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Module 3-4 - Section 1: 気候変動と移民・難民の政治学

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 3-4: グローバルイシュー
前提セクション なし
想定学習時間 3時間

導入

グローバルイシューとは、一国の能力や管轄権を超え、国際的な協調なくしては解決不可能な政策課題群を指す。本セクションでは、その代表的な二領域――気候変動と移民・難民――を政治学の枠組みで分析する。気候変動は国際交渉と国内政治が複雑に連動する問題であり、移民・難民は国家主権・人権・安全保障が交錯する領域である。両者は「気候移民」という概念を通じて接続しつつあり、21世紀の国際政治において不可分の関係にある。


気候変動の国際交渉の構造

UNFCCCから京都議定書へ

気候変動に対する国際的取り組みは、1992年の国連環境開発会議(地球サミット、リオデジャネイロ)で採択された国連気候変動枠組条約(UNFCCC: United Nations Framework Convention on Climate Change)に始まる。UNFCCCは「大気中の温室効果ガス(GHG)濃度を安定化させる」ことを究極目標として掲げ、1995年から毎年開催される締約国会議(COP: Conference of the Parties)が交渉の場となった。

Key Concept: 国連気候変動枠組条約(UNFCCC: United Nations Framework Convention on Climate Change) 1992年採択、1994年発効の国際条約。大気中のGHG濃度の安定化を究極目標とし、締約国会議(COP)を通じた交渉の基本枠組みを提供する。

1997年のCOP3(京都)で採択された京都議定書(Kyoto Protocol)は、附属書I国(先進国)に対して法的拘束力のある数値目標を課すトップダウン型のアプローチを採用した。第一約束期間(2008-2012年)において、附属書I国全体で1990年比5%以上の削減が義務づけられた。しかし、京都議定書は構造的な問題を抱えていた。

  • 米国の不参加: 世界最大の排出国であった米国が批准を拒否した
  • 途上国の免除: 中国・インドなど急速に排出量を増加させていた途上国には削減義務がなかった
  • カナダの離脱: 目標達成が困難となったカナダが2011年に離脱した

これらの問題は、トップダウン型の義務配分が国家主権と衝突する場合の限界を示すものであった。

パリ協定の革新

京都議定書の反省を踏まえ、2015年のCOP21(パリ)で採択されたパリ協定(Paris Agreement)は、全く異なるアーキテクチャを採用した。

Key Concept: パリ協定(Paris Agreement) 2015年採択、2016年発効。産業革命前比で気温上昇を2℃未満(努力目標1.5℃)に抑えることを目標とし、全締約国が自主的な削減目標(NDC)を提出・更新するボトムアップ型の枠組み。

パリ協定の核心的な制度設計は以下の三要素からなる。

第一に、国別貢献(NDC: Nationally Determined Contribution) である。各国が自国の事情に応じて自主的に削減目標を設定・提出し、5年ごとに更新する。目標の達成自体に法的拘束力はないが、目標の提出と更新は義務である。この設計は、トップダウン型の義務配分では合意形成が困難であるという教訓から生まれた。

第二に、グローバル・ストックテイク(GST: Global Stocktake) である。5年ごとに世界全体の進捗を評価し、その結果を踏まえて各国がNDCを引き上げることが期待される。第1回GSTは2023年のCOP28で実施された。

第三に、透明性枠組み(ETF: Enhanced Transparency Framework) である。各国が排出量や政策実施状況を報告・検証する仕組みであり、名指しと恥の圧力(naming and shaming)を通じた遵守促進が意図されている。

graph LR
    A["UNFCCC 1992"] --> B["京都議定書 1997"]
    B --> C["コペンハーゲン合意 2009"]
    C --> D["パリ協定 2015"]

    B --- B1["トップダウン型<br/>先進国のみ義務"]
    D --- D1["ボトムアップ型<br/>全締約国が参加"]

