語の創造性問題"]
A3["ゲシュタルト: 形式化の困難<br>脳場理論の反証"]
end
subgraph "外的要因"
B1["構成主義: Titchener死後の<br>後継者不在、実用主義的風土"]
B2["行動主義: 情報理論・<br>コンピュータ科学の発展"]
B3["ゲシュタルト: ナチス政権による<br>亡命、制度的基盤の喪失"]
end
A1 --> C["構成主義の衰退"]
B1 --> C
A2 --> D["行動主義の衰退"]
B2 --> D
A3 --> E["ゲシュタルト心理学の<br>学派としての衰退"]
B3 --> E
C --> F["機能主義・行動主義の台頭"]
D --> G["認知革命"]
E --> G
心理学における「革命」の構造:Kuhn的分析¶
Key Concept: パラダイム(paradigm) Thomas Kuhnが提唱した概念で、科学者共同体が共有する理論的枠組み・方法論・価値・模範的問題解法の総体を指す。パラダイムが交替する過程がKuhnのいう「科学革命」である。
Thomas S. Kuhn(トマス・S・クーン, 1922-1996)は『科学革命の構造(The Structure of Scientific Revolutions)』(1962年)において、科学の発展は漸進的な知識の蓄積ではなく、パラダイムの転換(パラダイムシフト)を伴う非連続的な過程であると論じた。Kuhnのモデルでは、科学の発展は「前科学 → 通常科学 → 危機 → 科学革命 → 新たな通常科学」というサイクルで進行する。
Kuhnモデルの心理学への適用¶
心理学史をKuhnの枠組みで分析する試みは多くの論者によって行われてきたが、その適用可能性については見解が分かれている。
適用可能とする立場: 行動主義から認知心理学への転換は、Kuhn的なパラダイムシフトの典型例として引用されることが多い。研究対象(行動 → 認知過程)、方法論(S-R分析 → 情報処理分析)、基本的比喩(ブラックボックス → コンピュータ比喩)のいずれもが転換しており、通約不可能性(incommensurability)の要件を満たすように見える。また、行動主義の危機(Tolmanの認知地図、Chomskyの批判等)→ 認知革命 → 認知心理学の通常科学化という展開は、Kuhnのサイクルに対応している。
適用困難とする立場: 心理学にKuhnモデルを適用することに対しては、根本的な批判が提起されている。
第一に、Kuhn自身が心理学を含む社会科学は「前パラダイム段階(pre-paradigmatic stage)」にあると述べた。Kuhnのいう「通常科学」は、単一のパラダイムが支配する状態を前提とするが、心理学は歴史を通じて複数のアプローチが共存してきた。行動主義の「支配」の時代にも、ゲシュタルト心理学・精神分析・社会心理学など、行動主義的方法論に従わない研究は継続していた。
第二に、Kuhnのモデルは物理学をモデルとしており、パラダイム間の通約不可能性を強調する。しかし、心理学におけるアプローチの転換は、先行アプローチの完全な放棄を意味しなかった。認知革命後も行動分析学は独自の領域として存続しており、応用行動分析(ABA)は自閉スペクトラム症の介入法として現在も広く用いられている。
第三に、Sigmund Koch(ジークムント・コッホ, 1917-1996)は、心理学は統一された単一の学問(a discipline)ではなく、心理学的諸研究(psychological studies)の緩やかな集合体であると論じた。この見解に立てば、心理学全体を一つのパラダイムで記述すること自体が不適切である。
多元的パラダイム共存モデル¶
Kuhnのモデルの厳密な適用が困難であるとすれば、心理学の歴史をより適切に記述する代替的な枠組みが必要となる。
Larry Laudan(ラリー・ラウダン)の「研究伝統(research tradition)」モデルは、一つの有力な代替案である。Laudanは、科学の発展を「問題解決能力」の観点から評価し、複数の研究伝統が同時に競合しうることを認める。このモデルは、心理学のように複数のアプローチが共存する分野により適合的である。
心理学史の記述においては、「単一パラダイムの交替」ではなく、「複数のアプローチが社会的・制度的条件に応じて影響力の相対的消長を繰り返す」というモデルがより実態に即しているといえる。各アプローチは、特定の現象領域において他のアプローチよりも優れた説明力を発揮し、その相対的な優位性が社会的需要や技術的条件の変化に応じて変動する。
