Module 2-1 - Section 2: リベラリズム批判——リバタリアニズムとコミュニタリアニズム¶
セクション情報¶
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| モジュール | Module 2-1: 政治哲学・政治思想の展開 |
| 前提セクション | Section 1: ロールズ正義論 |
| 想定学習時間 | 3時間 |
導入¶
Section 1で検討したロールズ正義論は、功利主義に代わる体系的な正義の理論として英語圏の政治哲学を根本的に再編した。しかし、ロールズの理論的成功そのものが、異なる方向からの二つの強力な批判を招来した。一方では、ロバート・ノージック(Robert Nozick, 1938-2002)を代表とするリバタリアニズム(libertarianism)が、ロールズの再分配的正義を個人の権利への侵害として退けた。他方では、マイケル・サンデル(Michael Sandel, 1953-)、アラスデア・マッキンタイア(Alasdair MacIntyre, 1929-)、チャールズ・テイラー(Charles Taylor, 1931-)、マイケル・ウォルツァー(Michael Walzer, 1935-)らコミュニタリアン(communitarian)が、ロールズの人間観——共同体的紐帯から切り離された抽象的個人——を根本的に問い直した。
本セクションでは、まずノージックの最小国家論と権原理論を検討し、次いでコミュニタリアニズムの四人の主要論者の議論を分析する。これら二つの批判は方向性こそ異なるが、いずれもロールズ的リベラリズムの暗黙の前提——自我の性質、正義の射程、国家の役割——に対する根本的な異議申し立てであり、現代政治哲学の基本的論争構造を形成している。
ノージックのリバタリアニズム——最小国家と権原理論¶
『アナーキー・国家・ユートピア』の構造¶
ロバート・ノージック(Robert Nozick)の『アナーキー・国家・ユートピア(Anarchy, State, and Utopia)』(1974)は、ロールズ『正義論』に対するリバタリアニズムの側からの最も体系的な応答として位置づけられる。同書は冒頭で「個人は権利を有し、いかなる人間や集団もこれを侵すことのできないものがある」と宣言し、個人の権利への尊重こそが国家の正当性を評価する基準であると主張する。
Key Concept: 最小国家(minimal state) ノージックが正当化可能と論じた唯一の国家形態。暴力・窃盗・詐欺からの保護および契約の執行という限定された機能のみを遂行する国家。これを超えるいかなる国家——とりわけ再分配を行う国家——も個人の権利を侵害するとされる。「夜警国家(night-watchman state)」とも呼ばれる。
同書は三部構成をとる。第一部は個人主義的無政府主義(individualist anarchism)への反論として、ロック的自然状態から「見えざる手」の過程を通じて最小国家が正当に成立しうることを論証する。第二部は最小国家を超える「拡張国家」——特に再分配国家——の不正当性を論じ、ここにロールズ批判の核心が置かれる。第三部はユートピアの枠組みとして、多様な共同体が共存する社会のヴィジョンを提示する。
自己所有権テーゼ¶
ノージックの議論の基盤にあるのは、カント的人格の尊厳を急進的に読み替えた自己所有権テーゼ(self-ownership thesis)である。
Key Concept: 自己所有権テーゼ(self-ownership thesis) 各個人は自分自身の身体と労働に対する絶対的な所有権を有するという命題。この命題から、他者による強制的な身体・労働の使用——とりわけ課税による労働の成果の徴収——は、その人に対する部分的な所有権の侵害に相当するとされる。ノージックはこれを用いて再分配的課税を強制労働に類するものと批判した。
ノージックは次のように論じる。もし各人が自己の身体と才能に対する完全な権利を有するならば、その才能を行使して得た成果もまた完全にその人のものである。したがって、国家が課税によって個人の所得の一部を強制的に徴収し他者に移転することは、その個人の労働時間の一部を強制的に他者のために労働させることと道徳的に等価であり、「部分的な所有権」を他者に与えることにほかならない。
権原理論¶
