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Module 2-5 - Section 4: ヨーロッパ・アメリカ政治史——冷戦と現代

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 2-5: 政治史
前提セクション Section 3(ヨーロッパ・アメリカ政治史——近代から戦間期まで)
想定学習時間 4時間

導入

前セクション(→ Module 2-5, Section 3「ヨーロッパ・アメリカ政治史——近代から戦間期まで」参照)では、フランス革命から第二次世界大戦前夜までの約150年間を概観し、近代政治の基本原理の形成と、帝国主義・世界大戦・全体主義という形での矛盾の噴出を確認した。本セクションでは、第二次世界大戦後の国際秩序を規定した冷戦(Cold War)の起源・展開・終結、およびヨーロッパ統合の政治史を扱う。

1945年のナチ・ドイツの崩壊と日本の降伏は、ヴェルサイユ体制に代わる新たな国際秩序の構築を要請した。しかし、戦時同盟国であったアメリカとソ連は、政治体制・イデオロギー・戦後世界構想において根本的に対立しており、この対立は約45年間にわたる冷戦として固定化された。冷戦は核戦争の恐怖のもとでの「熱戦なき対立」であると同時に、代理戦争・軍拡競争・イデオロギー闘争を含む包括的な体制間競争であった。

冷戦の終結(1989-1991)は、東欧革命・ベルリンの壁崩壊・ソ連崩壊という劇的な事象を伴い、20世紀の国際政治秩序を根底から変容させた。同時に、冷戦期に進行したヨーロッパ統合は、冷戦後にさらに深化・拡大し、欧州連合(EU)として前例のない超国家的政治体を形成したが、ユーロ危機やBrexitに見られるように統合の限界と反動もまた顕在化している。


冷戦の起源と形成

ヤルタ体制——戦後秩序の出発点

第二次世界大戦末期の連合国首脳会談——ヤルタ会談(1945年2月)とポツダム会談(1945年7月-8月)——は、戦後の国際秩序の枠組みを規定した。ヤルタ会談では、アメリカのフランクリン・ローズヴェルト(Franklin D. Roosevelt)、イギリスのウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)、ソ連のヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)が、ドイツの分割占領、東欧における「自由選挙」の実施、国際連合の設立について合意した。

しかし、ヤルタ合意は本質的に曖昧であった。「自由選挙」の解釈をめぐって米ソは根本的に対立し、ソ連は東欧諸国において共産党主導の政権を次々に樹立した。ポーランド、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリーでは1947年までに共産主義政権が成立し、チェコスロヴァキアでは1948年2月のクーデタで共産党が権力を掌握した。チャーチルは1946年3月のフルトン演説で「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた」と述べ、ヨーロッパの東西分裂を印象的に表現した。

封じ込め政策の形成

Key Concept: 封じ込め政策(Containment Policy) アメリカの外交官ジョージ・F・ケナン(George F. Kennan)が1946年の「長文電報」および1947年の匿名論文(「X論文」)で提唱した対ソ戦略。ソ連の膨張を軍事的・経済的手段で封じ込め、内部矛盾による体制変容を待つという長期戦略である。トルーマン政権以降のアメリカ冷戦政策の理論的基盤となった。

ケナンの分析は、ソ連の対外行動がマルクス=レーニン主義のイデオロギーとロシアの伝統的膨張主義の複合に起因するとし、その膨張を「忍耐強く、しかし断固として、確固たる封じ込め」(patient but firm and vigilant containment)によって阻止すべきと主張した。この封じ込め戦略は、直接的な軍事対決を回避しつつソ連の影響力拡大を抑止するという冷戦の基本構造を規定した。

トルーマン・ドクトリンとマーシャル・プラン

Key Concept: トルーマン・ドクトリン(Truman Doctrine) 1947年3月、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)が議会演説で表明した外交政策原則。ギリシャ・トルコへの軍事・経済援助を要請し、「自由な諸国民」を支援することがアメリカの使命であると宣言した。封じ込め政策の政策的表現であり、冷戦における「自由世界」対「共産主義」という二項対立的世界観を公式化した。

トルーマン・ドクトリンの経済的具体化が、1947年6月に国務長官ジョージ・マーシャル(George C. Marshall)が発表したヨーロッパ復興計画(European Recovery Program)、通称マーシャル・プランである。1948年から1951年にかけて約130億ドル(現在の貨幣価値で約1,500億ドル)の援助が西ヨーロッパ諸国に供与された。マーシャル・プランは表向きソ連・東欧諸国にも門戸を開いていたが、ソ連はこれを拒否し、東欧諸国の参加も阻止した。この拒否はヨーロッパの経済的分断を決定的にした。

マーシャル・プランの意義は単なる経済援助を超えている。受援国間の経済協力を条件としたことで、後のヨーロッパ統合の制度的基盤となる欧州経済協力機構(OEEC, 1948)の設立を促した。また、西ヨーロッパの経済復興を通じて共産主義の政治的浸透を阻止するという政治的・戦略的意図を明確に持っていた。

