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Module 2-5 - Section 2: 日本政治外交史——戦後から現代まで

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 2-5: 政治史
前提セクション Section 1: 日本政治外交史——近代国家建設から戦前まで
想定学習時間 3.5時間

導入

Section 1で扱った大日本帝国憲法体制は、政党政治の崩壊と軍部の台頭を経て、大政翼賛会に象徴される戦時体制へと帰結した。本セクションでは、1945年の敗戦から現代に至る日本の政治外交史を扱う。

戦後日本の政治体制は、連合国軍による占領統治のもとで根本的に再構築された。日本国憲法の制定、財閥解体・農地改革などの占領改革は、明治以来の国家体制を解体し、新たな民主主義体制の基盤を形成した。しかし、冷戦の激化はこの改革路線を修正させ(逆コース)、日本の進路を西側陣営の一員として規定することとなった。サンフランシスコ講和条約による主権回復後、吉田茂が敷いた軽武装・経済重視の路線(吉田ドクトリン)は、55年体制のもとで高度経済成長という成果を生んだ。そして1993年の55年体制崩壊後、日本政治は選挙制度改革、政権交代の実現、安全保障政策の転換といった新たな局面を迎えている。


戦後改革と占領政策

GHQ/SCAPによる占領統治の構造

1945年8月15日のポツダム宣言受諾により日本は降伏し、同年9月2日に降伏文書に調印した。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP: General Headquarters / Supreme Commander for the Allied Powers)の最高司令官ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)のもと、約6年8か月にわたる占領統治が開始された。

占領統治の特徴は間接統治方式にあった。GHQは日本政府を存続させ、その機構を通じて改革指令を実施させた。ドイツの場合とは異なり、日本では政府機能が維持されたため、GHQの指令は日本の官僚機構を経由して実施された。この方式は効率的であった反面、旧来の官僚機構が温存されるという帰結をもたらした。

五大改革指令と民主化政策

1945年10月11日、マッカーサーは幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)首相に対し、いわゆる五大改革指令(Five Major Reform Directives)を口頭で伝達した。

改革項目 具体的内容
婦人の解放 女性参政権の付与(1945年12月の衆議院議員選挙法改正)
労働組合の奨励 労働組合法(1945年)、労働関係調整法(1946年)、労働基準法(1947年)の制定
教育の自由主義化 教育基本法・学校教育法(1947年)、教育委員会法(1948年)による教育の民主化
圧制的諸制度の撤廃 治安維持法・特別高等警察の廃止、政治犯の釈放
経済の民主化 財閥解体、農地改革、独占禁止法(1947年)の制定

これらに加え、軍の解体・復員、戦犯の追放・裁判(極東国際軍事裁判=東京裁判)、公職追放(約20万人)などの非軍事化政策が実行された。

三大経済改革

占領期の経済改革は、財閥解体(Dissolution of Zaibatsu)、農地改革(Land Reform)、労働改革(Labor Reform)の三本柱から成る。

財閥解体は、三井・三菱・住友・安田の四大財閥を中心とする持株会社を解体し、経済力の集中排除を図った。持株会社整理委員会が設置され、財閥本社の解散、株式の分散が行われた。過度経済力集中排除法(1947年)により325社が指定されたが、最終的に実際に分割されたのは11社にとどまった。

農地改革は、不在地主の農地をすべて、在村地主の保有農地を都府県で1町歩(約1ヘクタール)、北海道で4町歩を超える部分を政府が強制買収し、小作農に安価で売り渡した。この結果、小作地率は戦前の約46%から約10%に激減し、自作農が農村の主体となった。農地改革は日本社会の構造を根本的に変革し、農村における保守的支持基盤(後の自民党の集票構造)を形成する基盤ともなった。

労働改革は、労働三法(労働組合法・労働関係調整法・労働基準法)の制定を通じて、労働者の団結権・団体交渉権・争議権を法的に保障した。

日本国憲法の制定過程

1945年10月、GHQは日本政府に対し憲法改正を指示した。松本烝治(まつもと・じょうじ)国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)が設置され、憲法改正案の策定に着手した。しかし、松本委員会案は天皇の統治権を基本的に維持する保守的な内容であり、1946年2月1日の毎日新聞によるスクープで内容が明らかになると、GHQはこれを不十分と判断した。