    D --> E["NDC提出"]
    E --> F["GST 5年毎評価"]
    F --> G["NDC引き上げ"]
    G --> F

    style A fill:#e8f0fe
    style D fill:#d4edda

共通だが差異ある責任(CBDR)原則

原則の内容と根拠

Key Concept: 共通だが差異ある責任(CBDR: Common But Differentiated Responsibilities) 地球環境保護の責任は全ての国に「共通」であるが、歴史的排出量と経済的能力の差異に応じて「差異ある」責任を負うべきとする国際環境法の基本原則。1992年リオ宣言第7原則に明記。

CBDR原則は二つの根拠に基づく。第一に、歴史的責任(historical responsibility)の論理である。先進国は産業革命以来の累積排出量において圧倒的な比重を占めており、現在の気候変動の主たる原因者である。第二に、対処能力(capability)の論理である。先進国は途上国に比べて気候変動対策のための技術的・経済的能力が高い。

交渉における対立軸

CBDR原則は、気候変動交渉における最大の対立軸を形成してきた。

  • 先進国(附属書I国): 歴史的責任は認めつつも、中国やインドなど新興国の排出量急増を指摘し、「全ての主要排出国」の参加を求める
  • 途上国(非附属書I国): 発展権(right to development)を主張し、先進国の歴史的責任に基づく資金・技術支援を要求する
  • 小島嶼国連合(AOSIS)・後発開発途上国(LDCs): 気候変動の影響に最も脆弱な国々として、より野心的な目標と「損失と損害(Loss and Damage)」への対応を要求する

パリ協定では、CBDR原則に「各国の異なる事情に照らして(in the light of different national circumstances)」という文言が追加された。これは先進国と途上国の二分法(bifurcation)を緩和し、新興国にも応分の責任を求める妥協の産物であった。


二重レベルゲームと気候交渉

Key Concept: 二重レベルゲーム(Two-level Game) Robert Putnam(1988)が提唱した国際交渉の分析枠組み。交渉者は国際レベル(Level I)での合意形成と国内レベル(Level II)での批准・支持調達を同時に追求しなければならず、国内の「勝利集合(win-set)」の大きさが国際交渉の帰結を規定する。

理論的枠組み

Putnamの二重レベルゲーム理論によれば、国際交渉は二つのレベルで同時に行われる。Level I(国際交渉)では各国代表が合意を目指して交渉し、Level II(国内政治)では交渉結果が国内の批准プロセス(議会承認、世論の支持等)をクリアしなければならない。

核心概念は「勝利集合(win-set)」であり、これはLevel IIの構成員(議会、利益団体、有権者等)が受け入れ可能な合意の範囲を指す。勝利集合が大きいほど国際合意は成立しやすいが、交渉力は弱まる。逆に勝利集合が小さいほど国際合意は困難になるが、「国内が受け入れない」という主張によって交渉力は強まる。

気候交渉への適用

気候変動交渉は二重レベルゲームの典型例である。

米国の事例: オバマ政権はパリ協定を大統領権限に基づく行政協定として発効させ、上院の批准(勝利集合が極めて小さい)を回避した。しかしトランプ政権は2017年にパリ協定からの離脱を表明した。これは国内の化石燃料産業・共和党保守派の選好を反映したLevel IIの制約であった。バイデン政権は2021年に復帰したが、この揺動は国内政治が国際コミットメントの安定性を大きく左右することを示している。

EU: 域内の環境意識の高さと緑の党の政治的影響力により、比較的大きな勝利集合を持つ。EUは国際交渉においてしばしばリーダーシップを発揮し、野心的な目標を推進してきた。ただし、東欧の石炭依存国(ポーランド等)との域内調整が勝利集合を制約する要因となる。

中国: 一党体制の下で国内批准の制約は比較的小さいが、経済成長と排出削減のトレードオフに関する国内的考慮が勝利集合を規定する。中国は「最大の排出国」と「途上国」という二重のアイデンティティを戦略的に使い分けてきた。