Key Concept: 権原理論(entitlement theory) ノージックの分配的正義論。保有の正義は保有の歴史的由来(どのようにして取得されたか)によって決定されるのであり、保有の結果的パターン(最終的な分配状態がどのような形をとるか)によっては決定されないとする理論。
権原理論は以下の三原理から構成される。
- 取得の正義の原理(principle of justice in acquisition): 無主物の最初の取得は、ロック的但書(Lockean proviso)——すなわち他者の状況を悪化させないという条件——を満たす限り正当である。
- 移転の正義の原理(principle of justice in transfer): 正当に保有されたものの自発的な移転は正当である。贈与、交換、売買などがこれに含まれる。
- 矯正の正義の原理(principle of rectification of injustice): 上記二原理に違反して行われた取得や移転は、矯正されなければならない。
これら三原理の重要な含意は、分配の正義が「歴史的」(historical)であり「非パターン的」(non-patterned)であるという点にある。ロールズの格差原理のような「結果状態原理」(end-state principle)——分配の正義を最終的な分配パターン(最も不遇な人の利益の最大化)によって判定するもの——とは根本的に異なり、ノージックにとって分配の正義は、各人の保有が正当な取得と移転の連鎖によって形成されたかどうかという手続き的な問題である。
graph TD
subgraph Nozick["ノージック: 権原理論"]
A["取得の正義"] --> D["正当な保有"]
B["移転の正義"] --> D
C["矯正の正義"] --> D
end
subgraph Rawls["ロールズ: 分配的正義"]
E["格差原理"] --> F["分配パターンの評価"]
G["機会の公正な平等"] --> F
end
D --- |"歴史的・手続き的"| H["正義の判定"]
F --- |"結果状態的・パターン的"| H
style Nozick fill:#f0f0ff,stroke:#333
style Rawls fill:#fff0f0,stroke:#333
ノージックによるロールズ批判——ウィルト・チェンバレン論証¶
パターン化された分配原理への反論¶
ノージックのロールズ批判の核心は、パターン化された分配原理と個人の自由との間の不整合にある。ロールズの格差原理を含む「パターン化された原理」(patterned principles)——分配が何らかの自然的次元(道徳的功績、必要、労働)や最終結果(平等、マクシミン)に適合することを要求する原理——は、自由な個人の活動によって不可避的に撹乱されるとノージックは論じる。
Key Concept: ウィルト・チェンバレン論証(Wilt Chamberlain argument) パターン化された分配原理が個人の自由と両立不可能であることを示すノージックの思考実験。正義とされる任意の初期分配から出発しても、自由な取引の結果として不可避的にパターンが崩れるため、パターンを維持するには不断の介入——すなわち自由の制限——が必要となることを論証する。
ウィルト・チェンバレン論証は次のように展開される。ある社会で、何らかのパターン化された原理——たとえば厳格な平等主義——に従って分配D1が実現されているとする。バスケットボール選手ウィルト・チェンバレン(Wilt Chamberlain)がチームと契約し、観客一人あたり25セントが入場料に上乗せされてチェンバレンの収入となる条件を設定する。シーズン中に100万人が試合を観戦し、チェンバレンは25万ドルを受け取る。結果として新たな分配D2が生じるが、D2はもはやD1のパターンに適合しない。
ノージックはここから三つの論点を引き出す。
第一に、D1からD2への移行は完全に自発的な取引の結果である。100万人の各々が自由意思で25セントを支払ったのであり、いかなる詐欺も強制もない。D1が正義にかなうものであり、かつそこから自発的に生じたD2を不正義とすることは不合理である。
