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Module 2-6 - Section 3: 報酬制度

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 2-6: 人的資源管理(HRM)
前提セクション Section 1(戦略的HRMと採用・選考)、Section 2(人材育成と人事評価)
想定学習時間 3時間

導入

Section 1で確認したミシガン・モデルの人的資源サイクルにおいて、報酬(Rewards)は選抜・評価・育成と並ぶ4つの基幹機能の一つに位置づけられる。また、ハーバード・モデルにおいても報酬システムはHRM政策の選択肢の中核をなす。Section 2で扱った人事評価の結果は、報酬決定の直接的な入力となる。すなわち、報酬制度は評価制度と不可分の関係にあり、両者の整合性が組織の動機づけシステム全体の有効性を左右する。

本セクションでは、報酬の構成要素と基本給体系の類型を整理した上で、報酬設計の理論的基盤となるインセンティブ理論(エージェンシー理論、トーナメント理論、効率賃金理論)を検討する。さらに、業績連動報酬制度(成果主義)の設計と課題、非金銭的報酬を含むトータル・リワードの概念、福利厚生制度の設計、および報酬の公平性に関する論点を取り上げる。


報酬の構成要素

報酬の全体構造

組織が従業員に提供する報酬(Compensation / Remuneration)は、金銭的報酬(Financial Rewards)と非金銭的報酬(Non-Financial Rewards)に大別される。金銭的報酬はさらに直接報酬と間接報酬に分類される。

分類 構成要素 具体例
直接報酬 基本給 月例給与、年俸
直接報酬 諸手当 通勤手当、住宅手当、家族手当、役職手当
直接報酬 賞与(ボーナス) 業績賞与、決算賞与
直接報酬 インセンティブ 歩合給、ストックオプション、利益分配
間接報酬 法定福利 健康保険、厚生年金、雇用保険、労災保険
間接報酬 法定外福利 住宅補助、社員食堂、カフェテリアプラン
間接報酬 退職金・年金 確定給付年金、確定拠出年金
非金銭的報酬 内発的報酬 達成感、成長実感、自律性
非金銭的報酬 承認・地位 表彰、職位、キャリア機会
非金銭的報酬 労働環境 柔軟な勤務形態、職場の人間関係

日本企業における報酬の特徴として、諸手当の比重が大きいことが挙げられる。通勤手当、住宅手当、家族手当、時間外手当など多様な手当が基本給に上乗せされ、月例給与の相当部分を構成する。この構造は欧米の「基本給+インセンティブ」を中心とする報酬体系とは対照的である。

賞与(ボーナス)は日本の報酬制度における固有の特徴であり、夏季・冬季の年2回支給が一般的である。賞与は形式上は業績連動とされるが、歴史的には基本給の月数(例:年間4〜6ヶ月分)として比較的固定的に運用されてきた。近年は業績連動部分の比率を高める企業が増加している。

退職金制度は日本の長期雇用慣行と密接に結びついている。伝統的な退職一時金制度に加え、確定給付型企業年金(DB: Defined Benefit)や確定拠出年金(DC: Defined Contribution)への移行が進んでいる。退職金の算定方式は勤続年数と退職時の基本給に連動する方式が一般的であったが、ポイント制退職金制度の導入により、貢献度を反映する仕組みへの転換が進展している。


基本給体系の類型

基本給をどのような基準で決定するかは、報酬制度設計の最も根本的な問題である。基本給体系は大きく3つの類型に分類される。

職務給(Job-Based Pay)

Key Concept: 職務給(Job-Based Pay) 職務(ジョブ)の内容・責任・難易度に基づいて賃金を決定する体系。同一の職務には同一の賃金が支払われる(同一労働同一賃金の原則)。職務分析と職務評価を前提とし、欧米企業で広く採用されている。

職務給は、ジョブ分析(→ Section 1参照)によって職務の内容を明確化し、職務評価(Job Evaluation)によって各職務の相対的価値を序列化した上で、賃金を設定する仕組みである。職務評価の代表的手法には、序列法(Ranking Method)、分類法(Classification Method)、要素比較法(Factor Comparison Method)、点数法(Point Factor Method)がある。点数法は、知識・技能、責任、努力、労働条件などの補償可能要素(Compensable Factors)に点数を配分し、合計点に基づいて職務の等級を決定する。

