Module 2-1 - Section 3: 熟議民主主義・フェミニズム・多文化主義¶
セクション情報¶
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| モジュール | Module 2-1: 政治哲学・政治思想の展開 |
| 前提セクション | Section 1: ロールズ正義論 |
| 想定学習時間 | 3時間 |
導入¶
Section 1で検討したロールズの正義論は、自由で平等な市民が合理的に合意しうる正義の原理を探求する構想であった。しかし、ロールズの理論が前提とする「合理的個人」や「公共的理性」という枠組みそのものに対して、1980年代以降、複数の根本的な異議申し立てがなされた。第一に、民主主義における正統性の源泉を市民間の「熟議」に求める熟議民主主義論は、ロールズ的な仮想的合意ではなく、現実の公共的討議の過程こそが民主的正統性を基礎づけると主張した。第二に、フェミニズム政治理論は、リベラリズムが前提とする公私の区分そのものが男性支配の構造を隠蔽していると批判し、「個人的なことは政治的なこと」という命題を通じて政治の領域を根本的に再定義した。第三に、多文化主義は、リベラリズムの普遍主義が文化的差異を無視ないし抑圧していると論じ、文化的マイノリティの集団的権利の承認を要求した。
本セクションでは、これら三つの理論的潮流を、ロールズ以後の政治哲学を形成した批判的展開として検討する。Section 2で扱ったリバタリアニズム・コミュニタリアニズム論争が「正義と善」の関係を問うたのに対し(→ Module 2-1, Section 2「リバタリアニズム・コミュニタリアニズム」参照)、本セクションの三つの理論は「誰が政治的主体であるか」「いかなる声が政治的に正統であるか」という問い——すなわち民主主義の包摂性と排除の問題——をそれぞれ固有の角度から提起するものである。
熟議民主主義の理論的基礎——Habermasの討議倫理学¶
コミュニケーション的行為の理論¶
ユルゲン・ハーバーマス(Juergen Habermas, 1929-)は、マックス・ヴェーバー(Max Weber)の合理化論とフランクフルト学派の批判理論を継承しつつ、社会的行為を二つの類型に区分した。一つは「目的合理的行為(purposive-rational action)」であり、行為者が所与の目的を効率的に達成するために手段を選択する行為である。もう一つは「コミュニケーション的行為(communicative action)」であり、行為者が相互了解(Verstaendigung)を志向して言語的に相互作用する行為である。
Key Concept: コミュニケーション的行為(communicative action) ハーバーマスが提唱した社会的行為の類型。行為者が成功志向の戦略的行為ではなく、相互了解を志向して発話し、妥当性要求(真理性・正当性・誠実性)を提示・批判・承認する過程を通じて社会的秩序を形成する行為。
ハーバーマスの主著『コミュニケーション的行為の理論(Theorie des kommunikativen Handelns)』(1981)における中心的主張は、近代社会の病理——すなわち官僚制的支配と貨幣経済による市民的公共圏の侵食——は、合理化の一面的進行、すなわち「システム」(行政権力と市場経済)による「生活世界(Lebenswelt)」の植民地化として診断されるというものである。コミュニケーション的行為は、この植民地化に対抗し、公共的討議を通じた民主的自己統治を可能にする合理性の形態を提示する。
討議倫理学と理想的発話状況¶
ハーバーマスの討議倫理学(discourse ethics / Diskursethik)は、コミュニケーション的行為の理論を道徳哲学・政治哲学へと展開したものである。討議倫理学の核心は以下の二つの原理に定式化される。
Key Concept: 討議倫理学(discourse ethics) ハーバーマスが定式化した道徳哲学。行為規範の妥当性は、全ての関係者が合理的な討議に参加し、強制なき合意に達した場合にのみ承認されうるとする。カントの定言命法を対話的・間主観的に再構成した理論。
討議原理(D原理): ある行為規範が妥当であるのは、全ての潜在的関係者が合理的討議の参加者として当該規範に同意しうる場合に限られる。
普遍化原理(U原理): ある規範が妥当であるのは、当該規範の一般的遵守から各個人の利害と価値観の充足に関して生じると予期される結果と副作用を、全ての関係者が強制なしに受容しうる場合に限られる。
