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Module 4-1 - Section 2: 科学哲学と心理学

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 4-1: 心理学史・科学哲学
前提セクション Section 1(心理学史の深化)
想定学習時間 7時間

導入

Section 1では、心理学の成立過程を知的背景・各学派の興亡・Kuhn的パラダイム論の適用可能性という観点から検討した。そこで明らかになったのは、心理学が「単一パラダイムの科学」としてKuhnモデルに適合しにくいという問題であった。本セクションでは、この問題をより広い科学哲学の文脈に位置づけ、20世紀の主要な科学哲学的立場が心理学の方法論・理論構成・科学的地位にいかなる影響を及ぼしてきたかを体系的に検討する。

科学哲学は「科学とは何か」「科学的知識はいかにして正当化されるか」という問いを扱う。この問いは心理学にとって特に切実である。心理学は、一方で自然科学と同等の厳密性を目指しながら、他方で主観的経験・意味・文化といった自然科学的方法では十分に捉えられない対象を扱うという、固有の緊張を抱えてきた。論理実証主義、反証主義、パラダイム論、科学的実在論と道具主義、還元主義の問題という五つの主題を通じて、心理学が自らの科学的基盤をいかに構築し、また問い直してきたかを明らかにする。


論理実証主義と操作主義

Key Concept: 論理実証主義(logical positivism) 1920年代にウィーン学団を中心に形成された科学哲学上の立場。科学的に有意味な命題は、経験的に検証可能な命題と論理学・数学の命題のみであるとする「検証可能性原理」を中核に据えた。形而上学的命題を「無意味」として排除することを企図した。

ウィーン学団と検証可能性原理

1920年代、Moritz Schlick(モーリッツ・シュリック, 1882-1936)を中心にウィーン学団(Vienna Circle)が形成された。Rudolf Carnap(ルドルフ・カルナップ, 1891-1970)やOtto Neurath(オットー・ノイラート, 1882-1945)らを含むこのグループは、科学の統一と形而上学の排除を掲げた。論理実証主義(logical positivism)の中核的主張は検証可能性原理(verifiability principle)であり、ある命題が認知的に有意味であるためには、原理的に経験的検証が可能でなければならないとする。

この原理のもとでは、「無意識の欲動が行動を決定する」「自己実現の欲求が人間行動の究極的動因である」といった命題は、経験的に検証する手続きが明示されない限り、科学的に無意味なものとして退けられることになる。論理実証主義は、心理学における理論的概念に対して、経験的手続きとの明示的な対応関係を要求するという形で影響を及ぼした。

操作主義の心理学への導入

Key Concept: 操作主義(operationism / operationalism) Percy Bridgmanが物理学において提唱した立場で、科学的概念の意味はその概念を測定する操作によって定義されるとする。心理学においてはS.S. Stevensが導入し、「知能とは知能検査が測定するものである」のような操作的定義の方法論を普及させた。

論理実証主義の影響を受けて、物理学者Percy Bridgman(パーシー・ブリッジマン, 1882-1961)は『近代物理学の論理(The Logic of Modern Physics)』(1927年)において操作主義(operationism)を提唱した。Bridgmanは、科学的概念の意味はその概念を測定する操作手続きの集合と同一であると主張した。たとえば「長さ」の意味は、物差しを当てて測定するという操作そのものによって定義される。

心理学においては、Stanley Smith Stevens(S・S・スティーヴンス, 1906-1973)が「操作主義の心理学(Psychology and the science of science)」(1935年)において、操作主義を心理学の方法論的基盤として積極的に導入した。操作的定義(operational definition)の考え方は、心理学における理論的構成概念を経験的手続きに結びつけるための原理として広く受け入れられた。

操作的定義の具体例: - 「知能」 → 知能検査(例: WAIS)の得点 - 「不安」 → 状態-特性不安質問紙(STAI)の得点 - 「攻撃性」 → 特定の実験場面における攻撃的行動の頻度

操作主義は心理学にいくつかの恩恵をもたらした。第一に、曖昧な概念を具体的な測定手続きに結びつけることで、研究の再現可能性を高めた。第二に、形而上学的な思弁を排し、経験的に検討可能な形で問題を定式化する規律を研究者に課した。

