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Module 2-1 - Section 5: 日本政治思想史——前近代から明治

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 2-1: 政治哲学・政治思想の展開
前提セクション なし
想定学習時間 3時間

導入

本セクションでは、徳川期から明治期にかけての日本政治思想の展開を通史的に扱う。西洋政治哲学の諸潮流を扱ったSection 1〜4とは異なり、ここでは日本固有の知的伝統のなかで政治的思惟がいかに形成され、変容したかを検討する。

徳川幕府の体制イデオロギーとして導入された朱子学は、やがて古学・国学による内在的批判を受けて変質し、幕末の水戸学を経て、明治期には福沢諭吉の文明論や自由民権運動の天賦人権論へと展開した。この過程を、丸山眞男(1914〜1996)の古典的解釈枠組みを参照軸としつつ、渡辺浩・苅部直らによる再検討も踏まえて論じる。

(→ Module 2-1, Section 6「日本政治思想史——大正・昭和・戦後」参照)


朱子学と徳川政治思想

朱子学の基本構造

朱子学(Neo-Confucianism)は、南宋の朱熹(1130〜1200)が大成した儒学体系であり、宇宙論・認識論・倫理学を統合的に構築した学問である。その核心には「理気二元論」がある。

Key Concept: 朱子学(Neo-Confucianism / Zhu Xi school) 朱熹が体系化した儒学の学派。万物の根源として形而上の「理」と形而下の「気」を設定し、理気二元論に基づく宇宙論・倫理学・政治論を展開する。人間の本性は「理」として善であるが、「気」の混濁により悪が生じるとし、格物致知(事物の理を窮めること)を通じた修養を重視する。

朱子学において、「理」はあらゆる事物に内在する普遍的原理であり、「気」はそれを具現化する質料的要素である。人間社会における君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の五倫は、宇宙の「理」が人間関係に現れたものとされ、この秩序は「自然」に根差すがゆえに不変であるとされた。

林羅山と体制イデオロギーとしての朱子学

日本における朱子学の政治的展開を考えるうえで、林羅山(1583〜1657)の果たした役割は決定的である。羅山は徳川家康・秀忠・家光・家綱の四代将軍に仕えた儒者であり、朱子学を幕府の統治原理として体系化した。

羅山が提唱した「上下定分の理」は、朱子学の理気論を身分秩序の正当化に直接適用したものである。すなわち、天地の間に上下の秩序が存在するのは「理」の必然であり、士農工商の身分制度は永遠不変の天理に基づくとした。この論理により、徳川幕藩体制の身分制は宇宙論的な正当性を付与されることとなった。

羅山はまた、家康の命により私塾を開設し、これは後に幕府直轄の昌平坂学問所(1797年に官学化)へと発展する。寛政2年(1790)の「寛政異学の禁」は、昌平坂学問所における朱子学以外の講義を禁じたものであり、朱子学の官学としての地位を制度的に確立した。

ただし、渡辺浩が指摘するように、朱子学が幕府公認の「正学」として実質的に機能したのは寛政異学の禁以降であり、林羅山の時代から一貫して体制イデオロギーであったとする丸山の理解には修正が必要である。徳川前期の知的状況は、朱子学が支配的であったというよりも、多様な学問が並存する状態であった。


古学の展開——朱子学への内在的批判

古学の位置づけ

Key Concept: 古学(kogaku / Ancient Learning) 江戸時代中期に興った儒学の一潮流。朱子学における後世の注釈・解釈を排し、孔子・孟子あるいは古代先王の原典に直接立ち返ることを主張した。山鹿素行の聖学、伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠の古文辞学の三派を総称する。

古学は、朱子学を外部から否定するのではなく、儒学の内部から「原典回帰」を主張することで朱子学的解釈の妥当性を問い直した点に特徴がある。丸山眞男はこの過程を「朱子学的思惟の解体」と捉え、日本における近代的思惟の萌芽を見出した。

伊藤仁斎の古義学

伊藤仁斎(1627〜1705)は京都堀川に古義堂を開き、古義学を唱えた。仁斎は『論語古義』『孟子古義』において、朱子学者が施した注釈を排し、『論語』『孟子』の原テクストから孔子・孟子の本来の教えを読み取ることを主張した。