1946年2月3日、マッカーサーはGHQ民政局(Government Section)に対し、3つの基本原則(マッカーサー・ノート / MacArthur Notes)を示して憲法草案の起草を命じた。

原則 内容
第1原則 天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の義務および権能は憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本的意思に応えるものとする
第2原則 国権の発動たる戦争は廃止する。日本は紛争解決の手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する
第3原則 日本の封建制度は廃止される。華族の権利は現存者一代以上には及ばない

GHQ民政局は約9日間で草案を起草し、2月13日に日本政府に提示した(マッカーサー草案)。日本政府はこの草案を基礎として「憲法改正草案」を作成し、帝国議会の審議を経て修正が加えられた。

特に重要な修正が、衆議院の小委員会での審議における芦田修正(Ashida Amendment)である。芦田均(あしだ・ひとし)委員長のもと、第9条第2項の冒頭に「前項の目的を達するため」(in order to accomplish the aim of the preceding paragraph)という文言が挿入された。この修正により、「前項の目的」(=国際紛争の解決手段としての戦争放棄)以外の目的であれば戦力保持が許容されるという解釈の余地が生まれた。芦田自身、この修正が自衛のための戦力保持を可能にする趣旨であったと後に証言している。極東委員会はこの含意に気づき、軍の政治介入を防ぐための文民条項(第66条第2項「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」)の追加を求めた。

Key Concept: 日本国憲法第9条(Article 9 of the Japanese Constitution) 1946年11月3日公布、1947年5月3日施行。第1項で「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、第2項で「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と定める。その解釈は戦後日本政治の最大の争点の一つであり続けている。

逆コース——冷戦の影響

1947年頃から、冷戦の激化に伴いアメリカの対日占領政策は大きく転換した。当初の「非軍事化・民主化」路線から、日本を反共産主義の拠点として再建する路線へと方針が変わった。この占領政策の転換は逆コース(Reverse Course)と総称される。

Key Concept: 逆コース(Reverse Course) 1947年頃から顕在化したGHQの対日占領政策の転換。冷戦激化を背景に、日本の非軍事化・民主化から、経済復興・再軍備・反共体制構築へと占領方針が変化したことを指す。財閥解体の緩和、公職追放の解除、レッドパージ、警察予備隊の創設などが具体的施策である。

逆コースの具体的施策として、以下が挙げられる。

第一に、経済安定九原則とドッジ・ライン(1949年)である。GHQ経済顧問ジョセフ・ドッジ(Joseph Dodge)が実施した超均衡予算政策は、インフレの収束と日本経済の自立化を目指した。1ドル=360円の単一為替レートが設定され、日本は輸出主導の経済成長路線に乗る基盤が作られた。

第二に、レッドパージ(Red Purge, 1950年)である。朝鮮戦争の勃発前後に、共産党員およびその同調者が官公庁・民間企業から大量に追放された(約1万3千人)。

第三に、警察予備隊の創設(1950年)である。朝鮮戦争勃発に伴い在日米軍が朝鮮半島に出動したことで生じた「力の空白」を埋めるため、マッカーサーの指令により7万5千人の警察予備隊が創設された。これは1952年に保安隊、1954年に自衛隊へと改編され、憲法第9条との整合性をめぐる論争を恒常的に生むことになった。


冷戦期の日本外交——日米同盟と吉田ドクトリン

サンフランシスコ講和条約と日米安保条約

1951年9月8日、サンフランシスコにおいて48か国との間で対日平和条約(サンフランシスコ講和条約 / Treaty of Peace with Japan)が調印された(発効は1952年4月28日)。日本は主権を回復したが、この講和は以下の点で「片面講和」であった。ソ連・中華人民共和国(招請されず)・インド(不参加)など、主要な交戦国の一部が条約に参加しなかった。全交戦国との「全面講和」を主張する左派知識人(南原繁東大総長ら)と、吉田茂が推進した西側諸国との「片面講和」の選択は、戦後日本の外交路線を決定づける重大な分岐点であった。

