コンテンツにスキップ

Module 3-5 - Section 3: イノベーション・マネジメントの実践

セクション情報

項目 内容
モジュール Module 3-5: 経営情報論・イノベーション
前提セクション Section 1, Section 2
想定学習時間 3時間

導入

Section 2では、シュンペーターの新結合やクリステンセンの破壊的イノベーションなど、イノベーションの理論的基盤を検討した。しかし、理論が示す「何が起きるか」を理解しただけでは、経営上の課題は解決しない。企業が直面する本質的な問いは、「いかにしてイノベーションを組織的に創出・管理し、事業として成立させるか」である。

本セクションでは、この問いに対する実践的フレームワークを扱う。まず、企業の境界を越えた知識活用を説くオープン・イノベーションの概念を検討し、次に研究成果を事業化に結びつける技術経営(MOT)の視点から、研究と市場の間に横たわる「死の谷」「ダーウィンの海」といった障壁を分析する。さらに、新事業創造の方法論としてアントレプレナーシップとリーンスタートアップを概観し、既存企業が探索と深化を両立させる「両利きの経営」、そしてユーザー起点のイノベーション手法であるデザイン思考を取り上げる。


オープン・イノベーション

クローズド・イノベーションからの転換

20世紀の大企業は、研究開発を社内で完結させるクローズド・イノベーション(Closed Innovation)モデルを基本としていた。自社の研究所で発見した技術を自社で製品化し、自社のチャネルで市場に投入するという垂直統合型のプロセスである。AT&Tのベル研究所やゼロックスのPARC(パロアルト研究所)はその典型であった。

しかし、2000年前後から、研究人材の流動化、ベンチャーキャピタルの発達、技術の複雑化・融合化が進み、1社で必要な技術をすべて開発することの非効率性が顕在化した。ヘンリー・チェスブロウ(Henry Chesbrough)は、この構造変化を理論的に整理し、2003年の著書『Open Innovation: The New Imperative for Creating and Profiting from Technology』においてオープン・イノベーションの概念を提唱した。

Key Concept: オープン・イノベーション(Open Innovation) 企業が技術革新を推進する際に、社内のアイデアと社外のアイデアを共に活用し、社内・社外の両方の市場化経路を用いるべきであるとするパラダイム。チェスブロウ(2003)が提唱。2014年にはチェスブロウとマルセル・ボーガーズ(Marcel Bogers)により「組織境界を越えた意図的に管理された知識フローに基づく分散型イノベーション・プロセス」と再定義された。

オープン・イノベーションの構造

オープン・イノベーションには3つの主要プロセスがある。

  1. アウトサイド・イン(Outside-in): 外部の知識・技術を社内に取り込む。大学との共同研究、スタートアップへの投資、技術ライセンスの導入などが含まれる。
  2. インサイド・アウト(Inside-out): 社内で活用されていない技術や知的財産を外部に提供する。スピンオフ、ライセンス供与、技術売却などが該当する。
  3. カップルド(Coupled): アウトサイド・インとインサイド・アウトを組み合わせた双方向型。戦略的アライアンスやジョイントベンチャーなどの形態をとる。
graph LR
    subgraph 外部環境["外部環境"]
        UNI["大学・研究機関"]
        SU["スタートアップ"]
        OTH["他社・サプライヤー"]
    end

    subgraph 企業["企業の境界"]
        RD["研究開発"]
        BIZ["事業化"]
    end

    subgraph 市場["市場"]
        EM["既存市場"]
        NM["新規市場"]
    end

    UNI -->|"技術導入"| RD
    SU -->|"買収・提携"| RD
    OTH -->|"ライセンス・イン"| RD
    RD --> BIZ
    BIZ --> EM
    BIZ --> NM
    RD -->|"ライセンス・アウト"| OTH
    RD -->|"スピンオフ"| SU

実践事例: P&Gのコネクト+デベロップ

オープン・イノベーションの代表的な実践例が、P&G(プロクター・アンド・ギャンブル)の「コネクト+デベロップ(Connect + Develop)」戦略である。2000年にCEOに就任したA.G.ラフリー(A.G. Lafley)は、従来の「自前主義(invent it ourselves)」からの転換を図り、社外からのアイデア発掘を組織的に推進した。

