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Module 2-5 - Section 3: ヨーロッパ・アメリカ政治史——近代から戦間期まで

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 2-5: 政治史
前提セクション なし
想定学習時間 4時間

導入

本セクションでは、1789年のフランス革命から1939年の第二次世界大戦勃発前夜までの約150年間にわたるヨーロッパおよびアメリカの政治史を扱う。この期間は、近代政治の基本原理——人民主権、国民国家、立憲主義——が形成・拡散し、同時にその内在的矛盾が帝国主義・世界大戦・全体主義という形で噴出した時代である。

フランス革命は「旧体制」(アンシャン・レジーム)を破壊して近代政治の幕を開けたが、革命がもたらした理念と現実の乖離は、19世紀を通じて自由主義・保守主義・ナショナリズム・社会主義という対抗的潮流を生み出した。19世紀後半の帝国主義的膨張はヨーロッパの勢力均衡を不安定化させ、第一次世界大戦へと帰結する。戦後のヴェルサイユ体制の構造的欠陥は、ファシズムとナチズムの台頭を許し、国際秩序の再度の崩壊を招いた。

本セクションは、これらの政治変動を因果的連関のもとに把握し、近代ヨーロッパ政治史の全体像を構築することを目標とする。なお、冷戦期以降の展開については次セクション(→ Module 2-5, Section 4「ヨーロッパ・アメリカ政治史——冷戦と現代」参照)で扱う。


フランス革命と近代政治の幕開け

アンシャン・レジームの危機

18世紀末のフランスは、絶対王政のもとで深刻な構造的危機に直面していた。社会は三つの身分に区分され、第一身分(聖職者、約12万人)と第二身分(貴族、約40万人)が免税特権を享受する一方、第三身分(平民、約2,600万人)が租税負担の大半を担っていた。

Key Concept: アンシャン・レジーム(Ancien Régime) フランス革命以前の政治・社会体制の総称。絶対王政、身分制社会、領主制、ギルド制度などを包含する。特権身分(聖職者・貴族)と第三身分の間の構造的不平等がその特徴であり、革命によって解体された。

財政危機が直接の引き金となった。アメリカ独立戦争への介入(1778-1783)による戦費負担、宮廷の浪費、非効率な徴税制度が重なり、国庫は破綻寸前にあった。ルイ16世は特権身分への課税を試みたが、高等法院(パルルマン)の抵抗に遭い、1789年5月に三部会(États généraux)の召集を余儀なくされた。三部会の召集は1614年以来175年ぶりであり、これ自体が体制の行き詰まりを象徴していた。

フランス革命の展開(1789-1799)

立憲君主政への移行(1789-1792)

1789年6月、第三身分の代表は自らを「国民議会」(Assemblée nationale)と宣言し、テニスコートの誓い(6月20日)で憲法制定まで解散しないことを誓約した。7月14日のバスティーユ監獄襲撃はパリ民衆の武装蜂起の象徴となり、革命の実力行使による推進を告げた。

8月4日夜には封建的特権の廃止が宣言され、8月26日に「人間と市民の権利宣言」(Déclaration des droits de l'homme et du citoyen)が採択された。

Key Concept: 人権宣言(Declaration of the Rights of Man and of the Citizen) 1789年8月26日に国民議会が採択した17条からなる宣言。「人間は自由かつ権利において平等なものとして生まれ、かつ生き続ける」(第1条)と宣言し、自由・所有・安全・圧制への抵抗を自然権として掲げた。国民主権、法の前の平等、権力分立の原則を明文化し、近代立憲主義の基礎文書となった。

1791年憲法は立憲君主政を規定し、制限選挙制を導入した。しかし、国王ルイ16世のヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月)は王権への信頼を決定的に損ない、共和主義の潮流を強めた。

共和政と恐怖政治(1792-1794)

1792年4月のオーストリアへの宣戦布告は革命を対外戦争へと拡大させた。8月10日事件(テュイルリー宮殿襲撃)により王権は停止され、9月21日に共和政が宣言された(第一共和政)。1793年1月、ルイ16世は処刑された。