炭素政治の国内的対立

政策手段と利害対立

気候変動対策の国内実施においては、カーボンプライシング(carbon pricing)を中心に激しい利害対立が生じる。主要な政策手段は炭素税(carbon tax)と排出量取引制度(ETS: Emissions Trading System)の二つである。

炭素税は排出1トン当たりに課税する直接的手法であり、価格の予測可能性が高い。ETS(キャップ・アンド・トレード)は排出総量に上限を設定し、排出枠の取引を認める市場メカニズムである。EUは2005年からEU-ETSを運用し、世界最大の炭素市場を形成している。

主要アクター

国内政治における主要アクターの選好は以下のように分布する。

アクター 選好 論拠
化石燃料産業 規制に反対 競争力低下、雇用喪失
再生可能エネルギー産業 規制を支持 市場拡大の機会
環境NGO 野心的規制を要求 科学的知見に基づく削減の緊急性
労働組合 条件付き支持 公正な移行(just transition)の確保
消費者・有権者 両義的 エネルギー価格上昇への懸念と環境意識の並存

集合行為問題としての気候政策

気候変動対策は、Mancur Olsonの集合行為の論理が示す問題構造を持つ。対策のコスト(エネルギー価格上昇、産業規制)は少数の組織化された集団(化石燃料産業)に集中する一方、便益(気候安定化)は広く分散し、しかも長期的・不確実である。この非対称性により、コスト負担者の反対は組織化されやすく、便益の受け手の支持は動員されにくい。


気候正義(Climate Justice)

Key Concept: 気候正義(Climate Justice) 気候変動の原因への寄与が小さい者ほど甚大な被害を受けるという不正義を是正すべきとする規範的概念。国家間、国内、世代間の三つの次元で不公正の構造を指摘する。

三つの次元

国家間正義: 先進国が歴史的に排出したGHGが気候変動を引き起こしているにもかかわらず、その影響は途上国、とりわけ小島嶼国やアフリカ諸国に最も深刻に及ぶ。この非対称性の是正が国家間正義の核心である。

国内的正義: 同一国内においても、気候変動の影響は社会的弱者(低所得層、先住民族、沿岸部住民等)に偏重する。さらに、気候変動対策としての炭素税は逆進性(低所得者ほど負担が大きい)を持ちうるため、対策自体が新たな不正義を生む可能性がある。

世代間正義: 現在世代の排出が将来世代の生存環境を毀損するという時間軸上の不公正である。割引率(discount rate)の設定は、将来世代の利益をどの程度現在の政策に反映させるかという倫理的問題に直結する。Nicholas Stern(2006)は低い割引率を採用して早期の大規模投資を正当化し、William Nordhaus(2007)は市場金利に近い割引率を用いてより緩やかな対策を支持するなど、経済学者間でも見解が分かれる。

損失と損害(Loss and Damage)

2022年のCOP27(シャルム・エル・シェイク)では、適応の限界を超えた気候変動の影響に対する「損失と損害」基金の設立が合意された。これは途上国が長年要求してきた成果であり、先進国は法的責任(liability)の承認を回避しつつも資金メカニズムの創設に合意した。気候正義の概念が具体的な制度として結実した事例である。


国際難民レジーム

1951年難民条約とUNHCR

Key Concept: 難民条約(Refugee Convention) 1951年採択の「難民の地位に関する条約」と1967年の議定書の総称。難民の定義、ノン・ルフールマン原則(迫害のおそれがある国への送還禁止)等を規定する国際難民保護の基礎文書。

1951年難民条約は、難民を「人種、宗教、国籍、特定の社会的集団の構成員であること、又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者」と定義する。この定義は個人の迫害を基準としており、集団的な暴力や環境要因による移動は原則として対象外である。

1967年の議定書は、原条約の時間的制約(1951年以前の事象)と地理的制約(欧州中心)を撤廃し、条約の普遍的適用を可能にした。

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR: United Nations High Commissioner for Refugees)は、難民条約の監督機関(guardian)として、難民の保護と恒久的解決(自主帰還、第三国定住、庇護国での統合)を任務とする。

