Module 1-1 - Section 5: ゲーム理論と市場の失敗¶
セクション情報¶
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| モジュール | Module 1-1: 経済学基礎(ミクロ・マクロ) |
| 前提セクション | Section 4 |
| 想定学習時間 | 3時間 |
導入¶
Section 4 では寡占市場における戦略的相互作用を分析し、クールノー・ベルトラン・シュタッケルベルクの各モデルを通じて企業間の競争行動を考察した。そこで確認されたカルテルの不安定性は「囚人のジレンマ」の構造を持つものであった。本セクションでは、こうした戦略的状況を統一的に分析する枠組みとしてゲーム理論(game theory)を導入する。
ゲーム理論は、複数の意思決定主体が互いの行動を考慮しながら最適な選択を行う状況を数学的に分析する理論体系であり、ジョン・フォン・ノイマン(John von Neumann)とオスカー・モルゲンシュテルン(Oskar Morgenstern)による『ゲームの理論と経済行動』(1944)に端を発する。その後、ジョン・ナッシュ(John Nash, 1950)による均衡概念の定式化を経て、現代経済学・経営学における不可欠な分析道具となった。
さらに、本セクションの後半では市場メカニズムが効率的な資源配分を達成できない状況、すなわち市場の失敗(market failure)を扱う。外部性、公共財、情報の非対称性といった要因が市場均衡の効率性を損なうメカニズムと、それに対する経済学的な処方箋を検討する。
ゲーム理論の基礎¶
ゲームの構成要素¶
ゲーム理論におけるゲームは、以下の3つの要素から構成される。
| 要素 | 説明 |
|---|---|
| プレイヤー(player) | 意思決定を行う主体。企業、消費者、政府などが該当する |
| 戦略(strategy) | 各プレイヤーが選択しうる行動の計画。特定の状況に応じた行動を網羅的に記述したものを完全戦略と呼ぶ |
| 利得(payoff) | 各プレイヤーの戦略の組み合わせに対して与えられる結果。効用や利潤で測定される |
ゲームは利得行列(payoff matrix)によって表現される。2人のプレイヤーがそれぞれ2つの戦略を持つ最も単純なケースでは、2×2の行列で全ての戦略の組み合わせと対応する利得を記述できる。
支配戦略と支配戦略均衡¶
Key Concept: 支配戦略(Dominant Strategy) 相手がどの戦略を選択するかにかかわらず、自分にとって常に最も高い利得をもたらす戦略。支配戦略が存在する場合、合理的なプレイヤーは必ずその戦略を選択する。
すべてのプレイヤーが支配戦略を持ち、それぞれが支配戦略を選択した結果として成立する均衡を支配戦略均衡(dominant strategy equilibrium)と呼ぶ。支配戦略均衡は非常に強い予測力を持つが、多くのゲームでは支配戦略が存在しない。
ナッシュ均衡¶
Key Concept: ナッシュ均衡(Nash Equilibrium) すべてのプレイヤーについて、他のプレイヤーの戦略を所与としたとき、自分だけが戦略を変更しても利得を改善できない戦略の組み合わせ。ジョン・ナッシュ(1950)が定式化した非協力ゲームの基本的な解概念である。
ナッシュ均衡の定義を形式的に述べると、$n$ 人ゲームにおいて戦略の組 $(s_1^, s_2^, \ldots, s_n^*)$ がナッシュ均衡であるとは、すべてのプレイヤー $i$ について、
$$u_i(s_i^, s_{-i}^) \geq u_i(s_i, s_{-i}^*)$$
がすべての $s_i$ に対して成立することである。ここで $s_{-i}^*$ はプレイヤー $i$ 以外のプレイヤーの均衡戦略を表す。
ナッシュ均衡は支配戦略均衡を包含するより一般的な概念である。支配戦略均衡が存在すればそれはナッシュ均衡でもあるが、逆は必ずしも成り立たない。また、ナッシュ均衡は必ずしもパレート効率的ではない。この点を最も明瞭に示すのが囚人のジレンマである。
囚人のジレンマ¶
Key Concept: 囚人のジレンマ(Prisoner's Dilemma) 各プレイヤーが個別に合理的な選択(支配戦略)を行うと、全員が協力した場合よりも悪い結果に至る戦略的状況。個別合理性と集団的最適が乖離する構造を持つゲームであり、経済学・経営学における多くの協力問題のモデルとなる。
