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Module 3-4 - Section 1: 企業倫理とCSR

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 3-4: 企業倫理・コーポレートガバナンス
前提セクション なし
想定学習時間 3時間

導入

企業は市場における経済主体であると同時に、社会の中で活動する存在である。利潤の追求と社会に対する責任はどのような関係にあるのか。企業が直面する倫理的意思決定にはどのような理論的枠組みが適用されるのか。本セクションでは、ビジネス倫理の理論的基礎として規範倫理学の三大理論(功利主義・義務論・徳倫理学)を概観し、CSR(企業の社会的責任)の概念的展開を歴史的に追う。さらに、ステークホルダー理論の登場がCSRの議論にもたらした転換を検討し、ステークホルダー・エンゲージメントの実践的枠組みまでを扱う。

本セクションは、次セクション(コーポレートガバナンスの制度と実践)およびセクション3(ESG・サステナビリティ経営と企業不祥事)の理論的基盤となる。


企業倫理の理論的基礎

企業倫理(Business Ethics)とは、企業活動における意思決定の道徳的基盤を探究する学問分野である。法律で明文化されていない領域において「正しい判断」をどのように行うかという規範的問題に取り組む。企業倫理を支える哲学的基盤は規範倫理学(Normative Ethics)であり、以下の三つの主要理論が存在する。

功利主義

Key Concept: 功利主義(Utilitarianism) 行為の道徳的正しさを、その行為がもたらす帰結(結果)における幸福や効用の総量によって判定する倫理理論。ジェレミー・ベンサムとジョン・スチュアート・ミルによって体系化された。「最大多数の最大幸福」を基本原理とする。

功利主義は帰結主義(Consequentialism)の代表的理論であり、行為の結果が関係者全体にとって最大の効用(Utility)をもたらすかどうかを判断基準とする。ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham, 1748-1832)が「最大多数の最大幸福」(the greatest happiness of the greatest number)の原理として定式化し、ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806-1873)がこれを精緻化した。

ビジネスにおける功利主義の適用は、費用便益分析(Cost-Benefit Analysis)として広く実践されている。ある経営判断がステークホルダー全体にもたらす便益と損害を定量的に比較衡量し、純便益が最大となる選択肢を採用するという思考様式である。製品のリコール判断や環境規制への対応において、影響を受ける全当事者の利害を総合的に評価する際に用いられる。

しかし功利主義には、少数者の権利を多数者の利益のために犠牲にし得るという構造的問題がある。例えば、ある工場の操業が地域住民の大多数に経済的恩恵をもたらす一方で、一部住民に深刻な健康被害を与える場合、功利主義的計算は操業継続を正当化し得る。また、帰結の予測と定量化が困難な場合、実務上の適用には限界がある。

義務論

Key Concept: 義務論(Deontology) 行為の道徳的正しさを、帰結ではなく行為そのものの性質や行為者の義務に基づいて判定する倫理理論。イマヌエル・カントの定言命法が代表的であり、普遍化可能な道徳法則に従うことを要求する。

義務論はイマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724-1804)の道徳哲学を基盤とする。カントの定言命法(Categorical Imperative)は、「汝の格率(行為の主観的原則)が同時に普遍的法則となることを欲しうるような格率に従ってのみ行為せよ」と命じる。すなわち、ある行為規則がすべての人に適用されたとしても矛盾なく成立するかどうかを検証し、成立するならばその行為は道徳的に正しいとする。

ビジネスの文脈では、義務論は「正直であれ」「約束を守れ」「他者を手段としてのみ扱うな」といった行為原則を企業活動に適用する。例えば、粉飾決算は結果として発覚しなくとも(功利主義的には「被害なし」と判断し得ても)、義務論的には虚偽の報告という行為自体が道徳的に不正である。契約の遵守、情報開示の誠実性、従業員の人格的尊重といった原則は義務論的な基盤を持つ。

義務論の課題は、複数の義務が衝突する状況(義務の衝突問題)への対処が困難なことである。例えば、内部告発は「組織への忠誠義務」と「社会に対する誠実の義務」の間の衝突を引き起こす。また、結果を一切考慮しない厳格な義務論は、現実のビジネス意思決定においてはしばしば非現実的とされる。

