Module 3-3 - Section 2: 日本企業の歴史的展開¶
セクション情報¶
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| モジュール | Module 3-3: 経営史 |
| 前提セクション | Section 1: 産業革命と近代企業の誕生 |
| 想定学習時間 | 3時間 |
導入¶
Section 1では、産業革命を起点とする欧米の近代企業の形成過程を概観し、工場制度の成立、株式会社制度の発展、所有と経営の分離、チャンドラーの経営史理論に至る系譜を確認した。本セクションでは、この欧米中心の経営史的枠組みを踏まえつつ、日本企業が独自にたどった歴史的展開を検討する。
日本の企業経営は、江戸時代の商人文化を基盤として、明治期の近代化、財閥の形成、戦後の財閥解体と企業集団の再編、高度経済成長期の「日本的経営」の確立、バブル崩壊後の構造改革という、重層的な歴史を有する。欧米とは異なる経路で近代企業体制が形成されたこの過程を理解することは、現代日本企業のガバナンス構造や経営慣行の制度的起源を把握する上で不可欠である。
近代以前の商人文化と経営理念¶
江戸時代の商家と家業継承¶
日本における企業経営の原型は、江戸時代(1603-1868)の商家に見出される。徳川幕府の安定した統治の下で、大坂・京都・江戸を中心に商業が発達し、「家」を単位とする事業組織が形成された。
三井家の祖である三井高利(1622-1694)は、1673年に江戸日本橋に越後屋呉服店を開業した。越後屋は「現金掛値なし」(現金定価販売)という当時としては革新的な商法を採用した。従来の呉服商が掛売り(信用販売)を基本としていたのに対し、越後屋は現金即売によって仕入回転率を向上させ、薄利多売の事業モデルを実現した。
住友家は、初代住友政友(1585-1652)が京都で薬種商・出版業を営んだことに始まる。その後、住友家は泉屋の屋号で銅精錬業に進出し、南蛮吹き(銅と銀の分離精錬技術)を独占的に保有することで巨万の富を築いた。別子銅山(1691年開坑)は住友財閥の基盤となり、約280年にわたって操業が続いた。
家訓と経営理念の成文化¶
江戸時代の大商家は、家業の永続を至上命題とし、経営の心得や行動規範を「家訓」として成文化した。これは、単なる家族の遺訓にとどまらず、事業組織の運営原則としての性格を持っていた。
三井家の「宗竺遺書」(そうちくいしょ、1722年成立)は、三井高利の遺志をまとめたもので、「同族は一致団結して事業にあたること」「奢侈を戒め質素を旨とすること」「投機的な取引を避けること」などを定めた。とりわけ重要なのは、三井家の事業を三井家同族全体の共有財産として管理する「大元方」(おおもとかた)制度を規定した点である。1710年に設置された大元方は、三井家の全事業を統括する上位管理機関であり、現代の持株会社に相当する機能を果たしていた。
住友家の「文殊院旨意書」(もんじゅいんしいがき、1882年成立、住友家初代総理事広瀬宰平による)は、住友の事業精神を「信用を重んじ、浮利を追わず」と定めた。「浮利を追わず」とは、投機的利益を追求せず堅実な事業運営に徹することを意味し、住友財閥の経営姿勢を長期にわたって規定した。
近江商人の経営思想も重要である。近江国(現在の滋賀県)出身の商人たちは、全国各地に行商圏を拡大し、伊藤忠兵衛(伊藤忠商事の創業者)をはじめ多くの大商人を輩出した。「三方よし」(売り手よし・買い手よし・世間よし)という経営理念は、近江商人の商業倫理を集約した表現として知られる。ただし、「三方よし」という定式化自体は1988年頃に近江商人研究者の小倉榮一郎によって名付けられたものであり、江戸時代に遡る用語ではない。その思想の原型は、1754年に中村治兵衛が書き残した家訓に確認できる。
財閥の形成と構造¶
四大財閥の起源と発展¶
Key Concept: 財閥(Zaibatsu) 同族が持株会社を通じて支配する多角的事業体。中核の持株会社が傘下の事業会社群の株式を所有し、ピラミッド型の支配構造を形成する。明治期以降の日本経済において支配的な企業組織形態であり、三井・三菱・住友・安田が四大財閥と呼ばれる。