職務給の最大の利点は透明性と公平性にある。職務の価値に基づくため、属人的な要素(年齢、性別、勤続年数)による恣意的な賃金格差が排除される。一方で、職務記述書の維持・更新に多大な管理コストを要すること、職務の境界が固定的になりやすく組織の柔軟性を阻害する可能性があること、従業員が自身の職務範囲外の業務を避ける傾向(「それは私の仕事ではない」症候群)を助長しうることが課題とされる。

職能給(Competency-Based Pay / Person-Based Pay)

Key Concept: 職能給(Competency-Based Pay / Person-Based Pay) 従業員が保有する職務遂行能力(職能)に基づいて賃金を決定する体系。日本で独自に発展した制度であり、能力の蓄積に応じた昇給を基本とする。1970年代以降、日本企業の主流的賃金体系として定着した。

職能給は、楠田丘らが体系化した「職能資格制度」に基づく日本固有の賃金体系である。従業員の職務遂行能力を等級化し、能力等級に応じて賃金を決定する。職能資格制度は、1960年代後半から1970年代にかけて日本経営者団体連盟(日経連、現在の日本経済団体連合会)の主導により普及した。

職能給の設計思想は、以下の前提に立脚する。

  1. 能力の蓄積性: 職務遂行能力は経験を通じて向上し、一度獲得された能力は失われない
  2. 能力と職務の分離: 賃金は現在遂行している職務ではなく、保有する能力に基づいて決定される
  3. 長期的育成: 長期雇用を前提とした計画的な能力開発と昇格を支援する

この設計思想は日本の長期雇用慣行、企業内人材育成、ジョブ・ローテーションと高い整合性を持つ。しかし、能力の客観的測定が困難であるため、実態として勤続年数が能力の代理指標となり、年功的運用に陥りやすいという構造的問題がある。すなわち、職能給は理論上は能力主義であるが、運用上は年功序列と実質的に同一化する傾向がある。この問題が1990年代以降の「成果主義」導入の直接的な契機となった。

役割給(Role-Based Pay)

役割給は、組織内で担う「役割」の大きさ・重要度に基づいて賃金を決定する体系であり、2000年代以降の日本企業で急速に普及した。職務給の「ジョブの厳格な定義」と職能給の「人の能力への着目」を折衷した、日本的な制度設計といえる。

役割給の特徴は以下の通りである。

特徴 職務給 職能給 役割給
賃金基準 職務の内容 保有能力 担う役割
発祥 欧米 日本 日本(ハイブリッド型)
等級基準 職務記述書 能力要件 役割定義書
昇給原理 職務変更時 能力蓄積 役割変更時
年功性 低い 高い 中程度
柔軟性 低い 高い 中程度
降格・降給 容易 困難 可能

役割給は、職務給ほど職務定義を厳格にせず、一定の曖昧さ(role ambiguity)を許容することで日本の組織文化に適合しつつ、職能給のように年功的昇給が自動的に生じない仕組みを実現する。トヨタ自動車が2021年に管理職向けに導入した役割等級制度や、ソニーが2015年に全面導入した「ジョブグレード制度」は、日本の大手企業における役割給への移行を象徴する事例である。

graph TD
    subgraph 報酬の全体構造
        A["報酬 Total Compensation"] --> B["金銭的報酬"]
        A --> C["非金銭的報酬"]
        B --> D["直接報酬"]
        B --> E["間接報酬"]
        D --> F["基本給"]
        D --> G["諸手当"]
        D --> H["賞与"]
        D --> I["インセンティブ"]
        E --> J["法定福利"]
        E --> K["法定外福利"]
        E --> L["退職金・年金"]
        C --> M["内発的報酬"]
        C --> N["承認・地位"]
        C --> O["労働環境"]
    end

    subgraph 基本給体系の類型
        F --> P["職務給: 仕事基準"]
        F --> Q["職能給: 人基準"]
        F --> R["役割給: 役割基準"]
    end

インセンティブ理論

報酬制度の設計は、単なる賃金水準の決定ではなく、従業員の行動を望ましい方向に誘導するインセンティブ・メカニズムの設計問題である。ここでは、報酬設計の理論的基盤となる3つの主要理論を検討する。

エージェンシー理論(Agency Theory)

Key Concept: エージェンシー理論(Agency Theory) 依頼人(プリンシパル)と代理人(エージェント)の間に情報の非対称性と利害の不一致が存在する状況で、適切なインセンティブ契約を設計することで代理人の行動を依頼人の利益に整合させようとする経済学の理論。マイケル・ジェンセンとウィリアム・メクリング(Michael Jensen & William Meckling, 1976)の「企業の理論」が基礎的枠組みを提供した。

