Module 2-5 - Section 5: 企業価値評価¶
セクション情報¶
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| モジュール | Module 2-5: コーポレート・ファイナンス |
| 前提セクション | Section 2, 3 |
| 想定学習時間 | 3時間 |
導入¶
企業価値評価(Valuation)は、コーポレート・ファイナンスにおける中核的な実務領域である。M&A(合併・買収)の価格算定、IPO(新規株式公開)の発行価格決定、投資判断、さらには事業再編や訴訟における価値算定など、広範な場面で企業の経済的価値を定量化する必要が生じる。
本セクションでは、企業価値評価の2つの主要アプローチを体系的に扱う。第一はDCF法(Discounted Cash Flow Method)であり、企業が将来生み出すキャッシュフローの現在価値に基づいて企業の本源的価値(Intrinsic Value)を算出する手法である。Section 2で扱ったNPV法の考え方を企業全体に拡張したものと位置づけられる。第二はマルチプル法(Multiple Valuation)であり、類似企業の市場評価に基づいて相対的な企業価値を推定する手法である。
DCF法ではSection 3で導入したWACCが割引率として使用され、フリーキャッシュフロー(FCF)の予測が基盤となる。マルチプル法はPER・PBR・EV/EBITDAといった指標を用い、市場データから迅速に企業価値を推定する。実務では両手法を組み合わせて使用し、一方の結果を他方でクロスチェックすることが標準的である。
DCF法(Discounted Cash Flow Method)¶
Key Concept: DCF法(Discounted Cash Flow Method) 企業が将来生み出すと予測されるフリーキャッシュフローを、資本コスト(WACC)で現在価値に割り引くことにより企業価値を算出する手法。企業の本源的価値(Intrinsic Value)を理論的に導出するインカム・アプローチの代表的手法であり、ファイナンス理論上最も正統な企業価値評価手法とされる。
DCF法は、Section 2で扱ったNPV法の論理を個別プロジェクトから企業全体へと拡張したものである。NPV法が個別投資プロジェクトのキャッシュフローを割り引いて投資判断を行うのに対し、DCF法は企業全体が生み出すキャッシュフローを割り引いて企業価値(Enterprise Value)を算出する。
フリーキャッシュフロー(FCF)の定義と計算¶
Key Concept: フリーキャッシュフロー(Free Cash Flow: FCF) 企業が事業活動から生み出すキャッシュフローのうち、事業の維持・成長に必要な投資を差し引いた後に、資金提供者(債権者と株主)に分配可能なキャッシュフロー。負債の利払いや配当支払いの前段階のキャッシュフローであり、資本構成に依存しない点が特徴である。
FCFは以下の算式で計算される。
$$\text{FCF} = \text{NOPAT} + \text{減価償却費} - \text{設備投資} - \Delta\text{運転資本}$$
あるいは、等価な表現として:
$$\text{FCF} = \text{EBIT} \times (1 - T_c) + \text{減価償却費} - \text{設備投資} - \Delta\text{運転資本}$$
各構成要素の意味は以下の通りである。
| 構成要素 | 内容 |
|---|---|
| NOPAT(Net Operating Profit After Taxes) | 税引後営業利益。営業利益に $(1 - T_c)$ を乗じた値。利息支払いの影響を含まないため、資本構成に中立な利益指標である |
| 減価償却費 | 非現金支出費用。営業利益の計算で控除されているが現金流出を伴わないため、加算して調整する |
| 設備投資(Capital Expenditures: CapEx) | 有形固定資産・無形固定資産への投資支出。事業の維持・成長に必要な現金流出 |
| 運転資本の増減($\Delta$WC) | 売上債権 + 棚卸資産 − 仕入債務の増減。運転資本の増加は現金の拘束を意味し、FCFを減少させる |
FCFが資本構成に依存しない(利息支払いの前段階である)点は、DCF法においてWACCで割り引く根拠となる。負債と株主資本の両方の資金提供者に帰属するキャッシュフローを、両者の要求収益率の加重平均であるWACCで割り引くことで、理論的な整合性が確保される。
DCF法による企業価値の算出手順¶