これらの原理が機能するための条件として、ハーバーマスは「理想的発話状況(ideal speech situation)」を設定した。これは、全ての参加者が平等に発言の機会を有し、いかなる外的強制も内的抑圧も存在しない仮説的条件である。ロールズの「原初状態」が情報の制限(無知のヴェール)によって公正さを確保するのに対し、ハーバーマスの理想的発話状況は参加と発言の平等性によって合意の合理性を担保する。両者は仮説的な理論装置という点で共通するが、ロールズが個人の独立した合理的推論に依拠するのに対し、ハーバーマスは間主観的な対話過程そのものに規範的基礎を置く。
討議的民主主義——『事実性と妥当性』¶
Key Concept: 熟議民主主義(deliberative democracy) 民主的決定の正統性を、投票による多数決や利益集団間の交渉ではなく、市民間の公共的熟議の質に求める民主主義理論。ハーバーマスの討議理論を基礎としつつ、多様な論者によって展開されている。
ハーバーマスの『事実性と妥当性(Faktizitaet und Geltung)』(1992)は、討議倫理学を法と民主主義の理論へと体系的に展開した著作である。ハーバーマスはここで、自由主義モデル(個人の権利保障を重視)と共和主義モデル(市民的自治への能動的参加を重視)という民主主義の二つの伝統を批判的に統合する「第三のモデル」として、討議的民主主義論を提示した。
ハーバーマスの構想では、民主的正統性は「二回路モデル(two-track model)」によって確保される。第一の回路は議会や裁判所といった制度化された意思決定の場であり、第二の回路は市民社会における非公式な公共圏(public sphere)における自由な討議である。非公式な公共圏における討論が、公式の意思決定回路に「コミュニケーション的権力(communicative power)」として流入することで、民主的正統性が実現される。この構想は、直接民主主義と代議制民主主義の二項対立を超えて、市民社会の活力と制度的意思決定の安定性を結合しようとするものである。
熟議民主主義の展開——ミニ・パブリックスと批判¶
Gutmann & Thompsonの相互的理由付け¶
エイミー・ガットマン(Amy Gutmann)とデニス・トンプソン(Dennis Thompson)は、『民主主義と不一致(Democracy and Disagreement)』(1996)および『なぜ熟議民主主義か(Why Deliberative Democracy?)』(2004)において、熟議民主主義の規範的基礎を「相互的理由付け(reciprocal reason-giving)」に求めた。彼らの主張の核心は、道徳的に不一致が存在する場合にこそ、市民は互いに理由を提示しあい、互いが合理的に受容しうる条件のもとで集合的意思決定を行う義務を負う、というものである。
Gutmann & Thompsonは、熟議の原理として「相互性(reciprocity)」「公開性(publicity)」「説明責任(accountability)」を挙げた。相互性とは、提示される理由が全ての市民にとって原理的に受容可能なものでなければならないという要請であり、ロールズの公共的理性の概念を実践的に拡張したものといえる。彼らは同時に、熟議の結果は暫定的であり、新たな証拠や議論によって修正されうる「暫定性(provisionality)」を強調した。
Dryzekの討議的民主主義¶
ジョン・ドライゼク(John S. Dryzek)は、ハーバーマスの討議理論を批判的に発展させ、「討議的民主主義(discursive democracy)」を提唱した。Dryzekの理論的特徴は、熟議の単位を個人ではなく「言説(discourse)」に置く点にある。社会には環境主義、新自由主義、フェミニズムといった複数の言説が競合しており、民主主義の質は、これらの言説が公共圏においていかに効果的に争われ、反省的に変容されるかによって測定される。Dryzekはまた、熟議民主主義を国家中心的な枠組みから解放し、トランスナショナルな公共圏やグローバル市民社会における熟議の可能性を探究した。
ミニ・パブリックス——制度的実験¶
Key Concept: ミニ・パブリックス(mini-publics) 無作為に選出された市民が、専門家の情報提供を受けつつ特定の政策課題について熟議する制度的実験の総称。討論型世論調査、市民陪審、市民会議(citizens' assembly)等を含む。
熟議民主主義の理論を実践的に検証する試みとして、1990年代以降、多様な「ミニ・パブリックス」が展開された。代表的なものとして以下がある。