対外戦争の激化と国内の反革命運動を背景に、ジャコバン派のマクシミリアン・ロベスピエール(Maximilien Robespierre)が主導する公安委員会(Comité de salut public)が実権を掌握し、1793年6月から1794年7月まで恐怖政治(Terreur)が展開された。革命裁判所による大量処刑(推定1万6,000〜4万人)は、革命理念の急進化が暴力へと転化する過程を示している。

テルミドール反動とナポレオンの台頭(1794-1799)

1794年7月27日(テルミドール9日)のクーデタによりロベスピエールは逮捕・処刑され、恐怖政治は終結した。続く総裁政府(Directoire, 1795-1799)期は政治的不安定が常態化し、軍事的成功を背景にナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)が台頭した。1799年11月9日(ブリュメール18日)のクーデタで統領政府(Consulat)を樹立し、1804年には皇帝に即位して第一帝政を開いた。

ナポレオンの征服戦争は、フランス革命の理念——法の前の平等、封建制の廃止、ナポレオン法典(Code Napoléon, 1804)——をヨーロッパ全域に拡散させると同時に、被征服地域におけるナショナリズムの覚醒を促した。この二重の遺産が、19世紀ヨーロッパの政治変動を規定する。

ウィーン体制と復古の試み

1814-15年のウィーン会議(Congress of Vienna)は、ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序を再建した。オーストリア外相メッテルニヒ(Klemens von Metternich)が主導し、正統主義(legitimism)——革命以前の正統な君主の復位——と勢力均衡(balance of power)を二大原則とした。

Key Concept: ウィーン体制(Congress System / Concert of Europe) 1815年のウィーン会議で確立されたヨーロッパ国際秩序。正統主義と勢力均衡を原則とし、列強間の協調(ヨーロッパ協調)によって革命の再発を防ぐことを目的とした。四国同盟(後に五国同盟)と神聖同盟がその制度的基盤であった。1848年革命によって実質的に崩壊した。

ウィーン体制は約30年間にわたりヨーロッパの安定を維持したが、自由主義とナショナリズムという革命の理念を抑圧することで、内在的な緊張を蓄積させた。1820年代のスペイン・イタリア・ギリシャでの革命、1830年のフランス七月革命とベルギー独立は、体制の綻びを示していた。


19世紀ヨーロッパの政治変動

1848年革命——「諸国民の春」

1848年2月のパリにおける二月革命がルイ・フィリップの七月王政を倒すと、革命の波は急速にヨーロッパ全域に波及した。3月にはウィーンでメッテルニヒが亡命を余儀なくされ、ベルリン、ミラノ、ブダペスト、プラハなど各地で蜂起が発生した。

Key Concept: ナショナリズム(Nationalism) 特定の民族・国民が独自の政治的主体として自己決定権を有するという思想・運動。19世紀ヨーロッパでは、自由主義と結合して既存帝国の解体と国民国家の形成を推進する力となった。イタリア・ドイツの統一運動、ハプスブルク帝国内の諸民族運動がその典型例である。

1848年革命は、自由主義(立憲主義・市民的自由の要求)とナショナリズム(民族的統一・独立の要求)という二重の動因を持っていた。しかし、自由主義者と急進派の分裂、民族間の利害対立(特にハプスブルク帝国内)、保守勢力の軍事的反撃により、革命はほぼ全面的に挫折した。フランクフルト国民議会はドイツ統一を実現できず、イタリアの統一運動も頓挫した。

1848年革命の挫折は、自由主義とナショナリズムの同盟関係を変質させた。以後、ナショナリズムは自由主義から分離し、むしろ保守的権力と結合して「上からの」国民国家建設に転じる傾向を強める。ビスマルクによるドイツ統一はその典型的な事例である。

ナショナリズムの展開——イタリア統一とドイツ統一

イタリア統一(リソルジメント)