同日、吉田茂は日米安全保障条約(Security Treaty between the United States and Japan)にただ一人の全権として署名した。他の全権委員に署名させなかったのは、米軍駐留の継続という「不平等な」性格を持つ条約の責任を自分一人で引き受ける意図であったとされる。

Key Concept: 日米安保条約(US-Japan Security Treaty) 1951年調印の旧条約は、米軍の日本駐留を認める一方、米国の日本防衛義務を明記せず、米軍が日本の内乱鎮圧に使用できる条項を含むなど不平等な性格を有していた。1960年の改定(新安保条約)で米国の日本防衛義務が明記され、内乱条項が削除されるとともに、条約の期限(10年後に一方の通告で終了可能)が設定された。

吉田ドクトリン——戦後日本外交の基本路線

吉田茂(よしだ・しげる)首相(在任: 1946-47年、1948-54年)が確立した戦後日本外交の基本路線は、後に吉田ドクトリン(Yoshida Doctrine)と呼ばれるようになった。

Key Concept: 吉田ドクトリン(Yoshida Doctrine) 戦後日本の外交・安全保障の基本路線。(1) 日米安保条約に基づく米国の軍事的庇護のもとで安全保障を確保し、(2) 自国の防衛費を最小限に抑え(軽武装)、(3) 経済復興・成長に国家資源を集中するという戦略。冷戦構造を前提に、敗戦国日本が最小のコストで安全保障と経済成長を両立させる合理的選択であった。

吉田ドクトリンの背景には、以下の戦略的計算があった。第一に、冷戦下で米国は日本を西側陣営に留める戦略的利益を有しており、安全保障の提供はそのための投資であった。第二に、日本が大規模な再軍備を行えば、周辺国の警戒を招くとともに経済復興に必要な資源が軍事に流出する。第三に、憲法第9条は再軍備要求に対する外交的口実として機能した。

この路線に対しては、アメリカ(特にダレス国務長官)から再軍備と集団安全保障への積極的参加を求める圧力が継続的にかかった。しかし吉田は、憲法の制約と国内世論を理由に大規模再軍備を回避し続けた。

日米安保改定と60年安保闘争

1957年に就任した岸信介(きし・のぶすけ)首相は、旧安保条約の不平等性の解消を目指して条約改定交渉に着手した。旧条約は、(1) 米国の日本防衛義務が明記されていない、(2) 米軍が日本の内乱に介入できる条項がある、(3) 期限の定めがないといった問題を抱えていた。

1960年1月19日、新安保条約(Treaty of Mutual Cooperation and Security between Japan and the United States of America)がワシントンで調印された。新条約では、米国の日本防衛義務が明記され(第5条)、内乱条項が削除され、条約期限が設定された(10年後に一方の通告で終了可能)。条約の内容自体は旧条約に比べて対等性が向上していた。

しかし、国会での批准をめぐり激烈な政治対立が生じた。1960年5月20日未明、岸内閣は衆議院本会議で野党議員の排除のもと新安保条約の承認を強行採決した。この行為は条約の内容そのものへの反対にとどまらず、「議会制民主主義の危機」として広範な抗議運動を引き起こした。6月15日にはデモ隊が国会構内に突入し、東大生の樺美智子(かんば・みちこ)が死亡した。反対運動は「安保反対」から「岸退陣」へとスローガンを転じ、6月4日のゼネストには560万人が参加した。

条約は参議院の議決がないまま、衆議院の議決から30日後の6月19日に憲法の規定により自然成立した。アイゼンハワー大統領の訪日は中止され、岸内閣は批准書交換の日(6月23日)をもって総辞職した。後継の池田勇人(いけだ・はやと)内閣は「所得倍増計画」を掲げ、政治的争点を経済成長へと転換した。

沖縄返還

1972年5月15日、沖縄の施政権が日本に返還された。佐藤栄作(さとう・えいさく)首相は1969年の日米首脳会談でニクソン大統領と「核抜き・本土並み」の返還で合意したが、その裏面では複雑な交渉が行われていた。