討論型世論調査(Deliberative Polling): ジェイムズ・フィシュキン(James S. Fishkin)がスタンフォード大学で開発した手法。無作為抽出された市民が、均衡のとれた情報提供を受け、小グループでの討議と専門家への質疑を経た後に、再度世論調査に回答する。熟議前後の意見変容を測定することで、「十分な情報と熟議を経た場合の世論」を可視化する。テキサス州のエネルギー政策(1996-1998)では、熟議を経た市民の再生可能エネルギー支持が大幅に増加し、政策に実質的な影響を与えた。2020年代までに世界約28か国で100回以上実施されている。
市民陪審(citizens' jury): ネッド・クロスビー(Ned Crosby)が1970年代に開発。12-24名程度の市民が数日間にわたり専門家の証言を聴取し、特定の政策課題について勧告を作成する。
市民会議(citizens' assembly): より大規模(100名以上)に無作為抽出された市民が、数か月にわたり特定の制度的課題について熟議し、提言や法案を策定する。カナダのブリティッシュ・コロンビア州選挙制度市民会議(2004)やアイルランド市民会議(2016-2018)が代表例である。アイルランドの市民会議は、同性婚や妊娠中絶の合法化に関する憲法改正の国民投票を事実上導いたことで注目された。
graph TD
A["ハーバーマス<br/>討議倫理学・二回路モデル"] --> B["Gutmann & Thompson<br/>相互的理由付け"]
A --> C["Dryzek<br/>討議的民主主義<br/>言説中心アプローチ"]
A --> D["Fishkin<br/>討論型世論調査"]
B --> E["熟議の規範的基礎<br/>相互性・公開性・説明責任"]
C --> F["トランスナショナルな<br/>熟議の可能性"]
D --> G["ミニ・パブリックス<br/>の制度化"]
H["ロールズ<br/>公共的理性"] -.-> B
I["Young<br/>包摂と民主主義"] --> J["内的排除への批判<br/>対抗的公共圏"]
J -.-> G
熟議民主主義への批判¶
熟議民主主義に対しては、理論的・実践的双方から重要な批判が提起されている。
権力の非対称性と内的排除: アイリス・マリオン・ヤング(Iris Marion Young, 1949-2006)は『包摂と民主主義(Inclusion and Democracy)』(2000)において、熟議民主主義が前提とする「合理的議論」の規範それ自体が排除的であると批判した。Youngは「外的排除(external exclusion)」——特定の集団が討議の場から物理的に排除されること——と「内的排除(internal exclusion)」——形式的には参加しているが、発話のスタイル、アクセント、表現形式の差異によって実質的に周辺化されること——を区別した。支配的な討議規範は論理的・分析的な議論形式を特権化し、物語的表現(narrative)や修辞(rhetoric)、感情的訴えかけを「非合理的」として排除する傾向がある。Youngは、熟議民主主義が真に包摂的であるためには、挨拶(greeting)、修辞、物語といった多様なコミュニケーション形式を正統な政治的表現として承認する必要があると主張した。
社会的不平等の温存: リン・サンダース(Lynn Sanders)は、熟議の場における発言の影響力は社会的地位(人種、ジェンダー、階級)と相関しており、形式的に平等な討議の場であっても既存の権力構造が再生産されると論じた。
実現可能性の問題: 大規模社会において全市民が質の高い熟議に参加することは現実的に困難であり、ミニ・パブリックスの結果がどの程度まで民主的正統性を有するかは理論的に争われている。代表制との接合、抽選と選挙の関係、熟議の結果の拘束力といった制度設計上の課題は未解決のままである。
フェミニズム政治理論——公私二元論批判と「個人的なことは政治的なこと」¶
Patemanの公私二元論批判¶
Key Concept: 公私二元論(public-private dichotomy) 社会を「公的領域」(政治、市場、法)と「私的領域」(家庭、親密圏、個人生活)に区分し、後者を政治的介入から免除する近代リベラリズムの基本的枠組み。フェミニズム政治理論は、この区分が男性支配を正当化する装置として機能してきたと批判する。
