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Module 2-1 - Section 6: 日本政治思想史——大正・昭和・戦後

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 2-1: 政治哲学・政治思想の展開
前提セクション Section 5: 日本政治思想史——前近代から明治
想定学習時間 3時間

導入

Section 5では、朱子学的秩序観の形成から古学による批判、国学・水戸学の展開、そして明治期の福沢諭吉や自由民権運動に至る近代日本政治思想の流れを概観した。本セクションでは、大正期のデモクラシー運動から昭和期の超国家主義の台頭、そして戦後民主主義の成立までを扱う。

この時期の政治思想史を理解する鍵は、西洋近代の政治原理——民主主義・自由主義・立憲主義——が日本の国体(天皇制)との緊張関係のなかでいかに受容・変容・挫折したかという問いにある。吉野作造(よしの さくぞう、1878-1933)の民本主義は主権論を回避しつつデモクラシーの実質を追求する戦略であり、その後の超国家主義はこの試みの帰結ともいえる。丸山眞男(まるやま まさお、1914-1996)は戦後、日本ファシズムの精神構造を解剖し、その分析は現代に至るまで日本政治思想研究の基軸をなしている。


吉野作造と民本主義

民本主義の提唱

吉野作造は1916年、雑誌『中央公論』に論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表し、民本主義(みんぽんしゅぎ)の理論を体系的に提示した。

Key Concept: 民本主義(minpon-shugi / democracy in a Japanese adaptation) デモクラシーの訳語として吉野作造が提唱した概念。主権の所在(民主主義=人民主権)を問わず、「国家の主権的活動の基本的目標が政治上人民にあるべし」とする政権運用上の方針を意味する。大日本帝国憲法下で天皇主権と矛盾せずにデモクラシーの実質を主張するための理論的装置であった。

吉野はデモクラシーに二つの意味を区別した。第一は「国家の主権は法理上人民にある」とする民主主義(democracy as sovereignty of the people)であり、第二は「国家主権の活動の基本的目標は政治上人民にある」とする民本主義である。大日本帝国憲法が天皇を主権者と定めている以上、前者をそのまま主張すれば憲法違反となる。吉野の戦略は、主権の所在という法理論上の問題を棚上げし、政策の目的と運用の民主化を追求することにあった。

民本主義の思想的意義

この主権論回避の戦略は、単なる便宜的妥協ではなく、明治憲法体制の枠内での漸進的改革という方法論的選択であった。吉野は具体的に以下を主張した。

  • 普通選挙の実現: 納税額による制限選挙の撤廃
  • 政党内閣制の確立: 藩閥・官僚支配から政党政治への移行
  • 言論・集会・結社の自由: 民意を政治に反映させる回路の確保

吉野の民本主義は、天皇機関説を唱えた美濃部達吉(みのべ たつきち、1873-1948)の憲法学と理論的に親和性を持ち、大正デモクラシー期の代表的思想として大きな影響力を発揮した。


大正デモクラシーの思想と運動

大正デモクラシーの展開

大正デモクラシーとは、1910年代から1920年代にかけて展開された、政治・社会・文化の各方面における民主主義的な運動・思潮の総称である。その起点は通常、第一次護憲運動(1912-1913)に求められ、終点は満州事変(1931)前後に置かれる。

timeline
    title 大正デモクラシーから超国家主義への展開
    section 大正デモクラシー期
        1912-1913 : 第一次護憲運動
        1916 : 吉野作造「民本主義」発表
        1918 : 米騒動・原敬内閣成立
        1924 : 第二次護憲運動・護憲三派内閣
        1925 : 普通選挙法・治安維持法
    section 昭和初期
        1931 : 満州事変
        1932 : 五一五事件・政党政治の終焉
        1936 : 二二六事件
    section 戦時体制
        1938 : 国家総動員法
        1940 : 大政翼賛会
        1945 : 敗戦
    section 戦後
        1946 : 日本国憲法公布・丸山「超国家主義の論理と心理」
        1960 : 60年安保闘争

