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Module 4-2 - Section 3: 多様性と包摂性

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 4-2: 心理学の現代的課題
前提セクション なし
想定学習時間 7時間

導入

Module 3-2 Section 3では、Henrich et al.(2010)が提起したWEIRD問題の実態とその影響を検討した。研究参加者のサンプル偏りが心理学の科学的妥当性に投げかける根本的な問いが主題であった(→ Module 3-2, Section 3「WEIRD問題」参照)。本セクションでは、WEIRD問題の認識を出発点としつつ、心理学における多様性と包摂性(diversity and inclusion)の問題をより広い射程で現代的課題として再検討する

WEIRD問題は「サンプルの偏り」として定式化されたが、問題の本質はサンプリングの技術的改善だけでは解消されない。研究者集団そのものの多様性、研究テーマの選定における文化的偏り、理論的枠組みの前提に埋め込まれた認識論的偏向、そしてこれらが相互に強化し合う構造的メカニズムこそが、現代の心理学が直面する課題の核心である。本セクションでは、これらの問題を「脱植民地化(decolonization)」「交差性(intersectionality)」「トランスカルチュラル心理学」といった概念枠組みから検討し、心理学がより包摂的な科学へと転換するための方向性を考察する。


WEIRD問題の再検討:サンプルの偏りを超えて

サンプル多様化のその後

Module 3-2 Section 3で確認したように、Arnett(2008)およびHenrich et al.(2010)は、心理学研究の参加者がWEIRD社会に著しく偏っていることを実証的に示した。この問題提起から15年以上が経過し、改善の兆候は見られるものの、その進展は緩慢である。

Key Concept: サンプル多様性の停滞(stagnation of sample diversity) Thalmayer, Toscanelli, & Arnett(2021)の追跡調査によれば、APA主要誌における米国外サンプルの比率はわずかに増加したものの、サブサハラ・アフリカ、中東、中央アジア、東南アジア等の地域は依然として極度に過少代表されている。

Thalmayer et al.(2021)は2014年から2018年に出版された論文を分析し、Arnett(2008)の結果と比較した。非WEIRD社会からのサンプルを含む論文の割合は微増したが、その増加分の大半は東アジア(主に中国・韓国)からのデータであった。南アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、中東からの研究参加者は依然として1〜2%程度にとどまっている。

この数字が示すのは、WEIRD問題の「認識」は広がったものの、研究実践の変革は構造的障壁によって阻まれているということである。

サンプルの偏りの三層構造

WEIRD問題をより深く理解するためには、サンプルの偏りを単一の問題ではなく、相互に連関する三つの層として捉える必要がある。

graph TD
    A["サンプルの偏りの三層構造"] --> B["第1層: 参加者の偏り"]
    A --> C["第2層: 研究者の偏り"]
    A --> D["第3層: 認識論の偏り"]
    B --> B1["誰のデータか<br>WEIRD社会中心のサンプル"]
    C --> C1["誰が研究するのか<br>北米・欧州中心の研究者"]
    D --> D1["何が問いとなるのか<br>西洋的認識論に基づく理論枠組み"]
    B1 --> E["Psychological Science<br>Accelerator等で部分的に対応"]
    C1 --> F["制度的・資金的障壁<br>言語的障壁"]
    D1 --> G["脱植民地化<br>の射程"]
    style D fill:#c0392b,color:#fff
    style G fill:#c0392b,color:#fff

第1層(参加者の偏り)は、PSAやMany Labs等の大規模国際共同研究(→ Module 3-2, Section 3参照)によって部分的に対応が進んでいる。しかし第2層(研究者の偏り)と第3層(認識論の偏り)は、より根深い構造的問題であり、サンプルを多様化するだけでは解決しない。この第2層・第3層の問題が、「多様性と包摂性」の議論を単なるサンプリング論から科学の在り方そのものへの問いへと拡張する。