明治維新(1868年)以降の近代化過程において、政府の殖産興業政策と密接に結びつきながら、財閥が形成された。四大財閥の起源と特徴は以下の通りである。
| 財閥 | 起源 | 中核事業 | 持株会社設立 | 特徴 |
|---|---|---|---|---|
| 三井 | 江戸時代の越後屋呉服店・両替商 | 商業・金融 | 1909年(三井合名会社) | 「組織の三井」。商業・金融を中核に多角化。番頭制で専門経営者を早期に登用 |
| 三菱 | 岩崎弥太郎の海運業(1870年代) | 海運・重工業 | 1893年(三菱合資会社) | 「人の三菱」。岩崎一族による強力な同族支配。重工業に強み |
| 住友 | 江戸時代の銅精錬業 | 鉱業・金属 | 1921年(住友合資会社) | 「結束の住友」。別子銅山を基盤に鉱業・金属を中核に発展 |
| 安田 | 安田善次郎の両替商(幕末期) | 金融 | 1912年(安田保善社) | 金融特化型。銀行・保険を中心とし、産業部門への進出は限定的 |
三菱の起源は、土佐藩出身の岩崎弥太郎(1835-1885)が藩の海運事業を引き継ぎ、1873年に三菱商会を設立したことに遡る。1874年の台湾出兵において明治政府の軍事輸送を担ったことで政府との関係を強化し、政商としての地位を確立した。その後、海運から造船、鉱業、銀行業へと多角化し、岩崎一族(弥太郎とその弟弥之助、およびその子孫)が資本の過半を支配する強固な同族経営体制を維持した。
三井は、江戸時代の「大元方」制度を近代化し、1876年に三井銀行(日本初の民間銀行の一つ)と三井物産会社を設立した。三井は他の財閥と比較して早い段階から同族の直接経営を離れ、番頭(専門経営者)による経営を採用した。中上川彦次郎や團琢磨といった有能な専門経営者が三井財閥の多角化と近代化を主導した。この点で、三井はSection 1で扱った欧米における所有と経営の分離と一定の類似性を持つ。
持株会社構造とコンツェルン型経営¶
Key Concept: 持株会社(Holding Company) 自らは直接的な事業活動を行わず、傘下企業の株式を所有することによって事業グループ全体を支配・統括する会社。日本の財閥においては、同族が持株会社の出資持分を支配し、持株会社が傘下の中核企業(銀行、商社、重工業等)の株式を保有し、さらに中核企業が関連企業の株式を保有するピラミッド型の支配構造を形成した。
財閥の組織的特質は、持株会社を頂点とするピラミッド型の支配構造にある。同族が持株会社(三井合名、三菱合資、住友合資等)の出資持分を保有し、持株会社が傘下の中核企業群(「直系会社」)の株式を支配する。直系会社はさらに「傍系会社」の株式を所有するという多層構造により、比較的少額の同族資本で広範な事業グループを支配することが可能であった。
graph TD
A["同族(三井家11家)"] -->|出資| B["持株会社(三井合名会社)"]
B -->|株式所有| C["三井銀行"]
B -->|株式所有| D["三井物産"]
B -->|株式所有| E["三井鉱山"]
B -->|株式所有| F["その他直系会社"]
C -->|株式所有・融資| G["傍系会社群"]
D -->|株式所有・取引| G
E -->|株式所有| G
F -->|株式所有| G
この構造は、チャンドラーが分析したアメリカ型の大企業(巨大単一企業が内部組織として事業部制を採用する形態)とは異なり、法的に独立した多数の企業が資本的・人的に結合されるコンツェルン(Konzern)型の企業集団であった。欧米では独占禁止法制が企業統合を制約したのに対し、戦前の日本では財閥の集中は容認され、むしろ産業発展の担い手として政府との協調関係を維持した。
1937年時点で、四大財閥は日本の全払込資本金の約24%を支配していたとされ、金融・重工業・鉱業・商業の各分野で圧倒的な経済的地位を占めていた。
戦後の財閥解体と経済民主化¶
GHQの財閥解体政策¶
1945年8月の敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、日本の経済民主化政策の一環として財閥解体を推進した。GHQは財閥を日本の軍国主義を経済的に支えた構造的基盤と位置づけ、その解体を占領政策の重要な柱に据えた。
財閥解体は以下の三段階で実施された。