政党政治の成立と限界

1918年、米騒動を契機として初の本格的政党内閣である原敬(はら たかし、1856-1921)内閣が成立した。1924年の第二次護憲運動の結果、加藤高明(かとう たかあき、1860-1926)を首班とする護憲三派内閣が成立し、1925年に普通選挙法が制定された。これにより、満25歳以上の全男子に選挙権が付与され、アジアにおける男子普通選挙の先駆けとなった。

しかし同年、治安維持法も同時に制定された点は見逃せない。普通選挙による大衆参加の拡大と、社会主義・共産主義運動への抑圧が表裏一体として進行したのであり、大正デモクラシーの達成と限界を同時に象徴する出来事であった。

加藤内閣以降、立憲政友会と憲政会(のち立憲民政党)による二大政党が交互に内閣を組織する「憲政の常道」が成立したが、1932年の五・一五事件で犬養毅(いぬかい つよし、1855-1932)首相が暗殺されたことで政党内閣の時代は終焉を迎えた。


昭和期の政治思想——超国家主義の台頭

北一輝と国家改造論

昭和期の超国家主義を理論的に準備した人物として、北一輝(きた いっき、1883-1937)の存在は無視できない。北は1906年に『国体論及び純正社会主義』を自費出版し(即日発禁)、社会主義と国家主義の統合を試みた。辛亥革命に参加して中国での革命活動を経た後、1919年に上海で『国家改造案原理大綱』(のちに『日本改造法案大綱』として1923年に刊行)を執筆した。

『日本改造法案大綱』は三部構成をとる。第一に天皇大権による戒厳令の発動と既存国家機構の破壊(クーデター)、第二に新たな統治機構の組織と国家社会主義的政策の実施(私有財産の制限、大企業の国有化、労働者の利益分配)、第三に対外的な大帝国の建設である。この構想は、天皇親政のもとで社会革命を断行するという点で、左右のイデオロギーを独自に接合するものであった。

北の思想は青年将校に強い影響を与え、1936年の二・二六事件に思想的背景を提供した。北自身は二・二六事件の首謀者として銃殺刑に処された。

超国家主義の構造

Key Concept: 超国家主義(ultra-nationalism) 丸山眞男が分析対象とした、戦前日本の政治体制およびそれを支える精神構造の総称。国家が私的領域をも包摂し、天皇を精神的権威の頂点とする体制のなかで、価値判断の基準が個人の内面ではなく天皇との距離(近さ)によって決定される構造を指す。

超国家主義の特質は、西欧ファシズムとの対比で明らかになる。ナチス・ドイツやファシスト・イタリアでは、独裁者が明確な政治的意志と世界観をもって権力を掌握した。これに対して日本の超国家主義では、天皇は「現人神」として政治的意志の主体であると同時に神聖不可侵の存在であったため、実際の政策決定の責任は曖昧なまま拡散した。この構造こそ、丸山が「無責任の体系」として析出したものである。


丸山眞男の政治学(1)——『超国家主義の論理と心理』と無責任の体系

丸山眞男と戦後政治学

丸山眞男は東京帝国大学法学部で南原繁(なんばら しげる、1889-1974)に師事し、日本政治思想史を専攻した。1944年に召集され二等兵として広島に赴任、1945年8月6日の原爆投下を広島近郊で体験している。敗戦後の1946年、雑誌『世界』に「超国家主義の論理と心理」を発表し、一躍戦後思想界の中心的存在となった。

「超国家主義の論理と心理」(1946)