第一に、有事の際の沖縄への核兵器の持ち込み・通過を事前協議のうえで認めるという秘密合意(核密約)が存在した。この密約は、佐藤の密使を務めた若泉敬(わかいずみ・けい)が1994年に著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』で公表し、2009年には佐藤元首相の遺族が合意議事録の原本を保管していたことが確認された。

第二に、ニクソン政権は沖縄返還と引き換えに日本に対する繊維製品の輸出自主規制を求めた。佐藤とニクソンの間の個人的約束が、実際の通商交渉を担当する事務方には伝えられなかったため交渉は難航し、「糸と縄」問題として日米関係に摩擦を生じさせた。

沖縄返還は、日本の戦後処理における最大の未解決課題の一つを決着させた意義を持つ。佐藤は非核三原則(核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」)の表明によりノーベル平和賞(1974年)を受賞したが、核密約の存在はこの原則の実効性に疑問を投じている。


55年体制の展開

保守合同と社会党の統一

1955年、日本の政党政治に画期的な再編が起こった。まず同年10月、左右に分裂していた日本社会党(Japan Socialist Party)が再統一した。これに危機感を覚えた財界(経済団体連合会)の強い要請のもと、11月15日に自由党と日本民主党が合同して自由民主党(Liberal Democratic Party: LDP)が結成された(保守合同)。ここに、自民党を与党・社会党を野党第一党とする「1と2分の1政党制」とも称される政治体制が成立した。

Key Concept: 55年体制(1955 System) 1955年の保守合同・社会党統一により成立し、1993年まで約38年間続いた日本の政治体制。自由民主党が衆議院の約3分の2、日本社会党が約3分の1の議席を占め、自民党の一党優位のもとで政権交代なき政治が続いた。革新勢力が憲法改正に必要な3分の2の議席獲得を阻止する「3分の1のカベ」が事実上の制度的均衡を形成した。

自民党一党優位体制の構造

55年体制下の自民党が長期政権を維持し得た要因は複合的であった。

第一に、派閥政治(Habatsu / Factional Politics)である。 自民党内部には、岸派・池田派・佐藤派・田中派・福田派など複数の派閥が並立した。派閥は総裁選における投票の単位であり、閣僚・党役員ポストの配分(「適材適所」の名のもとに行われた派閥均衡人事)の基盤であった。派閥間の競争は擬似的な政権交代の機能を果たし、政策の多様性と自浄作用を一定程度確保した。党内に異なる政策志向の派閥が共存することで、自民党は幅広い有権者層に訴求できた。

第二に、官僚との協調関係である。 自民党と中央省庁の官僚は「政官関係」として緊密な連携を維持した。政策立案は主として官僚が担い、自民党の政務調査会(政調)の部会が事前審査を行う「与党事前審査制」が確立した。省庁別に組織された「族議員」(Zoku Giin)は、所管の政策分野で官僚と利益団体の間を仲介し、予算・規制をめぐる調整を行った。

第三に、利益誘導政治(Pork-barrel Politics)である。 中選挙区制(1つの選挙区から3〜5人を選出)のもとでは、同じ自民党の候補者同士が同一選挙区で競合した。政策やイデオロギーではなく、選挙区への利益還元(公共事業、補助金)の能力が集票の鍵となり、後援会(Koenkai)組織を通じた個人的な支持ネットワークが形成された。

第四に、農村票の基盤である。 農地改革で自作農となった農民は、農業保護政策(特に米価の政府買い上げ制度)を通じて自民党の安定的支持基盤となった。都市部の急速な人口増加にもかかわらず、選挙区の区割り変更(定数是正)が遅れたため、農村部の一票の価値が都市部を大きく上回る「一票の格差」が存在し続け、農村に支持基盤を持つ自民党に有利に作用した。

graph TD
    LDP["自由民主党"]
    Faction["派閥(総裁選・ポスト配分の単位)"]
    Bureaucracy["中央省庁(政策立案)"]
    Business["財界(政治献金)"]
    Agriculture["農業団体(農協=JA)"]
    LocalGov["地方自治体"]
    Voters["有権者(農村・地方)"]