イタリア統一運動(Risorgimento)は、サルデーニャ王国の首相カヴール(Camillo Benso, conte di Cavour)の外交的手腕、ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)の軍事的冒険、マッツィーニ(Giuseppe Mazzini)の共和主義的理念という三つの系譜が絡み合いながら進行した。

カヴールはナポレオン3世との密約(プロンビエールの密約, 1858)を通じてフランスの軍事支援を取り付け、1859年の対オーストリア戦争でロンバルディアを獲得した。1860年にはガリバルディの「千人隊」(赤シャツ隊)が両シチリア王国を征服し、1861年にイタリア王国が成立した。ヴェネツィアは1866年の普墺戦争に乗じて併合され、教皇領ローマは1870年に編入された。

ドイツ統一——ビスマルクの「鉄血政策」

プロイセン首相ビスマルク(Otto von Bismarck)は「現在の問題は演説や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」(1862年)と宣言し、軍事力を梃子とした「上からの」統一を推進した。

1864年のデンマーク戦争(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題)、1866年の普墺戦争(ケーニヒグレーツの戦い)によりオーストリアをドイツ圏から排除し、北ドイツ連邦を結成した。1870年のエムス電報事件を契機とした普仏戦争での勝利は、南ドイツ諸邦の合流を促し、1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国(第二帝政)が成立した。

イタリア統一が外国の援助と民衆運動の複合によって達成されたのに対し、ドイツ統一はプロイセン軍事力による「上からの」統合であり、自由主義的要素は後景に退いた。この「上からの近代化」の構造は、ドイツ政治のその後の展開に深い刻印を残すことになる。

自由主義と保守主義の対立

19世紀ヨーロッパの政治は、自由主義と保守主義の対抗軸を中心に展開した。

自由主義(Liberalism)は、個人の自由と権利の保障、立憲政治、制限選挙から普通選挙への漸進的拡大、自由貿易を主張した。イギリスの議会改革(1832年選挙法改正、1867年第二次改革法)はその段階的進展の典型である。

保守主義(Conservatism)は、エドマンド・バーク(Edmund Burke)の『フランス革命の省察』(1790)に思想的源流を持ち、既存の秩序・伝統・漸進的改革を重視した。メッテルニヒ体制はその政治的表現であった。

19世紀後半には社会主義が新たな政治潮流として台頭する。カール・マルクス(Karl Marx)とフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels)の『共産党宣言』(1848)は資本主義の矛盾と階級闘争を理論化し、第一インターナショナル(1864)と第二インターナショナル(1889)は労働者運動の国際的組織化を進めた。ドイツ社会民主党(SPD)は1912年の帝国議会選挙で第一党となり、議会政治の枠内で社会改革を目指す修正主義路線(エドゥアルト・ベルンシュタイン)と革命路線の間で論争が展開された。

ビスマルク外交と勢力均衡

ドイツ統一後のビスマルク外交(1871-1890)は、ヨーロッパの勢力均衡の維持とフランスの孤立化を基本戦略とした。三帝同盟(1873:独・墺・露)、独墺同盟(1879)、三国同盟(1882:独・墺・伊)、再保障条約(1887:独・露)を重層的に組み合わせ、フランスが復讐戦争のための同盟相手を見出せない状況を作り出した。

この複雑な同盟体系は、ビスマルクの個人的手腕に依存していた。1890年のビスマルク解任後、ヴィルヘルム2世(Wilhelm II)の「世界政策」(Weltpolitik)は再保障条約を更新せず、ロシアをフランスとの同盟に追いやった(露仏同盟, 1894)。これが20世紀初頭の二大陣営対立の出発点となる。

graph LR
    subgraph "19世紀ヨーロッパの政治的潮流"
        A["自由主義<br>個人の権利・立憲政治"] --- B["ナショナリズム<br>民族自決・国民国家"]
        A --- C["保守主義<br>秩序・伝統・漸進的改革"]
        D["社会主義<br>階級闘争・労働者の権利"] --- A
        B --- E["帝国主義<br>膨張・植民地獲得"]
        C --- E
    end

    style A fill:#e3f2fd,stroke:#1565c0
    style B fill:#fff3e0,stroke:#e65100
    style C fill:#f3e5f5,stroke:#7b1fa2
    style D fill:#ffebee,stroke:#c62828
    style E fill:#e8f5e9,stroke:#2e7d32