この論文で丸山は、日本の超国家主義がなぜ成立し得たのかを、精神構造の分析から解明した。丸山の分析の核心は以下の点にある。

国家による内面の包摂: 近代西欧では、宗教改革以降、内面的な価値の領域(信仰・道徳・学問)と外面的な権力の領域(国家・法)が分離し、国家権力は外面的秩序の維持に限定された。これに対して日本では、天皇が政治的権力の頂点であると同時に宗教的・道徳的権威の源泉でもあったため、内面と外面の区別が成立しなかった。国家が「真善美の内容的価値」まで独占した結果、個人の内面的自由——自律的な価値判断の領域——が確保されなかった。

価値の天皇からの距離による序列化: この体制では、あらゆる価値が天皇との距離(近さ)によって序列化される。軍人は「股肱の臣」として天皇に近く、したがって高い価値を帯びる。この「天皇への近接性」が権力の正統性の源泉となる。

Key Concept: 無責任の体系(system of irresponsibility) 丸山眞男が日本の超国家主義体制の構造的特質として析出した概念。天皇は神聖不可侵で責任を負わず、臣下は「上の意志に従っただけ」と主張し、最終的な意思決定の主体が不在となる構造。東京裁判における戦争指導者たちの証言にこの構造が典型的に現れた。

「軍国支配者の精神形態」(1949)と抑圧移譲の原理

丸山は東京裁判を傍聴し、そこでの被告たちの証言から日本のファシズムの精神構造をさらに深く分析した。1949年の論文「軍国支配者の精神形態」では、ナチス指導者ゲーリングの確信犯的な態度と、日本の指導者たちの「ずるずるべったり」な態度を対比した。日本の支配者は自らの主体的意志による決断を回避し、「状況の圧力」や「空気」に流されたと弁明した。丸山はこれを「矮小」と評した。

この分析の延長上に、丸山は「抑圧移譲の原理」を提示した。これは、上位者から受けた抑圧を下位者に転嫁していく構造であり、上官から下士官へ、下士官から兵卒へ、兵卒から現地住民へと暴力が転嫁されていく。最終的に体制全体として、誰もが「自分は被害者であり、上の命令に従っただけ」という弁明が可能になる。これが「無責任の体系」を生み出す心理的メカニズムであった。


丸山眞男の政治学(2)——『日本の思想』

『日本の思想』(1961)の問題意識

丸山の主著の一つである『日本の思想』(岩波新書、1961)は、日本人の思考様式そのものを問題化した著作である。丸山はここで、日本の思想が「伝統」として蓄積・構造化されず、雑多な思想が無原則に並存する状態を批判的に分析した。

タコツボ型とササラ型

Key Concept: タコツボ型とササラ型(takotsubo-type and sasara-type) 丸山眞男が日本の知的・社会的構造を分析するために用いた比喩。ササラ(茶器を洗う竹製の道具)は一本の柄から多数の枝が分岐する形状で、共通の基盤から専門分化した西欧的な知の構造を表す。タコツボ(蛸壺)は個々に独立した壺が並列する形状で、共通の基盤を欠いたまま各分野が孤立する日本的な知の構造を表す。

西欧の学問は、ギリシア哲学・キリスト教神学・ローマ法という共通の知的基盤(ササラの柄の部分)から分化した。したがって、専門家同士が専門を超えて対話する共通言語を持つ。これに対して日本では、明治以降の急速な近代化のなかで各専門分野が個別に輸入されたため、分野間の共通基盤が形成されなかった。各分野が「タコツボ」のように孤立し、隣接分野との対話が困難な構造が生まれた。

この分析は学問のみならず、官僚組織・企業・政党など日本社会の組織構造一般にも適用され、セクショナリズム(縦割り主義)の思想的背景を説明するものとして広く参照されている。

「である」ことと「する」こと

Key Concept: 「である」ことと「する」こと(being and doing) 丸山眞男が提示した、前近代的な身分秩序の論理(「である」論理)と近代的な機能主義の論理(「する」論理)の対比。近代社会においては、生まれや身分(である)ではなく、何を行うか(する)によって人間の価値が判断されるべきとする。しかし日本社会では「である」の論理が根強く残存していることを丸山は批判した。