レジームの構造的限界

国際難民レジームは以下の構造的問題を抱えている。

  • 負担の偏在: 難民の大多数は近隣の途上国に滞在しており、先進国は受入れ負担を限定的にとどめてきた
  • 長期化する難民状況: 平均的な難民状況の持続期間は約20年に及び、一時的保護を前提とした制度設計との乖離が生じている
  • 定義の狭隘性: 紛争、一般的暴力、環境災害による移動者は条約上の難民に該当しない場合が多く、保護のギャップが存在する

移民の安全保障化(Securitization)

Key Concept: 安全保障化(Securitization) コペンハーゲン学派(Barry Buzan, Ole Waever)が提唱した概念。ある問題が「安全保障上の脅威」として言語的に構築(speech act)され、聴衆に受容されることで、通常の政治プロセスを超えた例外的措置が正当化されるプロセスを指す。

コペンハーゲン学派の理論

Barry Buzan、Ole Waever、Jaap de Wildeらによるコペンハーゲン学派は、安全保障を客観的な脅威の存在ではなく、社会的に構築されるプロセスとして理解する。あるイシューが安全保障問題として成功裏に構築されるためには、以下の三要素が必要である。

  1. 安全保障化する主体(securitizing actor): 政治指導者、メディア等
  2. 言語行為(speech act): 「存在的脅威」としてイシューを提示する発話
  3. 聴衆(audience): 安全保障化を受容し、例外的措置を容認する主体

移民の安全保障化の過程

冷戦後、移民は多くの先進国において安全保障化されてきた。この過程には複数の段階がある。

第一段階: フレーミング。移民が「文化的アイデンティティへの脅威」「社会的結束への脅威」「テロリズムの経路」として言説的に構築される。

第二段階: 聴衆の受容。メディア報道やポピュリスト政治家の言説によって、市民が移民を脅威として認識するようになる。

第三段階: 例外的措置の正当化。通常の政治プロセスでは正当化困難な措置(国境の軍事化、無期限拘禁、庇護権の制限等)が「安全保障上の必要」として実施される。

この分析枠組みは、移民に対する政策的対応が客観的な脅威評価に基づくのではなく、政治的構築のプロセスに依存していることを明らかにする。


欧州難民危機(2015年)の政治的影響

危機の概要

2015年、中東(シリア内戦、イラク、アフガニスタン)やアフリカ(エリトリア、ソマリア等)から100万人を超す難民・移民が地中海や南東欧を経由してEU域内に流入した。シリア内戦の激化とISISの台頭が主要な要因であり、トルコ、レバノン、ヨルダンなどの近隣諸国に滞在していた難民が欧州を目指す動きが加速した。

EU内の対立

ドイツのメルケル首相は人道的観点から難民の受入れを決断し、「我々はこれをやり遂げる(Wir schaffen das)」と宣言した。しかし、EU域内では深刻な対立が生じた。

  • 西欧・北欧: 人道的受入れを支持するが、受入れ数の増大に伴い世論が分裂
  • ヴィシェグラード4カ国(ハンガリー、ポーランド、チェコ、スロバキア): EU割当制度(relocation scheme)に強硬に反対し、難民受入れを拒否
  • ダブリン規則の機能不全: 最初の到着国で庇護申請を行うという規則が、ギリシャ・イタリアに過大な負担を課し、事実上崩壊

ポピュリズムの台頭

欧州難民危機は、反移民・反EUを掲げるポピュリスト政党の躍進を加速させた。

政党 動向
フランス 国民戦線(FN)/国民連合(RN) 2017年大統領選で決選投票進出
ドイツ ドイツのための選択肢(AfD) 2017年連邦議会選挙で第三党
イタリア 同盟(Lega)/五つ星運動 2018年連立政権参加
ハンガリー フィデス(Fidesz) オルバン首相が「反自由主義民主主義」を標榜
英国 UKIP/Brexit Party 2016年EU離脱国民投票でLeave勝利