ベルリン封鎖とNATO成立

1948年6月、米英仏占領地区における通貨改革(ドイツマルクの導入)に対抗して、ソ連は西ベルリンへのすべての陸上交通路を封鎖した(ベルリン封鎖、1948年6月-1949年5月)。これは冷戦における最初の重大な軍事的対峙であった。アメリカとイギリスは約11ヶ月にわたる大規模な空輸作戦(ベルリン空輸、Berlin Airlift)によって西ベルリンの生存を維持し、ソ連は封鎖を解除せざるを得なかった。

ベルリン封鎖は、西側諸国の軍事的結束を加速させた。1949年4月、北大西洋条約機構(NATO, North Atlantic Treaty Organization)が設立され、アメリカ・カナダと西ヨーロッパ10カ国が集団防衛条約に署名した。第5条の集団的自衛権——一加盟国への攻撃は全加盟国への攻撃とみなす——は、アメリカのヨーロッパ防衛への恒久的関与を制度化した。これに対抗して、ソ連は1955年にワルシャワ条約機構(Warsaw Pact)を設立し、東欧諸国を軍事的に統合した。

1949年には、ドイツの分裂も確定した。5月にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)がそれぞれ成立した。ドイツ分断は冷戦のヨーロッパにおける最も可視的な象徴となった。

冷戦の起源をめぐる学術的論争

冷戦の起源の解釈をめぐっては、三つの主要な学派が存在する。

伝統主義(Traditionalism / Orthodox School) は、冷戦の主要な責任をソ連の側に帰する。マルクス=レーニン主義のイデオロギー、スターリンの膨張主義、東欧における共産主義化がアメリカの防衛的対応を余儀なくしたとする解釈である。

修正主義(Revisionism) は、1960年代のベトナム戦争への反省を背景に台頭した。ウィリアム・A・ウィリアムズ(William Appleman Williams)らは、アメリカの経済的膨張主義(門戸開放政策)と原爆の政治的使用がソ連を脅かし、冷戦を招いたと主張した。修正主義は冷戦の責任をアメリカの側に求める点で伝統主義と対照的である。

ポスト修正主義(Post-Revisionism) は、1970年代以降、ジョン・ルイス・ギャディス(John Lewis Gaddis)の『合衆国と冷戦の起源 1941-1947』(1972)を嚆矢として台頭した。ポスト修正主義は、冷戦の起源を一方の責任に帰するのではなく、両超大国の認識・構造的制約・国内政治的要因の相互作用として理解しようとする。メルヴィン・レフラー(Melvyn P. Leffler)は、ソ連の行動そのものよりも、社会経済的混乱・革命的ナショナリズム・イギリスの衰退・ユーラシアの権力空白に対する恐怖がアメリカの政策を駆動したと主張し、冷戦の起源をより構造的に把握した。なお、ギャディス自身は後年の著作『冷戦——われわれはいま何を知っているか』(1997)において、ソ連のアーカイヴ公開を踏まえ、スターリン個人の役割を再び強調する方向に回帰しており、ポスト修正主義内部の分岐も顕著である。


冷戦の展開

朝鮮戦争と冷戦のグローバル化

1950年6月25日、北朝鮮軍の韓国侵攻によって朝鮮戦争(1950-1953)が勃発した。朝鮮戦争はヨーロッパ中心であった冷戦をアジアに拡大し、冷戦のグローバル化を決定づけた。アメリカは国連軍を主導して介入し、中国人民志願軍の参戦(1950年10月)により戦争は長期化した。1953年7月の休戦協定は南北分断を固定化し、朝鮮半島は冷戦の最前線となった。

朝鮮戦争はアメリカの冷戦戦略に決定的な影響を与えた。国家安全保障会議文書NSC-68(1950年4月作成)は、ソ連を「世界支配」を企図する敵と規定し、大規模な軍備増強を勧告した。朝鮮戦争の勃発はNSC-68の採用を正当化し、アメリカの国防予算は1950年の130億ドルから1953年には500億ドルへと急増した。この軍事化は、ケナンが構想した政治的・経済的封じ込めから、軍事的封じ込めへの転換を意味した。

スターリンの死と「雪解け」

1953年3月のスターリン死去は、ソ連の内外政策に重要な変化をもたらした。後継者のニキータ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev)は、1956年のソ連共産党第20回大会でスターリン批判(秘密報告)を行い、スターリン時代の個人崇拝と大量テロルを公式に否定した。外交面では「平和共存」(peaceful coexistence)路線を打ち出し、米ソ間の緊張は一定の緩和に向かった(「雪解け」)。