DCF法による企業価値の算出は、以下の5つのステップで構成される。
ステップ1: 予測期間の設定
将来のFCFを個別に予測する期間を設定する。一般的には5〜10年が用いられる。予測期間は、事業計画の信頼性が確保できる範囲、および事業が安定成長段階に到達すると見込まれるまでの期間に基づいて決定される。
ステップ2: 予測期間のFCFの推定
事業計画に基づき、予測期間各年のFCFを推定する。売上高成長率、営業利益率、設備投資計画、運転資本の変動等を個別に予測し、FCFの算式に従って算出する。
ステップ3: WACCの算定
Section 3で扱った手順に従い、WACCを算定する。株主資本コスト(CAPMで推定)と税引後負債コストを時価ウェイトで加重平均する。
ステップ4: ターミナルバリューの推定
予測期間終了後、企業が永続的に事業を継続すると仮定した場合の価値(ターミナルバリュー)を推定する。詳細は次項で扱う。
ステップ5: 企業価値の算出
予測期間のFCFの現在価値合計とターミナルバリューの現在価値を合算して、企業価値(事業価値)を算出する。
$$\text{EV} = \sum_{t=1}^{n} \frac{\text{FCF}_t}{(1 + \text{WACC})^t} + \frac{\text{TV}}{(1 + \text{WACC})^n}$$
ここで、EVは企業価値(Enterprise Value)、$n$ は予測期間の年数、TVはターミナルバリューである。
株主価値(Equity Value)を求めるには、企業価値から有利子負債を差し引き、非事業用資産(余剰現金、投資有価証券等)を加算する。
$$\text{Equity Value} = \text{EV} - \text{有利子負債} + \text{非事業用資産}$$
graph TD
A["事業計画の策定"] --> B["予測期間FCFの推定"]
A --> C["WACCの算定"]
B --> D["予測期間FCFの現在価値"]
C --> D
C --> F["TVの現在価値"]
A --> E["ターミナルバリューの推定"]
E --> F
D --> G["企業価値 EV"]
F --> G
G --> H["株主価値 Equity Value"]
I["有利子負債の控除"] --> H
J["非事業用資産の加算"] --> H
ターミナルバリュー(Terminal Value)の推定¶
Key Concept: ターミナルバリュー(Terminal Value) DCF法において、予測期間終了後の企業価値を一括して表す値。企業価値全体の60〜80%を占めることも多く、DCF法による評価結果を大きく左右する。永久成長モデルとマルチプル法の2つの推定方法がある。
ターミナルバリューは企業価値全体に占める割合が大きいため、その推定方法の選択と前提条件の設定がDCF法の評価結果を決定的に左右する。
永久成長モデル(Gordon Growth Model)¶
予測期間終了後、FCFが一定の成長率 $g$ で永続的に成長すると仮定する方法である。Section 1で扱った成長型永久年金の公式を応用している。
$$\text{TV} = \frac{\text{FCF}_{n+1}}{{\text{WACC} - g}} = \frac{\text{FCF}_n \times (1 + g)}{{\text{WACC} - g}}$$
ここで $g$ は永久成長率であり、通常は当該国のインフレ率ないし長期的な名目GDP成長率(1〜3%程度)を参考に設定する。$g$ がWACCを上回ると公式が成立しない(負の値または無限大となる)ため、$g < \text{WACC}$ が前提条件となる。
永久成長率の設定は恣意性を伴う。$g$ を1%ポイント変化させるだけでターミナルバリューが大幅に変動するため、感度分析(Sensitivity Analysis)による検証が不可欠である。
マルチプル法によるターミナルバリュー(Exit Multiple法)¶
予測期間最終年度のEBITDAに、類似企業のEV/EBITDA倍率を乗じてターミナルバリューを算出する方法である。
$$\text{TV} = \text{EBITDA}_n \times \text{EV/EBITDA倍率}$$
この方法は、予測期間終了時点で企業を売却するという想定に基づいており、市場で観察される実際の取引倍率を参照するため、実務家に好まれる傾向がある。
2つの方法の比較¶
| 項目 | 永久成長モデル | Exit Multiple法 |
|---|---|---|
| 理論的根拠 | 成長型永久年金の数学的公式 | 市場で観察される取引倍率 |