徳倫理学

Key Concept: 徳倫理学(Virtue Ethics) 行為の規則や帰結ではなく、行為者の人格的徳(卓越性)に焦点を当てる倫理理論。アリストテレスに起源を持ち、「有徳な人がその状況においてなすであろう行為」を道徳的に正しい行為とする。

徳倫理学はアリストテレス(Aristotle, 384-322 BC)の倫理学に遡る。アリストテレスは人間の卓越性(アレテー)の涵養と実践こそが善き生(エウダイモニア)の実現であるとした。20世紀後半にアラスデア・マッキンタイア(Alasdair MacIntyre)やフィリッパ・フット(Philippa Foot)らによって現代的に復興され、ビジネス倫理への適用が進んだ。

ビジネスにおける徳倫理学は、行為のルールや結果よりも、意思決定者の人格的特質――誠実さ(Integrity)、公正さ(Fairness)、勇気(Courage)、節制(Temperance)――を重視する。企業文化やリーダーシップの質が組織全体の倫理的行動を規定するという観点は、徳倫理学的アプローチに根ざしている。

徳倫理学は組織文化の形成やリーダーシップ教育において有用であるが、具体的な行為指針の導出が困難であるという批判がある。「有徳な人がなすであろう行為」は状況により異なり、普遍的な判断基準としての明確性に欠ける。

三理論のビジネスへの適用比較

理論 判断基準 ビジネスでの適用例 強み 限界
功利主義 行為の帰結(総効用) 費用便益分析、製品リコール判断 定量的・実務的 少数者の権利侵害の正当化
義務論 行為自体の道徳性 情報開示義務、契約遵守 権利・義務の明確化 義務の衝突への対処困難
徳倫理学 行為者の人格的徳 リーダーシップ教育、企業文化醸成 人格形成への着目 具体的判断基準の不明確さ

事例:ジョンソン・エンド・ジョンソンのタイレノール事件

1982年、米国シカゴ地区でジョンソン・エンド・ジョンソン(Johnson & Johnson)社の鎮痛剤タイレノール(Tylenol)のカプセルにシアン化カリウムが混入され、7名が死亡する事件が発生した。犯人は外部の第三者であり、同社に製造上の過失はなかった。

当時のCEOジェームズ・バーク(James Burke)は、同社の「我が信条」(Our Credo, 1943年制定)に基づく意思決定を行った。クレドは責任の対象を「顧客 → 従業員 → 地域社会 → 株主」の順で定めており、消費者の安全を最優先とする原則を明示していた。バークは、法的責任がないにもかかわらず、全米で流通していた約3,100万本(小売価格1億ドル超)のタイレノール製品を自主回収し、全国メディアを通じて消費者に使用中止を呼びかけた。

この判断は功利主義的観点(短期的には莫大な損失だが、長期的な信頼回復による便益が上回る)、義務論的観点(消費者の安全を守る義務の履行)、徳倫理学的観点(誠実さと勇気に基づくリーダーシップ)のいずれからも正当化可能であり、三理論の統合的適用の好例とされる。結果として、タイレノールは1年以内に市場シェアの90%以上を回復し、本事件はビジネススクールにおける企業倫理と危機管理の模範事例として教えられている。


CSR(企業の社会的責任)の概念と歴史的展開

Key Concept: CSR(Corporate Social Responsibility) 企業が経済的利潤の追求のみならず、社会的・環境的影響に対して責任を負うべきであるとする概念。法的義務を超えた自発的な社会貢献や倫理的行動を含む。

CSRの起源:ボーエンの問題提起

CSRの学術的起点は、ハワード・ボーエン(Howard R. Bowen)が1953年に刊行した『Social Responsibilities of the Businessman(ビジネスマンの社会的責任)』に求められる。ボーエンは「ビジネスマンの社会的責任」を「我々の社会の目的と価値に照らして望ましい政策を追求し、意思決定を行い、行動方針に従う義務」と定義した。この著作はCSR研究の出発点とされ、ボーエンは「CSRの父」と称される。