心理学研究における多様性の三側面

研究参加者の多様性

前述のように、研究参加者の多様化は最も可視的かつ直接的な対応であるが、量的な多様化だけでは不十分である。重要なのは、非WEIRD社会の参加者が西洋で開発された実験パラダイムの「追試対象」としてのみ位置づけられるのか、それとも新たな研究の問い自体を生成する源泉として位置づけられるのかという点である。

Key Concept: 概念的等価性(construct equivalence) 異なる文化圏において、ある心理学的構成概念(construct)が同一の意味と構造を持つことの保証。測定ツールの単なる言語的翻訳では確保できず、文化的文脈に即した概念的妥当性の検証が必要となる。

西洋で開発された質問紙尺度や実験パラダイムを非西洋社会に適用する際、概念的等価性の問題が生じる。例えば、「自尊感情(self-esteem)」の測定に広く用いられるRosenbergの自尊感情尺度は、個人の内的属性としての自己評価を前提とした構成概念であり、相互協調的自己観が支配的な文化圏ではその前提自体が成立しない可能性がある(→ Module 3-2, Section 1「相互独立的自己観と相互協調的自己観」参照)。「うつ病(depression)」の診断基準においても、西洋では心理的症状(悲しみ、無気力)が中核とされるが、多くの非西洋社会では身体化(somatization)が主訴となることが知られている。

研究者の多様性

研究者集団の多様性は、研究の問いの多様性に直結する。研究者が特定の文化的背景・社会的位置から問いを立て、仮説を構成し、結果を解釈する以上、研究者集団の構成は科学的知識の内容そのものに影響を及ぼす。

APA(アメリカ心理学会)の統計によれば、米国における心理学の博士号取得者は、2019年時点で白人が約65%、アジア系が約10%、ヒスパニック系が約12%、黒人が約7%であった。グローバルに見れば、心理学の主要な研究資金(NIH、ERC等)はほぼ北米・欧州に集中しており、グローバルサウスの研究者が国際的な学術コミュニティに参入するための構造的障壁は極めて高い。

障壁の種類 具体的内容
資金的障壁 研究助成金の地理的偏在、実験設備の不足
言語的障壁 主要国際誌が英語のみで出版、非英語圏研究者の不利
学術的ネットワークの偏在 共同研究の機会、査読者としての参加、編集委員の構成
キャリアパスの制約 グローバルサウスにおける心理学のポスト・研究環境の限界
認識論的障壁 西洋的方法論・理論枠組みへの準拠が出版の前提条件とされる

研究トピックの多様性

研究者集団の偏りは、どのような心理現象が研究に値するとみなされるかにも影響する。西洋社会で顕著な心理現象が「普遍的」研究課題として設定され、非西洋社会に固有の心理現象は「特殊事例」として周辺化される傾向がある。

例えば、日本語の「甘え」(Takeo Doi, 1971)、韓国語の「情(jeong)」、フィリピンのタガログ語の「パキキサマ(pakikisama)」といった文化固有の心理的概念は、それぞれの文化における対人関係の理解に不可欠であるにもかかわらず、主流の心理学理論に統合されることが少ない。これらの概念は、非普遍性(→ Module 3-2, Section 3の普遍性の水準を参照)の例として紹介されることはあっても、心理学の理論的枠組みそのものを再構成する資源としては十分に活用されてこなかった。

graph LR
    A["研究トピックの多様性の欠如"] --> B["西洋で発見された現象が<br>「普遍的テーマ」として設定"]
    A --> C["非西洋の文化固有概念は<br>「特殊事例」として周辺化"]
    B --> D["世界各地での追試<br>「我々でも同じか?」"]
    C --> E["理論の補足的注釈に留まる<br>「日本では甘えがある」"]
    D --> F["知識生産の方向性が<br>一方向的"]
    E --> F
    F --> G["心理学理論が西洋的前提に<br>構造的に依存し続ける"]