操作主義の問題点と批判

しかし、操作主義の厳密な適用は深刻な問題を孕んでいた。

第一に、概念の増殖問題がある。 厳密な操作主義では、異なる操作は異なる概念を定義する。したがって、WAIS(ウェクスラー成人知能検査)で測定された「知能」とスタンフォード・ビネー検査で測定された「知能」は、操作が異なる以上、異なる概念であるということになる。これを徹底すれば、「知能」という統一的な概念自体が成立しなくなり、科学的理論の一般性が著しく損なわれる。

第二に、構成概念の理論的豊かさの喪失がある。 「不安」をSTAIの得点に還元することは、不安という現象の多面的な性質(主観的経験、生理的反応、行動的回避、認知的偏向)を切り捨てることを意味しうる。操作的定義は測定手続きの明確化には有用であるが、概念の意味をそこに限定すると、理論的理解が貧困化する。

第三に、理論負荷性の問題がある。 操作主義は、操作が理論から独立に定義できることを暗黙に前提しているが、実際にはどのような操作を行うかは理論的前提に依存する。たとえば、知能検査の項目は「知能とは何か」に関する暗黙の理論に基づいて構成されている。

graph TD
    A["ウィーン学団<br>論理実証主義<br>(1920年代)"] --> B["検証可能性原理<br>経験的検証不可能な命題は無意味"]
    A --> C["Bridgman<br>操作主義<br>(1927)"]
    C --> D["Stevens<br>心理学への操作主義導入<br>(1935)"]
    D --> E["操作的定義の普及<br>知能=IQテストの得点"]
    E --> F["恩恵: 測定の明確化<br>再現可能性の向上"]
    E --> G["問題: 概念の増殖<br>理論的豊かさの喪失<br>理論負荷性の無視"]
    G --> H["構成概念妥当性<br>Cronbach & Meehl, 1955"]

これらの批判を受けて、心理学の方法論は「厳密な操作主義」から「構成概念妥当性(construct validity)」のアプローチへと移行していった。Lee Cronbach(リー・クロンバック, 1916-2001)とPaul Meehl(ポール・ミール, 1920-2003)は「構成概念妥当性と心理テスト(Construct validity in psychological tests)」(1955年)において、心理学的概念は単一の操作によって定義されるのではなく、法則的関係のネットワーク(nomological network)の中に位置づけられるべきであると主張した。これは、操作主義の狭隘さを克服しつつ、概念の経験的基盤を維持する試みであった。


反証主義と心理学理論の検証可能性

Key Concept: 反証可能性(falsifiability) Karl Popperが提唱した科学と非科学を区別する基準。ある理論が科学的であるためには、原理的にその理論を反証しうる経験的観察が存在しなければならない。反証不可能な理論は科学ではないとする「線引き基準」として機能する。

Popperの反証主義

Karl Raimund Popper(カール・ライムント・ポパー, 1902-1994)は、論理実証主義の検証可能性原理に代えて、反証可能性(falsifiability)を科学の線引き基準(demarcation criterion)として提唱した。Popperの主著『科学的発見の論理(Logik der Forschung)』(1934年、英訳1959年)における中心的論証は以下の通りである。

科学的理論は普遍的法則の形式(「すべてのAはBである」)をとるが、有限回の観察による帰納では普遍的法則を論理的に確証(verify)することはできない(帰納の問題)。しかし、たった一つの反例(「AであってBでないもの」)によって普遍的法則を論理的に反証(falsify)することは可能である。したがって、科学的理論は「反証可能」でなければならず、科学の営みは理論の確証ではなく、反証の試みを通じた批判的淘汰によって進歩する。

Popper自身が非科学の例として繰り返し言及したのが、精神分析とアドラーの個人心理学であった。Popperは次のように論じた。フロイトの精神分析理論は、あらゆる行動を説明できるように見えるが、まさにそのことによっていかなる行動も予測・排除しない。どのような行動が観察されても、事後的にその行動を精神分析的に説明する解釈を構成できるのであれば、その理論は反証可能ではなく、したがって科学ではない。