第二に、この論証はいかなるパターン化された原理にも適用される。D1の内容——平等主義であれ功績主義であれ格差原理に基づくものであれ——を変更しても、自由な取引が行われる限りパターンは崩壊する。これは「自由はパターンを撹乱する(liberty upsets patterns)」というノージックのテーゼの核心である。
第三に、パターンを維持しようとすれば、国家は人々の自発的な取引を不断に監視・介入し、周期的に分配を再調整しなければならない。これは個人の自由——ロールズ自身が正義の第一原理として最も重視したもの——への重大な制約であり、ロールズの理論は第一原理(平等な基本的自由)と第二原理(格差原理)の間に内在的な緊張を抱えていることになる。
論証の射程と限界¶
ウィルト・チェンバレン論証に対しては複数の有力な反論が提起されている。第一に、ロールズの正義の原理は個人間の個別取引ではなく社会の「基本構造」——制度的枠組み——に適用されるものであるため、個別取引への介入を要求するものではないという制度主義的反論がある。課税は個別取引を禁止するものではなく、制度的な枠組みとして所得の一部を再分配するにすぎない。第二に、自発的な取引の累積が不可避的に機会の不平等——たとえば富裕層の子弟と貧困層の子弟の教育機会の格差——を生み出す場合、それを放置することこそ自由の実質的条件を損なうという実質的自由論の反論がある。
G・A・コーエンの自己所有権批判¶
ノージックの議論に対する最も精緻な左派からの応答は、G・A・コーエン(Gerald Allan Cohen, 1941-2009)の『自己所有権・自由・平等(Self-Ownership, Freedom, and Equality)』(1995)に見出される。コーエンの批判は、自己所有権テーゼそのものを全面的に否定するのではなく、そこから資本主義的不平等が帰結するというノージックの推論を三段階で解体するものである。
第一段階: 自己所有権テーゼは直観的には魅力的である。「あなたの両目を誰が使用する権利を持つか」と問われれば、多くの人は自分自身と答える。左派もこの直観を簡単に退けることはできない。
第二段階: しかし、自己所有権を認めたとしても、そこから外的世界(自然資源・生産手段)の私的所有の正当性が直ちに帰結するわけではない。自己所有権と「世界所有権」(world-ownership)の間には論理的な隔たりがあり、ノージックはロック的但書によってこの隔たりを架橋しようとするが、コーエンはこの但書の解釈が恣意的であることを指摘する。
第三段階: 自己所有権のもとでの形式的自由は、外的資源へのアクセスを欠く者にとっては実質的な自由を保障しない。ノージックが最高の価値として掲げる「自由」は、資源を持たない多数者にとっては形式的なものにとどまる。
コーエンの批判の要点は、自己所有権テーゼが真であるとしても、それと平等や実質的自由との両立は論理的に不可能であり、したがっていずれかを放棄せねばならないということにある。
コミュニタリアニズムの基本的立場——リベラリズムの人間観への批判¶
リバタリアニズムがロールズの分配的正義を「過剰」として退けたのに対し、コミュニタリアニズムはロールズ的リベラリズムの「人間観」そのものを批判の対象とした。1980年代にサンデル、マッキンタイア、テイラー、ウォルツァーらによって展開されたリベラル=コミュニタリアン論争は、正義の内容ではなく正義の前提をめぐる論争であった。
コミュニタリアンに共通する批判の骨格は以下のように整理される。
- 自我論: リベラリズムは、共同体的紐帯や価値的コミットメントに先立つ「負荷なき自我」を前提としているが、現実の人間は常にすでに共同体に埋め込まれた存在(situated self)である。
- 正義論: 正義の原理は普遍的・抽象的に導出されるのではなく、特定の共同体の生活形式と伝統のなかに根を持つ。
- 善と正義の関係: リベラリズムは「正(right)の善(good)に対する優先」を主張するが、正義の構想は常に何らかの善の構想に依拠している。善に対する中立性という立場自体が、一つの(暗黙の)善の構想にほかならない。
ただし、コミュニタリアンの四者はリベラリズム批判の方向性を共有しつつも、それぞれ異なる問題設定と理論的資源を有している。以下、各論者の議論を検討する。
graph TD
R["ロールズ的リベラリズム"]
N["ノージック<br/>リバタリアニズム"]
S["サンデル"]
M["マッキンタイア"]
T["テイラー"]