エージェンシー理論の基本モデルは、以下の前提に基づく。

  1. 利害の不一致: プリンシパル(株主・経営者)とエージェント(従業員・経営者)は異なる目的関数を持つ。株主は企業価値最大化を望むが、経営者は自身の報酬・地位・余暇の最大化を選好しうる
  2. 情報の非対称性: プリンシパルはエージェントの行動(努力水準)を完全には観察できない。これが「モラル・ハザード(Moral Hazard)」の原因となる
  3. リスク選好の相違: プリンシパル(株主)はポートフォリオ分散によりリスク中立的であるのに対し、エージェント(従業員)は人的資本の集中によりリスク回避的である

この前提の下で、最適なインセンティブ契約は「インセンティブの強度」と「リスク分担」のトレードオフを解決する必要がある。観察可能な業績指標に報酬を連動させることで努力を誘引するが、業績指標にはエージェントの努力以外の要因(環境の不確実性)も反映されるため、リスク回避的なエージェントに過度のリスクを負わせることになる。ベングト・ホルムストローム(Bengt Holmstrom, 1979)はこの問題を定式化し、最適契約が「情報の原理(Informativeness Principle)」に従うことを示した。すなわち、エージェントの努力に関する情報を含むすべてのシグナルを報酬契約に含めるべきであるという原理である。

CEO報酬への適用と実証研究: エージェンシー理論は、株主と経営者の間のエージェンシー問題を解決する手段としてCEO報酬の設計に広く適用されてきた。ジェンセンとケビン・マーフィー(Jensen & Murphy, 1990)の実証研究は、CEO報酬と企業業績(株主価値の変動)の連動度を分析し、株主価値が1,000ドル変動した場合にCEO報酬は約3.25ドルしか変動しないという低い感応度(pay-performance sensitivity)を報告した。この結果は、CEO報酬のインセンティブ機能が不十分であることを示唆するものとして議論を喚起した。

一方、ルシアン・ベブチュクとジェシー・フリード(Lucian Bebchuk & Jesse Fried, 2004)は『Pay without Performance』において「経営者権力仮説(Managerial Power Approach)」を提唱し、CEO報酬は効率的な契約の結果ではなく、取締役会に対する経営者の影響力行使によるレント抽出であると主張した。最適契約アプローチと経営者権力アプローチのいずれが実態をより適切に説明するかは、現在もなお論争が続いている。

トーナメント理論(Tournament Theory)

Key Concept: トーナメント理論(Tournament Theory) エドワード・ラジアーとシェアウィン・ローゼン(Edward Lazear & Sherwin Rosen, 1981)が提唱した理論で、賃金格差が絶対的な生産性ではなく相対的な順位に基づいて決定される状況を分析する。昇進競争における大きな賃金スプレッド(上位者と下位者の報酬格差)がインセンティブとして機能することを理論的に示した。

トーナメント理論の核心は、報酬を絶対的な業績水準ではなく、他者との相対比較(ランク・オーダー)に基づいて決定するメカニズムにある。このモデルでは、以下のメカニズムが働く。

  1. 賃金スプレッドの効果: 勝者(昇進者)と敗者(非昇進者)の報酬格差が大きいほど、参加者の努力水準は上昇する
  2. 相対評価の利点: 共通のノイズ(外的環境変動)が相殺されるため、個人の努力に対する報酬の感応度が高まる
  3. 階層間の賃金格差: 組織の上位階層に進むほど賃金が加速度的に上昇する「凸型」の賃金構造は、各階層でのトーナメントにおけるインセンティブを確保するために合理的である

実証研究: ロナルド・エーレンバーグとマイケル・ボグナンノ(Ronald Ehrenberg & Michael Bognanno, 1990)は、プロゴルフ(PGAツアー)のデータを用いてトーナメント理論の予測を検証した。分析の結果、トーナメントの賞金総額が大きく、かつ最終ラウンドにおける努力の限界収益が高いほど、選手のスコアが有意に改善することが確認された。具体的には、努力の限界収益が平均より1標準偏差高い選手は、スコアが1.0〜1.7打改善する傾向が見出された。この結果は、報酬格差がインセンティブとして機能するというトーナメント理論の予測と整合する。

トーナメント理論は、CEO報酬が他の役員に比べて突出して高い現象を合理的に説明する。CEO職への昇進をめぐるトーナメントの「賞金」として、大きな賃金格差が正当化されるのである。ただし、過度の競争が同僚間の協力を阻害し、情報の秘匿やサボタージュを誘発するリスクも指摘されている(Lazear, 1989)。