しかし、スターリン批判は東欧諸国に連鎖的な動揺を引き起こした。1956年10月のハンガリー動乱では、ナジ・イムレ(Nagy Imre)政権がワルシャワ条約機構からの脱退を宣言したが、ソ連軍の武力介入により鎮圧された(死者約2,500人)。この事件は、ソ連が東欧の衛星国体制を武力で維持する意思と能力を持つことを示し、「平和共存」の限界を明らかにした。

キューバ危機——核戦争の瀬戸際

1962年10月のキューバ危機(Cuban Missile Crisis)は、冷戦における最も危険な核戦争の瀬戸際であった。ソ連がキューバに中距離弾道ミサイルを秘密裏に配備していることがアメリカの偵察機によって発覚し、ケネディ(John F. Kennedy)大統領はキューバの海上封鎖(quarantine)を宣言した。13日間にわたる緊迫した交渉の末、フルシチョフがミサイルの撤去に同意し、アメリカはキューバ不侵攻とトルコからのミサイル撤去(非公開)を約束して危機は回避された。

キューバ危機は核戦争の現実的可能性を両超大国の指導者に認識させ、以後の軍備管理交渉を促進した。1963年には部分的核実験禁止条約(PTBT)が締結され、米ソ間の直通通信回線(ホットライン)が設置された。危機管理と軍備管理の制度化は、冷戦の安定化に寄与した。

ベトナム戦争とアメリカ政治への影響

ベトナム戦争(1955-1975、アメリカの本格介入は1965-1973)は、封じ込め政策のアジアにおける最大の試練であった。アイゼンハワー政権の「ドミノ理論」——一国の共産化が隣接国に連鎖するという想定——に基づき、ケネディ政権からジョンソン(Lyndon B. Johnson)政権にかけて軍事介入が段階的に拡大した。最盛期(1968年)にはアメリカ軍の兵力は約54万人に達した。

しかし、1968年のテト攻勢は、軍事的にはアメリカ側の勝利であったにもかかわらず、「勝利が近い」という政府の主張に対する国内の信頼を決定的に損なった。反戦運動の高揚、公民権運動との連動、メディアの報道は、アメリカ社会を深く分裂させた(「信頼性の溝」、credibility gap)。ジョンソンは1968年の大統領選不出馬を表明し、ニクソン(Richard Nixon)政権は「ベトナム化」政策のもとで段階的撤退を進めた。1973年のパリ和平協定でアメリカ軍は撤退し、1975年4月のサイゴン陥落で北ベトナムが統一を達成した。

ベトナム戦争はアメリカの政治・社会に深い傷跡を残した。大統領権限への議会の牽制(戦争権限法, 1973)、軍事介入への国民的忌避感(「ベトナム症候群」)、そして冷戦的介入主義への批判的再検討を促した。

デタント——緊張緩和の時代

Key Concept: デタント(Détente) 1960年代末から1970年代にかけての米ソ間の緊張緩和を指す。ベトナム戦争によるアメリカの国力消耗、中ソ対立の深刻化、ソ連の経済的停滞を背景に、核軍備管理・経済交流・政治的対話が進展した時期である。ニクソン大統領とキッシンジャー(Henry Kissinger)補佐官、ソ連のブレジネフ(Leonid Brezhnev)書記長がその主要な推進者であった。

デタントの構造的背景には、三つの要因があった。第一に、ベトナム戦争によるアメリカの軍事的・経済的疲弊が、対ソ関係の安定化を必要とした。第二に、1960年代に顕在化した中ソ対立(1969年には中ソ国境紛争が発生)が、アメリカに米中接近という戦略的選択肢を開いた。第三に、ソ連が核戦力においてアメリカとの「パリティ」(均衡)を達成したことが、軍備管理交渉の条件を整えた。

デタント期の主要な成果は以下の通りである。

  • 戦略兵器制限交渉(SALT I): 1972年署名。弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約と戦略攻撃兵器の暫定協定
  • ニクソン訪中(1972年2月): 米中関係の正常化の端緒。冷戦の二極構造に多極化の契機をもたらした
  • ヘルシンキ宣言(1975年): 欧州安全保障協力会議(CSCE)の最終議定書。国境の不可侵と人権・基本的自由の尊重を規定

しかし、デタントは1970年代後半に動揺し始めた。1979年12月のソ連によるアフガニスタン侵攻は、デタントに致命的な打撃を与えた。カーター(Jimmy Carter)大統領はSALT IIの批准を撤回し、モスクワ・オリンピック(1980年)のボイコットを決定した。

「新冷戦」——レーガンの対ソ強硬路線

1981年に就任したロナルド・レーガン(Ronald Reagan)大統領は、ソ連を「悪の帝国」(evil empire, 1983年3月の演説)と呼び、大規模な軍備増強に乗り出した。国防予算は1981年の1,780億ドルから1985年には2,860億ドルに増大した。1983年には戦略防衛構想(SDI, Strategic Defense Initiative)——通称「スターウォーズ計画」——を発表し、弾道ミサイルの宇宙空間での迎撃システムの開発を宣言した。SDIはABM条約の精神に反するものとしてソ連を強く刺激した。