W["ウォルツァー"]
N -->|"再分配は権利侵害"| R
S -->|"負荷なき自我批判"| R
M -->|"啓蒙の失敗テーゼ"| R
T -->|"原子論的個人主義批判"| R
W -->|"単一原理の正義批判"| R
subgraph コミュニタリアニズム
S
M
T
W
end
style R fill:#ffe0e0,stroke:#333
style N fill:#e0e0ff,stroke:#333
style コミュニタリアニズム fill:#e0ffe0,stroke:#333
サンデルの「負荷なき自我」批判¶
『自由主義と正義の限界』の論旨¶
マイケル・サンデル(Michael Sandel)の『自由主義と正義の限界(Liberalism and the Limits of Justice)』(1982)は、リベラル=コミュニタリアン論争の口火を切った著作である。サンデルの批判はロールズの正義論の「内在的批判」——ロールズの理論がその自らの前提に照らして一貫しているかを問うもの——として展開される。
Key Concept: 負荷なき自我(unencumbered self) ロールズの原初状態に想定される自我の性格をサンデルが批判的に命名した概念。自己の目的、価値観、共同体的帰属に先立って存在し、それらを自由に選択する主体としての自我。サンデルはこの自我観が「存在論的空虚」を前提としていると批判した。
サンデルの批判の核心は、ロールズの原初状態——とりわけ無知のヴェールによって自己の特殊事情(才能、社会的地位、善の構想)を知らない当事者——が前提とする自我の構想にある。無知のヴェールの背後にいる存在者は、自らのアイデンティティを構成するあらゆる特殊性を剥奪されている。サンデルはこれを「負荷なき自我」——あらゆる目的、価値、帰属から独立した抽象的主体——と呼び、次のように批判する。
第一に、負荷なき自我は、自己了解(self-understanding)の現実と矛盾する。現実の人間は、家族、共同体、宗教、文化といった帰属関係を通じて自己を理解している。これらの帰属は単に「選択」されたものではなく、自己のアイデンティティを「構成」するものである。私がある共同体の成員であること、ある伝統の担い手であることは、私が自由に採用・破棄できる「目的」ではなく、私がそもそも何者であるかを規定する「構成的帰属」(constitutive attachment)である。
Key Concept: 構成的共同体(constitutive community) サンデルの用語で、自我のアイデンティティを構成する共同体。個人が自由に加入・脱退する「道具的共同体」(instrumental community)や、感情的紐帯に基づく「感情的共同体」(sentimental community)とは異なり、構成的共同体は成員の自己了解そのものを形成する。「私は何を欲するか」だけでなく「私は何者であるか」を規定する共同体。
第二に、正義の優先性(priority of justice)の問題がある。ロールズは正(right)が善(good)に優先すると主張するが、サンデルはこの主張が負荷なき自我を前提として初めて成立することを指摘する。もし自我が常にすでに特定の善の構想によって構成されているならば、善から独立した正義の原理を導出するという企図自体が成り立たない。正義の構想は、暗黙的にであれ、何らかの善き生の構想を前提としている。
第三に、リベラリズムの中立性の問題がある。ロールズ的リベラリズムは多様な善の構想に対して中立的であると主張するが、サンデルに言わせれば、善き生について実質的な判断を回避するリベラリズムは、結局のところ個人の自律性と手続き的公正を善の構想として暗黙に前提しており、中立性の主張は「自己欺瞞」(self-deception)にほかならない。
マッキンタイアの啓蒙批判と徳倫理学の復権¶
『美徳なき時代』の診断¶
アラスデア・マッキンタイア(Alasdair MacIntyre)の『美徳なき時代(After Virtue)』(1981)は、リベラリズムに対するより広範な文明論的批判を展開する。マッキンタイアの射程はロールズ個人を超えて、啓蒙以降の近代道徳哲学全体に向けられている。