    LDP --> Faction
    LDP <-->|"与党事前審査・族議員"| Bureaucracy
    Business -->|"政治献金"| LDP
    LDP -->|"規制・産業政策"| Business
    Agriculture -->|"組織票"| LDP
    LDP -->|"農業保護政策(米価等)"| Agriculture
    LDP -->|"公共事業・補助金"| LocalGov
    LocalGov -->|"利益誘導"| Voters
    Voters -->|"選挙支持"| LDP

高度経済成長と政治的安定

1955年から1973年にかけて、日本は年平均10%前後の実質GDP成長率を記録する高度経済成長(High Economic Growth)を達成した。池田勇人内閣の「国民所得倍増計画」(1960年)は、10年間で国民所得を倍増させるという目標を掲げ、実際にはそれを上回るペースで達成された。

高度経済成長は、55年体制の安定に決定的に寄与した。経済成長の果実は公共事業・社会保障・補助金などの形で全国に再配分され、利益誘導政治を支える財政的基盤が確保された。「経済の成功=与党の成功」という等式は選挙においても有効に機能し、自民党は「パイの拡大」を通じて多様な利益要求を同時に満たすことが可能であった。

田中角栄と利益誘導政治の極致

田中角栄(たなか・かくえい)は、55年体制下の利益誘導政治を象徴する政治家である。1972年に首相に就任し、「日本列島改造論」を掲げて全国的な高速道路・新幹線ネットワークの建設を構想した。田中は官僚機構に精通し、建設省・郵政省などの利権を掌握する田中派を形成して、自民党最大派閥として党内政治を支配した。

田中は1974年に金脈問題で退陣し、1976年にはロッキード事件で逮捕・起訴された。しかし退陣後も「闇将軍」として自民党最大派閥を率い、後継首相の選定に影響力を行使し続けた。田中の政治手法——卓越した利益配分能力、官僚機構の動員、地方への公共事業投下——は55年体制の権力構造を凝縮して体現するものであった。


冷戦後の日本政治・外交の変容

55年体制の崩壊

1993年、約38年間続いた55年体制は崩壊した。直接の契機は、宮澤喜一(みやざわ・きいち)内閣の政治改革法案の否決と、それに続く内閣不信任決議案の可決であった。自民党からは小沢一郎(おざわ・いちろう)・羽田孜(はた・つとむ)らが離党して新生党を結成し、武村正義(たけむら・まさよし)らが新党さきがけを結成した。

1993年7月の総選挙で自民党は過半数を割り込み(223議席)、社会党も惨敗した(70議席)。日本新党の細川護熙(ほそかわ・もりひろ)を首班とする非自民8党派連立内閣が成立し、自民党は結党以来初めて下野した。

55年体制崩壊の背景には、以下の構造的要因があった。第一に、冷戦の終結(1989年)により「反共」というイデオロギー的求心力が消失した。第二に、バブル経済の崩壊(1991年)により、利益誘導政治を支える財政的基盤が揺らいだ。第三に、リクルート事件(1988年)、佐川急便事件(1992年)などの金権スキャンダルが「政治改革」を国民的課題に押し上げた。第四に、自民党内の世代交代をめぐる対立が党分裂を招いた。

選挙制度改革

細川内閣のもとで1994年に成立した政治改革関連四法は、衆議院の選挙制度を中選挙区制から小選挙区比例代表並立制(Mixed-Member Majoritarian System)へと転換した。

Key Concept: 小選挙区比例代表並立制(Mixed-Member Majoritarian System) 1994年導入の衆議院選挙制度。有権者は小選挙区(1人を選出)と比例代表(ブロック別の政党名簿)の2票を投じる。当初は小選挙区300・比例代表200の計500議席であったが、後に小選挙区289・比例代表176の計465議席に変更された。小選挙区では相対多数で当選者が決まり、比例代表ではドント方式で各党の議席が配分される。重複立候補(小選挙区と比例名簿の同時立候補)が認められている。

この改革の意図は、(1) 同一政党候補同士の競合を解消し、政策本位・政党本位の選挙を実現すること、(2) 小選挙区制の「勝者総取り」効果により二大政党制を促進すること、(3) 政権交代可能な政治体制を構築することにあった。