帝国主義と第一次世界大戦

帝国主義の政治的・経済的動因

19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ列強は急速な植民地膨張を進めた。1870年代にはアフリカの約10%が植民地化されていたに過ぎなかったが、1914年までにはほぼ全域が分割された(アフリカ分割、Scramble for Africa)。1884-85年のベルリン会議はアフリカ分割のルールを定め、列強間の衝突を制度化した。

Key Concept: 帝国主義(Imperialism) 19世紀末〜20世紀初頭にヨーロッパ列強が推進した対外膨張政策の総称。経済的動因(市場・原料・投資先の確保)、政治的動因(国家威信・戦略的優位)、イデオロギー的動因(「文明化の使命」・社会ダーウィニズム)が複合的に作用した。J.A.ホブソン『帝国主義論』(1902)やV.I.レーニン『帝国主義論』(1917)が古典的分析を提供している。

帝国主義の動因については、経済的要因を重視するホブソン=レーニン的解釈(過剰資本の輸出先としての植民地)と、政治的・戦略的要因を重視する解釈(国際的威信の追求、ナショナリズムの対外的発現)が対立している。現代の研究では、経済的利益が植民地獲得の主要動機であったとする単純な説明は退けられ、国内政治的要因(社会帝国主義——対内的矛盾を対外膨張で解消する戦略)を含む多因的な説明が主流となっている。

勢力均衡の崩壊——同盟網の形成

ビスマルク退場後のヨーロッパでは、二つの対立する同盟体系が固定化していった。

  • 三国同盟(Triple Alliance, 1882): ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリア
  • 三国協商(Triple Entente, 1907): フランス・ロシア・イギリス(露仏同盟1894、英仏協商1904、英露協商1907の総称)

ドイツのヴィルヘルム2世による海軍増強(ティルピッツ計画)は英独関係を悪化させ、モロッコ事件(1905, 1911)やボスニア危機(1908)といった国際的緊張が繰り返された。特にバルカン半島は、オスマン帝国の衰退に伴う権力の空白をめぐって列強とバルカン諸国の利害が錯綜し、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。

graph TD
    subgraph "三国同盟 1882"
        DE["ドイツ帝国"]
        AH["オーストリア=ハンガリー"]
        IT["イタリア"]
    end

    subgraph "三国協商 1907"
        FR["フランス"]
        RU["ロシア帝国"]
        GB["イギリス"]
    end

    DE --- AH
    DE --- IT
    AH --- IT

    FR --- RU
    FR --- GB
    RU --- GB

    AH -. "バルカン半島で対立" .-> RU
    DE -. "海軍競争" .-> GB
    FR -. "アルザス=ロレーヌ問題" .-> DE

    style DE fill:#ffcdd2,stroke:#b71c1c
    style AH fill:#ffcdd2,stroke:#b71c1c
    style IT fill:#ffcdd2,stroke:#b71c1c
    style FR fill:#bbdefb,stroke:#0d47a1
    style RU fill:#bbdefb,stroke:#0d47a1
    style GB fill:#bbdefb,stroke:#0d47a1

第一次世界大戦の原因と帰結

1914年6月28日のサラエヴォ事件——オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント暗殺——が直接の引き金となった。オーストリアのセルビアへの最後通牒、ロシアの総動員、ドイツのシュリーフェン計画発動(ベルギー経由でのフランス侵攻)により、同盟体系のドミノ的連鎖が作動し、わずか数週間で大戦に発展した。