ボーエンの議論は、1950-60年代の大企業の社会的影響力の増大を背景としていた。企業が経済活動を通じて社会に多大な影響を及ぼす以上、その影響に対する責任を自覚すべきであるという問題意識は、その後のCSR論の基本的方向性を決定づけた。

フリードマンの反論:株主至上主義

Key Concept: 社会契約(Social Contract) 企業と社会の間に暗黙的に成立する、権利と義務の相互的合意。企業は社会から事業活動の許容(ライセンス)を得る代わりに、社会に対して一定の責任を果たすことが期待される。トーマス・ドナルドソンとトーマス・ダンフィーの「統合的社会契約理論」(ISCT, 1994年)は、この概念をビジネス倫理に体系的に適用した。

CSR概念の拡大に対して、最も強力な批判を展開したのがミルトン・フリードマン(Milton Friedman, 1912-2006)である。フリードマンは1970年のニューヨーク・タイムズ紙への寄稿「The Social Responsibility of Business Is to Increase Its Profits」において、以下の論旨を展開した。

  1. 代理人論: 企業経営者は株主の代理人(Agent)であり、株主から委託された資金を株主の利益以外の目的に使用することは、一種の「私的課税」に等しい
  2. 民主主義論: 社会的支出の配分は民主的プロセス(政府・議会)を通じて決定されるべきであり、経営者が私的に社会的優先順位を判断することは民主的正当性を欠く
  3. 効率性論: 企業が競争市場で利潤を最大化すること自体が資源の最適配分を実現し、社会厚生に貢献する

この主張は「フリードマン・ドクトリン」(Friedman Doctrine)あるいは「株主至上主義」(Shareholder Primacy)と呼ばれ、1980年代から2000年代にかけて米国の企業経営に大きな影響を与えた。

フリードマンの主張は経済的合理性の観点から一定の妥当性を持つが、いくつかの前提に依存している。完全競争市場における利潤最大化が社会厚生を最大化するというのは新古典派経済学の帰結であるが、現実の市場には外部性(Externalities)、情報の非対称性、独占力などの市場の失敗が存在する。こうした条件下では、利潤最大化が必ずしも社会的最適を実現しない。

キャロルのCSRピラミッド

Key Concept: キャロルのCSRピラミッド(Carroll's CSR Pyramid) アーチー・キャロルが1991年に提唱した、企業の社会的責任を四層構造で示すモデル。下層から「経済的責任」「法的責任」「倫理的責任」「慈善的(フィランソロピー的)責任」で構成され、下層ほど基本的かつ必須とされる。

アーチー・キャロル(Archie B. Carroll)は1979年にCSRの四次元モデルを提唱し、1991年にこれをピラミッド型に図式化した。このモデルはCSRの構成要素を体系的に整理した点で広く参照される。

graph TD
    P["慈善的責任<br/>Philanthropic Responsibility<br/>「良き企業市民であれ」"]
    E["倫理的責任<br/>Ethical Responsibility<br/>「倫理的であれ」"]
    L["法的責任<br/>Legal Responsibility<br/>「法を遵守せよ」"]
    EC["経済的責任<br/>Economic Responsibility<br/>「利潤を生み出せ」"]

    P --- E
    E --- L
    L --- EC

    style EC fill:#4a90d9,stroke:#333,color:#fff
    style L fill:#5ba55b,stroke:#333,color:#fff
    style E fill:#e6a23c,stroke:#333,color:#fff
    style P fill:#d95050,stroke:#333,color:#fff

四つの責任層の概要:

  1. 経済的責任(Economic Responsibility): ピラミッドの基盤。企業は財・サービスを生産し、利潤を得ることで存続する。雇用の創出、税の納付、株主への配当がこれに該当する。すべての責任の前提条件である。

  2. 法的責任(Legal Responsibility): 法令・規制の遵守。社会が最低限の行動基準を法律として明文化したものへの適合であり、経済活動の法的枠組みを守ることが求められる。

  3. 倫理的責任(Ethical Responsibility): 法律で明文化されていないが、社会が期待する公正・正義・権利の尊重。法的には許容されるが倫理的に問題のある行為を回避する責任である。

  4. 慈善的責任(Philanthropic Responsibility): 企業市民としての自発的な社会貢献。芸術・教育支援、地域社会への寄付、ボランティア活動などが含まれる。これを果たさなくとも非倫理的とはみなされないが、社会から期待される。