| 前提条件 | 永久成長率 $g$ の設定 | 適切な比較企業と倍率の選定 |
| 長所 | 理論的整合性が高い | 市場データに基づくため実務的 |
| 短所 | $g$ への感度が極めて高い | 比較企業の選定に主観が入る |
| 推奨される使用法 | Exit Multiple法のクロスチェック | 永久成長モデルのクロスチェック |
実務では、両方の方法でターミナルバリューを算出し、一方の結果が他方と整合的かどうかを確認する(サニティ・チェック)ことが推奨される。永久成長モデルから逆算されるインプライド・マルチプルが、市場で観察される水準と大きく乖離していないかを検証するのが一般的な手順である。
DCF法の計算例¶
以下の前提条件に基づいてDCF法による企業価値を算出する。
前提条件:
| 項目 | 値 |
|---|---|
| 予測期間 | 5年 |
| WACC | 8.0% |
| 永久成長率($g$) | 2.0% |
| 有利子負債 | 300億円 |
| 非事業用資産(余剰現金等) | 50億円 |
予測期間のFCF:
| 年度 | 1年目 | 2年目 | 3年目 | 4年目 | 5年目 |
|---|---|---|---|---|---|
| FCF(億円) | 100 | 110 | 120 | 125 | 130 |
ステップ1: 予測期間FCFの現在価値
$$\text{PV(FCF)} = \frac{100}{1.08^1} + \frac{110}{1.08^2} + \frac{120}{1.08^3} + \frac{125}{1.08^4} + \frac{130}{1.08^5}$$
$$= 92.6 + 94.3 + 95.3 + 91.9 + 88.5 = 462.6 \text{(億円)}$$
ステップ2: ターミナルバリューの算出(永久成長モデル)
$$\text{TV} = \frac{130 \times (1 + 0.02)}{0.08 - 0.02} = \frac{132.6}{0.06} = 2{,}210.0 \text{(億円)}$$
ステップ3: ターミナルバリューの現在価値
$$\text{PV(TV)} = \frac{2{,}210.0}{1.08^5} = \frac{2{,}210.0}{1.469} = 1{,}504.1 \text{(億円)}$$
ステップ4: 企業価値の算出
$$\text{EV} = 462.6 + 1{,}504.1 = 1{,}966.7 \text{(億円)}$$
ステップ5: 株主価値の算出
$$\text{Equity Value} = 1{,}966.7 - 300 + 50 = 1{,}716.7 \text{(億円)}$$
この例では、企業価値全体(1,966.7億円)に占めるターミナルバリューの割合は $1{,}504.1 / 1{,}966.7 = 76.5\%$ である。ターミナルバリューが企業価値の大部分を占めるというDCF法の典型的な特徴が示されている。
DCF法の前提条件と限界¶
DCF法は理論的に最も正統な評価手法とされるが、以下の限界が存在する。
- 将来FCFの予測精度: 5〜10年先のキャッシュフローを正確に予測することは本質的に困難であり、予測の前提条件(売上成長率、営業利益率等)に大きく依存する
- WACCの推定誤差: Section 3で扱ったように、CAPMによる株主資本コストの推定にはベータや市場リスクプレミアムの推定誤差が含まれる
- ターミナルバリューへの依存度: 上記計算例のように、企業価値の60〜80%がターミナルバリューで構成されることが多く、永久成長率や出口マルチプルの小さな変動が評価結果を大きく変える
- 静的なWACCの仮定: DCF法は通常、評価期間を通じてWACCが一定であると仮定するが、実際には資本構成の変化に伴いWACCも変動する
これらの限界を緩和するため、感度分析(WACCと永久成長率を変化させた場合の企業価値の変動幅を分析)やシナリオ分析(楽観・基本・悲観の3シナリオでFCFを予測)が実務では併用される。
マルチプル法(Multiple Valuation)¶
マルチプル法は、類似企業の市場評価指標(マルチプル)を用いて、評価対象企業の相対的な価値を推定する手法である。マーケット・アプローチとも呼ばれ、DCF法(インカム・アプローチ)と並ぶ企業価値評価の主要手法である。
マルチプル法の基本的な考え方は、同一業種・類似規模の企業は市場から類似の評価を受けるはずである、という前提に基づく。上場している類似企業の株価やEV(企業価値)から導出された倍率を、評価対象企業の財務指標に適用することで企業価値を算出する。
主要なマルチプル指標¶