graph TD
subgraph "Kuhnモデル"
K1["前科学"] --> K2["通常科学<br>パラダイムA"]
K2 --> K3["危機<br>変則事例の蓄積"]
K3 --> K4["科学革命<br>パラダイムシフト"]
K4 --> K5["通常科学<br>パラダイムB"]
end
subgraph "心理学の実態"
P1["行動主義"] --- P2["ゲシュタルト心理学"]
P1 --- P3["精神分析"]
P2 --- P3
P1 --> P4["認知心理学"]
P2 --> P4
P5["応用行動分析として存続"] -.-> P1
end
日本における心理学の受容と展開¶
Key Concept: 元良勇次郎(もとら ゆうじろう, 1858-1912) 日本最初の心理学教授。ジョンズ・ホプキンス大学でG. Stanley Hallに師事し、帰国後に帝国大学(現・東京大学)で日本の学術的心理学の基礎を築いた。
日本における心理学の受容は、明治期の近代化政策と密接に結びついている。西洋学問の組織的な導入という文脈のなかで心理学がいかに受容・変容されたかを検討することは、心理学の「普遍性」を相対化する視点を提供する。
明治期の導入¶
日本における学術的心理学の始まりは、1888年に元良勇次郎(もとら ゆうじろう, 1858-1912)が帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)に着任したことに求められる。元良はアメリカのジョンズ・ホプキンス大学でG. Stanley Hall(G・スタンレー・ホール, 1844-1924)に師事し、ボストン大学で博士号を取得した後に帰国した。1903年には帝国大学に心理学実験室を開設している。
元良の後、松本亦太郎(まつもと またたろう, 1865-1943)がドイツでWundtに師事し、帰国後に実験心理学の発展に寄与した。松本は1913年に京都帝国大学に心理学の講座を開設し、1927年には日本心理学会の設立に中心的な役割を果たした。
ここで注目すべきは、日本における心理学の導入が、アメリカ経由(元良→Hall)とドイツ経由(松本→Wundt)の二つのルートで行われた点である。この二重の系譜は、機能主義的・応用志向的な傾向(アメリカ経由)と、実験的・基礎研究志向的な傾向(ドイツ経由)の両面を日本の心理学にもたらした。
受容過程の特質¶
日本における心理学の受容には、いくつかの特徴的な様相が認められる。
第一に、日本語における「心理学」という訳語の問題がある。「心理学」という訳語はpsychologyの翻訳であるが、「心」「理」という漢字が喚起する東洋的な含意と、psychologyが前提とするギリシア-キリスト教的な魂(psyche)の概念との間には意味論的な齟齬がある。西周(にし あまね, 1829-1897)が「心理学」の訳語を定着させたとされるが、この翻訳行為自体が文化的変容の一例である。
第二に、Wundtの民族心理学(Volkerpsychologie)への関心が挙げられる。Wundtは実験心理学だけでなく、言語・神話・習俗を対象とする民族心理学(全10巻、1900-1920年)にも膨大な労力を注いだが、アメリカではこの側面はほぼ無視された。日本では、Wundtの民族心理学が比較的注目されており、これは「文化と心」の関係への関心が日本の知的伝統と親和的であったことを示唆する。
第三に、戦後の展開として、アメリカ心理学の圧倒的影響が挙げられる。第二次世界大戦後、ドイツ系の影響は後退し、アメリカ心理学(特に実験心理学、臨床心理学)が日本の心理学の主要な参照枠となった。この転換は、占領政策下での教育制度改革やアメリカへの留学者の増加と連動している。1950年代以降、行動主義的学習心理学が日本でも主流の一つとなり、1960年代以降は認知心理学の導入が進んだ。
| 時期 | 主な出来事 | 主な影響源 |
|---|---|---|
| 1888年 | 元良勇次郎、帝国大学着任 | アメリカ(Hall) |
| 1903年 | 帝国大学心理学実験室開設 | ドイツ(Wundt) |
| 1913年 | 京都帝国大学に心理学講座開設 | ドイツ(Wundt) |
| 1927年 | 日本心理学会設立 | ドイツ・アメリカ |
| 戦後 | アメリカ心理学の圧倒的影響 | アメリカ(行動主義・臨床) |
