コンテンツにスキップ

Module 2-5 - Section 1: 日本政治外交史——近代国家建設から戦前まで

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 2-5: 政治史
前提セクション なし
想定学習時間 3.5時間

導入

本セクションでは、ペリー来航(1853年)から大政翼賛会の成立(1940年)に至る約90年間の日本政治外交史を扱う。この時期は、東アジアの一封建国家にすぎなかった日本が、欧米列強に伍する近代国民国家を建設し、やがてその体制が内部から崩壊して軍国主義体制へと転換する過程である。明治憲法体制の構築、藩閥政治から政党政治への移行、大正デモクラシーの高揚、そして政党政治の崩壊と軍部の台頭という一連の流れを、制度的・構造的変化に着目しながら分析する。

この時期の理解は、戦後日本の政治体制がなぜ・いかにして再構築されたかを把握する前提となる(→ Module 2-5, Section 2「日本政治外交史——戦後から現代まで」参照)。


幕末・維新と近代国家建設

ペリー来航と開国

1853年(嘉永6年)、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー(Matthew C. Perry)が軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、フィルモア大統領の親書を携えて日本の開国を要求した。翌1854年、ペリーは艦隊を増強して再来航し、幕府は日米和親条約(Treaty of Peace and Amity)を締結、下田・箱館の2港を開港した。さらに1858年、大老井伊直弼(いい・なおすけ)は朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約(Harris Treaty)を締結した。この条約は領事裁判権(治外法権)の承認と関税自主権の欠如という二重の不平等性を内包しており、その改正は以後半世紀にわたる日本外交の最重要課題となった。

Key Concept: 不平等条約(Unequal Treaties) 幕末期に欧米諸国と締結された条約群の総称。領事裁判権(外国人犯罪者を日本の裁判所で裁けない)と関税自主権の欠如(輸入関税を日本が自主的に設定できない)を主な不平等内容とする。条約改正は明治外交の中心課題であった。

尊王攘夷から倒幕へ

開国に伴う物価高騰と攘夷(外国排斥)の気運は、天皇の権威を背景とした尊王攘夷運動(Sonno Joi Movement)を生んだ。しかし、薩英戦争(1863年)や下関戦争(1863-64年)における敗北は、攘夷の非現実性を薩摩・長州両藩に痛感させ、方針は開国・倒幕へと転換した。1866年の薩長同盟(坂本龍馬の仲介)を経て、1867年に第15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還を行い、同年12月の王政復古の大号令により新政府が樹立された。翌1868年の戊辰戦争で旧幕府勢力を軍事的に制圧し、明治維新(Meiji Restoration)が実現した。

Key Concept: 明治維新(Meiji Restoration) 幕藩体制の崩壊から近代国民国家建設への政治的大変革の総称。狭義には1868年の王政復古から廃藩置県(1871年)までの政治変動を指すが、広義には幕末の開国から自由民権運動・憲法制定に至る一連の近代化過程を含む。

明治維新の三大改革

新政府は急速な中央集権化と近代化を推進した。1869年の版籍奉還(はんせきほうかん)で藩主に領地・領民を天皇に返上させ、1871年の廃藩置県(はいはんちけん)で藩を廃止して府県を設置し、中央政府が任命する府知事・県令を配置した。これにより約260の藩が3府72県に再編され、封建的分権体制から中央集権体制への転換が完了した。

軍事面では、1873年の徴兵令(ちょうへいれい)により国民皆兵制度が導入され、武士の軍事独占が解体された。財政面では、同年の地租改正(ちそかいせい)により、米による物納から地価の3%を金納する方式へと変更し、安定的な税収基盤を確保した。