囚人のジレンマの典型的な利得行列は以下の通りである。
| プレイヤーB: 協力 | プレイヤーB: 裏切り | |
|---|---|---|
| プレイヤーA: 協力 | (3, 3) | (0, 5) |
| プレイヤーA: 裏切り | (5, 0) | (1, 1) |
各プレイヤーにとって「裏切り」が支配戦略である。相手が協力する場合、裏切れば利得5を得る(協力なら3)。相手が裏切る場合も、裏切れば利得1を得る(協力なら0)。したがって支配戦略均衡は(裏切り, 裏切り)で利得は (1, 1) となる。しかし、双方が協力すれば (3, 3) が達成可能であり、支配戦略均衡はパレート効率的ではない。
経営学・経済学への応用¶
囚人のジレンマの構造は経営・経済の多くの場面で観察される。
カルテルの不安定性: Section 4 で分析した寡占市場におけるカルテルは囚人のジレンマの典型例である。全企業が協定を遵守すれば共同利潤最大化が達成されるが、各企業には協定に反して増産する誘因がある。相手が生産制限を守っている状況で自社だけ増産すれば、高い市場価格のもとで追加的利潤を獲得できるためである。
広告競争: コカ・コーラとペプシの広告競争は囚人のジレンマの構造を持つとされる。両社とも広告を控えれば広告費用を節約できるが、相手が広告を控えている状況で自社だけ広告を行えば市場シェアを奪取できる。結果として両社とも巨額の広告投資を行い、市場シェアはほぼ変わらないまま利潤が減少する。
軍拡競争: 2つの国家間の軍備拡張も同様の構造を示す。相互に軍縮すれば双方の安全保障は維持されつつ財政負担が軽減されるが、相手が軍縮する中で自国だけ軍拡すれば軍事的優位を得られるため、双方が軍拡を選択するという非効率な均衡に陥る。
繰り返しゲーム¶
1回限りの囚人のジレンマでは協力が均衡として成立しないが、同じゲームが繰り返される場合には異なる結果が生じうる。
有限回の繰り返し: ゲームが $T$ 回繰り返されることが既知である場合、後ろ向き帰納法(後述)により、最終回 $T$ では裏切りが最適であり、これを前提とすると $T-1$ 回目でも裏切りが最適となる。この論理が第1回目まで遡及するため、有限回繰り返しゲームの唯一の部分ゲーム完全均衡は毎回裏切ることである。
無限回の繰り返し: ゲームが無限に(あるいは終了時点が不確実に)繰り返される場合、将来の利得を割引率 $\delta$($0 < \delta < 1$)で現在価値に換算する。割引率が十分に高い(将来の利得を十分に重視する)場合、トリガー戦略(trigger strategy)により協力が均衡として維持可能となる。
トリガー戦略の代表例であるグリム・トリガー(grim trigger)戦略は、「相手が協力する限り自分も協力し、相手が一度でも裏切ったら以後永久に裏切る」というものである。上の利得行列の例では、裏切りによる即時的利得増加は $5 - 3 = 2$ であるが、永久に(協力, 協力)の利得3を失い(裏切り, 裏切り)の利得1に移行する損失は $\frac{\delta}{1-\delta}(3-1) = \frac{2\delta}{1-\delta}$ である。裏切りが不利となる条件は $2 \leq \frac{2\delta}{1-\delta}$、すなわち $\delta \geq \frac{1}{2}$ である。
Key Concept: フォーク定理(Folk Theorem) 無限回繰り返しゲームにおいて、割引率が十分に高い場合、ミニマックス利得(相手が自分の利得を最小化しようとするときに確保できる最低利得)を各プレイヤーが上回る利得の組み合わせであれば、何らかのナッシュ均衡として実現可能であるという定理。この結果は、長期的関係においては多様な協力的結果が均衡として維持されうることを意味する。
フォーク定理はカルテルの持続可能性に重要な含意を持つ。企業間の競争が長期にわたり繰り返される場合、将来の報復を恐れて各社が協定を遵守する均衡が成立しうる。これは、参入退出が少なく固定的なメンバーで競争する産業でカルテルが形成されやすいという観察と整合的である。
混合戦略均衡¶
Key Concept: 混合戦略(Mixed Strategy) 利用可能な純粋戦略(特定の行動を確定的に選ぶ戦略)の上に確率分布を定め、確率的に行動を選択する戦略。純粋戦略のナッシュ均衡が存在しないゲームにおいても、混合戦略を許容すればナッシュ均衡が必ず存在する(ナッシュの存在定理)。