心理学の脱植民地化

脱植民地化とは何か

Key Concept: 脱植民地化(decolonization) 植民地主義がもたらした知識体系・制度・権力構造における不均衡を認識し、それを変革する試み。心理学においては、西洋中心の認識論・方法論・理論的前提を批判的に検討し、多元的な知識体系を正当に位置づけることを含む。

心理学の脱植民地化は、WEIRD問題の延長線上にありながら、それを超える射程を持つ。WEIRD問題が「サンプルの偏り」という方法論的課題として定式化されたのに対し、脱植民地化は心理学という学問の認識論的基盤そのものの再検討を求める。

Sunil Bhatia(2018, 2020)は、心理学の脱植民地化に関する代表的な議論を展開した研究者である。Bhatiaは、ポストコロニアル理論、ナラティブ心理学、文化心理学の知見を統合し、心理学がいかにして植民地主義的な権力構造に組み込まれてきたかを分析した。彼の主張の核心は、心理学が「普遍的な人間の心理」を記述すると主張しながら、実際にはグローバルサウスの人々の経験を「欠如」として描いてきたという点にある。

Macleod, Bhatia, & Liu(2020)は、心理学の脱植民地化がフェミニズムとの接点を持つことを指摘している。ジェンダー、人種、階級、植民地性が交差する地点で、心理学の知識がどのように構成され、誰の利益に奉仕してきたかを問う視座は、両者に共通する。

植民地主義と心理学の歴史的関係

心理学と植民地主義の関係は、学問の成立期にまで遡る。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、心理学的知識は植民地統治の正当化に利用された側面がある。知能検査の開発と人種間の知能差に関する議論は、その最も明確な事例の一つである。

Francis Galton(1869)の優生学は、人種的階層を「科学的」に正当化する試みであり、この思想は20世紀前半の移民政策や強制不妊手術といった政策に影響を与えた。心理学がこうした歴史的経緯と無関係ではないという認識は、学問としての自己批判の基盤となる。

ただし重要なのは、脱植民地化が単なる歴史的反省にとどまらず、現在も続く構造的不均衡の変革を求める点である。英語圏の学術誌が知識の正統性を決定する門番(gatekeeper)として機能していること、西洋で開発された診断基準や介入法がグローバルスタンダードとして普及していること、研究助成金の配分が北半球に集中していること——これらはすべて、現在進行形の構造的問題である。

土着心理学と多元的認識論

Key Concept: 土着心理学(indigenous psychology) 特定の文化的文脈に根ざした心理学的知識体系。当該文化の内部から生成された概念・理論・方法論を用いて心理現象を理解する試み。

脱植民地化の具体的な方向性の一つが、土着心理学(indigenous psychology)の正当な位置づけである。Uichol Kim & John Berry(1993)は土着心理学を、特定の文化的文脈に生態的妥当性を持つ心理学と定義した。

土着心理学の事例としては以下のものがある。

地域 土着心理学的概念 内容
フィリピン シコロヒヤン・ピリピーノ(Sikolohiyang Pilipino) Virgilio Enriquez(1975)が創始。植民地主義的な米国心理学に対抗し、フィリピン人の経験に根ざした心理学を構築する運動
インド インド心理学(Indian psychology) ヴェーダ、ウパニシャッド、ヨーガ哲学等のインド思想伝統に基づく自己・意識の理解
南アフリカ ウブントゥ(Ubuntu) 「私は、私たちがいるから存在する」という関係的存在論に基づく人間理解
日本 甘え理論 土居健郎(1971)による、日本文化に固有の対人的依存の肯定的側面の理論化
ニュージーランド カウパパ・マオリ(Kaupapa Māori) マオリの世界観に基づく研究方法論。研究が先住民コミュニティの利益に資することを重視