効率賃金理論(Efficiency Wage Theory)

Key Concept: 効率賃金理論(Efficiency Wage Theory) 市場均衡賃金を上回る賃金を支払うことが企業にとって合理的となりうるとする理論。高賃金が労働者の生産性を高める複数のメカニズムを提示し、非自発的失業の存在を説明する。ジョージ・アカロフとジャネット・イエレン(George Akerlof & Janet Yellen, 1984, 1986)らが体系化した。

効率賃金理論は、市場均衡賃金を超える「プレミアム賃金」を支払うことが企業の利益を高める複数のチャネルを特定する。

  1. 怠業防止モデル(Shirking Model): カール・シャピロとジョセフ・スティグリッツ(Shapiro & Stiglitz, 1984)が定式化。高賃金は解雇時の機会費用を高め、従業員の怠業を抑制する。市場賃金で雇用している場合、解雇されても同水準の賃金で再就職できるため、怠業に対するペナルティが小さい。市場均衡を上回る賃金を支払うことで、解雇のコストが高まり、従業員は怠業を自粛する
  2. 離職防止モデル(Turnover Model): 高賃金は自発的離職率を低下させ、採用・訓練コストを削減する
  3. 逆選択モデル(Adverse Selection Model): 高賃金は応募者プール全体の質を向上させる。能力の高い労働者は留保賃金が高いため、低賃金では応募しない
  4. 公正賃金モデル(Fair Wage-Effort Model): アカロフとイエレン(Akerlof & Yellen, 1990)が提唱。従業員は「公正な賃金」の水準を形成し、実際の賃金がそれを下回る場合に努力を引き下げる(reciprocity)

フォードの5ドル日給: 効率賃金理論の最も有名な歴史的事例は、ヘンリー・フォード(Henry Ford)が1914年に導入した「5ドル日給」政策である。当時の自動車産業の平均賃金(日給約2.30ドル)の2倍以上に相当するこの賃金引き上げは、一見すると利潤最大化原理に反するように見える。ダニエル・ラフとローレンス・サマーズ(Daniel Raff & Lawrence Summers, 1987)は、この政策の効果を実証的に分析し、5ドル日給の導入後に以下の現象が生じたことを報告した。

  • 離職率が大幅に低下(年間離職率が370%から16%に減少)
  • 欠勤率が著しく改善
  • 生産性の顕著な上昇
  • フォード社の利潤の増大
  • 求職者の大規模な行列の発生(非自発的失業の証拠)

RaffとSummersは、これらの証拠が効率賃金理論の予測と整合的であると結論づけた。ただし、フォード自身の賃金引き上げの動機については、効率賃金的な計算に基づくものであったか、あるいは賃金と総需要の(誤った)関連づけによるものであったかについて議論がある。

graph LR
    subgraph "エージェンシー理論"
        A1["情報の非対称性"] --> A2["モラル・ハザード"]
        A2 --> A3["業績連動報酬で整合"]
        A3 --> A4["課題: リスク分担"]
    end

    subgraph "トーナメント理論"
        T1["相対的順位に基づく報酬"] --> T2["賃金スプレッド"]
        T2 --> T3["努力水準の上昇"]
        T3 --> T4["課題: 協力の阻害"]
    end

    subgraph "効率賃金理論"
        E1["市場均衡超の高賃金"] --> E2["怠業抑制・離職防止"]
        E2 --> E3["生産性向上"]
        E3 --> E4["課題: 非自発的失業"]
    end

業績連動報酬制度(成果主義)の設計と課題

成果主義の理論的根拠と制度設計

業績連動報酬(Performance-Related Pay: PRP / Pay-for-Performance)は、従業員の報酬の一部または全部を個人・チーム・組織の業績に連動させる仕組みである。エージェンシー理論に基づけば、業績連動報酬は従業員の努力を業績向上に方向づける合理的なインセンティブ・メカニズムである。

業績連動報酬の主要な形態は以下の通りである。

形態 連動基準 適用範囲 具体例
個人業績給 個人の目標達成度 個人 目標管理制度に基づく昇給
歩合給 売上高・契約件数 個人 営業職のコミッション
チーム・インセンティブ チーム業績 チーム プロジェクト完了ボーナス
利益分配(Profit Sharing) 組織全体の利益 全社 利益の一定割合を分配
ゲインシェアリング 生産性向上分 部門 コスト削減分の分配
株式報酬 株価 主に経営層 ストックオプション、RSU