混合戦略均衡の古典的な例は「マッチング・ペニー」ゲームである。2人のプレイヤーがそれぞれ表か裏を同時に選び、一致すればプレイヤーAの勝ち、不一致ならプレイヤーBの勝ちとなる。このゲームには純粋戦略のナッシュ均衡が存在しないが、各プレイヤーが $\frac{1}{2}$ の確率で表と裏をランダムに選ぶ混合戦略がナッシュ均衡を構成する。
経営学的には、混合戦略は企業の新製品投入戦略や価格変更のタイミングを予測困難にする行動として解釈される。競合他社が自社の行動パターンを読むことができない状況を意図的に作り出すことで、戦略的優位を確保する。
逐次手番ゲームとバックワード・インダクション¶
これまでのゲームはプレイヤーが同時に行動を選択する同時手番ゲームであった。これに対し、プレイヤーが順番に行動を選択するゲームを逐次手番ゲーム(sequential game)と呼ぶ。逐次手番ゲームはゲーム木(game tree)によって表現される。
graph TD
A["企業A: 参入 or 不参入"] -->|参入| B["企業B: 対抗 or 容認"]
A -->|不参入| C["A: 0, B: 300"]
B -->|対抗| D["A: -100, B: 50"]
B -->|容認| E["A: 150, B: 150"]
上図は参入ゲームの例である。企業Aが先に参入するか否かを決定し、参入した場合に企業Bが対抗するか容認するかを選択する。
Key Concept: 部分ゲーム完全均衡(Subgame Perfect Equilibrium) ゲーム木のすべての部分ゲーム(任意の意思決定ノードから始まるサブゲーム)においてナッシュ均衡となっている戦略の組み合わせ。後ろ向き帰納法(バックワード・インダクション)によって求められ、空脅し(実行されない脅し)を排除した精緻化された均衡概念である。
後ろ向き帰納法(backward induction)は、ゲーム木の末端(最後に意思決定を行うプレイヤー)から逆順に各プレイヤーの最適行動を決定していく手法である。上の参入ゲームでは、まず企業Bの意思決定を分析する。Aが参入した場合、Bは対抗(利得50)か容認(利得150)を選ぶが、合理的なBは容認を選択する。これを前提とすると、Aは参入(利得150)と不参入(利得0)から参入を選択する。したがって部分ゲーム完全均衡は(参入, 容認)で利得は (150, 150) である。
仮に企業Bが「参入したら対抗する」と脅しても、実際に参入された場合に対抗することはBにとって不合理(利得50 < 150)であるため、この脅しは空脅し(non-credible threat)となる。部分ゲーム完全均衡はこうした空脅しを排除する点で、通常のナッシュ均衡よりも洗練された予測を与える。
市場の失敗¶
Section 1 で確認したように、完全競争市場の均衡は消費者余剰と生産者余剰の合計(社会的余剰)を最大化し、パレート効率的な資源配分をもたらす。しかし、現実にはいくつかの条件が満たされないために市場メカニズムが効率的な配分を達成できないことがある。この状態を市場の失敗(market failure)と総称する。
graph TD
MF["市場の失敗"] --> EX["外部性"]
MF --> PG["公共財"]
MF --> AI["情報の非対称性"]
MF --> MP["市場支配力"]
EX --> NEX["負の外部性"]
EX --> PEX["正の外部性"]
AI --> AS["逆選択"]
AI --> MH["モラルハザード"]
市場支配力(独占・寡占)による市場の失敗は Section 4 で分析済みであるため、本セクションでは外部性、公共財、情報の非対称性を取り上げる。
外部性¶
Key Concept: 外部性(Externality) ある経済主体の行動が、市場取引を介さずに他の経済主体の効用や利潤に影響を与えること。影響を与える側も受ける側も、その影響に対する対価の支払いや補償を市場で行っていない点が本質的特徴である。
外部性は影響の方向により2つに分類される。