ラリー・ヒューストン(Larry Huston)とナビル・サッカブ(Nabil Sakkab)が2006年にHarvard Business Reviewに発表した論文によれば、この戦略の成果は顕著であった。2006年時点で、P&Gの新製品の35%以上が社外起源の要素を含んでおり、2000年の約15%から大幅に増加した。イノベーションの成功率は2倍以上に向上し、コストは削減された。たとえば、プリングルズの表面に文字や絵を印刷する「プリングルズ・プリンツ」は、イタリアの教授が開発したインクジェット技術を応用することで、コンセプトから発売まで1年未満で実現された。

オープン・イノベーションの適用可能性と限界

オープン・イノベーション論に対しては、その適用範囲に関する学術的議論が存在する。チェスブロウの原型モデルは主に大企業の研究開発を念頭に置いたものであり、中小企業(SME)への適用には構造的な課題がある。中小企業は財務資源の制約、知的財産管理の脆弱性、外部連携のためのマネジメント・スキル不足といった問題に直面しやすい。また、業種によってオープン・イノベーションの有効性は異なり、知識集約型産業では効果が大きい一方、伝統的製造業では導入コストに見合わない場合がある。

ただし、中小企業においてもネットワーキングを通じた低コストの知識獲得など、規模に応じたオープン・イノベーションの形態が模索されている点は注目に値する。


技術経営(MOT)と事業化の障壁

MOTの基本概念

Key Concept: MOT(Management of Technology) 技術に立脚する事業を行う企業・組織が、持続的発展のために、技術の持つ可能性を見極めて事業に結びつけ、経済的価値を創出していく経営のあり方。MITを起源とし、経営学の一応用領域として発展した。日本語では「技術経営」と訳される。

MOTは、MBAが経営全般を扱うのに対し、技術と経営の接点に特化した専門領域である。その中核的な問いは、「優れた技術をいかにして市場価値のある製品・サービスに変換するか」という点にある。技術の評価・選択、研究開発マネジメント、知的財産戦略、技術移転、新事業創造などが主要な研究・教育テーマとなる。

日本では2000年代以降、専門職大学院(MOT大学院)が設置され、製造業を中心とした技術系企業の経営人材育成に貢献している。

死の谷とダーウィンの海

研究成果が市場で事業として成立するまでには、複数の構造的障壁が存在する。フィリップ・オースワルド(Philip Auerswald)とルイス・ブランスコム(Lewis Branscomb)は、2003年の論文「Valleys of Death and Darwinian Seas」(Journal of Technology Transfer)において、この障壁を体系的に分析した。

Key Concept: 死の谷(Valley of Death) 基礎研究の成果が製品開発段階へと移行する過程で、資金・資源が途絶しやすい局面。研究段階では公的資金や企業の研究予算が充当されるが、事業化の見通しが不確実な段階では民間投資も公的支援も得にくくなる構造的ギャップを指す。

死の谷が生じる原因として、オースワルドとブランスコムは情報とモチベーションの非対称性、および制度的ギャップを挙げている。基礎研究の成果は技術的な可能性を示すものの、市場での実現可能性や収益性に関する情報が不足しているため、民間投資家にとって投資判断が困難になる。産業界の推計では、新たな発明の5件中4件は商業化に至らないとされる。

一方、ダーウィンの海(Darwinian Sea) は、製品化には成功したものの、市場での競争を勝ち抜いて事業として持続させる段階の障壁を指す。新技術と既存の商業的アプリケーションとの間のギャップであり、競合との価格競争、顧客基盤の確立、スケーラビリティの確保といった課題が集中する局面である。

graph TD
    subgraph 段階["イノベーション・プロセスの各段階と障壁"]
        A["基礎研究"] -->|"研究成果"| B["応用研究・開発"]
        B -->|"プロトタイプ"| C["製品化"]
        C -->|"市場投入"| D["事業化・成長"]
    end

    V["死の谷<br/>資金・資源の途絶"] -.->|"障壁"| B
    W["ダーウィンの海<br/>市場競争での淘汰"] -.->|"障壁"| D

    subgraph 支援["各段階の主な資金源"]
        F1["公的研究資金<br/>企業の基礎研究予算"]
        F2["VC・エンジェル投資<br/>補助金"]
        F3["事業収益<br/>成長資金"]
    end