第一次世界大戦(1914-1918)は以下の点で質的に新しい戦争であった。

  • 総力戦(total war): 国家の全資源——経済・産業・人口——を戦争に動員
  • 塹壕戦: 西部戦線における膠着と消耗
  • 技術革新: 毒ガス、戦車、航空機、潜水艦の軍事利用
  • 人的被害: 戦死者約900万〜1,000万人、民間人死者を含む総死者数は推計で1,600万〜2,000万人

戦争の帰結として、ロシア帝国(1917年革命)、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国という四つの帝国が崩壊し、ヨーロッパの政治地図は根本的に書き換えられた。

学術的論争——フィッシャー論争

第一次世界大戦の開戦責任をめぐっては、ドイツの歴史家フリッツ・フィッシャー(Fritz Fischer)が1961年の著作『世界強国への道』(Griff nach der Weltmacht)で、ドイツが膨張主義的戦争目的を持ち開戦に主要な責任を負うと主張し、巨大な論争を引き起こした(フィッシャー論争)。従来のドイツ史学における「共同責任論」(全列強に等しく責任がある)を覆すこの主張は、保守的歴史家(ゲルハルト・リッターら)の激しい反発を招いたが、新たな史料に基づく実証により、ドイツに「相当な歴史的責任」があるという見解が広く受け入れられるに至った。ただし、近年のクリストファー・クラーク『夢遊病者たち』(2012)のように、開戦を特定国の計画的意図よりも列強全体の構造的相互作用として捉え直す修正主義的潮流も存在する。

ヴェルサイユ体制と国際連盟

1919年のパリ講和会議は、フランスのクレマンソー(安全保障の確保とドイツの弱体化)、イギリスのロイド・ジョージ(ヨーロッパの勢力均衡の維持)、アメリカのウィルソン(国際連盟の創設と民族自決)という三者の異なる構想の間での妥協として、ヴェルサイユ条約を生み出した。

Key Concept: ヴェルサイユ体制(Versailles System) 1919年のヴェルサイユ条約を基軸とする第一次世界大戦後の国際秩序。ドイツに対する領土割譲、軍備制限、巨額の賠償金(1,320億金マルク)を課した。ウィルソンの提唱による国際連盟を制度的支柱としたが、アメリカの不参加、敗戦国(ドイツ)とソ連の排除という根本的な欠陥を抱えていた。

ヴェルサイユ体制の構造的問題は以下の諸点にあった。

  1. アメリカの不参加: ウィルソン大統領が提唱した国際連盟に、アメリカ上院の批准拒否により当のアメリカが加盟しなかった
  2. ドイツへの過酷な条件: 巨額の賠償金と「戦争責任条項」(第231条)はドイツ国内のナショナリズムを刺激し、体制への敵意を醸成した
  3. 民族自決の不徹底: 東欧に新設された諸国家は多民族国家であり、少数民族問題を内包していた
  4. 集団安全保障の実効性欠如: 国際連盟は軍事力を持たず、大国間の利害対立を調停する力に乏しかった

経済学者ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes)は『平和の経済的帰結』(1919)で賠償条件の経済的不合理性を早くから批判し、ヴェルサイユ体制がヨーロッパの経済的安定を損なうと警告した。


戦間期の危機

ワイマール共和国の構造的脆弱性

1918年11月の革命でドイツ帝国が崩壊した後、1919年にワイマール共和国が成立した。ワイマール憲法は、普通選挙、比例代表制、大統領制と議院内閣制の併用、社会権の保障など、当時最も民主的な憲法の一つと評された。

しかし、ワイマール共和国は構造的に脆弱であった。

  1. 「正統性の欠如」: 共和国は帝政の崩壊と敗戦という否定的状況の中で成立し、保守層・軍部・官僚の多くは共和政に忠誠を持たなかった(「共和国なき共和主義者」問題)
  2. 制度的欠陥: 比例代表制は小党分立を招き、安定的な連立政権の形成を困難にした。大統領緊急命令権(第48条)は憲法の枠内での権威主義化の可能性を内包していた
  3. 経済的危機: 1923年のハイパーインフレーション(物価が数兆倍に高騰)、1929年の世界恐慌に伴う大量失業(1932年に失業率約30%)が社会的不安を極度に高めた
  4. 政治的暴力の常態化: 左右両極端(共産党とナチ党)の街頭暴力が共和政の正常な機能を損なった