ヨーロッパでは、NATOによる中距離核戦力(パーシングII、巡航ミサイル)の西欧配備(1983年、NATO二重決定に基づく)に対し、大規模な反核平和運動が展開された。これは冷戦末期における市民社会の政治的役割を示す重要な現象であった。

レーガンの対ソ強硬路線が冷戦終結にいかなる因果的影響を与えたかは、学術的論争の対象である。冷戦のアメリカ側の「勝利」として位置づける見解は、軍拡競争がソ連経済を疲弊させ体制崩壊を促進したと主張する。これに対し、レーガンの軍事的圧力よりも、ソ連内部の構造的矛盾とゴルバチョフの改革意思が冷戦終結の決定的要因であったとする見解も有力である。


冷戦の終結

ゴルバチョフの改革

Key Concept: ペレストロイカ(Perestroika) 1985年にソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev)が推進した政治・経済改革。「建て直し」を意味し、経済の分権化・市場メカニズムの部分的導入、複数候補制選挙の導入を含む。グラスノスチ(glasnost、情報公開・言論の自由化)と一体で推進された。改革は体制の再生を目的としたが、結果的に体制そのものの解体を加速させた。

ゴルバチョフは、ソ連が直面する経済的停滞(ブレジネフ時代の「停滞の時代」)、技術革新の遅れ、軍事費負担の重圧を認識し、体制の抜本的改革に着手した。経済面ではペレストロイカ、政治面ではグラスノスチ(情報公開)と民主化(人民代議員大会の設立、1989年)、外交面では「新思考外交」(novoe myshlenie)を展開した。

「新思考外交」は、マルクス=レーニン主義の階級闘争論に基づく従来の外交路線を転換し、「全人類的価値」と相互依存を重視する路線であった。具体的には、1987年の中距離核戦力(INF)全廃条約の締結、アフガニスタンからの撤退(1989年2月完了)、東欧諸国に対する「制限主権論」(ブレジネフ・ドクトリン)の放棄が含まれる。特に最後の点——東欧諸国への不介入——は、東欧革命を可能にする決定的な条件であった。

東欧革命(1989年)

1989年は20世紀の転換点となった。ゴルバチョフの不介入方針のもと、東欧諸国において共産主義体制が次々に崩壊した。

  • ポーランド: 連帯(Solidarność)と共産党政権の円卓会議(1989年2月-4月)を経て、6月の半自由選挙で連帯が圧勝。タデウシュ・マゾヴィエツキ(Tadeusz Mazowiecki)が東欧初の非共産党首相に就任(8月)
  • ハンガリー: 1989年5月にオーストリアとの国境の鉄条網を撤去。これが東ドイツ市民の西側への大量流出の経路となった。10月に共和国を宣言
  • 東ドイツ: ライプツィヒなどでの大規模な月曜デモ(Montagsdemonstrationen)が拡大。1989年11月9日にベルリンの壁が開放された
  • チェコスロヴァキア: 11月の「ビロード革命」(Velvet Revolution)により共産党政権が崩壊。劇作家ヴァーツラフ・ハヴェル(Václav Havel)が大統領に就任
  • ルーマニア: 12月にニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceaușescu)政権が暴力的な革命で打倒された(東欧革命で唯一の流血を伴った体制転換)

ベルリンの壁崩壊

1989年11月9日のベルリンの壁崩壊は、冷戦終結を象徴する歴史的事件である。東ドイツ政府のスポークスマンであるギュンター・シャボウスキー(Günter Schabowski)が記者会見で出国規制の緩和を発表した際、即時発効と誤って伝えたことが引き金となり、数千人の東ベルリン市民が検問所に殺到し、国境警備隊が通行を許可した。

壁の崩壊はドイツ統一への急速な動きを引き起こした。ヘルムート・コール(Helmut Kohl)西ドイツ首相は「ドイツ統一に関する10項目計画」(1989年11月28日)を提示し、翌1990年3月の東ドイツ自由選挙、同年7月の経済・通貨・社会統合、10月3日の政治的統一が実現した。ドイツ統一は、ソ連のゴルバチョフが統一ドイツのNATO帰属に同意するという画期的な判断に支えられていた(「2+4条約」、1990年9月署名)。

ソ連崩壊(1991年)

ゴルバチョフの改革は、意図せざる結果として連邦の解体を招いた。グラスノスチは各共和国におけるナショナリズムの噴出を許し、バルト三国(リトアニア・ラトヴィア・エストニア)が独立を宣言した(1990年)。1991年8月のクーデタ未遂——保守派がゴルバチョフを拘束し権力奪取を試みたが、ボリス・エリツィン(Boris Yeltsin)ロシア共和国大統領の抵抗により失敗——は、共産党と連邦の権威を決定的に失墜させた。