- 持株会社の解散と株式の処分(1945-1947年): 1945年11月、GHQは財閥家族の資産凍結と持株会社の解散を指令した。持株会社整理委員会(HCLC)が設置され、三井本社(旧三井合名会社)・三菱本社・住友本社・安田保善社をはじめとする83社が持株会社に指定された。持株会社が保有していた傘下企業の株式は放出され、従業員や一般国民に売却された
- 財閥家族の排除(1947年): 財閥家族56名が持株会社・傘下企業の役員から追放された。これにより同族支配の人的基盤が断絶された
- 過度経済力集中排除法の施行(1947年): 巨大企業の分割を目的とした同法により、当初325社が指定されたが、冷戦の激化に伴うアメリカの対日政策の転換(いわゆる「逆コース」)により、最終的に分割が実施されたのは日本製鉄、三井鉱山など11社にとどまった
経済民主化の「三大改革」¶
財閥解体は、農地改革、労働改革と並ぶ戦後経済民主化の「三大改革」の一つに位置づけられる。1947年に制定された独占禁止法は、持株会社の設立を全面的に禁止し、不当な取引制限やカルテルを規制した。この持株会社禁止規定は1997年の法改正まで約50年間維持され、戦後の日本企業の組織形態を強く規定した。
企業集団の形成¶
旧財閥系企業集団の再結集¶
Key Concept: 企業集団(Keiretsu / Corporate Group) 財閥解体後に旧財閥系企業を中核として形成された企業グループ。持株会社を持たず、株式の相互持ち合い、社長会(定期的な首脳会議)、メインバンクを軸とする緩やかな結合を特徴とする。六大企業集団(三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧)が戦後日本経済の中核を担った。
1950年代に入ると、朝鮮戦争特需と講和条約発効(1952年)を契機として、日本経済の復興が本格化した。この過程で、解体された旧財閥系企業が再び緩やかな企業集団を形成していった。ただし、戦前の財閥とは組織原理が根本的に異なっていた。
| 項目 | 戦前の財閥 | 戦後の企業集団 |
|---|---|---|
| 支配構造 | 同族→持株会社→傘下企業(垂直的支配) | 社長会・株式持ち合い(水平的結合) |
| 統制手段 | 資本的支配(株式所有による支配権) | 相互持株・取引関係・人的交流 |
| 法的形態 | 持株会社を頂点とするピラミッド | 持株会社なし。各社が法的に対等 |
| 意思決定 | 持株会社による集中的意思決定 | 社長会での合議(拘束力は限定的) |
戦後の企業集団は、旧財閥系の三井グループ、三菱グループ、住友グループに加え、銀行を中核とする芙蓉グループ(富士銀行系)、三和グループ(三和銀行系)、第一勧銀グループ(第一勧業銀行系)の、合わせて六大企業集団として成立した。
メインバンク制と株式持ち合い¶
Key Concept: メインバンク制(Main Bank System) 企業が特定の銀行と長期的・包括的な取引関係を構築する制度。メインバンクは当該企業への最大の貸出先として融資を提供するとともに、株式保有、役員派遣、経営モニタリングを通じて企業のガバナンスに関与する。企業の経営が悪化した際にはメインバンクが救済機能を果たすことが暗黙的に期待された。
Key Concept: 株式持ち合い(Cross-Shareholding) 複数の企業が相互に相手方の株式を保有し合うこと。企業間の安定的な取引関係の維持、敵対的買収の防衛、経営の安定化を目的として行われた。企業集団内の結束を強化する制度的装置として機能したが、資本効率の低下やガバナンスの形骸化という問題も内包していた。
戦後の企業集団を結合させた制度的装置が、メインバンク制と株式持ち合いである。
メインバンク制が確立したのは1950年代であった。戦前の財閥において中核的役割を果たしていた財閥系銀行(三井銀行、三菱銀行、住友銀行等)は、財閥解体後も企業集団の「中核」としての地位を維持・強化した。間接金融(銀行借入)が企業の主要な資金調達手段であった高度成長期において、メインバンクは以下の機能を果たした。
- 融資機能: 企業への安定的な資金供給(設備投資資金の長期融資)