    F1 -.-> A
    F2 -.-> C
    F3 -.-> D

障壁を越えるためのアプローチ

死の谷を越えるための施策としては、以下が挙げられる。

  • 産学連携の強化: 大学の研究成果を事業化につなげるTLO(技術移転機関)やインキュベーション施設の整備
  • ステージゲート・プロセス: 研究開発を複数の段階に分け、各段階で評価・選別を行う管理手法
  • CVCの活用: コーポレート・ベンチャー・キャピタル(CVC)による外部スタートアップへの戦略的投資
  • 政府系ファンド・補助金: SBIR(Small Business Innovation Research)のような、技術商業化を支援する公的プログラム

ダーウィンの海に対しては、リード・ユーザーとの共同開発、段階的な市場参入、戦略的提携によるチャネル確保などが有効とされる。


アントレプレナーシップの基礎

アントレプレナーシップの学術的定義

Key Concept: アントレプレナーシップ(Entrepreneurship) 新たな財・サービス・生産方式・組織方法・市場を創出する機会を発見・評価・活用する活動。スコット・シェーン(Scott Shane)とサンカラン・ヴェンカタラマン(Sankaran Venkataraman)は2000年の論文で、アントレプレナーシップの学術領域を「将来の財・サービスを創造する機会が、いかにして、誰によって、どのような効果をもって発見・評価・活用されるかを学術的に探求する分野」と定義した。

シェーンとヴェンカタラマンの定義は、アントレプレナーシップ研究を個人の属性論(「起業家とはどのような人物か」)から、機会と個人の交差(「なぜある個人は特定の機会を認識・活用するのか」)へと転換させた点で画期的であった。彼らは起業機会(entrepreneurial opportunity)を「新たな財・サービス・原材料・組織方法が生産コストを上回る価格で販売可能な状況」と定義し、これを客観的に存在する現象として位置づけた。

機会認識のプロセス

起業機会の認識には、以下の要因が関与する。

  • 情報の非対称性: すべての個人が同じ情報にアクセスできるわけではなく、特定の知識や経験を持つ個人が機会を発見しやすい
  • 先行知識(Prior knowledge): 特定の市場・技術・顧客ニーズに関する蓄積された知識が機会認識を促進する
  • 認知的特性: アラートネス(alertness)と呼ばれる、環境の変化に対する感受性の高さ。イスラエル・カーズナー(Israel Kirzner)が提唱した概念に遡る

リーンスタートアップ

Key Concept: リーンスタートアップ(Lean Startup) エリック・リース(Eric Ries)が提唱した、新事業を構築するための方法論。「構築(Build)→ 計測(Measure)→ 学習(Learn)」のフィードバック・ループを高速に回し、最小限の実行可能な製品(MVP)を用いて顧客からの検証済み学習(validated learning)を獲得することで、不確実性下での意思決定を改善する。

リーンスタートアップの方法論は、リースが2008年の著書で体系化し、2011年の『The Lean Startup』で広く普及した。トヨタ生産方式に着想を得た「無駄の排除」の思想を新事業開発に適用したものであり、伝統的な事業計画書ベースのアプローチに対する代替案として位置づけられる。

Key Concept: MVP(Minimum Viable Product) 顧客について最大限の検証済み学習を最小限の労力で獲得できる製品バージョン。MVPの目的は「最小限の製品を作ること」ではなく、仮説検証のための実験を設計することにある。リースは、MVPが定式的なものではなく、文脈に応じた判断を要する概念であることを強調している。

事例: DropboxのMVP

DropboxのCEOであるドリュー・ヒューストン(Drew Houston)は、リーンスタートアップの実践例として広く知られる。Dropboxは当初、Google AdWordsによる顧客獲得コストが1人あたり399ドルと、99ドルの製品価格を大幅に上回っていた。そこでヒューストンは、完全な製品を開発する前に3分間のデモ動画をMVPとして制作した。この動画はHacker Newsなどで共有され、ベータ版の待機リストが一夜にして5,000人から75,000人に急増した。その後、リーンスタートアップの原則に基づく反復的な改善により、15ヶ月で登録者数は10万人から400万人以上に成長した。