1924-29年の「相対的安定期」にはシュトレーゼマン外相のもとでロカルノ条約(1925)や国際連盟加盟(1926)が実現したが、この安定はアメリカ資本の流入(ドーズ案, 1924)に依存する脆弱なものであった。

ナチズムの台頭——ヒトラーの権力掌握

国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)の指導者アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)は、1923年のミュンヘン一揆の失敗後、合法的な議会路線に転換した。

1929年の世界恐慌はナチ党躍進の決定的契機となった。ナチ党は1928年の帝国議会選挙で得票率2.6%に過ぎなかったが、1930年には18.3%、1932年7月には37.4%にまで急伸した。ナチ党の支持基盤は中間層(旧中産階級・農民)を中核とし、失業者・若年層にも広がった。ヴェルサイユ体制の打破、反共産主義、反ユダヤ主義、国民共同体(Volksgemeinschaft)の建設というメッセージが、経済的危機のもとで広範な社会層に訴求した。

1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に任命した。この任命は、保守派エリート(フランツ・フォン・パーペン、アルフレート・フーゲンベルクら)がヒトラーを「利用」しうると判断した結果であった。しかし、ヒトラーは急速に権力を集中させた。1933年2月の国会議事堂放火事件を口実に市民的自由を停止し、3月の全権委任法(Ermächtigungsgesetz)により立法権を政府に移管、事実上の独裁体制を確立した。

Key Concept: 全体主義(Totalitarianism) 国家が政治のみならず経済・社会・文化・私的生活のあらゆる領域を統制・支配しようとする体制。ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)は『全体主義の起原』(1951)において、ナチ・ドイツとスターリン体制のソ連を全体主義の典型として分析し、大衆社会における原子化された個人のイデオロギー的動員とテロルの体系的使用をその本質的特徴とした。

イタリア・ファシズム

イタリアではドイツに先駆けて全体主義的運動が権力を獲得した。ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)は1919年にファッシ・ディ・コンバッティメント(戦闘ファッシ)を結成し、1921年に国家ファシスト党(PNF)へと改組した。

Key Concept: ファシズム(Fascism) 第一次世界大戦後のイタリアで成立した政治運動・体制に由来する概念。反自由主義・反共産主義・超国家主義を掲げ、暴力的行動主義・指導者崇拝・国家の全面的統制を特徴とする。語源はラテン語のfasces(束桿)。イタリアのムッソリーニ体制を原型とし、広義には戦間期ヨーロッパ各地の類似運動を含む。

1922年10月、ムッソリーニは「ローマ進軍」(Marcia su Roma)を組織し、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世からの首相任命を引き出した。以後、選挙法の改変(アチェルボ法, 1923)、野党指導者マッテオッティの暗殺(1924)を経て、1925-26年の一連の法令により一党独裁体制を確立した。

ナチズムとイタリア・ファシズムは多くの共通点(一党独裁、指導者原理、暴力の組織的使用、大衆動員)を持つが、相違点も重要である。イタリア・ファシズムは人種主義を当初の中核的イデオロギーとしておらず(反ユダヤ法は1938年にドイツの影響下で導入)、カトリック教会(ラテラノ条約, 1929)や王室との妥協的共存を維持した点で、ナチズムの徹底した「同質化」(Gleichschaltung)とは質的に異なる。

スペイン内戦と宥和政策の失敗

1936年に勃発したスペイン内戦(1936-1939)は、共和国政府側を支援するソ連・国際義勇軍と、フランコ将軍率いる反乱軍を支援するドイツ・イタリアが対峙し、第二次世界大戦の「前哨戦」としての性格を帯びた。英仏の不介入政策は、ファシズム勢力の攻勢を抑止できず、1939年にフランコの勝利で終結した。