負の外部性(negative externality): 他者に不利益をもたらす外部性。工場の排煙による大気汚染、交通渋滞による時間損失、騒音などが典型例である。負の外部性が存在する場合、私的限界費用(private marginal cost)が社会的限界費用(social marginal cost)を下回る。社会的限界費用は私的限界費用に外部費用(外部限界損害)を加えたものであり、$SMC = PMC + MED$(MEDは限界外部損害)と表される。市場均衡では $P = PMC$ が成立するが、社会的最適は $P = SMC$ で達成されるため、負の外部性のもとでは財が過剰に生産される。
正の外部性(positive externality): 他者に便益をもたらす外部性。教育は受けた本人だけでなく社会全体の生産性や市民参加の質を高め、予防接種は本人の感染予防だけでなく集団免疫を通じて周囲の人々の健康を守る。正の外部性が存在する場合、私的限界便益が社会的限界便益を下回り、財は過少に供給される。
外部性への対処¶
ピグー税・補助金¶
アーサー・C・ピグー(Arthur C. Pigou, 1920)は、外部性の内部化(internalization)手段として、負の外部性には課税を、正の外部性には補助金を提案した。
負の外部性に対するピグー税(Pigouvian tax)は、外部限界損害に等しい税額を課すことで、私的限界費用を社会的限界費用に一致させる。これにより企業は外部費用を意思決定に組み込み、社会的に最適な生産量が達成される。炭素税はピグー税の現代的応用として広く議論されている。
正の外部性に対しては、外部限界便益に等しいピグー補助金を支給することで、私的限界便益を社会的限界便益に一致させ、過少供給を是正する。教育への公的助成や予防接種の無償化はこの論理に基づく。
コースの定理¶
Key Concept: コースの定理(Coase Theorem) ロナルド・コース(Ronald Coase, 1960)が提示した命題。取引費用がゼロであり、所有権(property rights)が明確に定義されている場合、初期の権利配分にかかわらず、当事者間の自発的交渉を通じて外部性は効率的に解消され、パレート効率的な資源配分が達成される。
コースの定理の直感は以下の通りである。工場の排煙が近隣住民に被害を与えているとき、住民に清浄な空気への権利があれば工場は汚染の対価を支払い(支払額が汚染削減費用を下回る限り汚染を続け、上回れば削減する)、逆に工場に排煙の権利があれば住民が汚染削減の対価を支払う。いずれの場合も、取引費用がゼロであれば交渉を通じて社会的に最適な汚染水準に到達する。
ただし、コースの定理の実際の適用には大きな制約がある。取引費用がゼロという仮定は現実にはほぼ満たされない。特に、多数の当事者が関与する環境問題(大気汚染など)では、交渉費用、情報収集費用、合意形成の困難さから、自発的交渉による解決は極めて難しい。コース自身もこの点を認識しており、取引費用が正である場合には制度的枠組みの設計が重要であることを強調していた。
公共財¶
Key Concept: 公共財(Public Good) 以下の2つの性質を同時に満たす財。(1) 非排除性(non-excludability): 対価を支払わない者を消費から排除することが困難である。(2) 非競合性(non-rivalry): ある者の消費が他の者の消費を妨げない。国防、街路灯、一般的な知識などが例として挙げられる。
| 分類 | 排除可能 | 排除不可能 |
|---|---|---|
| 競合的 | 私的財(食品、衣服) | 共有資源(海洋漁業資源) |
| 非競合的 | クラブ財(有料放送) | 公共財(国防、街路灯) |
公共財の非排除性はフリーライダー問題(free-rider problem)を引き起こす。対価を支払わなくても便益を享受できるため、各個人は自発的に費用を負担する誘因を持たない。全員がフリーライドしようとすると、公共財は供給されないか、社会的に最適な水準を大幅に下回る量しか供給されない。
公共財の供給におけるフリーライダー問題もまた囚人のジレンマの構造を持つ。各個人にとって「負担しない」が支配戦略であるが、全員が負担しなければ公共財は供給されず、全員が負担する場合に比べて社会全体として劣った結果に至る。この問題が公共財の政府供給(税による強制的費用負担と集合的供給)の経済学的根拠となっている。
情報の非対称性¶
市場の効率性は、取引当事者が財の品質や相手の行動について十分な情報を持つことを前提とする。この前提が崩れ、取引の一方が他方よりも多くの情報を持つ状態を情報の非対称性(asymmetric information)と呼ぶ。情報の非対称性は、逆選択とモラルハザードという2つの問題を引き起こす。