リーンスタートアップの学術的評価

リーンスタートアップは実務界で広く普及し、大企業、政府機関、NGOにまで浸透しているが、その学術的エビデンスは限定的である。ディーン・シェパード(Dean Shepherd)とマーク・グルーバー(Marc Gruber)は2021年の論文で「学術と実務の乖離」を指摘している。

主な学術的批判は以下の通りである。

  1. 仮説生成の指針不足: 何をテストすべきかについてのガイダンスが不十分であり、顧客フィードバックからの経験的学習にも限界がある
  2. 漸進的イノベーションへの収斂リスク: 迅速な試行錯誤の過度な重視が、画期的なアイデアの棄却につながる可能性がある。検証しやすいアイデアに偏重し、本質的に重要だが検証困難なアイデアが排除されるリスクがある
  3. 適用範囲の限定性: ソフトウェアやウェブ関連の低コスト・スタートアップには適合するが、大規模な資本投資を要する事業やハードウェア分野では制約が大きい
  4. MVP設計の困難さ: 調査では回答者の62%がMVPを重要概念と評価する一方、82%がその定義・設計をリーンスタートアップの欠点として指摘している

一方で、意図的な実験を行った起業家はそうでない者と比較して業績が良く、ピボットの頻度が高く、途中離脱率が低いという実証的知見も存在する。リーンスタートアップの有効性は全面的に否定されるものではないが、万能の方法論ではなく、文脈に応じた適用が求められる。


両利きの経営

探索と深化のジレンマ

Key Concept: 両利きの経営(Organizational Ambidexterity) 既存事業の深化(exploitation)と新規事業の探索(exploration)を同時に追求する組織能力。チャールズ・オライリー(Charles O'Reilly)とマイケル・タッシュマン(Michael Tushman)が1996年に提唱し、以降の研究で精緻化された。ジェームズ・マーチ(James March)の組織学習論(探索と深化のトレードオフ、1991年)を基盤とする。

マーチ(1991)は、組織学習において探索(exploration)と深化(exploitation)の間にトレードオフが存在することを指摘した。深化は「効率性、生産性の向上、管理、確実性、分散の縮小」に関わり、探索は「探求、発見、自律性、イノベーション、分散の受容」に関わる。組織は有限な資源をこの二つの活動に配分する必要があるが、深化に偏れば環境変化に適応できず(コンピテンシー・トラップ)、探索に偏れば既存事業の収益が毀損される(フェイリュア・トラップ)。

構造的アンビデクストリティ

オライリーとタッシュマンは、この矛盾を解決するアプローチとして構造的アンビデクストリティ(structural ambidexterity) を提案した。その構成要素は以下の通りである。

  1. 探索と深化のための自律的な組織ユニット: 探索ユニットと深化ユニットを構造的に分離し、それぞれに適した組織文化・プロセス・人材を配置する
  2. 資産活用のための統合メカニズム: 分離されたユニット間で、必要に応じて資源や知識を共有するための横断的な調整機能を設ける
  3. 正当性を付与する全社ビジョン: 探索と深化の双方を正当化する包括的なビジョンやアイデンティティを経営トップが提示する
  4. 矛盾を管理するリーダーシップ: 複数の組織アラインメントに伴う緊張関係を管理できる経営幹部の存在

オライリーとタッシュマンは、アンビデクストリティの実現において「構造の問題以上にリーダーシップの問題である」と強調している。研究の蓄積により、アンビデクストリティは売上成長、主観的業績評価、イノベーション、市場評価、企業の存続確率と正の相関があることが確認されている。

実践事例: 富士フイルムの事業転換

富士フイルムの事業転換は、両利きの経営の日本における代表的事例である。カラーフィルム市場は2000年をピークに年率20%以上の速度で縮小した。競合のイーストマン・コダック(Eastman Kodak)が2012年に経営破綻したのに対し、富士フイルムは大胆な事業転換に成功した。