ヒトラーのドイツは、ヴェルサイユ体制の段階的破壊を進めた。1935年の再軍備宣言、1936年のラインラント進駐、1938年のオーストリア併合(アンシュルス)、同年のズデーテン地方の要求に対し、英仏はミュンヘン会談(1938年9月)でヒトラーの要求を容認した(宥和政策、appeasement)。イギリス首相ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)は「我々の時代の平和」を宣言したが、1939年3月のチェコスロヴァキア解体により宥和政策の破綻が明白となった。

1939年8月の独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)は、ポーランド分割の秘密議定書を含み、9月1日のドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が開始された。


まとめ

  • フランス革命は人民主権・法の前の平等・立憲主義という近代政治の基本原理を生み出したが、同時に恐怖政治とナポレオンの軍事独裁という革命の急進化・権威主義化の問題をも提起した
  • ウィーン体制は革命理念の抑圧によって約30年間の安定を維持したが、自由主義とナショナリズムの圧力のもとで1848年革命により崩壊した
  • 19世紀後半のナショナリズムは、自由主義から分離して「上からの」国民国家建設(ドイツ統一・イタリア統一)の原動力となった
  • 帝国主義的膨張と同盟体系の硬直化が、第一次世界大戦という未曾有の総力戦をもたらした
  • ヴェルサイユ体制の構造的欠陥(アメリカの不参加、ドイツへの過酷な条件、集団安全保障の不備)は戦間期の国際秩序を脆弱にした
  • 世界恐慌を契機としたワイマール共和国の崩壊とナチズムの台頭は、民主主義体制の脆弱性と全体主義の構造的条件を示す重要な歴史的事例である
  • 次セクションでは、第二次世界大戦後の冷戦構造の形成と展開、ヨーロッパ統合の政治史を扱う

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
アンシャン・レジーム Ancien Régime フランス革命以前の政治・社会体制。絶対王政・身分制・領主制を包含する
人権宣言 Declaration of the Rights of Man and of the Citizen 1789年採択。自由・平等・所有・圧制への抵抗を自然権として宣言した文書
ウィーン体制 Congress System / Concert of Europe 1815年成立。正統主義と勢力均衡に基づくヨーロッパ国際秩序
ナショナリズム Nationalism 民族・国民の政治的自己決定を志向する思想・運動
リソルジメント Risorgimento 19世紀イタリアの統一運動
帝国主義 Imperialism 19世紀末〜20世紀初頭の列強による対外膨張政策
ヴェルサイユ体制 Versailles System 1919年成立。第一次世界大戦後の国際秩序
ファシズム Fascism 反自由主義・反共産主義・超国家主義の政治運動・体制
全体主義 Totalitarianism 国家があらゆる社会領域を統制しようとする体制
宥和政策 Appeasement 1930年代の英仏によるドイツの膨張要求への譲歩政策
全権委任法 Enabling Act / Ermächtigungsgesetz 1933年成立。政府に立法権を委譲しナチ独裁を法的に確立した法律
恐怖政治 Terreur / Reign of Terror 1793-94年のジャコバン派による急進的革命政策と大量処刑

確認問題

Q1: フランス革命の展開において、立憲君主政期(1789-1792)から共和政・恐怖政治期(1792-1794)への転換はいかなる要因によって生じたか。対外戦争の役割に着目して説明せよ。

A1: 1792年4月のオーストリアへの宣戦布告が決定的な転換点であった。対外戦争の激化は、国王ルイ16世と敵国との通謀への疑念を強め、8月10日事件(テュイルリー宮殿襲撃)で王権が停止された。さらに戦線の危機と国内の反革命運動は、革命防衛の名のもとに非常措置の正当化を可能にし、公安委員会への権力集中と恐怖政治を帰結させた。戦時動員体制(levée en masse)は国民的統合を促進した一方、革命の急進化と暴力的政策を構造的に誘発した。

