Module 2-5 - Section 4: 配当政策¶
セクション情報¶
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| モジュール | Module 2-5: コーポレート・ファイナンス |
| 前提セクション | Section 3 |
| 想定学習時間 | 3時間 |
導入¶
Section 3では、企業の資金調達における負債と株主資本の最適な組み合わせ、すなわち資本構成の問題を扱った。本セクションでは、企業が獲得した利益をどのように株主に還元するかという配当政策(Dividend Policy)の問題を取り上げる。
配当政策は、コーポレート・ファイナンスにおける三大意思決定(投資決定・資金調達決定・配当決定)の一角を占める。企業は利益を内部留保して再投資に充てるか、配当として株主に分配するかを選択しなければならない。この選択が企業価値に影響を及ぼすのか否かは、ファイナンス理論における根本的な問いの一つである。
Modigliani and Miller(1961)は、Section 3で扱った資本構成無関連命題と同様の論理構造で、完全市場の仮定の下では配当政策もまた企業価値に無関連であることを示した。しかし、税制・情報の非対称性・エージェンシー問題といった現実の市場摩擦を導入すると、配当政策は企業価値に影響を及ぼしうる。本セクションでは、配当に関する主要な理論的立場を整理し、さらに近年存在感を増す自社株買いとの比較を行う。
配当無関連命題¶
Miller-Modiglianiの配当無関連命題¶
Key Concept: 配当無関連命題(Dividend Irrelevance Proposition) Miller and Modigliani(1961)が示した命題。完全市場の仮定の下では、企業の配当政策は企業価値(株主の富)に影響を及ぼさない。企業価値は投資政策(将来キャッシュフローの生成能力)によってのみ決定される。
Miller and Modigliani(以下MM)は、1961年の論文 "Dividend Policy, Growth, and the Valuation of Shares" において、以下の仮定を置いた上で配当無関連命題を導出した。
完全市場の仮定: 1. 法人税・個人所得税が存在しない 2. 株式の発行・取引に伴うコスト(取引コスト、発行コスト)が存在しない 3. すべての市場参加者が同一の情報を有する(情報の非対称性がない) 4. 経営者は株主価値の最大化のために行動する(エージェンシー問題がない) 5. 株式は無限に分割可能である
これらの仮定の下でMMが示した論理は以下の通りである。企業の投資政策が所与であるとき、配当を増額するために必要な資金は新株発行によって調達される。新株発行は既存株主の持分を希薄化するため、配当の増額分は株式価値の低下によって正確に相殺される。逆に、配当を減額すれば内部留保が増加し、新株発行の必要性が減少するため、既存株主の持分希薄化が縮小して株式価値が上昇する。いずれの場合も、配当と資本利得(Capital Gain)の合計である総リターンは同一となる。
自家製配当の議論¶
Key Concept: 自家製配当(Homemade Dividends) 投資家が保有株式の一部を売却することで、企業の配当政策とは独立に、自ら望む現金受取パターンを作り出す行為。MM理論の下では、投資家は自家製配当によって任意の配当パターンを複製できるため、企業の配当政策に対して無差別である。
MM理論の重要な帰結の一つが自家製配当(Homemade Dividends)の議論である。以下の数値例で確認する。
数値例: ある投資家がA社の株式を100株保有しており、現在の株価は1株あたり10,000円(保有時価総額100万円)であるとする。
- シナリオ1(A社が1株500円の配当を支払う場合): 投資家は配当として50,000円を受け取る。配当落ち後の株価は9,500円となり、保有株式の時価は950,000円となる。配当+株式時価=50,000円+950,000円=1,000,000円。
- シナリオ2(A社が配当を支払わない場合): 投資家が50,000円の現金を必要とする場合、5株を売却する(5株×10,000円=50,000円)。残り95株の時価は950,000円。現金+株式時価=50,000円+950,000円=1,000,000円。