- 情報生産機能: 融資先企業の経営状態に関する情報を収集・評価
- モニタリング機能: 役員派遣や日常的な取引関係を通じた経営監視
- 救済機能: 経営困難に陥った融資先企業への追加融資や経営再建への関与
株式持ち合いは、1960年代の資本自由化(外国資本による日本企業買収の脅威)を契機として急速に拡大した。企業集団内の各社が相互に株式を保有し合うことで、敵対的買収を防衛するとともに、「安定株主」として経営者の裁量を保護する機能を果たした。株式持ち合いのピークは1990年前後であり、東証上場企業の株式の約45%が持ち合い株式であったと推計されている。
高度経済成長期の日本企業¶
経済成長の概観¶
1955年から1973年(第一次石油危機)まで、日本経済は年平均約10%の実質GDP成長率を達成し、世界史上でも類例の少ない高度経済成長を遂げた。1968年には西ドイツを抜いて資本主義圏第2位のGNPに到達した。この成長を支えた要因として、豊富な労働力供給(農村から都市への人口移動)、高い貯蓄率、設備投資の拡大、技術導入(欧米からの技術ライセンス)、政府の産業政策(通商産業省による産業育成)が挙げられる。
日本的経営の「発見」¶
Key Concept: 日本的経営(Japanese Management) 終身雇用、年功序列型賃金、企業別労働組合を三本柱とする日本企業に特徴的な経営慣行の総称。アメリカの経営学者ジェームズ・アベグレンが1958年の著作『日本の経営』で体系的に分析し、国際的に知られるようになった。高度経済成長期に定着し、日本企業の国際競争力の源泉と評価された。
ジェームズ・C・アベグレン(James C. Abegglen, 1926-2007)は、1955年から約1年間、日本の工場を現地調査し、その成果を『日本の経営』(The Japanese Factory, 1958)として発表した。同書は、日本企業の雇用慣行がアメリカ企業と根本的に異なることを初めて体系的に示した研究として、経営学史上重要な位置を占める。
アベグレンが指摘した日本企業の三つの特徴は、後に「日本的経営の三種の神器」と呼ばれるようになった。
1. 終身雇用(Lifetime Employment): 正規従業員が新卒で入社してから定年まで同一企業に勤務する慣行。企業が容易に解雇を行わず、景気後退期にも雇用維持を優先する。これは法制度上の義務ではなく、労使間の暗黙的な契約(implicit contract)であった。
2. 年功序列型賃金(Seniority-Based Wage System): 賃金と昇進が勤続年数に応じて上昇する制度。個人の能力や成果よりも、勤続年数と年齢が処遇の主要な決定要因となる。企業特殊的な技能形成(firm-specific skill formation)を促進する制度的基盤として機能した。
3. 企業別労働組合(Enterprise Union): 産業別・職種別ではなく、個別企業を単位として組織される労働組合。同一企業の従業員(ブルーカラー・ホワイトカラー双方を含む)が一つの組合に加入する。欧米の産業別組合と異なり、企業の競争力維持に協調的な姿勢をとった。
日本的経営の歴史的形成要因¶
日本的経営の三本柱は、所与の「日本文化」の反映ではなく、歴史的条件の下で段階的に形成された制度であった。
終身雇用慣行の形成は、1920年代の大正期に遡る。第一次世界大戦期の急速な工業化により熟練労働者の不足が深刻化し、企業は高い離職率に直面した。これに対処するため、大企業は退職金制度、勤続手当、福利厚生施設の整備によって熟練工の定着を図った。さらに、戦時統制経済下の国家総動員法(1938年)および従業員雇入制限令(1939年)が労働移動を制限したことで、雇用の固定化が進んだ。戦後は、労働組合運動の高揚と1950年代の解雇反対闘争を経て、終身雇用が労使双方の規範として定着した。
年功序列型賃金もまた、同時期に同様の経緯で形成された。熟練工の引き留め策として導入された勤続ベースの処遇制度が、戦時期の賃金統制(生活給思想に基づく年齢・扶養家族数による賃金決定)によって強化され、戦後の春闘方式(毎年春に行われる産業別の賃金交渉)によって制度化された。