改革の帰結は複合的であった。確かに政党本位の選挙へのシフトが一定程度進み、2009年の政権交代が実現した。しかし、小選挙区制の下で得票率と議席率の乖離が拡大し、大政党に有利な議席配分が生じやすくなった。また、比例代表との並立により多党制の要素が残存し、連立政権が常態化した。

政権交代——2009年民主党政権

2009年8月の衆議院選挙で民主党が308議席を獲得する歴史的大勝を収め、鳩山由紀夫(はとやま・ゆきお)を首班とする民主党政権が成立した。戦後初めての本格的な選挙による政権交代(1993年の細川内閣は自民党の分裂に起因する)として、小選挙区制改革の意図が実現した瞬間であった。

しかし、民主党政権は短命に終わった。鳩山政権は米軍普天間基地の移設問題で迷走し、沖縄県外への移設という公約を実現できずに退陣した。菅直人(かん・なおと)政権は2011年の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故への対応に追われ、野田佳彦(のだ・よしひこ)政権は消費増税と党内対立で求心力を失った。2012年12月の総選挙で自民党が政権に復帰し、民主党政権は約3年3か月で幕を閉じた。

民主党政権の挫折は、(1)「政治主導」を掲げながら官僚機構との関係構築に失敗したこと、(2) 党内の政策的不一致を収束できなかったこと、(3) 外交・安全保障分野での経験不足が露呈したこと、などが複合的に作用した結果である。

安全保障政策の転換

冷戦後、日本の安全保障政策は段階的かつ大幅に変容した。この変容は、吉田ドクトリンの漸進的修正ないし脱却のプロセスとして理解できる。

第一段階: PKO協力法(1992年) 湾岸戦争(1990-91年)で日本は130億ドルの資金援助を行いながら人的貢献を行わず、国際社会から「小切手外交」と批判された。この経験を契機に、1992年にPKO協力法(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)が成立し、自衛隊のカンボジアPKOへの派遣が実現した。自衛隊の海外派遣は戦後初の事例であり、武力行使との一体化を避けるための厳格な参加5原則(停戦合意の存在、紛争当事者の同意、中立性の確保、これらが満たされない場合の撤収、武器使用は正当防衛に限定)が設定された。

第二段階: 日米同盟の再定義(1996-97年) 1996年の日米安保共同宣言で日米同盟はアジア太平洋地域の安定の基盤として再定義され、1997年の新ガイドライン(日米防衛協力のための指針)で「周辺事態」における日米協力の枠組みが整備された。

第三段階: テロ特措法・イラク特措法(2001-03年) 2001年の9.11同時多発テロ後、テロ対策特別措置法に基づきインド洋での海上自衛隊の給油活動が開始された。2003年にはイラク復興支援特別措置法に基づき、陸上自衛隊がイラク南部サマーワに派遣された。

第四段階: 安保法制(2015年) 第二次安倍晋三(あべ・しんぞう)内閣は、2014年7月に閣議決定により憲法解釈を変更し、従来の政府解釈で禁じられてきた集団的自衛権(Collective Self-Defense)の限定的行使を容認した。2015年9月に成立した平和安全法制(安保法制)は、「存立危機事態」(日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、日本の存立が脅かされる事態)における武力行使を可能にした。

この安保法制をめぐっては、(1) 解釈改憲の手続き的正当性、(2) 従来の政府見解との整合性、(3) 歯止めの実効性、をめぐり激しい議論が展開された。多くの憲法学者が違憲と判断し、国会前では大規模な抗議デモが行われた。一方、安倍政権は安全保障環境の変化(中国の軍事的台頭、北朝鮮の核・ミサイル開発)を根拠に、法整備の必要性を主張した。

timeline
    title 戦後日本の安全保障政策の転換点
    1946 : 日本国憲法公布
         : 戦争放棄・戦力不保持(第9条)
    1950 : 警察予備隊創設(朝鮮戦争)
    1951 : 日米安保条約調印
    1954 : 自衛隊発足
         : 政府見解「自衛のための必要最小限度の実力は戦力に当たらない」
    1960 : 日米安保条約改定
         : 60年安保闘争
    1972 : 沖縄返還
    1992 : PKO協力法成立
         : カンボジアPKO派遣
    1997 : 新ガイドライン策定
    2001 : テロ特措法
         : インド洋給油活動
    2003 : イラク特措法
         : 自衛隊イラク派遣
    2014 : 集団的自衛権の限定行使容認(閣議決定)
    2015 : 平和安全法制(安保法制)成立