2016年の英国EU離脱(Brexit)国民投票においても、移民問題は最大の争点の一つであった。Leave陣営は「EUからの離脱によって移民をコントロールできる」と主張し、有権者の移民に対する不安を動員した。

graph TD
    A["2015年欧州難民危機"] --> B["EU域内の分裂"]
    A --> C["安全保障化の加速"]
    A --> D["ポピュリスト政党の躍進"]

    B --> B1["西欧: 受入れと世論分裂"]
    B --> B2["東欧: 割当拒否"]

    C --> C1["移民のテロリスト・フレーミング"]
    C --> C2["国境管理の強化"]

    D --> D1["反移民・反EU政党の台頭"]
    D --> D2["Brexit 2016"]
    D --> D3["リベラル国際秩序への挑戦"]

    C1 --> D1
    B2 --> D3

移民政策の政治経済学

労働市場への影響

移民の労働市場への影響は、移民の技能水準と受入れ国の労働市場構造によって異なる。

補完説: 移民と国内労働者が異なる技能・職種を担う場合、両者は補完的であり、移民の流入は国内労働者の賃金を引き上げうる。高技能移民がイノベーションを促進する効果も指摘される。

競合説: 移民が国内の低技能労働者と同じ労働市場で競合する場合、賃金の下方圧力が生じる。George Borjas(2003)はマイアミのマリエル・ボートリフト(1980年)を分析し、低技能労働者の賃金低下を指摘した。ただし、David Card(1990)は同事例で有意な影響を検出せず、実証的にも論争が続いている。

福祉国家との緊張

移民の受入れと福祉国家の維持の間には潜在的な緊張関係がある。この問題は「進歩主義者のジレンマ(progressive's dilemma)」と呼ばれる。

寛大な福祉制度は移民にとっての誘引(welfare magnet)となりうるが、福祉の受給者として移民が可視化されると、福祉制度に対する国民の支持(社会的連帯)が低下する可能性がある。Alberto Alesina & Edward Glaeser(2004)は、米国とヨーロッパの福祉国家の規模の差を人種的・民族的多様性の差で部分的に説明し、民族的多様性が再分配選好を低下させるという仮説を提示した。

文化的統合

移民統合の政策モデルは大きく三つに分類される。

モデル 特徴 代表例
多文化主義(multiculturalism) 移民の文化的独自性を尊重・保持 カナダ、オーストラリア
同化主義(assimilation) 受入れ社会の文化・価値への適応を要求 フランスの共和主義モデル
統合主義(integration) 相互適応を目指す中間的アプローチ ドイツ(2000年代以降)

近年、多くのヨーロッパ諸国において「多文化主義の失敗」が政治的に宣言された。メルケル(2010年)、キャメロン(2011年)、サルコジ(2011年)がそれぞれ多文化主義の「失敗」に言及した。ただし、学術的にはこの「失敗」言説自体が安全保障化の一環であるとの批判もある。


気候移民・環境難民の新たな課題

概念と規模

気候変動がもたらす環境悪化(海面上昇、干ばつ、洪水、砂漠化等)を原因として移動を余儀なくされる人々は「気候移民(climate migrant)」あるいは「環境難民(environmental refugee)」と呼ばれる。UNHCRによれば、2010年以降、気候変動関連の災害により年間平均約2,400万人が避難を強いられており、経済平和研究所(IEP)は2050年までに少なくとも12億人が気候関連の要因により居住地を離れる可能性があると推計している。

法的保護のギャップ

気候移民が直面する最大の問題は、既存の国際法上の保護の不在である。1951年難民条約の難民定義は「迫害」を要件としており、環境悪化による移動は該当しない。「環境難民」という用語自体、法的には存在しない概念である。