PER(株価収益率)¶
Key Concept: PER(Price Earnings Ratio) 株価を1株当たり当期純利益(EPS)で除した値。株主資本価値(Equity Value)が純利益の何倍で評価されているかを示す。株主価値ベースのマルチプルであり、最も広く用いられるバリュエーション指標の一つである。
$$\text{PER} = \frac{\text{株価}}{\text{EPS}} = \frac{\text{株式時価総額}}{\text{当期純利益}}$$
PERが高い企業は、市場が将来の利益成長を高く期待しているか、またはリスクが低い(投資家の要求収益率が低い)と解釈される。定率で利益が成長する企業のPERは理論的に以下のように表される。
$$\text{PER} = \frac{1 - b}{r_E - g}$$
ここで $b$ は内部留保率、$r_E$ は株主資本コスト、$g$ は利益成長率($g = b \times \text{ROE}$)である。この式から、利益成長率が高いほど、または株主資本コストが低いほど、PERが高くなることが導かれる。
PERの適用上の留意点: - 純利益が赤字の企業には適用できない(PERが負値となり意味をなさない) - 会計基準の違いや特別損益の影響を受ける - 資本構成の影響を受ける(負債比率の異なる企業間の比較には不適切)
PBR(株価純資産倍率)¶
PBR(Price Book-value Ratio)は、株価を1株当たり純資産(BPS: Book Value Per Share)で除した値であり、株主資本が簿価の何倍で市場評価されているかを示す。
$$\text{PBR} = \frac{\text{株価}}{\text{BPS}} = \frac{\text{株式時価総額}}{\text{純資産簿価}}$$
PBR = 1.0は、市場評価と簿価が一致していることを意味する。PBR > 1.0は市場が簿価を上回る超過収益力を認めていることを示し、PBR < 1.0は市場が企業の資産価値に対して割安と評価している(ただし、将来の収益性が低いことの反映である場合もある)。
理論的には $\text{PBR} = \text{PER} \times \text{ROE}$ の関係が成立し、ROEが高い企業ほどPBRが高くなる。
EV/EBITDA¶
Key Concept: EV/EBITDA 企業価値(Enterprise Value)をEBITDA(利払い前・税引前・償却前利益)で除した値。企業価値ベースのマルチプルであり、資本構成・税制・減価償却方法の違いを排除して企業間比較を可能にする。EBITDAの何年分で企業を買収できるかの目安として解釈される。
$$\text{EV/EBITDA} = \frac{\text{Enterprise Value}}{\text{EBITDA}}$$
ここでEnterprise Value(EV)は以下のように計算される。
$$\text{EV} = \text{株式時価総額} + \text{有利子負債} - \text{現金及び現金同等物}$$
EBITDA(Earnings Before Interest, Taxes, Depreciation and Amortization)は以下の通りである。
$$\text{EBITDA} = \text{営業利益} + \text{減価償却費}$$
EV/EBITDAがPERに比べて優れている点は以下の通りである。
| 比較項目 | PER | EV/EBITDA |
|---|---|---|
| 評価対象 | 株主価値(Equity Value) | 企業価値(Enterprise Value) |
| 資本構成の影響 | 受ける(利息費用が純利益に影響) | 受けない(利息支払い前の利益) |
| 税制の影響 | 受ける | 受けない(税引前利益) |
| 減価償却方法の影響 | 受ける | 受けない(償却前利益) |
| 赤字企業への適用 | 不可 | EBITDAが正であれば可 |
このため、EV/EBITDAはM&A実務において最も頻繁に用いられるマルチプルである。企業買収を検討する際、「投資額(EV)を営業キャッシュフローの簡便な代理変数(EBITDA)の何倍で回収できるか」という直観的な解釈が可能な点も、実務家に支持される理由である。
マルチプル法の適用手順¶
マルチプル法による企業価値評価は、以下の手順で実施される。
ステップ1: 比較企業の選定
評価対象企業と以下の点で類似する上場企業を3〜5社程度選定する。 - 事業内容(同一業種、同一セグメント) - 事業規模(売上高、時価総額) - 収益性(営業利益率、ROE) - 成長性(売上成長率、利益成長率) - 地理的市場