1991年12月8日、ロシア・ウクライナ・ベラルーシの三共和国首脳がベロヴェーシの森で独立国家共同体(CIS)の創設に合意し、ソ連の解体を宣言した(ベロヴェーシ合意)。12月25日、ゴルバチョフが辞任し、ソビエト連邦は正式に消滅した。1989年12月のマルタ会談(ブッシュ=ゴルバチョフ)で冷戦の終結が宣言されていたが、ソ連崩壊により冷戦は構造的にも完全に終結した。

冷戦終結の原因をめぐる論争

冷戦終結の原因をめぐっても、学術的論争が存在する。

第一の見解は、構造的要因を重視する。計画経済の非効率性、軍事費の過大な負担(GDPの15-25%とも推計される)、情報技術革命への対応の失敗、東欧衛星国の維持コストなど、ソ連体制の内在的矛盾が崩壊を不可避にしたとする。

第二の見解は、ゴルバチョフ個人の役割を重視する。ゴルバチョフが改革を選択し、東欧への武力介入を拒否し、軍縮交渉に応じた決断がなければ、冷戦の「平和的」終結はあり得なかったとする。アーチー・ブラウン(Archie Brown)の『ゴルバチョフ・ファクター』(1996)はこの立場の代表的著作である。

第三の見解は、レーガンの軍事的圧力を重視する。軍拡競争がソ連経済を追い詰め、ゴルバチョフの改革を余儀なくさせたとする。

現在の学術的コンセンサスは、これらの要因が複合的に作用したとする見解に収斂しつつあるが、各要因の相対的重要性については議論が続いている。

timeline
    title 冷戦の主要局面
    section 冷戦の形成(1945-1953)
        1945 : ヤルタ会談・ポツダム会談
        1946 : チャーチル「鉄のカーテン」演説
        1947 : トルーマン・ドクトリン : マーシャル・プラン
        1948-49 : ベルリン封鎖・空輸
        1949 : NATO成立 : ドイツ分裂 : ソ連原爆実験
        1950-53 : 朝鮮戦争
    section 冷戦の展開(1953-1979)
        1953 : スターリン死去
        1956 : スターリン批判 : ハンガリー動乱
        1962 : キューバ危機
        1965-73 : ベトナム戦争(米の本格介入)
        1972 : SALT I : ニクソン訪中
        1975 : ヘルシンキ宣言
    section 新冷戦と終結(1979-1991)
        1979 : ソ連のアフガニスタン侵攻
        1983 : レーガン「悪の帝国」演説 : SDI発表
        1985 : ゴルバチョフ就任
        1987 : INF全廃条約
        1989 : 東欧革命 : ベルリンの壁崩壊 : マルタ会談
        1991 : ソ連崩壊

ヨーロッパ統合の政治史

統合の起源——ECSCの創設

ヨーロッパ統合の構想は第一次世界大戦後にまで遡るが(リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの「汎ヨーロッパ」構想、1923年)、具体的な制度化は第二次世界大戦後に始まった。統合の原動力となったのは、二度の世界大戦への反省、冷戦下でのソ連の脅威への対抗、そして経済復興の必要性であった。

1950年5月9日、フランス外相ロベール・シューマン(Robert Schuman)は、仏独の石炭・鉄鋼産業を超国家的機関のもとに共同管理する計画を提案した(シューマン宣言)。この提案の実務的起草者はフランスの官僚ジャン・モネ(Jean Monnet)であった。石炭と鉄鋼は当時の軍需産業の基盤であり、その共同管理は仏独間の戦争を「物質的に不可能」にするという政治的意図を持っていた。

1951年、フランス・西ドイツ・イタリア・ベネルクス三国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)の6カ国がパリ条約に署名し、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC, European Coal and Steel Community)が設立された(1952年発足)。ECSCは、超国家的権限を持つ「最高機関」(High Authority)を有する点で、従来の国際機関とは質的に異なる画期的な試みであった。

EECからECへ

1957年、同じ6カ国がローマ条約に署名し、欧州経済共同体(EEC, European Economic Community)と欧州原子力共同体(EURATOM)が設立された(1958年発足)。EECは関税同盟の形成、共通農業政策(CAP)の実施、労働力・資本・サービスの域内自由移動を目標とした。

1960年代は統合の進展と停滞が交錯した時期であった。共通農業政策は1962年に開始され、関税同盟は1968年に予定より早く完成した。しかし、フランスのシャルル・ド・ゴール(Charles de Gaulle)大統領は超国家主義に反対し、1965-66年の「空席政策」(empty chair crisis)——閣僚理事会での多数決拡大に抗議してフランス代表が会議への出席をボイコット——は、「ルクセンブルクの妥協」(重要な国家利益が関わる場合は全会一致を原則とする)で決着した。これはEEC意思決定の超国家化にブレーキをかけた。