キャロルのモデルは直感的に理解しやすく教育上有用であるが、四層間の境界が曖昧な場合がある点、慈善的責任の優先度が過小評価される可能性がある点、文化的文脈によって各層の相対的重要性が異なる点が批判として指摘されている。

戦略的CSRとCSV

CSRをめぐる議論は、2000年代以降、「守りのCSR」から「攻めのCSR」への転換を見せた。マイケル・ポーター(Michael E. Porter)とマーク・クレイマー(Mark R. Kramer)は2006年のハーバード・ビジネス・レビュー論文「Strategy and Society」において「戦略的CSR」(Strategic CSR)の概念を提唱した。企業の本業と関連する社会課題に取り組むことで、競争優位と社会的価値創出を同時に実現すべきであるという主張である。

さらに2011年、同じくポーターとクレイマーは「Creating Shared Value」(共通価値の創造、CSV)の概念を発表した。CSVは、企業が社会的課題の解決を通じて経済的価値を創出するアプローチであり、CSRが「利潤追求とは別に社会貢献を行う」という枠組みであったのに対し、CSVは「社会的価値と経済的価値の同時実現」を企業戦略の中核に据える。CSVの三つのアプローチは以下の通りである。

  1. 製品と市場の再定義: 社会的ニーズに応える製品・サービスの開発
  2. バリューチェーンにおける生産性の再定義: サプライチェーン全体での効率性向上と社会課題解決の両立
  3. 地域クラスターの形成支援: 事業拠点周辺の地域基盤強化

CSVに対しては、「社会的責任を市場原理に還元している」「利益にならない社会課題は放置されるのではないか」といった批判もある。


ステークホルダー理論

Key Concept: ステークホルダー理論(Stakeholder Theory) 企業経営は株主のみならず、企業活動に影響を与え、または影響を受けるすべての利害関係者(ステークホルダー)の利益を考慮すべきであるとする理論。R・エドワード・フリーマンが1984年の著作で体系化した。

フリーマンのステークホルダー・アプローチ

R・エドワード・フリーマン(R. Edward Freeman)は1984年の著作『Strategic Management: A Stakeholder Approach』において、ステークホルダーを「組織の目的の達成に影響を与える、もしくは影響を受ける個人または集団」と定義した。この定義は、従来の株主中心(Shareholder-centric)の企業観を根本的に転換するものであった。

フリーマン以前の経営学の支配的パラダイムは、企業の目的を株主価値の最大化に限定していた。これに対してフリーマンは、企業は多様なステークホルダーとの関係のネットワークの中に埋め込まれた存在であり、経営戦略はすべてのステークホルダーの利害を統合的に考慮することで初めて持続可能になると主張した。

ステークホルダーの分類

ステークホルダーは一般に、一次的ステークホルダー(Primary Stakeholders)と二次的ステークホルダー(Secondary Stakeholders)に分類される。

一次的ステークホルダー: 企業活動と直接的な取引関係を持つ主体。株主・投資家、従業員、顧客、サプライヤー、債権者、地域社会など。企業の存続に不可欠な関係者である。

二次的ステークホルダー: 企業活動と直接的な取引関係はないが、間接的に影響を与え・受ける主体。メディア、NGO/NPO、業界団体、規制当局、競合他社など。

graph LR
    C["企業"]

    C --- SH["株主・投資家"]
    C --- EM["従業員"]
    C --- CU["顧客"]
    C --- SU["サプライヤー"]
    C --- CO["地域社会"]
    C --- GO["政府・規制当局"]
    C --- ME["メディア"]
    C --- NG["NGO/NPO"]
    C --- CR["債権者"]
    C --- CM["競合他社"]

    style C fill:#4a90d9,stroke:#333,color:#fff
    style SH fill:#5ba55b,stroke:#333,color:#fff
    style EM fill:#5ba55b,stroke:#333,color:#fff
    style CU fill:#5ba55b,stroke:#333,color:#fff
    style SU fill:#5ba55b,stroke:#333,color:#fff
    style CO fill:#5ba55b,stroke:#333,color:#fff
    style CR fill:#5ba55b,stroke:#333,color:#fff
    style GO fill:#e6a23c,stroke:#333,color:#fff
    style ME fill:#e6a23c,stroke:#333,color:#fff
    style NG fill:#e6a23c,stroke:#333,color:#fff
    style CM fill:#e6a23c,stroke:#333,color:#fff