日本における成果主義の導入と挫折

日本企業における成果主義の大規模な導入は、1990年代のバブル崩壊後の経済停滞を背景とする。職能資格制度が実質的に年功賃金と化し、人件費の高止まりと動機づけ機能の喪失が問題視された。

富士通は1993年に日本の大手企業として先駆的に成果主義人事制度を導入した。目標管理制度(MBO: Management by Objectives)に基づく評価と報酬連動の仕組みを全社的に展開したが、導入後に以下の問題が顕在化した。

  1. 短期志向の蔓延: 評価に直結する短期的成果を優先し、長期的な人材育成、基礎研究、組織能力の蓄積が軽視された
  2. 目標の矮小化: 従業員が確実に達成可能な低い目標を設定する傾向(sandbagging)が広がり、挑戦的な目標設定が阻害された
  3. 協力行動の減退: 個人評価に連動する報酬は、同僚への支援・知識共有・チームワークといった組織市民行動(OCB: Organizational Citizenship Behavior)を抑制した
  4. 評価の不透明性: 管理職層の評価基準が不明確であり、一般社員には厳格な目標管理が課される一方、管理職の評価は恣意的であるとの不満が蓄積した
  5. モチベーションの低下: 低評価を受けた従業員の士気低下が深刻化し、組織全体の活力が損なわれた

城繁幸(2004)は『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』において、富士通の成果主義が実質的に機能不全に陥った過程を詳細に記述した。この事例は日本における成果主義議論の象徴的なケースとなり、成果主義を無批判に導入することの危険性を示した。

クラウディング・アウト効果

成果主義の理論的課題として最も重要なのは、外発的報酬が内発的動機づけを阻害する「クラウディング・アウト効果(Crowding-Out Effect)」の問題である。

エドワード・デシ(Edward Deci, 1971)は、実験研究を通じて、金銭的報酬の提供が内発的動機づけ(活動それ自体から得られる満足に基づく動機)を低下させることを発見した。デシとリチャード・ライアン(Deci & Ryan, 1985)は認知的評価理論(Cognitive Evaluation Theory: CET)を構築し、外的報酬が個人の自律性(autonomy)の感覚を損なう場合に内発的動機づけが低下すると理論化した。

デシ、コエストナー、ライアン(Deci, Koestner & Ryan, 1999)による128件の研究を対象としたメタ分析は、以下の知見を提供した。

  • 課題遂行への関与に応じた報酬(engagement-contingent)、課題完了に応じた報酬(completion-contingent)、業績に応じた報酬(performance-contingent)はいずれも、自由選択に基づく内発的動機づけを有意に低下させる
  • 言語的報酬(praise, positive feedback)は内発的動機づけを高める
  • 報酬の「統制的」側面が強いほど、クラウディング・アウト効果は大きい

経済学の立場からは、ブルーノ・フライ(Bruno Frey, 1997)が「動機づけクラウディング理論(Motivation Crowding Theory)」として体系化した。フライは、外的介入が「統制的」と知覚される場合に内発的動機づけが低下(crowding-out)し、「支持的」と知覚される場合には内発的動機づけが促進(crowding-in)されると主張した。

この知見は、報酬制度設計に対して重要な示唆を与える。すなわち、金銭的インセンティブは万能ではなく、特に創造性・自発性・長期的コミットメントが重要な業務においては、過度の業績連動報酬が逆機能的に作用しうるのである。


非金銭的報酬とトータル・リワード

トータル・リワードの概念

Key Concept: トータル・リワード(Total Rewards) 金銭的報酬のみならず、福利厚生、キャリア開発機会、承認、ワーク・ライフ・バランスなど、従業員が組織から受け取る価値の総体。WorldatWork(旧American Compensation Association)が2000年に体系化したモデルが広く参照されている。

伝統的な報酬管理が金銭的報酬(基本給・賞与・手当)の設計に焦点を当ててきたのに対し、トータル・リワードの概念は従業員が組織から受け取るあらゆる形態の価値を包括的に捉える。WorldatWorkのトータル・リワード・モデル(2020年改訂版)は、以下の5つの構成要素を定義する。

  1. 報酬(Compensation): 基本給、変動給(インセンティブ)、短期・長期の業績連動報酬
  2. 福利厚生(Benefits): 法定福利、任意福利、退職給付
  3. ウェルビーイング(Well-Being): 身体的・精神的・財務的健康の支援
  4. キャリア(Careers): 能力開発、キャリアパス、異動・昇進の機会
  5. 承認(Recognition): 正式・非公式の貢献認知、表彰制度