1967年にECSC・EEC・EURATOMの機関が統合され、欧州共同体(EC, European Communities)が成立した。1973年にはイギリス・アイルランド・デンマークが加盟し(第一次拡大)、1981年にギリシャ、1986年にスペイン・ポルトガルが加盟した(南方拡大)。

マーストリヒト条約とEUの成立

Key Concept: マーストリヒト条約(Maastricht Treaty) 1992年2月署名、1993年11月発効の欧州連合条約。ECを欧州連合(EU)に発展させ、経済通貨統合(単一通貨ユーロの導入)、共通外交安全保障政策(CFSP)、司法内務協力の三本柱構造を規定した。経済統合を超えて政治統合への飛躍を図った点で、ヨーロッパ統合史上の画期をなす。

マーストリヒト条約の背景には、冷戦終結とドイツ統一がある。統一ドイツの巨大化に対する懸念を緩和するため、フランスのミッテラン(François Mitterrand)大統領とドイツのコール首相は、ドイツのヨーロッパへのより深い埋め込み(embedding)を図った。経済通貨統合はそのための核心的手段であった。

1999年にユーロ(Euro)が帳簿上の通貨として導入され、2002年に紙幣・硬貨の流通が開始された。ユーロ圏は当初11カ国で発足し、現在は20カ国に拡大している。単一通貨の導入は、ヨーロッパ統合の深化における最も野心的な試みであった。

東方拡大と統合の拡大

冷戦終結後、旧東欧諸国のEU加盟が統合の最大課題となった。2004年5月には、ポーランド・チェコ・ハンガリー・スロヴァキア・スロヴェニア・エストニア・ラトヴィア・リトアニア・マルタ・キプロスの10カ国が一斉に加盟し(東方拡大)、2007年にルーマニア・ブルガリア、2013年にクロアチアが加盟した。EU加盟国数は6カ国から28カ国(Brexit前)に拡大した。

東方拡大は、冷戦によるヨーロッパ分断の克服という歴史的意義を持つ一方で、経済発展水準の格差、政策決定の複雑化、加盟国間の利害調整の困難化という課題を生じさせた。

ユーロ危機

2009年末、ギリシャの財政赤字がGDP比12.7%に達することが判明し(従来の公表値の倍以上)、ギリシャ国債の格付けが急落した。これを端緒として、アイルランド、ポルトガル、スペイン、イタリアなどの南欧諸国に財政・金融危機が波及し、ユーロ圏全体を揺るがす「ユーロ危機」(2010-2013年)に発展した。

ユーロ危機は、経済通貨統合の構造的欠陥を露呈させた。単一通貨と統一的な金融政策を持ちながら、財政政策は各国に委ねられているという非対称性(「最適通貨圏」条件の未充足)が危機の根本にあった。危機対応として欧州安定メカニズム(ESM)の設立、欧州中央銀行(ECB)のマリオ・ドラギ(Mario Draghi)総裁による「ユーロを守るためにはなんでもする」("whatever it takes", 2012年7月)発言と国債買入れプログラムが実施されたが、緊縮政策の押しつけに対する南欧諸国の反発は、EU内の南北対立と反EU的ポピュリズムの温床となった。

Brexitと統合の限界

2016年6月23日、イギリスの国民投票でEU離脱(Brexit)が僅差(離脱51.9%、残留48.1%)で支持された。2020年1月31日にイギリスは正式にEUを離脱した。

Brexitの構造的要因は多層的である。第一に、イギリスのヨーロッパ統合に対する伝統的な懐疑主義(「半分離れた国」"semi-detached"としてのイギリスの自己認識)がある。イギリスはシェンゲン協定にもユーロにも参加しておらず、統合への距離感は一貫していた。第二に、EU東方拡大後の移民流入(特にポーランドなど東欧からの移民)に対する不満が高まっていた。第三に、2008年金融危機後の緊縮財政と経済的停滞が、グローバル化の「敗者」層の不満を醸成した。第四に、反EU的メディアと英国独立党(UKIP)に代表されるポピュリスト勢力が、EU離脱を「主権の回復」として効果的にフレーミングした。

Brexitは、ヨーロッパ統合が不可逆的な過程ではないことを示す歴史的事件であり、統合と主権、グローバル化とナショナリズムの緊張関係を象徴している。

ヨーロッパ統合の理論

Key Concept: 新機能主義(Neofunctionalism) アーンスト・ハース(Ernst B. Haas)が『ヨーロッパの統合』(1958)で定式化した統合理論。特定の技術的・経済的領域における超国家的協力が、「スピルオーバー」(spillover)効果によって隣接領域に波及し、最終的に政治統合に至ると主張する。ECSCからEECへの発展は新機能主義の説明力を示す事例とされた。

新機能主義のスピルオーバー概念には、機能的スピルオーバー(ある領域の統合が技術的・経済的に隣接領域の統合を要請する)、政治的スピルオーバー(国内利益集団が超国家レベルでの活動に関心を移す)、制度的スピルオーバー(超国家機関が統合をさらに推進する)の三類型がある。