比較企業の選定は評価結果に大きな影響を与えるため、選定基準の合理性と透明性が重要である。
ステップ2: マルチプルの算出
選定した比較企業群について、使用するマルチプル(PER、EV/EBITDA等)を算出し、中央値(メディアン)または平均値を求める。外れ値の影響を軽減するために中央値が好まれることが多い。
ステップ3: 対象企業への適用
比較企業群のマルチプルを評価対象企業の財務指標に乗じて、企業価値または株主価値を算出する。
計算例: EV/EBITDAを用いた評価
評価対象企業X社のEBITDAが150億円であり、比較企業群のEV/EBITDA倍率が以下の通りであるとする。
| 比較企業 | EV/EBITDA |
|---|---|
| A社 | 8.5倍 |
| B社 | 9.2倍 |
| C社 | 7.8倍 |
| D社 | 10.1倍 |
| 中央値 | 8.85倍 |
$$\text{X社のEV} = 150 \times 8.85 = 1{,}327.5 \text{(億円)}$$
X社の有利子負債が200億円、現金が80億円であるとすると:
$$\text{Equity Value} = 1{,}327.5 - 200 + 80 = 1{,}207.5 \text{(億円)}$$
マルチプル法の利点と限界¶
利点: 1. 迅速性: DCF法に比べて計算が簡便であり、迅速に評価結果を得られる 2. 市場整合性: 現在の市場データに基づくため、市場参加者の合意形成に馴染みやすい 3. 客観性: 上場企業の公開データに基づくため、前提条件のバイアスが入りにくい 4. 直観性: 「業界平均の何倍」という形式で結果が表現されるため理解が容易である
限界: 1. 比較企業選定の困難性: 完全に同質の企業は存在せず、選定に主観が入る余地がある 2. 市場環境の影響: 市場全体がバブルまたは低迷期にある場合、マルチプル自体が歪んだ水準にある可能性がある 3. 本源的価値の非反映: 市場価格に基づくため、市場が非効率な場合に本源的価値と乖離する 4. 個別事情の非考慮: 比較企業群の中央値は、評価対象企業固有の成長性やリスクを反映しない
DCF法とマルチプル法の比較・使い分け¶
graph LR
subgraph Valuation ["企業価値評価手法"]
direction TB
IA["インカム・アプローチ"]
MA["マーケット・アプローチ"]
end
IA --> DCF["DCF法"]
DCF --> D1["将来FCFの現在価値"]
DCF --> D2["本源的価値の算出"]
DCF --> D3["主観的前提に依存"]
MA --> MUL["マルチプル法"]
MUL --> M1["類似企業の市場倍率"]
MUL --> M2["相対的価値の算出"]
MUL --> M3["市場環境に依存"]
両手法の体系的な比較は以下の通りである。
| 比較項目 | DCF法 | マルチプル法 |
|---|---|---|
| 理論的基盤 | 将来キャッシュフローの現在価値 | 類似企業の市場評価 |
| 評価の性格 | 本源的価値(Intrinsic Value) | 相対的価値(Relative Value) |
| 主な入力 | FCF予測、WACC、成長率 | 比較企業の市場データ |
| 評価精度の鍵 | FCF予測とWACCの精度 | 比較企業の類似性 |
| 所要時間 | 長い(詳細な分析が必要) | 短い(市場データから迅速に算出) |
| 市場環境の影響 | 間接的(WACCを通じて) | 直接的(マルチプル自体が市場水準) |
| 適用場面 | 詳細なデュー・ディリジェンス、長期投資判断 | 初期的な価値評価、ベンチマーク |
| 非上場企業への適用 | 可能 | 比較企業が上場の場合に限定的に可能 |
実務における使い分け¶
実務では、DCF法とマルチプル法は排他的に用いられるのではなく、相互補完的に使用される。
- クロスチェック: DCF法で算出した企業価値が、マルチプル法で得られるレンジ内にあるかを検証する。大きな乖離がある場合は、DCF法の前提条件(FCF予測、WACC、成長率)を再検討する契機となる
- バリュエーション・レンジの構築: 複数の手法による評価結果を並べて「フットボール・チャート」(評価レンジを横棒グラフで示した図)を作成し、妥当な価値のレンジを示すのが実務の標準的な手法である
- 場面に応じた主手法の選択: M&Aにおける本格的な価格算定ではDCF法が主手法となり、マルチプル法が補助的に用いられることが多い。一方、初期的なスクリーニングや簡便な評価ではマルチプル法が先行して用いられる