マッキンタイアは同書を「不安を誘う示唆」(a disquieting suggestion)から始める。自然科学が壊滅的な破局によって断片化し、後世の人々がその断片——公式、実験器具の破片、理論の一部——を拾い集めてそれを「科学」と呼ぶ世界を想像せよ。マッキンタイアは、現代の道徳哲学がまさにこの状態にあると診断する。われわれが日常的に用いる道徳的語彙——「正義」「権利」「徳」「義務」——は、かつてそれらが意味を持っていた理論的文脈から切り離された断片にすぎず、もはや合理的な道徳的議論を行うための首尾一貫した枠組みを提供しえない。
Key Concept: 情動主義(emotivism) すべての道徳的判断は態度や感情の表出にすぎず、客観的な道徳的事実に基づくものではないとする立場。マッキンタイアはこれを単なる一学説としてではなく、近代社会における道徳的語彙の実際の使用様態——道徳的言語が合理的説得ではなく態度の操作のために用いられている状態——を記述する文化診断として援用した。
啓蒙の失敗テーゼ¶
マッキンタイアの歴史的診断によれば、道徳的語彙の断片化の原因は、啓蒙期における目的論(teleology)の放棄にある。アリストテレス的伝統においては、道徳は三項構造——(1)「未教育の人間の本性」、(2)「理性的反省によって認識される人間の目的(telos)」、(3)「(1)から(2)への移行を可能にする徳(virtue)の体系」——によって理解されていた。ルネサンス以降の近代科学がアリストテレスの目的論的自然学を拒否したとき、近代哲学はこの三項構造の第二項——人間の目的——を喪失した。
目的を欠いた道徳哲学は、道徳的規則の正当化根拠を見出すことができない。カントの定言命法も、ヒュームやスミスの道徳感情論も、キルケゴールの実存的選択も、この正当化の課題に対する失敗した試みである。マッキンタイアはこれを「啓蒙の企図の失敗」(the failure of the Enlightenment project)と呼ぶ。ロールズの正義論もまた、この失敗した企図の延長線上にある。
実践・物語・伝統¶
マッキンタイアが提示する代替的枠組みは、「実践」(practice)、「人生の物語的統一」(narrative unity of a human life)、「伝統」(tradition)の三層構造に基づく徳の理論である。
Key Concept: 徳倫理学(virtue ethics) 行為の正しさ(義務論)や帰結の善さ(帰結主義)ではなく、行為者の性格的卓越性(徳)を道徳哲学の中心に据える立場。マッキンタイアはアリストテレスの伝統に立ち返りつつ、徳を実践・物語・伝統の文脈に位置づけることで、近代道徳哲学の断片化を克服しようとした。
実践: 社会的に確立された協働的な人間活動であり、その活動に内在する卓越性の基準(内的善)を有するもの。チェス、農耕、建築、学問的探究などがこれに該当する。徳は、実践の内的善を実現するために必要な性格的資質——正直、勇気、正義——である。
物語的統一: 個々の実践は、一つの人生の物語的統一のなかに位置づけられることで初めて十全な意味を持つ。善き生とは、「善き生とは何か」を問い続ける生の物語である。
伝統: 個人の物語は、より大きな伝統——家族、都市、民族、知的伝統——の物語のなかに埋め込まれている。道徳的推論は伝統の内部において行われるものであり、伝統から独立した「普遍的理性」の立場から行われるものではない。
テイラーの「承認の政治」¶
原子論的個人主義への批判¶
チャールズ・テイラー(Charles Taylor)の批判は、リベラリズムの「原子論」(atomism)——個人を社会に先立つ自足的存在として捉える立場——に向けられる。テイラーの「承認の政治(politics of recognition)」論文(1992)は、自己のアイデンティティが本質的に対話的(dialogical)に構成されるものであることを出発点とする。
Key Concept: 承認の政治(politics of recognition) テイラーが提唱した政治哲学的概念。アイデンティティは他者による承認(recognition)を通じて形成されるものであり、承認の不在あるいは誤った承認(misrecognition)は個人や集団に実質的な害を与えうるとする立場。文化的マイノリティの権利要求の哲学的基礎づけを提供する。
テイラーは二つの政治的枠組みを区別する。