これらの改革は、身分制の解体(四民平等)、近代的官僚制の構築、統一的な法制度の整備と並行して進められ、近代国家の基盤を形成した。

自由民権運動

1874年、参議を辞した板垣退助(いたがき・たいすけ)らが民撰議院設立建白書を左院に提出し、国会開設を求める自由民権運動(Freedom and People's Rights Movement)が始まった。この運動は士族層から豪農層・都市知識人へと拡大し、各地で政治結社の結成、私擬憲法(民間による憲法草案)の起草が行われた。1881年、明治十四年の政変で大隈重信(おおくま・しげのぶ)が政府から追放されると同時に、国会開設の勅諭が発され、10年後の国会開設が約束された。これを受けて板垣は自由党を、大隈は立憲改進党を結成し、日本における政党政治の萌芽が生まれた。


明治憲法体制と立憲政治の展開

大日本帝国憲法の制定

国会開設の約束を受けて、伊藤博文(いとう・ひろぶみ)は1882年からヨーロッパに渡り、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト(Rudolf von Gneist)やウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz von Stein)から国法学の講義を受けた。伊藤がプロイセン(ドイツ)の憲法体制を模範としたのは、天皇を中心とした国家体制の構築に適していたためである。帰国後、伊藤は井上毅(いのうえ・こわし)、伊東巳代治(いとう・みよじ)、金子堅太郎(かねこ・けんたろう)らとともに、ドイツ人法律顧問ヘルマン・ロエスレル(Hermann Roesler)の助言も得ながら憲法草案を起草した。

1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法(Constitution of the Empire of Japan)が欽定憲法として発布された。

Key Concept: 大日本帝国憲法(Meiji Constitution / Constitution of the Empire of Japan) 1889年発布、1890年施行のアジア初の近代憲法。天皇主権を基本原理とし、天皇は統治権の総攬者として立法・行政・司法の三権を統べるとされた。臣民の権利は「法律の範囲内」で保障される留保付きであった。

明治憲法体制の統治構造

明治憲法体制の最大の特徴は、天皇のもとに複数の権力機関が並立し、相互に牽制し合う多元的構造にあった。内閣・帝国議会・枢密院・陸海軍の統帥部が、いずれも天皇に直属する形で並立し、これらを統合する制度的メカニズムが憲法上に明文化されていなかった。

graph TD
    Emperor["天皇(統治権の総攬者)"]
    Cabinet["内閣(国務大臣の輔弼)"]
    Diet["帝国議会(貴族院・衆議院)"]
    Privy["枢密院(天皇の最高諮問機関)"]
    Military["統帥部(陸軍参謀本部・海軍軍令部)"]
    Judiciary["司法(大審院)"]

    Emperor --> Cabinet
    Emperor --> Diet
    Emperor --> Privy
    Emperor --> Military
    Emperor --> Judiciary

    Cabinet -.->|"予算案提出"| Diet
    Diet -.->|"法律・予算の協賛"| Emperor
    Privy -.->|"憲法・条約の諮詢"| Emperor
    Military -.->|"帷幄上奏(統帥事項)"| Emperor

Key Concept: 統帥権独立(Independence of Supreme Command) 天皇の軍隊に対する統帥権(最高指揮権)は内閣・議会の関与を受けないとする原則。大日本帝国憲法第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」に基づく。軍の作戦・用兵に関する事項は参謀本部・軍令部が天皇に直接上奏(帷幄上奏)し、内閣総理大臣はこれに関与できないとされた。この原則が後に軍部の政治的独走を可能にする制度的基盤となった。

この体制において、内閣総理大臣は「同輩中の首席」(primus inter pares)にすぎず、各国務大臣は個別に天皇を輔弼(ほひつ)する存在であった。「内閣」の語は憲法上に規定がなく、内閣官制(1885年制定)によって運用されていた。首相が閣僚の罷免権を持たず、とりわけ陸軍大臣・海軍大臣は現役(後に予備役も含む)の大将・中将に限定する軍部大臣現役武官制により、軍部が事実上の内閣拒否権を保持していた。

藩閥政治から政党政治への移行

1890年の第1回帝国議会開設後、政府の中枢を占めたのは薩摩・長州出身の藩閥官僚(Hanbatsu)であった。伊藤博文、山県有朋(やまがた・ありとも)、黒田清隆(くろだ・きよたか)、松方正義(まつかた・まさよし)らが交互に政権を担い、藩閥の人脈と元老の推薦が首相選出を左右した。