いずれのシナリオでも投資家の富の合計は1,000,000円で同一である。投資家は企業の配当政策にかかわらず、株式の売却によって任意の「配当」を自ら生み出すことができる。これが自家製配当の議論の核心であり、完全市場の下では配当政策に対する投資家の選好は存在しないことを意味する。
配当無関連命題の意義¶
配当無関連命題の理論的貢献は、資本構成無関連命題と同様、「配当政策が企業価値に影響を及ぼすとすれば、それは完全市場の仮定からの乖離(市場の不完全性)に起因する」という分析枠組みを提供した点にある。以下で扱う諸理論は、いずれもこの不完全性のどの側面に注目するかによって分類される。
配当に関する対立的理論¶
バード・イン・ハンド理論¶
Key Concept: バード・イン・ハンド理論(Bird-in-the-Hand Theory) Gordon(1962)およびLintner(1963)が主張した理論。投資家は不確実な将来の資本利得よりも、確実な現在の配当を選好するため、高配当企業ほど株主資本コストが低下し、企業価値が高くなるとする。
Myron J. Gordon(1962)とJohn Lintner(1963)は、配当と資本利得の間にはリスクの質的な差異が存在すると主張した。配当は企業から直接支払われる確定的な現金フローであるのに対し、資本利得は将来の株価変動に依存する不確実な収益である。投資家がリスク回避的であるならば、同額の期待リターンであっても確実な配当をより高く評価する。したがって、高い配当性向を維持する企業の株主資本コストは低下し、結果として企業価値が上昇する。
この理論の名称は英語の格言 "A bird in the hand is worth two in the bush"(手中の一羽は藪の中の二羽に値する)に由来する。
MMはこの議論に対し、「配当落ち」の効果によって配当の支払い分だけ株価が下落するため、配当自体は投資家のリスクを低減しないと反論した。すなわち、配当のリスクは企業の事業リスク(基礎的キャッシュフローのリスク)によって決定されるのであり、利益の分配方法を変えても事業リスク自体は変化しないという論理である。この論争は理論的に完全には決着しておらず、実証研究でも明確な結論は得られていない。
シグナリング仮説¶
Key Concept: シグナリング仮説(Signaling Hypothesis) 経営者と投資家の間に情報の非対称性が存在する状況において、配当の変更が企業の将来収益に関する経営者の私的情報を市場に伝達するシグナルとして機能するとする仮説。Bhattacharya(1979)、Miller and Rock(1985)らによって理論的に精緻化された。
現実の市場では、経営者は企業の将来キャッシュフローに関して投資家より優れた情報を保有している。この情報の非対称性の下で、配当の変更は経営者の持つ私的情報を市場に伝達するシグナルとして機能しうる。
シグナルとしてのメカニズム:
増配は、経営者が将来の利益水準を持続的に高い水準で維持できると確信していることの表明と解釈される。配当は一度増額すると減配が困難である(減配は極めてネガティブなシグナルとなる)ため、将来の利益が増配水準を維持できない企業の経営者は、安易に増配を行うことができない。このコミットメントの性質が、配当をクレディブル(信用に足る)なシグナルたらしめる。
理論的発展: - Bhattacharya(1979): 配当が将来キャッシュフローのシグナルとして機能する最初の形式モデルを構築した。配当を支払う企業は外部資金調達コストという「シグナリング・コスト」を負担するが、この負担は将来のキャッシュフローが十分に大きい企業にとってのみ合理的であるため、配当がシグナルとして成立する - Miller and Rock(1985): 配当が企業利益に関する情報を提供するモデルを構築した。経営者は投資決定と配当決定を通じて、利益水準についての私的情報を市場に伝達する
実証的知見:
配当の変更アナウンスメントに対する株価反応に関する実証研究は、シグナリング仮説を概ね支持する結果を示している。増配発表時には株価が有意に上昇し、減配発表時には株価が有意に下落するというパターンが、多くの市場において観察されている。ただし、株価反応が「シグナルの受信」によるものなのか、後述するフリーキャッシュフロー仮説で説明される「経営者の規律付けへの期待」によるものなのかを識別することは、実証的に容易ではない。
エージェンシー理論的説明¶