仁斎の朱子学批判の核心は、朱子学が「理」を抽象的・形而上学的に扱うことへの異議にある。仁斎にとって、孔子の教えの本質は「仁」(人間相互の情愛)であり、それは具体的な人間関係のなかで実現されるものであった。朱子学が「理」による禁欲的修養を強調するのに対し、仁斎は人間の自然な「情」を積極的に肯定した。この点において、仁斎は朱子学の道徳的リゴリズムに対する最初の体系的批判者である。

荻生徂徠の古文辞学と「作為の論理」

荻生徂徠(1666〜1728)は江戸に蘐園塾を開き、古文辞学(蘐園学派)を創始した。徂徠は仁斎の古義学をさらに徹底させ、孔子以前の古代先王(堯・舜・禹・湯・文・武・周公)の「道」に立ち返ることを主張した。主著『弁道』『弁名』において展開された徂徠の思想は、朱子学的世界観の根本的転換を含んでいた。

徂徠の最も革新的な主張は、「先王の道は、先王の造る所なり」という命題に集約される。すなわち、「道」とは天地自然に内在する不変の原理ではなく、先王が「心力を尽くし、知巧を極め」て「作為」した政治制度(礼楽刑政)である。ここにおいて、道徳は政治に従属し、制度は人為的に設計・改変可能なものとして再定位される。

丸山眞男はこの転換を「自然から作為へ」の論理として捉え、朱子学の自然的秩序観を主体的作為の論理へと転換させた点に、日本における近代的政治思想の萌芽を見出した。丸山によれば、徂徠は封建社会の観念的基礎をなす朱子学的倫理を根本から変革し、「公私構造」と「主体の作為性」を日本の思想に導入することに成功した。

graph TD
    A["朱子学<br/>(理気二元論・自然的秩序)"] --> B["伊藤仁斎・古義学<br/>(原典回帰・情の肯定)"]
    A --> C["荻生徂徠・古文辞学<br/>(先王の道・作為の論理)"]
    B --> D["朱子学的「理」の<br/>抽象性への批判"]
    C --> E["道=先王が作為した<br/>政治制度(礼楽刑政)"]
    D --> F["朱子学的思惟の解体<br/>(丸山眞男の解釈枠組み)"]
    E --> F

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    style F fill:#bbf,stroke:#333

丸山解釈への再検討

丸山の「朱子学的思惟の解体」という枠組みは、日本政治思想史研究の古典的パラダイムとなったが、渡辺浩・苅部直らの後続世代による批判的再検討を受けている。

渡辺浩は『近世日本社会と宋学』(1985)において、朱子学が幕府の「正学」として実質的に機能した時期は寛政異学の禁(1790)以降であり、丸山が前提とした「朱子学=体制イデオロギー」という図式は江戸前期には当てはまらないと論じた。また、渡辺は徂徠学を「近代化の先駆」と位置づける丸山の目的論的解釈に疑問を呈し、徂徠の思想をその固有の文脈において理解すべきであると主張した。

苅部直は『丸山眞男——リベラリストの肖像』(2006)などにおいて、丸山の思想史研究が「近代化」という枠組みに規定されていた側面を分析し、近世日本思想を西洋近代への接近として読む解釈の限界を指摘している。

この学術的論争は、日本政治思想史を「西洋的近代化への準備過程」として読むか、それとも独自の政治的思惟の展開として読むかという方法論的問題に関わっている。


国学——日本固有の精神への回帰

国学の成立と展開

Key Concept: 国学(kokugaku / National Learning) 江戸時代中期以降に発展した学問運動。儒教・仏教という外来思想の影響を排し、『古事記』『万葉集』『源氏物語』等の古典を通じて、日本固有の精神・文化・信仰を探究することを目指した。荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤を「国学四大人」と称する。

国学は古学とは異なる方向から朱子学的世界観を相対化した。古学が儒学の「原典」に立ち返ることで朱子学を批判したのに対し、国学は儒学そのものを「漢意(からごころ)」として退け、日本固有の精神的伝統に回帰することを主張した。

本居宣長の「もののあはれ」論

本居宣長(1730〜1801)は国学の大成者である。宣長は約35年をかけて『古事記伝』全44巻を完成させ、『古事記』の神話を実証的な文献学的手法によって読み解いた。

宣長の文学論の核心は「もののあはれ」の概念にある。宣長は『源氏物語玉の小櫛』において、文学の本質は善悪の教訓にあるのではなく、「もののあはれを知る」こと——すなわち、事物に触れた際に自然に生じる繊細な感情の共有——にあると論じた。この主張は、儒教的な道徳主義(「漢意」)による文学解釈を根本から退けるものであった。