しかし、議会における予算審議権を武器とする政党勢力(自由党・改進党系)との対立は不可避であった。政府は当初、超然主義(政党に依拠しない政権運営)を掲げたが、議会運営の困難から次第に政党との妥協・提携を余儀なくされた。1898年、大隈重信・板垣退助の連立による隈板(わいはん)内閣が成立し、日本初の政党内閣が実現した(ただし短命に終わった)。1900年には伊藤博文自身が立憲政友会を結成し、藩閥と政党の融合が進行した。

条約改正外交

明治政府にとって不平等条約の改正は国家的悲願であった。井上馨(いのうえ・かおる)外相の欧化政策(鹿鳴館外交)は失敗に終わり、大隈重信外相の改正案も玄洋社員の爆弾テロで頓挫した。転機は日清戦争の直前、1894年に陸奥宗光(むつ・むねみつ)外相がイギリスとの間で日英通商航海条約を締結し、領事裁判権の撤廃に成功したことである。さらに1911年、小村寿太郎(こむら・じゅたろう)外相が日米通商航海条約を改定して関税自主権を完全回復し、半世紀以上にわたる条約改正交渉は完結した。

日清・日露戦争の政治的意義

日清戦争(1894-95年)は朝鮮半島における日清両国の影響力争いを背景として勃発した。下関条約により朝鮮の独立承認、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金2億両(テール)を獲得したが、ロシア・フランス・ドイツによる三国干渉で遼東半島を返還させられた。この経験は「臥薪嘗胆」のスローガンのもと、対露軍備拡張の国民的合意を形成した。

日露戦争(1904-05年)はロシアの満洲駐兵継続と朝鮮半島への南下圧力を背景に勃発した。ポーツマス条約により南満洲の権益・南樺太の割譲を獲得し、日本は列強としての国際的地位を確立した。政治的には、非白人国家が近代的軍事力でヨーロッパの大国を打ち破った最初の事例として国際的反響を呼び、アジア諸国のナショナリズムを刺激した。一方、国内では賠償金が得られなかったことへの不満から日比谷焼打事件(1905年)が発生し、国民の政治参加意識の高まりを示した。

その後、日本は1910年の韓国併合で朝鮮半島を植民地化し、第一次世界大戦(1914-18年)では日英同盟を根拠に参戦して、ドイツの中国における権益(山東半島)と南洋諸島の委任統治権を獲得した。1915年には中国(袁世凱政権)に対し二十一か条要求を突きつけ、中国における日本の権益拡大を図った。


大正デモクラシー

第一次護憲運動

1912年(大正元年)、陸軍の二個師団増設要求を拒否した西園寺公望(さいおんじ・きんもち)内閣に対し、陸軍大臣上原勇作(うえはら・ゆうさく)が単独辞職(軍部大臣現役武官制を利用)したことで内閣が総辞職した。後継の桂太郎(かつら・たろう)内閣に対し、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる第一次護憲運動(大正政変、1912-13年)が展開された。立憲政友会の尾崎行雄(おざき・ゆきお)・立憲国民党の犬養毅(いぬかい・つよし)らが中心となり、国民的運動に発展して桂内閣を総辞職に追い込んだ。これは藩閥政治に対する議会・世論の力を示す画期的事件であった。

Key Concept: 大正デモクラシー(Taisho Democracy) 大正期(1912-26年)を中心に展開された、政党政治・普通選挙・民衆の政治参加の拡大を求める政治的・社会的運動の総称。護憲運動、民本主義、労働運動・農民運動・女性解放運動など多様な潮流を含む。