Key Concept: フリーキャッシュフロー仮説(Free Cash Flow Hypothesis) Jensen(1986)が提唱した仮説。NPVが正の投資機会を超える余剰キャッシュフロー(フリーキャッシュフロー)を経営者が裁量的に保有すると、不採算な投資や過大な経費支出などエージェンシー・コストが増大する。配当の支払いはこのフリーキャッシュフローを削減し、経営者の裁量を制約することで株主価値を保全する。
Section 3で扱ったエージェンシー問題は、配当政策にも重要な含意を持つ。Michael C. Jensen(1986)は、企業がNPVが正の投資機会をすべて実行した後にも余剰のキャッシュフロー(フリーキャッシュフロー)を保有する場合、経営者がこれを非効率な投資(負のNPVプロジェクトへの投資)、過大な経費支出、あるいは自己の利益追求に費消する誘因が生じると論じた。
配当の支払いは、このフリーキャッシュフローを経営者の手元から株主に移転することで、経営者の裁量を制約する規律付けメカニズムとして機能する。特に以下の条件を満たす企業において、配当による規律付けの効果が大きいとされる。
- 成熟産業に属する企業: 成長機会が限られ、多額のフリーキャッシュフローを生成する企業
- 多角化企業: 事業ポートフォリオが広範で、個別投資の効率性を外部から監視しにくい企業
- 株式所有が分散した企業: 大株主による直接的な経営監視が機能しにくい企業
フリーキャッシュフロー仮説によれば、負債(利息支払い義務)と配当は、いずれもフリーキャッシュフローを削減する手段として代替的に機能する。Section 3で扱ったトレードオフ理論における負債の規律付け効果と、ここでの配当の規律付け効果は、同一のエージェンシー問題に対する異なるアプローチとして位置づけられる。
クライアンテル効果¶
Key Concept: クライアンテル効果(Clientele Effect) 税率や取引コストの差異により、投資家は各自の状況に最も有利な配当政策を採る企業の株式を選好する傾向がある。この結果、各企業の株主構成が配当政策に応じて自然に形成される現象をクライアンテル効果と呼ぶ。
MM(1961)自身が認識した効果として、クライアンテル効果がある。投資家は各自の税率、取引コスト、流動性ニーズに応じて、最も有利な配当政策を採る企業の株式を選好する。
税率に基づくクライアンテルの形成:
| 投資家の属性 | 配当選好 | 理由 |
|---|---|---|
| 高税率の個人投資家 | 低配当(資本利得選好) | 配当所得に対する限界税率が高く、課税繰延が可能な資本利得が有利 |
| 非課税の機関投資家(年金基金等) | 配当に対して中立 | 税率の差異が配当選好に影響しない |
| 低税率の個人投資家(退職者等) | 高配当 | 安定的な現金収入を必要とし、株式売却による取引コストを回避したい |
| 法人投資家 | 配当選好(受取配当の益金不算入制度がある場合) | 配当所得に対する実効税率が資本利得より低い場合がある |
クライアンテル効果が成立する場合、各企業は既にその配当政策に適した株主(クライアンテル)を引きつけている。したがって、企業が配当政策を変更すると、既存のクライアンテルが離脱し新たなクライアンテルが形成される過程で調整コストが発生しうるが、均衡状態においては各配当水準に対応するクライアンテルが存在するため、個別企業の配当政策の変更は企業価値に影響を及ぼさないとMMは主張した。
配当政策の理論的整理¶
以下のMermaid図は、配当政策に関する主要理論の関係を整理したものである。
graph TD
MM["配当無関連命題<br/>Miller-Modigliani, 1961"]
PM["完全市場の仮定"]
PM --> MM
MM -->|"仮定の緩和"| IA["情報の非対称性"]
MM -->|"仮定の緩和"| AG["エージェンシー問題"]
MM -->|"仮定の緩和"| TX["税制・取引コスト"]
MM -->|"仮定の緩和"| RP["リスク選好"]
IA --> SH["シグナリング仮説<br/>Bhattacharya, 1979<br/>Miller-Rock, 1985"]
AG --> FCF["フリーキャッシュフロー仮説<br/>Jensen, 1986"]
TX --> CE["クライアンテル効果<br/>MM, 1961"]
RP --> BH["バード・イン・ハンド理論<br/>Gordon, 1962 / Lintner, 1963"]