企業別労働組合は、戦後のGHQによる労働改革を直接の契機として成立した。1945年に制定された労働組合法の下で、各企業の従業員が一斉に組合を結成した。その際、企業単位で組織化が行われたのは、戦時中の産業報国会(企業内の労使協議組織)がそのまま組合に転換された側面がある。
品質管理運動とトヨタ生産方式¶
高度成長期の日本企業を特徴づけるもう一つの要素が、品質管理(QC: Quality Control)運動である。戦後間もなくの「Made in Japan」は低品質の代名詞であったが、1950年にW・エドワーズ・デミング(W. Edwards Deming)が来日して統計的品質管理(SQC)を講義し、1954年にジョセフ・ジュラン(Joseph Juran)が品質管理の経営的側面を指導したことが転機となった。
日本企業はこれらの手法を独自に発展させ、現場作業者を中心とするQCサークル(小集団改善活動)を全社的に展開した。デミング賞(1951年創設)は品質管理の卓越した企業に授与され、品質向上の強力なインセンティブとなった。
トヨタ自動車の大野耐一(1912-1990)が体系化したトヨタ生産方式(TPS: Toyota Production System)は、「ジャスト・イン・タイム」(必要なものを、必要な時に、必要な量だけ生産する)と「自働化」(異常発生時に自動的にラインを停止する仕組み)を二本柱とし、徹底したムダの排除を追求した。1960年代に全社的に導入されたTPSは、少量多品種生産においても高い効率と品質を実現し、1970年代の石油危機以降、欧米の経営学者からも「リーン生産方式(Lean Production)」として注目された。
護送船団方式と産業政策¶
Key Concept: 護送船団方式(Convoy System) 特定の業界において最も経営体力の弱い企業が落伍しないよう、行政官庁が許認可権限や行政指導を駆使して業界全体を保護・統制する方式。特に金融行政において大蔵省が銀行・証券会社の参入・退出、商品設計、金利設定を規制したことを指す。業界全体の安定を確保する反面、競争制限による非効率を内包した。
高度成長期の日本企業は、政府の積極的な産業政策の下で活動した。通商産業省(通産省、現・経済産業省)は、外貨割当、技術導入許可、産業合理化促進策などを通じて、戦略的産業の育成を図った。
金融分野では、大蔵省(現・財務省および金融庁)が「護送船団方式」と呼ばれる保護的な行政手法を採用した。この方式の起源は1927年の昭和金融恐慌に遡る。中小金融機関の連鎖的破綻と取り付け騒ぎの経験から、金融秩序の安定が最優先課題とされ、大蔵省は金融機関の新規参入・商品開発・金利設定を厳格に規制した。この規制の下で、銀行は預貸金利差(規制金利による低い預金金利と、資金需要超過を背景とした高い貸出金利の差)を安定的に享受し、金融機関の破綻は事実上ゼロという状態が長期にわたって維持された。
しかし、護送船団方式は競争を制限することによる非効率と、金融イノベーションの遅れを内包していた。1980年代以降の金融自由化の進展と、1990年代のバブル崩壊後の金融危機において、その限界が露呈することとなる。
バブル経済と「失われた20年」¶
バブル経済の膨張と崩壊¶
1985年のプラザ合意以降の急速な円高に対応するため、日銀は低金利政策を採用した。過剰な金融緩和の下で不動産と株式に投機的資金が流入し、1986年から1991年にかけてバブル経済が膨張した。日経平均株価は1989年12月29日に38,915円87銭の史上最高値を記録し、東京都の地価だけでアメリカ全土を購入できるとさえ言われた。
1990年の大蔵省による不動産融資の総量規制と日銀の利上げを契機として、バブルは崩壊した。株価は急落し、不動産価格も暴落した。金融機関は膨大な不良債権を抱え、企業のバランスシートは毀損した。以後、日本経済は長期にわたる停滞期に突入し、この期間は「失われた10年」、さらに停滞が長引くにつれて「失われた20年」と呼ばれるようになった。
日本企業システムの構造的動揺¶
バブル崩壊は、高度成長期に確立した日本企業システムの制度的基盤を根底から揺るがした。