これらの土着的知識体系は、西洋心理学の「外側」に位置する知識としてではなく、心理学的知識の正統な構成要素として位置づけられるべきだという主張が、脱植民地化の議論の中核にある。

graph TD
    A["心理学の脱植民地化の方向性"] --> B["批判的再検討"]
    A --> C["多元的知識の統合"]
    A --> D["構造的変革"]
    B --> B1["西洋心理学の歴史的<br>・認識論的前提の批判"]
    B --> B2["普遍性の主張に対する<br>自己批判的検証"]
    C --> C1["土着心理学の正当な位置づけ"]
    C --> C2["非西洋的認識論の理論的貢献"]
    C --> C3["文化固有概念の理論的統合"]
    D --> D1["研究資金の再配分"]
    D --> D2["学術出版体制の多言語化"]
    D --> D3["研究者養成の地理的拡大"]

脱植民地化をめぐる論争

心理学の脱植民地化は、学術的に重要な議論を提起する一方で、いくつかの批判や懸念も存在する。

第一に、相対主義への懸念がある。すべての知識体系を等価に扱うことは、科学的知識と非科学的信念の区別を曖昧にする危険性がある。この批判に対して、脱植民地化の擁護者は、問題は認識論的相対主義ではなく認識論的多元主義(epistemological pluralism)であり、異なる知識体系が相互に批判的対話を行うことで、より豊かな理解が可能になると反論する。

第二に、実践的な困難がある。土着心理学的知識は、しばしば口承伝統や儀礼的実践の中に埋め込まれており、西洋的な学術論文の形式に翻訳すること自体が、その知識の性質を変容させてしまう可能性がある。

第三に、脱植民地化の範囲と深度について研究者間で合意が形成されていない。表面的な「多様性」の追加(例えば、非西洋の事例をテキストに追記すること)と、学問の認識論的基盤の根本的再構成とでは、射程が大きく異なる。


交差性と心理学

交差性概念の心理学への導入

Key Concept: 交差性(intersectionality) 人種、ジェンダー、階級、セクシュアリティ、障害等の社会的カテゴリが相互に交差し、個人の経験や社会的位置を独自の形で規定するという理論的枠組み。法学者Kimberlé Crenshaw(1989)が提唱した。

交差性は、もともと法学・フェミニズム理論の文脈で発展した概念であるが、2010年代以降、心理学における多様性の議論に不可欠な分析枠組みとなっている。Crenshaw(1989)は、黒人女性が経験する差別は、「人種差別」と「性差別」の単純な加算では捉えられない質的に固有の経験であることを論じた。

心理学にとって交差性が重要であるのは、従来の研究が社会的カテゴリを単一の変数として扱ってきたことへの批判を提供するためである。例えば、ジェンダーの心理学は暗黙のうちに白人中産階級女性の経験を「女性一般」の経験として記述してきた。同様に、人種の心理学は黒人男性の経験を「黒人一般」の経験として記述する傾向があった。交差性の視点は、これらの単一カテゴリ的分析の限界を可視化する。

心理学研究における交差性の方法論的課題

交差性を心理学研究に操作化することには固有の困難がある。Cole(2009)は、交差性の心理学的研究において以下の3つの問いを提案した。

  1. 誰が含まれていないか? ——研究の対象者集団のうち、暗黙のうちに排除されているサブグループは誰か
  2. カテゴリ間のつながりは何か? ——複数の社会的カテゴリはどのように相互作用しているか
  3. 不平等の役割は何か? ——社会的カテゴリの交差は権力関係とどう結びついているか

方法論的には、交差性の検証には大規模サンプルと多変量解析が必要となるが、交差するカテゴリの組み合わせが増えるほどセルサイズが小さくなるという統計的課題がある。質的研究と量的研究の併用(混合研究法)が有効なアプローチとして推奨されている。

graph TD
    A["交差性の分析枠組み"] --> B["社会的カテゴリ"]
    B --> B1["人種・民族"]
    B --> B2["ジェンダー"]
    B --> B3["社会階級"]
    B --> B4["セクシュアリティ"]
    B --> B5["障害"]
    B --> B6["年齢"]
    B1 & B2 & B3 & B4 & B5 & B6 --> C["交差的経験<br>加算的ではなく質的に固有"]
    C --> D["権力構造との接合<br>特権と抑圧の複合的配置"]
    D --> E["心理学的帰結<br>メンタルヘルス・アイデンティティ・<br>ストレス・レジリエンス"]