SH -->|"配当は価値に影響"| REL["配当関連派"]
FCF -->|"配当は価値に影響"| REL
BH -->|"配当は価値に影響"| REL
CE -->|"均衡状態では無関連"| IRREL["配当無関連派"]
MM --> IRREL
各理論の予測を以下の表に整理する。
| 理論 | 配当の企業価値への影響 | メカニズム | 主な仮定の緩和 |
|---|---|---|---|
| 配当無関連命題(MM) | 無関連 | 投資政策のみが企業価値を決定 | なし(完全市場) |
| バード・イン・ハンド理論 | 高配当が価値を高める | 確実な配当を不確実な資本利得より選好 | 投資家のリスク回避 |
| シグナリング仮説 | 増配は正のシグナル | 経営者の私的情報を伝達 | 情報の非対称性 |
| フリーキャッシュフロー仮説 | 配当は価値を保全 | 経営者の裁量を制約 | エージェンシー問題 |
| クライアンテル効果 | 均衡状態では無関連 | 投資家の自己選択で調整 | 税制・取引コスト |
自社株買いとの比較¶
自社株買いのメカニズム¶
Key Concept: 自社株買い(Share Repurchase) 企業が自ら発行した株式を市場から買い戻す行為。買い戻された株式は自己株式(Treasury Stock)となり、消却される場合もある。配当と並ぶ株主還元手段であり、発行済株式数の減少を通じて1株当たり利益(EPS)を押し上げる効果を持つ。
自社株買いは、配当と並ぶ主要な株主還元手段である。企業が自己株式を市場から買い戻すと、発行済株式数が減少し、1株当たり利益(EPS)および1株当たり純資産(BPS)が増加する。
自社株買いの基本的なメカニズム(数値例):
ある企業の税引後利益が10億円、発行済株式数が100万株であるとする。 - 自社株買い前: EPS=10億円÷100万株=1,000円 - 10万株を自社株買いした場合: EPS=10億円÷90万株≒1,111円
EPSが約11%上昇することで、PER(株価収益率)が一定であれば株価も同率で上昇する。
自社株買いの主な方法: 1. 公開市場買付(Open Market Repurchase): 市場を通じて株式を買い付ける方法。最も一般的 2. 公開買付(Tender Offer): 特定の価格で株式を買い取ることを公告し、応募を募る方法 3. 相対取引: 特定の大株主から直接買い付ける方法
配当と自社株買いの理論的等価性¶
MM理論の完全市場の仮定の下では、配当と自社株買いは理論的に等価である。いずれの方法でも同額の現金を株主に還元する場合、株主の富に対する効果は同一となる。
しかし、現実には両者の間に重要な差異が存在する。
配当と自社株買いの比較¶
graph LR
subgraph 配当
D1["全株主に一律分配"]
D2["定期的・継続的"]
D3["減額が困難"]
D4["受取時に課税"]
end
subgraph 自社株買い
R1["参加は任意"]
R2["不定期・柔軟"]
R3["増減が容易"]
R4["売却時に課税"]
end
D1 -.->|"対比"| R1
D2 -.->|"対比"| R2
D3 -.->|"対比"| R3
D4 -.->|"対比"| R4
| 比較項目 | 配当 | 自社株買い |
|---|---|---|
| 対象 | 全株主に一律 | 株式を売却した株主のみ |
| 柔軟性 | 低い(減配は強いネガティブ・シグナル) | 高い(実施の規模・時期を柔軟に調整可能) |
| 継続性の期待 | 高い(市場は継続的な配当を期待) | 低い(一時的な還元として受容される) |
| 課税タイミング | 配当受取時に即時課税 | 株式売却時に課税(課税繰延効果あり) |
| 1株当たり指標への影響 | 直接的な影響なし | 発行済株式数の減少によりEPS等が上昇 |
| シグナル効果 | 将来利益の持続性を示唆 | 経営者が株価を割安と判断していることを示唆 |
税務上の差異¶
配当と自社株買いの間で最も実務的に重要な差異の一つが、税務上の取扱いである。
日本の場合: - 配当所得: 上場株式の配当は、原則として20.315%(所得税15.315%+住民税5%)の申告分離課税が適用される。配当受取時に源泉徴収される - 譲渡所得: 株式の売却益に対しても20.315%の申告分離課税が適用される。ただし課税されるのは売却時点であり、保有期間中は課税が繰り延べられる