宣長の政治思想的な意義は、儒教的な合理主義・道徳主義を「漢意」として批判し、それ以前の日本固有の精神(「古道」)を復元しようとした点にある。ただし、宣長自身は直接的な政治運動に関与したわけではなく、その思想は学問的・文献学的な営為として展開された。

平田篤胤と復古神道

平田篤胤(1776〜1843)は宣長の学統を継承しつつも、その方向性を大きく転換させた。篤胤は宣長の文献学的方法を離れ、『古事記』の神話を独自に再構成して復古神道を大成した。

篤胤の復古神道は、天皇を中心とする神道的国体観を体系化し、儒教・仏教を排斥する排外的な性格を帯びた。宣長の文献学的・考証学的な手法を重視する門人たちの多くは、篤胤の方法を「邪道・逸脱」と捉えた。しかし、篤胤の思想は幕末の尊王攘夷運動に思想的基盤を提供し、明治維新後の神仏分離・廃仏毀釈の思想的背景ともなった。


幕末の政治思想——水戸学と尊王攘夷

水戸学の形成

Key Concept: 水戸学(Mito school) 水戸藩を中心に発展した学問・思想の体系。前期水戸学(17世紀後半、徳川光圀による『大日本史』編纂事業)と後期水戸学(19世紀前半、藤田幽谷・会沢正志斎・藤田東湖ら)に区分される。儒学(特に朱子学)と国学・神道を融合し、尊王攘夷思想の源泉となった。

前期水戸学は徳川光圀が着手した『大日本史』の編纂を軸とする歴史学的事業であり、大義名分論に基づく尊王思想を展開した。後期水戸学はこれを継承しつつ、19世紀初頭の対外危機(ロシア船来航、フェートン号事件等)を背景に、尊王論と攘夷論を結合させた。

会沢正志斎『新論』

会沢正志斎(1782〜1863)は後期水戸学の中心的思想家であり、文政8年(1825)に『新論』を著した。『新論』は藩主徳川斉脩に上呈するために書かれたが、その内容の過激さゆえに出版は禁止された。にもかかわらず、写本として広く流通し、幕末志士に多大な影響を与えた。

『新論』の論旨は以下のように要約される。第一に、日本は天照大神の子孫たる天皇が統治する「神州」であり、この国体こそが日本の独自性と優位性の根拠である。第二に、西洋列強のキリスト教布教は民心を惑わす脅威であり、これに対抗するためには国内の精神的統一が不可欠である。第三に、尊王と攘夷は表裏一体であり、天皇への忠誠を核とした国民的統合によって外敵に対抗すべきである。

ここにおいて、従来別個に存在していた尊王論と攘夷論が思想的に結合され、「尊王攘夷」という幕末政治を駆動する中心的イデオロギーが形成された。吉田松陰は嘉永4年(1851)に水戸を訪れて正志斎に6度面会し、以後「日本」の自覚を強く主張するようになった。

水戸学の思想は本来、天皇の伝統的権威を背景としつつも幕府を中心とする国家体制の強化を志向していた。しかし、開国以後、幕府にその国家目標を達成する能力が失われたことが明らかになるにつれ、尊王攘夷思想は反幕的色彩を強めていった。

graph LR
    subgraph 徳川期の思想展開
        A["朱子学<br/>(体制イデオロギー)"] --> B["古学<br/>(儒学内部の批判)"]
        A --> C["国学<br/>(日本固有の精神)"]
    end

    subgraph 幕末の思想
        D["後期水戸学<br/>(儒学+国学・神道の融合)"]
        E["尊王攘夷思想"]
    end

    B --> D
    C --> D
    D --> E
    E --> F["明治維新"]

    subgraph 明治の思想
        G["啓蒙思想<br/>(福沢諭吉)"]
        H["自由民権運動<br/>(中江兆民・植木枝盛)"]
        I["国権論"]
    end

    F --> G
    F --> H
    F --> I

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    style F fill:#ffa,stroke:#333
    style E fill:#bbf,stroke:#333

福沢諭吉と文明論

福沢諭吉の位置づけ

Key Concept: 文明論(discourse on civilization) 明治初期の啓蒙思想において展開された、西洋文明の受容と日本の近代化をめぐる知的営為。福沢諭吉の『文明論之概略』(1875)が代表的著作であり、文明を「人民の精神の発達」として捉え、物質的側面よりも精神的独立を重視した。