丸山はこの対比を、単に封建制と近代の対立としてではなく、より複雑な問題として展開した。近代日本では、「する」の論理が経済や技術の領域には浸透しながら、政治や社会関係の領域では「である」の論理が温存されるという「ねじれ」が生じていると指摘した。民主主義もまた、一度獲得すれば自動的に維持される「である」的な所有物ではなく、不断に行使し「する」ことによってのみ実質的に存続するものであるという主張は、丸山の思想の核心をなす。

graph TD
    subgraph A ["丸山眞男の思想的射程"]
        A1["日本政治思想史研究<br/>朱子学から徂徠学への展開"]
        A2["超国家主義分析<br/>無責任の体系・抑圧移譲"]
        A3["日本の思想<br/>タコツボ型・ササラ型"]
        A4["民主主義論<br/>であることとすること"]
    end
    A1 -->|"前近代の思想構造が"| A2
    A2 -->|"構造分析から"| A3
    A3 -->|"文化論から"| A4
    subgraph B ["分析の共通基盤"]
        B1["主体的個人の不在"]
        B2["自律的価値判断の欠如"]
    end
    A1 --- B1
    A2 --- B1
    A3 --- B2
    A4 --- B2

戦後民主主義思想とその展開

戦後民主主義の成立

1945年の敗戦と1946年の日本国憲法公布は、日本政治思想史における最大の断絶を画した。国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を三大原則とする新憲法のもと、戦後民主主義(せんごみんしゅしゅぎ)が展開された。

Key Concept: 戦後民主主義(postwar democracy) 1945年以降の日本で形成された民主主義的な思想・制度・運動の総称。日本国憲法を規範的基盤とし、平和主義と結びついた点に特徴がある。丸山眞男をはじめとする知識人が理論的支柱となったが、その性格——占領下の「与えられた民主主義」か、主体的選択かをめぐって評価が分かれる。

戦後民主主義の思想的指導者としては、丸山のほか、大塚久雄(おおつか ひさお、1907-1996、経済史)、川島武宜(かわしま たけよし、1909-1992、法社会学)らが近代的市民社会の形成を理論的課題として追求した。これらの知識人に共通するのは、日本社会の「前近代性」を克服し、自律的個人に基づく市民社会を実現するという啓蒙的課題の設定であった。

60年安保闘争と知識人

1960年の日米安全保障条約改定をめぐる安保闘争は、戦後民主主義の最大の政治的実践の場となった。丸山を含む知識人たちは、岸信介(きし のぶすけ、1896-1987)首相による条約の強行採決を議会制民主主義の危機として批判し、反対運動を支持した。

丸山は安保闘争に際して、アカデミズムの領域を超えてオピニオンリーダーとして積極的に発言した。丸山や鶴見俊輔(つるみ しゅんすけ、1922-2015)、竹内好(たけうち よしみ、1910-1977)らの知識人に共通していたのは、日本においては民衆が既存の権威主義的秩序を解体して自らの手で政治秩序を再構成する「市民革命」が未成立であり、安保闘争にその契機を見出そうとする姿勢であった。

安保闘争は条約の自然成立によって政治的には敗北したが、岸内閣の退陣を引き出した。しかし以後、高度経済成長の進展とともに知識人の政治的影響力は低下し、「思想の季節」は終わりを告げた。

55年体制下の知識人と市民運動

55年体制(自由民主党と日本社会党の二大政党制、1955-1993)のもとで、知識人は「進歩的文化人」として護憲・平和主義の立場から発言を続けた。しかし、1960年代後半以降、全共闘運動(1968-1969)は丸山ら旧世代の知識人をも批判の対象とした。1969年の東大紛争において丸山の研究室が占拠された事件は、戦後民主主義の指導者が次世代から批判される象徴的場面であった。