キャロル・ペイトマン(Carole Pateman, 1940-)は、二つの主要著作を通じてリベラリズムの根幹を批判した。『参加と民主主義理論(Participation and Democratic Theory)』(1970)では、代議制民主主義における市民参加の形骸化を批判し、職場民主主義を含む参加民主主義の構想を提示した。より影響力の大きい『性的契約(The Sexual Contract)』(1988)では、ロック、ルソー、カントの社会契約論が「兄弟間の契約」——すなわち男性間の政治的合意——であり、女性を契約の当事者から構造的に排除してきたことを論証した。
ペイトマンの中心的主張は、リベラリズムが前提とする公私の区分は、ジェンダー中立的ではなく、家父長制(patriarchy)の維持に不可欠な構造的装置であるというものである。「公的領域」は政治的・経済的活動の場として男性に割り当てられ、「私的領域」は再生産・家事・育児の場として女性に割り当てられる。この配分は「自然なもの」として脱政治化され、家庭内における権力関係——配偶者間暴力(DV)、家事労働の不均等な分配、性的自己決定権の制約——は「私的な問題」として政治的議論の対象から排除される。ペイトマンは、「公と私の二分法に対するフェミニストの批判は、約二世紀にわたるフェミニズムの著述と政治的闘争の核心に位置する」と述べている。
「個人的なことは政治的なこと」¶
「個人的なことは政治的なこと(the personal is political)」は、1960年代末から70年代の第二波フェミニズムの標語であり、政治理論上の根本命題である。この命題は二重の意味を持つ。第一に、家庭内の問題——家事労働の配分、育児責任、性的暴力——は個人的な不幸ではなく、構造的な権力関係の表現であり、したがって政治的に分析・変革されるべき対象である。第二に、従来「政治的なもの」の定義から排除されてきた領域を政治の射程に組み入れることで、政治そのものの概念が再定義される。
この理論的転換は、具体的な制度的成果をもたらした。配偶者間暴力の犯罪化、婚姻内強姦の法的認知、リプロダクティブ・ライツ(reproductive rights)——妊娠中絶の権利、避妊へのアクセス——の法的保障、セクシュアル・ハラスメント概念の法的定立(キャサリン・マッキノン(Catharine MacKinnon)の理論的・法的貢献)といった一連の変革は、公私二元論の解体が政策的にいかなる含意を持つかを示している。
ケアの倫理——正義論への補完と挑戦¶
Key Concept: ケアの倫理(ethics of care) キャロル・ギリガンに端を発し、ヴァージニア・ヘルドらによって政治理論へ展開された倫理的アプローチ。普遍的原理・公平性・自律を重視する正義倫理に対して、関係性・応答性・具体的他者への配慮を倫理の核心に据える。
キャロル・ギリガン(Carol Gilligan, 1936-)は、発達心理学者ローレンス・コールバーグ(Lawrence Kohlberg)の道徳発達理論を批判する形で「ケアの倫理」を提唱した。コールバーグの理論では、道徳的発達は普遍的原理に基づく公正な判断能力の段階的向上として把握され、この尺度において女性は男性よりも低い発達段階に位置づけられた。ギリガンは『もうひとつの声(In a Different Voice)』(1982)において、これはジェンダーバイアスの表れであると指摘した。女性が道徳的問題において示す「別の声」——関係性の維持、具体的文脈への応答、傷つきやすい他者への配慮——は、道徳的に劣っているのではなく、正義志向とは異なる道徳的パースペクティブを構成する。
ヴァージニア・ヘルド(Virginia Held, 1929-)は『ケアの倫理(The Ethics of Care)』(2006)において、ギリガンの洞察を政治理論の水準で体系化した。Heldの主張は以下の点に集約される。第一に、人間の基本条件は自律的個人の独立性ではなく、相互依存(interdependence)である。ロールズの正義論が前提とする「自由で平等な市民」は、ケア関係のネットワークなしには存在しえない。第二に、ケア労働——育児、介護、家事——は社会の存続に不可欠でありながら、正義論の枠組みでは体系的に不可視化されている。第三に、ケアの倫理は正義の倫理に対する「補完」ではなく、政治的・社会的制度の根本的な再編を要求するものである。ケアに関する制度的責任を公正に配分すること、ケア労働者の権利を保障すること、ケアの価値を社会的に正当に評価することが、ケアの倫理の政治的帰結である。
多文化主義——Kymlickaのリベラル多文化主義¶
多文化主義の問題設定¶