メインバンク制の機能不全: 不良債権問題により銀行自体の経営が悪化し、融資先企業のモニタリングや救済機能を果たすことが困難になった。1997年には北海道拓殖銀行、山一證券が破綻し、メインバンク制への信頼が決定的に損なわれた。1970年代には経営困難に陥った企業の約40%にメインバンクが介入していたが、1990年代にはその比率は約15%に低下した。
株式持ち合いの解消: バブル崩壊後の株価低迷に加え、2001年に導入された時価会計基準により、株式の含み損が財務諸表に反映されるようになった。保有株式の価値下落が企業の収益を直接圧迫するようになったため、株式持ち合いの解消が急速に進んだ。
終身雇用の動揺: 長期不況の下で企業は人件費削減を迫られ、早期退職制度の導入、非正規雇用の拡大、成果主義型賃金制度への移行が進んだ。ただし、終身雇用慣行は大企業を中心として完全には消滅せず、「修正された形」で存続している。
護送船団方式の終焉: 1995年の木津信用組合倒産、兵庫銀行の戦後初の銀行破綻に続き、1997年の大手金融機関の連鎖的破綻により、護送船団方式は終焉を迎えた。1996年に橋本龍太郎内閣が打ち出した「金融ビッグバン」(金融制度の抜本的自由化)により、1998年に金融監督庁(2000年に金融庁に改編)が設置され、事前規制型の行政指導から事後チェック型の規制監督体制へ転換した。
構造改革と現代的変容¶
2000年代以降、日本企業は以下の構造改革を推進した。
コーポレートガバナンス改革: 2003年の商法改正で委員会設置会社制度が導入され、2015年にはコーポレートガバナンス・コードが東京証券取引所の上場規則として施行された。社外取締役の設置、株主との対話、資本効率の向上が求められるようになった。
持株会社の解禁: 1997年の独占禁止法改正により、戦後50年にわたって禁止されていた持株会社が解禁された。これにより、金融分野では三菱UFJフィナンシャル・グループ、三井住友フィナンシャルグループ、みずほフィナンシャルグループといった金融持株会社が形成され、事業会社でもセブン&アイ・ホールディングスやパナソニックホールディングスのように持株会社体制を採用する企業が増加した。
雇用制度の多元化: 日経連(日本経営者団体連盟、現・日本経済団体連合会)は1995年の報告書『新時代の「日本的経営」』において、従業員を「長期蓄積能力活用型」「高度専門能力活用型」「雇用柔軟型」の三つに類型化し、全員一律の終身雇用・年功序列からの転換を提言した。これ以降、非正規雇用比率は上昇を続け、2020年代には労働者の約4割が非正規雇用となっている。
timeline
title 日本企業システムの歴史的変遷
1600s-1800s : 商家の成立と家訓の形成
: 三井越後屋 1673
: 別子銅山開坑 1691
1868-1910s : 明治維新と殖産興業
: 財閥の形成
: 三井銀行設立 1876
1920s-1930s : 財閥のコンツェルン化
: 日本的雇用慣行の萌芽
1945-1950s : 財閥解体とGHQ改革
: 独占禁止法制定 1947
: 企業集団の再結集
1955-1973 : 高度経済成長
: 日本的経営の確立
: アベグレン 日本の経営 1958
1980s-1991 : バブル経済の膨張と崩壊
: 株式持ち合いのピーク
1990s-2000s : 失われた20年
: メインバンク制の動揺
: 金融ビッグバン 1996
: 持株会社解禁 1997
2010s- : ガバナンス改革
: コーポレートガバナンス・コード 2015
まとめ¶
- 日本の企業経営は、江戸時代の商家文化に起源を持つ。三井家の「大元方」制度や住友家の「浮利を追わず」の精神は、事業の永続性と堅実経営を重視する日本的経営理念の原型であった
- 明治期以降、政府の殖産興業政策と結びつきながら四大財閥(三井・三菱・住友・安田)が形成された。持株会社を頂点とするピラミッド型のコンツェルン構造により、同族が広範な事業グループを支配した
- 戦後のGHQによる財閥解体は、持株会社の解散、財閥家族の追放、独占禁止法の制定を柱とし、日本の企業組織を根本的に再編した。しかし、冷戦の激化に伴う「逆コース」により、解体は当初の構想よりも限定的なものにとどまった
- 財閥解体後、旧財閥系企業は株式持ち合いとメインバンク制を軸とする企業集団として再結集した。垂直的な支配構造から水平的な結合へと転換した点が、戦前の財閥との根本的な相違である