これに対し、政府間主義(Intergovernmentalism)は、統合の推進力を超国家的メカニズムではなく、加盟国政府(特に大国)の戦略的計算に求める。スタンリー・ホフマン(Stanley Hoffmann)は、統合が「ロー・ポリティクス」(経済・技術)の領域では進展しうるが、「ハイ・ポリティクス」(安全保障・外交)の領域では国家主権の壁に阻まれると主張した。

アンドリュー・モラヴチック(Andrew Moravcsik)のリベラル政府間主義(Liberal Intergovernmentalism, 1998)は、統合を「国内選好の形成→政府間交渉→制度的委任」の三段階過程として説明する。統合の大きな飛躍(条約改正)は加盟国政府間の交渉の産物であり、超国家機関は加盟国の利益を忠実に反映するに過ぎないとする。

両理論はヨーロッパ統合の異なる側面を説明する。新機能主義は漸進的な制度的深化(共通市場の拡大など)を、政府間主義は条約改正のような大きな構造変動をそれぞれ説明するのに優れており、現在では両理論を排他的にではなく相補的に用いる傾向が強い。

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    A["ECSC<br>欧州石炭鉄鋼共同体<br>1952"] --> B["EEC<br>欧州経済共同体<br>1958"]
    B --> C["EC<br>欧州共同体<br>1967<br>(機関統合)"]
    C --> D["EU<br>欧州連合<br>1993<br>(マーストリヒト条約)"]
    D --> E["ユーロ導入<br>1999/2002"]
    D --> F["東方拡大<br>2004"]
    D --> G["リスボン条約<br>2009"]
    D --> H["ユーロ危機<br>2010-2013"]
    D --> I["Brexit<br>2016投票<br>2020離脱"]

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まとめ

  • 冷戦は、イデオロギー対立・核抑止・代理戦争・軍拡競争を含む包括的な体制間競争であり、1947年のトルーマン・ドクトリンから1991年のソ連崩壊まで約45年間にわたって国際秩序を規定した
  • 冷戦の起源をめぐる学術的論争は、伝統主義(ソ連責任論)→修正主義(アメリカ責任論)→ポスト修正主義(構造的相互作用論)という展開を経ており、現在も解釈の多様性が存在する
  • キューバ危機は核戦争の現実的危険を示し、以後の軍備管理・危機管理の制度化を促進した。デタント期の緊張緩和は米ソの構造的必要性に基づくものであったが、アフガニスタン侵攻により崩壊した
  • ベトナム戦争はアメリカの政治・社会に深い傷跡を残し、冷戦的介入主義への批判的再検討を促した
  • 冷戦の終結は、ソ連体制の構造的矛盾、ゴルバチョフの改革、レーガンの軍事的圧力の複合的作用によるものであり、東欧革命(1989年)とソ連崩壊(1991年)として帰結した
  • ヨーロッパ統合は、ECSC→EEC→EC→EUという段階的深化と拡大の過程をたどり、冷戦終結後に東方拡大を実現したが、ユーロ危機とBrexitは統合の構造的限界と反動を示している
  • 新機能主義とリベラル政府間主義は、ヨーロッパ統合の異なる側面を説明する相補的な理論枠組みである

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
封じ込め政策 Containment Policy ケナンが提唱した、ソ連の膨張を軍事的・経済的手段で阻止する対ソ長期戦略
トルーマン・ドクトリン Truman Doctrine 1947年に表明された「自由な諸国民」を支援するアメリカの外交政策原則
マーシャル・プラン Marshall Plan / European Recovery Program 1948-51年の西ヨーロッパ経済復興計画。約130億ドルの援助
北大西洋条約機構 NATO (North Atlantic Treaty Organization) 1949年設立の西側集団防衛機構
デタント Détente 1960年代末-1970年代の米ソ間の緊張緩和
ペレストロイカ Perestroika ゴルバチョフが推進したソ連の政治・経済改革(「建て直し」)
グラスノスチ Glasnost ゴルバチョフが推進した情報公開・言論の自由化政策
新機能主義 Neofunctionalism スピルオーバー効果による統合の自動的拡大を主張する統合理論
リベラル政府間主義 Liberal Intergovernmentalism 統合を加盟国政府の戦略的交渉の産物として説明する理論
マーストリヒト条約 Maastricht Treaty 1992年署名のEU創設条約。経済通貨統合・共通外交安全保障政策を規定
スピルオーバー Spillover ある領域の統合が隣接領域の統合を連鎖的に誘発する効果
ユーロ危機 Euro Crisis / European Debt Crisis 2010-13年のユーロ圏における財政・金融危機