マイノリティ・ストレスと交差性

交差性の概念は、マイノリティ・ストレス理論と結合することで、多様な集団のメンタルヘルスを理解するための重要な枠組みを提供する。Ilan Meyer(2003)のマイノリティ・ストレス・モデルは、性的マイノリティが経験する慢性的なストレス(差別、偏見の内在化、秘匿の負荷等)がメンタルヘルスに及ぼす影響を理論化した。交差性の視点は、このモデルを拡張し、例えば黒人トランスジェンダー女性が経験するストレスが、人種・ジェンダー・性的指向の各カテゴリに由来するストレスの単純な総和ではなく、これらの交差点に固有のストレス(例えば、トランスフォビアと人種差別が結合した暴力への恐怖)を含むことを明らかにする。


トランスカルチュラル心理学の発展

比較文化心理学から文化心理学へ、そしてその先へ

Module 3-2 Section 1では、比較文化心理学(cross-cultural psychology)と文化心理学(cultural psychology)の認識論的差異を検討した。前者は文化を独立変数として扱い、後者は文化と心理の相互構成性を重視する。トランスカルチュラル心理学(transcultural psychology)は、これらのアプローチをさらに発展させた枠組みとして位置づけることができる。

Key Concept: トランスカルチュラル心理学(transcultural psychology) 文化間の境界を固定的なものとして前提せず、文化接触・移動・混淆のプロセスを通じた心理的変容を研究対象とする心理学の潮流。グローバル化に伴う文化的アイデンティティの流動性に焦点を当てる。

伝統的な比較文化心理学は「文化Aと文化Bの比較」を基本的な研究デザインとするが、グローバル化の進展により、個人が複数の文化的文脈を同時に生きる状況はもはや例外ではなく常態となっている。移民、留学生、国際結婚の子ども、ディアスポラ・コミュニティ、オンラインでの越境的文化接触——こうした状況にある個人の心理は、「文化A」にも「文化B」にも還元できない。

バイカルチュラル・アイデンティティ研究

バイカルチュラル・アイデンティティ(bicultural identity)の研究は、トランスカルチュラルな視点の具体的展開である。Verónica Benet-Martínez & Janxin Leu(2006)の文化的枠組み切り替え(cultural frame switching)の研究は、二文化を有する個人が状況に応じて異なる文化的認知枠組みを活性化させることを示した。

Benet-Martínez & Haritatos(2005)はバイカルチュラル・アイデンティティ統合(Bicultural Identity Integration: BII)の概念を提案した。BIIが高い個人は二つの文化的アイデンティティを調和的に統合しているのに対し、BIIが低い個人は二つの文化的アイデンティティ間に葛藤を感じている。BIIの程度は、差別経験、言語能力、社会的ネットワークの構成等によって予測される。

アクカルチュレーション研究の発展

Key Concept: アクカルチュレーション(acculturation) 異なる文化を持つ集団が持続的に接触することで生じる文化的・心理的変容のプロセス。John Berry(1997)の4類型(統合・同化・分離・周辺化)が広く参照される。

Berry(1997)のアクカルチュレーション・モデルは、ホスト文化への関与と出身文化の維持を二つの独立した次元として捉え、4つの方略(統合、同化、分離、周辺化)を理論化した。統合(integration)——出身文化を維持しつつホスト文化にも参加する方略——が、心理的適応において最も良好な帰結をもたらすことが多くの研究で示されている。