福沢諭吉(1835〜1901)は明治日本を代表する啓蒙思想家である。丸山眞男は福沢を「日本のヴォルテール」と評した。中津藩の下級武士の家に生まれた福沢は、蘭学を学んだ後、三度の渡欧米経験を経て、西洋近代の政治・社会制度を日本に紹介することに生涯を捧げた。

『学問のすゝめ』——独立自尊の精神

『学問のすゝめ』(1872〜76、全17編)は、累計300万部以上を売り上げた明治最大のベストセラーである。初編冒頭の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」は、天賦人権論の平易な表現として広く知られる。

ただし、福沢がここで述べているのは単なる平等論ではない。福沢は続けて、現実には貧富・賢愚の差が存在することを指摘し、その差は「学ぶと学ばざるとに由りてできるもの」であると論じる。すなわち、福沢の主眼は生得的平等の宣言ではなく、実学(practical learning)による自己向上の勧奨にある。

福沢の思想の核心は「独立自尊」の概念に集約される。「独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず」と述べられるように、個人の精神的独立こそが国家の独立の基礎であるとされた。「一身独立して一国独立す」というテーゼは、個人の自律と国家主権を直結させる福沢独自の論理である。

Key Concept: 天賦人権論(natural rights theory) 人間は生まれながらにして自由・平等であり、その権利は天(自然)が賦与したものであるとする思想。フランス啓蒙思想(特にルソー)に由来し、福沢諭吉・加藤弘之らによって日本に紹介された。自由民権運動の理論的支柱となったが、加藤は後に進化論の立場から天賦人権論を撤回した。

『文明論之概略』——文明の精神

『文明論之概略』(1875)は、福沢の理論的主著である。ギゾーの『ヨーロッパ文明史』やバックルの『イングランド文明史』を参照しつつ、独自の文明論を展開した。

福沢は文明を三段階——「野蛮」「半開」「文明」——に区分し、当時の日本を「半開」と位置づけた。ここで重要なのは、福沢が文明の核心を物質的・技術的発展ではなく「人民の精神の発達」に求めた点である。「文明とは人の身を安楽にし心を高尚にする」ものであり、その「精神」とは「独立の気力」である。国の独立は目的であり、国民の文明化はそれを達するための手段であるとされた。

福沢はまた、「権力の偏重」(power imbalance)を文明の最大の障害と見なした。政府と人民の間の権力の不均衡が是正されなければ、真の文明は達成されない。この認識は、後の自由民権運動の思想的基盤とも共鳴するものであった。


自由民権運動の思想

中江兆民——「東洋のルソー」

中江兆民(1847〜1901)は土佐(現・高知県)に生まれ、明治4年(1871)に岩倉使節団とともにフランスに留学した。リヨンおよびパリで約2年間、法律学・史学・哲学を学び、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーらの著作に親しんだ。

兆民の最大の業績は、ルソーの『社会契約論』(Du contrat social)の主要部分を漢文訓読体で翻訳した『民約訳解』(1882)である。この翻訳を通じて、社会契約説と人民主権の理論が日本の知識人に広く紹介され、自由民権運動の理論的基盤が形成された。兆民はこの業績から「東洋のルソー」と称される。

兆民の思想的特徴は、ルソーの人民主権論を儒学的素養と融合させた点にある。漢文訓読体という文体の選択自体が、西洋思想を東アジアの知的伝統のなかに位置づけようとする意識の表れであった。兆民は『三酔人経綸問答』(1887)において、理想主義的な民権論者(洋学紳士)、現実主義的な国権論者(豪傑君)、そしてそれらを調停する南海先生の三者の対話を通じて、明治日本の政治的選択肢を多角的に検討した。

植木枝盛の民権論

植木枝盛(1857〜1892)は土佐の自由民権運動家であり、中江兆民の影響のもとで徹底した人民主権論者となった。植木は兆民訳のルソーを筆写することで天賦人権論を内面化し、その思想を具体的な憲法構想として結実させた。

明治14年(1881)、植木は国会期成同盟の決定を受けて『東洋大日本国国憲按』を起草した。この私擬憲法は、自由民権運動左派の最も急進的な憲法構想として知られ、以下の特徴を有する。

  • 人民主権: 立法権を全国民に属するものとし、国会中心の統治体制を構想
  • 詳細な人権保障: 30数条にわたる権利規定を設け、自由権をきめ細かく保障
  • 抵抗権・革命権: 政府が人民の権利を侵害した場合の抵抗権、さらには革命権を明文で承認
  • 連邦制: アメリカ・スイスに倣い、地方自治を尊重する連邦制国家を構想
  • 一院制: 立法府を一院制とし、議会の権限を強化