20世紀後半、移民の増加、先住民の権利回復運動、民族的少数者の自治要求が先進民主主義国において同時に進行し、リベラルな民主主義国家が文化的多様性にいかに対処すべきかが理論的・政策的争点となった。従来のリベラリズムは、国家の文化的中立性——すなわち国家は特定の文化的・宗教的伝統を優遇せず、個人の権利のみを保障する——を標榜してきた。しかし、この「中立性」は実際には多数派文化を暗黙の前提としており、マイノリティに対して多数派文化への同化を事実上要求するものであるとの批判が提起された。
Kymlickaの多文化主義的市民権¶
Key Concept: 多文化主義的市民権(multicultural citizenship) ウィル・キムリッカが提唱した理論。リベラリズムの個人的自由の原理と文化的マイノリティの集団的権利は両立可能であるとし、個人の自律的選択の前提条件として「社会構成的文化」への帰属を位置づける。
ウィル・キムリッカ(Will Kymlicka, 1962-)は『多文化主義的市民権(Multicultural Citizenship)』(1995)において、リベラリズムと集団的権利の理論的両立を試みた。キムリッカの議論の出発点は、個人の自律(autonomy)——すなわち自らの人生計画を合理的に形成・修正・追求する能力——はロールズ的リベラリズムの中核的価値であるが、この自律の行使は「社会構成的文化(societal culture)」への帰属を前提とする、という主張である。社会構成的文化とは、社会生活・教育・経済活動・政治参加の全領域にわたって共有された言語と制度の体系であり、個人が意味ある選択肢を認識し選択するための文脈を提供する。文化的帰属は、ロールズの「基本財」に類するものとして、リベラルな正義の枠組みの中で保護されるべき利益である。
キムリッカは、文化的マイノリティを「国内少数民族(national minorities)」と「エスニック集団(ethnic groups)」に区分し、それぞれに対応する集団的権利の類型を提示した。
| 権利の類型 | 内容 | 対象 |
|---|---|---|
| 自治権(self-government rights) | 領域的自治、独自の法・教育制度 | 国内少数民族 |
| 多民族権(polyethnic rights) | 文化的慣行の保護、宗教的免除 | エスニック集団 |
| 特別代表権(special representation rights) | 議会等における議席留保 | 両方 |
重要なのは、キムリッカがこれらの集団的権利にリベラルな制約を課している点である。「外的保護(external protections)」——多数派社会の経済的・政治的圧力からマイノリティ文化を保護すること——は正当であるが、「内的制約(internal restrictions)」——集団内の個人の自由をその集団の文化的伝統の名において制限すること——は容認されない。この区分により、キムリッカは文化相対主義を回避しつつ、文化的権利をリベラルな枠組みの中に統合しようとした。
リベラル多文化主義への批判¶
キムリッカのリベラル多文化主義に対しては、複数の方向から批判が提起されている。第一に、「文化的本質主義(cultural essentialism)」への批判がある。文化を固定的・同質的な単位として扱い、文化内部の多様性や文化間の混淆を十分に捉えていないとする指摘である。第二に、「外的保護」と「内的制約」の区分は実際には明確に線引きできないとする批判がある。たとえば、宗教的慣行の保護(外的保護)が、当該宗教コミュニティ内の女性の権利制限(内的制約)と不可分である場合、いかに対処すべきか。スーザン・モラー・オーキン(Susan Moller Okin)は「多文化主義は女性にとって有害か?(Is Multiculturalism Bad for Women?)」(1999)において、この緊張を正面から問うた。第三に、多文化主義政策が社会的統合を阻害するとの実践的批判がある。カナダのケベック州政策やオーストラリアの先住民政策は、文化的権利の承認と社会的結束の維持とのバランスをめぐる継続的な政治的課題を示している。
承認の政治——TaylorとFraserの理論的枠組み¶
Taylorの「承認の政治」¶
Key Concept: 承認の政治(politics of recognition) チャールズ・テイラーが定式化した概念。個人およびアイデンティティ集団が、その固有の価値を他者および公的制度によって承認されることが、人間の尊厳と自己実現にとって不可欠であるとする主張。