まとめ

  • 占領期の民主化改革(五大改革指令、日本国憲法の制定、財閥解体・農地改革・労働改革)は、戦前の国家体制を根本的に解体し、戦後民主主義の制度的基盤を形成した
  • 冷戦の激化に伴う逆コースは、非軍事化・民主化路線を修正し、日本を西側陣営の一員として位置づけた。警察予備隊から自衛隊への改編は、憲法第9条の解釈問題を戦後政治の恒常的争点とした
  • 吉田ドクトリン(軽武装・経済重視・日米同盟依存)は、冷戦構造を前提とした合理的な外交戦略として確立され、55年体制下の高度経済成長を支えた
  • 55年体制は、自民党の派閥政治・官僚との協調・利益誘導政治・農村票基盤という複合的メカニズムにより約38年間維持されたが、冷戦終結・バブル崩壊・金権スキャンダルという構造的変動により1993年に崩壊した
  • 選挙制度改革(小選挙区比例代表並立制)は二大政党制と政権交代を企図し、2009年に民主党政権として結実したが、民主党政権の挫折は政権担当能力の構築が制度改革だけでは実現しないことを示した
  • 冷戦後の安全保障政策は、PKO協力法から安保法制に至るまで段階的に拡大し、吉田ドクトリンの漸進的修正として展開している
  • 次のセクションでは、ヨーロッパ・アメリカの政治史を扱い、近代議会制民主主義の展開を比較的視点から検討する(→ Module 2-5, Section 3「ヨーロッパ・アメリカ政治史——近代から戦間期まで」参照)

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
日本国憲法第9条 Article 9 of the Japanese Constitution 戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認を規定した条文。その解釈は戦後政治の最大の争点の一つ
逆コース Reverse Course 冷戦激化に伴うGHQの対日占領政策の転換。民主化路線から反共・経済復興路線への方針変更
吉田ドクトリン Yoshida Doctrine 軽武装・経済重視・日米同盟依存を基軸とする戦後日本外交の基本路線
日米安保条約 US-Japan Security Treaty 1951年調印(旧)、1960年改定(新)の日米間の安全保障条約。日米同盟の法的基盤
55年体制 1955 System 1955年から1993年まで続いた自民党一党優位の政治体制
小選挙区比例代表並立制 Mixed-Member Majoritarian System 1994年導入の衆議院選挙制度。小選挙区と比例代表を組み合わせる
芦田修正 Ashida Amendment 憲法第9条第2項に「前項の目的を達するため」を挿入した修正。自衛力保持の解釈余地を生んだ
五大改革指令 Five Major Reform Directives 1945年にGHQが日本政府に指示した婦人解放・労働組合奨励・教育自由化・圧制的制度撤廃・経済民主化
集団的自衛権 Collective Self-Defense 自国と密接な関係にある他国が攻撃された場合に共同で防衛する権利。2014年に限定行使が容認された
PKO協力法 Act on Cooperation for United Nations Peacekeeping Operations 1992年成立。自衛隊の国連PKO参加を可能にした法律

確認問題

Q1: 吉田ドクトリンの3つの要素を説明し、それが冷戦構造のもとでなぜ合理的な外交戦略として機能し得たか論じなさい。

A1: 吉田ドクトリンは、(1) 日米安保条約に基づく米国の軍事的庇護のもとで安全保障を確保し、(2) 自国の防衛費を最小限に抑え(軽武装)、(3) 国家資源を経済復興・成長に集中するという三要素から成る。冷戦構造のもとでこれが合理的であった理由は以下の通りである。第一に、米国は共産主義の封じ込め(Containment)戦略上、日本を西側陣営に留める戦略的利益を有しており、安全保障の提供はそのための投資であった。第二に、日本が大規模再軍備を行えば周辺国(特にかつての被侵略国)の警戒を招き、アジアの安定を損なう。第三に、軍事費の抑制により経済成長に資源を集中でき、結果として西側陣営全体の経済的基盤を強化する。第四に、憲法第9条は米国からの再軍備圧力に対する外交的口実として機能した。