この構想は、フランス革命期の1793年ジャコバン憲法の影響を強く受けており、当時の世界的水準から見ても極めて民主主義的な内容であった。しかし、明治22年(1889)に大日本帝国憲法が発布されると、私擬憲法は国家への反逆を示すものと見なされ、多くが破却・隠匿された。

自由民権運動の思想的意義と限界

自由民権運動(1874〜1890頃)は、板垣退助らの民撰議院設立建白書(1874)に始まり、国会開設請願運動を経て、帝国議会の開設(1890)に至る政治運動である。その思想的基盤は、ルソー流の社会契約説と天賦人権論であった。

しかし、運動の内部には多様な思想的立場が併存していた。兆民・植木に代表されるフランス流の急進的民権論に対し、イギリス流の漸進的立憲主義を志向する勢力も存在した。また、加藤弘之のように、当初は天賦人権論を唱えながらも後にダーウィニズム(社会進化論)の立場からこれを撤回した知識人もおり、天賦人権論の理論的基盤は盤石ではなかった。

Key Concept: 民本主義(minpon-shugi) 吉野作造が大正期に提唱した政治理念。「主権の所在」を問う「民主主義(democracy)」とは区別し、「主権の運用の目的」が人民の利福にあるべきことを主張した。明治の自由民権思想を継承しつつ、大正デモクラシーの理論的柱となった。(→ Module 2-1, Section 6で詳述)


まとめ

  • 朱子学は徳川幕府の体制イデオロギーとして機能したが、その浸透の時期と程度については学術的に再検討が進んでいる(渡辺浩の指摘)
  • 古学(伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠の古文辞学)は儒学内部から朱子学を批判し、丸山眞男はこの過程を「朱子学的思惟の解体」として近代的思惟の萌芽と位置づけた
  • 徂徠の「作為の論理」は、「道」を先王が作為した政治制度として捉え直すことで、自然的秩序観から主体的作為の論理への転換を実現した
  • 国学は儒学そのものを「漢意」として退け、日本固有の精神への回帰を主張した。平田篤胤の復古神道は幕末尊王攘夷思想の基盤となった
  • 水戸学は儒学と国学・神道を融合し、会沢正志斎の『新論』を通じて尊王攘夷思想を体系化した
  • 福沢諭吉は「独立自尊」を核とする文明論を展開し、個人の精神的独立と国家の独立を直結させた
  • 自由民権運動は、中江兆民によるルソーの紹介と植木枝盛の急進的憲法構想に見られるように、天賦人権論に基づく人民主権の実現を目指した
  • 次セクションでは、大正デモクラシー期の吉野作造の民本主義、昭和期の超国家主義、戦後民主主義と丸山眞男の政治思想を扱う(→ Module 2-1, Section 6「日本政治思想史——大正・昭和・戦後」参照)

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
朱子学 Neo-Confucianism / Zhu Xi school 朱熹が体系化した儒学の学派。理気二元論に基づく宇宙論・倫理学・政治論を展開する
理気二元論 li-qi dualism 朱子学の存在論。形而上の「理」(原理)と形而下の「気」(質料)で万物を説明する
上下定分の理 theory of fixed hierarchical order 林羅山が提唱した身分秩序の正当化論理。天地の上下は理の必然であるとする
古学 kogaku / Ancient Learning 朱子学の後世的解釈を排し、古典の原典に立ち返ることを主張した儒学の一潮流
古義学 kogigaku / Ancient Meaning school 伊藤仁斎が唱えた学派。『論語』『孟子』の原典精読を重視する
古文辞学 kobunjigaku / Ancient Rhetoric school 荻生徂徠が創始した学派。先王の「六経」から政治制度の原型を読み取ることを重視する
作為の論理 logic of artifice / sakui 丸山眞男が徂徠学に見出した概念。「道」を自然的所与ではなく先王の主体的作為と捉える論理
国学 kokugaku / National Learning 儒教・仏教を排し、日本古典を通じて固有の精神を探究する学問運動
水戸学 Mito school 水戸藩で発展した学問体系。儒学と国学・神道を融合し尊王攘夷思想の源泉となった
文明論 discourse on civilization 西洋文明の受容と日本の近代化をめぐる啓蒙的議論。福沢諭吉の『文明論之概略』が代表的
天賦人権論 natural rights theory 人間は生まれながらに自由・平等であり、その権利は天が賦与したとする思想
民本主義 minpon-shugi 吉野作造が提唱。主権運用の目的が人民の利福にあるべきとする政治理念
独立自尊 independence and self-respect 福沢諭吉の思想の核心。個人の精神的自立が国家独立の基礎であるとする
私擬憲法 draft private constitutions 自由民権運動期に民間で起草された憲法草案の総称