平等な尊厳の政治(politics of equal dignity): すべての市民に同一の権利と自由のパッケージを保障する普遍主義的枠組み。ロールズ的リベラリズムはこの枠組みに立つ。
差異の政治(politics of difference): 個人や集団の固有のアイデンティティの承認を要求する枠組み。承認の拒否——たとえば植民地支配における被支配民族への劣等のイメージの押し付け——は、被承認者の自己理解を歪め、実質的な害を与える。
テイラーの論点は、平等な尊厳の政治と差異の政治の間の緊張にある。平等な尊厳の政治が「差異に対する盲目」(difference-blind)を要求するとき、それは支配的な文化の規範を暗黙に普遍的なものとして押し付けることになりうる。他方、差異の政治が各文化の等しい価値を前提することは、批判的判断の余地を閉ざす危険がある。テイラーはこの緊張を解消するのではなく、対話的な承認のプロセスのなかで不断に交渉されるべきものとして提示する。
ウォルツァーの「多元的正義」¶
『正義の領分』の構想¶
マイケル・ウォルツァー(Michael Walzer)の『正義の領分(Spheres of Justice)』(1983)は、正義を単一の普遍的原理によって基礎づけようとするロールズ的企図に対して、正義の多元性を対置する。
Key Concept: 多元的正義(complex equality / spheres of justice) ウォルツァーの正義論の核心概念。社会的財(social goods)にはそれぞれ固有の社会的意味(social meaning)があり、各財はその意味に応じた固有の分配原理に従って分配されるべきであるとする立場。正義は単一の原理ではなく、財の領域ごとに異なる複数の原理によって構成される。
ウォルツァーは、社会的財を以下のように分類する。成員資格、安全と福祉、金銭と商品、公職、困難な労働、余暇、教育、親族と愛情、神の恩寵、承認、政治的権力——これら11の財は、それぞれ異なる社会的意味を有し、したがって異なる分配原理に従うべきである。
支配と領域侵犯¶
Key Concept: 支配(dominance) ある領域における優位が他の領域にも及ぶ事態。たとえば、金銭の保有が政治的権力、教育機会、社会的承認をも決定するような状態。ウォルツァーの正義論は、このような領域間の侵犯を阻止し、各領域の自律性を維持することを目標とする。
ウォルツァーの正義の核心的原理は次のように定式化される。「いかなる社会的財xも、何らかの別の財yを保有しているという理由のみで、yとの関連なく、xの意味を顧みずに分配されてはならない」。不正義の本質は不平等それ自体ではなく、「支配」——ある領域の財が他の領域の分配を規定すること——にある。
たとえば、金銭は市場における商品交換の媒体であり、その領域では金銭の多寡が財の分配を決定することは正当である。しかし、金銭が政治的権力(政治献金による影響力)、教育(私立学校における学歴の購入)、医療(富裕層のみが享受する高度医療)の分配をも決定するとき、「領域侵犯」(boundary crossing)が生じ、それは不正義である。
この構想は、ロールズの正義論に対して二つの批判を含意する。第一に、ロールズは正義の原理を「基本財」という単一の尺度に還元しているが、社会的財の多元的意味を捨象している。第二に、正義の原理は共同体の成員が共有する社会的意味に根ざすものであり、原初状態のような脱文脈的装置から導出されるものではない。
まとめ¶
- ノージックのリバタリアニズムは、自己所有権テーゼと権原理論に基づき、再分配的正義を個人の権利への侵害として退け、最小国家のみを正当化する。ウィルト・チェンバレン論証はパターン化された分配原理と自由の不整合を示すが、制度主義的反論や実質的自由論による有力な批判がある。
- コーエンの自己所有権批判は、ノージックの論証を三段階で解体し、自己所有権と平等・実質的自由の両立不可能性を示した。
- コミュニタリアニズムはロールズ的リベラリズムの人間観を根本的に批判した。サンデルは「負荷なき自我」批判を通じてリベラリズムの自我論を問い、マッキンタイアは啓蒙以降の道徳哲学全体の失敗を診断し徳倫理学の復権を提唱した。テイラーは承認の政治を通じてアイデンティティの対話的構成と文化的差異の問題を提起し、ウォルツァーは正義の多元性を主張して単一原理による正義の基礎づけを退けた。