Q2: 逆コースの具体的施策を3つ挙げ、それぞれがGHQの当初の占領方針からどのように転換したものかを説明しなさい。

A2: 第一に、財閥解体の緩和がある。当初は過度経済力集中排除法により325社が指定されたが、冷戦下で日本の経済復興が優先され、最終的に分割されたのは11社にとどまった。非軍事化の一環としての経済力分散から、反共の産業基盤としての経済力温存へと転換した。第二に、レッドパージ(1950年)がある。当初は政治犯の釈放・労働組合の奨励など民主化を進めていたが、共産主義勢力の伸長を受けて共産党員・同調者を官公庁・企業から大量追放した。民主的権利の保障から反共体制の構築へと転換した。第三に、警察予備隊の創設(1950年)がある。日本の非軍事化を占領の最重要目標としていたGHQが、朝鮮戦争の勃発により事実上の再軍備を指令した。非軍事化から再軍備への最も明白な転換であり、のちの自衛隊創設へとつながった。

Q3: 55年体制における自民党一党優位体制がなぜ約38年間維持され得たのか。その構造的要因を3つ以上挙げて分析しなさい。

A3: 第一に、派閥政治が擬似的な政権交代機能を果たした。党内に複数の派閥が競合することで、政策的多様性と人事刷新が党内で処理され、有権者は自民党内の路線変更を政権交代の代替として受容した。第二に、中選挙区制のもとでの利益誘導政治により、候補者は公共事業・補助金の獲得能力で競い、有権者への直接的な利益還元を通じて固い支持基盤を維持した。第三に、農地改革で自作農となった農民が農業保護政策(米価の政府買い上げ等)の受益者として自民党を支持し、「一票の格差」(農村部の過大代表)がこの効果を増幅した。第四に、高度経済成長がパイの拡大をもたらし、自民党は多様な利益要求を同時に満たすことが可能であった。「経済成長=与党の成功」という等式が長期にわたり有効であった。第五に、冷戦下で「反共」が求心力として機能し、革新政党への政権委譲に対する国民の警戒感が自民党支持を維持させた。

Q4: 1960年の安保闘争は、新安保条約の内容そのものへの反対にとどまらない性格を持っていた。闘争が拡大した政治的要因を説明しなさい。

A4: 新安保条約は旧条約に比べて対等性が向上しており、内容面では日本にとって不利とは言い難かった。しかし闘争が拡大した主要因は、1960年5月20日未明に岸内閣が衆議院本会議で野党議員を排除して強行採決を行ったことにある。この行為は「議会制民主主義の蹂躙」として受け止められ、条約の是非を超えた「民主主義を守る」という大義名分を反対運動に与えた。安保反対のスローガンは「岸退陣」へと転じ、労働組合・学生・市民が合流した広範な運動に発展した。つまり安保闘争の本質は、特定の政策への反対というよりも、議会制民主主義の手続き的正当性をめぐる闘いであった。

Q5: PKO協力法(1992年)から安保法制(2015年)に至る安全保障政策の転換を、吉田ドクトリンとの関係で整理しなさい。

A5: 吉田ドクトリンは軽武装・経済重視・日米同盟依存を基軸とし、自衛隊の活動範囲を日本の領域防衛に限定することを前提としていた。冷戦後、この前提は段階的に修正された。1992年のPKO協力法は、自衛隊の海外派遣を初めて可能にしたが、参加5原則による厳格な制約を設け、武力行使との一体化を回避した。2001年のテロ特措法、2003年のイラク特措法は、米国主導の「対テロ戦争」への後方支援として自衛隊の活動範囲を拡大した。そして2015年の安保法制は、集団的自衛権の限定行使を容認し、「存立危機事態」における武力行使を法的に可能にした。この一連の過程は、吉田ドクトリンの「軽武装」と「領域防衛限定」の要素を段階的に緩和するものであり、日米同盟の双務性強化を通じて同盟依存の性格を維持しつつも、日本自身の安全保障上の役割を拡大する方向への転換と整理できる。