※ 緑色は一次的ステークホルダー、橙色は二次的ステークホルダーを示す。

フリードマン対フリーマン:CSR論争の核心

フリードマンの株主至上主義とフリーマンのステークホルダー理論は、CSR論争の対立軸として位置づけられる。

観点 フリードマン(株主至上主義) フリーマン(ステークホルダー理論)
企業の目的 株主利潤の最大化 全ステークホルダーの価値創出
社会的責任 法の範囲内での利潤追求そのものが責任 多様な利害関係者への配慮が責任
経営者の義務 株主への受託者責任 ステークホルダー全体への責任
理論的基盤 新古典派経済学、代理人理論 組織の関係性、社会契約
CSRの評価 株主への背信(利潤の私的流用) 企業の持続可能性の条件

この論争は単純な二項対立ではなく、近年では両者の統合が模索されている。2019年、米国のビジネス・ラウンドテーブル(Business Roundtable)は「企業の目的に関する声明」を改訂し、株主至上主義を放棄してすべてのステークホルダーへのコミットメントを宣言した。これは制度的レベルでのステークホルダー理論の浸透を示すものとして注目された。

ステークホルダー理論の意義と限界

ステークホルダー理論は、企業の社会的責任に理論的正当性を与え、CSR実践の基盤を提供した点で大きな意義を持つ。同時に、以下の批判がある。

  • 利害調整の困難: 複数のステークホルダー間で利害が対立する場合、誰の利害を優先すべきかの明確な基準がない
  • 操作性の問題: すべてのステークホルダーを考慮するという要請は、実務上は曖昧な判断を許容する余地を残す
  • 経営責任の拡散: 株主に対する明確な責任関係を希薄化させ、経営者の説明責任を曖昧にする可能性がある

ステークホルダー・エンゲージメントの実践

ステークホルダー・エンゲージメントとは

ステークホルダー・エンゲージメント(Stakeholder Engagement)とは、企業がステークホルダーの関心事項を理解し、対話を通じて双方向的に関係を構築する取り組みを指す。単なる情報提供(一方向的なコミュニケーション)とは異なり、ステークホルダーの意見を経営の意思決定プロセスに反映させる双方向性が本質的な要素である。

AA1000SES:エンゲージメントの国際基準

AccountAbility(英国の非営利団体)が策定したAA1000ステークホルダー・エンゲージメント基準(AA1000SES)は、エンゲージメントの計画・実行・評価のフレームワークを提供している。主要な原則は以下の三つである。

  1. 包摂性(Inclusivity): 影響を受けるすべてのステークホルダーの参加を確保する
  2. 重要性(Materiality): 組織とステークホルダーの双方にとって重要な課題を特定する
  3. 応答性(Responsiveness): ステークホルダーの関心事項に対して組織的に対応する

エンゲージメントのプロセスは、Plan(計画)→ Prepare(準備)→ Implementation(実行)→ Review and Improve(評価・改善)のサイクルで構成される。

エンゲージメントの方法

ステークホルダー・エンゲージメントの具体的方法は多岐にわたる。

方法 概要 適用場面
ステークホルダー・ダイアログ 特定課題について関係者を集めた対話 方針策定、リスク特定
アンケート調査 広範なステークホルダーの意見集約 全体動向の把握
パブリック・コメント 政策案・計画案への意見公募 規制対応、事業計画
諮問委員会・審議会 有識者・代表者による助言機関 継続的な課題検討
参画型意思決定 ステークホルダーが経営の意思決定に直接参加 重要な戦略的判断

事例:ISO 26000の策定過程

ISO 26000(社会的責任に関する国際規格、2010年発行)の策定過程は、マルチステークホルダー・プロセスの先駆的実践として知られる。策定にあたっては、99か国・42の国際機関から450名以上のエキスパートが参加した。参加者は以下の6つのカテゴリーに分類され、各カテゴリーが対等の立場で議論に参加した。