逆選択¶
Key Concept: 逆選択(Adverse Selection) 取引の成立前に情報の非対称性が存在することにより、品質の低い財やリスクの高い主体が市場に残留し、品質の高い財やリスクの低い主体が市場から退出するメカニズム。ジョージ・アカロフ(George Akerlof, 1970)が「レモンの市場」モデルで定式化した。
アカロフのレモンの市場(market for lemons)モデルは、中古車市場を例に逆選択のメカニズムを説明する。米国のスラングで「レモン」は欠陥のある中古車を意味する。
中古車の品質について売り手は知っているが買い手は知らないという情報の非対称性が存在する。買い手は個別の車の品質を判別できないため、市場全体の平均的品質に基づいた価格を提示する。この平均価格は高品質車の売り手にとって不十分であるため、高品質車の売り手は市場から退出する。すると市場に残る車の平均品質がさらに低下し、価格もさらに下落する。この悪循環が続くと、最終的には最低品質の車のみが取引されるか、市場そのものが消滅する可能性がある。
逆選択は保険市場でも深刻な問題となる。保険会社が加入者のリスク水準を正確に識別できない場合、平均的なリスクに基づいて保険料を設定する。この保険料は低リスク者にとって割高であるため低リスク者が脱退し、残る加入者の平均リスクが上昇する。保険料の引き上げとさらなる低リスク者の脱退という悪循環が生じ、最終的に高リスク者のみが残る。
モラルハザード¶
Key Concept: モラルハザード(Moral Hazard) 取引の成立後に情報の非対称性が存在することにより、一方の当事者が他方にとって望ましくない行動をとる問題。契約後に行動を観察・監視することが困難な場合に生じる。
モラルハザードの典型例は保険市場で観察される。火災保険に加入した住宅所有者は、保険未加入時に比べて防火対策への投資を怠る可能性がある。保険による損失補填が約束されているため、注意を払う誘因が弱まるのである。自動車保険においても、車両保険加入後に運転が粗雑になるという傾向が報告されている。
雇用関係におけるモラルハザードは経営学と深く関連する。従業員の努力水準を雇用主が完全に観察できない場合、従業員は最適な努力水準を下回る行動をとりうる。これはプリンシパル=エージェント問題(principal-agent problem)として一般化される。株主(プリンシパル)と経営者(エージェント)の関係において、経営者が株主価値最大化ではなく自己の利益(高額報酬、帝国建設)を追求する行動もモラルハザードの一形態である。
情報の非対称性への対処¶
情報の非対称性に起因する市場の失敗に対して、経済主体は以下のようなメカニズムを発達させてきた。
シグナリング¶
Key Concept: シグナリング(Signaling) 情報を多く持つ側(情報優位者)が、自らの特性に関する信頼可能な情報を相手方に伝達する行動。マイケル・スペンス(Michael Spence, 1973)が教育のシグナリング・モデルで定式化した。
スペンスの教育シグナリング・モデルは、教育が人的資本の蓄積という直接的効果を持たない場合でも、能力のシグナルとして機能しうることを示した。教育の取得費用が能力の高い者ほど低いという仮定のもとで、高能力者のみが教育投資を行い、低能力者は教育投資を行わないという分離均衡(separating equilibrium)が成立しうる。雇用主は学歴を能力のシグナルとして利用し、教育を受けた者に高い賃金を支払う。
シグナリングが有効に機能するためには、シグナルが信頼可能(credible)でなければならない。すなわち、低品質の主体がシグナルを模倣するコストが、シグナルから得られる便益を上回る必要がある。企業による製品保証(低品質企業にとって保証コストが高い)、広告投資(低品質企業が投資を回収できない)なども同様の論理に基づくシグナリングの例である。
スクリーニング¶
シグナリングが情報優位者による情報伝達であるのに対し、スクリーニング(screening)は情報劣位者(情報を持たない側)が複数の選択肢を提示し、相手方の選択行動を通じて情報を抽出するメカニズムである。