その要因として以下の点が指摘されている。

  • 早期の危機認識と先行投資: 1988年、カラーフィルムの成長が続いていた時期に世界初のフルデジタルカメラを発表。既存事業が好調な時期から探索的投資を実施した
  • 技術の転用: 写真フィルム開発で培った化学技術・微粒子制御技術・コラーゲン技術を、化粧品(アスタリフト)、医薬品、高機能材料、医療機器などに転用した
  • M&Aによる事業ポートフォリオの組み替え: 積極的な買収を通じて、ヘルスケアやマテリアルズ(高機能材料)領域への事業構成を転換した
  • 構造的分離: 既存の写真フィルム事業を維持しつつ、新規事業部門を組織的に分離して運営した

富士フイルムの事例は、既存事業の深化で蓄積された技術的ケイパビリティを、新たな探索領域に戦略的に再配置するという、両利きの経営の実践形態を示している。


デザイン思考とイノベーション

デザイン思考の定義と起源

Key Concept: デザイン思考(Design Thinking) 人間中心のイノベーション・アプローチであり、人々のニーズ、技術的な実現可能性、ビジネスとしての持続可能性を統合するためにデザイナーのツールキットを活用する方法論。IDEO社のティム・ブラウン(Tim Brown)が2008年のHarvard Business Review論文で体系的に提唱した。

デザイン思考は、従来のビジネス教育が分析的思考を重視し、問題の目標と制約条件を事前に明確化してから解法を探索するのに対し、思考と行動を一体化させた反復的探索を通じて目標と制約条件そのものを発見していくアプローチである。IDEO社は1991年にデイヴィッド・ケリー・デザイン(David Kelley Design)など複数のデザイン会社の統合によって設立され、デザイン思考の実践と普及の中心的存在となった。

デザイン思考のプロセス

ブラウンによれば、デザイン思考のプロセスは3つの空間(space)から構成される。

  1. 着想(Inspiration): 解決すべき問題や機会を特定する。エスノグラフィー調査やユーザー観察を通じて、潜在的なニーズを発掘する
  2. 発案(Ideation): アイデアを生成・発展・検証する。ブレインストーミング、プロトタイピング、シナリオ構築などの手法を用いる
  3. 実現(Implementation): アイデアを実際の製品・サービスとして市場に投入する

これらは線形のプロセスではなく、反復的に行き来する。また、スタンフォード大学d.schoolは、これを「共感(Empathize)→ 定義(Define)→ 発案(Ideate)→ プロトタイプ(Prototype)→ テスト(Test)」の5段階モデルとして再整理している。

デザイン思考の核心にある態度は、「共感(empathy)、楽観主義(optimism)、反復(iteration)、創造性(creativity)、曖昧さの許容(ambiguity)」である。科学や技術ではなく、人間を出発点とする点が伝統的な工学的アプローチとの最大の相違点である。

デザイン思考とイノベーション・マネジメントの関係

デザイン思考は、本セクションで扱った他のフレームワークと補完的な関係にある。

  • オープン・イノベーションとの関係: デザイン思考のユーザー観察やプロトタイピングは、外部からの知識獲得の一形態として機能しうる
  • リーンスタートアップとの関係: 双方ともに反復的な検証プロセスを重視するが、デザイン思考が問題の定義・共感段階を重視するのに対し、リーンスタートアップはソリューション仮説の市場検証に重点を置く
  • 両利きの経営との関係: 探索ユニットにおける新事業機会の発見手法として、デザイン思考が活用されることがある

まとめ

セクションの要点

  • オープン・イノベーションは、企業の境界を越えた知識フローを意図的に管理する分散型イノベーション・プロセスであり、アウトサイド・イン、インサイド・アウト、カップルドの3つのプロセスから構成される。P&Gのコネクト+デベロップはその代表的な成功事例だが、中小企業への適用には固有の課題がある
  • MOT(技術経営) は技術と経営の接点に特化した専門領域であり、研究成果の事業化プロセスには「死の谷」(研究→開発段階の資金ギャップ)と「ダーウィンの海」(市場競争での淘汰)という構造的障壁が存在する
  • アントレプレナーシップは機会の発見・評価・活用に関する学術領域であり、リーンスタートアップはBuild-Measure-LearnループとMVPによる仮説検証を中核とする方法論である。実務的有用性は広く認められているが、学術的エビデンスは限定的であり、適用範囲に留意が必要である
  • 両利きの経営は、既存事業の深化と新規事業の探索を同時に追求する組織能力であり、その実現にはリーダーシップと構造的分離の両方が必要である。富士フイルムの事業転換は、技術ケイパビリティの戦略的再配置による成功事例である
  • デザイン思考は人間中心のイノベーション・アプローチであり、着想・発案・実現の反復的プロセスを通じて問題と解法を同時に探索する