トータル・リワードの意義は、金銭的報酬の増額に限界がある状況(財務的制約、クラウディング・アウト効果の懸念)において、非金銭的報酬を戦略的に組み合わせることで、従業員の引きつけ(attraction)、動機づけ(motivation)、維持(retention)を総合的に実現する点にある。AMO理論(→ Section 1参照)に照らせば、金銭的報酬が主に「動機づけ(Motivation)」に作用するのに対し、トータル・リワードは「能力(Ability)」と「機会(Opportunity)」を含む3要素すべてに働きかける。

非金銭的報酬の類型と効果

非金銭的報酬は大きく以下の類型に分類される。

類型 具体例 理論的根拠
内発的報酬 達成感、成長実感、自律性 自己決定理論(Deci & Ryan)
承認・評価 表彰、感謝の表明、フィードバック 期待理論、公正理論
キャリア機会 昇進、異動、研修、メンタリング 人的資本理論
労働環境 柔軟な勤務形態、安全な職場 ハーズバーグの動機づけ-衛生理論
社会的関係 良好な同僚関係、帰属意識 社会的交換理論

福利厚生制度の設計

法定福利と法定外福利

日本における福利厚生制度は、法定福利厚生と法定外福利厚生に分類される。

法定福利厚生は、法律により企業に拠出が義務づけられている制度であり、以下を含む。 - 健康保険(労使折半) - 厚生年金保険(労使折半) - 雇用保険(労使負担比率あり) - 労災保険(全額事業主負担) - 介護保険(40歳以上、労使折半) - 子ども・子育て拠出金(全額事業主負担)

法定外福利厚生は、企業が任意に実施する制度であり、住宅関連(社宅、住宅手当、住宅ローン補助)、健康関連(人間ドック補助、フィットネス施設)、自己啓発関連(資格取得支援、語学研修)、余暇関連(保養所、レクリエーション活動)、財産形成関連(財形貯蓄、持株会)など多岐にわたる。

カフェテリアプラン

カフェテリアプラン(Cafeteria Plan / Flexible Benefits)は、企業が用意した福利厚生メニューの中から、従業員が一定のポイント(予算)の範囲内で自らのニーズに合った制度を選択する仕組みである。1980年代にアメリカで発展し、日本ではベネッセコーポレーションが1995年に初めて導入した。

カフェテリアプランの利点は、従業員の多様なライフスタイル・ライフステージに対応できること、従業員の選択による福利厚生の「実感」を高められること、企業の総コストを管理しやすいことにある。課題としては、制度設計と管理運用の複雑さ、税務上の取扱いに関する不確実性、ポイントの未消化問題(use-it-or-lose-it)などが挙げられる。


報酬の公平性

内部公平性(Internal Equity)

Key Concept: 内部公平性(Internal Equity) 組織内の異なる職務間で、職務の相対的価値に応じた公正な報酬格差が維持されている状態。職務評価により各職務の価値を測定し、等級(pay grade)と賃金帯(pay band)を設定することで実現する。

内部公平性は、組織内部における報酬の公正さに関する概念であり、「同一の組織内で、より価値の高い仕事に対してはより高い報酬が支払われるべきである」という原則に基づく。ジョン・スタシー・アダムズ(J. Stacy Adams, 1963)の公正理論(Equity Theory)が理論的基盤を提供する。公正理論によれば、従業員は自身の「投入と成果の比率(input-output ratio)」を他者のそれと比較し、不均衡を知覚した場合に動機づけが低下する。

内部公平性を確保する主要な手段は職務評価であり、前述の点数法が最も広く利用されている。職務評価の結果に基づいて賃金等級を設定し、各等級に賃金帯(最低額・中間値・最高額)を設定する。これにより、組織内の報酬体系に一貫した論理的構造が与えられる。

外部競争力(External Competitiveness)

外部競争力は、組織の報酬水準が外部労働市場における同等の職務の報酬水準と比較して競争力を持つか否かに関する概念である。外部競争力の確保は、優秀な人材の引きつけと維持に直結する。

外部競争力を把握するために、企業は報酬サーベイ(Compensation Survey / Salary Survey)を実施または参照する。報酬サーベイは、同業他社や地域の労働市場における賃金データを収集し、ベンチマーク職務(benchmark jobs)の報酬水準を比較する。企業は自社の報酬ポジショニング戦略として、市場の中央値(50パーセンタイル)に合わせる「マッチ戦略」、市場を上回る「リード戦略」、市場を下回る「ラグ戦略」のいずれかを選択する。