- 高度経済成長期に「日本的経営」(終身雇用・年功序列・企業別組合)が確立した。これは日本文化の固有の産物ではなく、大正期の熟練工確保策、戦時統制経済、戦後の労使交渉の産物として歴史的に形成された制度である
- バブル崩壊後の「失われた20年」において、メインバンク制の機能不全、株式持ち合いの解消、雇用制度の多元化が進行し、高度成長期に確立した日本企業システムは構造的変容を遂げた
- 次のSection 3では、1990年代以降の情報革命が企業経営にもたらした変革を、グローバルな視点から検討する
用語集(Glossary)¶
| 用語 | 英語表記 | 定義 |
|---|---|---|
| 財閥 | Zaibatsu | 同族が持株会社を通じて支配する多角的事業体。三井・三菱・住友・安田が四大財閥 |
| 持株会社 | Holding Company | 自ら事業を行わず、傘下企業の株式を所有することで事業グループを支配・統括する会社 |
| 企業集団 | Keiretsu / Corporate Group | 財閥解体後に形成された企業グループ。株式持ち合い・社長会・メインバンクを軸とする水平的結合 |
| メインバンク制 | Main Bank System | 企業が特定の銀行と長期的取引関係を構築し、融資・モニタリング・救済の機能を委ねる制度 |
| 株式持ち合い | Cross-Shareholding | 複数企業が相互に株式を保有し合うこと。安定株主の確保と敵対的買収の防衛を目的とする |
| 日本的経営 | Japanese Management | 終身雇用・年功序列・企業別組合を三本柱とする日本企業に特徴的な経営慣行の総称 |
| 護送船団方式 | Convoy System | 業界の最弱企業が落伍しないよう行政が業界全体を保護・統制する方式。特に金融行政で顕著 |
| 三方よし | Sanpo-yoshi | 「売り手よし・買い手よし・世間よし」。近江商人の商業倫理を集約した理念 |
| トヨタ生産方式 | Toyota Production System | ジャスト・イン・タイムと自働化を二本柱とする生産管理システム。ムダの徹底排除を追求 |
| 金融ビッグバン | Financial Big Bang | 1996年に打ち出された金融制度の抜本的自由化政策。護送船団方式からの転換を象徴する |
確認問題¶
Q1: 四大財閥(三井・三菱・住友・安田)の特徴を比較し、それぞれの中核事業と経営体制の相違点を説明せよ。
A1: 三井は江戸時代の越後屋呉服店・両替商を起源とし、商業・金融を中核事業とした。経営面では「組織の三井」と呼ばれ、早期から番頭制(専門経営者の登用)を採用して同族の直接経営から離れた点に特徴がある。三菱は岩崎弥太郎の海運業を起源とし、海運・重工業を中核とした。「人の三菱」と呼ばれ、岩崎一族による強力な同族支配を維持し、中央集権的な意思決定構造をとった。住友は江戸時代の銅精錬業を起源とし、鉱業・金属を中核とした。「結束の住友」と呼ばれ、別子銅山を事業基盤として堅実な経営を志向した。安田は安田善次郎の両替商を起源とし、銀行・保険を中心とする金融特化型の財閥であった。他の三財閥と異なり産業部門への進出は限定的であった。組織形態としては、いずれも持株会社を頂点とするピラミッド型のコンツェルン構造を採用したが、同族支配の強度(三菱の強い同族支配 vs 三井の早期の専門経営者登用)や事業ポートフォリオの広がりに差異があった。
Q2: 戦前の財閥と戦後の企業集団(系列)の組織原理の根本的な相違を、支配構造・意思決定・法的形態の観点から説明せよ。
A2: 戦前の財閥は、同族が持株会社の出資持分を所有し、持株会社が傘下企業(直系会社)の株式を支配する垂直的・ピラミッド型の支配構造をとっていた。持株会社が傘下企業に対する指令権・管理権を行使し、集中的な意思決定を行った。法的には持株会社が頂点に位置する支配・従属の関係にあった。これに対し、戦後の企業集団は持株会社を持たず、各社が法的に対等な地位にある水平的な結合であった。支配構造は株式の相互持ち合い、取引関係、人的交流(役員の相互派遣)によって維持された。意思決定は社長会(月例の首脳会議)での合議に基づくが、その拘束力は限定的であり、各社の経営自主性が原則として保たれていた。この転換は、GHQの財閥解体政策による持株会社の解散と独占禁止法による持株会社設立の禁止という制度的制約の下で、旧財閥系企業が新たな結合形態を模索した結果である。