モジュール全体の総括

本モジュール(Module 3-5: 経営情報論・イノベーション)では、3つのセクションを通じて、情報技術とイノベーションが現代の企業経営に与える影響を多角的に検討した。

Section 1では、情報システムの類型化(TPS、MIS、DSS、EIS/ESS、ERP)からDX(デジタル・トランスフォーメーション)、プラットフォーム・ビジネスに至るまで、ITと経営戦略の接点を整理した。Section 2では、シュンペーターの新結合、クリステンセンの破壊的イノベーション、技術のSカーブなど、イノベーションの理論的基盤を学んだ。そして本セクション(Section 3)では、これらの理論を踏まえ、イノベーションをいかに組織的に創出・管理するかという実践的フレームワークを概観した。

これら3つのセクションに通底するのは、技術そのものの優劣がイノベーションの成否を決定するわけではないという認識である。重要なのは、技術を事業価値に変換するための組織能力、戦略的意思決定、そして経営のあり方である。オープン・イノベーションは「知識はどこからでも来うる」という前提に立ち、MOTは「研究と市場の間の障壁を超える」方法を問い、リーンスタートアップは「不確実性下での学習」を加速させ、両利きの経営は「深化と探索の両立」という根本的なジレンマに取り組む。デザイン思考は、これらすべての前提として「そもそも何が問題なのか」をユーザー起点で再定義する方法を提供する。

情報技術の発展は、こうしたイノベーション・マネジメントの手法自体をも変容させている。DXが組織のあり方を変え、プラットフォームが市場構造を変え、データ分析が意思決定を変える中で、イノベーション・マネジメントは静的なフレームワークとしてではなく、技術・市場・組織の共進化の中で動態的に捉えるべき領域である。

用語集(Glossary)

用語 英語表記 定義
オープン・イノベーション Open Innovation 組織境界を越えた意図的に管理された知識フローに基づく分散型イノベーション・プロセス。チェスブロウ(2003)が提唱
MOT Management of Technology 技術に立脚する企業が技術の可能性を事業に結びつけ経済的価値を創出する経営のあり方。技術経営と訳される
死の谷 Valley of Death 基礎研究から製品開発への移行過程で資金・資源が途絶しやすい構造的ギャップ
ダーウィンの海 Darwinian Sea 製品化後、市場競争を勝ち抜いて事業として持続させる段階の障壁
アントレプレナーシップ Entrepreneurship 新たな財・サービス・組織方法を創出する機会の発見・評価・活用に関する活動および学術領域
リーンスタートアップ Lean Startup Build-Measure-Learnのフィードバック・ループとMVPによる仮説検証を中核とする新事業構築方法論
MVP Minimum Viable Product 顧客について最大限の検証済み学習を最小限の労力で獲得できる製品バージョン
両利きの経営 Organizational Ambidexterity 既存事業の深化と新規事業の探索を同時に追求する組織能力
デザイン思考 Design Thinking 人間中心のイノベーション・アプローチ。着想・発案・実現の反復的プロセスを通じて問題と解法を同時に探索する
コネクト+デベロップ Connect + Develop P&Gが採用したオープン・イノベーション戦略。社外からのアイデア発掘を組織的に推進する取り組み
構造的アンビデクストリティ Structural Ambidexterity 探索と深化のための組織ユニットを構造的に分離し、統合メカニズムで連携させるアプローチ

確認問題

Q1: オープン・イノベーションとクローズド・イノベーションの本質的な相違点を説明し、オープン・イノベーションが台頭した背景にある構造変化を3つ挙げよ。

A1: クローズド・イノベーションは研究開発から市場投入までを社内で完結させるモデルであり、オープン・イノベーションは組織境界を越えた知識フローを意図的に管理する分散型モデルである。本質的な相違は、社外のアイデアや市場化経路を社内と同等に重視するか否かにある。背景の構造変化としては、(1) 研究人材の流動化(研究者が企業間・大学間を移動するようになった)、(2) ベンチャーキャピタルの発達(社外のアイデアが事業化される経路が整備された)、(3) 技術の複雑化・融合化(1社で必要な技術すべてを開発することの非効率性が増大した)が挙げられる。