  1. 政府
  2. 企業(産業界)
  3. 労働者
  4. 消費者
  5. NGO
  6. その他有識者(SSRO: Service, Support, Research and Others)

このマルチステークホルダー・プロセスは、ISO規格としては初めての試みであり、規格の正当性と実効性を高めるアプローチとして評価されている。ISO 26000は認証規格ではなくガイダンス文書であり、組織の社会的責任に関する7つの中核主題(組織統治、人権、労働慣行、環境、公正な事業慣行、消費者課題、コミュニティへの参画及びコミュニティの発展)を定めている。


まとめ

  • 企業倫理の理論的基礎として、功利主義(帰結の効用)、義務論(行為自体の道徳性)、徳倫理学(行為者の人格的徳)の三つの規範倫理学理論があり、それぞれビジネス上の意思決定に異なる判断基準を提供する
  • CSRの概念はボーエン(1953年)に始まり、フリードマンの株主至上主義による批判を経て、キャロルのCSRピラミッド(1991年)、ポーターとクレイマーの戦略的CSR・CSV(2006年、2011年)へと展開した
  • フリーマンのステークホルダー理論(1984年)は、企業の目的を株主利益最大化から全ステークホルダーへの価値創出へと転換し、CSR実践の理論的基盤を提供した
  • ステークホルダー・エンゲージメントは、AA1000SESなどの国際基準に基づく体系的な実践枠組みが整備されており、ISO 26000の策定過程はその先駆的実践例である
  • 次セクションでは、これらの理論的枠組みが制度としてどのように具体化されているかを、コーポレートガバナンスの制度と実践として検討する

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
功利主義 Utilitarianism 行為の道徳的正しさを帰結における効用の総量で判定する倫理理論。ベンサムとミルが体系化
義務論 Deontology 行為の道徳的正しさを行為自体の性質や行為者の義務に基づいて判定する倫理理論。カントの定言命法が代表
徳倫理学 Virtue Ethics 行為者の人格的徳に焦点を当てる倫理理論。アリストテレスに起源を持つ
CSR Corporate Social Responsibility 企業が経済的利潤追求のみならず社会的・環境的影響に対して責任を負うべきとする概念
ステークホルダー理論 Stakeholder Theory 企業経営がすべての利害関係者の利益を考慮すべきとする理論。フリーマン(1984年)が体系化
キャロルのCSRピラミッド Carroll's CSR Pyramid 企業の社会的責任を経済的・法的・倫理的・慈善的の四層構造で示すモデル(1991年)
社会契約 Social Contract 企業と社会の間の暗黙的な権利と義務の相互的合意。ISCTとして体系化された
フリードマン・ドクトリン Friedman Doctrine 企業の社会的責任は利潤最大化であるとするフリードマンの主張(1970年)
CSV Creating Shared Value 社会的価値と経済的価値の同時実現を目指す経営アプローチ。ポーターとクレイマー(2011年)
ステークホルダー・エンゲージメント Stakeholder Engagement 企業がステークホルダーと双方向的な対話を通じて関係を構築する取り組み
AA1000SES AA1000 Stakeholder Engagement Standard AccountAbilityが策定したステークホルダー・エンゲージメントの国際基準
ISO 26000 ISO 26000 社会的責任に関する国際規格(2010年発行)。ガイダンス文書であり認証規格ではない

確認問題

Q1: 功利主義、義務論、徳倫理学の三つの倫理理論は、それぞれどのような判断基準に基づいて行為の道徳的正しさを評価するか。また、それぞれの理論をビジネス上の意思決定に適用する場合の限界を一つずつ挙げよ。

A1: 功利主義は行為の帰結がもたらす効用の総量を判断基準とし、総効用を最大化する行為を道徳的に正しいとする。限界として、少数者の権利を多数者の利益のために犠牲にし得る構造的問題がある。義務論は行為そのものの性質や行為者の義務を判断基準とし、普遍化可能な道徳法則に合致する行為を正しいとする。限界として、複数の義務が衝突する場合に明確な優先順位を示せない。徳倫理学は行為者の人格的徳(誠実さ、公正さ等)を判断基準とし、有徳な人がその状況においてなすであろう行為を正しいとする。限界として、具体的な行為指針の導出が困難であり、状況ごとに判断が異なり得る。