チャールズ・テイラー(Charles Taylor, 1931-)は「承認の政治(The Politics of Recognition)」(1992)において、近代における「承認」の問題の変容を思想史的に追跡した(→ Module 2-1, Section 2「リバタリアニズム・コミュニタリアニズム」で扱ったテイラーのコミュニタリアン的立場を参照)。テイラーによれば、前近代社会では社会的地位に基づく「名誉(honour)」が承認の形式であったが、近代の平等主義的転回は「尊厳(dignity)」——全ての人間に普遍的に帰属する平等な価値——を承認の基礎とした。しかし、18世紀後半にジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)やヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(Johann Gottfried Herder)の思想を通じて、「真正性(authenticity)」——各個人および各文化が固有の存在様式を有し、その固有性に忠実であるべきである——という理念が出現した。
テイラーは、普遍的尊厳の政治と差異の政治が緊張関係にあることを指摘した。普遍的尊厳の政治は、文化的差異を捨象して全ての市民を同一に扱うことを要求する。差異の政治は、各文化の固有性を承認し、場合によっては差異に基づく差別的取扱い(たとえばケベック州におけるフランス語保護政策)を正当化する。テイラーはリベラリズムの「手続き的共和国(procedural republic)」モデルを批判し、文化的帰属とアイデンティティの承認を組み込んだリベラリズムの修正を提唱した。
Fraserの再分配と承認の二元論¶
Key Concept: 再分配と承認(redistribution and recognition) ナンシー・フレイザーが提唱した社会正義の二元的枠組み。社会的不正義を、経済構造に由来する不正義(再分配の問題)と文化的・象徴的秩序に由来する不正義(承認の問題)の二つの次元で把握し、両者の同時的解決を要求する。
ナンシー・フレイザー(Nancy Fraser, 1947-)は、1990年代以降、「再分配(redistribution)」と「承認(recognition)」の関係を社会正義論の中心的課題として理論化した。フレイザーの出発点は、階級に基づく経済的不正義と、ジェンダー・人種・セクシュアリティに基づく文化的不正義が、現代社会において交差しているという診断である。
フレイザーの理論的枠組みの核心は、再分配と承認を「二つの分析的に区別される正義の次元」として把握する点にある。再分配の次元は搾取、経済的周辺化、貧困といった経済構造に由来する不正義に対応し、承認の次元は文化的支配、非承認(nonrecognition)、軽蔑(disrespect)といった文化的・象徴的秩序に由来する不正義に対応する。
フレイザーの議論において重要なのは、誤認(misrecognition)をアイデンティティの毀損(テイラーやホネット(Axel Honneth)の立場)ではなく、「参加の同等性(parity of participation)」の侵害として捉え直した点である。フレイザーにとって、不正義の核心は自己実現の阻害ではなく、社会生活への対等な参加を妨げる制度的障壁の存在にある。この「地位モデル(status model)」は、承認の問題を心理的次元から制度的次元へと転換し、再分配の問題との架橋を可能にする。
Fraser vs Honneth論争¶
フレイザーの二元論は、フランクフルト学派の承認論者アクセル・ホネット(Axel Honneth, 1949-)との論争を通じて精緻化された。この論争は『再分配か承認か(Redistribution or Recognition?)』(2003)に結実している。
ホネットは、全ての社会的不正義は究極的には「承認の否定」として理解可能であると主張した。すなわち、経済的搾取も政治的排除も、根底において当事者の承認が否定されている事態であり、承認こそが社会正義の統一的基盤である。これに対してフレイザーは、経済的不正義を承認の問題に還元することは、資本主義のシステム的メカニズム——多国籍企業の工場移転、利潤最大化のための雇用削減——を文化的・心理的次元に矮小化することになると反論した。グローバルな経済的不正義の多くは、特定集団の文化的非承認からではなく、資本主義の構造的特徴から生じるのであり、再分配と承認は相互に還元不可能な二つの正義の次元である。
graph LR
A["社会的不正義"] --> B["経済的不正義<br/>搾取・周辺化・貧困"]
A --> C["文化的不正義<br/>支配・非承認・軽蔑"]
B --> D["再分配<br/>経済構造の変革"]
C --> E["承認<br/>文化的・象徴的秩序の変革"]