- これらの批判に対し、ロールズ自身は『政治的リベラリズム』(1993)において部分的な応答を行っている(→ Module 2-1, Section 1「ロールズ正義論」参照)。しかし、リベラル=コミュニタリアン論争が提起した問題——自我の社会的構成、善と正義の関係、文化的多元性——は、現代政治哲学の基本的課題として残り続けている。
- 本セクションの議論は、Section 3(熟議民主主義・フェミニズム・多文化主義)およびSection 4(グローバル・ジャスティス)における正義の射程の問題——国内社会を超えた正義の可能性——へと接続する(→ Module 2-1, Section 4「グローバル・ジャスティス」参照)。
用語集(Glossary)¶
| 用語 | 英語表記 | 定義 |
|---|---|---|
| 最小国家 | minimal state | 暴力・窃盗・詐欺からの保護と契約執行のみを行う国家。ノージックが正当化可能と論じた唯一の国家形態 |
| 自己所有権テーゼ | self-ownership thesis | 各人が自己の身体と労働に対する絶対的所有権を有するという命題。再分配的課税を強制労働に類するものとする批判の根拠 |
| 権原理論 | entitlement theory | 保有の正義を歴史的由来(取得・移転・矯正)によって判定するノージックの分配的正義論 |
| ウィルト・チェンバレン論証 | Wilt Chamberlain argument | パターン化された分配原理と個人の自由の不整合を示すノージックの思考実験 |
| パターン化された原理 | patterned principle | 分配が特定の自然的次元や結果状態に適合することを要求する正義の原理。ノージックがこれを批判した |
| 負荷なき自我 | unencumbered self | あらゆる目的・価値・帰属から独立した抽象的主体としての自我。サンデルによるロールズ批判の核心概念 |
| 構成的共同体 | constitutive community | 成員の自己了解・アイデンティティを構成する共同体。道具的・感情的共同体と区別される |
| 情動主義 | emotivism | 道徳的判断を態度・感情の表出にすぎないとする立場。マッキンタイアが近代の道徳文化の診断として援用 |
| 啓蒙の企図の失敗 | failure of the Enlightenment project | 目的論の放棄により道徳的規則の合理的正当化が不可能になったとするマッキンタイアの歴史的診断 |
| 徳倫理学 | virtue ethics | 行為者の性格的卓越性(徳)を道徳哲学の中心に据える立場。マッキンタイアがアリストテレス的伝統の復権として提唱 |
| 承認の政治 | politics of recognition | アイデンティティは他者の承認を通じて形成されるとし、承認の不在・誤認が害をなすとするテイラーの立場 |
| 差異の政治 | politics of difference | 個人・集団の固有のアイデンティティの承認を要求する政治的枠組み。平等な尊厳の政治と対比される |
| 多元的正義 | complex equality / spheres of justice | 社会的財ごとに異なる分配原理が存在するとするウォルツァーの正義論 |
| 支配 | dominance | ある領域の優位が他領域に及ぶ事態。ウォルツァーの正義論において最も根本的な不正義の形態 |
確認問題¶
Q1: ノージックの権原理論を構成する三つの原理を挙げ、それぞれの内容を説明せよ。また、この理論がロールズの格差原理とどのように対立するかを「歴史的/結果状態的」の区分を用いて論じよ。
A1: 権原理論は (1) 取得の正義の原理(ロック的但書を満たす無主物の取得は正当)、(2) 移転の正義の原理(正当に保有されたものの自発的移転は正当)、(3) 矯正の正義の原理(上記二原理への違反の矯正)から構成される。この理論では分配の正義は「歴史的」に判定される——すなわち各保有が正当な取得と移転の連鎖に由来するかが問題となる。これに対しロールズの格差原理は「結果状態的」原理であり、最も不遇な人の利益が最大化されているかという最終的分配パターンによって正義を判定する。ノージックにとって正当な手続きの結果としての不平等は正義にかなうが、ロールズにとっては結果としての分配パターンが格差原理を満たさなければ不正義である。