民本主義と天皇機関説——理論的支柱

大正デモクラシーの理論的支柱となったのが、吉野作造(よしの・さくぞう)の民本主義と美濃部達吉(みのべ・たつきち)の天皇機関説である。

Key Concept: 民本主義(Minponshugi / Democracy for the People) 東京帝国大学教授吉野作造が1916年の論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」(『中央公論』)で提唱した政治理論。主権の所在(法理論的問題)には踏み込まず、政治の目的が民衆の福利にあること(政策の目的)と、政策決定が民衆の意向に基づくべきこと(政策決定の方針)を主張した。天皇主権を否定せず民主的政治運営を基礎づけた点に独自性がある。

Key Concept: 天皇機関説(Emperor Organ Theory / Tennō Kikan Setsu) 東京帝国大学教授美濃部達吉が唱えた憲法学説。国家を法人とみなし、天皇は国家という法人の最高機関として統治権を行使するとする。天皇を国家そのものと同一視する天皇主権説(上杉慎吉ら)に対抗し、議会の権限を理論的に基礎づけた。大正期には通説的地位を占めたが、1935年の天皇機関説事件で弾圧された。

吉野は主権論争を回避しつつ普通選挙と政党内閣制を正当化し、美濃部は天皇を「機関」と位置づけることで議会の立法権を理論的に補強した。両者は方法論的には異なるものの、ともに明治憲法の枠内で民主的政治運営を基礎づける試みであった。

原敬内閣——本格的政党内閣の成立

1918年、シベリア出兵を見越した米の買い占めに端を発する米騒動が全国に拡大し、寺内正毅(てらうち・まさたけ)内閣は総辞職した。後継として立憲政友会総裁の原敬(はら・たかし)が首相に就任し、陸軍・海軍・外務の3大臣を除く閣僚すべてを政友会員で構成する本格的政党内閣が成立した。

原は「平民宰相」と称された(華族ではなく衆議院議員として首相に就任した初例)。原内閣は選挙権拡大(小選挙区制導入・選挙資格の納税額引き下げ)、高等教育の拡充、交通インフラの整備(鉄道網拡大)などの積極政策を展開した。ただし普通選挙法の導入には消極的であり、1921年に東京駅で暗殺された。

普通選挙法と治安維持法

1924年の第二次護憲運動(護憲三派内閣の成立)を経て、加藤高明(かとう・たかあき)内閣のもと、1925年に普通選挙法が成立した。これにより、満25歳以上の男子に選挙権が付与され、有権者数は約330万人から約1,240万人へと大幅に拡大した(ただし女性参政権は認められなかった)。

しかし同年、治安維持法も制定された。これは「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織」する行為を処罰するもので、共産主義運動の取り締まりを主目的とした。参政権の拡大と思想統制の強化が同時に行われたことは、大正デモクラシーの両義性を象徴している。1928年の改正で最高刑が死刑に引き上げられ、適用範囲も拡大された。


政党政治の崩壊と軍部台頭

二大政党制の展開と限界

1924年の護憲三派内閣以降、立憲政友会と立憲民政党(1927年に憲政会と政友本党が合同して結成)による政権交代が行われ、「憲政の常道」と呼ばれる慣行が定着した。元老西園寺公望の推薦のもと、衆議院の多数党党首が首相に任命されるという運用は、明治憲法に明文規定がないにもかかわらず、1924年から1932年まで維持された。

しかし、この時期の政党政治にはいくつかの構造的弱点があった。第一に、政党は財閥との癒着(政治献金と利権供与の関係)が批判された。第二に、政友会と民政党は政策的差異よりも党利党略で対立し、相互に足を引っ張り合った。第三に、昭和恐慌(1929年の世界恐慌の影響で1930年から深刻化)により農村が疲弊し、都市においても失業が拡大して国民の政党政治への不信が高まった。

統帥権干犯問題——政党政治自壊の契機

1930年のロンドン海軍軍縮条約をめぐり、浜口雄幸(はまぐち・おさちろう)内閣が軍令部の反対を押し切って条約を批准したことが、統帥権干犯問題に発展した。海軍軍令部長加藤寛治(かとう・ひろはる)は、補助艦比率が海軍の要求(対米7割)を満たさないことを理由に反対し、帷幄上奏(天皇への直接上奏)を試みた。