D --> F["参加の同等性<br/>(Fraser)"]
E --> F
C --> G["承認一元論<br/>(Honneth)"]
G -.->|"Fraserの批判:<br/>資本主義の構造的<br/>問題を矮小化"| D
フレイザーは後に第三の次元として「代表(representation)」——すなわち政治的意思決定への参加の問題——を追加し、再分配・承認・代表の三次元的な正義論へと拡張した。この拡張は、Section 4で扱うグローバル・ジャスティス論——とりわけ「フレーミングの不正義(misframing)」、すなわち誰が正義の主体として算入されるかという問題——と密接に関連する(→ Module 2-1, Section 4「グローバル・ジャスティス」参照)。
まとめ¶
- ハーバーマスの討議倫理学は、コミュニケーション的行為の理論を基礎に、民主的正統性の源泉を市民間の合理的討議に求めた。理想的発話状況と二回路モデルは、熟議民主主義の理論的基盤を提供する。
- 熟議民主主義はGutmann & Thompson、Dryzek、Fishkinらによって多様に展開され、ミニ・パブリックスとして制度的実験が蓄積されている。一方で、Young、Sandersらは権力の非対称性と内的排除の問題を指摘し、熟議の包摂性をめぐる批判的検討が続いている。
- フェミニズム政治理論は、ペイトマンの公私二元論批判を通じて「個人的なことは政治的なこと」を理論化し、ギリガン・ヘルドのケアの倫理は正義論の人間観——自律的個人の独立性——に根本的な修正を迫った。
- キムリッカのリベラル多文化主義は、個人の自律と文化的帰属の両立を理論化したが、文化的本質主義や内的制約への対処をめぐる批判が存在する。
- テイラーの承認の政治とフレイザーの再分配/承認の二元論は、現代社会における正義の多次元性を明らかにした。Fraser vs Honneth論争は、経済的不正義と文化的不正義の関係をめぐる現代政治哲学の基本的対立軸を示している。
- Section 4「グローバル・ジャスティス」では、ここで検討した正義・承認・再分配の問題がグローバルな次元でいかに展開されるかを考察する。
用語集(Glossary)¶
| 用語 | 英語表記 | 定義 |
|---|---|---|
| コミュニケーション的行為 | communicative action | ハーバーマスの概念。相互了解を志向し、妥当性要求を提示・批判・承認する言語的相互行為 |
| 討議倫理学 | discourse ethics | 行為規範の妥当性を、全関係者の合理的討議における強制なき合意に求める道徳哲学 |
| 理想的発話状況 | ideal speech situation | 全参加者が平等に発言し、外的強制も内的抑圧もない仮説的討議条件 |
| 熟議民主主義 | deliberative democracy | 民主的正統性を市民間の公共的熟議の質に求める民主主義理論 |
| 二回路モデル | two-track model | 制度化された意思決定と非公式な公共圏の討議が連動する民主主義のモデル |
| ミニ・パブリックス | mini-publics | 無作為抽出された市民が専門家の情報提供を受けつつ熟議する制度的実験の総称 |
| 討論型世論調査 | deliberative polling | フィシュキン開発の手法。熟議前後の意見変容を測定し「情報を得た場合の世論」を可視化する |
| 内的排除 | internal exclusion | 形式的に参加しているが発話スタイル等の差異により実質的に周辺化される排除の形態 |
| 公私二元論 | public-private dichotomy | 社会を公的領域と私的領域に区分し、後者を政治的介入から免除する近代リベラリズムの枠組み |
| ケアの倫理 | ethics of care | 関係性・応答性・具体的他者への配慮を倫理の核心に据えるアプローチ |
| 多文化主義的市民権 | multicultural citizenship | キムリッカが提唱した、個人の自律と文化的マイノリティの集団的権利の両立を図る理論 |
| 承認の政治 | politics of recognition | 個人・集団の固有の価値の承認を人間の尊厳と自己実現の条件とする主張 |
| 再分配と承認 | redistribution and recognition | フレイザーの二元的正義論。経済的不正義と文化的不正義を分析的に区別し同時的解決を要求する |