反証主義の心理学への含意

Popperの反証主義は、心理学の理論構成に対して複数の含意を持つ。

第一に、精神分析の科学的地位に関する問題。 Popperの批判は精神分析を「非科学」に分類するものであるが、これに対しては反論も存在する。Adolf Grunbaum(アドルフ・グリュンバウム, 1923-2018)は『精神分析の基礎(The Foundations of Psychoanalysis)』(1984年)において、精神分析の問題は反証不可能性ではなく、反証可能な予測を導出できるにもかかわらず実証的裏付けが不十分であることにあると論じた。つまり、精神分析は「非科学」というより「実証的に支持されていない科学的主張」というのがGrunbaumの評価であった。

第二に、心理学理論一般の検証可能性の問題。 心理学理論の多くは、厳密な意味での反証が困難な構造を有している。Imre Lakatos(イムレ・ラカトシュ, 1922-1974)が指摘したように、科学的理論は単独で反証されるのではなく、補助仮説(auxiliary hypotheses)のネットワークとともに検証される(デュエム=クワイン・テーゼ)。心理学の実験で理論と矛盾する結果が得られた場合、理論そのものが誤りなのか、実験手続き(操作化)が不適切なのか、被験者の特性が想定と異なるのか、統計的分析が不適切なのかを直ちに判別することはできない。

graph TD
    A["Popper<br>反証主義<br>(1934)"] --> B["科学の線引き基準<br>反証可能性"]
    B --> C["精神分析は非科学か?"]
    B --> D["心理学理論の<br>反証可能性の問題"]
    C --> E["Grunbaum<br>反証可能だが<br>実証不十分"]
    D --> F["Lakatos<br>補助仮説帯の問題<br>洗練された反証主義"]
    D --> G["デュエム=クワイン・テーゼ<br>理論は単独では反証不可"]
    F --> H["研究プログラムの方法論<br>硬い核+防御帯"]

第三に、再現性危機との関連。 2010年代に表面化した心理学の再現性危機(replication crisis)は、反証主義の観点から重大な問題を提起した。Open Science Collaboration(2015年)による再現研究では、心理学の主要な研究結果の約60%が再現に失敗した。反証主義の理想は「理論は反証の試みに晒されるべきである」というものであるが、多くの心理学研究がそもそも反証の試みに対して脆弱であったことが明らかになった。これは方法論的な問題(p値ハッキング、出版バイアス、検出力不足等)に起因する部分が大きいが、心理学理論自体の予測精度の問題でもある。

Lakatosの洗練された反証主義

Key Concept: 研究プログラム(research programme) Lakatosが提唱した概念で、反証不可能な「硬い核」(hard core)と修正可能な「防御帯」(protective belt)からなる理論体系。理論の評価は個別の反証ではなく、研究プログラム全体の「前進性」(新規事実の予測・発見)と「退行性」(事後的説明のみ)によって行われる。

Lakatosは、Popperの素朴な反証主義を修正し、「研究プログラムの方法論(methodology of scientific research programmes)」を提唱した。Lakatosのモデルでは、科学的理論は「硬い核(hard core)」と「防御帯(protective belt)」から構成される。硬い核は反証から保護される中心的仮定であり、反証の矛先は防御帯の補助仮説に向けられる。

このモデルを心理学に適用すれば、たとえば認知心理学の研究プログラムの「硬い核」は「人間の認知は情報処理過程として記述可能である」という前提であり、この前提自体は個々の実験結果によっては反証されない。反証に対しては、特定の認知モデルの修正(防御帯の調整)によって対処される。研究プログラムの評価は、個別の反証ではなく、プログラム全体の前進性(progressive)か退行性(degenerative)かによって判断される。新規の経験的事実を予測・発見し続ける研究プログラムは前進的であり、既知の事実に対する事後的説明にのみ終始する研究プログラムは退行的である。


パラダイム論の心理学への適用

Section 1でKuhnのパラダイム論と心理学への適用可能性について概観した。ここでは、Kuhnの議論の科学哲学的含意をより精密に検討し、心理学が「通常科学」の段階にあるのか、「前パラダイム段階」にあるのかという問題を掘り下げる。