確認問題

Q1: 朱子学の「理気二元論」は、徳川幕藩体制の身分秩序をどのような論理で正当化したか。林羅山の「上下定分の理」に即して説明せよ。

A1: 朱子学の理気二元論において、「理」は万物に内在する普遍的原理であり、宇宙の秩序を規定する。林羅山はこの論理を政治に適用し、「上下定分の理」を唱えた。すなわち、天地の間に上下の秩序が存在するのは「理」の必然的な現れであり、士農工商の身分階層は人為的な取り決めではなく宇宙論的な原理(天理)に基づく永遠不変の秩序であるとした。これにより、徳川幕藩体制の身分制度は自然法則に根差す正当なものとして理論的に基礎づけられた。

Q2: 伊藤仁斎と荻生徂徠はともに朱子学を批判したが、その批判の方向性はどのように異なるか。両者の立場を比較して論じよ。

A2: 仁斎は『論語』『孟子』の原典に立ち返り、朱子学が「理」を抽象的・形而上学的に扱うことを批判した。仁斎にとって儒学の本質は「仁」すなわち人間相互の情愛にあり、人間の自然な「情」を積極的に肯定した。一方、徂徠はさらに遡って孔子以前の古代先王の「道」に回帰し、「道」とは先王が作為した政治制度(礼楽刑政)であると主張した。仁斎が道徳的次元で朱子学の禁欲主義を批判したのに対し、徂徠は道徳を政治に従属させ、制度を人為的に設計・改変可能なものとして再定位した点でより根本的な転換を遂げた。

Q3: 丸山眞男の「朱子学的思惟の解体」という解釈枠組みに対して、渡辺浩はどのような批判を提起したか。その論争の方法論的含意を述べよ。

A3: 渡辺浩は『近世日本社会と宋学』において、朱子学が幕府の「正学」として実質的に機能したのは寛政異学の禁(1790)以降であると指摘し、丸山が前提とした「朱子学=江戸前期からの体制イデオロギー」という図式の妥当性を疑問視した。また、徂徠学を「近代化の先駆」と位置づける目的論的解釈にも異議を唱えた。この論争の方法論的含意は、日本の近世思想を「西洋的近代化への準備過程」として読む解釈の限界を示し、各思想家の営為をその固有の歴史的文脈のなかで理解すべきであるという視座を提起した点にある。

Q4: 福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」というテーゼは、個人と国家の関係をどのように構想しているか。このテーゼの思想史的意義を論じよ。

A4: 福沢のテーゼは、個人の精神的独立(独立自尊)を国家の独立の必要条件として位置づけるものである。福沢によれば、依存心の強い国民のもとでは国家の独立は維持できず、個々の国民が実学を通じて自立的な判断力を獲得することが、国家主権の基盤となる。思想史的には、この構想は儒教的な徳治主義(君主の徳による統治)から脱却し、自律的な個人を政治の主体として想定する近代的な市民概念を日本に導入したものである。同時に、個人の独立を国家の独立に直結させる論理は、啓蒙思想と国権論の接合を可能にし、明治日本のナショナリズムの思想的基盤ともなった。

Q5: 植木枝盛の『東洋大日本国国憲按』に規定された抵抗権・革命権は、どのような思想的系譜に位置づけられるか。また、大日本帝国憲法との対比においてその急進性を説明せよ。

A5: 植木の抵抗権・革命権規定は、ルソーの社会契約説とフランス革命期の1793年ジャコバン憲法の影響を直接受けている。社会契約論において、政府が契約に違反して人民の権利を侵害した場合、人民には政府に抵抗し、これを変革する権利があるとされる。植木はこの論理を明文化し、人民主権・連邦制・一院制とともに規定した。これに対し、大日本帝国憲法(1889)は天皇主権を採り、臣民の権利は「法律の範囲内」で認められるにとどまった。抵抗権・革命権はもとより規定されず、私擬憲法は国家への反逆として破却・隠匿された。両者の懸隔は、明治国家の立憲体制が人民主権ではなく君主主権に基づいて構築されたことを如実に示している。