Key Concept: 国家総動員体制(National Mobilization System) 日中戦争の長期化に伴い、1938年の国家総動員法を中核として構築された戦時体制。政府に対し、議会の承認なく人的・物的資源を戦争目的に動員する広範な権限を付与した。労働力の徴用、物資の統制配給、言論統制などを包括的に行う体制であり、国民生活のあらゆる側面が国家の統制下に置かれた。

重大なのは、野党政友会(鳩山一郎・森恪ら)が倒閣目的でこの問題を利用し、軍部の統帥権干犯論を政治的に後押ししたことである。政党が自らの権力闘争のために軍部の政治介入を正当化するという自壊的行動は、政党政治の基盤を根底から掘り崩した。同年11月、浜口首相は右翼青年に東京駅で狙撃され、翌年死亡した。

満州事変と軍部の独走

1931年9月18日、関東軍(満洲駐屯の日本陸軍)が柳条湖で南満洲鉄道の線路を自ら爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍の行為と称して軍事行動を開始した。これが満州事変(Manchurian Incident)である。若槻禮次郎(わかつき・れいじろう)内閣は不拡大方針を閣議決定したが、関東軍は政府方針を無視して軍事行動を拡大し、1932年3月には「満洲国」を建国させた。

満州事変は、軍(とりわけ陸軍の中堅幕僚層)が政府の統制を無視して独自に軍事行動を起こし、既成事実を作って事後的に政府に追認させるという行動パターンを確立した点で、決定的な転換点であった。

五・一五事件と政党政治の終焉

1932年5月15日、海軍青年将校らが首相官邸を襲撃し、犬養毅(いぬかい・つよし)首相を射殺した(五・一五事件)。犬養は満洲問題の外交的解決を模索しており、軍部の行動に批判的であった。この事件により、1924年以来の政党内閣の慣行は終わり、以後、軍人や官僚を首班とする挙国一致内閣が続くこととなった(斎藤実内閣、岡田啓介内閣など)。

事件の実行犯に対する量刑が軽かったこと(死刑判決なし)、国民から減刑嘆願が殺到したことは、国民の政党政治への幻滅と軍部への共感が広がっていたことを示している。

二・二六事件と軍部支配の確立

1936年2月26日、陸軍皇道派の青年将校約1,400名が部隊を率いて首相官邸・警視庁などを襲撃し、高橋是清蔵相・斎藤実内大臣・渡辺錠太郎教育総監を殺害した(二・二六事件)。事件自体は鎮圧されたが、その政治的帰結は重大であった。

第一に、軍部大臣現役武官制が復活し(1936年の広田弘毅内閣)、軍部が陸海軍大臣の推薦を拒否することで事実上の組閣拒否権を行使できるようになった。第二に、事件後の粛軍人事で皇道派が排除され、統制派(東條英機ら)が陸軍の主導権を握り、組織的・体系的な軍の政治関与が強化された。第三に、政治家・官僚に「軍部には逆らえない」という空気が浸透した。

日中戦争から大政翼賛会へ

1937年7月の盧溝橋事件を契機に日中戦争(当時の呼称は「支那事変」)が全面化した。近衛文麿(このえ・ふみまろ)内閣は当初「不拡大方針」を表明しながらも戦線は拡大し続け、1938年には国家総動員法が制定された。同法は政府に対し、議会の承認なしに人的・物的資源を動員する広範な権限を付与するものであった。

1940年、近衛文麿は「新体制運動」を推進し、すべての政党が自発的に解散して大政翼賛会(Imperial Rule Assistance Association)が結成された。これは一国一党的な国民統合組織を目指したものであるが、実際には陸軍・官僚・旧政党勢力の利害が錯綜し、ナチス党やファシスト党のような統一的な独裁政党にはなりえなかった。それでも、複数政党による競争的政治過程の消滅という点で、立憲政治の実質的な終焉を意味した。