内部公平性と外部競争力の両立

報酬制度設計における根本的なジレンマは、内部公平性と外部競争力が相互に矛盾しうることにある。たとえば、IT人材の市場報酬が高騰した場合、外部競争力を確保するためにIT職の報酬を引き上げると、同等の社内等級に属する他職種との内部公平性が損なわれる。この「報酬の圧縮(Pay Compression)」や「報酬の逆転(Pay Inversion)」は、既存従業員の不満と離職を引き起こしうる。

この問題の解決策として、以下のアプローチが採られる。

  • 市場給与帯の導入: 需給がひっ迫する職種に対して、標準的な賃金帯とは別の市場調整手当(market adjustment)を設定する
  • ブロードバンディング(Broadbanding): 伝統的な多段階の賃金等級を少数の広い賃金帯に統合し、管理職の裁量で市場対応を可能にする
  • 定期的な報酬レビュー: 年次の報酬サーベイと内部分析を実施し、格差を是正する

まとめ

  • 報酬は金銭的報酬(直接報酬・間接報酬)と非金銭的報酬で構成され、日本企業では諸手当と賞与の比重が高い特徴がある
  • 基本給体系は職務給(仕事基準)、職能給(人基準)、役割給(ハイブリッド型)の3類型に大別される。日本では職能給が主流であったが、年功的運用の弊害から役割給への移行が進んでいる
  • インセンティブ理論として、エージェンシー理論(業績連動報酬によるインセンティブ整合)、トーナメント理論(相対的順位に基づく報酬格差の効果)、効率賃金理論(市場均衡超の賃金による生産性向上)の3理論が報酬設計の理論的基盤を提供する
  • 業績連動報酬(成果主義)は短期志向、目標の矮小化、協力行動の減退等の副作用が生じうる。富士通の事例は、制度設計の不備がもたらす帰結を示す代表的ケースである
  • デシらのクラウディング・アウト効果は、外発的報酬が内発的動機づけを阻害する可能性を示し、金銭的インセンティブの万能性に疑問を呈する
  • トータル・リワードの概念は、報酬・福利厚生・ウェルビーイング・キャリア・承認を包括的に捉え、金銭的報酬の限界を非金銭的報酬で補完する戦略を提供する
  • 報酬制度は内部公平性(組織内の公正な格差)と外部競争力(労働市場における競争力)の両立を図る必要がある
  • 次セクション(Section 4)では、これらの報酬制度が日本的雇用システム(終身雇用、年功賃金、企業別組合)の中でどのように機能し、変容してきたかを検討する

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
職務給 Job-Based Pay 職務の内容・責任・難易度に基づいて賃金を決定する体系。同一職務には同一賃金が支払われる
職能給 Competency-Based Pay / Person-Based Pay 従業員が保有する職務遂行能力に基づいて賃金を決定する体系。日本で独自に発展した
エージェンシー理論 Agency Theory プリンシパルとエージェントの利害不一致と情報非対称性の下で最適インセンティブ契約を設計する理論
トーナメント理論 Tournament Theory 報酬が絶対的業績ではなく相対的順位に基づいて決定される状況を分析し、賃金格差のインセンティブ効果を示す理論
効率賃金理論 Efficiency Wage Theory 市場均衡賃金を上回る賃金支払いが企業にとって合理的となりうることを示す理論
トータル・リワード Total Rewards 金銭的報酬・福利厚生・ウェルビーイング・キャリア・承認を包括する、従業員が組織から受け取る価値の総体
内部公平性 Internal Equity 組織内の異なる職務間で職務の相対的価値に応じた公正な報酬格差が維持されている状態
職務評価 Job Evaluation 各職務の組織に対する相対的価値を体系的に測定・序列化するプロセス
報酬サーベイ Compensation Survey 外部労働市場における報酬水準データを収集・比較するための調査
クラウディング・アウト効果 Crowding-Out Effect 外発的報酬の提供が内発的動機づけを低下させる現象
カフェテリアプラン Cafeteria Plan 従業員が一定のポイント範囲内で福利厚生メニューを自由に選択できる制度
ブロードバンディング Broadbanding 多段階の賃金等級を少数の広い賃金帯に統合する賃金制度設計手法