| 参加の同等性 | parity of participation | フレイザーの規範的基準。社会生活への対等な参加を妨げる制度的障壁の不在を正義の条件とする |
| 外的保護と内的制約 | external protections / internal restrictions | キムリッカの概念。集団を多数派社会から保護することと集団内の個人の自由を制限することの区別 |
確認問題¶
Q1: ハーバーマスの討議倫理学における「D原理」と「U原理」の内容を説明し、ロールズの原初状態との理論的相違を述べよ。
A1: D原理(討議原理)は、行為規範の妥当性を全関係者が合理的討議において同意しうることに求める原理であり、U原理(普遍化原理)は、規範の一般的遵守から生じる結果と副作用を全関係者が強制なしに受容しうることを妥当性の条件とする原理である。ロールズの原初状態が情報の制限(無知のヴェール)によって公正さを確保するのに対し、ハーバーマスは参加と発言の平等性によって合意の合理性を担保する。ロールズが個人の独立した合理的推論に依拠するのに対し、ハーバーマスは間主観的な対話過程そのものに規範的基礎を置く点が根本的に異なる。
Q2: アイリス・マリオン・ヤングが指摘した「内的排除」とは何か。この批判が熟議民主主義の理論にとっていかなる意味を持つか論じよ。
A2: 内的排除とは、特定の個人や集団が討議の場に形式的には参加しているにもかかわらず、支配的な討議規範(論理的・分析的議論形式の特権化)によって、物語的表現や修辞的表現が「非合理的」として排除され、実質的に周辺化される事態を指す。この批判は、熟議民主主義が前提とする「合理的議論」の規範それ自体が文化的・階級的に偏っている可能性を示し、形式的な参加の平等だけでは真の包摂を達成できないことを意味する。熟議民主主義が正統性を主張するためには、多様なコミュニケーション形式を正統な政治的表現として承認する必要がある。
Q3: キムリッカの「外的保護」と「内的制約」の区分を説明し、この区分がなぜ多文化主義にとって重要であるかを論じよ。また、この区分に対してオーキンがいかなる批判を提起したか述べよ。
A3: 外的保護とは多数派社会の経済的・政治的圧力からマイノリティ文化を保護することであり、内的制約とは集団内の個人の自由をその集団の文化的伝統の名において制限することである。キムリッカは外的保護は正当であるが内的制約は容認されないとすることで、文化的権利をリベラリズムの個人的自由の枠組み内に統合し、文化相対主義を回避した。オーキンは、外的保護と内的制約は実際には明確に区分できない場合があると批判した。たとえば宗教的慣行の保護(外的保護)が当該コミュニティ内の女性の権利制限(内的制約)と不可分である場合があり、多文化主義がジェンダー平等と衝突する可能性を指摘した。
Q4: フレイザーとホネットの論争における主要な争点を説明し、フレイザーがホネットの承認一元論をいかなる理由で批判したか述べよ。
A4: 主要な争点は、社会的不正義を承認の一元的枠組みで把握できるか、それとも再分配と承認は相互に還元不可能な二つの正義の次元であるか、という点である。ホネットは全ての社会的不正義は究極的には承認の否定として理解可能と主張したのに対し、フレイザーは経済的不正義を承認の問題に還元することは資本主義のシステム的メカニズム(多国籍企業の利潤最大化行動等)を文化的・心理的次元に矮小化するものであると反論した。グローバルな経済的不正義の多くは特定集団の文化的非承認からではなく資本主義の構造的特徴から生じるのであり、両者の次元的区別を維持することが適切な理論的把握に不可欠であるとフレイザーは主張した。
Q5: ペイトマンの公私二元論批判の論理を整理した上で、ギリガン・ヘルドのケアの倫理がロールズ的正義論の前提にいかなる修正を迫るか論じよ。
A5: ペイトマンは、リベラリズムの公私の区分がジェンダー中立ではなく、公的領域を男性に、私的領域を女性に割り当てることで、家庭内の権力関係を「私的問題」として脱政治化し、家父長制を維持する構造的装置であると批判した。ギリガンはコールバーグの道徳発達理論における正義志向の偏重を批判し、関係性・配慮・応答性を核とする「ケアの声」を道徳的に同等のパースペクティブとして提示した。ヘルドはこれを政治理論に展開し、(1) 人間の基本条件は自律的独立ではなく相互依存であること、(2) ケア労働は社会の存続に不可欠であるにもかかわらず正義論の枠組みで不可視化されていること、(3) ケアの倫理は制度的な再編——ケア責任の公正な配分、ケア労働者の権利保障——を要求するものであることを論じた。これらはロールズ的正義論が前提とする自律的個人像と公私の区分に根本的な再考を迫るものである。