Q2: 「死の谷」と「ダーウィンの海」はイノベーション・プロセスのどの段階に位置する障壁か。それぞれの障壁が生じるメカニズムの違いを説明せよ。

A2: 死の谷は基礎研究から応用研究・製品開発への移行段階に位置する障壁であり、ダーウィンの海は製品化後に市場競争を勝ち抜いて事業として持続させる段階の障壁である。死の谷のメカニズムは、研究段階の公的資金と事業段階の民間投資の間に制度的ギャップが存在し、技術の市場実現可能性に関する情報の非対称性が民間投資家の投資判断を困難にすることにある。一方、ダーウィンの海は、新技術と既存の商業的応用の間のギャップに起因し、競合との価格競争、顧客基盤の確立、スケーラビリティの確保といった市場メカニズムに根ざした淘汰圧力が障壁となる。

Q3: 両利きの経営(Organizational Ambidexterity)の理論的基盤であるマーチの探索・深化のトレードオフについて説明し、オライリーとタッシュマンが提案した構造的アンビデクストリティの4つの構成要素を述べよ。

A3: マーチ(1991)は、組織が有限な資源を探索(新たな可能性の追求)と深化(既存能力の活用・改善)に配分する必要があり、両者の間にトレードオフが存在することを指摘した。深化に偏れば環境変化への適応力を失い(コンピテンシー・トラップ)、探索に偏れば既存事業の収益が毀損される(フェイリュア・トラップ)。オライリーとタッシュマンの構造的アンビデクストリティの4構成要素は、(1) 探索と深化のための自律的な組織ユニットの構造的分離、(2) ユニット間での資産活用のための統合メカニズム、(3) 両活動を正当化する全社ビジョンの提示、(4) 複数の組織アラインメントに伴う矛盾を管理するリーダーシップ、である。

Q4: リーンスタートアップの方法論の中核であるBuild-Measure-Learnループの概要を説明し、この方法論に対する学術的批判を2つ以上挙げよ。

A4: Build-Measure-Learnループは、仮説に基づいてMVP(最小限の実行可能な製品)を構築し(Build)、顧客の反応を計測し(Measure)、そこから検証済みの学習を獲得する(Learn)という反復的プロセスである。高速にこのループを回すことで、不確実性の高い環境下での意思決定を改善する。学術的批判としては、(1) 仮説生成に関する指針が不十分であり、何をテストすべきかの理論的基盤が弱い、(2) 迅速な試行錯誤の重視が検証しやすい漸進的アイデアへの偏重をもたらし、画期的だが検証困難なアイデアを排除するリスクがある、(3) ソフトウェア・ウェブ関連以外の分野(ハードウェア、大規模資本投資を要する事業)への適用に制約がある、(4) 方法論の有効性に関する実証的エビデンスが限定的である、などが挙げられる。

Q5: 富士フイルムの事業転換を「両利きの経営」の観点から分析し、同じ写真フィルム業界のコダックとの対比でどのような経営判断の差異があったか論じよ。

A5: 富士フイルムは、カラーフィルム市場が好調だった1988年にフルデジタルカメラを発表するなど、既存事業が収益を生んでいる段階から探索的投資を継続した。写真フィルムの化学技術・微粒子制御技術を化粧品・医薬品・高機能材料に転用し、積極的なM&Aで事業ポートフォリオを組み替えた。これは構造的アンビデクストリティの実践であり、既存事業の深化で蓄積された技術ケイパビリティを新領域での探索に戦略的に再配置した。一方、コダックは既存のフィルム事業の深化に偏り、デジタル化という環境変化への探索的対応が遅れた。デジタルカメラ技術の先駆者でありながら、既存事業の収益性がその推進を阻害するという、まさにコンピテンシー・トラップに陥った。両社の差異は、探索と深化の同時追求を可能にする組織構造とリーダーシップの有無にあったといえる。