2018年の「安全で秩序ある正規移住のためのグローバルコンパクト(GCM)」は、気候変動と環境悪化を大規模移住の要因として明示的に認め、計画的再定住や影響を受けた者へのビザの選択肢を呼びかけたが、法的拘束力はない。

二つの領域の交差

気候移民の問題は、気候変動政治と移民政治が交差する地点に位置する。気候正義の観点からは、先進国の排出が途上国住民の移動を強いているという因果関係が問われ、先進国の受入れ責任が論じられる。一方、移民の安全保障化の文脈では、大規模な気候移民の流入が新たな「脅威」として構築される可能性がある。この二つの論理の緊張は、21世紀の国際政治における重要な構造的課題である。


まとめ

  • 気候変動の国際交渉は、京都議定書のトップダウン型からパリ協定のボトムアップ型へと構造転換し、NDC・GST・透明性枠組みによる段階的引き上げメカニズムが採用された
  • CBDR原則は先進国と途上国の責任配分をめぐる中心的争点であり、パリ協定での文言修正は二分法の緩和を意味する
  • 二重レベルゲーム理論は、国際交渉が国内政治の制約を受ける構造を説明し、米国のパリ協定離脱・復帰の揺動はその典型例である
  • 気候正義は国家間・国内・世代間の三次元で不公正を指摘し、損失と損害基金として制度化が進みつつある
  • 国際難民レジームは1951年難民条約を基盤とするが、迫害を要件とする定義は現代の複合的移動に対応しきれていない
  • 安全保障化理論は、移民が客観的脅威ではなく政治的構築を通じて「脅威」となる過程を分析する
  • 2015年欧州難民危機はEU域内の分裂とポピュリズムの台頭を加速させ、リベラル国際秩序への挑戦を顕在化させた
  • 気候移民は気候変動政治と移民政治の交差点に位置し、法的保護の不在が最大の課題である
  • 次のセクションでは、もう一つのグローバルイシューとして感染症の政治とAI・テクノロジーガバナンスを扱う

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
国連気候変動枠組条約 UNFCCC 1992年採択の気候変動対策の基本枠組み条約
パリ協定 Paris Agreement 2015年採択、全締約国がNDCを提出するボトムアップ型の気候変動対策枠組み
国別貢献 NDC: Nationally Determined Contribution 各国が自主的に設定する温室効果ガス削減目標
グローバル・ストックテイク GST: Global Stocktake パリ協定の目標に対する世界全体の進捗を5年ごとに評価する仕組み
共通だが差異ある責任 CBDR: Common But Differentiated Responsibilities 歴史的排出量と能力に応じた差異ある責任の原則
二重レベルゲーム Two-level Game 国際交渉と国内政治の連動を分析するPutnamの枠組み
勝利集合 Win-set 国内の批准可能な合意の範囲
気候正義 Climate Justice 気候変動の原因と影響の非対称性を是正すべきとする規範的概念
損失と損害 Loss and Damage 適応の限界を超えた気候変動の影響に対する補償メカニズム
難民条約 Refugee Convention 1951年条約と1967年議定書の総称。難民の定義と保護義務を規定
ノン・ルフールマン原則 Non-refoulement 迫害のおそれがある国への難民の送還を禁止する原則
安全保障化 Securitization ある問題が言語行為を通じて安全保障上の脅威として構築されるプロセス
コペンハーゲン学派 Copenhagen School Buzan、Waeverらによる安全保障研究の学派
気候移民 Climate Migrant 気候変動による環境悪化を原因として移動を余儀なくされる人々
進歩主義者のジレンマ Progressive's Dilemma 移民受入れと福祉国家維持の間の緊張関係