通約不可能性と心理学

Key Concept: 通約不可能性(incommensurability) 異なるパラダイム間では、基本概念の意味・評価基準・世界観が根本的に異なり、共通の基準による比較が不可能であるとするKuhnの概念。Kuhn自身は後期に「局所的通約不可能性」へとこの概念を弱めた。

Kuhnのパラダイム論における通約不可能性(incommensurability)の概念は、心理学の文脈で独特の意味を持つ。通約不可能性とは、異なるパラダイムは共通の基準で比較できないという主張であるが、心理学における具体例を考えてみよう。

行動主義と認知心理学は、同一の現象(たとえば学習)を記述するにあたって根本的に異なる語彙を用いる。行動主義では学習は「強化随伴性による行動の変容」として記述されるが、認知心理学では「情報の符号化・貯蔵・検索過程」として記述される。両者は異なるレベルの記述を行っており、一方の語彙を他方の語彙に翻訳することは困難である。この意味で、両者の間には通約不可能性が存在するように見える。

しかし、通約不可能性をどの程度強く解釈するかによって、心理学の歴史の見方は大きく変わる。強い通約不可能性を認めれば、行動主義と認知心理学は文字通り「異なる世界」を扱っていることになり、両者の間の優劣比較は原理的に不可能である。他方、Kuhn自身が後期において修正した「局所的通約不可能性(local incommensurability)」を採用すれば、両者は一部の核心的概念において翻訳不可能であるが、多くの経験的データは共有可能であるということになる。

心理学は前パラダイム段階にあるのか

Section 1で触れたように、Kuhn自身は心理学を前パラダイム段階にある分野として位置づけた。この評価をめぐっては、複数の解釈がある。

前パラダイム段階説を支持する論拠: 心理学には統一的な理論的枠組みが存在せず、行動主義的アプローチ、認知心理学的アプローチ、精神力動的アプローチ、人間性心理学的アプローチ、進化心理学的アプローチなどが並立している。各アプローチは異なる存在論的前提と方法論を持ち、「心理学教科書の最初の章で基本原理について合意形成から始めなければならない」という状態は、成熟した科学には見られない特徴である。

この評価に対する反論: この見方は、物理学を規範とする科学観に依存しすぎている。心理学の対象(行動、認知、情動、動機づけ、社会的相互作用等)は、物理学の対象と比較して質的に異なる複雑性を有しており、単一のパラダイムに収斂する必然性はない。複数のアプローチの並存は「未熟さ」ではなく、対象の多面性に応じた「適応的多元性」であるという見方も成立する。

graph LR
    subgraph "Kuhnの科学発展モデル"
        K1["前パラダイム<br>段階"] --> K2["単一パラダイム<br>の確立"]
        K2 --> K3["通常科学"]
        K3 --> K4["危機"]
        K4 --> K5["科学革命"]
    end
    subgraph "心理学の位置づけをめぐる論争"
        P1["前パラダイム段階<br>統一理論の不在"] --- P2["多元的パラダイム<br>の共存"]
        P2 --- P3["適応的多元性<br>対象の複雑さの反映"]
    end
    K1 -.->|"Kuhnの評価"| P1
    P3 -.->|"反論"| K1

科学的実在論 vs 道具主義

Key Concept: 科学的実在論(scientific realism) 科学理論が仮定する理論的存在者(観察不可能な実体・過程)は実在すると主張する立場。科学の目標は世界の真なる記述を得ることであるとする。

二つの立場

科学哲学における科学的実在論(scientific realism)と道具主義(instrumentalism)の対立は、心理学の理論的概念の存在論的地位に直接関わる問題である。

科学的実在論 は、十分に成功した科学理論が仮定する理論的存在者(直接観察できない実体や過程)は、近似的に実在すると主張する。科学理論の成功は、その理論が世界の構造を正しく捉えていることの証拠であるとする(「奇跡論法」: 理論が実在を反映していないのなら、理論の経験的成功は奇跡でしかない)。

道具主義 は、科学理論は観察可能な現象を予測・整理するための有用な道具(instrument)であり、理論的存在者の実在について判断を留保する、あるいは実在を否定する立場である。理論の評価基準は「真」か「偽」かではなく、「有用」か「有用でない」かである。