Q2: サンデルの「負荷なき自我」批判の論理を整理し、それがロールズの原初状態のどの要素への批判であるかを明確にせよ。また、サンデルが対置する「構成的共同体」の概念を説明せよ。
A2: サンデルの批判は、ロールズの原初状態において無知のヴェールが当事者から一切の特殊事情(才能、社会的地位、善の構想)を剥奪する点に向けられる。この設定は、自己の目的や帰属に先立って存在する「負荷なき自我」を前提としているが、現実の人間のアイデンティティは共同体への帰属、伝統、価値的コミットメントによって構成されている。これらの帰属は自由に採用・破棄できる「目的」ではなく、自己が何者であるかを規定する「構成的帰属」である。構成的共同体とは、成員の自己了解そのものを形成する共同体を指し、道具的共同体(利益のための結社)や感情的共同体(感情的紐帯に基づく集まり)とは質的に異なる。この批判の帰結として、善から独立した正義の原理の導出という企図自体が問い直される。
Q3: マッキンタイアの「啓蒙の企図の失敗」テーゼの内容を説明し、それがロールズ的リベラリズムとどのように関連するかを論じよ。
A3: マッキンタイアによれば、アリストテレス的伝統における道徳は三項構造——未教育の人間本性、理性的反省で認識される人間のテロス(目的)、両者を架橋する徳の体系——を有していた。近代科学によるアリストテレス目的論の拒否に伴い、この第二項(テロス)が喪失された。テロスを欠いた状態で道徳的規則を合理的に正当化する試み(カントの定言命法、ヒュームの道徳感情論等)はいずれも失敗し、結果として現代の道徳的語彙はかつての理論的文脈から切り離された断片と化している。ロールズの正義論もこの失敗した啓蒙の企図の延長上に位置づけられる。善き生の目的論的構想を排除し、手続き的装置(原初状態)から正義の原理を導出しようとするロールズの試みは、目的を欠いた道徳哲学のもう一つのヴァリアントにすぎない。
Q4: ウォルツァーの「多元的正義」論がロールズ的正義論に対してどのような批判を含意するかを、「社会的財の意味」と「領域間の支配」という概念を用いて説明せよ。また、ウォルツァーの構想において「不正義」とは具体的にどのような事態を指すか、例を挙げて論じよ。
A4: ウォルツァーは、社会的財にはそれぞれ固有の社会的意味があり、各財はその意味に応じた分配原理に従うべきだと主張する。ロールズは「基本財」という単一の尺度に正義の問題を還元し、原初状態という脱文脈的装置から普遍的な正義の原理を導出しようとするが、これは社会的財の多元的意味を捨象している。ウォルツァーにとって不正義の本質は不平等それ自体ではなく「支配」——ある領域の優位が他領域の分配を規定すること——にある。具体例として、金銭(市場の領域の財)が政治的権力(政治献金による影響力の購入)、教育(私立学校による学歴の購入)、医療(富裕層のみが享受する高度医療)の分配を決定する事態が挙げられる。これは金銭の領域から政治・教育・医療の領域への「領域侵犯」であり、各領域の自律的な分配原理を破壊する不正義である。
Q5: ノージックのリバタリアニズムとコミュニタリアニズムは、ともにロールズ的リベラリズムへの批判であるが、批判の方向性は根本的に異なる。両者の批判がそれぞれロールズの理論のどの側面に向けられているかを対比的に説明せよ。
A5: ノージックのリバタリアニズムは、ロールズの理論の「再分配的側面」——格差原理に基づく所得・富の再分配——を批判の対象とする。自己所有権テーゼに基づき、再分配は個人の権利(特に財産権)への侵害であり、最小国家を超える国家は不正当であると論じる。批判の方向は「ロールズは国家に多くを認めすぎている」という過剰批判である。対して、コミュニタリアニズムはロールズの「人間観・方法論的前提」を批判する。リベラリズムの前提する「負荷なき自我」は人間の社会的本性を見誤っており、脱文脈的な正義の導出は共同体・伝統・善き生の構想から切り離された空虚な理論である。批判の方向は「ロールズの理論は(共同体的・倫理的な意味で)薄すぎる」という不足批判である。つまり、リバタリアニズムは自由と権利の観点からロールズの「介入の多さ」を問題にし、コミュニタリアニズムは自我と善の観点からロールズの「倫理的薄さ」を問題にするという、対照的な批判構造をなしている。