timeline
    title 政党政治の展開と崩壊
    1890 : 第1回帝国議会開設
         : 藩閥政治と議会の対立
    1898 : 隈板内閣(初の政党内閣)
    1900 : 伊藤博文が立憲政友会を結成
    1912-1913 : 第一次護憲運動(大正政変)
    1918 : 原敬内閣(本格的政党内閣)
    1924 : 護憲三派内閣
         : 「憲政の常道」の慣行確立
    1925 : 普通選挙法・治安維持法
    1930 : 統帥権干犯問題
    1931 : 満州事変
    1932 : 五・一五事件
         : 政党内閣の終焉
    1936 : 二・二六事件
         : 軍部大臣現役武官制の復活
    1937 : 日中戦争
    1938 : 国家総動員法
    1940 : 大政翼賛会
         : 全政党解散

まとめ

  • ペリー来航による開国は不平等条約体制をもたらし、その改正が明治外交の中心課題となった。版籍奉還・廃藩置県・徴兵制・地租改正により封建体制を解体し、中央集権的近代国家を建設した
  • 大日本帝国憲法は天皇主権・統帥権独立・多元的権力構造を特徴とし、権力統合メカニズムの不在が後の軍部独走の制度的基盤となった
  • 藩閥政治から政党政治への移行は、議会の予算審議権と政党の組織力を背景に漸進的に進行し、大正デモクラシー期に最高潮に達した
  • 民本主義と天皇機関説は、明治憲法の枠内で民主的政治運営を理論的に基礎づけた
  • 政党政治は、財閥との癒着、党利党略、経済危機への対応失敗、統帥権干犯問題での自壊的行動により国民の支持を失い、五・一五事件で終焉した
  • 軍部の台頭は、統帥権独立の制度的基盤、軍部大臣現役武官制による組閣介入権、満州事変以降の既成事実化戦術、テロリズムへの社会的共感という複合的要因によって進行した
  • 次のセクションでは、この体制が敗戦によって崩壊し、占領改革を経て戦後民主主義体制へと再構築される過程を扱う(→ Module 2-5, Section 2「日本政治外交史——戦後から現代まで」参照)

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
不平等条約 Unequal Treaties 幕末に締結された、領事裁判権の承認と関税自主権の欠如を特徴とする条約群
明治維新 Meiji Restoration 幕藩体制の崩壊から近代国民国家建設に至る一連の政治的大変革
大日本帝国憲法 Meiji Constitution 1889年発布の欽定憲法。天皇主権と多元的権力構造を特徴とする
統帥権独立 Independence of Supreme Command 軍の統帥に関する事項が内閣・議会の関与を受けないとする原則
藩閥 Hanbatsu 薩摩・長州を中心とする維新功臣の閥族。明治前半期の政治を主導した
民本主義 Minponshugi 吉野作造が提唱した、民衆の福利を目的とする政治運営の理論
天皇機関説 Emperor Organ Theory 美濃部達吉の憲法学説。天皇を国家の最高機関と位置づける
大正デモクラシー Taisho Democracy 大正期を中心とした政党政治・普通選挙・民衆参加の拡大を求める潮流
憲政の常道 Conventional Constitutionalism 衆議院多数党党首が首相に任命されるという慣行(1924-32年)
統帥権干犯問題 Supreme Command Infringement Issue ロンドン海軍軍縮条約批准をめぐり政府が統帥権を侵害したとする政治問題
国家総動員法 National Mobilization Law 1938年制定。政府に人的・物的資源の統制的動員権限を付与した法律
大政翼賛会 Imperial Rule Assistance Association 1940年に全政党が解散して結成された一国一党的国民統合組織

確認問題

Q1: 大日本帝国憲法における統帥権独立の制度的仕組みを説明し、それが後の政党政治の崩壊にどのように作用したか論じなさい。

A1: 大日本帝国憲法第11条は「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定し、軍の作戦・用兵に関する事項(統帥事項)は参謀本部・軍令部が帷幄上奏により天皇に直接上奏する仕組みとなっていた。内閣総理大臣はこれに関与できず、統帥事項と国務事項の境界は曖昧であった。1930年のロンドン海軍軍縮条約批准に際し、軍令部は兵力量の決定は統帥事項であると主張して政府の条約批准を「統帥権干犯」と攻撃した。野党政友会がこの主張を政治的に利用したことで、軍部の政治介入に正当性が与えられ、以後、軍部は統帥権を盾に政府の意思決定をしばしば拒否・無視するようになった。