保険市場におけるスクリーニングの例として、保険会社が免責額(自己負担額)の異なる複数の保険プランを提示する方法がある。低リスク者は事故の確率が低いため高い免責額(低い保険料)のプランを選択し、高リスク者は事故の確率が高いため低い免責額(高い保険料)のプランを選択する。この自己選択(self-selection)メカニズムを通じて、保険会社は加入者のリスク水準を間接的に識別できる。マイケル・ロスチャイルド(Michael Rothschild)とジョセフ・スティグリッツ(Joseph Stiglitz, 1976)がこのモデルを定式化した。
まとめ¶
- ゲーム理論はプレイヤー・戦略・利得の3要素からなる戦略的状況の分析枠組みであり、ナッシュ均衡がその基本的な解概念である
- 支配戦略均衡はナッシュ均衡の特殊ケースであり、相手の行動にかかわらず最適な戦略が存在する場合に成立する
- 囚人のジレンマは個別合理性と集団的最適の乖離を示し、カルテルの不安定性や広告競争など経営・経済の多くの場面に適用される
- 無限回繰り返しゲームでは、フォーク定理により、割引率が十分に高い場合に多様な協力的結果が均衡として維持されうる
- 逐次手番ゲームでは後ろ向き帰納法により部分ゲーム完全均衡を求め、空脅しを排除した精緻な予測を行う
- 市場の失敗は外部性、公共財、情報の非対称性、市場支配力によって生じ、市場均衡がパレート効率的とならない状態を指す
- 負の外部性にはピグー税、正の外部性にはピグー補助金が外部性の内部化手段として機能する。コースの定理は取引費用ゼロの条件下で私的交渉による効率的解決を示すが、現実的適用には限界がある
- 公共財は非排除性と非競合性を持ち、フリーライダー問題により市場での供給が過少となるため、政府供給の経済学的根拠となる
- 逆選択は取引前の情報の非対称性による市場崩壊メカニズムであり、モラルハザードは取引後の情報の非対称性による非効率的行動の問題である
- シグナリングとスクリーニングは、情報の非対称性を緩和するメカニズムとして市場参加者によって発達してきた
- 次のSection 6では、個別の市場分析から視野を広げ、一国経済全体を対象とするマクロ経済学の基礎概念を扱う(→ Module 1-1, Section 6「マクロ経済学の基礎」参照)
用語集(Glossary)¶
| 用語 | 英語表記 | 定義 |
|---|---|---|
| ゲーム理論 | Game Theory | 複数の意思決定主体が互いの行動を考慮しながら最適な選択を行う戦略的状況を数学的に分析する理論体系 |
| 支配戦略 | Dominant Strategy | 相手の戦略にかかわらず自分にとって常に最も高い利得をもたらす戦略 |
| ナッシュ均衡 | Nash Equilibrium | すべてのプレイヤーについて、他者の戦略を所与としたとき自分だけ戦略を変えても利得を改善できない戦略の組み合わせ |
| 囚人のジレンマ | Prisoner's Dilemma | 各プレイヤーの個別合理的選択が集団的に非効率な結果をもたらすゲームの構造 |
| 混合戦略 | Mixed Strategy | 純粋戦略の上に確率分布を定め確率的に行動を選択する戦略 |
| 部分ゲーム完全均衡 | Subgame Perfect Equilibrium | ゲーム木のすべての部分ゲームにおいてナッシュ均衡となる戦略の組み合わせ |
| 後ろ向き帰納法 | Backward Induction | ゲーム木の末端から逆順に各プレイヤーの最適行動を決定する手法 |
| フォーク定理 | Folk Theorem | 無限回繰り返しゲームで割引率が十分に高い場合、多様な協力的結果が均衡として維持可能であるという定理 |
| 外部性 | Externality | ある経済主体の行動が市場取引を介さずに他の経済主体の効用や利潤に影響を与えること |
| ピグー税 | Pigouvian Tax | 負の外部性を内部化するために外部限界損害に等しい税額を課す手法 |
| コースの定理 | Coase Theorem | 取引費用ゼロで所有権が明確な場合、私的交渉により外部性が効率的に解消されるという命題 |
| 公共財 | Public Good | 非排除性と非競合性を同時に満たす財 |
| フリーライダー問題 | Free-Rider Problem | 対価を支払わずに公共財の便益を享受しようとする行動が引き起こす過少供給の問題 |
| 逆選択 | Adverse Selection | 取引前の情報の非対称性により低品質の財・高リスクの主体が市場に残留するメカニズム |