1970年代以降は、大規模な政治運動よりも、公害反対運動、消費者運動、住民運動など、具体的な生活課題に根ざした市民運動が展開された。この変化は、知識人主導のトップダウン型啓蒙から、草の根の市民的実践への移行として理解できる。


丸山眞男評価をめぐる論争

丸山眞男は戦後日本を代表する政治学者であるが、その評価をめぐっては多様な批判が提起されている。

近代主義批判: 丸山が西欧近代を規範として日本の「前近代性」を批判する図式は、西欧中心主義的な近代化論に依拠しているという批判がある。ポストコロニアル的観点からは、酒井直樹(さかい なおき、1946-)らが、丸山のナショナリズム評価や近代的主体の想定そのものを問題視した。

丸山学派批判: 1990年代以降、姜尚中(カン サンジュン、1950-)や米谷匡史(よねたに まさふみ)らは、丸山が1950年代までの著作で明治ナショナリズムを肯定的に評価していた点を批判した。ただし、丸山の後期思想が多元主義・市民社会論へと移行していった点を指摘する研究者(斎藤純一、笠井潔ら)もおり、論争は一義的な結論に至っていない。

「戦後民主主義」の虚構性: 伊東祐吏(いとう ゆうじ)は『丸山眞男の敗北』(2016)において、丸山が追求した戦後民主主義が結局のところ日本社会に根づかなかったと論じ、丸山思想の「敗北」を主題化した。

これらの批判は、丸山思想の限界を指摘するとともに、丸山が提起した問い——日本における主体的個人と民主主義の可能性——が今なお未解決の課題であることを逆説的に示している。


まとめ

  • 吉野作造の民本主義は、天皇主権を前提とする明治憲法体制の枠内でデモクラシーの実質を追求する理論であり、主権論を意図的に回避する戦略的特徴を持った
  • 大正デモクラシーは普通選挙の実現・政党政治の確立という成果を挙げたが、治安維持法との同時制定に見られるように、民主化と抑圧が表裏一体であった
  • 北一輝は天皇親政と社会革命の接合という独自の国家改造論を構想し、青年将校に思想的影響を与えた
  • 丸山眞男は超国家主義の精神構造を分析し、「無責任の体系」「抑圧移譲の原理」を析出した。これらは日本の政治文化の構造的特質を解明する鍵概念となった
  • 『日本の思想』におけるタコツボ型とササラ型の対比、「である」ことと「する」ことの区別は、日本社会の思考様式に対する根本的な批判を提示した
  • 戦後民主主義は丸山ら知識人を理論的支柱として展開されたが、60年安保以後は政治的影響力が低下し、その評価をめぐる論争が続いている
  • 丸山思想に対しては近代主義批判やポストコロニアル的批判が提起されており、その功罪を含めて戦後日本政治思想の中心的論点であり続けている

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
民本主義 minpon-shugi 吉野作造が提唱した、主権の所在を問わず政権運用の目標を人民に置くデモクラシー論
大正デモクラシー Taisho Democracy 1910-20年代に展開された民主主義的運動・思潮の総称
普通選挙法 Universal Manhood Suffrage Act 1925年制定。満25歳以上の全男子に選挙権を付与
治安維持法 Peace Preservation Act 1925年制定。国体変革・私有財産否認を目的とする結社を処罰する法律
超国家主義 ultra-nationalism 国家が私的領域を包摂し天皇を精神的権威の頂点とする体制・精神構造
無責任の体系 system of irresponsibility 丸山が析出した、最終的意思決定主体が不在となる日本の権力構造
抑圧移譲の原理 principle of transference of oppression 上位者から受けた抑圧を下位者に転嫁する心理的メカニズム
タコツボ型 takotsubo-type 共通基盤なく各分野が孤立した日本的知的構造
ササラ型 sasara-type 共通基盤から専門分化した西欧的知的構造
「である」と「する」 being and doing 前近代的身分原理と近代的機能原理の対比
戦後民主主義 postwar democracy 1945年以降、日本国憲法を基盤に展開された民主主義的思想・運動
55年体制 1955 System 自民党と社会党による二大政党制(1955-1993)
進歩的文化人 progressive intellectuals 戦後日本で護憲・平和主義の立場から発言した知識人の総称
国家改造論 theory of national reconstruction 北一輝が構想した天皇親政・社会革命の統合的改革論