Key Concept: 道具主義(instrumentalism) 科学理論を観察可能な現象の予測・整理のための道具とみなし、理論的存在者の実在について判断を保留する(または否定する)立場。理論の評価は真偽ではなく有用性によるとする。

心理学における実在論と道具主義

この対立は心理学において特に先鋭な形で現れる。心理学の理論的構成概念(theoretical constructs)は、その多くが直接的に観察不可能な内的過程に言及するからである。

実在論的立場の例: 認知心理学における「作動記憶(working memory)」は実在する認知的メカニズムであり、脳内に物理的基盤を持つ。神経科学の研究は、作動記憶の構成要素(中央実行系、音韻ループ、視空間スケッチパッド)に対応する神経回路を同定しつつある。

道具主義的立場の例: 作動記憶モデルは、記憶に関する実験データを予測・整理するための有用な枠組みにすぎない。モデルが「実在する」メカニズムを記述しているかどうかは、モデルの有用性にとって本質的ではない。

心理学における実在論が特に困難な理由は以下にある。 第一に、同一の行動データに対して、認知レベル・計算レベル・神経レベルなど複数の記述レベルでの説明が可能であり(→ 次節の還元主義の問題と関連)、どのレベルの記述が「実在」を反映しているかの判断が容易ではない。第二に、心理学の歴史において、かつて実在すると考えられた構成概念(たとえばフロイトの「超自我」やHullの「動因低減」)が後に放棄された例が多く、実在論的コミットメントのリスクが高い。Bas van Fraassen(バス・ファン・フラーセン, 1941-)の構成的経験主義(constructive empiricism)は、理論を「経験的に十分である(empirically adequate)」かどうかで評価すべきであり、観察不可能な存在者への存在論的コミットメントは不要であると論じた。

実践的帰結

この哲学的対立は、実際の研究実践にも影響を及ぼす。実在論的立場をとる研究者は、理論的構成概念の神経的基盤の同定を重視し、認知神経科学的研究を推進する傾向がある。道具主義的立場をとる研究者は、理論の予測的有用性を重視し、理論的構成概念の存在論的地位については判断を保留する。現代の心理学は、この二つの態度を多くの場合暗黙のうちに混在させている。


還元主義の問題:心理学と神経科学の関係

Key Concept: 還元主義(reductionism) ある学問領域の理論・法則をより基礎的な学問領域の理論・法則によって説明し尽くすことが可能であるとする立場。心理学の文脈では、心理学的説明を神経科学的説明に還元できるかという問題として現れる。

還元の諸類型

還元主義の問題は、科学哲学において複数のレベルで議論される。Ernest Nagel(アーネスト・ネーゲル, 1901-1985)は『科学の構造(The Structure of Science)』(1961年)において、還元の条件として導出可能性(derivability)と橋渡し法則(bridge laws)を挙げた。すなわち、被還元理論の法則が還元理論の法則から論理的に導出でき、かつ両理論の用語を結びつける橋渡し法則が確立されることが、還元の成立条件であるとした。

心理学に関連する還元は複数の水準で議論される。

還元の方向 具体例 問題
心理学 → 神経科学 「不安」を扁桃体の過活動に還元 心理的経験の質的側面の消失
心理学 → 進化生物学 「利他行動」を包括適応度で説明 近接メカニズムと究極要因の混同
社会心理学 → 個人心理学 集団行動を個人の認知に還元 創発的性質の無視

Marrの三水準分析

Key Concept: Marrの三水準分析(Marr's three levels of analysis) David Marrが提唱した情報処理システムの分析枠組み。計算理論の水準(何を計算するか)、アルゴリズムと表象の水準(いかに計算するか)、実装の水準(どのハードウェアで実装されるか)の三水準を区別する。各水準は相対的に独立であるとする。

David Marr(デイヴィッド・マー, 1945-1980)は『ビジョン(Vision)』(1982年)において、情報処理システムの分析には三つの水準を区別する必要があると論じた。

  1. 計算理論の水準(computational level): そのシステムは何を計算するか、なぜその計算を行うか
  2. アルゴリズムと表象の水準(algorithmic/representational level): その計算をいかなる表象とアルゴリズムによって実行するか
  3. 実装の水準(implementational level): そのアルゴリズムはいかなる物理的基盤(神経回路等)によって実装されるか