税率自体は同一であるが、自社株買いの場合は「課税繰延効果」(Tax Deferral)が生じる点が異なる。投資家が株式を売却しない限り譲渡所得は実現しないため、自社株買いによる株価上昇分に対する課税を将来に繰り延べることができる。この課税繰延の現在価値が正であるため、税制の観点からは自社株買いが投資家にとってやや有利となる。
米国においてはこの差異がより顕著であった。歴史的に、長期キャピタルゲイン税率が配当所得税率を大幅に下回る時期があり、自社株買いが税務上明確に有利であった。2003年のジョブズ・アンド・グロース減税法(Jobs and Growth Tax Relief Reconciliation Act)により適格配当への税率が引き下げられたことで差異は縮小したが、課税繰延効果の優位性は依然として存在する。
日本における自社株買いの動向¶
日本では、2001年の商法改正により自社株買いの原則自由化が実現した。それ以降、自社株買いは着実に増加してきたが、特に2023年以降に顕著な加速がみられる。
転換点としての東京証券取引所の要請(2023年):
2023年3月、東京証券取引所は上場企業に対して「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応」を要請した。特にPBR(株価純資産倍率)が1倍を下回る企業に対して、資本効率の改善と株主還元の充実を求めた。この要請を契機に、多くの日本企業が自社株買いを含む株主還元策を拡充する方針を打ち出した。
日米比較:
総還元性向(配当+自社株買い÷純利益)でみると、米国企業は80%を超える水準にあるのに対し、日本企業は50%程度にとどまる。また、自社株買いが総還元に占める比率も、米国の約50%に対し日本は約30%と低い。ただし、東証の要請以降この格差は縮小傾向にあり、2024年には上場企業による自社株買いが過去最高を更新し、2025年もそれを上回るペースで増加している。
この動向は、日本企業のコーポレート・ガバナンス改革と軌を一にするものであり、エージェンシー理論の観点からは、外部からの規律付け圧力(東証の要請、機関投資家の議決権行使方針の厳格化)がフリーキャッシュフローの効率的な分配を促進した事例として解釈できる。
まとめ¶
- 配当無関連命題(MM, 1961): 完全市場の仮定の下では、配当政策は企業価値に影響を及ぼさない。投資家は自家製配当により任意の現金受取パターンを複製可能である
- バード・イン・ハンド理論(Gordon, Lintner): 投資家は不確実な資本利得より確実な配当を選好するため、高配当が企業価値を高めるとする。ただしMMの反論があり、理論的には決着していない
- シグナリング仮説: 情報の非対称性の下で、配当変更は経営者の私的情報を伝達するシグナルとして機能する。増配時の株価上昇・減配時の株価下落という実証パターンと整合的である
- フリーキャッシュフロー仮説(Jensen, 1986): 配当はフリーキャッシュフローを経営者の裁量から削減する規律付けメカニズムとして機能し、エージェンシー・コストを低減する
- クライアンテル効果: 税率や取引コストの差異により、投資家は各自に有利な配当政策の企業を選好する。均衡状態では個別企業の配当政策変更は企業価値に無関連となる
- 自社株買い: 配当と並ぶ株主還元手段であり、課税繰延効果と柔軟性の点で配当に対して優位性を持つ。日本では2023年の東証要請以降、急速に普及が進んでいる
- 次のSection 5では、本セクションまでの理論的枠組みを統合し、企業価値評価の具体的な手法(DCF法等)を扱う
用語集(Glossary)¶
| 用語 | 英語表記 | 定義 |
|---|---|---|
| 配当無関連命題 | Dividend Irrelevance Proposition | 完全市場の仮定の下では配当政策が企業価値に影響しないとするMM(1961)の命題 |
| 自家製配当 | Homemade Dividends | 投資家が保有株式の一部を売却して自ら望む現金受取パターンを作り出す行為 |
| バード・イン・ハンド理論 | Bird-in-the-Hand Theory | 確実な配当が不確実な資本利得より選好されるため高配当が企業価値を高めるとする理論 |
| シグナリング仮説 | Signaling Hypothesis | 配当変更が経営者の私的情報を市場に伝達するシグナルとして機能するとする仮説 |