Q2: CSRの概念的展開において、ボーエン(1953年)、フリードマン(1970年)、キャロル(1991年)、ポーター=クレイマー(2006年、2011年)の各論者はそれぞれどのような立場をとったか。その歴史的展開を論理的に説明せよ。

A2: ボーエンは1953年に企業経営者が社会の目的と価値に照らして望ましい行動をとる義務があるとしてCSRの概念を学術的に提起した。フリードマンは1970年にこれに反論し、企業の社会的責任は法の範囲内で利潤を最大化することに限定されるべきであり、それ以外の社会的支出は株主への背信であると主張した(株主至上主義)。キャロルは1991年にCSRを経済的・法的・倫理的・慈善的の四層構造として体系化し、利潤追求と社会的責任は二者択一ではなく、階層的に両立するものとして整理した。ポーターとクレイマーは2006年に戦略的CSRを提唱して企業の本業と社会貢献の統合を主張し、2011年にはCSV(共通価値の創造)として、社会的価値と経済的価値の同時実現を企業戦略の中核に位置づけた。この展開は、CSRが「義務としての社会貢献」から「戦略としての価値創造」へと変容する過程を示している。

Q3: フリーマンのステークホルダー理論がCSRの議論にもたらした転換の意義と、同理論に対する批判をそれぞれ説明せよ。

A3: フリーマンのステークホルダー理論(1984年)は、企業の目的を株主利潤の最大化に限定する従来の企業観を根本的に転換し、企業活動に影響を与え・受けるすべての利害関係者の利益を経営上考慮すべきとした。これにより、CSRは慈善活動ではなく、企業の戦略的存続にとって不可欠な経営課題として位置づけられた。また、ステークホルダーの特定と利害調整という具体的な経営実践の枠組みを提供した。一方で批判として、複数のステークホルダー間で利害が対立する際に誰の利益を優先すべきかの明確な基準を欠く点、すべてのステークホルダーへの配慮という要請が実務上曖昧な判断を許容する点、株主に対する明確な受託者責任を希薄化させ経営者の説明責任を曖昧にする可能性がある点が指摘されている。

Q4: ジョンソン・エンド・ジョンソンのタイレノール事件(1982年)における同社の対応を、功利主義・義務論・徳倫理学の三つの観点からそれぞれ分析せよ。

A4: 功利主義の観点からは、全米規模の自主回収は短期的に1億ドル超の損失をもたらしたが、消費者の安全確保と企業の信頼維持による長期的便益がそれを上回り、結果としてブランド価値の回復・強化という最大効用を実現した。義務論の観点からは、同社のクレド(我が信条)が定める「顧客の安全を最優先する」という義務を忠実に履行した行為であり、法的責任がない状況においても、消費者に対する誠実さの義務を果たした。徳倫理学の観点からは、CEO ジェームズ・バークの意思決定は、短期的利益よりも誠実さ(Integrity)と勇気(Courage)という人格的徳に基づくリーダーシップの発揮であり、組織全体の倫理的行動を方向づける徳あるリーダーの行為として評価される。

Q5: ISO 26000の策定過程におけるマルチステークホルダー・プロセスの特徴を説明し、ステークホルダー・エンゲージメントの実践としての意義を論じよ。

A5: ISO 26000の策定過程では、99か国・42国際機関から450名以上のエキスパートが参加し、政府・企業・労働者・消費者・NGO・その他有識者の6つのカテゴリーの代表が対等の立場で議論に参加した。このマルチステークホルダー・プロセスはISO規格として初の試みであり、特定の利害関係者グループに偏らない包摂的な規格策定を実現した。ステークホルダー・エンゲージメントの実践としての意義は、第一に多様なステークホルダーの参加による正当性の確保、第二に異なる立場からの知見統合による内容の質的向上、第三にプロセスへの参加を通じた規格への当事者意識の醸成にある。AA1000SESが示す包摂性・重要性・応答性の三原則が実際に機能した事例として、エンゲージメントの有効性を示すものである。