Marrの枠組みは、還元主義に対する重要な批判的含意を持つ。三つの水準はそれぞれ相対的に独立であり、実装の水準の記述が計算理論やアルゴリズムの水準の記述に取って代わることはできない。たとえば、視覚系がエッジ検出を行うことの意味(計算理論の水準)は、それを実装する神経回路の記述だけからは理解できない。同様に、心理学的説明は神経科学的説明に還元されるのではなく、異なる分析水準での説明として独自の正当性を持つことになる。

graph TD
    subgraph "Marrの三水準"
        L1["計算理論の水準<br>何を・なぜ計算するか"]
        L2["アルゴリズムと表象の水準<br>いかに計算するか"]
        L3["実装の水準<br>どのハードウェアで実装するか"]
        L1 --- L2
        L2 --- L3
    end
    subgraph "心理学の文脈"
        M1["認知心理学<br>認知過程の機能的記述"]
        M2["計算モデル<br>情報処理のアルゴリズム"]
        M3["認知神経科学<br>神経回路の同定"]
        M1 --- M2
        M2 --- M3
    end
    L1 -.-> M1
    L2 -.-> M2
    L3 -.-> M3

多重実現可能性と非還元的物理主義

Key Concept: 多重実現可能性(multiple realizability) 同一の心理学的状態・機能が、異なる物理的基盤によって実現されうるとする議論。Hilary Putnamが提起し、心理学的説明を物理的説明に還元することの困難を示す論拠として用いられた。

Hilary Putnam(ヒラリー・パトナム, 1926-2016)は、同一の心理学的状態が異なる物理的基盤によって実現されうるという多重実現可能性(multiple realizability)の議論を展開した(1967年)。たとえば、「痛み」という心理状態は、ヒトではC線維の発火、タコでは異なる神経構造、仮想的な人工知能ではシリコンチップの状態によって実現されうる。もし同一の心理学的状態が異なる物理的基盤で実現可能であるなら、心理学的法則を神経科学の法則に還元することは原理的に不可能であることになる。なぜなら、心理学の単一の法則に対応する神経科学の法則は、実現基盤ごとに異なる離接的(disjunctive)な法則にならざるをえず、それは法則としての統一性を欠くからである。

Jerry Fodor(ジェリー・フォダー, 1935-2017)は「特殊科学(Special sciences)」(1974年)において、この議論をさらに発展させ、心理学は神経科学に還元不可能な「特殊科学」として、固有の法則と説明力を持つと論じた。この立場は非還元的物理主義(non-reductive physicalism)と呼ばれ、心理学的現象の物理的基盤を認めつつも、心理学的説明の自律性を擁護する。

ただし、多重実現可能性の議論に対しては批判もある。Jaegwon Kim(ジェグォン・キム, 1934-2019)は、多重実現可能性が本当に存在するかは経験的問題であり、実際の生物学的システムにおいて同一の心理状態が根本的に異なる神経構造によって実現されている証拠は限定的であると論じた。また、Kimは因果的排除問題(causal exclusion problem)を提起し、物理的に完結した因果系列のなかで心理学的性質がいかにして因果的効力を持ちうるかが非還元的物理主義にとって根本的な難問であることを指摘した。

現代の展望:メカニズム的説明

近年の科学哲学では、還元か非還元かという二項対立を超えて、メカニズム的説明(mechanistic explanation)の枠組みが注目されている。Carl Craver(カール・クレイヴァー)やWilliam Bechtel(ウィリアム・ベクテル)らは、科学的説明の核心はメカニズム、すなわち特定の現象を産出する構成要素・活動・組織化の記述にあると主張した。この枠組みでは、心理学と神経科学は上下の階層関係ではなく、異なる粒度でメカニズムを記述する相補的な営みとして位置づけられる。