しかし、この枠組みには重要な限界がある。第一に、「二つの文化」の接触という二項的前提は、多文化的な現実(例えば、複数の言語・民族が共存する社会や、デジタルメディアを通じた多文化接触)を十分に捉えきれない。第二に、アクカルチュレーションの帰結は個人の「方略選択」だけでなく、ホスト社会の制度的・構造的条件(移民政策、差別の程度、社会的流動性)に大きく規定される。第三に、アクカルチュレーション研究は「移民がホスト社会にどう適応するか」という一方向的な問いに偏りがちであり、ホスト社会の側の変容や、文化接触による相互的変容への関心が相対的に薄い。


倫理的課題の現代的展開

研究倫理における文化的感受性

心理学研究の倫理的基準は、ニュルンベルク綱領(1947)、ヘルシンキ宣言(1964)、ベルモント報告書(1979)等を経て整備されてきた。しかし、これらの倫理原則は主として西洋の個人主義的価値観——自律性、個人のインフォームド・コンセント、プライバシー——を基盤としている。

多文化的な研究文脈では、以下のような倫理的課題が浮上する。

倫理原則 西洋的前提 非西洋的文脈での課題
インフォームド・コンセント 個人が自律的に同意する 集団的意思決定が優先される社会では、個人の同意のみでは不十分な場合がある
プライバシー 個人の情報は個人に帰属する コミュニティの知識・物語が研究データとなる場合、個人/集団の所有権が問われる
利益/不利益の衡量 個人への直接的利益/不利益 研究結果がコミュニティ全体に影響する場合(例: ステレオタイプの強化)
研究成果の帰属 研究者の知的財産 コミュニティの知識に基づく研究成果の帰属が問われる

先住民研究倫理

先住民コミュニティを対象とする研究では、西洋的な研究倫理の枠組みでは捉えきれない固有の倫理的課題が存在する。Linda Tuhiwai Smith(1999)の『Decolonizing Methodologies: Research and Indigenous Peoples』は、先住民にとって「研究」という営み自体が植民地主義と深く結びついてきた歴史を詳述し、研究倫理の根本的再考を提起した画期的な著作である。

Smithの議論を踏まえ、多くの先住民コミュニティや国家が独自の研究倫理ガイドラインを策定している。例えば、カナダのTri-Council Policy Statement(TCPS2, 2018)はFirst Nations、Inuit、Métisコミュニティを対象とする研究に関する詳細な倫理的要件を定めており、コミュニティとの「研究協定」の締結、データの「所有権、管理権、アクセス権、保有権」(OCAPの原則)の尊重を求めている。ニュージーランドのカウパパ・マオリ研究方法論は、研究がマオリ・コミュニティの自己決定に資するものでなければならないという原則を掲げている。

科学的厳密性と文化的感受性の統合

脱植民地化や多様性の議論において重要なのは、科学的厳密性と文化的感受性を対立させるのではなく、両者を統合する方法論を発展させることである。

graph LR
    A["科学的厳密性"] --- C["統合的方法論"]
    B["文化的感受性"] --- C
    C --> D["コミュニティ参加型研究<br>CBPR"]
    C --> E["混合研究法<br>量的+質的"]
    C --> F["文化的に適応された<br>介入・測定"]
    C --> G["多元的知識の<br>体系的統合"]

コミュニティ参加型研究(Community-Based Participatory Research: CBPR)は、研究者とコミュニティの構成員が研究の全過程(問いの設定、デザイン、データ収集、分析、成果の還元)において対等なパートナーとして協働するアプローチであり、科学的厳密性と文化的感受性の統合を実践的に追求する方法論である。