確認問題

Q1: 吉野作造が「民主主義」ではなく「民本主義」という用語を採用した理由を、大日本帝国憲法の規定との関係から説明せよ。

A1: 大日本帝国憲法は天皇を主権者と定めていたため、人民主権を意味する「民主主義」をそのまま主張すれば憲法違反となる。吉野は主権の所在という法理上の問題を棚上げし、デモクラシーの第二の意味——「国家主権の活動の基本的目標が政治上人民にある」という政権運用の方針——に着目して「民本主義」と名づけた。これにより天皇主権と矛盾せずにデモクラシーの実質を主張する理論的空間を確保した。

Q2: 丸山眞男が析出した「無責任の体系」とはいかなる構造か。西欧ファシズムとの比較を含めて論述せよ。

A2: 「無責任の体系」とは、天皇は神聖不可侵で政治的責任を負わず、臣下は「上の意志に従っただけ」と主張し、最終的な意思決定の主体が構造的に不在となる権力のありかたを指す。ナチス・ドイツではヒトラーやゲーリングらが明確な政治的意志と世界観をもって確信犯的に権力を行使したのに対し、日本の戦争指導者は「状況の圧力」や「空気」に流されたと弁明した。丸山はこの対比から、日本のファシズムの精神的「矮小さ」を指摘し、主体的決断の不在こそが日本の超国家主義の構造的特質であると論じた。

Q3: 丸山眞男の「タコツボ型」と「ササラ型」の比喩を用いて、日本の知的・組織構造の問題点を説明せよ。

A3: 「ササラ型」は西欧の知的構造を表す。ギリシア哲学・キリスト教神学・ローマ法という共通の知的基盤(ササラの柄)から諸学問が分化したため、専門家同士が分野を超えて対話する共通言語を持つ。「タコツボ型」は日本の知的構造を表す。明治以降の急速な近代化で各専門分野が個別に輸入されたため、共通基盤が形成されず、各分野が蛸壺のように孤立した。この構造は学問のみならず官僚組織・企業にも及び、セクショナリズムの思想的背景となっている。

Q4: 「である」ことと「する」ことの対比は、丸山眞男の民主主義論においてどのような意味を持つか。

A4: 丸山は、前近代的な身分秩序が「である」の論理——生まれや地位によって人間の価値が決まる——に基づくのに対し、近代社会は「する」の論理——行為と業績によって評価される——に基づくと対比した。近代日本では経済・技術の領域に「する」の論理が浸透する一方、政治・社会関係では「である」の論理が残存するという「ねじれ」がある。さらに丸山は、民主主義そのものも「である」的な所有物ではなく、不断に行使し「する」ことで初めて維持されるものであり、市民の主体的な政治参加が不可欠であると主張した。

Q5: 丸山眞男に対する批判として、ポストコロニアル的観点からの批判と「戦後民主主義」の虚構性を指摘する批判をそれぞれ概説せよ。

A5: ポストコロニアル的批判としては、酒井直樹や姜尚中らが、丸山が西欧近代を規範として日本の「前近代性」を批判する図式が西欧中心主義に依拠していること、また丸山が1950年代までの著作で明治ナショナリズムを肯定的に評価していたことを問題視した。一方、伊東祐吏は『丸山眞男の敗北』で、丸山が追求した主体的個人に基づく民主主義が結局日本社会に根づかなかったと論じ、戦後民主主義プロジェクト自体の「敗北」を主題化した。ただし、丸山の後期思想が多元主義へ移行した点を指摘する擁護論もあり、評価は定まっていない。