Q3: 日本的経営の三本柱(終身雇用・年功序列・企業別組合)が歴史的にどのように形成されたかを、大正期から戦後にかけての経緯を踏まえて説明せよ。
A3: 日本的経営の三本柱は、複数の歴史的段階を経て形成された制度である。終身雇用慣行は、第一次世界大戦期の急速な工業化により熟練労働者の不足と高い離職率が問題化したことを契機とする。大企業は1920年代に退職金制度、勤続手当、福利厚生の整備により熟練工の定着を図った。戦時統制下では国家総動員法(1938年)や従業員雇入制限令(1939年)が労働移動を制限し、雇用の固定化が進んだ。戦後は労働組合運動の高揚と解雇反対闘争を経て、労使双方の規範として定着した。年功序列型賃金も同時期に形成された。熟練工確保のための勤続ベースの処遇制度が導入され、戦時期の生活給思想(年齢・扶養家族数に基づく賃金決定)によって強化された。戦後は春闘方式(毎年の産業別賃金交渉)を通じて制度化された。企業別労働組合は、1945年の労働組合法制定後、各企業で一斉に組合が結成されたことで成立した。企業単位での組織化は、戦時中の産業報国会(企業内労使協議組織)が戦後の組合に転換された側面がある。このように三本柱は日本文化の固有の産物ではなく、労働市場の構造変化、戦時統制、戦後の制度形成という歴史的条件の産物であった。
Q4: メインバンク制が高度経済成長期に果たした機能と、バブル崩壊後にその機能が低下した要因を説明せよ。
A4: 高度経済成長期において、メインバンクは以下の機能を果たした。第一に、融資機能として設備投資に必要な長期資金を安定的に供給した。間接金融が主要な資金調達手段であった時代に、メインバンクの融資は企業の成長投資を支えた。第二に、情報生産機能として融資先の経営状態を日常的に把握し、企業の信用情報を生産した。第三に、モニタリング機能として役員派遣や取引関係を通じて経営を監視し、コーポレートガバナンスの担い手となった。第四に、救済機能として経営困難に陥った融資先に対して追加融資や経営再建への関与を行った。バブル崩壊後にこれらの機能が低下した要因は、第一に不良債権問題により銀行自体の経営基盤が悪化し、融資先のモニタリングや救済に充てる経営資源が失われたことである。1997年の北海道拓殖銀行、山一證券の破綻はメインバンク制への信頼を決定的に損なった。第二に、企業が資本市場からの直接金融(社債発行、株式発行)へ資金調達手段を多様化したことで、銀行への依存度が低下した。第三に、時価会計の導入により銀行が保有する融資先株式の含み損が顕在化し、株式持ち合いの解消が進んだことで、メインバンクと企業の結びつきが弱まった。
Q5: バブル崩壊以降の日本企業のコーポレートガバナンス改革の方向性を、戦後日本企業の制度的特質との対比において論じよ。
A5: 戦後の日本企業のコーポレートガバナンスは、メインバンク制・株式持ち合い・終身雇用の三つの制度的特質を基盤としていた。メインバンクが経営のモニタリングと規律づけを担い、株式持ち合いが安定株主を形成して経営者の裁量を保護し、内部昇進者からなる取締役会が経営を執行するという構造であった。このシステムにおいて、株主によるガバナンスは制度的に抑制されていた。バブル崩壊後の改革は、このシステムの構造的変容を伴っている。メインバンク制の機能不全と株式持ち合いの解消により、銀行を中心としたガバナンスメカニズムが弱体化し、それに代わる仕組みの構築が求められた。2003年の商法改正による委員会設置会社制度の導入は、社外取締役の監督機能を強化し、経営の透明性を高めることを目指した。2015年のコーポレートガバナンス・コードの施行は、独立社外取締役の選任、株主との対話、資本効率の向上を上場企業に求めた。これらは、従来のメインバンク・内部者中心のガバナンスから、株主・社外者を含む多元的なガバナンスへの転換を志向するものである。ただし、この改革はアメリカ型の株主資本主義への全面的転換ではなく、従業員重視の伝統との折衷が模索されている点が特徴的である。