確認問題

Q1: 職務給と職能給の基本的な設計思想の違いを、賃金決定基準、昇給の原理、年功性の程度の3点から説明せよ。

A1: 職務給は「仕事」を基準とし、職務分析・職務評価によって測定された職務の内容・責任・難易度に基づいて賃金を決定する。昇給は原則として職務変更(より高い等級の職務への異動)時にのみ生じ、同一職務に留まる限り賃金は変動しない。そのため年功性は低い。一方、職能給は「人」を基準とし、従業員が保有する職務遂行能力(職能)に基づいて賃金を決定する。昇給は能力の蓄積に応じて生じるが、能力の客観的測定が困難であるため、実態として勤続年数が能力の代理指標となり、年功的運用に陥りやすい構造を持つ。したがって年功性が高い。

Q2: エージェンシー理論に基づくインセンティブ契約設計において、「インセンティブの強度」と「リスク分担」のトレードオフが生じる理由を説明せよ。

A2: エージェンシー理論では、プリンシパルがエージェントの努力水準を直接観察できないため、観察可能な業績指標に報酬を連動させることでエージェントの努力を誘引する。しかし、業績指標にはエージェントの努力以外の要因(市場環境、景気変動、技術変化等のノイズ)も反映される。業績連動の度合いを高めれば努力のインセンティブは強まるが、同時にエージェントは自らのコントロール外のリスクも引き受けることになる。エージェントは一般にリスク回避的であるため(人的資本を特定企業に集中投下しており分散が困難)、過度のリスク負担はリスク・プレミアムの要求または参加制約の不充足を招く。したがって、最適契約はインセンティブの強化とリスク分担の適切なバランスを実現する点に設定される。

Q3: トーナメント理論の観点から、組織の階層が上がるにつれて賃金が加速度的に上昇する「凸型賃金構造」が合理的である理由を説明せよ。

A3: トーナメント理論によれば、昇進競争において参加者の努力水準は、勝者と敗者の報酬格差(賃金スプレッド)の大きさに依存する。組織の上位階層に進むにつれ、昇進競争に残る参加者は能力が高く均質化するため、差別化には一層の努力が必要になる。また、上位の地位ほど組織への影響が大きいため、十分な努力を誘引する重要性が高まる。したがって、各階層間の賃金格差を上位に行くほど拡大させる凸型の賃金構造は、すべての階層において参加者に適切な努力インセンティブを提供するために合理的である。CEO報酬が他の上級管理職に比べて突出して高い現象も、最終段階のトーナメントにおける賞金として解釈される。

Q4: 富士通における成果主義導入の失敗要因を分析し、業績連動報酬制度の設計にあたって考慮すべき教訓を3つ挙げよ。

A4: 富士通の成果主義は以下の要因により機能不全に陥った。第一に、短期的な成果への過度の連動が、長期的視点(人材育成、基礎研究、組織能力の蓄積)を軽視させた。第二に、個人業績への評価連動が協力行動を減退させ、同僚への支援や知識共有が抑制された。第三に、評価基準の不透明性(特に管理職層)が制度の信頼性を損ない、不公平感を蓄積させた。教訓としては、(1) 短期業績と長期貢献のバランスを取る多面的な評価指標の設計、(2) 個人業績だけでなくチーム業績や組織市民行動も評価対象に含めること、(3) 評価基準と評価プロセスの透明性を全階層にわたって確保すること、が挙げられる。

Q5: ある製造業の企業が、IT部門の優秀なエンジニアの離職率が上昇している状況に直面している。外部労働市場でのIT人材の報酬水準は高騰しているが、社内の他部門との報酬格差を拡大すると内部公平性が損なわれる。トータル・リワードの観点から、この企業がとりうる対応策を提案せよ。

A5: トータル・リワードの5要素を活用した多面的な対応が考えられる。報酬面では、市場調整手当(market adjustment premium)をIT部門に適用し、基本給体系と分離した形で外部競争力を確保する。これにより内部の等級体系への影響を最小化しつつ、市場対応が可能になる。福利厚生面では、IT人材が特に重視する柔軟な勤務形態(リモートワーク、フレックスタイム)を拡充する。キャリア面では、技術専門職向けのデュアル・ラダー(管理職と専門職の並列キャリアパス)を整備し、マネジメント以外の昇進経路を提供する。承認面では、技術的貢献の可視化と表彰制度を設ける。ウェルビーイング面では、最新技術の学習機会やカンファレンス参加支援など、IT人材の知的好奇心と成長欲求を満たす施策を充実させる。金銭的報酬のみに依存しない包括的な施策が、内部公平性と外部競争力の両立を可能にする。