Q2: 1848年革命が短期的には挫折しつつも、その後のヨーロッパ政治に与えた長期的影響は何か。ナショナリズムの変質に着目して論ぜよ。

A2: 1848年革命は、自由主義者と急進派の分裂、民族間の利害対立、保守勢力の軍事的反撃により短期的には失敗した。しかしウィーン体制を実質的に終焉させた点で、長期的影響は重大であった。最も重要な変化は、ナショナリズムと自由主義の同盟関係の変質である。革命の挫折は「下からの」自由主義的国民国家建設の限界を示し、以後ナショナリズムは保守的権力と結合して「上からの」統一を指向するようになった。ビスマルクのドイツ統一(鉄血政策)とカヴールのイタリア統一(サルデーニャ王国主導の外交・軍事戦略)がその典型例であり、自由主義的要素は後景に退いた。

Q3: ヴェルサイユ体制の構造的欠陥を4点挙げ、それらがなぜ戦間期の国際秩序を不安定にしたか説明せよ。

A3: (1) アメリカの不参加: 体制の提唱者であるアメリカが国際連盟に加盟せず、集団安全保障の実効性が大幅に低下した。(2) ドイツへの過酷な条件: 巨額の賠償金と戦争責任条項はドイツ国内に強烈な反発を生み、ヴェルサイユ体制打破を掲げるナショナリズムを助長した。(3) 民族自決の不徹底: 東欧の新設国家は多民族国家であり少数民族問題を内包した。これは後にドイツのズデーテン地方要求などの口実を提供した。(4) 国際連盟の軍事力欠如: 制裁手段が経済制裁に限られ、1930年代の日本の満州侵攻やイタリアのエチオピア侵攻に対して有効に対処できなかった。これらが複合的に作用し、体制の修正を求める「修正主義国家」の台頭を抑止できなかった。

Q4: ワイマール共和国の崩壊とナチズムの台頭について、制度的要因と社会経済的要因の両面から分析せよ。

A4: 制度的要因としては、比例代表制による小党分立が安定的政権形成を困難にしたこと、大統領緊急命令権(第48条)が議会政治の機能不全を補う手段として濫用されたこと、旧体制からの連続性(官僚・軍部・司法が共和政に忠誠を持たない)が挙げられる。社会経済的要因としては、1923年のハイパーインフレーション、1929年の世界恐慌による大量失業(約600万人)が社会不安を極度に高め、既成政党への信頼を喪失させた。ナチ党はこれらの危機的状況下で、中間層・失業者・若年層を主要な支持基盤としつつ、反ヴェルサイユ・反共産主義・国民共同体の再建というメッセージで広範な社会層に訴求した。保守派エリートがヒトラーを「利用」しうると誤算したことも、権力掌握の直接的契機となった。

Q5: ナチズムとイタリア・ファシズムの共通点と相違点を、イデオロギー・体制構造・社会的基盤の観点から比較せよ。

A5: 共通点としては、一党独裁・指導者原理(Führerprinzip / Duce)・暴力の組織的使用・大衆動員・反自由主義および反共産主義が挙げられる。いずれも第一次世界大戦後の社会的危機を背景に台頭し、既存の議会制民主主義を否定した。相違点としては、第一にイデオロギー面で、ナチズムが人種主義(反ユダヤ主義)を核心的教義としたのに対し、イタリア・ファシズムは国家至上主義を中核とし、人種主義は当初中心的位置を占めなかった(反ユダヤ法の導入は1938年とドイツの影響下で遅れて実施)。第二に体制構造面で、ナチ体制が「同質化」(Gleichschaltung)により社会の隅々まで浸透する徹底的な全体主義化を推進したのに対し、ムッソリーニ体制はカトリック教会(ラテラノ条約)や王室との妥協的共存を維持し、全体主義化の程度はドイツに比して限定的であった。