| 1960年代〜 | 認知心理学の導入 | アメリカ(認知革命) |
日本からの独自的貢献¶
受容のみならず、日本の心理学者による独自の貢献も存在する。内田勇三郎(うちだ ゆうざぶろう, 1894-1966)によるクレペリン精神検査の標準化・改良(内田クレペリン精神検査)は、ドイツの精神医学者Emil Kraepelin(エミール・クレペリン)の連続加算法を日本で実用化したものであり、現在も日本国内で広く使用されている。また、矢田部達郎(やたべ たつろう, 1893-1958)らによるYG性格検査(矢田部ギルフォード性格検査)の開発は、J.P. Guilford(J・P・ギルフォード)の性格理論を日本の文脈に適応させたものである。
まとめ¶
- 心理学の成立は、イギリス経験論(連合主義の系譜)、ドイツ観念論(能動的心の概念)、19世紀生理学(測定可能性の実証)という三つの知的系譜の合流として理解される
- 各学派の興亡は、理論的矛盾・方法論的限界(内的要因)と、社会的需要・制度的基盤・技術的革新(外的要因)の複合的作用によって説明される
- Kuhnのパラダイムシフトモデルは心理学史の記述に一定の有効性を持つが、複数のアプローチが常に共存してきた心理学の実態には、多元的パラダイム共存モデルの方がより適合的である
- 日本における心理学の受容はアメリカ経由とドイツ経由の二重の系譜を持ち、翻訳や文化的変容を伴う特質を有している
- 心理学史を深く理解することは、現在の心理学の多元性がいかなる歴史的経緯から生じたかを把握するうえで不可欠であり、次のSection 2では科学哲学的観点から心理学の方法論をより詳細に検討する
用語集(Glossary)¶
| 用語 | 英語表記 | 定義 |
|---|---|---|
| 連合主義 | associationism | 複雑な心的内容は単純な観念の連合によって構成されるとする立場 |
| 統覚 | apperception | 単なる知覚を超えた能動的な意識的把握。Leibnizが導入しWundtが実験心理学に取り込んだ |
| 個人方程式 | personal equation | 天文観測における観測者間の反応時間の系統的個人差 |
| 特殊神経エネルギー説 | doctrine of specific nerve energies | 感覚の質が刺激される神経線維の種類によって決定されるとする理論 |
| 無意識的推論 | unconscious inference | 知覚が感覚データに対する無意識的な推論過程を含むとするHelmholtzの概念 |
| 精神の化学 | mental chemistry | J.S. Millの概念で、複合観念が構成要素の総和とは質的に異なりうることを表す比喩 |
| 意志心理学 | voluntarism | 心的過程における意志的・能動的側面を重視するWundtの立場 |
| 無像思考 | imageless thought | 心像を伴わない思考の存在。Wurzburg学派が報告し構成主義に打撃を与えた |
| パラダイム | paradigm | 科学者共同体が共有する理論・方法論・価値・模範的問題解法の総体 |
| 通約不可能性 | incommensurability | 異なるパラダイム間では概念や基準が本質的に比較不可能であるとするKuhnの概念 |
| 研究伝統 | research tradition | Laudanの概念で、共通の存在論・方法論を共有する理論群の系譜 |
| 認知地図 | cognitive map | Tolmanが提唱した概念で、環境の空間的配置に関する内的表象 |
| 潜在学習 | latent learning | 強化が与えられなくても学習が生じる現象。行動主義の強化理論への反証 |
| 民族心理学 | Volkerpsychologie | Wundtが構想した、言語・神話・習俗を対象とする文化的心理学の試み |
確認問題¶
Q1: イギリス経験論における連合主義の系譜(Locke → Hume → Hartley → James Mill → J.S. Mill)が、Wundtの実験心理学や行動主義に対していかなる理論的遺産を残したか、具体的に説明せよ。