Q2: 藩閥政治から政党政治への移行はどのようなメカニズムで進行したか。議会の制度的権限に着目して説明しなさい。

A2: 帝国議会(衆議院)は法律の制定と予算の協賛(承認)に関する権限を有していた。政府が新規立法や予算を通すには衆議院の同意が必要であり、予算不成立の場合は前年度予算で運営する制約があった。藩閥政府は当初「超然主義」を掲げたが、政党が議会の多数を占めるにつれ、立法・予算が滞る事態が常態化した。これにより、藩閥は政党との妥協・提携を余儀なくされ、やがて藩閥自身が政党を組織する(伊藤の政友会結成)に至った。最終的に、元老の推薦のもと衆議院の多数党党首が首相に任命される「憲政の常道」が慣行として確立した。

Q3: 吉野作造の民本主義と美濃部達吉の天皇機関説は、いずれも明治憲法の枠内で民主的政治を基礎づけようとした。両者のアプローチの違いを説明しなさい。

A3: 吉野の民本主義は政治学的アプローチで、主権の法的所在(天皇主権か国民主権か)の問題を意図的に回避し、政治の「運用」面に着目した。すなわち、政治の目的は民衆の福利にあり、政策決定は民衆の意向に基づくべきであるとした。これにより天皇主権を否定せずに普通選挙と政党内閣制を正当化した。一方、美濃部の天皇機関説は憲法学(法解釈学)的アプローチで、国家を法人とみなし、天皇はその最高機関として統治権を行使するとする理論を展開した。これにより天皇は国家に従属する「機関」として位置づけられ、議会が独自の権能を有することが法理論的に基礎づけられた。

Q4: 1932年の五・一五事件による政党内閣の終焉は、単なるテロリズムの結果ではなく、構造的要因の帰結であった。政党政治が崩壊した構造的要因を3つ以上挙げて分析しなさい。

A4: 第一に、明治憲法の制度的欠陥として、統帥権独立により軍部が内閣の統制を受けない独立した政治勢力として存在し続けた。第二に、政党自身の自壊的行動として、統帥権干犯問題で野党政友会が軍部の論理を政治的に利用し、軍の政治介入に正当性を与えた。第三に、昭和恐慌(1930年以降)による農村の疲弊と都市の失業拡大が国民の政党政治への不信を深めた。第四に、政党と財閥の癒着が腐敗として批判され、清廉な軍人による政治刷新を期待する世論が形成された。第五に、満州事変における関東軍の独走を政府が追認せざるを得なかったことで、軍の既成事実化戦術が有効であることが実証された。これらの複合的要因が五・一五事件を単なるテロ事件にとどめず、政党政治の終焉という構造的転換をもたらした。

Q5: 明治期の条約改正外交の経緯を概説し、不平等条約の改正達成が日本の近代国家建設においてどのような政治的意義を持ったか論じなさい。

A5: 安政の不平等条約は、領事裁判権(外国人への日本の裁判管轄権の欠如)と関税自主権の欠如を特徴とした。井上馨の欧化政策・大隈重信の改正交渉は失敗したが、1894年に陸奥宗光がイギリスとの日英通商航海条約で領事裁判権の撤廃に成功し、1911年には小村寿太郎が日米通商航海条約改定により関税自主権を完全回復した。この過程は、単なる外交上の成果にとどまらず、日本が国際法上の対等な主権国家として承認されたことを意味する。国内的には、近代的法典の編纂(民法・商法・刑法など)が条約改正の前提条件として推進され、法治国家としての体制整備を促進した。また、条約改正の達成は、日清・日露戦争の勝利と並んで「文明国」としての日本の国際的地位向上を象徴するものであった。