まとめ

  • 論理実証主義は検証可能性原理を通じて心理学に経験的厳密性を要求し、操作主義は構成概念の測定可能性を促進したが、厳密な操作主義は概念の増殖や理論的豊かさの喪失という問題を招き、構成概念妥当性の考え方によって乗り越えられた
  • Popperの反証主義は、精神分析の科学的地位に疑問を投じるとともに、心理学理論一般の検証可能性に関する問題を提起した。Lakatosの研究プログラムの方法論は、反証主義を修正し、理論の評価を前進性/退行性の観点から行う枠組みを提供した
  • Kuhnのパラダイム論は心理学への適用が限定的であり、心理学の多元的状況を「前パラダイム的未熟さ」ととるか「適応的多元性」ととるかは、心理学の科学的アイデンティティに関わる根本問題である
  • 科学的実在論と道具主義の対立は、心理学的構成概念の存在論的地位に関する問題として現れ、現代心理学はこの二つの態度を暗黙に混在させている
  • 還元主義の問題は、Marrの三水準分析と多重実現可能性の議論を通じて、心理学的説明の自律性を擁護する非還元的物理主義の立場を導いた。近年のメカニズム的説明の枠組みは、還元/非還元の二項対立を超える方向を示している
  • 次のSection 3では、これらの科学哲学的基盤を踏まえ、心理学の方法論(実験法・統計的推論・測定理論)をより具体的に検討する

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
論理実証主義 logical positivism ウィーン学団を中心に形成された科学哲学上の立場。経験的に検証可能な命題のみを有意味とする
検証可能性原理 verifiability principle 命題が有意味であるためには経験的検証が可能でなければならないとする原理
操作主義 operationism 科学的概念の意味はその測定操作によって定義されるとする立場
操作的定義 operational definition 構成概念を特定の測定手続きに結びつける定義の方法
構成概念妥当性 construct validity 測定が理論的構成概念を適切に捉えているかの検証。法則的ネットワークの中での位置づけで評価する
反証可能性 falsifiability 科学的理論が反証しうる経験的観察を許容する性質。Popperの線引き基準
研究プログラム research programme Lakatosの概念。硬い核と防御帯からなる理論体系。前進性/退行性で評価される
通約不可能性 incommensurability 異なるパラダイム間で概念や評価基準の共有が不可能であるとするKuhnの概念
科学的実在論 scientific realism 理論的存在者が実在すると主張する科学哲学上の立場
道具主義 instrumentalism 理論を現象の予測・整理のための道具とみなし、理論的存在者の実在に判断を留保する立場
構成的経験主義 constructive empiricism van Fraassenの立場。理論の目標を経験的十全性に限定し、存在論的コミットメントを避ける
還元主義 reductionism ある学問の理論をより基礎的な学問の理論で説明し尽くせるとする立場
多重実現可能性 multiple realizability 同一の心理状態が異なる物理的基盤で実現されうるとする議論
非還元的物理主義 non-reductive physicalism 心理現象の物理的基盤を認めつつ心理学的説明の自律性を擁護する立場
Marrの三水準分析 Marr's three levels of analysis 計算理論・アルゴリズム/表象・実装の三水準を区別する情報処理分析の枠組み
メカニズム的説明 mechanistic explanation 現象を産出する構成要素・活動・組織化の記述による科学的説明
因果的排除問題 causal exclusion problem 物理的因果の完結性のもとで心理学的性質が因果的効力を持ちうるかという問題

確認問題

Q1: 論理実証主義の検証可能性原理が心理学に及ぼした影響と、操作主義の導入がもたらした恩恵および問題点を論じよ。構成概念妥当性の考え方はいかにして操作主義の問題を克服しようとしたか。

A1: 論理実証主義の検証可能性原理は、科学的に有意味な命題を経験的に検証可能なものに限定することで、心理学に経験的厳密性の基準を課した。この影響下でStevensが導入した操作主義は、「知能=知能検査の得点」のように構成概念を具体的な測定手続きに結びつけることで、研究の再現可能性を高め、形而上学的思弁を排する規律を心理学にもたらした。しかし操作主義の厳密な適用は、異なる操作が異なる概念を定義するという概念の増殖問題、構成概念の理論的豊かさの喪失、そして操作自体の理論負荷性の問題を引き起こした。CronbachとMeehlが提唱した構成概念妥当性の考え方は、概念を単一の操作で定義するのではなく、法則的関係のネットワーク(nomological network)の中に位置づけることで、操作主義の狭隘さを克服しつつ経験的基盤を維持する方途を示した。