まとめ

  • WEIRD問題は「サンプルの偏り」にとどまらず、研究参加者・研究者・認識論の三層にわたる構造的偏りとして再把握される必要がある。サンプルの多様化は進展しているが、変化は緩慢であり、特にグローバルサウスの過少代表は深刻なままである。
  • 心理学の脱植民地化は、西洋中心の認識論的基盤を批判的に再検討し、土着心理学を含む多元的な知識体系を正当に位置づけることを求める。ただし、認識論的多元主義と科学的厳密性の両立は継続的な課題である。
  • 交差性の概念は、単一の社会的カテゴリに基づく分析の限界を示し、人種・ジェンダー・階級等の交差がもたらす質的に固有の経験への関心を促す。マイノリティ・ストレス理論との統合により、多様な集団のメンタルヘルス理解が深化している。
  • トランスカルチュラル心理学は、固定的な「文化A vs 文化B」の比較を超え、文化接触・混淆・流動性の中で生きる個人の心理に焦点を当てる。バイカルチュラル・アイデンティティ統合やアクカルチュレーション研究の発展がその具体的展開である。
  • 研究倫理においては、西洋的な個人主義的原則(自律性、インフォームド・コンセント)の限界が認識され、先住民研究倫理やコミュニティ参加型研究(CBPR)といった文化的に感受性の高い方法論が発展している。

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
サンプル多様性の停滞 stagnation of sample diversity WEIRD問題の認識拡大にもかかわらず、研究参加者の地理的・文化的多様化が緩慢であること
概念的等価性 construct equivalence 異なる文化圏で測定ツールが同一の構成概念を測定していることの保証
脱植民地化 decolonization 植民地主義がもたらした知識・制度・権力の不均衡を認識し変革する試み
土着心理学 indigenous psychology 特定の文化的文脈に根ざした概念・理論・方法論を用いる心理学的知識体系
認識論的多元主義 epistemological pluralism 複数の知識体系が相互に批判的対話を行うことで理解を深めうるとする立場
交差性 intersectionality 人種・ジェンダー・階級等の社会的カテゴリが交差し固有の経験を生むという理論的枠組み
マイノリティ・ストレス minority stress マイノリティであることに起因する慢性的ストレスがメンタルヘルスに及ぼす影響の理論的モデル
トランスカルチュラル心理学 transcultural psychology 文化間の境界を超えた移動・接触・混淆のプロセスにおける心理的変容を研究する心理学
バイカルチュラル・アイデンティティ統合 Bicultural Identity Integration (BII) 二つの文化的アイデンティティを調和的に統合している程度
アクカルチュレーション acculturation 異文化接触により生じる文化的・心理的変容のプロセス
コミュニティ参加型研究 Community-Based Participatory Research (CBPR) 研究者とコミュニティが対等なパートナーとして研究全過程で協働するアプローチ

確認問題

Q1: WEIRD問題を「サンプルの偏りの三層構造」として捉えた場合、第1層(参加者の偏り)、第2層(研究者の偏り)、第3層(認識論の偏り)はそれぞれどのような問題であり、なぜ第1層のみの改善では不十分なのか。 A1: 第1層は研究参加者がWEIRD社会に偏っているという問題であり、PSAやMany Labs等の大規模国際共同研究によって部分的に対応が進んでいる。第2層は研究者集団自体が北米・欧州に集中していることであり、研究の問いの設定、方法論の選択、結果の解釈に系統的な偏りをもたらす。第3層は心理学の理論的枠組みが西洋的認識論(個人主義、自律性の重視等)を暗黙の前提としていることである。第1層のみの改善(非WEIRD社会のサンプル数の増加)が不十分であるのは、西洋で開発された理論・実験パラダイムを非西洋社会で追試するだけでは、知識生産の方向性が一方向的なままであり、非西洋的な心理的概念や認識論が理論構築に統合されないためである。

Q2: 心理学における脱植民地化(decolonization)は、WEIRD問題の指摘とどのように関連し、かつそれを超えるものか。脱植民地化に対する主要な批判とその反論を含めて論ぜよ。 A2: WEIRD問題はサンプルの偏りという方法論的課題として定式化されたのに対し、脱植民地化は心理学という学問の認識論的基盤そのものの再検討を求める点で、より射程が広い。具体的には、西洋心理学が「普遍的な人間の心理」を記述すると主張しながら、実際には特定の文化的前提に基づいた知識を生産してきたこと、その過程で非西洋的知識体系が周辺化されてきたことを問題にする。主要な批判としては、(1)認識論的相対主義に陥り科学的知識と非科学的信念の区別が曖昧になるという懸念、(2)土着的知識を学術論文の形式に翻訳すること自体がその知識を変容させるという実践的困難、(3)表面的な多様性追加と認識論的基盤の根本的再構成との間で射程が定まらないという問題がある。相対主義批判への反論としては、問題は認識論的相対主義ではなく認識論的多元主義であり、異なる知識体系間の批判的対話こそが求められるとされる。