まとめ¶
- DCF法は企業が将来生み出すFCFをWACCで割り引いて企業価値を算出する手法であり、ファイナンス理論上最も正統な評価手法である。ただし、FCF予測の精度とターミナルバリューへの高い依存度が実務上の課題となる
- FCFは税引後営業利益に減価償却費を加算し、設備投資と運転資本増加を差し引いて算出される。資本構成に中立なキャッシュフローであり、WACCで割り引く根拠となる
- ターミナルバリューは永久成長モデルとExit Multiple法の2つの方法で推定され、企業価値全体の60〜80%を占める。両方の方法による相互検証が推奨される
- マルチプル法はPER・PBR・EV/EBITDA等の指標を用い、類似企業の市場評価から相対的な企業価値を推定する。迅速かつ市場整合的である一方、比較企業の選定と市場環境への依存が課題となる
- EV/EBITDAは資本構成・税制・減価償却方法の影響を排除でき、M&A実務で最も頻繁に用いられるマルチプルである
- 実務ではDCF法とマルチプル法を組み合わせ、一方の結果を他方でクロスチェックすることが標準的な手法である
Module 2-5全体の振り返り:
本モジュール(コーポレート・ファイナンス)では、Section 1の貨幣の時間価値とリスク・リターンの基礎理論から出発し、Section 2で投資決定の手法(NPV法、IRR法等)、Section 3で資本コスト(CAPM、WACC)と資本構成(MM理論、トレードオフ理論、ペッキング・オーダー理論)、Section 4で配当政策を扱った。本Section 5の企業価値評価は、これらすべての概念を統合する応用領域である。NPV法の論理がDCF法として企業全体に拡張され、WACCが割引率として使用され、FCFという資本構成に中立なキャッシュフロー概念が評価の基盤となる。コーポレート・ファイナンスの理論体系は、最終的に「企業価値の最大化」という目標に収斂するのであり、企業価値評価はその目標の達成度を測定する手段として、本モジュールの到達点に位置づけられる。
用語集(Glossary)¶
| 用語 | 英語表記 | 定義 |
|---|---|---|
| DCF法 | Discounted Cash Flow Method | 将来のFCFをWACCで現在価値に割り引いて企業価値を算出する評価手法 |
| フリーキャッシュフロー | Free Cash Flow (FCF) | 事業活動から生み出されるキャッシュフローのうち、資金提供者に分配可能な金額。NOPAT + 減価償却費 − 設備投資 − 運転資本増減で算出 |
| ターミナルバリュー | Terminal Value | DCF法において予測期間終了後の企業価値を一括表示する値。企業価値全体の60〜80%を占めることが多い |
| 企業価値 | Enterprise Value (EV) | 株式時価総額 + 有利子負債 − 現金。負債と株主資本の両方の資金提供者に帰属する事業の総価値 |
| PER | Price Earnings Ratio | 株価 / EPS。株主価値が純利益の何倍で評価されているかを示す指標 |
| EV/EBITDA | EV/EBITDA Multiple | 企業価値 / EBITDA。資本構成・税制・償却方法の差異を排除した企業間比較指標 |
| NOPAT | Net Operating Profit After Taxes | 税引後営業利益。営業利益 ×(1 − 法人税率)。資本構成に中立な利益指標 |
| EBITDA | Earnings Before Interest, Taxes, Depreciation and Amortization | 利払い前・税引前・償却前利益。営業キャッシュフローの簡便な代理指標 |
| 永久成長モデル | Gordon Growth Model | FCFが一定率で永続的に成長すると仮定してターミナルバリューを算出する方法 |
| Exit Multiple法 | Exit Multiple Method | 予測期間最終年度のEBITDA等に市場倍率を乗じてターミナルバリューを算出する方法 |
| PBR | Price Book-value Ratio | 株価 / BPS。株主資本が簿価の何倍で市場評価されているかを示す指標 |
| 感度分析 | Sensitivity Analysis | 主要な前提条件(WACC、成長率等)を変化させた場合の評価結果への影響を分析する手法 |
確認問題¶
Q1: フリーキャッシュフロー(FCF)の構成要素を説明し、FCFが資本構成に依存しない理由を述べよ。