| フリーキャッシュフロー仮説 | Free Cash Flow Hypothesis | 余剰キャッシュフローの配当による削減が経営者の規律付けとして機能するとするJensen(1986)の仮説 |
| クライアンテル効果 | Clientele Effect | 税率等の差異により投資家が各自に有利な配当政策の企業を選好し株主構成が形成される現象 |
| 自社株買い | Share Repurchase | 企業が自ら発行した株式を市場から買い戻す株主還元手段 |
| 課税繰延効果 | Tax Deferral Effect | 資産売却まで課税が繰り延べられることによる時間価値上の利益 |
| 総還元性向 | Total Payout Ratio | 配当と自社株買いの合計額を純利益で除した比率 |
| 配当性向 | Dividend Payout Ratio | 配当総額を純利益で除した比率 |
確認問題¶
Q1: 配当無関連命題(MM, 1961)が成立するための主要な前提条件を4つ挙げ、それぞれがなぜ必要であるかを説明せよ。
A1: (1) 法人税・個人所得税が存在しない: 税制が存在すると配当と資本利得の税引後リターンに差異が生じ、投資家の選好が発生するため。(2) 取引コスト・発行コストが存在しない: 取引コストが存在すると自家製配当の完全な複製が不可能になるため。(3) 情報の非対称性がない: 情報の非対称性が存在すると配当がシグナルとして機能し、配当政策が情報伝達効果を持つため。(4) エージェンシー問題がない: エージェンシー問題が存在すると配当が経営者の規律付けメカニズムとして機能し、配当政策が企業価値に影響するため。
Q2: シグナリング仮説とフリーキャッシュフロー仮説は、いずれも「増配が株価上昇をもたらす」と予測する点で共通する。両仮説が想定するメカニズムの違いを説明せよ。
A2: シグナリング仮説は、情報の非対称性を前提とし、増配が「経営者が将来の利益水準に自信を持っている」という私的情報の伝達(シグナル)として機能するメカニズムを想定する。株価上昇は投資家が将来キャッシュフローの予測を上方修正することによる。一方、フリーキャッシュフロー仮説は、エージェンシー問題を前提とし、増配が「フリーキャッシュフローの経営者の裁量的使用の削減」という規律付けメカニズムとして機能する点を重視する。株価上昇は経営者の過剰投資リスクの低下による企業価値の保全への期待による。前者は情報効果、後者はガバナンス効果に基づく説明である。
Q3: ある成熟企業が多額のフリーキャッシュフローを保有しており、有望な投資機会が乏しい状況にある。この企業が株主還元を行う場合、配当増額と自社株買いのそれぞれの利点を、エージェンシー理論とシグナリング仮説の観点から分析せよ。
A3: エージェンシー理論の観点: 配当増額は継続的なコミットメントとなるため、将来にわたってフリーキャッシュフローを経営者の裁量から削減する強い規律付け効果を持つ。減配は極めて困難であるため、経営者は「約束」を履行し続ける必要がある。一方、自社株買いは一時的な施策であり、将来の実施を義務付けるものではないため、規律付け効果は配当より弱い。シグナリング仮説の観点: 配当増額は将来の利益水準の持続性に対する自信のシグナルとなる。自社株買いは、経営者が現在の株価を割安と判断していることのシグナルとなる。成熟企業で投資機会が乏しい状況では、配当増額による「継続的利益の持続性」のシグナルがより適切であると考えられるが、自社株買いは柔軟性と課税繰延効果の面で優位であり、両手段の併用が実務的には一般的である。
Q4: 日本において2023年以降に自社株買いが急増した背景を、コーポレート・ガバナンスとエージェンシー理論の枠組みで説明せよ。
A4: 2023年に東京証券取引所が上場企業に対して「資本コストや株価を意識した経営」を要請し、特にPBR1倍割れ企業に資本効率の改善を求めた。これはエージェンシー理論の枠組みでは、外部のガバナンス機構(取引所の規制・要請、機関投資家の議決権行使方針の厳格化)が、経営者にフリーキャッシュフローの効率的な分配を強制する規律付け圧力として機能したと解釈できる。従来、日本企業は内部留保を厚く保持する傾向があり、エージェンシー・コストが高い状態にあったが、この外部圧力により自社株買いを含む株主還元が加速し、資本効率の改善が進んだ。これは市場の自律的メカニズムだけではエージェンシー問題が十分に解決されず、制度的介入が有効であった事例といえる。