Q2: Popperの反証主義に基づく精神分析批判の論理を説明せよ。この批判に対するGrunbaumの反論はいかなる点でPopperと異なるか。

A2: Popperの反証主義は、科学的理論は反証可能でなければならないとする。Popperは精神分析について、いかなる行動が観察されても事後的に精神分析的解釈を構成でき、いかなる行動も理論と矛盾するものとして排除されないため、反証可能性を欠き、したがって科学ではないと批判した。これに対しGrunbaumは、精神分析の問題は反証不可能性にあるのではないと論じた。精神分析は反証可能な予測を導出しうるが、問題はそのような予測に対する実証的裏付けが不十分であることにある。つまりPopperが精神分析を「原理的に科学たりえない」と位置づけたのに対し、Grunbaumは「科学的主張として反証可能ではあるが、実証的に支持されていない」と評価した点が本質的な相違である。

Q3: Marrの三水準分析が還元主義に対していかなる批判的含意を持つか説明し、心理学の具体的な研究領域に適用して論じよ。

A3: Marrの三水準分析は、情報処理システムの分析を計算理論の水準(何をなぜ計算するか)、アルゴリズムと表象の水準(いかに計算するか)、実装の水準(いかなる物理的基盤で実装されるか)の三水準に区別し、各水準が相対的に独立であると主張する。還元主義に対する批判的含意は、実装水準の記述が上位水準の記述に取って代わることはできないという点にある。たとえば記憶研究において、長期増強(LTP)に関する神経科学的知見(実装の水準)は、作動記憶モデルにおける音韻ループの機能的記述(アルゴリズムの水準)や、なぜ人間が一時的に情報を保持する必要があるか(計算理論の水準)の理解を代替するものではない。各水準は異なる問いに答えており、還元は情報の喪失をもたらす。

Q4: 多重実現可能性の議論とは何か。この議論は心理学的説明の自律性をいかに擁護するか。また、この議論に対するKimの批判を説明せよ。

A4: 多重実現可能性とは、Putnamが提起した議論で、同一の心理学的状態が異なる物理的基盤によって実現されうるとするものである。たとえば「痛み」はヒトではC線維の発火によって実現されるが、他の生物や仮想的なAIでは異なる物理的機構によって実現されうる。もしこれが成立すれば、心理学の法則を神経科学の法則に還元しようとすると、実現基盤ごとに異なる離接的な法則になり、法則としての統一性を失う。したがって心理学的説明は神経科学に還元不可能な自律的説明として正当化される(Fodorの特殊科学の議論)。Kimはこれに対し、実際の生物学的システムにおいて同一の心理状態が根本的に異なる構造で実現されている証拠は限定的であると経験的に批判した。さらにKimは因果的排除問題を提起し、物理的因果が完結しているなら心理学的性質がどのようにして固有の因果的効力を持てるかが、非還元的物理主義にとって根本的難問であると指摘した。

Q5: 科学的実在論と道具主義の対立が心理学においていかなる形で現れるか、「作動記憶」を具体例として説明せよ。それぞれの立場をとった場合、研究実践はどのように異なるか。

A5: 科学的実在論は理論的存在者の実在を主張し、道具主義は理論を現象の予測・整理の道具とみなす。「作動記憶」を例にとれば、実在論的立場では、Baddeleyの作動記憶モデルの構成要素(中央実行系、音韻ループ、視空間スケッチパッド)は脳内に対応する実在的メカニズムを持ち、神経科学はその物理的基盤を同定しつつあると考える。道具主義的立場では、作動記憶モデルは記憶実験のデータを予測・整理するのに有用な枠組みにすぎず、モデルの構成要素が実在するかは本質的問題ではないと考える。研究実践への影響として、実在論的研究者は作動記憶の神経基盤の同定(fMRI研究等)を重視し、認知神経科学的アプローチを推進する。道具主義的研究者は、モデルの予測的有用性(新たな実験データの説明・予測能力)を評価基準とし、存在論的コミットメントを避ける。現代心理学の多くの研究者は、この二つの態度を明示的に区別せず暗黙に混在させている。