A1: FCFは、NOPAT(税引後営業利益)に減価償却費を加算し、設備投資と運転資本の増加を差し引いて算出される。NOPATは営業利益に(1 − 法人税率)を乗じたものであり、利息費用を控除する前の利益である。すなわちFCFの計算過程には利息支払いが一切含まれないため、負債と株主資本の比率(資本構成)がどのように変化してもFCFの金額は変わらない。この特性により、FCFは負債者と株主の双方に帰属するキャッシュフローを表し、両者の要求収益率の加重平均であるWACCで割り引くことの理論的根拠となる。
Q2: ある企業の5年目のFCFが200億円、WACCが10%、永久成長率が2%であるとき、永久成長モデルによるターミナルバリューを算出せよ。また、永久成長率を3%に変更した場合のターミナルバリューも算出し、永久成長率への感度について論じよ。
A2: 永久成長率2%の場合: $\text{TV} = \frac{200 \times (1 + 0.02)}{0.10 - 0.02} = \frac{204}{0.08} = 2{,}550$(億円)。永久成長率3%の場合: $\text{TV} = \frac{200 \times (1 + 0.03)}{0.10 - 0.03} = \frac{206}{0.07} = 2{,}942.9$(億円)。永久成長率を1%ポイント引き上げるだけでターミナルバリューは約15.4%増加する。ターミナルバリューは企業価値全体の大部分を占めるため、この感度の高さはDCF法全体の評価結果を大きく左右する。したがって、永久成長率の設定は慎重に行い、感度分析によるレンジの提示が不可欠である。
Q3: DCF法とマルチプル法の長所・短所を比較し、実務で両手法を併用する理由を説明せよ。
A3: DCF法の長所は、将来キャッシュフローに基づいて企業の本源的価値を理論的に導出できる点であり、短所はFCF予測の不確実性、WACCの推定誤差、ターミナルバリューへの高い依存度である。マルチプル法の長所は、市場データに基づく迅速かつ直観的な評価が可能な点であり、短所は比較企業の選定が主観的であること、市場全体がバブルや低迷期にある場合にマルチプル自体が歪む可能性があることである。両手法を併用する理由は、一方の結果を他方でクロスチェックすることで評価の信頼性を高められるためである。DCF法で算出した企業価値がマルチプル法のレンジ内に収まるかを確認し、大きな乖離があれば前提条件の見直しの契機とする。また、複数手法による評価レンジを示すことで、単一の点推定に依拠するリスクを軽減できる。
Q4: EV/EBITDAがPERよりもM&A実務で好まれる理由を、両指標の構造的な違いから説明せよ。
A4: PERは株価を1株当たり純利益(EPS)で除した株主価値ベースの指標であり、純利益は利息費用・法人税・減価償却費のすべての影響を受ける。そのため、資本構成(負債比率)、適用税率、減価償却方法が異なる企業間の比較においてPERは歪みを生じる。一方、EV/EBITDAは企業価値(株主資本+有利子負債−現金)をEBITDA(利払い前・税引前・償却前利益)で除した企業価値ベースの指標であり、これら3つの要因をすべて排除した比較が可能である。M&Aでは買収者は株式と負債の両方を引き受けるため企業価値ベースの評価が自然であり、また対象企業と買収者で資本構成や税制が異なることが一般的であるため、これらの差異を排除できるEV/EBITDAが実務上の標準指標として用いられる。
Q5: 以下の条件でDCF法による株主価値を算出せよ。予測期間3年、FCF: 1年目50億円・2年目55億円・3年目60億円、WACC: 9%、永久成長率: 1.5%、有利子負債: 150億円、非事業用資産: 30億円。
A5: 予測期間FCFの現在価値: $\frac{50}{1.09} + \frac{55}{1.09^2} + \frac{60}{1.09^3} = 45.9 + 46.3 + 46.3 = 138.5$(億円)。ターミナルバリュー: $\text{TV} = \frac{60 \times 1.015}{0.09 - 0.015} = \frac{60.9}{0.075} = 812.0$(億円)。TVの現在価値: $\frac{812.0}{1.09^3} = \frac{812.0}{1.295} = 627.0$(億円)。企業価値: $138.5 + 627.0 = 765.5$(億円)。株主価値: $765.5 - 150 + 30 = 645.5$(億円)。なお、ターミナルバリューの現在価値が企業価値全体に占める割合は $627.0 / 765.5 = 81.9\%$ であり、ターミナルバリューへの依存度が極めて高いことが確認できる。