確認問題

Q1: パリ協定が京都議定書と比較してどのような構造的転換を遂げたか、NDC・GST・透明性枠組みの三要素に即して説明せよ。 A1: 京都議定書は先進国に法的拘束力のある削減数値を割り当てるトップダウン型であったのに対し、パリ協定は全締約国が自主的に削減目標(NDC)を設定・提出するボトムアップ型を採用した。NDCの提出と5年ごとの更新が義務づけられ、グローバル・ストックテイク(GST)が世界全体の進捗を5年ごとに評価し、その結果を踏まえてNDCの引き上げが期待される。透明性枠組み(ETF)は各国の排出量・政策実施状況の報告・検証を制度化し、相互監視による遵守促進を図る。このサイクルにより、法的強制力に依存せず段階的に野心を引き上げる構造が形成された。

Q2: Putnamの二重レベルゲーム理論における「勝利集合」の概念を説明し、米国のパリ協定への対応(離脱と復帰)がこの理論でどう説明されるか論じよ。 A2: 勝利集合とは、国内の批准主体(議会、利益団体、有権者等)が受け入れ可能な国際合意の範囲を指す。オバマ政権は上院の批准が困難(勝利集合が小さい)であったため、大統領権限に基づく行政協定としてパリ協定を発効させた。しかしトランプ政権下では、化石燃料産業や共和党保守派の選好(Level IIの制約)により離脱が表明された。バイデン政権では環境意識の高い支持基盤に基づきLevel IIの勝利集合が変化し、復帰が実現した。この揺動は、国内政治の変動が国際コミットメントの安定性を規定することを示している。

Q3: コペンハーゲン学派の安全保障化理論を用いて、欧州における移民問題がどのように安全保障問題として構築されたかを分析せよ。 A3: コペンハーゲン学派によれば、安全保障化は安全保障化する主体の言語行為が聴衆に受容されることで成立する。欧州では、ポピュリスト政治家やメディアが安全保障化の主体として、移民を「文化的アイデンティティへの脅威」「テロリズムの経路」「福祉制度への負荷」として言説的に構築した。2015年パリ同時多発テロなどの事件を契機に、市民(聴衆)がこのフレーミングを受容し、国境管理の軍事化、庇護権の制限、域内移動の自由の制約など、通常の政治プロセスを超えた例外的措置が正当化された。重要な点は、移民が客観的に安全保障上の脅威であるかではなく、脅威として「構築される」プロセスの分析にある。

Q4: 気候正義(climate justice)が指摘する三つの次元の不公正を具体例を挙げて説明せよ。 A4: 第一に国家間正義の次元では、産業革命以来の累積排出量の大部分を先進国が占める一方、海面上昇で国土消失の危機に瀕する小島嶼国(モルディブ、マーシャル諸島等)や干ばつに苦しむアフリカ諸国が最も深刻な影響を受けるという非対称性がある。第二に国内的正義の次元では、同一国内でも低所得者層・先住民族・沿岸部住民が気候変動の影響を不均衡に被り、炭素税の逆進性が低所得者の負担を増大させうる。第三に世代間正義の次元では、現在世代の排出が将来世代の生存環境を不可逆的に毀損する。Stern(2006)が低い割引率で早期投資を正当化しNordhaus(2007)が高い割引率で緩やかな対策を支持した対立は、世代間正義の評価方法をめぐる根本的な論争である。

Q5: 気候移民が既存の国際難民レジームの下でなぜ法的保護を受けにくいかを、1951年難民条約の定義に即して説明し、この保護のギャップに対するどのような国際的対応があるかを述べよ。 A5: 1951年難民条約は難民を「人種、宗教、国籍、特定の社会的集団の構成員であること、又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれ」がある者と定義しており、「迫害」が要件である。気候変動による海面上昇や干ばつは特定の主体による「迫害」ではないため、条約上の難民定義に該当しない。このギャップに対し、2018年の安全で秩序ある正規移住のためのグローバルコンパクト(GCM)は気候変動を移住の要因として認め、計画的再定住やビザの選択肢を提示した。また、COP27で設立が合意された損失と損害基金は間接的に気候移民への支援に資しうる。ただし、いずれも法的拘束力を持たず、気候移民に対する国際法上の体系的保護は依然として不在である。