Q3: 交差性(intersectionality)の概念が心理学研究にもたらす理論的・方法論的貢献と課題を説明せよ。マイノリティ・ストレス理論との統合を具体例を挙げて論じること。 A3: 交差性は、人種・ジェンダー・階級等の社会的カテゴリが相互に交差し、加算的ではない質的に固有の経験を生み出すという枠組みを提供する。理論的貢献としては、単一カテゴリ的分析の限界を可視化し、例えば「女性一般」の経験として白人中産階級女性の経験が暗黙に代表されてきたことを批判する。マイノリティ・ストレス理論との統合の具体例として、黒人トランスジェンダー女性の経験が挙げられる。この集団が経験するストレスは、人種差別に由来するストレス、トランスフォビアに由来するストレス、性差別に由来するストレスの単純な総和ではなく、これらが交差する地点に固有のストレス(例えばトランスフォビアと人種差別が結合した特有の暴力リスク)を含む。方法論的課題としては、交差するカテゴリの組み合わせが増えるほどセルサイズが小さくなるという統計的問題、および質的研究と量的研究の併用の必要性がある。

Q4: Berry(1997)のアクカルチュレーション・モデルの基本的枠組みを説明し、このモデルの限界をトランスカルチュラル心理学の視点から批判的に評価せよ。 A4: Berryのモデルは、ホスト文化への関与と出身文化の維持を二つの独立した次元として捉え、統合(両文化への関与・維持)、同化(ホスト文化のみ関与)、分離(出身文化のみ維持)、周辺化(いずれにも関与しない)の4方略を理論化した。統合が心理的適応に最も良好な帰結をもたらすことが多く示されている。しかしトランスカルチュラル心理学の視点からは、(1)「二つの文化」の接触という二項的前提がグローバル化した多文化的現実を捉えきれない、(2)帰結は個人の方略選択だけでなくホスト社会の制度的・構造的条件に大きく規定される、(3)「移民がどう適応するか」という一方向的な問いに偏り、ホスト社会の側の変容や相互的変容への関心が薄い、といった限界がある。トランスカルチュラルな視点は、文化的境界の流動性と複数の文化的帰属の同時的な生起を前提とする点で、Berryのモデルを超える枠組みを提供する。

Q5: 先住民コミュニティを対象とする心理学研究において、西洋的な研究倫理の枠組み(インフォームド・コンセント等)はどのような限界に直面するか。Linda Tuhiwai Smith(1999)の議論を踏まえ、代替的な研究倫理の枠組みについて論ぜよ。 A5: 西洋的な研究倫理は個人の自律性を基盤としているが、先住民コミュニティでは集団的意思決定が優先される場合があり、個人のインフォームド・コンセントのみでは倫理的に十分とはいえない。Smith(1999)は、先住民にとって「研究」が植民地主義と深く結びついた営みであり、研究者が先住民の知識を「抽出」してきた歴史があることを指摘した。この批判を踏まえた代替的枠組みとして、カナダのOCAPの原則(データの所有権・管理権・アクセス権・保有権をコミュニティが保持する)、ニュージーランドのカウパパ・マオリ研究方法論(研究がマオリ・コミュニティの自己決定に資するべきという原則)、コミュニティ参加型研究(CBPR)などがある。これらに共通するのは、研究対象としてではなく研究の対等なパートナーとしてコミュニティを位置づけ、研究成果がコミュニティに還元されることを制度的に保証する点である。