| モラルハザード | Moral Hazard | 取引後の情報の非対称性により一方の当事者が他方にとって望ましくない行動をとる問題 |
| シグナリング | Signaling | 情報優位者が自らの特性に関する信頼可能な情報を伝達する行動 |
| スクリーニング | Screening | 情報劣位者が複数の選択肢を提示し相手方の選択行動から情報を抽出するメカニズム |
確認問題¶
Q1: ナッシュ均衡の定義を述べ、支配戦略均衡との関係を説明せよ。また、ナッシュ均衡が必ずしもパレート効率的でないことを囚人のジレンマを用いて示せ。
A1: ナッシュ均衡とは、すべてのプレイヤーについて、他のプレイヤーの戦略を所与としたとき、自分だけが戦略を変更しても利得を改善できない戦略の組み合わせである。支配戦略均衡はナッシュ均衡の特殊ケースであり、支配戦略均衡が存在すればそれは必ずナッシュ均衡であるが、逆は成り立たない。囚人のジレンマでは(裏切り, 裏切り)がナッシュ均衡(かつ支配戦略均衡)であるが、双方が協力すれば両者とも利得を改善できるため、この均衡はパレート効率的ではない。
Q2: 無限回繰り返しゲームにおいてトリガー戦略により協力が維持可能となるメカニズムを説明し、この結果がカルテルの安定性にどのような含意を持つか論じよ。
A2: 無限回繰り返しゲームでは、裏切りから得られる即時的利得増加と、報復による将来の利得損失を比較衡量する。トリガー戦略のもとでは、一度の裏切りが永久的な報復を招くため、割引率(将来の利得への重み)が十分に高い場合、裏切りの期待利得が協力の期待利得を下回り、協力が均衡として維持される。カルテルについては、企業間の競争が長期にわたり繰り返される場合、将来の報復を恐れて各社が協定を遵守する均衡が成立しうる。逆に、産業の先行きが不透明で将来の対戦確率が低い場合(割引率が低い場合)、カルテルは不安定化する。
Q3: 負の外部性が存在する場合になぜ財が過剰に生産されるかを社会的限界費用と私的限界費用の関係に基づいて説明し、ピグー税がこの問題をどのように解決するか述べよ。
A3: 負の外部性が存在する場合、社会的限界費用(SMC)は私的限界費用(PMC)に外部限界損害(MED)を加えたものとなり、SMC > PMC が成立する。市場均衡は P = PMC で成立するが、社会的に最適な生産量は P = SMC で決定されるため、市場均衡の生産量は社会的最適を超過する。ピグー税はMEDに等しい税額を課すことで、企業の直面する限界費用を PMC から PMC + 税 = SMC に引き上げ、私的最適と社会的最適を一致させる。これにより、外部費用が企業の意思決定に内部化され、過剰生産が是正される。
Q4: アカロフの「レモンの市場」モデルにおいて、情報の非対称性がどのように市場の崩壊に至りうるかを段階的に説明せよ。
A4: 中古車市場で売り手は車の品質を知っているが買い手は知らないという情報の非対称性が存在する。買い手は市場全体の平均品質に基づいた支払意思額を形成する。この価格は高品質車の価値を下回るため、高品質車の売り手は取引から離脱する。高品質車が市場から退出すると、残る車の平均品質が低下し、買い手の支払意思額もさらに低下する。すると次に品質の高い車の売り手も離脱し、さらに平均品質が下がるという悪循環が生じる。最終的に最低品質の車のみが取引されるか、取引自体が成立しなくなる可能性がある。
Q5: シグナリングとスクリーニングはともに情報の非対称性を緩和するメカニズムであるが、両者の違いを明確にし、それぞれの具体例を挙げて説明せよ。
A5: シグナリングは情報を多く持つ側(情報優位者)が能動的に信頼可能な情報を発信する行動であり、スクリーニングは情報を持たない側(情報劣位者)が複数の選択肢を設計して相手方の自己選択を通じて情報を抽出するメカニズムである。シグナリングの具体例としては、スペンスの教育シグナリング・モデルがある。労働者(情報優位者)が学歴を取得することで自らの能力の高さを雇用主に伝達する。スクリーニングの具体例としては、保険会社(情報劣位者)が免責額の異なる複数のプランを提示し、加入者(情報優位者)の選択行動を通じてリスク水準を識別する方法がある。シグナリングは情報優位者が費用を負担してシグナルを発する点、スクリーニングは情報劣位者がメニューを設計する点で、情報伝達のイニシアチブの所在が異なる。