A1: イギリス経験論の連合主義は、心理学に対して少なくとも三つの理論的遺産を残した。第一に、知識は生得的ではなく感覚経験から獲得されるという原理(Locke)は、心理学を経験科学として構想する基盤を提供した。第二に、Humeの連合原理(類似・近接・因果)に始まる、複雑な心的内容を単純な要素の結合として説明する方法論は、Wundtの構成主義における意識要素の分析的アプローチの前提となり、また行動主義のS-R結合理論の直接的な先駆ともなった。第三に、J.S. Millの「精神の化学」概念は、連合の結果が構成要素の単なる総和を超える可能性を示唆し、Wundtの「創造的総合」やゲシュタルト心理学の全体性原理を先取りした。このように連合主義の系譜は、要素分析的方法論と要素還元主義批判の両方の源流を内包していた。
Q2: KantはなぜWundtに先立って「心理学は自然科学たりえない」と主張したのか。また、Wundtはいかにしてこの否定を乗り越えたか。
A2: Kantが心理学の自然科学化を否定した根拠は三点ある。(1) 心的現象は空間的広がりを持たないため数学的に扱えない、(2) 内観は観察行為自体が観察対象を変化させてしまう、(3) 心的現象に実験的操作を加えることはできない。Wundtはこれらの否定を、主に19世紀生理学の成果を援用して乗り越えた。具体的には、Fechnerの精神物理学が物理的刺激と心理的経験の間に数量的法則関係(対数法則)が成立することを実証し、「数学的に扱えない」という批判に反証を与えた。また、Helmholtzの神経伝導速度測定やDondersの反応時間研究の方法論を取り入れることで、心的過程に対する実験的操作・測定が実際に可能であることを示した。
Q3: 行動主義の台頭と衰退を、内的要因(理論的・方法論的限界)と外的要因(社会的・制度的条件)の両面から分析せよ。
A3: 行動主義の台頭における内的要因は、内観法の主観性問題に対する解決策として客観的方法論を提供した点にある。外的要因としては、二つの世界大戦が心理学への応用的需要(兵士の選抜、戦争神経症治療等)を高め、行動主義の客観的方法論がこうした応用場面に適合していたこと、および動物実験の制度的基盤が既に存在していたことが挙げられる。衰退の内的要因としては、Tolmanの認知地図・潜在学習が強化理論の限界を示し、Chomskyの批判が言語の創造性をS-R結合では説明できないことを明確にした。外的要因としては、情報理論・サイバネティクス・コンピュータ科学の発展が「情報処理」という代替的枠組みを提供し、ブラックボックスの中身を科学的に扱う方途を開いたことが決定的であった。
Q4: Kuhnのパラダイムシフトモデルを心理学史に適用することの妥当性と限界を論じよ。心理学をより適切に記述する代替モデルとして何が提案されているか。
A4: Kuhnモデルの適用を支持する根拠としては、行動主義から認知心理学への転換が、研究対象・方法論・基本的比喩のいずれにおいても転換を伴い、パラダイムシフトの要件を形式的に満たすように見える点がある。しかし、限界も根本的である。第一に、Kuhn自身が心理学を前パラダイム段階にあると位置づけた。第二に、心理学では行動主義の時代にも複数のアプローチ(ゲシュタルト心理学、精神分析等)が共存しており、単一パラダイムの支配という前提が成立しない。第三に、認知革命後も行動分析学は独立の領域として存続しており、先行パラダイムの完全な放棄という帰結が生じていない。代替モデルとしては、Laudanの研究伝統モデルがあり、複数の研究伝統が問題解決能力の観点から競合・共存しうることを認める点で、心理学の実態により適合的である。
Q5: 日本における心理学の受容過程が持つ二重の系譜(アメリカ経由・ドイツ経由)について、具体的な人物と制度を挙げつつ、それが日本の心理学にいかなる影響を及ぼしたか述べよ。
A5: 日本の学術的心理学はアメリカ経由とドイツ経由の二重のルートで導入された。アメリカ経由では、元良勇次郎がジョンズ・ホプキンス大学でHallに師事し、1888年に帝国大学に着任した。Hallは機能主義的・発達心理学的な志向を持つ人物であり、応用志向的な心理学の流れを日本にもたらした。ドイツ経由では、松本亦太郎がWundtに師事し、帰国後に実験心理学の基礎研究を推進した(1913年に京都帝国大学に心理学講座を開設)。この二重の系譜により、日本の心理学は初期から基礎的実験研究と応用的関心の両面を有することとなった。戦後はアメリカの影響が圧倒的となり、行動主義的学習心理学と臨床心理学が主流となった。1960年代以降は認知心理学が導入され、アメリカ心理学の動向がほぼ即座に日本に反映される構造が定着した。