確認問題

Q1: 冷戦の起源をめぐる三つの学派(伝統主義・修正主義・ポスト修正主義)の主要な論点の相違を整理し、それぞれの時代的背景との関連を説明せよ。

A1: 伝統主義は冷戦初期(1940-50年代)に支配的であり、ソ連のマルクス=レーニン主義イデオロギーとスターリンの膨張主義が冷戦の主因であるとし、アメリカの政策を防衛的反応と位置づけた。修正主義は1960年代のベトナム戦争への反省を背景に台頭し、アメリカの経済的膨張主義(門戸開放政策)と原爆の政治的利用がソ連を脅かしたと主張して、冷戦の責任をアメリカの側に求めた。ポスト修正主義は1970年代以降、ギャディスやレフラーにより展開され、冷戦の起源を一方の責任に帰するのではなく、両超大国の認識・構造的制約・国内政治的要因の相互作用として理解しようとした。各学派は、それぞれの時代のアメリカの政治的文脈——冷戦初期の反共主義、ベトナム期の反戦運動、デタント期以降の歴史的距離の確保——を反映している。

Q2: デタント(緊張緩和)の構造的背景を三つの要因に整理し、それがなぜ1970年代後半に崩壊したか説明せよ。

A2: デタントの構造的背景は、(1) ベトナム戦争によるアメリカの軍事的・経済的疲弊が対ソ関係の安定化を必要としたこと、(2) 中ソ対立の深刻化がアメリカに米中接近という戦略的選択肢を開いたこと(三角外交)、(3) ソ連が核戦力においてアメリカとの「パリティ」を達成し、軍備管理交渉の対等な条件が整ったこと、の三点である。デタントの崩壊は、1979年12月のソ連のアフガニスタン侵攻が直接の契機であった。この侵攻はデタントの前提であった相互抑制の原則を破るものとみなされ、カーター政権はSALT IIの批准を撤回し、モスクワ五輪のボイコットを決定した。さらにレーガン政権の対ソ強硬路線(軍備増強・SDI)により「新冷戦」の局面に移行した。

Q3: ゴルバチョフの「新思考外交」はいかなる点で従来のソ連外交と断絶しており、それが東欧革命(1989年)を可能にした具体的メカニズムを説明せよ。

A3: 従来のソ連外交はマルクス=レーニン主義の階級闘争論に基づき、「制限主権論」(ブレジネフ・ドクトリン)のもとで東欧衛星国の体制維持のための武力介入を正当化していた(1956年ハンガリー動乱、1968年プラハの春での軍事介入)。ゴルバチョフの「新思考外交」は、「全人類的価値」と相互依存を重視し、各国の体制選択の自由を認めた。具体的には、ブレジネフ・ドクトリンの放棄——東欧諸国の内政に対する武力不介入の明確化——が決定的であった。1989年にポーランドの連帯が選挙で勝利し、ハンガリーがオーストリアとの国境を開放し、東ドイツで大規模デモが拡大した際に、ソ連軍が介入しなかったことが、東欧革命のドミノ的展開を可能にした。

Q4: ヨーロッパ統合における新機能主義と政府間主義の理論的対立を、ECSCからEUに至る統合の具体的過程に即して説明せよ。

A4: 新機能主義(ハース)は、石炭・鉄鋼という特定セクターの超国家的管理(ECSC)が、関税同盟・共通農業政策・共通市場(EEC)へとスピルオーバーしていく過程を説明する理論として有効であった。一方、1965-66年の空席政策のように、ド・ゴールが国家主権の名のもとに超国家的意思決定の拡大を阻止した事例は、政府間主義の説明力を示す。マーストリヒト条約のような大きな構造変動は、リベラル政府間主義(モラヴチック)の枠組みで、仏独の戦略的利益の一致(統一ドイツの統合への埋め込み)による政府間交渉の産物として説明される。現在の学術的議論では、漸進的な制度的深化には新機能主義が、条約改正のような大きな跳躍には政府間主義がそれぞれ説明力を持つとし、両理論を排他的ではなく相補的に用いる傾向が強い。

Q5: Brexitの構造的要因を多層的に分析し、それがヨーロッパ統合の今後に示す含意を論ぜよ。

A5: Brexitの構造的要因は少なくとも四層に分解できる。(1) イギリスの歴史的なヨーロッパ統合への懐疑主義——シェンゲン協定・ユーロの不参加に示される「半分離れた国」としての自己認識。(2) EU東方拡大後の東欧からの移民流入に対する社会的不満——特にイングランド北部・中部の旧工業地帯において顕著。(3) 2008年金融危機後の緊縮財政と経済的停滞が、グローバル化の「敗者」層の不満を醸成。(4) 反EU的メディアとポピュリスト政党(UKIP)が、EU離脱を「主権の回復」として効果的にフレーミングしたこと。Brexitがヨーロッパ統合に示す含意は、第一に統合は不可逆的過程ではなく逆行しうること、第二に民主的正統性の欠如(「民主主義の赤字」)が統合の持続可能性を損ないうること、第三にグローバル化への反動としてのナショナリズムの再燃が統合の外部環境を変容させていること、である。